2008/3/23 11:29
本の虫になる 心
困ったときは本を読む。
何かを知りたいとき、現実から逃避したいとき、自分の考えに行き詰まったとき。
私が今まで生きてきた中で、一番多くの本を読んだ時代というのは、実は幼稚園に通っていた4から6歳のときだ。
私に文字を教えたのは父だった。
いつも寝る前に、本を読んでくれた。一緒に頁を眺め、爪楊枝で文字をなぞってくれたので、私は自然に文字を覚えた。
自分で読めるようになると、寝る間際の短時間では物足りなくなってきた。
次の夜まで続きが待てず、昼間に一人で読んでしまった。
でも父との夜のひと時は別の楽しみがあり、既に知ってしまっている話を、それを隠して父に読ませた。
昼間に読む本がなくて退屈していたら、母が図書館に連れて行ってくれた。
ちょうど、幼稚園と自宅の間にあるので、そこへ毎日寄って、毎日新しい本を借りては読んだ。自分の年齢向けの本では、字が少なくてすぐ終わってしまうので、小学生向けの本を選ぶようになる。あの頃は、一度読んだだけで、その本の、どの辺りの頁の、どの辺りになんていうフレーズがあるとか、全部覚えていた。
ところが時間の経つうちに、表紙を見て、作家名と本の題名は知っているのに、どんな内容かさっぱり思い出せないとか、この本の存在は知っているけれど、果たして自分が読んだのか、わからなくなるようになった。これが大人になるということかと、愕然としたけれど、それで、何年か前に、児童文学を読み漁った。もう既に読んだものもあれば、新しく見出したものもあった。
大人になった今、その頃の本を読み返してみると、文字は読めていたし、内容も理解したつもりだったけれど、その言葉の裏側に隠された見えない部分の意味までは、理解できていなかったことに気づく。当時は表面的に、物語として、出来事が起こって、収束していく、ということだけを楽しんでいた。けれど実は、そこに哲学や、人の心理や、感情があって、それは決して他人事の、どこか知らない場所で起きた作り話を読ませるためにあるわけではない。何か、自分が考える上でのヒントを、与えてくれるのだ。
いわゆる児童文学、特に私や父が子供だった頃の、子供に向けて書かれた本は、非常に深く、よく練られていて、大人になって、物事の謎が少しずつ解けてきた今でないと、理解できない内容のものも多い。
本は、読むたびに、また別の意味を読み手に与えてくれる。それはそのときの気分や、それまでに自分が学んできたこと、考え方の変化などによる。そのことに気づいてから、敢えて昔読んだ本を読み返すことも増えた。
それは勿論児童文学には限らない。
読み返す本というのは大抵決まっている。そしてそういう本を読みたいと思ったときは、冒頭にあるような、何かに困っているときなのだ。
それが、今回、帰国目前にして、パリの日系書店にわざわざ赴き、日本円に換算すると、新品を買うよりも高価な古本を、しかも、おそらく日本の実家に帰れば見つけられるであろう本も含めて何冊も買ってしまった経緯なのである。
何かを知りたいとき、現実から逃避したいとき、自分の考えに行き詰まったとき。
私が今まで生きてきた中で、一番多くの本を読んだ時代というのは、実は幼稚園に通っていた4から6歳のときだ。
私に文字を教えたのは父だった。
いつも寝る前に、本を読んでくれた。一緒に頁を眺め、爪楊枝で文字をなぞってくれたので、私は自然に文字を覚えた。
自分で読めるようになると、寝る間際の短時間では物足りなくなってきた。
次の夜まで続きが待てず、昼間に一人で読んでしまった。
でも父との夜のひと時は別の楽しみがあり、既に知ってしまっている話を、それを隠して父に読ませた。
昼間に読む本がなくて退屈していたら、母が図書館に連れて行ってくれた。
ちょうど、幼稚園と自宅の間にあるので、そこへ毎日寄って、毎日新しい本を借りては読んだ。自分の年齢向けの本では、字が少なくてすぐ終わってしまうので、小学生向けの本を選ぶようになる。あの頃は、一度読んだだけで、その本の、どの辺りの頁の、どの辺りになんていうフレーズがあるとか、全部覚えていた。
ところが時間の経つうちに、表紙を見て、作家名と本の題名は知っているのに、どんな内容かさっぱり思い出せないとか、この本の存在は知っているけれど、果たして自分が読んだのか、わからなくなるようになった。これが大人になるということかと、愕然としたけれど、それで、何年か前に、児童文学を読み漁った。もう既に読んだものもあれば、新しく見出したものもあった。
大人になった今、その頃の本を読み返してみると、文字は読めていたし、内容も理解したつもりだったけれど、その言葉の裏側に隠された見えない部分の意味までは、理解できていなかったことに気づく。当時は表面的に、物語として、出来事が起こって、収束していく、ということだけを楽しんでいた。けれど実は、そこに哲学や、人の心理や、感情があって、それは決して他人事の、どこか知らない場所で起きた作り話を読ませるためにあるわけではない。何か、自分が考える上でのヒントを、与えてくれるのだ。
いわゆる児童文学、特に私や父が子供だった頃の、子供に向けて書かれた本は、非常に深く、よく練られていて、大人になって、物事の謎が少しずつ解けてきた今でないと、理解できない内容のものも多い。
本は、読むたびに、また別の意味を読み手に与えてくれる。それはそのときの気分や、それまでに自分が学んできたこと、考え方の変化などによる。そのことに気づいてから、敢えて昔読んだ本を読み返すことも増えた。
それは勿論児童文学には限らない。
読み返す本というのは大抵決まっている。そしてそういう本を読みたいと思ったときは、冒頭にあるような、何かに困っているときなのだ。
それが、今回、帰国目前にして、パリの日系書店にわざわざ赴き、日本円に換算すると、新品を買うよりも高価な古本を、しかも、おそらく日本の実家に帰れば見つけられるであろう本も含めて何冊も買ってしまった経緯なのである。



