2008/1/10 1:33
もう一つの日本文化(網走開発建設部の悪意と無知) 文化・芸術
国土交通省という国の省庁の北海道内の出先機関に「網走開発建設部」というものがあり、網走地区の道路・港湾などのインフラ整備、維持を担当している。
その網走開発建設部は、広報誌「オホーツク」というものを発行しており、「道の駅」などで配付している。
私はその最新号(2007年winter号:vol76)を阿寒湖の近くにある「相生(あいおい)という道の駅」で見つけ、読み始めたが、ある表現に愕然となった。
この号から連載が開始された「オホーツク開拓100年の夢」は、次のような記述から始まる。
『蝦夷地の本格的な開拓が始まったのは、周知のごとく明治時代。
2000 年におよぶ歴史を有する日本で、東北6県と新潟県を加えた面積に等しい広大な土地がほとんど手つかずのまま残されていたことは奇跡に近いといわれている。基本的に農業国家であった江戸時代、海を隔てた極寒の蝦夷地にそれほど魅力はなかったのであろう。・・・』
http://www.ab.hkd.mlit.go.jp/info/okhotsk/okhotsk.html
ここに書かれた『ほとんど手つかずのまま残されていた』という部分と『奇跡に近いといわれている』という部分は、どういう認識から書かれているのだろう?
私は、この部分に悪意のある無知を感じる。
悪意というのは、@『ほとんど手つかずのまま残されていた』という記述は、[アイヌが住んでいたのは知っているが、たいした人口でないし、開拓していたわけでもない。土地はほとんど手付かずだろう]と、調べもしないで書いていると思われることと、A『奇跡に近いといわれている』という伝聞のような表現を用いて、自分でこの文章を書いた責任を逃れていることだ。
この文章を書いた人間以外に誰がこんなことを言っているのか聞きたいものだ。
無知というのは、『2000年におよぶ歴史を有する日本で、東北6県と新潟県を加えた面積に等しい広大な土地がほとんど手つかずのまま残されていた』という認識だ。
江戸時代、幕府等の蝦夷地探検により北海道の詳細な地図が何枚も作成された。
それによれば、道内全域の本当に細かな地区まで、アイヌによる「地名」が付けられている。
人間が「もの(道具)」や「土地」に名前をつけるのは、それを利用(使用)しているからである。
この文章を書いた人間は本当に無知である。
この広報誌を出した「網走開発建設部」は、国土交通省という組織の一部である。
皮肉なことに、その国土交通省という組織は、我国の「アイヌ関連施策」の担当でもある。
国土交通省の[アイヌ関連施策]のHPに掲載されている「アイヌの伝統的生活空間の再生に関する基本構想」によれば、アイヌは次のように土地を利用していたとのことである。
『…アイヌの人々は、川筋等を中心とした伝統的な生活領域で、狩猟・採集・漁撈を中心とした生業を営む中で独特の文化を育んできた。アイヌ文化は自然とのかかわりが深い文化であり、現代に生きるアイヌの人々も自然との共生を自らの民族的アイデンティティの重要な要素として位置付けている。…』と記述されている。
http://www.mlit.go.jp/hkb/new/index.html
国土交通省のHPに掲載されているように、アイヌは川沿いにコタンを形成し、生活していた。
コタンは、一族など「親族共同体」の数戸で構成されていたことが多いという。
そして、「親族共同体」は世襲として、その川の所有権を有していたという。
つまり、その所有者であるコタン構成員以外は、「誰もその川沿いでは漁(猟)をする権利がない」ということだ。
そして、その権利には一連の義務もあったという。
これは、その川(上流には鮭等の産卵場がある)を最良の状態に維持し、その河川における鮭等の生産高を最大にするような努力だ。
具体的には、鮭等の遡上を妨げる倒木や崩れた岩、土などを除去していた。
加えて、コタン構成員以外のよそ者が侵入しないよう見張りを怠らなかった。
また、産卵期には舟を出さない。遡上途中の鮭を獲るのではなく、産卵後の鮭(ほっちゃれ)を獲るなど、自然との共生につながる文化を有していた。
こうした河川の利用は、道内全域に存在したため、本当に細かな地区までアイヌ語地名があるのだ。
現実として、江戸時代、道内に「誰のものでもない土地(手つかずの土地)」などはなかったということだ。
そして、アイヌが適正に自然を管理していたことで、道内の生物資源は豊かな状態を保っていたのだと思う。
明治以降、適正に自然を管理されない結果、どのような変化が起きたか?
エゾシカは乱獲され、輸出用の缶詰工場まで作られた挙句、明治末期には絶滅に近い状況となった。
具体的な根拠は出せないが、私個人としては、ニシンが北海道に来なくなったのも、同様の要因と考える。
話は「網走開発建設部の広報誌」に戻るが、どんな世界にも、悪意のある人間や無知な人間はいる。
それが個人や任意の組織であれば、とやかく言うこともないという考えもある。
だが、国民から徴収した税金によって運営されている公的組織において、このような悪意と無知を堂々と形にしていることは許されることではないと考える。
気分の悪い内容になってしまったので、一服の清涼剤として、我家で使用している「茶托」と「コースター」を紹介する。






その網走開発建設部は、広報誌「オホーツク」というものを発行しており、「道の駅」などで配付している。
私はその最新号(2007年winter号:vol76)を阿寒湖の近くにある「相生(あいおい)という道の駅」で見つけ、読み始めたが、ある表現に愕然となった。
この号から連載が開始された「オホーツク開拓100年の夢」は、次のような記述から始まる。
『蝦夷地の本格的な開拓が始まったのは、周知のごとく明治時代。
2000 年におよぶ歴史を有する日本で、東北6県と新潟県を加えた面積に等しい広大な土地がほとんど手つかずのまま残されていたことは奇跡に近いといわれている。基本的に農業国家であった江戸時代、海を隔てた極寒の蝦夷地にそれほど魅力はなかったのであろう。・・・』
http://www.ab.hkd.mlit.go.jp/info/okhotsk/okhotsk.html
ここに書かれた『ほとんど手つかずのまま残されていた』という部分と『奇跡に近いといわれている』という部分は、どういう認識から書かれているのだろう?
私は、この部分に悪意のある無知を感じる。
悪意というのは、@『ほとんど手つかずのまま残されていた』という記述は、[アイヌが住んでいたのは知っているが、たいした人口でないし、開拓していたわけでもない。土地はほとんど手付かずだろう]と、調べもしないで書いていると思われることと、A『奇跡に近いといわれている』という伝聞のような表現を用いて、自分でこの文章を書いた責任を逃れていることだ。
この文章を書いた人間以外に誰がこんなことを言っているのか聞きたいものだ。
無知というのは、『2000年におよぶ歴史を有する日本で、東北6県と新潟県を加えた面積に等しい広大な土地がほとんど手つかずのまま残されていた』という認識だ。
江戸時代、幕府等の蝦夷地探検により北海道の詳細な地図が何枚も作成された。
それによれば、道内全域の本当に細かな地区まで、アイヌによる「地名」が付けられている。
人間が「もの(道具)」や「土地」に名前をつけるのは、それを利用(使用)しているからである。
この文章を書いた人間は本当に無知である。
この広報誌を出した「網走開発建設部」は、国土交通省という組織の一部である。
皮肉なことに、その国土交通省という組織は、我国の「アイヌ関連施策」の担当でもある。
国土交通省の[アイヌ関連施策]のHPに掲載されている「アイヌの伝統的生活空間の再生に関する基本構想」によれば、アイヌは次のように土地を利用していたとのことである。
『…アイヌの人々は、川筋等を中心とした伝統的な生活領域で、狩猟・採集・漁撈を中心とした生業を営む中で独特の文化を育んできた。アイヌ文化は自然とのかかわりが深い文化であり、現代に生きるアイヌの人々も自然との共生を自らの民族的アイデンティティの重要な要素として位置付けている。…』と記述されている。
http://www.mlit.go.jp/hkb/new/index.html
国土交通省のHPに掲載されているように、アイヌは川沿いにコタンを形成し、生活していた。
コタンは、一族など「親族共同体」の数戸で構成されていたことが多いという。
そして、「親族共同体」は世襲として、その川の所有権を有していたという。
つまり、その所有者であるコタン構成員以外は、「誰もその川沿いでは漁(猟)をする権利がない」ということだ。
そして、その権利には一連の義務もあったという。
これは、その川(上流には鮭等の産卵場がある)を最良の状態に維持し、その河川における鮭等の生産高を最大にするような努力だ。
具体的には、鮭等の遡上を妨げる倒木や崩れた岩、土などを除去していた。
加えて、コタン構成員以外のよそ者が侵入しないよう見張りを怠らなかった。
また、産卵期には舟を出さない。遡上途中の鮭を獲るのではなく、産卵後の鮭(ほっちゃれ)を獲るなど、自然との共生につながる文化を有していた。
こうした河川の利用は、道内全域に存在したため、本当に細かな地区までアイヌ語地名があるのだ。
現実として、江戸時代、道内に「誰のものでもない土地(手つかずの土地)」などはなかったということだ。
そして、アイヌが適正に自然を管理していたことで、道内の生物資源は豊かな状態を保っていたのだと思う。
明治以降、適正に自然を管理されない結果、どのような変化が起きたか?
エゾシカは乱獲され、輸出用の缶詰工場まで作られた挙句、明治末期には絶滅に近い状況となった。
具体的な根拠は出せないが、私個人としては、ニシンが北海道に来なくなったのも、同様の要因と考える。
話は「網走開発建設部の広報誌」に戻るが、どんな世界にも、悪意のある人間や無知な人間はいる。
それが個人や任意の組織であれば、とやかく言うこともないという考えもある。
だが、国民から徴収した税金によって運営されている公的組織において、このような悪意と無知を堂々と形にしていることは許されることではないと考える。
気分の悪い内容になってしまったので、一服の清涼剤として、我家で使用している「茶托」と「コースター」を紹介する。
