2008/5/22  5:46

もう一つの日本文化(「大口のま」さんへの返答〜少数民族ほか)  文化・芸術

5月20日のブログについて、「大口のま」さんから貴重なコメントをいただいた。
「大口のま」さん、いつもコメントありがとうございます。
今回のコメントへの返答は、こちら(ブログ本文)で書いたほうがいいと考えました。

*このブログを読む前に、「大口のま」さんのコメント(5月20日のブログの「下」にあります。)をお読みください。

「大口のま」さんは、北京に住んでいたとのこと。(留学かな?)
次のような事実を、自分の体験で書いてくれた。
○中国人(漢族)が、自民族への誇りをもっていること。
○ただし、漢族が、漢族以外(少数民族)に対し、一般的には配慮に欠ける言動をしていること。
○中国では「日本は単一民族」と思われていること。
○中国において、少数民族と言われているひとびとは漢族に対して複雑な気持ちを持っていることが少なからずあること。
○一方、中国の少数民族は「民族自治区」のように一定の権利は確保されていること。
○また、一人っ子政策の対象外など、優遇されている権利もあること。

 私も似たような体験がある。
 16年前(1992年)、トルコ旅行をした。
 とても親日的な国で、あるトルコ人と和やかに話をしていたが、私が軽い気持ちで(知識がなかった)トルコ国内のクルド人を話題にした時のこと。
 急に険しい顔になって、「単一民族の日本人にクルド人の話はされたくない!」と言われた。
私:「日本は単一民族でない」「北海道にはアイヌ人が住んでいる」
相手:「アイヌ人の人口は何人だ?」
私:「公式には2万5000人だ」
相手:「そんな少ない人口なら問題にならない」「ともかく、日本人には理解できない問題だ」
私:「人口が少なければ、少数民族問題が解決するわけでない」
相手:「・・・・・・」

※ただし、この私の発言は、クルド人についてもアイヌについても、ほとんど知識のないまま(現在もあまり変わらないのかもしれないが)、単に相手とのやり取り上、対抗的に出しただけである。

 また、中国の中の少数民族についても、経験がある。
 15年前くらいだろうか、ウィグル人と話していたときのことである。
(私は子供の頃から、中国(中国人)に興味を持っていた。)
(中国が多民族なのは知っていたが、みな中国人という意識を持っていると考えていた。)

 私が、軽い気持ちで、相手の住んでいる地域やいろいろなことを聞こうと、「中国では・・・」と話し出すと、その度に「新疆ウイグル自治区です」と何回も訂正させられた。

※当時の私は、「自治区があるといっても『中国』の中の話ではないか。何でそんなにこだわるのか?」という意識だった。

 ここ2〜3年のことを書く。

 2年ほど前、中国の朝鮮族の留学生と話をした。
 彼は、このように話していた。
 中国の少数民族は、子供の数や大学入試などで優遇されている。
 ウィグル族やチベット族は自治権まである。
 なぜ、ウィグル族やチベット族が中国政府に不満を持つのか理解できない。

 北見市と網走市の間に「美幌町」という人口2万人強の町がある。
 3年ほど前、息子を乗せて車を走らせていたら、「カトマンドゥの寺院に描かれた眼」とそっくりの絵が描いてある建物を見かけた。
 通り過ぎたが、気になって引き返した。「チベット・ダイニング『タシ』」と書いてある。
 昼ちょっと前であった。奇をてらった無国籍料理かな、と思いながら中に入った。
 本物だった。
 とてもおいしい。以来、5回ほど行っている。
 店主の名はジャンベイ氏。とても愛想が良く、他の客がいないときは、よく話をする。彼は話し好きだ。
http://www.geocities.jp/tashi501/

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 メニューは、チベット料理とネパール料理だが、両方とも本物である。
 なぜなら、彼の母親はチベット人、父親はネパール人で、両方の文化を知っている。
 ただ、彼自身は、チベット文化の方が好きだという。
彼によれば、チベット文化は仏教で優しく、ネパール文化はヒンズー教でチベット仏教ほど優しくないという。
 そして、チベット文化の優しさは、日本文化の優しさに通じるところがあるという。

 彼は、カトマンドゥで奥さん(日本人)と知り合い、結婚した。小学校高学年の子供もいる。
子供には、チベット文化と日本文化の両方を知っている日本人になってほしいと言っている。

 私が、軽い気持ちで「チベットには行ったことがないが、中国には5回行ったことがあるよ」と話をすると、「中国人(漢民族)は信用できない。悪い人間が多い。中国人が日本でも増えているが、これ以上中国人を入れるととんでもないことになる。注意すべきだ。」と真剣な顔で言われた。
 聞かなかったが、いろいろな体験があったのだろう。

 直近では、2ヶ月ほど前に行った。
 その頃は、中国政府のチベット弾圧が大きなニュースになっていたので、この話題について、どのように触れるべきなのか、多少悩んだ。

 結局、当たり障りなく「チベットでは、大変なことになっているね。」と、どうにも解釈できる言い方をした。
 彼は、言葉少なく、「そうです。悲しいことです。」と答えた。
 私の予想外だった。声高に中国政府を非難すると思っていた。

 私は、彼以外のチベット人を知らない。だから、安易に結論めいたことを言うべきでないのかもしれないが、私は彼の返答を聞いたときに「ああ、これが、彼がいっていた[チベット文化のやさしさ]なのかもしれないな」と感じた。
 そして、私は、この『タシ』に今後も来て、チベット料理を食べたいなと、以前よりも強く思った。

 私のように普通に暮らしていても(平均的な日本人より好奇心が強いが)、異民族や異文化に接することは、多少ある。
 そのときに、何かを認める(感じる)か、どうかが、その後の理解の差につながると思う。

 *私は、異民族や異文化に接したときに、何かを認め(感じ)たり、理解を深めたりできる人間が、そうでない人間よりも優れている、というつもりはない。
 何に興味を持つかは、個人の選択の自由である。
 ただ、「人権など、その人間や民族、少数者などが持つべき権利、保障されるべき権利」については、社会(個人の集合体)として認められるべきだと考える。
 また、それを理解するには、個人レベルで、異民族や異文化、少数者への理解があった方が、円滑に進むと思う。

 話は多少飛ぶ。
 私は、日本において、在日朝鮮(韓国)人は「少数民族」、アイヌは「先住民族」だと考える。
 そして、「少数民族」と「先住民族」の権利の内容は、当然異なると思う。
 誤解を恐れず、大つかみに表現すると、「少数民族・在日朝鮮(韓国)人」には、多数民族(一般の日本人)と同じ権利があるべきだし、「先住民族・アイヌ」には、日本人(和人)と同じ権利に加え、先住してきたことに対する「何らかの権利」が付加されるべきと考える。

 最後に、私がアイヌに接し、何かを感じたときのことを書く。
 20年近く前のことだと思う。
 私は、既に北海道に住んでいて、本州の友人と道内を自動車旅行した。
 阿寒湖のアイヌコタンの土産物屋で、友人と一緒に木彫り品を見ていた。
 店主らしい人に「アイヌの木彫りにはいいものがたくさんありますね。」と話をした。
 こういう答えが返ってきた。「日本人がわれわれの先祖を殺さなかったら、いいものはもっとたくさんあった。」
 私は、同じ日本人と思っていた相手から、「日本人は・・・」と言われたことが、ショックだった。
 このとき、私は何かを感じたし、友人は特に感じなかった。
 このことをもって、私は友人より優れている、というつもりは全くない。



2008/5/28  22:21

投稿者:t260arima

 「大口のま」さん、ありがとうございます。
 おっしゃるとおり、他との関わりのあるべき姿は、相手を尊重する共存共栄だと思います。

 それは、個人レベルでも民族レベルでも同様ですが、現実として民族レベルの前に個人レベルがあります。

 私は、『日本には世界に誇るすばらしい文化(物質的文化及び日本的価値観)を有している。』と考えており、日本人の一人としての誇りも持っています。

 同時にアイヌ文化に対しても、日本文化とは異なった『世界に誇るすばらしい文化(物質的文化及びアイヌ的価値観)を有している。』と考えています。
 例えば、物質的文化としては『マキリの(木彫りの)デザイン・美しさ』。
 アイヌ的価値観としては、『物理的な命のない道具に対しても、その使用を止めるとき(捨てるとき)は、感謝の儀式を行う(神の国に送る)こと』などです。

 私は、そういったアイヌ文化が存在する土地に住んでおり、そういった文化を持つアイヌ(浦川さんや徹さん)と関わりを持っていることに誇りを持っています。
 ですから、このことについては、例えば、この間、我家にホームステイした中国高校生やいろいろな人に表明しています。

 しかしながら、表明しても、その価値を認めそうもない人たち、例えば、職場の同僚の大部分などに対しては、黙っていることも事実です。
 同時に、その価値観を認めてくれるかもしれない人たちには、情報提供していきたいとも考えて、ブログを書いています。

 私は、日本文化やアイヌ文化に対して敬意を持っていることと同様に、例えば、中国、トルコ、ドイツ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、韓国、チベットなど、私が何らかの関わりを持った地域・国の文化に対しても敬意を持っています。
 ただ、私が育った日本文化や、現在住んでいる土地の本来の文化であるアイヌ文化と同様には取り扱えないということです。

 また、人以外の命に対する姿勢としては、「天は人のためだけに存在するわけでない」という日本的価値観の1つで解釈しています。
 天から見れば、人の命も虫の命も対等だと思います。

2008/5/28  11:51

投稿者:大口のま
http://norabu-blog.okutano.net

こんにちは。
ひとつの記事を設けてまでの御返信、ありがとうございました。

記事を読んでから、あらためて何度も考え続けています。なかなかまとまった答えとならずにいるのですが、少し書こうと思います。

一つは、「民族」というものをどうとらえるかが、肝心だと思います。知り合ったひとのなかには、母は☆☆族、父は★★族、わたしは☆☆族、というひともいて、民族とは線を引けないものなのだと思います。
そのなかで、自分の民族に誇りをもてるとよいな、と思います。

もう一つは、相手を大切にすることができるかどうか、ということではないでしょうか。民族に限ったことではなく。
たとえば、蛙の解剖をもって学習とすることは蛙や生物学の学習にはなるかも知れませんが、はたしてそれが蛙のためになっているかどうか、解剖する人物は考えているのでしょうか。蛙のことを学ぶのであれば、そして蛙のことからいろいろなことを学ぶのであれば、その方法が蛙のためにもなるように学ぶことが本当の学びとなり得るのではないでしょうか。
突然蛙の解剖の話を持ち出したのは、動物実験をしないでください、と中・高の生物教師に条件をだして話し会をしてくれた、タシナ・ワンブリさんのことばを思い出したからです。虫いっぴきのいのちも、自然界のすべてを敬っているあのひとの世界観(こころ)をもって、たくさんの民族、たくさんのものたちと関わり、学んでゆきたいと思います。
他民族のこと、他民族の文化を学ぶ(関わる)時、その民族のためにもなるようにと考えていれば、相手をおとしめることもなく、相手の文化を切り売りするようなこともないと思います。

そして自分のルーツに誇りをもてれば(驕りでない本物の誇りを)、自分以外のひとびとの誇りも同じように大切にすることができるのだと思っています。

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