2008/6/3  23:27

もう一つの日本文化(アイヌの国際的活動範囲)  文化・芸術

 5月28日、北海道新聞(Web版)に次の記事が載った。
 http://www5.hokkaido-np.co.jp/movie-news/kiji.php?k=2008052802.html

 『「アイヌ」を先住民族に―ロシアに初の団体

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 アイヌ民族としてロシアで初の認定を求めるカムチャツカ地方の団体「アイヌ」のアレクセイ・ナカムラ代表(43)が北海道新聞のインタビューに応え、「両親が話していたアイヌ語と、民族の伝統を取り戻したい」と述べた。同氏が日本の報道機関の取材に応じるのは初めて。民族としての復権を求める背景に、日本と旧ソ連・ロシアの間で翻弄(ほんろう)されてきた歴史があった。

 「母はいつも言っていた。私たちはアイヌ民族だよ、と」
 ナカムラさんはサハリンのトマリ(泊居)出身。父ケイゾウさん(1978年没)はカムチャツカ生まれのアイヌ民族、母タマーラさん(96年没)はサハリンでアイヌ民族の父とロシア人の母の下に生まれた、という。

 ケイゾウさんの生前、ナカムラさん一家はアイヌ語で会話していた。「アットゥシ(服)」「トマリ(湾)」などの単語をナカムラさんも覚えている。母タマーラさんはサケやクジラを使ったアイヌ料理でナカムラさんを育てた。
 しかし両親の出生証明書はなく、アイヌ民族であることを示す物的証拠はない。旧ソ連は戦後、サハリンや千島列島のアイヌ民族を日本人として扱った。ナカムラさんらは、アイヌ民族として生きる道を絶たれた。

 父ケイゾウさん一族はかつて南千島に住み、日本姓を名乗っていた。日本人の入植に押されカムチャツカに移住。その後、旧ソ連政府の都市部への転居命令を拒否して31年ごろ、日本領だった北千島パラムシル島に脱出した。
 45年に旧ソ連軍が侵攻。一族はサハリンに移住させられ、ケイゾウさんはタマーラさんと結婚、ナカムラさんが生まれた。しかし68年、「仕事上の失敗」を理由に、カムチャツカに送還される。

 送還先には、他の民族もいた。かつて旧ソ連が進めていた、ロシア民族への同化政策の一環、との見方もある。
 団体「アイヌ」会員4家族のうち、ナカムラさんと同様、日本姓を持つ「スズキ」一家は千島出身。残る2家族はロシア姓で戦前からカムチャツカに住んでいたといい、複雑な背景をうかがわせる。

 現在、ロシアがカムチャツカの先住民族として認めているのはコリャク、イテリメンなど6民族。アイヌ民族は含まれていない。
 しかし、地元博物館は先住民族としてパネルで紹介している。図書館は、北千島マツワ島の「アイヌ湾」で使われていた石臼を展示している。ナカムラさんは「石臼はアイヌ民族が使っていたもの。唯一の物的証拠です」と話す。

 ナカムラさんは2002年、人口調査で民族欄に初めて「アイヌ」と書いたが、「国の登録項目にアイヌ民族はない」と却下された。その時、民族の権利回復を決意した。
 今春、活動を知った北海道のアイヌ民族から交流の打診があった。モスクワの研究者から、アイヌ語復興への協力も取り付けた。
 「同じ地方で暮らすカムチャダル民族は、先住民族として認定されるまで10年以上かかった。何年かかってもやりますよ」』

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北海道立アイヌ総合センター(管理者:北海道ウタリ協会)の展示資料

 この記事によれば、「ナカムラさん」の父・ケイゾウさんは、カムチャツカ生まれのアイヌ民族。父ケイゾウさん一族はかつて南千島に住み、日本人の入植に押されカムチャツカに移住、その後、旧ソ連政府の都市部への転居命令を拒否して31年ごろ、日本領だった北千島パラムシル島に脱出したとのこと。

 ソ連(ロシア)と日本の国境を越えるという物理的な困難さは別として、カムチャッカ半島(大陸)と千島列島との間を行ったり来たりすることことに心理的な抵抗はなかったのだろうか?

 この問いは、千島アイヌ、特に北千島アイヌの生活活動がどのようであったかで説明できるのではないかと思う。

 ロシアの民族学者によれば、北千島アイヌは昔からカムチャッカ半島の先住民・カムチャダル(イテリメン)と混血しつつ、独特の中間的なタイプを形成し、一部はカムチャッカ半島に住み着いていたという。

 *チューネル・M・タクサミ、ワレーリー・D・コーサレフ著「アイヌ民族の歴史と文化」

 この北千島アイヌは、南千島や北海道のアイヌとは本質的に異なった文化を持っており、例えば、舟は、イヌイット(エスキモー)やアリュートと同じように木の骨組みに皮を張った「バイダル」を作り使用していた。
 食事はイヌイット同様、ほとんど動物性のみだった。

 *千島列島は、20の島から構成される長大な列島である。
 カムチャッカ半島に最も近い「パラムシル島」と北海道に最も近い「国後島」の間の距離は1000キロメートル以上であり、これは札幌〜東京間よりずっと遠い。

 千島アイヌは、狩場や魚場を求めて、定期的に島々を巡ったほか、北海道アイヌを通じて、米や漆器や刀を手に入れていた。


 カムチャッカ半島と北千島アイヌとの関係と同様に、樺太アイヌは、その対岸の大陸、アムール川沿岸に影響を及ぼしていたといわれている。

 網走市にある「北海道立北方民族博物館」の研究誌である『北海道立北方民族博物館研究紀要』では、次の論文が掲載されている。

 【第1号】 平成4(1992)年3月25日発行
 「アムール河下流域のアイヌ系ウリチの存在について」(中村齋) pp.17-30
 http://hoppohm.org/book/kiyou/index.htm

 【第9号】 平成12(2000)年3月20日発行
 「アムール川下流アイヌ系ウリチのシャーマンの腰帯」(枡本哲) pp.17-39
 http://hoppohm.org/book/kiyou/kiyou_06_10.htm

 ここで紹介されているウリチ族の「クイサリ氏族」について
 彼らによれば、北海道アイヌが当地にやってきてウリチ族と婚姻した「アイヌ系ウリチ氏族」だと、アイヌの出自を誇り高く伝えているという。
 アイヌ系ウリチ氏族は、他にも「ドゥワン氏族」がいる。

 上記の「カムチャッカ半島」や「沿海州アムール川沿岸」の例のように、アイヌの活動範囲は広大だった。
 日本列島がすっぽりと入ってしまうほどの面積の外洋を、「バイダル」で、あるいは「イタオマチプ(板綴舟)」で、自由に活動していた。

 このように活発な交易活動を行っていたアイヌであるが、その活動地域である「樺太」や「千島列島」は、日本とロシアという強大な国家間での領土争い、領土分割、結果としての民族の分断などにより、現在では、樺太アイヌはその言語を失い、千島アイヌは20世紀に滅亡した(させられた)。

 *千島アイヌの滅亡と似た事例に、オーストラリアの「タスマニアン・アボリニ」約4000人の滅亡がある。
 イギリス人が1803年に最初の植民を行い、タスマニア島の肥沃な大地に次々と農場や牧場を作った結果、アボリジニは自分たちの土地を取り戻そうと「ブラック・ウォー」と呼ばれる戦争を起こした。
 1828年、アーサー総裁によって、アボリジニを銃殺したりする権利を与える法律が施行、アボリジニはハンティングの獲物とされたといった悲劇を経て1876年に滅亡した(させられた)。
 イギリス人ほど野蛮でないとしても、日本人のやったことも大きな差はない。

 話は変わる。
 現在におけるアイヌ像としては、どこの博物館(資料館)も「狩猟漁労民族」的な展示・紹介が多すぎる気がする。(実在資料を展示するとそうなるのであるが・・・)
 本年11月1日にリニューアル・オープンする旭川市博物館の常設展示室では、「交易民としてのアイヌ像」を提示していくそうである。期待したい。

 ある時点まで交易民族として活躍していたものが、取り巻く社会環境等の変化により、その地位を失っていくことが世界史ではよくある。
 蝦夷錦などで有名な山丹貿易は、中国(清朝)、山丹人(ウリチ族等)、アイヌ、日本(江戸幕府・松前藩)の4者によって活発に行われていたが、ロシアによる沿海州支配により、山丹人の交易活動(商活動)は、その地位を失った。
 その後の山丹人(ウリチ族等)は、ロシア人から「未開の狩猟漁労民族」として取り扱われている。

 「交易活動(商活動)」が「狩猟漁労活動」より高度なもの(発展したもの)なのかどうかは、私には判断しかねる。
 しかしながら、民族全体としては、多様な活動や文化があった方が活性化につながると考える。

 写真がないのは寂しいので、千島アイヌの弦楽器「三弦琴(蝦夷琵琶、千島琵琶)」を紹介する。
 展示説明によれば、ロシアの弦楽器「バラライカ」を模したものだという。
 千島アイヌは、ロシア文化の影響を多大に受けていた。
 千島アイヌが滅亡していなかったら、この楽器によって、ロシア音楽の影響を受けたすばらしい千島アイヌ音楽を聞かせてくれたと思う。

 *写真は、上から北海道大学植物園の北方民族資料室の展示物1点、市立函館博物館の展示物2点

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2008/7/29  22:13

投稿者:t260arima

コメントありがとうございます。
 私は研究家ではありません。単なる参考程度にしてください。

 1737年、ペテルブルグの科学アカデミー会員(学者)のクラシェニンニコフは、カムチャツカ半島を訪れ、北千島(クリル)の第1島(シュムシュ)、第2島(パラムシル)、第3島(オンネコタン)のクリル人から、言語、風習等を聴取し、「カムチャツカ地誌」としてまとめました。

・クリル人は、夏、皮舟(バイダルカ)で航行し、冬はスキーで歩行する。

 このことから、北千島アイヌは、バイダルカを使用していたことは証明されています。「製作・使用していた」と考えるのが合理的です。

 問題の展示「バイダルカ」ですが、解説には「明治8年(1875年)、樺太・千島交換条約締結に際して千島に赴いた開拓使長官黒田清隆ら一行が中部千島新知島で収集したもので、アリュ−ト人がラッコ猟に使用していたものである。」と書かれています。

 この記述が正しいかどうかは別として、新知(シムシル)島にアリュート人が住んでいたのは事実です。

・1828年、ロシアは、アリュート人をウルップ島及びシムシル島に強制移住させています。
・1875年の樺太千島交換条約の時、アリュート人はウルップ島に33人、シムシル島に57人が居住していたことが記録されています。(ロシア人はウルップ島に6人、シムシル島に13人)
 アリュート人及びロシア人のロシア領帰還の際、展示の「バイダルカ」を収集(購入等)したことは考えられます。

 ここからは、私の個人的な見解ですが、函館市北方民族資料館の展示説明は適切でないと考えます。
 現在の展示説明では、「アイヌはバイダルカを使用していなかった」と推測されます。

 例えば、こう説明すべきです。
 「北千島アイヌは、イヌイット、アリュートなどと同じように、バイダルカを製作・使用していたことが、ロシア人学者によって記録されています。
 ここに展示しているバイダルカは、シムシル島のアリュートが使用していたものですが、北千島アイヌも同様のものを使用していたと思われます。」

 事実をそのまま書くことが、真実を現さない事例だと思います。

2008/7/28  17:41


非常に参考にさせて頂ける内容のブログで、満足させて頂きました。有り難うございました。

私は、少し変わった仕事を生業としております。お時間が許せば、是非ご考察を拝聴させて頂きたいことがありまして、コメント欄に書かせて頂きました。

私はこれまで、アリューシャンカヤック・バイダルカのレプリカを数艇、製作して参りました。

縁あって、函館資料館に収蔵されているコレクションとしての皮舟を拝見したのですが、説明では、アリュート人のアリュートの舟として解説してあります。北千島のアイヌが製作使用していた舟との関係は、どう考察されているのでしょうか。
千島で採取した皮舟が何故、アリュートの舟と同じ工法で作られていたからといって、アリュートの舟と言い切ってしまえるのか。その根拠は私には理解出来ませんでした。

この件に関して、どう解釈されていらっしゃるのか、ご意見をお聞かせ頂きたく、よろしくお願い申し上げます。

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