2008/7/19 9:42
もう一つの日本文化(夕張アイヌ) 文化・芸術
北海道に「夕張市」という街がある。
かつては炭鉱で栄えた街であり、夕張メロンの産地で有名であるが、町の財政は近年、深刻な財政難となっていて、ついに昨年3月6日、財政再建団体(民間でいえば破産会社のようなもの)になってしまった。
先日(6月21日)、中心部にある「ゆうばりホテル・シューパロ」に行ってきた。
この場所は、昭和55年まで「丸丹おかむら」という百貨店が建っていた。
昭和32年に岡村呉服店から改装、百貨店として創業した頃の夕張市の人口は、実質15万人近いといわれ、その賑わいは大変なものだったという。
東京の流行が、北海道で一番早く流行るのは、札幌ではなく、夕張といわれていた。
その夕張市も、現在の人口は1万2000人を割り込んでおり、現在の街に昔の栄華を偲ばせるものはほとんどない。
前述の「ゆうばりホテル・シューパロ」の2階には、なぜか「家紋コーナー」があり、戦国武将の家紋などが展示されている。
その一角に「アイヌ家紋コーナー」があったので、ご紹介する。









この家紋コーナーをみて、「ああ、この夕張にいたアイヌは、このようなイトッパを使っていたのだな」と考えたが、そうではないらしい。
というのは、明治3年以降、この夕張(夕張郡)のアイヌはいなくなった。
事実として、「日本政府の命令により他地区へ移住させられた。」ということである。
札幌への帰り道、隣町である栗山町(夕張郡)の「開拓記念館」というところに寄ってみたところ、夕張アイヌについての説明があった。
松浦武四郎の著書「夕張日誌(由宇発利日誌)」(安政4年(1857年))による説明・展示がなされていた。
そこには、つぎのように記されている。(現代語訳)
『石狩川筋の夕張というところは、海岸から四十里(約160キロ)ほど内陸に入ったところで、・・・夕張川というのである。その川筋には、上夕張、下夕張の二つのアイヌ部落(コタン)があり、文化(1804〜17年)以前には、上夕張に376人、下夕張に492人が住んでいたというが、次第に人口が減少し、今は上夕張に23人、下夕張に49人と、およそ十分の一となってしまった。・・・』
そして、明治3年(1870年)8月、北海道開拓使は、『高知藩に引き渡した夕張郡のアイヌ人に他郡への転居を申し付けた(布達)』とのことである。
その理由までは記されていないが、夕張が明治初期から炭鉱の町として栄えたことを考えると、夕張川流域の石炭鉱脈開発に支障があると考えたのかもしれない。




話は変わる。
北海道洞爺湖サミット(7月7〜9日)の開催1ヶ月前、急遽決議された国会の「アイヌ先住民族決議」では、『昨年9月の「先住民族の権利に関する国連宣言」の趣旨を体して具体的な行動をとることが、我国に求められている。』とされた。
この「先住民族の権利に関する国連宣言」の第10条では、『先住民族は、彼(女)らの土地または領土から強制的に移転させられない。当該先住民族の自由でかつ情報に基づく合意なしに、また公正で公平な補償に関する合意、そして可能な場合は、帰還の選択肢のある合意の後でなければ、いかなる転住も行われない。』とされている。
この夕張アイヌの他地域への強制移住のように、我国(政府)が過去に行ったアイヌに対する権利侵害は計りしれない。
国会決議のとおり『具体的な行動をとることが、我国(政府)に求められている。』
なお、国連宣言では、権利侵害に対する救済の保障と方法についても規定している。
第40条『先住民族は、彼(女)らの個人的および集団的権利の全ての侵害に対する効果的な救済に対する権利のみならず、国家との紛争および争議の解決のための相互に受容可能かつ公平な手続きを利用し、かつそれを通じての迅速な決定を得る権利を有する。そのような決定には、当該先住民族の慣習、伝統、規則および法制度を考慮に入れることとする。』
話は広がるが、そもそも蝦夷地(アイヌモシリ:北海道)が日本という国の領土になったのは、いつからなのだろうか。
学術的には、いくつかの考え方があるらしいが、我国政府の正式見解は、次のようにはっきりしないものである。
平成6年(1994年)11月24日の参議院内閣委員会で[萱野茂]委員(議員)が、「日本が蝦夷地を正式に領土とした日はいつなのか。」という質問を行った。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=19019&SAVED_RID=1&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=7&DOC_ID=3059&DPAGE=1&DTOTAL=1&DPOS=1&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=19077
外務省の[鶴岡公二]条約局法規課長の答弁は、次のとおりだった。
「具体的にいつ我国の領土となったかということについては明らかではございませんけれども、江戸時代の末期から明治時代初めにかけまして、我国と当時の帝政ロシアとの間で国境の画定が行われた際には、いわゆる北海道本島につきましては両国間で全く問題となっておりません。その当時も北海道本島が我国領土であるということを当然の前提で日ロ間の交渉が行われた経緯がございます。」
つまり。先住民族であるアイヌとの交渉等は全くないということである。
かつては炭鉱で栄えた街であり、夕張メロンの産地で有名であるが、町の財政は近年、深刻な財政難となっていて、ついに昨年3月6日、財政再建団体(民間でいえば破産会社のようなもの)になってしまった。
先日(6月21日)、中心部にある「ゆうばりホテル・シューパロ」に行ってきた。
この場所は、昭和55年まで「丸丹おかむら」という百貨店が建っていた。
昭和32年に岡村呉服店から改装、百貨店として創業した頃の夕張市の人口は、実質15万人近いといわれ、その賑わいは大変なものだったという。
東京の流行が、北海道で一番早く流行るのは、札幌ではなく、夕張といわれていた。
その夕張市も、現在の人口は1万2000人を割り込んでおり、現在の街に昔の栄華を偲ばせるものはほとんどない。
前述の「ゆうばりホテル・シューパロ」の2階には、なぜか「家紋コーナー」があり、戦国武将の家紋などが展示されている。
その一角に「アイヌ家紋コーナー」があったので、ご紹介する。
この家紋コーナーをみて、「ああ、この夕張にいたアイヌは、このようなイトッパを使っていたのだな」と考えたが、そうではないらしい。
というのは、明治3年以降、この夕張(夕張郡)のアイヌはいなくなった。
事実として、「日本政府の命令により他地区へ移住させられた。」ということである。
札幌への帰り道、隣町である栗山町(夕張郡)の「開拓記念館」というところに寄ってみたところ、夕張アイヌについての説明があった。
松浦武四郎の著書「夕張日誌(由宇発利日誌)」(安政4年(1857年))による説明・展示がなされていた。
そこには、つぎのように記されている。(現代語訳)
『石狩川筋の夕張というところは、海岸から四十里(約160キロ)ほど内陸に入ったところで、・・・夕張川というのである。その川筋には、上夕張、下夕張の二つのアイヌ部落(コタン)があり、文化(1804〜17年)以前には、上夕張に376人、下夕張に492人が住んでいたというが、次第に人口が減少し、今は上夕張に23人、下夕張に49人と、およそ十分の一となってしまった。・・・』
そして、明治3年(1870年)8月、北海道開拓使は、『高知藩に引き渡した夕張郡のアイヌ人に他郡への転居を申し付けた(布達)』とのことである。
その理由までは記されていないが、夕張が明治初期から炭鉱の町として栄えたことを考えると、夕張川流域の石炭鉱脈開発に支障があると考えたのかもしれない。
話は変わる。
北海道洞爺湖サミット(7月7〜9日)の開催1ヶ月前、急遽決議された国会の「アイヌ先住民族決議」では、『昨年9月の「先住民族の権利に関する国連宣言」の趣旨を体して具体的な行動をとることが、我国に求められている。』とされた。
この「先住民族の権利に関する国連宣言」の第10条では、『先住民族は、彼(女)らの土地または領土から強制的に移転させられない。当該先住民族の自由でかつ情報に基づく合意なしに、また公正で公平な補償に関する合意、そして可能な場合は、帰還の選択肢のある合意の後でなければ、いかなる転住も行われない。』とされている。
この夕張アイヌの他地域への強制移住のように、我国(政府)が過去に行ったアイヌに対する権利侵害は計りしれない。
国会決議のとおり『具体的な行動をとることが、我国(政府)に求められている。』
なお、国連宣言では、権利侵害に対する救済の保障と方法についても規定している。
第40条『先住民族は、彼(女)らの個人的および集団的権利の全ての侵害に対する効果的な救済に対する権利のみならず、国家との紛争および争議の解決のための相互に受容可能かつ公平な手続きを利用し、かつそれを通じての迅速な決定を得る権利を有する。そのような決定には、当該先住民族の慣習、伝統、規則および法制度を考慮に入れることとする。』
話は広がるが、そもそも蝦夷地(アイヌモシリ:北海道)が日本という国の領土になったのは、いつからなのだろうか。
学術的には、いくつかの考え方があるらしいが、我国政府の正式見解は、次のようにはっきりしないものである。
平成6年(1994年)11月24日の参議院内閣委員会で[萱野茂]委員(議員)が、「日本が蝦夷地を正式に領土とした日はいつなのか。」という質問を行った。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=19019&SAVED_RID=1&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=7&DOC_ID=3059&DPAGE=1&DTOTAL=1&DPOS=1&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=19077
外務省の[鶴岡公二]条約局法規課長の答弁は、次のとおりだった。
「具体的にいつ我国の領土となったかということについては明らかではございませんけれども、江戸時代の末期から明治時代初めにかけまして、我国と当時の帝政ロシアとの間で国境の画定が行われた際には、いわゆる北海道本島につきましては両国間で全く問題となっておりません。その当時も北海道本島が我国領土であるということを当然の前提で日ロ間の交渉が行われた経緯がございます。」
つまり。先住民族であるアイヌとの交渉等は全くないということである。
