2007/6/5 21:51
もう一つの日本文化(樺太アイヌと日本人の快挙) 文化・芸術
以前、「樺太アイヌ」と「千島アイヌ」について、その居住地が、日本とロシアの間で何回かの領土の変遷があったため、衰退や絶滅(不明)につながったと述べた。
今回は、「樺太アイヌ」が日本人の快挙に関係したことについて、若干触れたい。
19世紀初め、樺太は、ヨーロッパ諸国を中心とする当時の先進諸国(世界)にとって、世界地図上の謎の地域であった。
貿易船の行き交う航路沿いの地域は既に正確な地図が作られており、貿易船の航行することのない地域についても、ヨーロッパ人による探検船によって全世界地図がほぼ完成していた。
樺太については、日本、中国、ヨーロッパの3方面からの探求が行われていた。
日本は1679年に松前藩の陣屋が南部のクシュンコタン(久春古丹:大泊)に設置して以来、交易地としての開発が進められていた。1799年には南部が幕府の直轄地とされたが、北部については不明だった。
中国は、1411年に北部に衛(領事館)を設置して以来、アイヌ民族と交易していた。また、19世紀初頭においても沿海州(アムール川流域)を領有しており、海を隔ててサハリンという島を認識していたが、日本が支配している樺太南部とは別の島と考えていた。
ヨーロッパは、探検船による調査を行っていた。
1787年、フランス人 ドウ・ラ・ペリーズは、黄海から日本海に入り、北上して樺太西海岸沿いに北に進んだ。北からの潮流がなく、海は浅くなる一方で船を進めることができなくなったので、彼は「樺太は半島である。」と判断して探検を終了した。
1797年、イギリス人 プロートンが同様の航路で探検を行い、ラ・ペリーズが引き返した地点よりもさらに北上したが、海面が湖面のように静止しており、水深が浅く座州の危険があるため、引き返している。
彼は帰国後、「北部太平洋探検航海記」を発表、樺太が半島であると明記した。
1804年、ロシア人 クルーゼンシュテルンは、樺太を東海岸沿いに北上、樺太北部先端を回り西海岸沿いに南下したが、水深が浅くなったため断念、引き返している。 その調査結果である「世界周航記」で樺太は半島と発表した。
これらによって、樺太が半島であることは疑いの余地がないものとなっていた。
1809年、間宮林蔵29歳に幕府から樺太探検(調査)が命じられたのは、樺太が北部でどのように沿海州とつながっているかを確認するためだった。
この探検は、林蔵1人で行ったわけではない。海岸沿いの船による移動、また、陸地を船を担いでの移動、食料調達などは、当時、幕府の支配下にあった樺太アイヌが行った。
林蔵はアイヌ語が話せたが、樺太北部は、ニブフ(ギリヤーク)人であり、アイヌ語だけでは通じない。アイヌ語ができるニブフ人の案内により沿海州(大陸)に渡り、アムール川を遡って、デレンという清王朝(中国)の出張所までたどり着いた。
この探検によって、樺太(サハリン)は島であることが確認され、帰国後、詳細な地図が作られた。
この地図がシーボルトによって持ち出され、ヨーロッパで発表され、樺太とアムール川河口との間の幅7キロの海峡は、世界地図に唯一の日本人の名前「Mamiya-seto(間宮海峡)」として命名された。
この快挙をどう考えるかは、人それぞれによって異なるだろう。
例えば、この探検は、その大部分を同行した樺太アイヌ「ラロニ」なしでは考えられない。というより、「ラロニ」なしでは、林蔵は命を落としていただろう。
そういう意味では、この快挙は、和人と樺太アイヌ、また樺太北部のニブフの3者によるものということも可能かもしれない。
また、次のことも事実である。
樺太が島であることは、樺太アイヌやニブフにとって、「既知の事」であった。
間宮海峡発見のはるか以前から、大陸へ自由に渡航し交易をしていた。
写真は、樺太アイヌの木製食器「チェペニパポ」(北海道アイヌでは「ニマ」)。魚や獣の肉のスープを食べるときに使用するものだ。

このような食器は、昔は北海道アイヌには見られなかった。
しかし、以前、紹介した「二風谷の貝澤徹(かいざわとおる)氏」は、樺太アイヌ様式のニマと北海道アイヌのデザイン「ウロコ彫り」を組み合わせた「すばらしいニマ」を作ってくれた。ここに紹介する。
このニマは、我家の食卓テーブルで活躍している。


「樺太アイヌ」が日本人の快挙に関係したもうひとつの有名な事例についても、若干触れたい。
1912年(明治45年)1月28日、白瀬南極探検隊は、南極の南緯80度05分、西経156度37分に日章旗を立てた。有名な「大和雪原」である。写真には白瀬隊長及び2名の隊員計3名の「突進隊」の姿が写っている。
しかし、極点を目指した突進隊は3名ではなく、他に2名の樺太アイヌ「山辺安之助」「花守新吉」が樺太犬の犬そり係として同行していた。
犬そりは、樺太において冬場の重要な輸送手段として使われていた。
樺太においては3種の民族が居住していた。冬場の輸送手段としては、みんな「そり」を利用していたが、その牽引する動物には違いがあった。
ウィルタは、「トナカイ」を使用した。アイヌとニブフは、体重40キロ以上になる力強い家畜「樺太犬」を使用した。
その実績を買われての参加だったが、さきほどの写真の例でわかるように、和人(日本人)の隊員とは同様に扱われていない。
その最たるものが、「テント」だ。南極の零下25度を下回る野営に、テントにいるのは写真の3名だけ。樺太アイヌ2名は、厳寒の氷上で犬と同じく野宿だった。
今回は、「樺太アイヌ」が日本人の快挙に関係したことについて、若干触れたい。
19世紀初め、樺太は、ヨーロッパ諸国を中心とする当時の先進諸国(世界)にとって、世界地図上の謎の地域であった。
貿易船の行き交う航路沿いの地域は既に正確な地図が作られており、貿易船の航行することのない地域についても、ヨーロッパ人による探検船によって全世界地図がほぼ完成していた。
樺太については、日本、中国、ヨーロッパの3方面からの探求が行われていた。
日本は1679年に松前藩の陣屋が南部のクシュンコタン(久春古丹:大泊)に設置して以来、交易地としての開発が進められていた。1799年には南部が幕府の直轄地とされたが、北部については不明だった。
中国は、1411年に北部に衛(領事館)を設置して以来、アイヌ民族と交易していた。また、19世紀初頭においても沿海州(アムール川流域)を領有しており、海を隔ててサハリンという島を認識していたが、日本が支配している樺太南部とは別の島と考えていた。
ヨーロッパは、探検船による調査を行っていた。
1787年、フランス人 ドウ・ラ・ペリーズは、黄海から日本海に入り、北上して樺太西海岸沿いに北に進んだ。北からの潮流がなく、海は浅くなる一方で船を進めることができなくなったので、彼は「樺太は半島である。」と判断して探検を終了した。
1797年、イギリス人 プロートンが同様の航路で探検を行い、ラ・ペリーズが引き返した地点よりもさらに北上したが、海面が湖面のように静止しており、水深が浅く座州の危険があるため、引き返している。
彼は帰国後、「北部太平洋探検航海記」を発表、樺太が半島であると明記した。
1804年、ロシア人 クルーゼンシュテルンは、樺太を東海岸沿いに北上、樺太北部先端を回り西海岸沿いに南下したが、水深が浅くなったため断念、引き返している。 その調査結果である「世界周航記」で樺太は半島と発表した。
これらによって、樺太が半島であることは疑いの余地がないものとなっていた。
1809年、間宮林蔵29歳に幕府から樺太探検(調査)が命じられたのは、樺太が北部でどのように沿海州とつながっているかを確認するためだった。
この探検は、林蔵1人で行ったわけではない。海岸沿いの船による移動、また、陸地を船を担いでの移動、食料調達などは、当時、幕府の支配下にあった樺太アイヌが行った。
林蔵はアイヌ語が話せたが、樺太北部は、ニブフ(ギリヤーク)人であり、アイヌ語だけでは通じない。アイヌ語ができるニブフ人の案内により沿海州(大陸)に渡り、アムール川を遡って、デレンという清王朝(中国)の出張所までたどり着いた。
この探検によって、樺太(サハリン)は島であることが確認され、帰国後、詳細な地図が作られた。
この地図がシーボルトによって持ち出され、ヨーロッパで発表され、樺太とアムール川河口との間の幅7キロの海峡は、世界地図に唯一の日本人の名前「Mamiya-seto(間宮海峡)」として命名された。
この快挙をどう考えるかは、人それぞれによって異なるだろう。
例えば、この探検は、その大部分を同行した樺太アイヌ「ラロニ」なしでは考えられない。というより、「ラロニ」なしでは、林蔵は命を落としていただろう。
そういう意味では、この快挙は、和人と樺太アイヌ、また樺太北部のニブフの3者によるものということも可能かもしれない。
また、次のことも事実である。
樺太が島であることは、樺太アイヌやニブフにとって、「既知の事」であった。
間宮海峡発見のはるか以前から、大陸へ自由に渡航し交易をしていた。
写真は、樺太アイヌの木製食器「チェペニパポ」(北海道アイヌでは「ニマ」)。魚や獣の肉のスープを食べるときに使用するものだ。
このような食器は、昔は北海道アイヌには見られなかった。
しかし、以前、紹介した「二風谷の貝澤徹(かいざわとおる)氏」は、樺太アイヌ様式のニマと北海道アイヌのデザイン「ウロコ彫り」を組み合わせた「すばらしいニマ」を作ってくれた。ここに紹介する。
このニマは、我家の食卓テーブルで活躍している。
「樺太アイヌ」が日本人の快挙に関係したもうひとつの有名な事例についても、若干触れたい。
1912年(明治45年)1月28日、白瀬南極探検隊は、南極の南緯80度05分、西経156度37分に日章旗を立てた。有名な「大和雪原」である。写真には白瀬隊長及び2名の隊員計3名の「突進隊」の姿が写っている。
しかし、極点を目指した突進隊は3名ではなく、他に2名の樺太アイヌ「山辺安之助」「花守新吉」が樺太犬の犬そり係として同行していた。
犬そりは、樺太において冬場の重要な輸送手段として使われていた。
樺太においては3種の民族が居住していた。冬場の輸送手段としては、みんな「そり」を利用していたが、その牽引する動物には違いがあった。
ウィルタは、「トナカイ」を使用した。アイヌとニブフは、体重40キロ以上になる力強い家畜「樺太犬」を使用した。
その実績を買われての参加だったが、さきほどの写真の例でわかるように、和人(日本人)の隊員とは同様に扱われていない。
その最たるものが、「テント」だ。南極の零下25度を下回る野営に、テントにいるのは写真の3名だけ。樺太アイヌ2名は、厳寒の氷上で犬と同じく野宿だった。
