2007/6/13 22:42
もう一つの日本文化(3つの元寇) 文化・芸術
今回も若干、「樺太アイヌ」について触れたい。
「樺太アイヌ」が現在何人いるのかは不明(1946年、1159人という記録がある)だが、彼らは、間違いなく「日本人(日本国籍を持ち、国民としての権利を持つ)」である。
話は変わるが、沖縄人(琉球人)も、また、間違いなく「日本人」である。
この2つの民族が、いつから「日本人」になったのかは、歴史解釈で若干異なるのかもしれないが、現在、「日本人」であることを否定することはできないだろう。
私は、学校の日本史教育で「元寇(蒙古襲来)」を学習した。
それによれば、『元(1271〜1368)は、日本に対したびたび朝貢を強要し、北条時宗はこれを拒否したので、1274年と1281年に九州北部に襲来した。』という内容である。 これは事実であり、当然のことながら誤りではない。
しかしながら、次の事実は、教科書に記述されていない。
元は、1291年、沖縄(英祖王統)に朝貢を強要し、これを拒否されると、1297年に沖縄を攻めた。 英祖軍は必死に抵抗し、130人を捕虜とされたが降伏しなかった。
元は、1264年から「樺太アイヌ」征討を開始した。「樺太アイヌ」は1308年の降伏(帰順)まで戦いをやめなかった。 1297年は、間宮海峡を渡り、アムール川を遡って元軍を攻撃した。(記録は「元史」など中国側のもの)
このように、現在「日本人」である「沖縄人」と「樺太アイヌ」は元と戦っているにもかかわらず、日本政府による学校教育では、これらの事実は教えられていない。
意図的に「重要な事実を隠している」と取られても仕方のない行為だ。
日本人である「沖縄人」と「樺太アイヌ」にとって、学校の日本史教育は、自分たちの歴史を無視した形になっている。
現在「日本人」である彼らの歴史については、敬意を払うべきと考える。
* 私の息子(18才)に確認しても、「沖縄人と樺太アイヌが元と戦った」ことは、 教えられていないという。
ただし、ネットで調査したら、次のような教科書副読本の例(帝国書院)があった。
■アイヌ・琉球における元寇
元(モンゴル帝国)は、東アジアのほぼ全域に勢力を拡大していき、高麗やベトナム、チャンパーなどの各地で戦いをひきおこしていった。日本への二度にわたる元寇は、そうしたなかの一つにすぎない。
他方、日本海の北部では、13世紀になると、アイヌ民族が、交易活動を活発化させ、千島やサハリン(樺太)へと進出していった。ほぼ同時期に、アイヌ民族は、本州でも鎌倉幕府と衝突していた。元は、こうしたサハリンでのアイヌ民族の交易活動とも衝突するに至ったのである。
アムール川(黒竜江)下流域まで勢力が及んでいた元(モンゴル帝国)は、アイヌ民族を骨嵬(クイ)と呼び、その討伐を開始した。そのきっかけとなったのは、すでに元に服属していたギレミ人らの、骨嵬が毎年侵入してくるという訴えであった。元とアイヌ民族の交戦は、おもなものだけでも、@1264(至元1)年11月、A1265(同2)年3月、B1273(同10)年9月、C1278(同15)年9月、D1283(同20)年7月、E1284(同21)年8月、F1285(同22)年10月、G1286(同23)年10月、H1297(大徳1)年5〜8月の9回も記録されている。元は、骨嵬の根強い抵抗に手を焼いたが、1308(至大1)年には、ついに服属させることに成功した。アイヌ民族は、年々毛皮を貢納することになったのである。
それに対して、沖縄などの南島では、11世紀前後から、国家形成の胎動が始まり(考古学的には「グスク時代」と呼ばれる)、やがて15世紀には、統一国家としての琉球王国が生み出されるにいたる。元は、そうした琉球へも討伐軍などを派遣したことがわかっている。たとえば、1291(至元28)年には、討伐軍の派遣が決まり、翌年に派遣された。また、1297(大徳1)年には、福建省の使者が琉球に偵察に来て、100人を俘虜にして帰還し、翌年、その俘虜を返還して服属をすすめている。

これらの記述からは、樺太アイヌは、決して弱い民族でないように感じる。
写真の「サハリン州立郷土史博物館」(旧樺太庁博物館をそのまま使用)のHPにおける「樺太アイヌ」の解説でも「戦闘的な民族」とされている。
原文は英語だが、機械翻訳を通したものを一部掲載する。(英文に自信のある方は、次のアドレスへ)
http://museum.sakh.com/eng/10.shtml
…アイヌは世界の最も古くて最も不思議な民族のひとりです。 それらは外観だけではなく、言語で隣接している Mongoloid民族とそれらの材料と精神文化の他の多くの特徴から大きな開きがあります。 色白の、そして、ひげもじゃのアイヌの男性、および口の周りと、そして、手の上に入れ墨があるアイヌの女性は戦闘的な民族でした。 彼らのメイン腕は野菜繊維剣帯、機敏なスパイク、および弓矢がある重い戦闘のクラブで差された刀でした。 ユニークな展示品はアゴヒゲアザラシ皮の細長い片から織られたよろいかぶとです。 このよろいかぶとは、戦士の身体を完全に保護して、現在、非常にまれで貴重な物です。…


「樺太アイヌ」が現在何人いるのかは不明(1946年、1159人という記録がある)だが、彼らは、間違いなく「日本人(日本国籍を持ち、国民としての権利を持つ)」である。
話は変わるが、沖縄人(琉球人)も、また、間違いなく「日本人」である。
この2つの民族が、いつから「日本人」になったのかは、歴史解釈で若干異なるのかもしれないが、現在、「日本人」であることを否定することはできないだろう。
私は、学校の日本史教育で「元寇(蒙古襲来)」を学習した。
それによれば、『元(1271〜1368)は、日本に対したびたび朝貢を強要し、北条時宗はこれを拒否したので、1274年と1281年に九州北部に襲来した。』という内容である。 これは事実であり、当然のことながら誤りではない。
しかしながら、次の事実は、教科書に記述されていない。
元は、1291年、沖縄(英祖王統)に朝貢を強要し、これを拒否されると、1297年に沖縄を攻めた。 英祖軍は必死に抵抗し、130人を捕虜とされたが降伏しなかった。
元は、1264年から「樺太アイヌ」征討を開始した。「樺太アイヌ」は1308年の降伏(帰順)まで戦いをやめなかった。 1297年は、間宮海峡を渡り、アムール川を遡って元軍を攻撃した。(記録は「元史」など中国側のもの)
このように、現在「日本人」である「沖縄人」と「樺太アイヌ」は元と戦っているにもかかわらず、日本政府による学校教育では、これらの事実は教えられていない。
意図的に「重要な事実を隠している」と取られても仕方のない行為だ。
日本人である「沖縄人」と「樺太アイヌ」にとって、学校の日本史教育は、自分たちの歴史を無視した形になっている。
現在「日本人」である彼らの歴史については、敬意を払うべきと考える。
* 私の息子(18才)に確認しても、「沖縄人と樺太アイヌが元と戦った」ことは、 教えられていないという。
ただし、ネットで調査したら、次のような教科書副読本の例(帝国書院)があった。
■アイヌ・琉球における元寇
元(モンゴル帝国)は、東アジアのほぼ全域に勢力を拡大していき、高麗やベトナム、チャンパーなどの各地で戦いをひきおこしていった。日本への二度にわたる元寇は、そうしたなかの一つにすぎない。
他方、日本海の北部では、13世紀になると、アイヌ民族が、交易活動を活発化させ、千島やサハリン(樺太)へと進出していった。ほぼ同時期に、アイヌ民族は、本州でも鎌倉幕府と衝突していた。元は、こうしたサハリンでのアイヌ民族の交易活動とも衝突するに至ったのである。
アムール川(黒竜江)下流域まで勢力が及んでいた元(モンゴル帝国)は、アイヌ民族を骨嵬(クイ)と呼び、その討伐を開始した。そのきっかけとなったのは、すでに元に服属していたギレミ人らの、骨嵬が毎年侵入してくるという訴えであった。元とアイヌ民族の交戦は、おもなものだけでも、@1264(至元1)年11月、A1265(同2)年3月、B1273(同10)年9月、C1278(同15)年9月、D1283(同20)年7月、E1284(同21)年8月、F1285(同22)年10月、G1286(同23)年10月、H1297(大徳1)年5〜8月の9回も記録されている。元は、骨嵬の根強い抵抗に手を焼いたが、1308(至大1)年には、ついに服属させることに成功した。アイヌ民族は、年々毛皮を貢納することになったのである。
それに対して、沖縄などの南島では、11世紀前後から、国家形成の胎動が始まり(考古学的には「グスク時代」と呼ばれる)、やがて15世紀には、統一国家としての琉球王国が生み出されるにいたる。元は、そうした琉球へも討伐軍などを派遣したことがわかっている。たとえば、1291(至元28)年には、討伐軍の派遣が決まり、翌年に派遣された。また、1297(大徳1)年には、福建省の使者が琉球に偵察に来て、100人を俘虜にして帰還し、翌年、その俘虜を返還して服属をすすめている。
これらの記述からは、樺太アイヌは、決して弱い民族でないように感じる。
写真の「サハリン州立郷土史博物館」(旧樺太庁博物館をそのまま使用)のHPにおける「樺太アイヌ」の解説でも「戦闘的な民族」とされている。
原文は英語だが、機械翻訳を通したものを一部掲載する。(英文に自信のある方は、次のアドレスへ)
http://museum.sakh.com/eng/10.shtml
…アイヌは世界の最も古くて最も不思議な民族のひとりです。 それらは外観だけではなく、言語で隣接している Mongoloid民族とそれらの材料と精神文化の他の多くの特徴から大きな開きがあります。 色白の、そして、ひげもじゃのアイヌの男性、および口の周りと、そして、手の上に入れ墨があるアイヌの女性は戦闘的な民族でした。 彼らのメイン腕は野菜繊維剣帯、機敏なスパイク、および弓矢がある重い戦闘のクラブで差された刀でした。 ユニークな展示品はアゴヒゲアザラシ皮の細長い片から織られたよろいかぶとです。 このよろいかぶとは、戦士の身体を完全に保護して、現在、非常にまれで貴重な物です。…
2008/9/6 10:20
投稿者:t260arima
中田日左人 様
お問い合わせいただいたカラー写真ですが、まず、私が撮影したものではありません。
ブログの写真掲載部分の10行ほど上部に「サハリン州立郷土史博物館」のアドレス[http://museum.sakh.com/eng/10.shtml]が掲載されていますが、そこのサイトにある写真をコピーして貼り付けてあるものです。
*サハリン州立郷土史博物館のサイトの写真を確認していただければわかりますが、ファイルの大きさは同じです。これ以上大きなものはありません。
お役立てなくて恐縮です。
お問い合わせいただいたカラー写真ですが、まず、私が撮影したものではありません。
ブログの写真掲載部分の10行ほど上部に「サハリン州立郷土史博物館」のアドレス[http://museum.sakh.com/eng/10.shtml]が掲載されていますが、そこのサイトにある写真をコピーして貼り付けてあるものです。
*サハリン州立郷土史博物館のサイトの写真を確認していただければわかりますが、ファイルの大きさは同じです。これ以上大きなものはありません。
お役立てなくて恐縮です。
2008/9/6 7:07
はじめまして 中田と申します。
いろいろな武器・武具を3D化しています。
以前から樺太アイヌの甲冑の存在は知っていましが、詳細が不明なため3D化できませんでした。
上記写真の背景にある老人の白黒写真は前後2枚持っています。今回、貴サイトでカラー写真を発見しました。大変お手数とは存じますが、撮影したままのサイズでお送り願えないでしょうか。複数ありましたら併せてお送り願えれば幸いです。
大変勝手なお願いですがよろしくお願いいたします。 中田日左人
いろいろな武器・武具を3D化しています。
以前から樺太アイヌの甲冑の存在は知っていましが、詳細が不明なため3D化できませんでした。
上記写真の背景にある老人の白黒写真は前後2枚持っています。今回、貴サイトでカラー写真を発見しました。大変お手数とは存じますが、撮影したままのサイズでお送り願えないでしょうか。複数ありましたら併せてお送り願えれば幸いです。
大変勝手なお願いですがよろしくお願いいたします。 中田日左人
