2004/11/29 21:37
調子に乗って土曜の続き 日常
なぜ私はパワーポイントを使わないか? それを主張したかっただけのこと。
値段が高いからだ。
しかしそれは主要な理由ではない。そもそも、パワーポイントに面白みを感じないからだ。
以前勤めていた大学で、あるコンピュータ関係の委員についていた時、システムの構築に関して企業のプレゼンを丸一日拝見したことがある。
どこもパワーポイントだらけ。
で、これがことごとく面白くなかったのだ。
イラストや画像にキャプションのごとく数行の箇条書きの文章が添えられた画面をスライド方式で見せていくのだが、その文章にもなっていない箇条書きの文章を読むだけで、生身の人間がプレゼンテーションをしている意味がまったくない。おまけにスライドで見せられる画面は、紙に印刷した資料として手元に配られているとあっては、プレゼンターたちがそこにいる意味がどこにあるというのか?
私は退屈を紛らわすため、プレゼンの内容ではなく上手さで採点していたのだが、ことごとく、これでは不合格だ。みんな、ぼくの教え子でなくてよかったね。
日本を代表する(外資系も含まれるので、世界を代表する、と言っておこう)家電・情報企業の営業マンたちが、数億の商談に臨もうというのにこれでいいのだろうか?
おそらく、人はパワーポイントに頼りすぎる。こんなに頼るのだったら、いっそのことしゃべらなければいいのだ。人が人前でしゃべるということは、視覚に提供する情報以上のものをそこで提供しなければならないということだ。そうしないと、聴くものは飽きてしまう。
そんなわけで、ぼくは画像や写真を見せるためだけにパワーポイント……もとい、OpenOfficeのプレゼンテーションというソフトを使うのだが、画像や写真を使うときは、それに対してぼく自身による説明・解説の余地を大いに残しておくように努めている。そして、その程度に使うのなら、べつにパワーポイントでなくてもいいのだった。
先日のイスパニヤ学会で、友人のOは、エミリア・パルド・バサンの小説の文体分析のためにパワーポイントを使っていた。同じ文章でも発表の内容に合わせて違う単語を強調して色違いで示したりしながら、それはそれは立派なものでわかりやすかったのだった。そのように使うならば、そこに発表者の力を発揮する余地があるのなら、映し出す資料以上の情報を人間が与えてくれるなら、パワーポイントも大いに結構。
ただ、値段がな……
値段が高いからだ。
しかしそれは主要な理由ではない。そもそも、パワーポイントに面白みを感じないからだ。
以前勤めていた大学で、あるコンピュータ関係の委員についていた時、システムの構築に関して企業のプレゼンを丸一日拝見したことがある。
どこもパワーポイントだらけ。
で、これがことごとく面白くなかったのだ。
イラストや画像にキャプションのごとく数行の箇条書きの文章が添えられた画面をスライド方式で見せていくのだが、その文章にもなっていない箇条書きの文章を読むだけで、生身の人間がプレゼンテーションをしている意味がまったくない。おまけにスライドで見せられる画面は、紙に印刷した資料として手元に配られているとあっては、プレゼンターたちがそこにいる意味がどこにあるというのか?
私は退屈を紛らわすため、プレゼンの内容ではなく上手さで採点していたのだが、ことごとく、これでは不合格だ。みんな、ぼくの教え子でなくてよかったね。
日本を代表する(外資系も含まれるので、世界を代表する、と言っておこう)家電・情報企業の営業マンたちが、数億の商談に臨もうというのにこれでいいのだろうか?
おそらく、人はパワーポイントに頼りすぎる。こんなに頼るのだったら、いっそのことしゃべらなければいいのだ。人が人前でしゃべるということは、視覚に提供する情報以上のものをそこで提供しなければならないということだ。そうしないと、聴くものは飽きてしまう。
そんなわけで、ぼくは画像や写真を見せるためだけにパワーポイント……もとい、OpenOfficeのプレゼンテーションというソフトを使うのだが、画像や写真を使うときは、それに対してぼく自身による説明・解説の余地を大いに残しておくように努めている。そして、その程度に使うのなら、べつにパワーポイントでなくてもいいのだった。
先日のイスパニヤ学会で、友人のOは、エミリア・パルド・バサンの小説の文体分析のためにパワーポイントを使っていた。同じ文章でも発表の内容に合わせて違う単語を強調して色違いで示したりしながら、それはそれは立派なものでわかりやすかったのだった。そのように使うならば、そこに発表者の力を発揮する余地があるのなら、映し出す資料以上の情報を人間が与えてくれるなら、パワーポイントも大いに結構。
ただ、値段がな……
2004/11/27 23:47
てんてこ舞い 日常
下にリンクを貼った調布の文化会館での仕事。ぼくはパワーポイントを使わず、代わりにOpenOfficeというフリーソフトを使っているのだが、それによるスライドとDVD、CDフル稼働。
スライドの中身をデスクトップからノートPCに移す際に画像が失われ、どうしたものかと、いずれも最新のものにヴァージョンアップ。それでも上手くいかず、仕方がないからノートPCで作り直す。そんなことをしている間に時間が迫ってきたので、そそくさと出かける。
が、土曜の道路をあなどっていた。混んでいて、意外に時間がかかる。焦るあまり曲がるポイントを見過ごし、調布駅北口前のロータリーでUターン。そんなときに限って踏み切りにつかまり、遮断機を壊して突き進みたいと焦りながら、ぎりぎりで到着。ともかく間に合ってよかった。
結局、トイレに行ったり一服したりと、目的地に到着したら心を落ち着けるために執り行う儀式をすることもできず、すぐに講義に突入。そのせいか、とりわけ疲れた。
担当のYさんによれば、取り扱う地域によって先生方の雰囲気も違うのだそうで、アメリカ地域を扱った今回は、いずれも反応を見ながら、インタラクティヴな授業を心がけていたとのこと。ヨーロッパを扱う人だと、まるっきり喋りっぱなしの講義になることが多いのだとか。
帰宅後はひたすら脱力していた。日付が変わるころになって、やっと動き始める。
スライドの中身をデスクトップからノートPCに移す際に画像が失われ、どうしたものかと、いずれも最新のものにヴァージョンアップ。それでも上手くいかず、仕方がないからノートPCで作り直す。そんなことをしている間に時間が迫ってきたので、そそくさと出かける。
が、土曜の道路をあなどっていた。混んでいて、意外に時間がかかる。焦るあまり曲がるポイントを見過ごし、調布駅北口前のロータリーでUターン。そんなときに限って踏み切りにつかまり、遮断機を壊して突き進みたいと焦りながら、ぎりぎりで到着。ともかく間に合ってよかった。
結局、トイレに行ったり一服したりと、目的地に到着したら心を落ち着けるために執り行う儀式をすることもできず、すぐに講義に突入。そのせいか、とりわけ疲れた。
担当のYさんによれば、取り扱う地域によって先生方の雰囲気も違うのだそうで、アメリカ地域を扱った今回は、いずれも反応を見ながら、インタラクティヴな授業を心がけていたとのこと。ヨーロッパを扱う人だと、まるっきり喋りっぱなしの講義になることが多いのだとか。
帰宅後はひたすら脱力していた。日付が変わるころになって、やっと動き始める。
2004/11/23 23:25
時の流れ 日常
循環する時間(祭り・カーニヴァル)に取り戻せない直線的時間を見るの巻。
法政時代の教え子が遊びに来るというので、大学へ。まだ外語祭中。今日が最終日。行ったらいきなり同僚のT先生に会う。氏はぼくが学生時代に教わったことのある先生で唯一(スペイン語では、ということ)現役で残っている同僚。愛娘とともに、自身がOBでもあるワンゲル部のテントでモツ煮込みを食しておられた。おごってもらう。氏の時代の部誌と現在の部誌を前に「昨日のことのように思えるんだけどな。もう3、40年も経つということだよな」と語っておられた。ぼくはお供をしていた3年の部員に「ということは、君もあさってくらいにはこうなるということだよ」と諭して差し上げた。
ぼくが属していた「中南米研究会」(タコス屋を出していた)はもう存在しないようだ。
教え子は学生時代と変わらぬ溌剌とした感じで登場。「まだ学生で通用しますよね?」と主張するので、パエーリャを買う際に1年生たちに「4年の先輩だ」と紹介したら、それまで、この教師は臆面もなく堂々と若い愛人を連れて歩いているのか、と軽蔑の眼差しだった彼・彼女らも信じたらしい。
その彼女も20代後半。夫ともに日本脱出を考えているのだとか。そんな夢を語る者は少なくないが、彼女の場合、口にするということは、かなり具体化しつつあるプランと見てよい。
列に引き寄せられてフラメンコを観にいったら満杯。熱気にあてられて隣のベリーダンスを鑑賞する体力は残っていなかった。このフラメンコのサークルはぼくが1年の頃にひとつ上の先輩が作ったものだが、存続し成長しているし、学生たちの手並みもなかなかのものと見た。
先輩といえば、ぼくの2年ほど先輩にあたる人たちが3、4人で連れたって歩いていたので挨拶する。実に18、9年ぶりだと思うのだが、いまだにこうして連れ立っているとは仲がいい、と思ったら、彼らは同じ会社に勤めていたのだった。
土曜日にこんな企画で話をするので、その資料を作成途中。話すことはもう決まっているのだけどね。
法政時代の教え子が遊びに来るというので、大学へ。まだ外語祭中。今日が最終日。行ったらいきなり同僚のT先生に会う。氏はぼくが学生時代に教わったことのある先生で唯一(スペイン語では、ということ)現役で残っている同僚。愛娘とともに、自身がOBでもあるワンゲル部のテントでモツ煮込みを食しておられた。おごってもらう。氏の時代の部誌と現在の部誌を前に「昨日のことのように思えるんだけどな。もう3、40年も経つということだよな」と語っておられた。ぼくはお供をしていた3年の部員に「ということは、君もあさってくらいにはこうなるということだよ」と諭して差し上げた。
ぼくが属していた「中南米研究会」(タコス屋を出していた)はもう存在しないようだ。
教え子は学生時代と変わらぬ溌剌とした感じで登場。「まだ学生で通用しますよね?」と主張するので、パエーリャを買う際に1年生たちに「4年の先輩だ」と紹介したら、それまで、この教師は臆面もなく堂々と若い愛人を連れて歩いているのか、と軽蔑の眼差しだった彼・彼女らも信じたらしい。
その彼女も20代後半。夫ともに日本脱出を考えているのだとか。そんな夢を語る者は少なくないが、彼女の場合、口にするということは、かなり具体化しつつあるプランと見てよい。
列に引き寄せられてフラメンコを観にいったら満杯。熱気にあてられて隣のベリーダンスを鑑賞する体力は残っていなかった。このフラメンコのサークルはぼくが1年の頃にひとつ上の先輩が作ったものだが、存続し成長しているし、学生たちの手並みもなかなかのものと見た。
先輩といえば、ぼくの2年ほど先輩にあたる人たちが3、4人で連れたって歩いていたので挨拶する。実に18、9年ぶりだと思うのだが、いまだにこうして連れ立っているとは仲がいい、と思ったら、彼らは同じ会社に勤めていたのだった。
土曜日にこんな企画で話をするので、その資料を作成途中。話すことはもう決まっているのだけどね。
2004/11/22 0:10
日記は常に日付越し 分類なし

このところ、ここに書き込むのは0時を回ってからだから、実は表示の日づけより一日前の話。急ぎの校務に関連して、研究室にあるものを取りに行かねばならず、学祭中の大学に出向く。用事を済ませてから1時間ほどあちこちを冷やかして回り、帰宅。
模範的なOBでもなかったので、実は外語祭に出かけるなんて大学院に在学している頃から久しくなかった。もちろん、キャンパス移転後は初。移転後、二本柱のひとつ各国料理店は円形の回廊の下の部分を使った露店になったというから、どんな雰囲気なのかと思っていたら、金曜日と違って晴れた休日の今日、写真のように賑わいを見せていた。なるほど、晴天だとそれなりにメリットがあるものだ。
脱力、ときどき仕事。
2004/11/21 0:40
困憊 日常
グレゴリー・サンブラーノを迎えての特別セミナー "Narrativa venezolana del siglo XX"(20世紀ベネズエラのナラティヴ)での発表。2番目という一番やりづらい位置。ぼくの話は「ある世代の夢」というタイトル。アルトゥーロ・ウスラル=ピエトリとアレホ・カルペンティエールの交錯する軌跡から40年代、50年代のベネズエラの文化状況を描出し、ラテンアメリカ文学の広がりとの関係性を探る、というもの。……だったのか?
やっと終わったと思ったら、「一刻も早く完成原稿に仕上げて送ってくださいね」だと。あちこち修正を施した上に、読みながら変更して行った。おまけに話すために書いた文章なので、相当な変更を必要とすると思うのだが。……やれやれ……
終了後、東大駒場キャンパス内にあるレストランでレセプション。なんだか素敵なところだった。国立大学にあんなのがあってもいいのか? 大いなるやっかみを感じたのだった。
やっと終わったと思ったら、「一刻も早く完成原稿に仕上げて送ってくださいね」だと。あちこち修正を施した上に、読みながら変更して行った。おまけに話すために書いた文章なので、相当な変更を必要とすると思うのだが。……やれやれ……
終了後、東大駒場キャンパス内にあるレストランでレセプション。なんだか素敵なところだった。国立大学にあんなのがあってもいいのか? 大いなるやっかみを感じたのだった。
2004/11/20 1:01
初日 分類なし

あいにくの雨だが、外語祭初日。その初日にスペイン語劇マヌエル・プイグ作「ガルデル、ある記憶/回想」上演。写真はカーテンコール時のもの。
危惧していたよりははるかに良い出来で、"El dia que me quieras"が歌われたときなどはジンと来たな。
その後、告知にも触れたグレゴリー・サンブラーノの講演を聴きに法政大学市ヶ谷キャンパスへ。終了後、懇親会。明日も会うし、明日も懇親会なんだけどな……。帰宅は午前様。
2004/11/16 0:13
とりあえず、今日は2冊 読書
月曜だからといって、買ったということではない。2冊読んだ、ということ。執筆中の原稿とはまったくの無関係。
福田和也『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法A』(PHP、2004)。先日、友人がこれを読んで参考にしたというようなことを言っていたので。ノートPCに辞・事典類をインストールしているというところなどらしい。前編はいつの間にか我が家にあったので、ぼくも読んだことがあったのだが、改めてこのAを買ってみたという次第。
小谷野敦『評論家入門』(平凡社新書、2004)。小谷野の醍醐味は活躍著しいスター学者・評論家の事実誤認などを指摘して小気味よいことだが、価値判断となると、悪意が勝っているように思われることがある。「学問八割、はみ出し二割」の姿勢で行くのが評論家として望ましいというのが彼の姿勢であるのだから、その「はみ出し」の部分なのだろうと思えばいいのかもしれない。しかし、それにしてもこの本の「はみ出し」部分は、修士論文を出版したはいいけど一向に原稿依頼など来ない状況に悶々としていたことを吐露する後半部分であるだろう。あるいは自分自身の論争体験によるプレッシャーを告白するくだり。
ところで、しばらく小谷野の出した本を読んでいなかったのは、『性と愛の日本語講座』(ちくま新書)で、「恋人」に相当する英語の表現などを紹介した後で、その必要もないとぼくには思われるのに、「フランス語では」と例を持ち出しami(e)を「アミ(エ)」などと書いていたからだ。amiの女性形が「アミエ」だと思っているらしい。その他、いくつか例を出して(○○に教えてもらった)と注記するのだが、どこまでを「教えてもらった」のか。名前を出されたほうも、場合によっては迷惑だ。
知らなければ書かなければ良い。知らなくてもいくつもの言語で例を出したいと思うなら、もっと調べてドイツ語やイタリア語、スペイン語、中国語、等々、色々な例を出せばいいのだ、とおもったという次第。それで、この本はそこから先、読み進めていない。
福田和也『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法A』(PHP、2004)。先日、友人がこれを読んで参考にしたというようなことを言っていたので。ノートPCに辞・事典類をインストールしているというところなどらしい。前編はいつの間にか我が家にあったので、ぼくも読んだことがあったのだが、改めてこのAを買ってみたという次第。
小谷野敦『評論家入門』(平凡社新書、2004)。小谷野の醍醐味は活躍著しいスター学者・評論家の事実誤認などを指摘して小気味よいことだが、価値判断となると、悪意が勝っているように思われることがある。「学問八割、はみ出し二割」の姿勢で行くのが評論家として望ましいというのが彼の姿勢であるのだから、その「はみ出し」の部分なのだろうと思えばいいのかもしれない。しかし、それにしてもこの本の「はみ出し」部分は、修士論文を出版したはいいけど一向に原稿依頼など来ない状況に悶々としていたことを吐露する後半部分であるだろう。あるいは自分自身の論争体験によるプレッシャーを告白するくだり。
ところで、しばらく小谷野の出した本を読んでいなかったのは、『性と愛の日本語講座』(ちくま新書)で、「恋人」に相当する英語の表現などを紹介した後で、その必要もないとぼくには思われるのに、「フランス語では」と例を持ち出しami(e)を「アミ(エ)」などと書いていたからだ。amiの女性形が「アミエ」だと思っているらしい。その他、いくつか例を出して(○○に教えてもらった)と注記するのだが、どこまでを「教えてもらった」のか。名前を出されたほうも、場合によっては迷惑だ。
知らなければ書かなければ良い。知らなくてもいくつもの言語で例を出したいと思うなら、もっと調べてドイツ語やイタリア語、スペイン語、中国語、等々、色々な例を出せばいいのだ、とおもったという次第。それで、この本はそこから先、読み進めていない。
2004/11/14 21:49
帰宅 日常
昨日、今日と南山大学にて日本イスパニヤ学会第50回記念大会に出席。さきほど帰宅したところ。一日目の研究分科会、講演会、懇親会、二日目の分科会と、珍しくフルで出席し、名古屋在住の友人のご機嫌を電話で伺い、大忙しであった。……と言っても、ぼくは発表したわけでもなく、気楽なものだ。優れた発表があり、そうでない発表があり、優れているけれどもその面白みのわからないものがあり、面白いと思うのだけどその完成度に不満の残る発表があり、……こうして抽象化してみれば、つまるところ、いつものとおりであった。
50回記念ということもあり、講演は作家ルイス・ゴイティソロ。ルイスの兄フワンは邦訳も2冊ある。講演はとりたてて面白いものではなかった。ぼくは演者の言葉に触発され、下に書いた中沢新一の本のことなど思い出していた(ところで、下で『緑の資本論』と書いたのは『フィロソフィア・ヤポニカ』だろうと思う)。そこへ、妻の朗読――話の流れにあわせて妻が適宜、実際のテクストを朗読するという形式だった――の声に我に返ったのは、彼女の姓がウェルベスであったから。
というのは、新幹線に乗り込む前、東京駅で買ったのがミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』中村佳子訳(角川書店、2004)だったから。作家の最初の小説だ。
初日の懇親会。学会の懇親会には珍しく酒も食事もあっという間になくなったと思ったら(通常、参加者の平均年齢の高いこうした集まりでは、余るものだ)、ある人の観察によれば、大会運営を手伝ってもらった学生たちに、最初から飲み食いを許していたそうだ。
学会というのは開催する大学にとっては大変なことだと思う。受付や案内などの運営係は、ヴォランティアか、ほぼそれに近い学生たちだ。こうした人たちの労はねぎらわれなければならない。が、懇親会参加者に混じって飲み食いを許すというのは、いかがなものか。学生たちの仕事はその時点で、まだ終わったわけではないのだ。これでは仕事の領域の拡大ではなく、縮小だ。……ま、食い物の恨みで言っているわけではないが。
さて、来週はぼく自身が人前で話をする番。面白みに欠け、完成度が低いなどと誰かの日記に書かれそうで怖い。
50回記念ということもあり、講演は作家ルイス・ゴイティソロ。ルイスの兄フワンは邦訳も2冊ある。講演はとりたてて面白いものではなかった。ぼくは演者の言葉に触発され、下に書いた中沢新一の本のことなど思い出していた(ところで、下で『緑の資本論』と書いたのは『フィロソフィア・ヤポニカ』だろうと思う)。そこへ、妻の朗読――話の流れにあわせて妻が適宜、実際のテクストを朗読するという形式だった――の声に我に返ったのは、彼女の姓がウェルベスであったから。
というのは、新幹線に乗り込む前、東京駅で買ったのがミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』中村佳子訳(角川書店、2004)だったから。作家の最初の小説だ。
初日の懇親会。学会の懇親会には珍しく酒も食事もあっという間になくなったと思ったら(通常、参加者の平均年齢の高いこうした集まりでは、余るものだ)、ある人の観察によれば、大会運営を手伝ってもらった学生たちに、最初から飲み食いを許していたそうだ。
学会というのは開催する大学にとっては大変なことだと思う。受付や案内などの運営係は、ヴォランティアか、ほぼそれに近い学生たちだ。こうした人たちの労はねぎらわれなければならない。が、懇親会参加者に混じって飲み食いを許すというのは、いかがなものか。学生たちの仕事はその時点で、まだ終わったわけではないのだ。これでは仕事の領域の拡大ではなく、縮小だ。……ま、食い物の恨みで言っているわけではないが。
さて、来週はぼく自身が人前で話をする番。面白みに欠け、完成度が低いなどと誰かの日記に書かれそうで怖い。
2004/11/8 23:49
再び書誌 読書
高橋源一郎の公式サイトの日記に、斎藤美奈子から中沢新一『対称性人類学』(講談社選書メチエ、2004)が現代小説の公式をすべて解明していると言われ納得した、と記されていたので、そういえばこのところ、以前ほど熱心に中沢をチェックしていなかったと思い至って買う。ついでに、イタロ・カルヴィーノ『レ・コスミコミケ』米川良夫訳が、ハヤカワepi文庫として出ていることを知り、購入。これは、まだ絶版になる前にハヤカワ文庫で手に入れてはいたのだけど。ともかく、装いも新たにこうしてこの傑作短編連作が入手できるようになったことは、何をおいても慶賀すべき。このサイトを訪れるすべての人にお薦めする。
さて、中沢新一。『緑の資本論』のときだったか、当時同僚のN氏が、教授会前に生協で入手してちょっと目を通したばかりだったらしく、「なんのかんのと言っても、ニューアカの人って上手いなと思う」と感慨深げに言っていたのを思い出す。実際、上手いんだよな。
西垣通は、『アメリカの階梯』に寄せてのインタビューで、進歩史観、モダニズムをあたかも無関係のもののように批判するだけでは立ち行かない現状について語りながら、今福龍太の「クレオール主義」や中沢の「対称性人類学」を、わずかに注目に値するものとして評価している。
今福龍太が共著書『ブラジル宣言』を上梓したとき、中沢新一はどこだかの書評で、「文章もいい」と少し先輩ぶって(?)ほめていたのをぼくは不思議と憶えているけれども、今福といい中沢といい、唸らせる。彼らの文体(それが美しいと言っているのではない)の妙がなければ、おそらく現代の試練に耐えうる思考は展開できない。
ところで、西垣通。『アメリカの階梯』は彼の二冊目の小説だが、しかしぼくは前作『1492年のマリア』を買ったまままだ読んでいない。秋の夜長というけれども、読まねばならない分量に比して、夜はあまりにも短い。
さて、中沢新一。『緑の資本論』のときだったか、当時同僚のN氏が、教授会前に生協で入手してちょっと目を通したばかりだったらしく、「なんのかんのと言っても、ニューアカの人って上手いなと思う」と感慨深げに言っていたのを思い出す。実際、上手いんだよな。
西垣通は、『アメリカの階梯』に寄せてのインタビューで、進歩史観、モダニズムをあたかも無関係のもののように批判するだけでは立ち行かない現状について語りながら、今福龍太の「クレオール主義」や中沢の「対称性人類学」を、わずかに注目に値するものとして評価している。
今福龍太が共著書『ブラジル宣言』を上梓したとき、中沢新一はどこだかの書評で、「文章もいい」と少し先輩ぶって(?)ほめていたのをぼくは不思議と憶えているけれども、今福といい中沢といい、唸らせる。彼らの文体(それが美しいと言っているのではない)の妙がなければ、おそらく現代の試練に耐えうる思考は展開できない。
ところで、西垣通。『アメリカの階梯』は彼の二冊目の小説だが、しかしぼくは前作『1492年のマリア』を買ったまままだ読んでいない。秋の夜長というけれども、読まねばならない分量に比して、夜はあまりにも短い。
2004/11/6 22:10
新札ゲット! 日常
「ゲット」なんて、斎藤美奈子風に言えば「おバカな」単語を使ってしまったが、近所のスーパーでもらったおつりに、野口英世の新千円札発見。これまでより小さいように見えるのだが、手元には旧千円札がないので比べられない。
良きにつけ悪しきにつけ、楽天の参入で決着したパシフィック・リーグの再編問題。「決着した」と思ったら、ダイエーは揺れているし、西武は身売りするという。まだまだ予断を許さない、といったところ。しかし、「親会社」がひとつでなければならないというのがおかしな話で、複数のスポンサーによる独立の経営体という形をなぜとれないのか?
そんなさなかやっている日米野球。「日本」側にはアレックス・カブレラも張誌家もいない。「米」側には大塚だってビクトル・マルティネスだっているというのに。おまけに、ちょっとしたプレーにことさら「メジャーの凄さ」を読み取ろうとするTVのアナウンサーには閉口する。ぼくは忙しいのだ。仕事に戻ろう。
良きにつけ悪しきにつけ、楽天の参入で決着したパシフィック・リーグの再編問題。「決着した」と思ったら、ダイエーは揺れているし、西武は身売りするという。まだまだ予断を許さない、といったところ。しかし、「親会社」がひとつでなければならないというのがおかしな話で、複数のスポンサーによる独立の経営体という形をなぜとれないのか?
そんなさなかやっている日米野球。「日本」側にはアレックス・カブレラも張誌家もいない。「米」側には大塚だってビクトル・マルティネスだっているというのに。おまけに、ちょっとしたプレーにことさら「メジャーの凄さ」を読み取ろうとするTVのアナウンサーには閉口する。ぼくは忙しいのだ。仕事に戻ろう。



