2006/10/29  23:38

永遠の愛を思う  読書

ガブリエル・ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』木村榮一訳(新潮社、2006)がもう書店に並んでいた。

1985年出版の恋愛小説。コレラが流行した時代に活躍して地方の名士となった医師フベナル・ウルビーノ博士の葬儀の日に、妻のフェルミーナ・ダーサがフロレンティーノ・アリーサにこの日を半世紀(51年9ヵ月と4日)待っていた、と求婚される。これが導入の第一章(数は打っていないけど)。そしてその半世紀ほど前の若い恋の顛末と挫折が描かれ、その後この日までの2人の人生が語られていく。最後の4分の1ほどで老いらくの恋の行く末も語られる。500ページばかりの読み応えのあるラブ・ストーリーだ。ガルシア=マルケスの最高傑作という人もいるとか。

この作品の最大の面白みは、とても慎ましやかなストーカーとでも言いたくなるフロレンティーノのキャラクターなのだが、こうした人物に焦点化されることによって、ここで語られる恋愛はとてもユニークな様相を呈してくる。要するに、報われた愛=両思いの恋amor correspondidoが、文通correspondenciaによる恋と勘違いされるのだ。それが絶妙な関節外し。

 恋狂いの一年だった。二人は毎日相手のことばかり考え、相手の夢を見、手紙を書いては返事がくるのを一日千秋の思いで待ち受けた。恋に狂ったあの春はもちろん、その翌年も、二人は面と向かって話をする機会に恵まれなかった。それどころか、はじめて会ってから彼が自分の変わらぬ決意を彼女に向かってふたたび繰り返すまでに半世紀の時が過ぎ去り、その間、二人きりで会ったことも、自分たちの恋について話し合ったこともなかった。最初の三ヶ月間は毎日欠かさず手紙をやり取りしたし、一時は日に二度手紙を出すこともあった。(106ページ)
 

ね? 手紙を書くことだけが恋の中身だったと言っているでしょう? 原文はそのことがもう少し強調されているのだけど。恋に狂うということは、ただ、相手のことを思い、夢見、手紙を待ち焦がれ、同じくらい焦がれて返事を書くことだけだけだ、という内容なのだ。つまり、(思慕と)文通こそが恋愛だということ。

事実、50数年後の2人にはもう電話という連絡手段もあるのに、わざわざフェルミーナがフロレンティーノに電話では連絡するなと手紙を送るのだから(453ページ)。

加えて上の引用には、手紙を待つことと書くことに比べて読むことは重要ではないとする態度が書きつけられている。これは前作『予告された殺人の記録』から引き継ぐモチーフだろうな。読むことは重要ではないから、次のようなことが起こる。長い回想が終わり、老いた2人の再会直後に戻ったときの話。

 フェルミーナ・ダーサは盲目的な怒りに駆られてあの手紙を書いた。まさかそれをフロレンティーノ・アリーサがラブ・レターとして受けとるとは夢にも思わなかった。彼女はその手紙に精一杯怒りをこめて、残酷この上ない言葉や、相手を傷つけるだけでなく、ひどく一方的なののしりの言葉を書きつけた。自分が受けた恥辱の大きさに比べればそれでもまだもの足りないくらいだった。彼女にしてみれば、怒りをこめた最後の悪魔祓いの儀式だった。(402ページ)
 
ちょっと手紙の内容を記す日本語の構文がゆれているようにぼくには思われるが、要するに、内容が問題なのではなく、手紙を書き、送るという行為こそがそれだけで恋愛の行為であるということ。そうした意味を例示するエピソード。書くことに関しては、この小説はもっと大きな話につながるエピソードを有しているのだけど、それを書いちゃったら、「ネタバレ」だと非難されるのだろうな。

ぼくは以前「恋愛、植民地、小説」という論文シリーズを計画し、全4章の最終章を、この小説についての考察に充てるつもりで準備していた。最初の2つの章をコンパクトにしたやつと第3章は発表したのだけど、この部分は口頭発表だけして活字化していない。うまく他と繋がりをつけてまとまりを与えられないでいるのだ。その扱いはともかくとして、口頭発表ではこんなことを話したのだった。

2006/10/24  17:38

腰の重みと漢字の官能性  読書

腰痛で動けなくなっていた昨日、急激にアクセス数が伸びたのだが、これはどうしたことか? 以前同様のことが起こったときには、ある人気ブログにトラックバックしたからだった。今回はそんなことをしていないから、どこかの人気サイトがリンクでも貼ってくれたのか?

ぼくはログ解析などしていないので、足跡を辿ることはできない。そのつもりもないわけで、その代わり空想する。

第一の可能性: 時節柄、「時代祭り」に触れたから。しかし、時代祭り触れたものなど山とある。検索したって上位に示されるわけではない。したがって、この仮説は却下。

第二の可能性: 銀閣寺に触れたから。同上。

第三の可能性: 若島さんや管さんの名前を挙げたから。いずれも万の単位のヒット数になるお2人の名前に関しては、上の2つの例同様のことが言える。却下。

第四の可能性: やはりこれしかありえないだろうな。タイトル。タイトルに「指の悪戯」などと入れたせいだ。「指の悪戯」。電車の中で中年男性が読んでいる夕刊紙に掲載の官能小説みたいだ。エロは強い。そんなわけでアクセス数の急増とあいなった……のではないだろうか?

「悪戯」。実際は「いたずら」の方がなまめかしいように思うのだが、それはぼくの個人的な感覚。官能モノは暴走族の落書きと同じで、漢字を比較的よく保存している。漢字にある種の美を見出しているかのようだ。まあ確かに、「淫靡」なんて漢字は、本当にいんびな感じだ。

逆に言えば、どちらかというとシリアスな出版物は、漢字使用が少なくなっているのが昨今の実情。先日京都で見た看板に懐かしさを覚えたのは、「○○迄」と書いてあったから。「まで」だ。「或る」、「程」、「達」、「更に」……果ては……いや、はては「僕」、「私」すらも開く(ひらがなで書く)のが優勢になっている。あまり漢字が少なすぎても読む速度が落ちるのだけどな。

でもともかく、そんな事情に疎いのか、それとも変換ソフトがかってに変換してくれるからか、学生のレポートなどには、今ではあまり見なくなったそれらの漢字が散見される。石原千秋は一応最近ではひらがなの方が優勢だよとほのめかすくらいのことはすると書いていた。

メキシコの夢をふたつ: 岡谷公二『アンリ・ルソー 楽園の謎』(平凡社ライブラリー、2006)は、新潮選書、中公文庫についで平凡社で復刊されたもの。「税関吏ルソー」の評伝だが、彼がナポレオン三世のメキシコ遠征に参加し、それが熱帯のジャングルへの目覚めの契機になったとする虚構の「伝説」について、当の本人がそれを信じていたのだと主張している。

『メキシコの夢』を書いたル・クレジオは、今年1月に来日、外語大と一橋大でシンポジウムが組まれた。それを基にした『現代詩手帖』の特集版が『ル・クレジオ 地上の夢』(思潮社、2006)。ここには1977年に同誌が組んだル・クレジオ特集の記事が載っている。寺山修司と豊崎光一の対談だ。その前に寺山はバルセローナで作家と共に過ごしてインタビューし、他の雑誌に掲載していたとのこと。中学生や高校生で、ぼくがまだル・クレジオを知らなかったころの話。

ぼくが中学時代を生きた島に、今福龍太に誘われて行ったル・クレジオは、そこでその地のいたるところに生えているバナナの木をみつけ、それをひと房買い求め、移動の途中に食べていたという。その植物はバシャと呼ばれるもので、要するに、芭蕉。それを知って喜んだと、今福氏は報告している(101ページ)。

2006/10/22  23:03

邪悪な指の悪戯の話をした  業務

21日(土)は日本イスパニヤ学会第52回大会@同志社大学。

かねて予告のとおり、シンポジウム「多言語文学への挑戦」にコメンテーターとして参加。もっと言えば、理事会、総会、シンポと、フルで参加というわけ。

若島正さんは生真面目そうな風貌ながら、さすがは『煙に巻かれて』の翻訳者、たくまざるユーモアを感じさせる語り口で「ナボコフと多言語」「カブレラ=インファンテと多言語」「翻訳」という順番で話された。

管啓次郎さんはエドゥアール・グリッサンの小説『第4世紀』分析の原稿をきっちり用意してきて読み上げた。

ぼくはかつて「コメンテーター」と銘打ちながら、要するに質問役だと自認した。が、考えてみたら質問が苦手なのだった。質問というよりは話をある方向に向ける呼び水のような話をして管さんにさらに話していただくよう努めた。つもり。

今日はいくつかの研究発表を聞いたり、友人と食事したり、銀閣寺など訪ねてみたり。
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そして時代祭りに巻き込まれてみたり。
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時代祭りに重なったせいで、ぼんやりしているとホテルが取れないという状態だった。通常泊まるリーズナブルなやつでなく、高い五つ星のものしか残っていなかった。新幹線とのパックで割安とは言え、出張費を使っても足が出るというやつ。でもまあ背に腹は換えられず、そこを予約した次第。たまに泊まると五つ星もいいものだ。

2006/10/18  23:55

あなたはどっち派?  読書

まあゲスト・スピーカーでもなし、基調報告をするわけでもないので、講演原稿を作る必要もないだろう。が、それでも色々と考えて準備をして行こうとは思う。今週末のシンポジウムの話。で、ともかく、マリーズ・コンデとかグロリア・アンサルドゥーアとミシュリーヌ・デュセック(ハイチで生まれ育ってスペインに住み、スペイン語で小説を書いている作家)とを読み比べてみたり、ナボコフに目をやったり、グリッサンのフォークナー論のスペイン語訳をめくったりしている。

ところで、人前で話す際、ぼくは原稿を書いたためしがない。話すことの即興性を大切にしたい……などと言えば聞こえはいいが、要するに原稿を読むのが下手なのだ。自分で書いたものながら、茶々を入れたくなる。修正を加えずにはいられない。通常はアウトラインと絶対に忘れてはならない事実を示したメモだけを手に話す。

そんなぼくよりもよほどインプロヴィゼーショナルに話しているのだろうと思ったある人が、ちゃんとカードに書いてきたメモをもとにしゃべっているのに気づいて、なんだかよこしまな喜びとでも言うべきものを感じたこともある。実際のところの理想は、ただ手ぶらでことに臨み、立て板に水で堂々としゃべるというものではあるのだな。でなかったら、講演が終わったところでもういつでも本にできる状態になっているほどの完璧な原稿を朗々と読み上げるか。2つの端のいずれにも到達できないから、中途半端に苦しんでいる。

今日、大学に行ったら数台のバスを連ねて大量のアスリートたちがやってきた。驚いた。何のことはない、(最後の、なのか?)外大戦にやってきた大阪の学生たちであった。東京と大阪の2つの国立(法人)外国語大学が毎年行う対抗戦

2006/10/10  23:52

告知  分類なし

もうプログラムが届いたし、それに基づいて出張費申請もしちゃったので、観念して、告知です。

これ。

今年のイスパニヤ学会初日のシンポジウム。「多言語文学への挑戦」と題して、メインのゲストに若島正、管啓次郎の両氏を迎え、「コメンテーター」として会員の側から3人が壇上に上がるという催しです。

若島、管なんてすばらしい2人がいるのだから、ぼくは不要だと思うので、なるべく彼らに語らせるような質問をしよう、でも何言えばいいんだろう、と今から心配です。

最近少し体調が後退ぎみ。単に授業に対する拒否反応か?

2006/10/8  14:02

日曜の朝、悪魔がささやく  読書

昨日は法政時代の教え子の結婚式、披露宴、その二次会。酔っ払って早く寝たので、日曜だというのに早起きした。

日曜の新聞はなるべく朝から読まないようにしている。書評欄はともかく、それにあわせるように新刊書の広告が並んで、そのまま買いに出てしまいそうだからだ。そんな気遣いをしているのに、早起きしたせいで、@ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス――資本主義と分裂症』上下巻、宇野邦一訳(河出文庫)、A阿部和重『シンセミア』T・U(朝日文庫)、B大江健三郎『大江健三郎往復書簡集 暴力に逆らって書く』(朝日文庫)、以上の文庫本の広告を見つけてしまい、買いに出た。すると、C矢作俊彦『ららら科学の子』(文春文庫)――「学」は正字――、D斎藤美奈子『文壇アイドル論』(文春文庫)、そして文庫本ではないがEウディ・アレン『漂う電球』鈴木小百合訳(白水社)なども見つけて買ってしまった。

@はドゥルーズ+ガタリの『千のプラトー』に並ぶ大作。ドゥルーズおよび+ガタリは『差異と反復』、『襞』(ライプニッツとバロックという副題なので)、『カフカ――マイナー文学のために』といったものは持っているのだが、この『アンチ・オイディプス』を持っていなかった。ここで展開された「資本の脱領土化」という考え方を、ネグりとハートの『帝国』は大いに利用している。ドゥルーズ+ガタリは、一方、「脱領土化」の概念を「言語の脱領土化」とパラレルに考えていたに違いなく、こちらは『カフカ』で展開している。「言語の脱領土化」という作業を意識化して推進を唱えたのがアントーン・シャマースで、サイードはその方向性を「絶対的に正しい」と評価していた。そうした「言語の脱領土化」についてぼくは、以前、メキシコの独立期の思想家セルバンド・テレサ・デ・ミエルのテクストとの兼ね合いで書いたことがあるけれども、それはまた別の話。ともかく、そのとき、この『アンチ・オイディプス』の当該箇所を参照したはずなのだが、そのときは図書館ででも読んだのだろう。

Aはデビュー以来、比較的注目してきた作家の、分量においても内容においてもこれまでの代表作というべきもので、既に単行本発行時に読んでいるし、そのことはどこかに書いてあるはず。それがついに文庫化され4分冊になる(V、Wは来月刊)ことは本人のサイトで見ていた。それが出たので。Tの巻末には地図と年表が、Uの巻末には仏訳者ジャック・レヴィによる「解説」がついている。その最初の一文が、阿部のこの小説を実にうまく形容している。

 延々と脱線されてゆくストーリー、行方不明となる登場人物、破綻を運命付けられた構想といった、長編小説においては決して珍しくない、弱点とも魅力とも取れるゆがみとまったく無縁である――これが、この膨大な書物を読み終えて覚えた最初の印象であった。つまり、まずは小説の長さよりもその簡潔さに驚かされたわけである(287  下線は原文の傍点)。
 
Bはかつて『朝日新聞』に断続的に連載されていた、グラス、ソンタグ、バルガス=リョサといった人々との往復書簡集。

Cはそのきれいな装丁も単行本初版と統一されて美しいが、Dは当初、岩波書店から発行されたもの。岩波はさすがにこうしたものは文庫にしないのか? 「現代文庫」でも?

Eは、以前広告を見て、買わなきゃと思ったまま忘れていたもの。ケラリーノ・サンドロヴィチが現在、舞台にかけているウディ・アレンの戯曲。

2006/10/7  12:15

記憶ってあやふやなものなのね  映画、その他

授業が始まった。いつものことながらあたふたしている。

わけあって主に学生向けにペドロ・アルモドーバルを紹介する文章を書かねばならず、書いてみた。思い入れたっぷりに。

アルモドーバルの日本初公開作品は『マタドール』(1986)(公開時邦題:『マタドール〈闘牛士〉――炎のレクイエム』)。これに字幕をつけるための下訳を友人たちが2、3人で作っていた。ぼくは参加しなかったけれども、そのうちのひとりが仕上げの段になって、当時無理して買ったばかりのビデオデッキを頼ってそのビデオを観に来たことがある。ビデオを買ったばかりだから、88年後半以後ということになる。住んでいたアパートから言っても、88-91年の間だ。2回めの大学4年か、大学院修士課程の学生のころの話。もう大学院に入っていたのだかいないのだか、判然としない。当時のノートも探したが、ちゃんと書いていなかった。しかし、今回の文章には「大学院の学生だった」と書いた。

前後関係は実はよく覚えていないが、すぐに『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(1987)が紹介され、『バチ当たり修道院の最期』(1983)が回顧され、『欲望の法則』(87)が映画祭上映されたように思う。『アタメ』(1990)は完成後時間を置かずに公開されたから、88,89年から90年にかけて、アルモドーバルは集中的に日本に導入されたはずだ。そう思って調べてみると、映画関係のデータベース(『キネマ旬報』や『ぴあ』のそれ)には、『マタドール』が日本初公開作品だとは書いてあるが、その「初公開」がいつのことかは書いていない。ちょっと不安になった。

とあるサイトで見つけたところによれば、『マタドール』と『神経衰弱―』が89年、『欲望の法則』は90年のこととなっている。『マタドール』は89年2月とのことだから、翻訳をしていた友人の来訪はそれよりもちょっと前、つまり、88年末ごろのはずで、ということはぼくは大学院生ではなかった!

どうしよう。嘘を書いてしまった。

でもまあ、書き終えたばかりのアルモドーバルの紹介文は、個人的な彼のフィルムとの邂逅を語りながら、自分自身に関してはわずかなフィクションをまじえている。友人がぼくにビデオを見せたのは、彼がデッキを持っておらず、ぼくが持っていたから。音声だけで脚本との異動を確認していた彼が、さすがに映像を見ないと確信できない部分を残していたから。それなのに紹介文には「面白いのが当たったから見てみるといいと薦めた」と書いた。『欲望の法則』のホモセクシュアルのセックスシーンのせいで「同行の女性との仲が気まずくなったような気がした」と書いた。実際はスペイン映画祭のような催し物での上映で、「同行の女性」とは会場で会った大学の後輩のことだし、われわれはそのシーンについて面白おかしく語り合ったはずだ。

紹介される対象、この場合、アルモドーバルについてこちらの意図によって事実を歪曲していないのだから、個人的思い出を装うに少しフィクションをまじえるのはとがめられることではない……と思うのだがな。

今日はこれから教え子の結婚式。

2006/10/3  23:52

後期開始  読書

授業が始まった。ぼくの担当の授業はまだ始まらない。

I・ブルマ&A・マルガリート『反西洋思想』堀田江理訳(新潮新書、2006)なんて本を買ってしまったのは、あとがきにこれがOccidentalism という本の翻訳だと書いてあったからだ。ちゃんと内容も吟味すべきだったのだ。James G. Carrier ed., Occidentalism: Images of the West(Cambridge, Oxford U. P., 1995)と勘違いしてしまったのだ。この中の論文のいくつかは読んでいたし、だからそのうちのひとつが今年の後期日程入試に出されたことも知っているのだけれども。ちゃんと中身にも目を通すべきだったのだな。

広島大学総合科学部101冊の本プロジェクト編『大学新入生に薦める101冊の本』(岩波書店、2005)の第5章「本の買い方選び方」(難波紘二執筆)には「外国語の本を読もう」という節に、「早い話が、邦訳書名を覚えていても、原題と違っていれば、外国人と話は通じません」(245)なんて書いてあるが、原題が同じで内容がまったく違っていれば、やはり話は通じません。難波さんの指示に従い、目次やら索引などをちゃんと確認すべきだったな。

さて、その『オクシデンタリズム』、

「敵」によって描かれる非人間的な西洋像のことを、私たちは本書で「オクシデンタリズム」と呼んでいる。こうした偏見の数々を検討し、その歴史的ルーツをたどろうというのが、この本の試みである。(17)

というのが序章に掲げられた趣旨なのだが、「反西洋」も「反アメリカ」も一緒くたにして、戦前の日本の「近代の超克」論争の隣にオサマ・ビン・ラディンの言葉が並べられたりしている。「反アメリカ」で「汎西洋」の思想が確実に存在していたし、たとえば「グローバリズム」の文脈からもアメリカ的なるものに対するオールタナティヴとしてのヨーロッパを云々する人もいるのであって、そんな例を前にすればいささか乱暴ではあるまいかと思うのだった。

第1章「西洋の都市」でも、ベルリンとヒトラーの関係をタリバーンとカブールの関係と並列に論じながら、そうした並列を進めてサラエボを破壊したのはニコラ・コルジェヴィッチという「シェークスピア学者」だったとほのめかしても(79-80)、そのほのめかしがこの「オクシデンタリズム」と洋の東西の都市の関係とにどのようにつながる話なのか、ちゃんと説明がないものだからはぐらかされる。この本が「想像力に富み、スタイル的にも洗練された作品」(244 下線引用者)などと腑抜けた日本語で評する訳者には面白いのかもしれないけどな、……うーむ。

発想はいいとしても、要するに、扱うテーマのわりに薄っぺらく、記述が不十分なのだな。価値づけが先行し、分析を欠く。分析を欠けば説得力がない。

同じ新書でも、もっと厚くして、為政者(独裁者)と都市との関係(『オクシデンタリズム』が第1章で扱っていたこと)を論じた井上章一『夢と魅惑の全体主義』(文春新書、2006)は数倍も読み応えがある。写真もふんだんで見ごたえもある。ポルフィリオ・ディアスとメキシコ市の関係について、かつて落合一泰は仔細に分析していたが、井上のこの本はヒトラーとベルリンやニュルンベルグ、スターリンとモスクワなどの関係を扱っている。ムッソリーニも射程に入っているが、「スペインのフランコ体制へ言及できなかったことも、ざんねんでならない」(419)とは著者。読者としてもざんねんでならない。しかしまあ、建築家になりそびれたヒトラーが次々と大建造物を作り、都市のあり方を夢想する、その夢想の内容を証拠を積み重ねながら夢想するくだりは面白い。

昨日は学生たちとの食事、明日は大学院教授会、明後日から授業が始まる。準備は大丈夫か?

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