2008/7/30 23:44
譫妄の中で過去について考える 読書
かれこれ一週間ばかりも風邪薬を飲んでいる。熱帯夜で寝苦しく、睡眠不足が続いてることもあってか、風邪薬の副作用としての眠気にはあらがえない。始終うつらうつらしている。眠気の中で何かの作業をしようとすると、ときに幻覚を見、幻聴を聞き、明日と昨日が交錯し、それはそれで楽しいのだが、作業効率は落ちる。ぼくは果たしてこの数日、何をやってきたのか?
ここ20数年、ぼくは何をやってきたのか? と思ったのは、わけあって大学生のころのノートを見ていたから。2年生の学年末、なにかのレポートに使ったのだろうか? ぼくはA・G・フランクとかカール・ポランニーとかを読み、引用し、コメントし、なにやら批評を展開していた。それが的を射ているとは思わないけれども、少なくともぼくはそれらを読んで偉そうなことを書いていた。そんなこと、すっかり忘れていた。
そのさらに20数年前、生まれたころのことなどわからないなと思ったのは、大塚英志『初心者のための「文学」』(角川文庫、2008)の李恢成を論じた章の導入で、大塚の子ども時代の遊び仲間には、外国生まれが多かったと書いてあるのを読んだからだ。つまり、引き揚げ者。おたく世代と言われながら、「実を言えばぼくの生い立ちはむしろ戦後の時代の最後尾に位置します」(139)。
今日見返したノートにを書いていたころ授業を受けていたぼくの先生は1940年生まれで、当時としては若い方。が、冷静に計算すれば1940年というのは太平洋戦争以前なのだった。大塚より5歳年下のぼくにはもう引き揚げ者の記憶はない。そうした距離感はなかなかわからないものだ。
ここ20数年、ぼくは何をやってきたのか? と思ったのは、わけあって大学生のころのノートを見ていたから。2年生の学年末、なにかのレポートに使ったのだろうか? ぼくはA・G・フランクとかカール・ポランニーとかを読み、引用し、コメントし、なにやら批評を展開していた。それが的を射ているとは思わないけれども、少なくともぼくはそれらを読んで偉そうなことを書いていた。そんなこと、すっかり忘れていた。
そのさらに20数年前、生まれたころのことなどわからないなと思ったのは、大塚英志『初心者のための「文学」』(角川文庫、2008)の李恢成を論じた章の導入で、大塚の子ども時代の遊び仲間には、外国生まれが多かったと書いてあるのを読んだからだ。つまり、引き揚げ者。おたく世代と言われながら、「実を言えばぼくの生い立ちはむしろ戦後の時代の最後尾に位置します」(139)。
今日見返したノートにを書いていたころ授業を受けていたぼくの先生は1940年生まれで、当時としては若い方。が、冷静に計算すれば1940年というのは太平洋戦争以前なのだった。大塚より5歳年下のぼくにはもう引き揚げ者の記憶はない。そうした距離感はなかなかわからないものだ。
2008/7/29 10:52
宿題 告知
「日本ラテンアメリカ学会 会報」2008年7月25日号が届く。「近著紹介」の欄には林みどりによる『ラテンアメリカ主義のレトリック』の紹介というか、書評というか、そういうものが載っていた。
そこに、「『モデルニスモの詩の美しさ』を理解せず、ポピュリズム的デマゴーグと『言葉の可能な限りのパフォーマンスを引きだす作業としての文学作品』を区別できないと、いささか不当に揶揄されている数多の非文学研究者」云々という文言があった。つまり、ぼくは「数多の非文学研究者」を「いささか不当に」、君たちはものが読めていないよ、と「揶揄」したというのだな。
へへへ。ばれちゃった。
さすが、『接触と領有』で19世紀のテクストについての刺激的な読みを敢行した人物には叶わねえな。もちろん、こんな人がいるのだから、ぼくの「揶揄」は「不当」です。認めます。
で、出された「宿題」:「OK、ラテンアメリカ主義言説は批判されねばならぬ。だがその後に『わたし』が立つべき言説の外部はあるのだろうか? あるとすれば、どこに?」
……うーむ。難問だ。
とりあえず、今のところのぼくは、ここで展開した言説批判をそれとして保持しつつ、その言説の内部に(外部ではなく)積極的に入り込むことをやってみようかなと試みている次第。つまり、これは「紋切り型」=「共通の場所」だよと示しながら、じゃあ「共通の場所」なんだったら、ぼくがそこを使ってもいいのだよね、使ってみようか、という態度。
月曜日は会議。火曜日も会議。水曜がなくて木曜日は学生との面会がひとつふたつ。やれやれ、いつ仕事をすればいいのだろう?
と思ってさっき、少ししてみた。ホセ・ルイス・クエルダ『蝶の舌』で、主人公の兄アンドレスが、バンドの演奏中、一目惚れした他人の妻に見られていることを知り、とっさに立ち上がってソロを取るシーンがある。そこでの曲目が「エン・エル・ムンド」で、これがこの曲であることがこの映画がビクトル・エリセへのオマージュであることを確信させる、などと書き付け(この一文だけが書き残してあった)、送付。送付する前に、『エル・スール』で流れていたのもこの曲だったよな、間違いないよな、確かめなきゃな、と思って確かめた。
間違いはなかったのだが、おかげで、問題のシーンだけでなく、結局、全編を見なおすこととなった。
……仕事しなきゃ。
そこに、「『モデルニスモの詩の美しさ』を理解せず、ポピュリズム的デマゴーグと『言葉の可能な限りのパフォーマンスを引きだす作業としての文学作品』を区別できないと、いささか不当に揶揄されている数多の非文学研究者」云々という文言があった。つまり、ぼくは「数多の非文学研究者」を「いささか不当に」、君たちはものが読めていないよ、と「揶揄」したというのだな。
へへへ。ばれちゃった。
さすが、『接触と領有』で19世紀のテクストについての刺激的な読みを敢行した人物には叶わねえな。もちろん、こんな人がいるのだから、ぼくの「揶揄」は「不当」です。認めます。
で、出された「宿題」:「OK、ラテンアメリカ主義言説は批判されねばならぬ。だがその後に『わたし』が立つべき言説の外部はあるのだろうか? あるとすれば、どこに?」
……うーむ。難問だ。
とりあえず、今のところのぼくは、ここで展開した言説批判をそれとして保持しつつ、その言説の内部に(外部ではなく)積極的に入り込むことをやってみようかなと試みている次第。つまり、これは「紋切り型」=「共通の場所」だよと示しながら、じゃあ「共通の場所」なんだったら、ぼくがそこを使ってもいいのだよね、使ってみようか、という態度。
月曜日は会議。火曜日も会議。水曜がなくて木曜日は学生との面会がひとつふたつ。やれやれ、いつ仕事をすればいいのだろう?
と思ってさっき、少ししてみた。ホセ・ルイス・クエルダ『蝶の舌』で、主人公の兄アンドレスが、バンドの演奏中、一目惚れした他人の妻に見られていることを知り、とっさに立ち上がってソロを取るシーンがある。そこでの曲目が「エン・エル・ムンド」で、これがこの曲であることがこの映画がビクトル・エリセへのオマージュであることを確信させる、などと書き付け(この一文だけが書き残してあった)、送付。送付する前に、『エル・スール』で流れていたのもこの曲だったよな、間違いないよな、確かめなきゃな、と思って確かめた。
間違いはなかったのだが、おかげで、問題のシーンだけでなく、結局、全編を見なおすこととなった。
……仕事しなきゃ。
2008/7/26 21:34
夢の後 日常
昨日、400字詰めにして4枚ばかりの軽い文章を仕上げ、送付。『ラテンアメリカ主義のレトリック』を自ら紹介しつつ、思いがけない出会いを喜ぶセレンディッポの王子様の幸せを語ったもの。
その後、ある仕事の必要性から大量の他人の論文を片っ端から読む。読む。読む。それでもまだ読み切れない。
半分以上はこんな機会でもなければまずぼくには無関係なこととして読まずに済ませただろう文章の数々だ。ぼくの知らない世界に関して、これだけの労力がつぎ込まれ、これだけの成果が産み出されている。彼/彼女らの夢。
杉浦さんを偲ぶ会を開こうとの話が持ち上がり、呼びかけ人に名を連ねる。急なことだが、良かったら、ぜひ……
その後、ある仕事の必要性から大量の他人の論文を片っ端から読む。読む。読む。それでもまだ読み切れない。
半分以上はこんな機会でもなければまずぼくには無関係なこととして読まずに済ませただろう文章の数々だ。ぼくの知らない世界に関して、これだけの労力がつぎ込まれ、これだけの成果が産み出されている。彼/彼女らの夢。
杉浦さんを偲ぶ会を開こうとの話が持ち上がり、呼びかけ人に名を連ねる。急なことだが、良かったら、ぜひ……
2008/7/22 23:58
訃報はいつも突然 話題
今日、同僚の杉浦勉さんの訃報が届いた。昨日亡くなったとのこと。1月に緊急手術の必要な病気が見つかり(病名は教えてくれなかった)、入院、再入院して、新学期を迎えた。しばらく授業をやっていたが、6月末か7月くらいから、レポートの課題と締め切り日だけを言い残して、何度目かの入院。そして、今日の知らせ。カルペンティエールの2作の小説と『セレスティーナ』、そしてブニュエル著作集の翻訳、2冊の編著書などを残した。未来社のPR誌『未来』に連載していた文章が、うまくいけば本にまとまるかもしれないとおっしゃっていたが、それがまとまる前に亡くなった。
こんな日に、風邪気味で身体はずんと思い。
こんな日に、風邪気味で身体はずんと思い。
2008/7/21 9:59
なんでもいいから件名を書く 読書
昨日、件名が書いていない、云々というパッセージを書きながら、何か思い出しそうで思い出せなかったこと。
外山滋比古『思考の整理学』(ちくま文庫、2008)だ。
今さらこうした知的生産のためのマニュアル本など、ぼく自身は読み飽きているのだけども、毎年毎年卒論やら修士論文やら博士論文やらについての相談を持ちかける学生がいるし、万人に有効なアドヴァイスなどできないのだから、何かヒントがないかと思い、ついつい買ってしまうのだな。
で、そこに、実際、ノートやカードの活用を論じながら、「いずれにしても、見出しのついていないカードは闇夜のコウモリのようなものだと考えてよい」(88)と書いてあったのだ。大いに賛成。そしてメールにも件名をつけてね。つまり見出しを。
今さらこうした知的生産のためのマニュアル本など、ぼく自身は読み飽きているのだけども、それぞれの本がそれぞれを特徴づける性格を持っていたり、何か目から鱗が落ちるような一節があったりするものだから、それぞれの存在理由があるというもの。本屋でパラパラとめくったときにこの本を買うことにした理由は、面白い一文があったから。
夜に書いた手紙などは、一晩経つと気恥ずかしく思われるという話をしながら、外山は仕事は朝やったほうがいいという結論にいたり、朝方に切り替える。「朝飯前」のたとえを出して、仕事は朝食前の時間にすることにしたらしい。『ラテンアメリカ主義のレトリック』でも書いたとおり、多産な作家は朝に仕事をするものだ。が、外山もぼく同様、大して早起きではない。
ブランチなどという単語を引きながら、「ひるまではすべて朝飯前の時間」と言ってのけるのだから、外山滋比古、なかなかである。
外山滋比古『思考の整理学』(ちくま文庫、2008)だ。
今さらこうした知的生産のためのマニュアル本など、ぼく自身は読み飽きているのだけども、毎年毎年卒論やら修士論文やら博士論文やらについての相談を持ちかける学生がいるし、万人に有効なアドヴァイスなどできないのだから、何かヒントがないかと思い、ついつい買ってしまうのだな。
で、そこに、実際、ノートやカードの活用を論じながら、「いずれにしても、見出しのついていないカードは闇夜のコウモリのようなものだと考えてよい」(88)と書いてあったのだ。大いに賛成。そしてメールにも件名をつけてね。つまり見出しを。
今さらこうした知的生産のためのマニュアル本など、ぼく自身は読み飽きているのだけども、それぞれの本がそれぞれを特徴づける性格を持っていたり、何か目から鱗が落ちるような一節があったりするものだから、それぞれの存在理由があるというもの。本屋でパラパラとめくったときにこの本を買うことにした理由は、面白い一文があったから。
夜に書いた手紙などは、一晩経つと気恥ずかしく思われるという話をしながら、外山は仕事は朝やったほうがいいという結論にいたり、朝方に切り替える。「朝飯前」のたとえを出して、仕事は朝食前の時間にすることにしたらしい。『ラテンアメリカ主義のレトリック』でも書いたとおり、多産な作家は朝に仕事をするものだ。が、外山もぼく同様、大して早起きではない。
英雄的早起きはできないが、朝のうちに、できることなら、朝飯前になるべくたくさんのことをしてしまいたい。それにはどうしたらいいのか。答は簡単である。
朝飯をぬけばいい。(25)
ブランチなどという単語を引きながら、「ひるまではすべて朝飯前の時間」と言ってのけるのだから、外山滋比古、なかなかである。
2008/7/20 16:44
持ちつ持たれつ 告知
金曜日発売だと思うが、『週刊読書人』、今週号に伊高浩昭さんによる『チェ・ゲバラの記憶』の書評が載った。「研究者には読了済みの内容が多いと思われるが、一般の読者には〈初物〉で、新鮮さがあるだろう」とのこと。ヘスス・モンタネの序文のあるひと言に興味を持ったとの内容を展開していて、さすが。
金曜日、変なメールが舞い込んだ。ここの親サイトcriollismo.netには封筒のGIFアニメがあって、そこをクリックするとメーラーが立ち上がり、ぼくのホットメールのアドレスへのメールが送られるようになっている。どうもそうやって送ってきたらしい。
まず、件名が書いていなかった。これだけですでにぼくは腹を立てている。件名(タイトル)をつけないメールなど読んでたまるかという思いがある。
次に、宛名書き。「管理人さま」と書いてある。アパートのコンシエルジュか何かに対するような呼びかけだ。ぼくはこのブログであろうがサイト内であろうが実名を公表している。ちょっと調べればわかるはずだ。criollismo.netの「管理人」などとして認識されたのではたまったものではない。
一文め。「お世話になります」……まだ誰からのメールかもわからないのに、「お世話になります」だと。お世話になっていると思うのなら、お世話した者の名前くらい、ちゃんと入れろと言いたい。
それに続いて、「映画会社▼△▲▽の○○と申します」。「○○」の部分に人名らしきものが書いてあるのだが、苗字だけだ。フルネームではない。苗字はそんなにたくさんある苗字ではなく、二文字で、しかも二文字目が方角を表す漢字。一般名詞にも見える。地名にも見える。差し出す相手の名前も調べないようなやつならば、自分の名前すらないがしろにしているということか。
要するに、今度ある映画が上映される、ついてはそれをぼくのサイトで宣伝しろ、とのことらしい。名前もちゃんと調べなければ、ぼくの運営するサイトのあり方についても、何やら大いに誤解しているらしい。映画宣伝のサイトだとでも思ったか? それが少しでもエルネスト・ゲバラに関係していれば無条件で宣伝する場所だとでも見なしているのか?
ある人物に対して一銭の価値にもならない行動をしてもらうには、それなりの代価が必要であろう。映画の宣伝の場合だったら、試写会に呼ぶ、などというのが、一般的な「代価」だ。そうしたこともせずに無償でひとりの人間に広告媒体になれというのは、虫が良すぎるというもの。その程度のこともわからないかなあ。
ぼくはちなみに、試写会に呼べと言っているのではない。呼ばれれば嬉しいけど、呼ばれないことに腹を立てるほど自分を勘違いしてはいない。ただ、こうした礼儀をわきまえない人物の行動に腹が立ったと言っているだけ。死んでも宣伝などしてやるか。たとえオリヴェイラ『夜顔』(そういえば、つい最近、この話題があるところで出たのだった)の配給会社でも、宣伝などしない。
そうでなくても、観に行くつもりの映画なのだ。そして面白ければこの場でそれには触れる。いくらでも、結果的に、宣伝などすることになるのだ。まったく腹が立つ。
金曜日、変なメールが舞い込んだ。ここの親サイトcriollismo.netには封筒のGIFアニメがあって、そこをクリックするとメーラーが立ち上がり、ぼくのホットメールのアドレスへのメールが送られるようになっている。どうもそうやって送ってきたらしい。
まず、件名が書いていなかった。これだけですでにぼくは腹を立てている。件名(タイトル)をつけないメールなど読んでたまるかという思いがある。
次に、宛名書き。「管理人さま」と書いてある。アパートのコンシエルジュか何かに対するような呼びかけだ。ぼくはこのブログであろうがサイト内であろうが実名を公表している。ちょっと調べればわかるはずだ。criollismo.netの「管理人」などとして認識されたのではたまったものではない。
一文め。「お世話になります」……まだ誰からのメールかもわからないのに、「お世話になります」だと。お世話になっていると思うのなら、お世話した者の名前くらい、ちゃんと入れろと言いたい。
それに続いて、「映画会社▼△▲▽の○○と申します」。「○○」の部分に人名らしきものが書いてあるのだが、苗字だけだ。フルネームではない。苗字はそんなにたくさんある苗字ではなく、二文字で、しかも二文字目が方角を表す漢字。一般名詞にも見える。地名にも見える。差し出す相手の名前も調べないようなやつならば、自分の名前すらないがしろにしているということか。
要するに、今度ある映画が上映される、ついてはそれをぼくのサイトで宣伝しろ、とのことらしい。名前もちゃんと調べなければ、ぼくの運営するサイトのあり方についても、何やら大いに誤解しているらしい。映画宣伝のサイトだとでも思ったか? それが少しでもエルネスト・ゲバラに関係していれば無条件で宣伝する場所だとでも見なしているのか?
ある人物に対して一銭の価値にもならない行動をしてもらうには、それなりの代価が必要であろう。映画の宣伝の場合だったら、試写会に呼ぶ、などというのが、一般的な「代価」だ。そうしたこともせずに無償でひとりの人間に広告媒体になれというのは、虫が良すぎるというもの。その程度のこともわからないかなあ。
ぼくはちなみに、試写会に呼べと言っているのではない。呼ばれれば嬉しいけど、呼ばれないことに腹を立てるほど自分を勘違いしてはいない。ただ、こうした礼儀をわきまえない人物の行動に腹が立ったと言っているだけ。死んでも宣伝などしてやるか。たとえオリヴェイラ『夜顔』(そういえば、つい最近、この話題があるところで出たのだった)の配給会社でも、宣伝などしない。
そうでなくても、観に行くつもりの映画なのだ。そして面白ければこの場でそれには触れる。いくらでも、結果的に、宣伝などすることになるのだ。まったく腹が立つ。
2008/7/13 22:36
クレオール・ナショナリズム? 話題
金曜日、朝刊各紙には文部科学官僚の施設整備をめぐる収賄問題で処分された人々の一覧表が載った日、事務棟のエレベーターに乗ると、「今日、○○○、来てる? 来れないよね。タイミング悪いよね。『読売新聞』には実名で出ていたらしいよ」などと事務員たちが会話していた。
『朝日新聞』には「東京外国語大学会計課長(41)」とだけ出ていた。上司に誘われて接待ゴルフに何度か行ったという人物の話。
こんなことのために国立大学法人化は利用されたのだ、などという話は、今はしない。それができるほど法人化についてはよく知らないし。
その人物が41歳にして課長だという話。事務方の課長以上は文部科学官僚だ。地方採用というか、大学独自というか、関東圏の大学の一括採用職員は課長補佐がせいぜいだ。エレベーターでこの記事の噂をしていた人物のひとりなど、ぼくが学生のころには学生課にいた職員だから、確実に問題の課長より年上だ。そして課長より格下だ。
うーむ。何かを思い出すなあ、と考えていて、気づいたのが、ベネディクト・アンダーソンの「クレオール・ナショナリズム」についての話。アメリカのスペイン植民地のクレオール(植民地生まれの、この場合は白人。クリオーリョのこと)たちが、官僚機構上、帝国首都から来た役人より上に立つことができないことの怨み(?)が独立への機運を準備したのだ、という話。
事務職員たちよ、独立革命に訴えるか?
ま、そんなことを夢想しながら週末に突入。事務方の(しかし外様の)汚名をそそぐかの事例に出会ったのは今日、この本を見つけたから。
トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー[新装版]』志村正雄訳(ちくま文庫、2008)
訳者の志村正雄は、そういえばぼくが学生のころ、当時英米科と言った今の英語専攻の先生としていたな、と思い出した次第。ちょうど20年前、この短編集の単行本版が出た際に買って読み、外語にはこうしたすぐれた翻訳者がたくさんいるけど(当時の学長は原卓也)、そういえば他学科の先生の授業などほとんど受けたことがないなと、縦割りを悔やんだのだった。
そうそう、分割統治が、スペイン語圏植民地の統一的独立を妨げたと、またしてもこれはアンダーソン。
『朝日新聞』には「東京外国語大学会計課長(41)」とだけ出ていた。上司に誘われて接待ゴルフに何度か行ったという人物の話。
こんなことのために国立大学法人化は利用されたのだ、などという話は、今はしない。それができるほど法人化についてはよく知らないし。
その人物が41歳にして課長だという話。事務方の課長以上は文部科学官僚だ。地方採用というか、大学独自というか、関東圏の大学の一括採用職員は課長補佐がせいぜいだ。エレベーターでこの記事の噂をしていた人物のひとりなど、ぼくが学生のころには学生課にいた職員だから、確実に問題の課長より年上だ。そして課長より格下だ。
うーむ。何かを思い出すなあ、と考えていて、気づいたのが、ベネディクト・アンダーソンの「クレオール・ナショナリズム」についての話。アメリカのスペイン植民地のクレオール(植民地生まれの、この場合は白人。クリオーリョのこと)たちが、官僚機構上、帝国首都から来た役人より上に立つことができないことの怨み(?)が独立への機運を準備したのだ、という話。
事務職員たちよ、独立革命に訴えるか?
ま、そんなことを夢想しながら週末に突入。事務方の(しかし外様の)汚名をそそぐかの事例に出会ったのは今日、この本を見つけたから。
トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー[新装版]』志村正雄訳(ちくま文庫、2008)
訳者の志村正雄は、そういえばぼくが学生のころ、当時英米科と言った今の英語専攻の先生としていたな、と思い出した次第。ちょうど20年前、この短編集の単行本版が出た際に買って読み、外語にはこうしたすぐれた翻訳者がたくさんいるけど(当時の学長は原卓也)、そういえば他学科の先生の授業などほとんど受けたことがないなと、縦割りを悔やんだのだった。
そうそう、分割統治が、スペイン語圏植民地の統一的独立を妨げたと、またしてもこれはアンダーソン。
2008/7/9 21:51
たまにはスペイン語の話 業務
そういえば先日、b/v 発音の区別の話をしたが、やはりスペイン語のこと。
たとえば、こんな文がある。
Les doy a mis amigos las gracias.
les は間接目的格の代名詞。"a mis amigos" (友人たちに)で繰り返されている。この繰り返しは普通のこと。今、たまに、この文の形のはずなのに、
Le doy a mis amigos las gracias.
という文章を見る。複数形でなければならないはずの代名詞les が単数形le になっている。大学院の授業で読んでいいる小説に、もう4度ばかりも出てきた。最初出てきたときに、『中級スペイン文法』(白水社)なんてのを眺めてみたのだが、この種の例に出会わなかった。そのうち誰か知っていそうな人に訊いてみようと、そのときはそのときで放っておいた。
が、かなり頻繁に出るので気になって今朝、もう一度『中級スペイン文法』の人称代名詞の章を最初から読んでみた。
そしたら、以前ぼくが見た場所でなく、それよりもはるかに前のほうに書いてあった。思ったより基礎的な事項ということだろうか?
ちなみに、ぼくが読んでいるのはメキシコ人の書いた小説。しかも地の文なのだけどな。
たとえば、こんな文がある。
Les doy a mis amigos las gracias.
les は間接目的格の代名詞。"a mis amigos" (友人たちに)で繰り返されている。この繰り返しは普通のこと。今、たまに、この文の形のはずなのに、
Le doy a mis amigos las gracias.
という文章を見る。複数形でなければならないはずの代名詞les が単数形le になっている。大学院の授業で読んでいいる小説に、もう4度ばかりも出てきた。最初出てきたときに、『中級スペイン文法』(白水社)なんてのを眺めてみたのだが、この種の例に出会わなかった。そのうち誰か知っていそうな人に訊いてみようと、そのときはそのときで放っておいた。
が、かなり頻繁に出るので気になって今朝、もう一度『中級スペイン文法』の人称代名詞の章を最初から読んでみた。
そしたら、以前ぼくが見た場所でなく、それよりもはるかに前のほうに書いてあった。思ったより基礎的な事項ということだろうか?
男性を示す間接目的格複数形のles の代わりにle が用いられることがある。この場合、重複表現ではle のほうが<a+名詞>より前に来なければならない。口語的用法としてスペイン北部と中部で使われるが、文語で用いられることは決してない。(105ページ。下線は引用者)
ちなみに、ぼくが読んでいるのはメキシコ人の書いた小説。しかも地の文なのだけどな。
2008/7/7 22:13
死語(?)との再開 日常
ぼくは短気だ。車に乗っていて、前の車がのたのた走っていたり、不可解なブレーキングに及んだりすると、この○▼※〜■め、などと小さく叫んだりしている。あまりひとさまに見せられたものではない。プライベートな空間だと思えばこその暴言だ。
帰り道、ある立体交差を右折しようとしたとき、前の車が鈍重な動きをしていた。信号が空いている時間はそんなにない。せっかちなぼくはいらだった。
三菱のワゴン車TOPPOだった。車種の話。別に詳しいわけではないが、そう書いてあったから、わかった。太陽の差し込む角度が変化すると、リアウィンドウにミッキーマウスの日よけシートのようなものが貼ってあるのが見えた。
けっ! トッポのくせにミッキーだとよ。とっぽいやつだ。
……
シニフィアンが上滑りしたのだ。あるいは単なるだじゃれだ。
でも、ところで「とっぽい」って、どういう意味だ。昔はよく聞いたような気がするが、近ごろトンと聞かないこの語の意味をぼくはよく知らないぞ。家に帰って調べた。
「(俗語)気障(きざ)で生意気である」(『広辞苑』)
うむ。どうやらぼくの使い方はいささかよろしくない。
帰り道、ある立体交差を右折しようとしたとき、前の車が鈍重な動きをしていた。信号が空いている時間はそんなにない。せっかちなぼくはいらだった。
三菱のワゴン車TOPPOだった。車種の話。別に詳しいわけではないが、そう書いてあったから、わかった。太陽の差し込む角度が変化すると、リアウィンドウにミッキーマウスの日よけシートのようなものが貼ってあるのが見えた。
けっ! トッポのくせにミッキーだとよ。とっぽいやつだ。
……
シニフィアンが上滑りしたのだ。あるいは単なるだじゃれだ。
でも、ところで「とっぽい」って、どういう意味だ。昔はよく聞いたような気がするが、近ごろトンと聞かないこの語の意味をぼくはよく知らないぞ。家に帰って調べた。
「(俗語)気障(きざ)で生意気である」(『広辞苑』)
うむ。どうやらぼくの使い方はいささかよろしくない。
2008/7/5 23:14
炎天下、キューバと未来を思う 読書
あるシンポジウムでのある人の話を聴こうと、出かけた。30度を超えた今日、汗をかきかき駅に着いた。中央線は人身事故のため遅れが出ているとのこと。
めげた。
絶対都心に脱出してやると計画を立てた。立てただけだ。
駅の近くの本屋に行って、手に取ってしまった。手に取ってしまった以上、読まずにいられなかったので、近所の喫茶店で昼食を摂りながら第1部だけ読むことになった。ダイナ・チャヴィアノ『ハバナ奇譚』白川貴子訳(ランダムハウス講談社、2008)。
6章×6部の構成。マイアミで主人公が入ったバーでベニー・モレ、エルネスト・レクオーナ、ボラ・デ・ニエベらのポスターを眺めるなんて場面から始まっているとあっては、買わないわけにいかないじゃないか。そこで纏足を施された広東の中国人の一家の話、小人の見えるスペイン人の一家の話、などを聞かされた彼女(職業はジャーナリスト)が追いかけるのは、ハバナとマイアミに現れたという幽霊屋敷騒ぎ。
さて、作者ダイナ・チャヴィアノDaina Chaviano。そういえば、ある知人のサイトのBBSで話題になっていたことがら。スペイン語は……というより、スペインでは、b とv の発音の区別はない。v の音は存在しない。これがまず基本。ところが、ぼくの知り得た限りかなりのスペイン語圏の国々でb とv の発音は別物だと(学校などでは)教わる。そう言えばアルフォンソ・レイェスも、なぜスペインではこの2つの音を区別しないのだ、と驚いていたっけ。これが第2点。だから実際、メディアの人やインテリなどは区別する人は多い。が、第3点:民衆レベルでは意外に区別されていなかったりする。区別するものなのだよと力説するメキシコ人を観察したあげく、確かに、区別できていないと、驚きとともに結論づけたカナダ人がいたものだ。あ、これは個人的な体験。そういえばカラカスの本屋でEntre Venezuela y Benezuela なんてタイトルの本を見つけて立ち読みしたことがある。国の二重構造をV を区別する層と区別しない層で分けていたのだ。これなどこの話の傍証になるのでは。
『赤い薔薇ソースの伝説』のラウラ・エスキヴェルを「エスキヴェル」と表記するのは、区別するものだと主張したがるメキシコ知識人たちの主張を受け、それにしたがった例だろう。チャヴィアノは同様の例ということか。ただし、彼女は1991年からアメリカ合衆国に住んでいるというから、ますます区別したがる事情があるというもの。チャビアノではなく、チャヴィアノ。
が、オクタヴィオ・パスやマリオ・ヴァルガス=リョサではなくオクタビオ・パス、マリオ・バルガス=リョサの表記が定着したのは、区別しない派(民衆の現実に合わせる派?)の勝利ということか?
一方で、日本語の問題もある。日本語にはヴの音は存在しない。外来語もb とv の区別をつけずにきた。これを区別するのは気取ったインテリぐらいなもの。ぼくもよくレヴェルだのロード・ムーヴィーだのと書いては笑われる。いつだったか、国語審議会が「ヴ」の表記の容認を説いて以来、以前よりはるかに多くなった「ヴ」の表記ではあるが、Volvicが「ボルヴィック」と表記されたりして、どうも中途半端だ(どうやら一語の中に2つ以上の「ヴ」はなじまないらしい)。
そんな国での表記だから、同じくらい曖昧な国々の v を無理して「ヴ」にする必要がないというのが、ぼくの態度ではある。人が v で書くのには寛大だけども(ただし、スペインでは区別しないのが標準なのだから、アルモドーヴァルなどと書いてあったら厳しく指弾するが)。でもなあ……「ヴェダド区」なんて書かれると、理解するのに少し時間がかかるな。
そんな表記の話は二次的なこと。いただけないのは訳者の後書き。
ぼくはこんな繊細さを欠く文章を地上から払拭するために生きているのだ! まだまだ道は長いということか。
めげた。
絶対都心に脱出してやると計画を立てた。立てただけだ。
駅の近くの本屋に行って、手に取ってしまった。手に取ってしまった以上、読まずにいられなかったので、近所の喫茶店で昼食を摂りながら第1部だけ読むことになった。ダイナ・チャヴィアノ『ハバナ奇譚』白川貴子訳(ランダムハウス講談社、2008)。
6章×6部の構成。マイアミで主人公が入ったバーでベニー・モレ、エルネスト・レクオーナ、ボラ・デ・ニエベらのポスターを眺めるなんて場面から始まっているとあっては、買わないわけにいかないじゃないか。そこで纏足を施された広東の中国人の一家の話、小人の見えるスペイン人の一家の話、などを聞かされた彼女(職業はジャーナリスト)が追いかけるのは、ハバナとマイアミに現れたという幽霊屋敷騒ぎ。
さて、作者ダイナ・チャヴィアノDaina Chaviano。そういえば、ある知人のサイトのBBSで話題になっていたことがら。スペイン語は……というより、スペインでは、b とv の発音の区別はない。v の音は存在しない。これがまず基本。ところが、ぼくの知り得た限りかなりのスペイン語圏の国々でb とv の発音は別物だと(学校などでは)教わる。そう言えばアルフォンソ・レイェスも、なぜスペインではこの2つの音を区別しないのだ、と驚いていたっけ。これが第2点。だから実際、メディアの人やインテリなどは区別する人は多い。が、第3点:民衆レベルでは意外に区別されていなかったりする。区別するものなのだよと力説するメキシコ人を観察したあげく、確かに、区別できていないと、驚きとともに結論づけたカナダ人がいたものだ。あ、これは個人的な体験。そういえばカラカスの本屋でEntre Venezuela y Benezuela なんてタイトルの本を見つけて立ち読みしたことがある。国の二重構造をV を区別する層と区別しない層で分けていたのだ。これなどこの話の傍証になるのでは。
『赤い薔薇ソースの伝説』のラウラ・エスキヴェルを「エスキヴェル」と表記するのは、区別するものだと主張したがるメキシコ知識人たちの主張を受け、それにしたがった例だろう。チャヴィアノは同様の例ということか。ただし、彼女は1991年からアメリカ合衆国に住んでいるというから、ますます区別したがる事情があるというもの。チャビアノではなく、チャヴィアノ。
が、オクタヴィオ・パスやマリオ・ヴァルガス=リョサではなくオクタビオ・パス、マリオ・バルガス=リョサの表記が定着したのは、区別しない派(民衆の現実に合わせる派?)の勝利ということか?
一方で、日本語の問題もある。日本語にはヴの音は存在しない。外来語もb とv の区別をつけずにきた。これを区別するのは気取ったインテリぐらいなもの。ぼくもよくレヴェルだのロード・ムーヴィーだのと書いては笑われる。いつだったか、国語審議会が「ヴ」の表記の容認を説いて以来、以前よりはるかに多くなった「ヴ」の表記ではあるが、Volvicが「ボルヴィック」と表記されたりして、どうも中途半端だ(どうやら一語の中に2つ以上の「ヴ」はなじまないらしい)。
そんな国での表記だから、同じくらい曖昧な国々の v を無理して「ヴ」にする必要がないというのが、ぼくの態度ではある。人が v で書くのには寛大だけども(ただし、スペインでは区別しないのが標準なのだから、アルモドーヴァルなどと書いてあったら厳しく指弾するが)。でもなあ……「ヴェダド区」なんて書かれると、理解するのに少し時間がかかるな。
そんな表記の話は二次的なこと。いただけないのは訳者の後書き。
それにしてもカリブの一帯には、日本の風土からは想像もできないような超自然的現実があることは確かなようだ。精霊や妖精がごく自然に人間世界に共存して繰り広げられる幻想空間は、日常と非日常が融合したボルヘスやガルシア=マルケスの魔術的リアリズムを思わせるが、著者は自らをレサマ=リマやカブレラ=インファンテなどの同胞の作家よりは、アングロサクソン系のレイ・ブラッドベリ、シェークスピアやポーに近いと語っている。(498)
ぼくはこんな繊細さを欠く文章を地上から払拭するために生きているのだ! まだまだ道は長いということか。



