2006/10/31 13:58
傷つきゃいいってもんじゃない。 分類なし
私は「傷だらけの天使たち」世代で、Akiraの存在がニヒリズムの極地って思ってるんだけど
でも、ニヒリズムの意味を知らなかったことに、今、気づいた。
岸田姉と岸田弟の存在もよかったな。
テーマソングって誰の作品なんだろう?
あのテーマソングと、やっぱショーケンの牛乳瓶とかがよかったんだよなぁ。
牛乳瓶なんて今は多分もうないから、ピンとこないかもだけど。
いや、私は「傷だらけの天使たち」世代の微妙に下の世代かもな。第一、詳しく覚えてないし。
(なんだよ、それ。)
そういえば、「傷だらけの天使たち」っていうタイトルについて考えたことはなかったケド、
微妙に良いタイトルかも、と、今、思った。
ありふれているようでいて。
兄貴とAkiraが傷だらけの天使たちとは思わないけれど。
「明日」のないドラマだったナ、って、思う。
結局、Akiraはいなくなっちゃうわけだけど、
Akiraが幸せに生きていける世の中を描こうっていう路線でもなかったし。
「明日のないドラマ」ってふうに考えていて、"Easy Riders"って映画を思い出した。
これまたすっごく昔の映画で、ピーター・フォンダとジャック・ニコルスンが出てた。
タイトルを知っていただけだったんだけど、1年ぐらい前にDVDで見て、
「あれま、こんなにいい映画だったんだ」と知った。
やっぱり、"Easy Riders"にも、明日がなかった。
ふと、思ったんだけど。
やっぱ私たちには明日があるんだ。
だから、逆に、明日の無いモノに衝撃を受けたんだ。受けるんだ。
アシタはあって、私たちには、でも、それが見えないンダ、多分。
いや、見えないときがあるってことだ、多分。
アシタはあるけどそれが見えないから、見えないような気がするから、
ときには自分で見てないから、
だから、無いんじゃないか、って、心が不安がる。
「ある世代が『いい、いい』って大絶賛の『傷だらけの天使たち』を見てみたら、『なんだよたいしたことないじゃん』って思った」って書いてあるBlogを読んだ。そっか。そういう目もあるんだな。あのニヒリズムは私はなかなかお目にかかっていないんだけど。
「傷だらけの天使たち」と"Easy Riders"は、どっちも名作だけど、
前者はやっぱりテレビドラマなんだよな。後者は映画で。
うまくい書けないけど、映画とドラマはやっぱ違う。
映画がいいとか、ドラマがいいとか、そういう優劣じゃなく。
映画の方が深いと思う、と、書いたら、優劣系で誤解を与えそうだけど。
テレビドラマの浅さがまたいいんだけどナ。「傷だらけの天使たち」の場合は特に。
そういえば、「翼の折れたエンジェル」って歌もあったな。
『みんな飛べないエンジェル』って歌詞があった気がする。
「私たちは傷ついている、純粋だから不器用だから傷ついている」というメッセージは好きじゃないんだけど、でも、そんなものが聞こえる「翼の折れたエンジェル」は、実際には好きだったりする。
だけど、「ワタシタチ」は、純粋で不器用だから傷ついてるんじゃなくって、自分しか見えないから傷ついてることも多々あるし。純粋で不器用なんて、自分だけじゃないよね?自分だけの特権じゃないよね?隣の誰かも、自分が嫌いな誰かも、自分を嫌う誰かも、きっと、おんなじように、不器用で純粋なんだよね?
なんかそう思うんだけど。
傷つく、こと、って、特権にはならない。
って書くと強者の論理になるのかな。私は強者じゃないけど。
でも、ニヒリズムの意味を知らなかったことに、今、気づいた。
岸田姉と岸田弟の存在もよかったな。
テーマソングって誰の作品なんだろう?
あのテーマソングと、やっぱショーケンの牛乳瓶とかがよかったんだよなぁ。
牛乳瓶なんて今は多分もうないから、ピンとこないかもだけど。
いや、私は「傷だらけの天使たち」世代の微妙に下の世代かもな。第一、詳しく覚えてないし。
(なんだよ、それ。)
そういえば、「傷だらけの天使たち」っていうタイトルについて考えたことはなかったケド、
微妙に良いタイトルかも、と、今、思った。
ありふれているようでいて。
兄貴とAkiraが傷だらけの天使たちとは思わないけれど。
「明日」のないドラマだったナ、って、思う。
結局、Akiraはいなくなっちゃうわけだけど、
Akiraが幸せに生きていける世の中を描こうっていう路線でもなかったし。
「明日のないドラマ」ってふうに考えていて、"Easy Riders"って映画を思い出した。
これまたすっごく昔の映画で、ピーター・フォンダとジャック・ニコルスンが出てた。
タイトルを知っていただけだったんだけど、1年ぐらい前にDVDで見て、
「あれま、こんなにいい映画だったんだ」と知った。
やっぱり、"Easy Riders"にも、明日がなかった。
ふと、思ったんだけど。
やっぱ私たちには明日があるんだ。
だから、逆に、明日の無いモノに衝撃を受けたんだ。受けるんだ。
アシタはあって、私たちには、でも、それが見えないンダ、多分。
いや、見えないときがあるってことだ、多分。
アシタはあるけどそれが見えないから、見えないような気がするから、
ときには自分で見てないから、
だから、無いんじゃないか、って、心が不安がる。
「ある世代が『いい、いい』って大絶賛の『傷だらけの天使たち』を見てみたら、『なんだよたいしたことないじゃん』って思った」って書いてあるBlogを読んだ。そっか。そういう目もあるんだな。あのニヒリズムは私はなかなかお目にかかっていないんだけど。
「傷だらけの天使たち」と"Easy Riders"は、どっちも名作だけど、
前者はやっぱりテレビドラマなんだよな。後者は映画で。
うまくい書けないけど、映画とドラマはやっぱ違う。
映画がいいとか、ドラマがいいとか、そういう優劣じゃなく。
映画の方が深いと思う、と、書いたら、優劣系で誤解を与えそうだけど。
テレビドラマの浅さがまたいいんだけどナ。「傷だらけの天使たち」の場合は特に。
そういえば、「翼の折れたエンジェル」って歌もあったな。
『みんな飛べないエンジェル』って歌詞があった気がする。
「私たちは傷ついている、純粋だから不器用だから傷ついている」というメッセージは好きじゃないんだけど、でも、そんなものが聞こえる「翼の折れたエンジェル」は、実際には好きだったりする。
だけど、「ワタシタチ」は、純粋で不器用だから傷ついてるんじゃなくって、自分しか見えないから傷ついてることも多々あるし。純粋で不器用なんて、自分だけじゃないよね?自分だけの特権じゃないよね?隣の誰かも、自分が嫌いな誰かも、自分を嫌う誰かも、きっと、おんなじように、不器用で純粋なんだよね?
なんかそう思うんだけど。
傷つく、こと、って、特権にはならない。
って書くと強者の論理になるのかな。私は強者じゃないけど。
2006/10/31 1:54
自分で自分に謝っちゃおうか。 分類なし
銀色夏生さんの本を読んだ。エイジが大人になっててビックリした。
銀色夏生さんのことが大好きだった。って過去形ダケド。今も好きなんだけれど。
中学生だったり高校生だったり、
通り過ぎてきた、なんでもないのに心は動いていた、
たくさんの毎日の一瞬が切り取られてるような詩が好きだった。
エイジはその中の登場人物の一人で。
写真で登場してたんだけど。
そのエイジがおっさんになってた。いや、年齢はおっさんという年齢ではまだないと思うけど。
またもや延々380マイル(600キロぐらい)の遠出をした。6時間のrewinding(リワインド、テープを巻き戻すという意味で、緊張疲れた1日をときほぐす感じの意味だったりもします)時間。何で好きなんだろう、ああいう時間。忙しいのに、その時間をなるべくなら、いや、是非ともはしょってしまいたくない。
懐メロを聴いてて思った。唐突だけど。大げさだけど。
そうやって、笑って笑って笑って泣いて恋をして恋をして泣いて笑って泣いて、大人になって恋をして、仕事をして大人になって、仕事をして、誰かと住んで、次の世代に繋げていきつつ、前の世代をサポートしつつ、次の世代にサポートされつつ、生きて、死んでく。ずーっとずーっとその繰り返し。時代は違えど。連綿と。それでいいや、って、思っちゃった。(そう思ったのはビールを飲んで酔っ払ってた一瞬ダケド。)
生きてくんだってことを知ったとき。
生きてるんだってことを意識せずとも生ききってたとき。
後者は若かったとき全般で。
だけど。
若かったときだけがいいんじゃないんだよ。
だって。
後先、ないもん。たいていはああいうときは。ワカサのときは。
後先考えずに突っ走ることが、純情なわけでもなし。
あの頃はよかった、とは、思わない。あの頃はラクでよかった、とは、思うケド。
お姉ちゃんにあれこれつい愚痴を話し込んだら、
「じゃさ。もう、いろんなこと、自分で自分に『ごめんね』って謝っちゃえば?」なんて言う。
心を曇らせるものはあるけれど。
心を曇らせるものはあるけれど。
世の中にはなんかヨイモノもある。なんかイイコトもある。という気がしてきた。
わかってても心がそれを感じられないときもあるんだけど。
"とき"は一瞬ではなく。自分の中でのある"時代"ということで。
だけど、いつかはまた感じられるようになるだろう。今はそう思う。
自分で自分に謝るのか。ごめんね、って謝っちゃうのか。
銀色夏生さんのことが大好きだった。って過去形ダケド。今も好きなんだけれど。
中学生だったり高校生だったり、
通り過ぎてきた、なんでもないのに心は動いていた、
たくさんの毎日の一瞬が切り取られてるような詩が好きだった。
エイジはその中の登場人物の一人で。
写真で登場してたんだけど。
そのエイジがおっさんになってた。いや、年齢はおっさんという年齢ではまだないと思うけど。
またもや延々380マイル(600キロぐらい)の遠出をした。6時間のrewinding(リワインド、テープを巻き戻すという意味で、緊張疲れた1日をときほぐす感じの意味だったりもします)時間。何で好きなんだろう、ああいう時間。忙しいのに、その時間をなるべくなら、いや、是非ともはしょってしまいたくない。
懐メロを聴いてて思った。唐突だけど。大げさだけど。
そうやって、笑って笑って笑って泣いて恋をして恋をして泣いて笑って泣いて、大人になって恋をして、仕事をして大人になって、仕事をして、誰かと住んで、次の世代に繋げていきつつ、前の世代をサポートしつつ、次の世代にサポートされつつ、生きて、死んでく。ずーっとずーっとその繰り返し。時代は違えど。連綿と。それでいいや、って、思っちゃった。(そう思ったのはビールを飲んで酔っ払ってた一瞬ダケド。)
生きてくんだってことを知ったとき。
生きてるんだってことを意識せずとも生ききってたとき。
後者は若かったとき全般で。
だけど。
若かったときだけがいいんじゃないんだよ。
だって。
後先、ないもん。たいていはああいうときは。ワカサのときは。
後先考えずに突っ走ることが、純情なわけでもなし。
あの頃はよかった、とは、思わない。あの頃はラクでよかった、とは、思うケド。
お姉ちゃんにあれこれつい愚痴を話し込んだら、
「じゃさ。もう、いろんなこと、自分で自分に『ごめんね』って謝っちゃえば?」なんて言う。
心を曇らせるものはあるけれど。
心を曇らせるものはあるけれど。
世の中にはなんかヨイモノもある。なんかイイコトもある。という気がしてきた。
わかってても心がそれを感じられないときもあるんだけど。
"とき"は一瞬ではなく。自分の中でのある"時代"ということで。
だけど、いつかはまた感じられるようになるだろう。今はそう思う。
自分で自分に謝るのか。ごめんね、って謝っちゃうのか。
2006/10/24 10:45
無理やり力づくでやさしくしなくちゃいけないときもある。 分類なし
私の心を動かすモノは私の心のナカにまだ在る。ずっと在る。過去にもあって現在にも在る。英語で言うなら、現在完了の継続用法、って感じ。その扱いに困り続けて去年1年が過ぎた。ただでさえ、6年間、暗いトンネルの中を下向いて歩いてたっちゅうのに。
今、ふと、思い出したけど、V6の岡田准一って好きだぁ。
高校3年生の姪がいる。平成元年生まれのるーちゃん(仮名)。生まれて初めての姪という存在は私の宝物だったヨ。マジ。悩みながらイイヤツでアリガトウ。って私が言うのもおこがましいが、私の中だけの私の感情なんだもん。彼女は嵐の松潤の大ファンで、学校に持っていくかばんにもシールを貼っているそうだ。「珍しいって言われるんだ。普通、ジャニーズのファンとかは、ジャニファンとか一括りのイメージで捉えられるのが嫌で、ファンだってことを隠したりするんだけど、かばんにまで貼ってるなんて堂々としてるよね」って感じらしい。
なんかそういうのいいな、って思うんだ。おばちゃんとしては。誰かのファンになるってことがなくて、いや、なっても3ヶ月ぐらいで終わっちゃってきた叔母さんとしましては、そういうふうに「好きなもの」(人なんだけど、「存在」という意味合いで「もの」と書きました)がずっとずっと続くっていいな、と、思うのだ。そういう好きから発展するものがあるんだぜ。深くなったりするんだぜ。枝葉を緑にするんだぜ。
「NANA」とか「フルーツバスケット」とか「子どものチャンネル」とか「下弦の月」とか、みんな彼女に教わった。「ハウルの動く城」も一緒に見に行った。そんなるーちゃん(仮名)に聞いてみた。
「るーちゃんの世代でジャニファンとなると、やっぱSmapファンとかってのはもういないの?」
るーちゃんは、ちょっと真剣にアレコレ友達の顔を思い浮かべて考えてくれて、
「ファンはいるかもしれないけど、私の世代という意味でのジャニファンではSmapファンはいないかも。TOKIOもいないかも。ぎりぎりV6かな。私たちの世代に人気があるのはやっぱKatun。お母さんが、赤西君がいなくなっちゃうならKtunになっちゃうじゃんなんて言ってたけど」
確かに。
ふぅん、そうか。Smapはそうではないかと思っていたが、V6までその域に行きつつあるとは。
「もうろく」って言葉があるけど。
耄碌するって、外の世界とつながらなくなる、ってことかも、と、思った。
自分自身を握りこぶしと考えて、外の世界とは触手としての指を広げた先がつながっている状態を、「普通」として。ほんとは普通なんてないけど、普通として。子どもはその指がまだ成長し切れていずに、自分(の見て感じているもの)が絶対、という感覚を持っていて、老いていくと、その指が掌が少しずつ閉じられて握られていって外の世界と隔絶していく感覚が、耄碌するという感覚ではないか、と。手がしびれたり指がかじかんだりして、触れてもあまり感じなくなったり、とか。まぁ、「普通」にしたって、その掌はいろんな開き方をしているし、自分の持つ全ての指が均等に外の世界とつながっているとは限らないんだけど。
ところで何で花の色ってあんなにきれいだったりするんだろう。ルコウ草という花を見た。ルコー草かな、ルコウ草かな。初めて見た花で、とてもきれいな紅色だった。ってか、そもそもそれを何色というのか知らなくってクレナイなんて書いたケド。
強くなりたかったら強くなるしかないんだけど、ぐだぐだ言ってる前に、
オンナジように
やさしくなりたかったらやさしくなるしかないんだよね、これまた、ぐだぐだ言ってる前に。
もちろん私は無理にやさしくなりたくなんかないんだけど。
イイヒトになるためにやさしくする気はなくって。そのユーワクはときに訪れるけど。
だけど。
無理にでも力づくでもやさしくしなくちゃいけないときもある。
私の中ではところどころつながっていながら、文章ではうまくつなげて書けない今日の結末は、
私の心を動かすモノは多分人生という時間の中で見れば一瞬しか存在しないモノなんだろうな、
ってことだ。
今、ふと、思い出したけど、V6の岡田准一って好きだぁ。
高校3年生の姪がいる。平成元年生まれのるーちゃん(仮名)。生まれて初めての姪という存在は私の宝物だったヨ。マジ。悩みながらイイヤツでアリガトウ。って私が言うのもおこがましいが、私の中だけの私の感情なんだもん。彼女は嵐の松潤の大ファンで、学校に持っていくかばんにもシールを貼っているそうだ。「珍しいって言われるんだ。普通、ジャニーズのファンとかは、ジャニファンとか一括りのイメージで捉えられるのが嫌で、ファンだってことを隠したりするんだけど、かばんにまで貼ってるなんて堂々としてるよね」って感じらしい。
なんかそういうのいいな、って思うんだ。おばちゃんとしては。誰かのファンになるってことがなくて、いや、なっても3ヶ月ぐらいで終わっちゃってきた叔母さんとしましては、そういうふうに「好きなもの」(人なんだけど、「存在」という意味合いで「もの」と書きました)がずっとずっと続くっていいな、と、思うのだ。そういう好きから発展するものがあるんだぜ。深くなったりするんだぜ。枝葉を緑にするんだぜ。
「NANA」とか「フルーツバスケット」とか「子どものチャンネル」とか「下弦の月」とか、みんな彼女に教わった。「ハウルの動く城」も一緒に見に行った。そんなるーちゃん(仮名)に聞いてみた。
「るーちゃんの世代でジャニファンとなると、やっぱSmapファンとかってのはもういないの?」
るーちゃんは、ちょっと真剣にアレコレ友達の顔を思い浮かべて考えてくれて、
「ファンはいるかもしれないけど、私の世代という意味でのジャニファンではSmapファンはいないかも。TOKIOもいないかも。ぎりぎりV6かな。私たちの世代に人気があるのはやっぱKatun。お母さんが、赤西君がいなくなっちゃうならKtunになっちゃうじゃんなんて言ってたけど」
確かに。
ふぅん、そうか。Smapはそうではないかと思っていたが、V6までその域に行きつつあるとは。
「もうろく」って言葉があるけど。
耄碌するって、外の世界とつながらなくなる、ってことかも、と、思った。
自分自身を握りこぶしと考えて、外の世界とは触手としての指を広げた先がつながっている状態を、「普通」として。ほんとは普通なんてないけど、普通として。子どもはその指がまだ成長し切れていずに、自分(の見て感じているもの)が絶対、という感覚を持っていて、老いていくと、その指が掌が少しずつ閉じられて握られていって外の世界と隔絶していく感覚が、耄碌するという感覚ではないか、と。手がしびれたり指がかじかんだりして、触れてもあまり感じなくなったり、とか。まぁ、「普通」にしたって、その掌はいろんな開き方をしているし、自分の持つ全ての指が均等に外の世界とつながっているとは限らないんだけど。
ところで何で花の色ってあんなにきれいだったりするんだろう。ルコウ草という花を見た。ルコー草かな、ルコウ草かな。初めて見た花で、とてもきれいな紅色だった。ってか、そもそもそれを何色というのか知らなくってクレナイなんて書いたケド。
強くなりたかったら強くなるしかないんだけど、ぐだぐだ言ってる前に、
オンナジように
やさしくなりたかったらやさしくなるしかないんだよね、これまた、ぐだぐだ言ってる前に。
もちろん私は無理にやさしくなりたくなんかないんだけど。
イイヒトになるためにやさしくする気はなくって。そのユーワクはときに訪れるけど。
だけど。
無理にでも力づくでもやさしくしなくちゃいけないときもある。
私の中ではところどころつながっていながら、文章ではうまくつなげて書けない今日の結末は、
私の心を動かすモノは多分人生という時間の中で見れば一瞬しか存在しないモノなんだろうな、
ってことだ。
2006/10/23 23:35
自分の心を動かすモノで今の自分の位置がワカル。 分類なし
続けて日本語の本を読んでいる。
一冊はふっるい本で、それは、山本周五郎さんの、昭和35年ぐらいのエッセイだったりする。そして私は感じ入ったりクスっとしたりしながら読んでいる。『 』部分は引用ということで。
感じ入っちゃう編。
広々とした旅館の真っ暗な部屋で照明のスイッチを探しながら、『「人生そのものだな」と私は怒りをなだめながら呟いた。どこかにあることは間違いないのに、マッチをすってはうろうろと探し廻っている。みつけたところでたかがスイッチだのに、ばかげたはなしだ』なんて。
クスっ編その1。
無作法な男をある紳士がたしなめたが、男の乱暴な口調に紳士はその場を立ち去ったという風景を、男の言動は『その五十がらみの紳士の交際慾を唆るものではなかった』らしい、なんて、口の右端が思わず上がる。
クスっ編その2。
牛鍋(スキヤキ)をするときにはいつもビールとワインを使い、食べ終わった後、一番うまい鍋底は台所の(お手伝いの人たちに)食べてもらっていたけれど、実は、普通のスキヤキの鍋底(残り)は美味しいけれど、ビールとワインを使った鍋底は苦いだけでまずくって、台所の女性たちはこんなふうだったというくだり。『「あなたのスキヤキの鍋底があるわよ」と一人の女性は言った。「あれへうどんを入れて食べればいいわ」』、『「あらいやだ」と他の女性の一人が言った。「あなたの鍋底なんか食べられるもんですか」』、なんて、クスっと鼻にシワがよる。よるなよ、シワ! これって、たとえば、知佳ちゃんと恵ちゃんが二人共好物のお菓子を食べていて、知佳ちゃんがお菓子を床に落しちゃって、「あれ、恵ちゃんのお菓子落ちちゃったよ」ってパターンのヤツですよね?好き!だなぁ。
そういえば。
本ではなく、全然話は変わるんですけど。ナタリー(仮名)47歳の話をケイティ(仮名)52歳から聞いていた。ナタリーはお母さんにすっごく冷たい態度をとるんだという。お母さんが話しかけても無視するぐらいなんだそうだ。「そりゃ、ないよね」とケイティは言う。ナタリーのお母さんは結構強烈キャラなんだけど、無視はないよな、って思った。大人っしょ、って。で、偶然、ナタリー母に会う機会があった。そ〜し〜て〜!思い出した!もう長いこと会ってなくて、強烈キャラとしか記憶になかったけど、ナタリー母は、な〜んかちょっ〜と人のかんにさわるようなことを言うのだった!!!!!たとえばお金のない人やすっごく太っている人のこととか、学校の成績の悪い子のことをバカにしたように話すのだ!!本人にはまったくその意識はないようなんだけど。「こんなこと言っちゃ悪いけど」と、口を押さえて、その場には本人はいないけど内緒話のようにして話してくる。声を出さずに笑いながら。それってそれっていや〜じゃない?で、ちょっと思った。無視はよくない。でも、無視したくなるような会話とかってあるよな、って。
日本語の本に戻って。
北原亞以子さんの「花冷え」を読んだ。その中の「胸突坂」の一節にぐっときた。『おまつさんがお前さんにお金を貸して、いい気持になったっていいじゃないか。胸突坂にさしかかった時に、惨めな思いをしたくないといったって、無理なんだよ』
「胸突き八丁」という言葉があって、それは、富士山頂辺りの険しい八丁(約870メートル)というところから急な登り坂を意味して、目標に行き着くまでの最も苦しいところを指すらしい。この「胸突坂」という短編の結末は、明るくはなってないけど明るい方向に道を示して終わるんだけど、でも、それよりも、「目標に行き着かない胸突き八丁」で聞く、「惨め思いをしたくないといったって、無理なんだよ」の方が、なんかいいんだけどナ。
どっちにしたってコツンとくるケド。
どっかで(すぐわかるんだからハッキリだけど)、やっぱり「惨めな思いをしていることを人に知られたくない」というのは、明らかに私の弱点だ。
だけど、か、だから、か。
すぐ傷つくプライドは多分持ってない方がいいプライドなんだよな。
だけど、か。
全然関係ないけれど。いや、関係あるかな。
どうやったら人は固定した考えから離れられるのだろう。自分の思い込みから離れられるのだろう。歳を重ねれば重ねる程、その傾向は表面には顕著に見えるケド。でも、それはやっぱり若くても結構オンナジかもしれない。系統は違うかもだけど。その思い込みは、人を頑張らせもして、人を引っ張りもする。余計な方向へ。余計に人を苦しめる方向へ。その思い込みから離れられれば、どんなに楽になるんだろう、というのが、他の誰にも見えるのに、かんじんのその人(それは自分とも言うケド)には見えない。と言うか、自分にだけミエナイ。はぁぁ、何でかねぇ。
私はナタリー母を思うとセツナクなる。ゴーマンだよな、それって、と、思うんだケド。ナタリー母を上から見てるような位置に自分を置いてるような視点だから、ということではなく、世の中のコト自分だって何にもシラナイくせに人を見てセツナクなるなんてアサハカだっての。
自分の心を動かす存在で、イマのジブンがドコにいるかワカル。いや、わかったらラクなんだけど、が、ここのとこの私の課題なんだ。だから、か、だけど、か、浅はかさは変わらないんだけど。おんなじなんだけど。自分の心を動かす存在は、私を傷つけたり励ましてくれたりする。
それが、その違いが主観ってヤツで。
そうか、そこ辺りがポイントか。
一冊はふっるい本で、それは、山本周五郎さんの、昭和35年ぐらいのエッセイだったりする。そして私は感じ入ったりクスっとしたりしながら読んでいる。『 』部分は引用ということで。
感じ入っちゃう編。
広々とした旅館の真っ暗な部屋で照明のスイッチを探しながら、『「人生そのものだな」と私は怒りをなだめながら呟いた。どこかにあることは間違いないのに、マッチをすってはうろうろと探し廻っている。みつけたところでたかがスイッチだのに、ばかげたはなしだ』なんて。
クスっ編その1。
無作法な男をある紳士がたしなめたが、男の乱暴な口調に紳士はその場を立ち去ったという風景を、男の言動は『その五十がらみの紳士の交際慾を唆るものではなかった』らしい、なんて、口の右端が思わず上がる。
クスっ編その2。
牛鍋(スキヤキ)をするときにはいつもビールとワインを使い、食べ終わった後、一番うまい鍋底は台所の(お手伝いの人たちに)食べてもらっていたけれど、実は、普通のスキヤキの鍋底(残り)は美味しいけれど、ビールとワインを使った鍋底は苦いだけでまずくって、台所の女性たちはこんなふうだったというくだり。『「あなたのスキヤキの鍋底があるわよ」と一人の女性は言った。「あれへうどんを入れて食べればいいわ」』、『「あらいやだ」と他の女性の一人が言った。「あなたの鍋底なんか食べられるもんですか」』、なんて、クスっと鼻にシワがよる。よるなよ、シワ! これって、たとえば、知佳ちゃんと恵ちゃんが二人共好物のお菓子を食べていて、知佳ちゃんがお菓子を床に落しちゃって、「あれ、恵ちゃんのお菓子落ちちゃったよ」ってパターンのヤツですよね?好き!だなぁ。
そういえば。
本ではなく、全然話は変わるんですけど。ナタリー(仮名)47歳の話をケイティ(仮名)52歳から聞いていた。ナタリーはお母さんにすっごく冷たい態度をとるんだという。お母さんが話しかけても無視するぐらいなんだそうだ。「そりゃ、ないよね」とケイティは言う。ナタリーのお母さんは結構強烈キャラなんだけど、無視はないよな、って思った。大人っしょ、って。で、偶然、ナタリー母に会う機会があった。そ〜し〜て〜!思い出した!もう長いこと会ってなくて、強烈キャラとしか記憶になかったけど、ナタリー母は、な〜んかちょっ〜と人のかんにさわるようなことを言うのだった!!!!!たとえばお金のない人やすっごく太っている人のこととか、学校の成績の悪い子のことをバカにしたように話すのだ!!本人にはまったくその意識はないようなんだけど。「こんなこと言っちゃ悪いけど」と、口を押さえて、その場には本人はいないけど内緒話のようにして話してくる。声を出さずに笑いながら。それってそれっていや〜じゃない?で、ちょっと思った。無視はよくない。でも、無視したくなるような会話とかってあるよな、って。
日本語の本に戻って。
北原亞以子さんの「花冷え」を読んだ。その中の「胸突坂」の一節にぐっときた。『おまつさんがお前さんにお金を貸して、いい気持になったっていいじゃないか。胸突坂にさしかかった時に、惨めな思いをしたくないといったって、無理なんだよ』
「胸突き八丁」という言葉があって、それは、富士山頂辺りの険しい八丁(約870メートル)というところから急な登り坂を意味して、目標に行き着くまでの最も苦しいところを指すらしい。この「胸突坂」という短編の結末は、明るくはなってないけど明るい方向に道を示して終わるんだけど、でも、それよりも、「目標に行き着かない胸突き八丁」で聞く、「惨め思いをしたくないといったって、無理なんだよ」の方が、なんかいいんだけどナ。
どっちにしたってコツンとくるケド。
どっかで(すぐわかるんだからハッキリだけど)、やっぱり「惨めな思いをしていることを人に知られたくない」というのは、明らかに私の弱点だ。
だけど、か、だから、か。
すぐ傷つくプライドは多分持ってない方がいいプライドなんだよな。
だけど、か。
全然関係ないけれど。いや、関係あるかな。
どうやったら人は固定した考えから離れられるのだろう。自分の思い込みから離れられるのだろう。歳を重ねれば重ねる程、その傾向は表面には顕著に見えるケド。でも、それはやっぱり若くても結構オンナジかもしれない。系統は違うかもだけど。その思い込みは、人を頑張らせもして、人を引っ張りもする。余計な方向へ。余計に人を苦しめる方向へ。その思い込みから離れられれば、どんなに楽になるんだろう、というのが、他の誰にも見えるのに、かんじんのその人(それは自分とも言うケド)には見えない。と言うか、自分にだけミエナイ。はぁぁ、何でかねぇ。
私はナタリー母を思うとセツナクなる。ゴーマンだよな、それって、と、思うんだケド。ナタリー母を上から見てるような位置に自分を置いてるような視点だから、ということではなく、世の中のコト自分だって何にもシラナイくせに人を見てセツナクなるなんてアサハカだっての。
自分の心を動かす存在で、イマのジブンがドコにいるかワカル。いや、わかったらラクなんだけど、が、ここのとこの私の課題なんだ。だから、か、だけど、か、浅はかさは変わらないんだけど。おんなじなんだけど。自分の心を動かす存在は、私を傷つけたり励ましてくれたりする。
それが、その違いが主観ってヤツで。
そうか、そこ辺りがポイントか。
2006/10/23 6:12
自分語り。 分類なし
ある掲示板を見ていて、「この人いつもイイコト言うよな」(書くよな、だけど)という人が、ある人への返信で、その人の状況に似通った自分の昔の状況を書き込んでアドバイスしつつ、「自分語りで掲示板を汚してごめんなさい」と書いていた。へぇ〜、自分語りって言うんだぁ、と思った。同時に、「自分語り」じゃないものの方が、掲示板では圧倒的に少ないんじゃないか、って思った。変身は仮面ライダーに任せるとして、そもそも返信相手も自分のことを書いてたわけだし。
私は普段の会話ですぐに「私は」という単語を出す。たとえば、「そういうの好きなんだよねぇ」ではなく「あっ、私、そういうの好きなんだよねぇ」で、「昨日、丸ちゃんに電話してさ」ではなく「昨日、私、丸ちゃんに電話してさ」で、「先週、鎌倉に行ったんだ」が「先週、私、鎌倉に行ったんだ」となって、「(鎌倉で)ネギらーめん食べたんだ」は「(鎌倉で)私はネギらーめんを食べたんだ」となる。ねっ、「私」っていうのがしつこいでしょ?「私」という言葉が入るだけで、誰もあんたが鎌倉で何らーめんを食べたかなんて聞いちゃいないよ、という気になってくる。だから、聞いてる方は嫌だろうという自覚もあって、やめようと気をつけているが、気をつけ度がまだ浅くてやめられずにいる。この前、日本食レストランで後ろに座ったオバサンも見知らぬ同士だった。後ろからの「私は」連発攻撃を聞いて、う〜む、やっぱりもっと気をつけ度を高めなければ、と、思ってた。
ふと、思ったんだけど。
血液型占いとか、いろんな占いってあるけど、占いが好きになる要素の中の一つに、「そこでは自分が主人公」ってのもあるんじゃないか、って、ぼんやり寝っころがりながら、思いついた。前世を知りたい、っていう気持ちも、そうかも。
身近に、強烈な「私は」同士がいる。私と血がつながっている町子さん(仮名)は、「私は」道の王道を歩いているように見えるほどゆるぎなく、既に、会話自体が「私は」がメインだ。「先週、卓ちゃん(町子さんの結婚相手)が病院に行った」という話が、「先々週、私、卓ちゃんがあんまり咳をするもんだから、おかしいなって思ったの。だから、私、言ったの、病院行ったら、って。でも、卓ちゃん行かなくて。だから、私、あぁ、これは長引くなぁって思ったのよ。私、もう1回言ってみてだめだったら、もう言うまいと思って、もう1回言ってみたんだ。」
強烈町子さんの会話は、「私はどう思ったか」「私は何をしたか」が中心なのだ。「で、卓ちゃんは結局病院に行ったの?」が聞きたくて入れる合いの手はこうかわされる。「うん、うん、だからね、なかなか卓ちゃん行かないから、もう1回言ってみてだめだったら、もうそれ以上はしつこくするまいって思って」
「で、卓ちゃん行ったの?」(再度のチャレンジ)
「うん、行った。私は先々週から咳してるなぁって気づいてたんだけど、卓ちゃん、病院嫌いだから、なかなか行かないだろうから、どうやって言ったら病院行ってくれるかなぁ、って考えてさ。」
ねっ、いらいらするでしょ?でも、町子さんは、「自分がどう思ったか、何をしたか」を話しているのではなく、あくまでも「卓ちゃん」のことを話しているという意識しかない。何でや?
自分も含め、自分語りしたい人って、どういう人なんだろう。世間の人に認めてもらいたくて認めてもらえない誰かかな?とパッと思いつくけど。でも、世間の人って誰だろう。職場なら仕事関係での評価だけどさ。具体的な成績とかさ。
そんな気持ちもあって、Blogを始めてみた。「私は自分に興味がありすぎるんだな」って思ってそれをちょっと発散させたくって。
数日前、とても楽しい夕食を食べた。やっぱり日本食だったけど。気持ちの良い人と気持ちの良い会話をして楽しく美味しくご飯を食べることができた。メンバーは4人。気持ちよく会話が出来て楽しく笑えたなぁ、と、思って帰る、帰り道すら楽しかった。
「私はこう思う、こう考える、こう感じる」って大切なんだけど生きてく基本だけど、それが前面に出ると楽しくなくなっちゃう。それは自分でだけ知ってればわかってれば、自分でだけ思って考えて感じてればいいんだけど、他にそれを主張し始めた途端、いろんなものをもの言わぬ石に変えちゃうような気がする。
そっか。
主張したいってことは、やっぱり「正しいと認めてもらいたい」ゴコロがあるのかもな。ヒヨワってことだ。そこが。
だけど。
町子さんは、町子さんとして生まれて、町子さんそのまんまで生きている。町子さんの自分語りは、自制心とかが入り込む隙のない、町子さんなんじゃないかと思うのだ。そうなると、会話はいらいらしちゃうんだけど、町子さんの自分語りはそれでいいように思えたりするのだ。世間一般でいう「良い人」からは外れて、会話を避けるような人もいるかもだけど。でも、だからどうだって言うんだろう?世間から良い人って思われるより、自分が自分で生きることの方がヨッポドイイコトなんじゃないだろうか?
私は普段の会話ですぐに「私は」という単語を出す。たとえば、「そういうの好きなんだよねぇ」ではなく「あっ、私、そういうの好きなんだよねぇ」で、「昨日、丸ちゃんに電話してさ」ではなく「昨日、私、丸ちゃんに電話してさ」で、「先週、鎌倉に行ったんだ」が「先週、私、鎌倉に行ったんだ」となって、「(鎌倉で)ネギらーめん食べたんだ」は「(鎌倉で)私はネギらーめんを食べたんだ」となる。ねっ、「私」っていうのがしつこいでしょ?「私」という言葉が入るだけで、誰もあんたが鎌倉で何らーめんを食べたかなんて聞いちゃいないよ、という気になってくる。だから、聞いてる方は嫌だろうという自覚もあって、やめようと気をつけているが、気をつけ度がまだ浅くてやめられずにいる。この前、日本食レストランで後ろに座ったオバサンも見知らぬ同士だった。後ろからの「私は」連発攻撃を聞いて、う〜む、やっぱりもっと気をつけ度を高めなければ、と、思ってた。
ふと、思ったんだけど。
血液型占いとか、いろんな占いってあるけど、占いが好きになる要素の中の一つに、「そこでは自分が主人公」ってのもあるんじゃないか、って、ぼんやり寝っころがりながら、思いついた。前世を知りたい、っていう気持ちも、そうかも。
身近に、強烈な「私は」同士がいる。私と血がつながっている町子さん(仮名)は、「私は」道の王道を歩いているように見えるほどゆるぎなく、既に、会話自体が「私は」がメインだ。「先週、卓ちゃん(町子さんの結婚相手)が病院に行った」という話が、「先々週、私、卓ちゃんがあんまり咳をするもんだから、おかしいなって思ったの。だから、私、言ったの、病院行ったら、って。でも、卓ちゃん行かなくて。だから、私、あぁ、これは長引くなぁって思ったのよ。私、もう1回言ってみてだめだったら、もう言うまいと思って、もう1回言ってみたんだ。」
強烈町子さんの会話は、「私はどう思ったか」「私は何をしたか」が中心なのだ。「で、卓ちゃんは結局病院に行ったの?」が聞きたくて入れる合いの手はこうかわされる。「うん、うん、だからね、なかなか卓ちゃん行かないから、もう1回言ってみてだめだったら、もうそれ以上はしつこくするまいって思って」
「で、卓ちゃん行ったの?」(再度のチャレンジ)
「うん、行った。私は先々週から咳してるなぁって気づいてたんだけど、卓ちゃん、病院嫌いだから、なかなか行かないだろうから、どうやって言ったら病院行ってくれるかなぁ、って考えてさ。」
ねっ、いらいらするでしょ?でも、町子さんは、「自分がどう思ったか、何をしたか」を話しているのではなく、あくまでも「卓ちゃん」のことを話しているという意識しかない。何でや?
自分も含め、自分語りしたい人って、どういう人なんだろう。世間の人に認めてもらいたくて認めてもらえない誰かかな?とパッと思いつくけど。でも、世間の人って誰だろう。職場なら仕事関係での評価だけどさ。具体的な成績とかさ。
そんな気持ちもあって、Blogを始めてみた。「私は自分に興味がありすぎるんだな」って思ってそれをちょっと発散させたくって。
数日前、とても楽しい夕食を食べた。やっぱり日本食だったけど。気持ちの良い人と気持ちの良い会話をして楽しく美味しくご飯を食べることができた。メンバーは4人。気持ちよく会話が出来て楽しく笑えたなぁ、と、思って帰る、帰り道すら楽しかった。
「私はこう思う、こう考える、こう感じる」って大切なんだけど生きてく基本だけど、それが前面に出ると楽しくなくなっちゃう。それは自分でだけ知ってればわかってれば、自分でだけ思って考えて感じてればいいんだけど、他にそれを主張し始めた途端、いろんなものをもの言わぬ石に変えちゃうような気がする。
そっか。
主張したいってことは、やっぱり「正しいと認めてもらいたい」ゴコロがあるのかもな。ヒヨワってことだ。そこが。
だけど。
町子さんは、町子さんとして生まれて、町子さんそのまんまで生きている。町子さんの自分語りは、自制心とかが入り込む隙のない、町子さんなんじゃないかと思うのだ。そうなると、会話はいらいらしちゃうんだけど、町子さんの自分語りはそれでいいように思えたりするのだ。世間一般でいう「良い人」からは外れて、会話を避けるような人もいるかもだけど。でも、だからどうだって言うんだろう?世間から良い人って思われるより、自分が自分で生きることの方がヨッポドイイコトなんじゃないだろうか?
2006/10/17 16:57
大井川。 分類なし
土曜日も日曜日も午後から仕事。日曜日は午後2時半ぐらいからだったけど。普段の詰めの甘さのつけを忙しいときに限って払う羽目となる。
ただし。
こう言っちゃなんだが、夏休みの宿題をためたことはない。だから、よくみんなが口にする「8月31日のどんより」もしくは「8月31日のあせり」は知らない。
いや、違うか。
私は本当に不器用で創造性に欠け、夏休みの宿題の何が嫌いといってそれは「自由課題と図画工作系」だった。「何をしよう?」が、まさに、たれこめる暗雲&ブルーの種。自由課題は、小学校1年から6年までひたすら毎年何じゃそりゃの「毎日の気温」の折れ線グラフ。測ってばっかでどうする?今でもクリアに思い出す、6年生のときの自由課題二つ目は、チェーンステッチで小さな丸を一つだけ刺繍した白いハンカチ。恥ずかしいのなんのって。「夏休みの友」系ノートにはさんで知らん振りしてこっそり提出したのを覚えてる。
こう書きながら思いついたんだけれど、今もそうだけど、私は人に話を持ちかけて発展させる、ということを、子どもの頃からしたことがなかったんだな。「人に話を持ちかけて」とは、たとえば、自由課題を親に相談してみるとか、兄弟にヒントをもらうとか、誰かに対して話題に出すことすらなかった。自分から人に働きかけるという発想が一切なかった。皆無だった。そういうことが存在するとは夢にも思わなかった。
自分の中だけで自分の世界が完結しちゃって、完結とはものはいいようで、要は、人との関わり少なく、その枠の中の自分の世界だけで、アレコレものを見てアレコレ考えアレコレ思い悩む小学生の私、そして、延々続いて、40代の私。狭いよな、ホント。今は、世間の中でそれが隠れてるけど、基本形は変わらない。
ちょっとうまく書けてないかもだけど。
この世の中、一人で生きてるわけではないのに、自分一人という狭い枠の中だけでコトに当たろうとする。誰かに協力を求めたり連立連動を求めたりということなく。そして、それは、自立ということの真逆だ。
ず〜っと前にBlogに書いたけれど、人に頼みごとをする人は二通りで、それは「依存心の強い人」と「自立している人」、というのが私の持論だ。前者は、「人に何とかしてもらおうと思って」頼み、後者は「自助努力をしつつ模索の中で困ったときに素直に困ったよと助けを求め」たり、「人と連立連動することで更に世界が発展」したりする世界観で頼むんじゃないかと考えている。
更に言うと、前者は、断られると自分の全部を否定されたように感じてものすごく落ち込むケド、後者は、相手の拒否或いは否定は、自分の人格全部に及ぶことではない、というバランス感覚が働く。何で働くかっていうと、「自分も(何かを)断ることがある」ということと、「人も(自分の頼みを)断ることがある」ということが、ほぼ同等同格の位置にあるからだと思う。甘えちゃってる人は、多分、「自分が断ることもある」と「人に断られる」の間の不等号が、右に大きく開いてるんじゃないのかな、なんて。
明日も早起きして、いろいろ片付けていこうと思う。こういうふうに、詰めの甘さのつけを払っているときは、いつも、この一山を片付けたなら、もう絶対地道に詰めまくるぞ、って思うんだけど。
今日は、ジムで45分走った。今日も、なんてぇこった、サイコーだぜ、と、気持ちよかった。今日は気分走りで、速度を速めたり、速度を緩めて傾斜をつけて走ったり。1時間をゆ〜っくり走るというのをやってみたいんだけど、走り出すと、もっともっと、になっちゃう。
またもやいつも書くようなことですが。
今日の出来事は、意味があるのかないのかワカラナイ。ワカラナイ。判ったらいいのに。ホント、そう思う。
だけど。
今日の出来事でまた一つ小さな区切りができたかもしれない。ねぇ、お願いだから、この、小さくても一つの区切りをつけるために、一連の出来事に遭遇したなんて言わないでね。誰が言うか知らないケド。
だけど。
現実の中で遭遇した一連の出来事アレコレを、その遭遇を、よかったとコトだとは、コレッポッチも思ったことはなかった。そういうコトがこの世界にあるってコトが、この世界を肯定する拠り所にもなったけど、そういうコトは私には関係のない現実で、やっぱ現実は、実は冷たくも暖かくもなく、暖かさを期待しすぎちゃうと、多分、冷たく感じちゃうし。
相変わらず何書いてんだかの抽象的だけど。
今日、その一連の事象との遭遇を私は肯定した。ありがとう、って、思った。
それで、いいや。今日は。
もう一個は難関だけど。
箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川的難関だケド。
今日はこれで勘弁したるわ。
ただし。
こう言っちゃなんだが、夏休みの宿題をためたことはない。だから、よくみんなが口にする「8月31日のどんより」もしくは「8月31日のあせり」は知らない。
いや、違うか。
私は本当に不器用で創造性に欠け、夏休みの宿題の何が嫌いといってそれは「自由課題と図画工作系」だった。「何をしよう?」が、まさに、たれこめる暗雲&ブルーの種。自由課題は、小学校1年から6年までひたすら毎年何じゃそりゃの「毎日の気温」の折れ線グラフ。測ってばっかでどうする?今でもクリアに思い出す、6年生のときの自由課題二つ目は、チェーンステッチで小さな丸を一つだけ刺繍した白いハンカチ。恥ずかしいのなんのって。「夏休みの友」系ノートにはさんで知らん振りしてこっそり提出したのを覚えてる。
こう書きながら思いついたんだけれど、今もそうだけど、私は人に話を持ちかけて発展させる、ということを、子どもの頃からしたことがなかったんだな。「人に話を持ちかけて」とは、たとえば、自由課題を親に相談してみるとか、兄弟にヒントをもらうとか、誰かに対して話題に出すことすらなかった。自分から人に働きかけるという発想が一切なかった。皆無だった。そういうことが存在するとは夢にも思わなかった。
自分の中だけで自分の世界が完結しちゃって、完結とはものはいいようで、要は、人との関わり少なく、その枠の中の自分の世界だけで、アレコレものを見てアレコレ考えアレコレ思い悩む小学生の私、そして、延々続いて、40代の私。狭いよな、ホント。今は、世間の中でそれが隠れてるけど、基本形は変わらない。
ちょっとうまく書けてないかもだけど。
この世の中、一人で生きてるわけではないのに、自分一人という狭い枠の中だけでコトに当たろうとする。誰かに協力を求めたり連立連動を求めたりということなく。そして、それは、自立ということの真逆だ。
ず〜っと前にBlogに書いたけれど、人に頼みごとをする人は二通りで、それは「依存心の強い人」と「自立している人」、というのが私の持論だ。前者は、「人に何とかしてもらおうと思って」頼み、後者は「自助努力をしつつ模索の中で困ったときに素直に困ったよと助けを求め」たり、「人と連立連動することで更に世界が発展」したりする世界観で頼むんじゃないかと考えている。
更に言うと、前者は、断られると自分の全部を否定されたように感じてものすごく落ち込むケド、後者は、相手の拒否或いは否定は、自分の人格全部に及ぶことではない、というバランス感覚が働く。何で働くかっていうと、「自分も(何かを)断ることがある」ということと、「人も(自分の頼みを)断ることがある」ということが、ほぼ同等同格の位置にあるからだと思う。甘えちゃってる人は、多分、「自分が断ることもある」と「人に断られる」の間の不等号が、右に大きく開いてるんじゃないのかな、なんて。
明日も早起きして、いろいろ片付けていこうと思う。こういうふうに、詰めの甘さのつけを払っているときは、いつも、この一山を片付けたなら、もう絶対地道に詰めまくるぞ、って思うんだけど。
今日は、ジムで45分走った。今日も、なんてぇこった、サイコーだぜ、と、気持ちよかった。今日は気分走りで、速度を速めたり、速度を緩めて傾斜をつけて走ったり。1時間をゆ〜っくり走るというのをやってみたいんだけど、走り出すと、もっともっと、になっちゃう。
またもやいつも書くようなことですが。
今日の出来事は、意味があるのかないのかワカラナイ。ワカラナイ。判ったらいいのに。ホント、そう思う。
だけど。
今日の出来事でまた一つ小さな区切りができたかもしれない。ねぇ、お願いだから、この、小さくても一つの区切りをつけるために、一連の出来事に遭遇したなんて言わないでね。誰が言うか知らないケド。
だけど。
現実の中で遭遇した一連の出来事アレコレを、その遭遇を、よかったとコトだとは、コレッポッチも思ったことはなかった。そういうコトがこの世界にあるってコトが、この世界を肯定する拠り所にもなったけど、そういうコトは私には関係のない現実で、やっぱ現実は、実は冷たくも暖かくもなく、暖かさを期待しすぎちゃうと、多分、冷たく感じちゃうし。
相変わらず何書いてんだかの抽象的だけど。
今日、その一連の事象との遭遇を私は肯定した。ありがとう、って、思った。
それで、いいや。今日は。
もう一個は難関だけど。
箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川的難関だケド。
今日はこれで勘弁したるわ。
2006/10/16 15:34
違う風景。 分類なし
おおごとの大事ではないけれど、同じ場所でも時間によって風景が変わる。多分、駅、なんて、その最たるものかもだけど。あっ、学校もそうだな。
普段、ジムに行く時間帯は二通りで、午後4時台から5時台にかけて、か、午後7時台から8時台にかけて。午後4時台に行くと、ちょうど仕事が終わった辺りの混み具合で、トレッドミルがあいていないことも多々。午後8時台に行くと、もう空いていて、午後9時台はガラスキ。特に金曜日の夜はガラスキで、金曜日の夜8時9時にジムにいるなんて、家族もいなくて遊ぶ相手もいない証拠のようなもの。そして、私はこの金曜日のガラスキ時間帯にもよく行くのだけれど、下手をすると、フロアにいる人数を簡単に数えられちゃいそう。数えないけど。でも、空いてるのが好きなんですねぇ。なんか、マシンも空いているし周囲を気にせずのんびりできるから。
そういうことで思うんだけど、
一人ぼっちが怖くないのは、一人ぼっちじゃないからかもしれない。私の場合は。
そばか遠くか、どっちかに誰かいる(と思っている)から。
遠くでもオッケーって辺りが、おめでたいとも言うけれど、
そう思えてラッキーなんじゃないか、とも、思う。
そこもおめでたいのか。
そういうふうに同じ場所でも時間帯によって風景が変わるってことがちょっと好き。
いつも同じ風景を見ていたのに、
たまたま異なる時間帯に行くと、まったく別の空気を醸し出す風景なんて。なんかいいじゃん。
今日、油断してしまった。家の前のdriveway(家のガレージから家の前の道までの道、というか我が家の場合は車を停めるスペースとなっている)で、車の隣でバイクのエンジンをかけた。Drivewayはかすかに斜めになっている。エンジンをかけて、カメラを取ろうと、バイクからちょっと2歩離れた途端、振動の激しいバイクだったせいもあって、そのかすかな斜めに反応してバイクが動いて……車に倒れ掛かった。ショック。オンロードバイクはきれいなままだけれど、転ぶこともあって傷もつくだろうと覚悟していた。でも、車は、傷一つなかったのに。いや、傷二つぐらいはあったか。目立たない程の。それなのに。handlebar(バイクのハンドル)がゆっくりズ・リ・ズ・リ・と……車の……ドアに…傷を…つけた。もう。ガッカリ。ガッカリ。ガッカリ。直すことなんてしないけど。ガッカリガッカリガッカリ。車の隣でオッケーかな?ここかすかに斜めだよな、って、思ってたのに。おめぇ詰めが甘すぎ。ってか、詰めが無さ過ぎ。
でも、それ以前に、「バイクのエンジンをかけながらバイクを離れる意識が問題」との指摘。バイクのすぐ反対側にバイクの師匠がいたんだけど、私のバイクだし、私がエンジンをかけたわけだし。慣れてないのに車のこんなそばで大丈夫かなとか考える以前に、自分のバイクを自分で管理する意識があれば、エンジンをかけたバイクのそばを離れるなんて絶対しないだろう。その上の部分で、車のそばで平気かな、なんて考えるまでもなく。ということで、夕飯を食べている間は忘れていたそのズリズリのへこみにまたもや思い出しガックシ。
一人に慣れちゃうと、一人が心地よくなっちゃうね。
昔、一人暮らしを始めたときに、「自分で自分の都合をきいて暮らせる一人暮らしって、な・ん・て・ラ・ク・な・のっ。」って思ったけれど。そういう発想のそれって生活してるってことじゃない気もする。
先週後半から現実の中でイライラして暮らしている私は、地味に七転八倒している。
こういうことをよく書くけれど。
今という風景を、10年後に見たなら、やっぱり違った風景に見えるのだろうと思う。
普段、ジムに行く時間帯は二通りで、午後4時台から5時台にかけて、か、午後7時台から8時台にかけて。午後4時台に行くと、ちょうど仕事が終わった辺りの混み具合で、トレッドミルがあいていないことも多々。午後8時台に行くと、もう空いていて、午後9時台はガラスキ。特に金曜日の夜はガラスキで、金曜日の夜8時9時にジムにいるなんて、家族もいなくて遊ぶ相手もいない証拠のようなもの。そして、私はこの金曜日のガラスキ時間帯にもよく行くのだけれど、下手をすると、フロアにいる人数を簡単に数えられちゃいそう。数えないけど。でも、空いてるのが好きなんですねぇ。なんか、マシンも空いているし周囲を気にせずのんびりできるから。
そういうことで思うんだけど、
一人ぼっちが怖くないのは、一人ぼっちじゃないからかもしれない。私の場合は。
そばか遠くか、どっちかに誰かいる(と思っている)から。
遠くでもオッケーって辺りが、おめでたいとも言うけれど、
そう思えてラッキーなんじゃないか、とも、思う。
そこもおめでたいのか。
そういうふうに同じ場所でも時間帯によって風景が変わるってことがちょっと好き。
いつも同じ風景を見ていたのに、
たまたま異なる時間帯に行くと、まったく別の空気を醸し出す風景なんて。なんかいいじゃん。
今日、油断してしまった。家の前のdriveway(家のガレージから家の前の道までの道、というか我が家の場合は車を停めるスペースとなっている)で、車の隣でバイクのエンジンをかけた。Drivewayはかすかに斜めになっている。エンジンをかけて、カメラを取ろうと、バイクからちょっと2歩離れた途端、振動の激しいバイクだったせいもあって、そのかすかな斜めに反応してバイクが動いて……車に倒れ掛かった。ショック。オンロードバイクはきれいなままだけれど、転ぶこともあって傷もつくだろうと覚悟していた。でも、車は、傷一つなかったのに。いや、傷二つぐらいはあったか。目立たない程の。それなのに。handlebar(バイクのハンドル)がゆっくりズ・リ・ズ・リ・と……車の……ドアに…傷を…つけた。もう。ガッカリ。ガッカリ。ガッカリ。直すことなんてしないけど。ガッカリガッカリガッカリ。車の隣でオッケーかな?ここかすかに斜めだよな、って、思ってたのに。おめぇ詰めが甘すぎ。ってか、詰めが無さ過ぎ。
でも、それ以前に、「バイクのエンジンをかけながらバイクを離れる意識が問題」との指摘。バイクのすぐ反対側にバイクの師匠がいたんだけど、私のバイクだし、私がエンジンをかけたわけだし。慣れてないのに車のこんなそばで大丈夫かなとか考える以前に、自分のバイクを自分で管理する意識があれば、エンジンをかけたバイクのそばを離れるなんて絶対しないだろう。その上の部分で、車のそばで平気かな、なんて考えるまでもなく。ということで、夕飯を食べている間は忘れていたそのズリズリのへこみにまたもや思い出しガックシ。
一人に慣れちゃうと、一人が心地よくなっちゃうね。
昔、一人暮らしを始めたときに、「自分で自分の都合をきいて暮らせる一人暮らしって、な・ん・て・ラ・ク・な・のっ。」って思ったけれど。そういう発想のそれって生活してるってことじゃない気もする。
先週後半から現実の中でイライラして暮らしている私は、地味に七転八倒している。
こういうことをよく書くけれど。
今という風景を、10年後に見たなら、やっぱり違った風景に見えるのだろうと思う。
2006/10/15 10:49
今日は秋だったりイライラしたり。 分類なし
トラブルがあって。トラブルの原因は吉山さん(仮名)。
どう対応するかを相談しあうe-mailの中で、田代さん(仮名)の締めのひと言が「(吉山さんは)自分の都合ばかり考えているから周囲の状況が見えないのでしょう」。
多分、ごくごく当たり前のひと言に聞こえるだろうと思うのですが、そのひと言で、あぁ、そうか、そういう仕組みか、と、腑に落ちた。そういう仕組みを持つトラブルだったのか、と。仕組みという言葉は20倍ぐらい大げさだけど。
そして、ふと、自分のことを考えた。結構、これって自分にも当てはまってるかも。周囲に気を配っているつもりでいて、結構、無意識の第一義の優先事項で自分の都合があるっていうか。だから、曲解が生まれるんだ。私の場合は。
今日は風が秋だった。今年初めて感じた秋だった。
「風が秋」なんて言い古された言い回しだけれど、でも、自分自身の感覚がそこに伴うと、それ以外に今日の空気を表す言葉がなくて、だから、そうか言い古されているのか、と、納得。
そういえば、松田聖子さんが「風立ちぬ」って歌ってたな。一昔前、いや二昔前、いや三昔前は、「風立ちぬ」と言えば堀辰雄だったけど。「風立ちぬ いざ生きめやも」。「生きめやも」を文法はどう分けてくれるのかはワカラナイけれど。いや、松田聖子さんの「風立ちぬ」も二昔以上も前か。
松田聖子さんの歌の「瞳はダイヤモンド」が好きだった。「ハートのイヤリング」も好きだったな。そうだ、「裸足のマーメイド」では、当時付き合ってた彼氏と「如何に松田聖子に似せて歌うか」で遊んだっけ。彼のポイントは、「最後の『小麦色なの』」というところの甘え口調の力の抜けた口もとのバカっぽさがカワイイ」だった(松田聖子さんがバカっぽいということではなく、松田聖子さんが、隙のある悪気のないカワイイ女の子を演出して歌っていたということです)。
「瞳はダイヤモンド」は、『あぁ 泣かないでメモリー 幾千粒の雨の矢たち 見上げながら うるんだ瞳はダイヤモンド』というような歌詞や、『あぁ 泣かないでメモリー 私はもっと強いはずよ でも あふれて止まらぬ 涙はダイヤモンド』という歌詞がある(引用は記憶からです)。
友達の綱子(仮名)は気が強い。気の強い者同士、カラオケに行ったら、ときに、気の合う選曲があって。この歌が流行った頃にこの歌が好きだなんてお互い口に出したことも無かったのに、カラオケで二人して選びあう「瞳はダイヤモンド」。まぁ、ちょっと昔の話ダケド、それも。
同じく「瞳はダイヤモンド」に、『いつ過去形に変わったの』という歌詞があるんだけれど、歌うときの区切りは「い〜つか〜こけいに〜」となる。勘違い特集のメールマガジンを読んでいたら、これを『いつか固形に変わったの』と聴いて「おさな心に、思い出が固まって固形になるということか、と聴いていた」とあって、カワイクテ笑えた。
なんだか急にカラオケに行きたくなっちゃった。
実は昨日からイライラの毎日。表面的にはおとなしくしてるけど内面は沸々とイライラが地味に活動している。家では口も常にへの字に下がりっぱなし。いらいらイライラいらいら苛々。
吉山さんという人間の輪の中に入ったら、それはつまり吉山さんの隣に立って同じ角度で周りの風景を眺めるということなんだけど、そうしたら同じ風景は見えないと思うけど、吉山さんにはコレがこう見えてしまうのか、というのがワカルンダロウナ。でも、わかったってしょうがないケド。冷たい意味じゃなく。
自分の見る風景が自分の事情がからまりついたが故に自分だけにしか見えない風景だった、なんて。あっ、これは私のことだけど。
どう対応するかを相談しあうe-mailの中で、田代さん(仮名)の締めのひと言が「(吉山さんは)自分の都合ばかり考えているから周囲の状況が見えないのでしょう」。
多分、ごくごく当たり前のひと言に聞こえるだろうと思うのですが、そのひと言で、あぁ、そうか、そういう仕組みか、と、腑に落ちた。そういう仕組みを持つトラブルだったのか、と。仕組みという言葉は20倍ぐらい大げさだけど。
そして、ふと、自分のことを考えた。結構、これって自分にも当てはまってるかも。周囲に気を配っているつもりでいて、結構、無意識の第一義の優先事項で自分の都合があるっていうか。だから、曲解が生まれるんだ。私の場合は。
今日は風が秋だった。今年初めて感じた秋だった。
「風が秋」なんて言い古された言い回しだけれど、でも、自分自身の感覚がそこに伴うと、それ以外に今日の空気を表す言葉がなくて、だから、そうか言い古されているのか、と、納得。
そういえば、松田聖子さんが「風立ちぬ」って歌ってたな。一昔前、いや二昔前、いや三昔前は、「風立ちぬ」と言えば堀辰雄だったけど。「風立ちぬ いざ生きめやも」。「生きめやも」を文法はどう分けてくれるのかはワカラナイけれど。いや、松田聖子さんの「風立ちぬ」も二昔以上も前か。
松田聖子さんの歌の「瞳はダイヤモンド」が好きだった。「ハートのイヤリング」も好きだったな。そうだ、「裸足のマーメイド」では、当時付き合ってた彼氏と「如何に松田聖子に似せて歌うか」で遊んだっけ。彼のポイントは、「最後の『小麦色なの』」というところの甘え口調の力の抜けた口もとのバカっぽさがカワイイ」だった(松田聖子さんがバカっぽいということではなく、松田聖子さんが、隙のある悪気のないカワイイ女の子を演出して歌っていたということです)。
「瞳はダイヤモンド」は、『あぁ 泣かないでメモリー 幾千粒の雨の矢たち 見上げながら うるんだ瞳はダイヤモンド』というような歌詞や、『あぁ 泣かないでメモリー 私はもっと強いはずよ でも あふれて止まらぬ 涙はダイヤモンド』という歌詞がある(引用は記憶からです)。
友達の綱子(仮名)は気が強い。気の強い者同士、カラオケに行ったら、ときに、気の合う選曲があって。この歌が流行った頃にこの歌が好きだなんてお互い口に出したことも無かったのに、カラオケで二人して選びあう「瞳はダイヤモンド」。まぁ、ちょっと昔の話ダケド、それも。
同じく「瞳はダイヤモンド」に、『いつ過去形に変わったの』という歌詞があるんだけれど、歌うときの区切りは「い〜つか〜こけいに〜」となる。勘違い特集のメールマガジンを読んでいたら、これを『いつか固形に変わったの』と聴いて「おさな心に、思い出が固まって固形になるということか、と聴いていた」とあって、カワイクテ笑えた。
なんだか急にカラオケに行きたくなっちゃった。
実は昨日からイライラの毎日。表面的にはおとなしくしてるけど内面は沸々とイライラが地味に活動している。家では口も常にへの字に下がりっぱなし。いらいらイライラいらいら苛々。
吉山さんという人間の輪の中に入ったら、それはつまり吉山さんの隣に立って同じ角度で周りの風景を眺めるということなんだけど、そうしたら同じ風景は見えないと思うけど、吉山さんにはコレがこう見えてしまうのか、というのがワカルンダロウナ。でも、わかったってしょうがないケド。冷たい意味じゃなく。
自分の見る風景が自分の事情がからまりついたが故に自分だけにしか見えない風景だった、なんて。あっ、これは私のことだけど。
2006/10/14 15:50
雑感。 分類なし
今日は寝坊してしまった。普段、朝8時から8時半の間に起きるのだけれど、目が覚めたのが6時前。もう一眠り後、目を覚ますと7時前。まだ時間がある、今日はずいぶんゆっくり時間が流れる、と、目をつむってアレコレ考え事、をして、時計を見たら、まだ8時前。のはずが、起きてほんちゃんの時計を見たら……9時だった!そういや太陽も高い。近所の建築工事の音も朝のそれと違う。中途半端に時計が止まったり動いたりしてたみたい。何だよぉ。そういえば、昨日の夜、セットしたとき、「お休みなさい」の声がひ弱だったな。イキナリの何もかものダッシュ攻撃。前庭の掃除をパス、請求書の支払いもパス、掃除もパス、クリーニング屋さんもパス。慌ててお弁当を作って自分も早お昼を食べて、夕飯の支度をして、出動。
今日もまた昨日のWoker's Compensationの謎解き少々。昨日、「解決の目処はたった、明日はまとめだけ」と思っていたのに……確認の詰めの甘いところに気づいてガックシ。そこに昨日気づかなかったことにガックシ。今日も、「これで目処はついた、日曜日にオフィスに出てまとめをしよう」となったけど、大丈夫でしょうね、今度こそ。
そんな合間に、アポで出かける。あのねぇ、時間に間に合わないならもっと早く電話してよ、状態で、いったん出かけた後にまた戻って40分の損。その後、3時半から再び外出。6時にオフィスに戻れた。夕日がキレイだった。
今日、またもや、e-mailサーバーがダウン。こんなにしょっちゅうダウンするものなんでしょうか?メールをパンパン続けて送りたいときに限って、じ〜っと陰でたたずんで隠れてる感じのサーバー。
今日はスポーツクラブで久しぶりに気持ちよく走れた。走っている間も気持ちよくペースに乗れたんだ。もっともっと走りたかったけど、金曜日の夜は9時で閉まってしまうため(週日の夜は11時まで空いています)、40分しか走れなかった。でも、エンドルフィンよ、ありがとう、というかんじ。
意外と。
ある一つの集団の中で誰かと新たに親しくなるとき、環境が似ている人同士がくっつくことが多い。同年齢層、結婚未婚、子どもの有無、駐在妻同士、働く女子同士、とか。だけれど、本当に友達になるときは、それらの垣根を取っ払って友達になることも意外と多い。当時20代後半だった私は、恋の話はやっぱり同年代で盛り上がった。だけど、一番仲良くなって今でもつきあいのある友達は私より30歳上の沢渡さん(仮名)だった。当時30代前半だった私と当時20代半ばだった実奈ちゃん(仮名)は、会社終わりのコンパ系の課外活動を共にすることはなかったけれど、でも笑い話で気が合って、未だに友達だったりする。そういう垣根って、あれはやっぱり自分が作ってるって、ホントかも。いや、気にする人にだけ、または気になるときだけ、存在する不思議な垣根かも。気にする人にだけ存在する垣根と気になるときだけ存在する垣根は違う気もするけど。いや、垣根があることもあるか。でも、それはただの垣根だ。大げさなもんじゃない。大きな頑丈な垣根でも。
同じ垣根の中で親しくなるということは、ワタシとアナタ、の本体に共通点があったのではなく、ワタシとアナタにくっついてくる属性に共通点があったのだ。ワタシとアナタが親しくなるということは、ワタシとアナタの本体同士の間に共感するものがある、ということだ。
ジムで鏡を横目で見ながら着替えた。Tシャツ短パン姿ではわからないけど、脱ぐとビックリ。たるんでるジャン!上腕の下、振袖じゃん。えっと、脇の下と背中のあたりもフルフルじゃん。あれまぁ。そうだ、ジムで走り続けてるのに1ポンド(500g弱)しかやせないと、ずっと前にBlogで書いたけど、その後、10ポンドぐらい体重が減った。体重が減ったことをやせたと誤解した私は、昔はいてたGパンをはいてみた。膝に至るまでに既にその予感はあったが、Gパンは腿から上にあがらなかった。それなのに、体重が減ると顔がやせちゃうんです、こけちゃうんです。ったく、老婆の休日顔になっちゃうっての。
今日は、急遽夕飯が一人だった。明日のお昼にと思って解凍していたカレーでご飯を済ませた。カレーだとつい食べすぎちゃうんだよなぁ。パクパク。
勝手な想像なんだけど。お姉ちゃんが元気がない気がしてる。そのことでメールしてみようかなとか思うんだけど。自分自身が「元気ない?」とかアレコレ聞かれることが嫌いなので躊躇してる。
友達からのメールで息子の琢磨君(仮名)の愚痴をさんざん聞いた(読んだ)。親が一番わかってると思うけど、琢磨君、いい子なんだよなぁ。そりゃさ、お母さんにはワガママ言うけどさ。ワガママが信頼や愛情だもんなぁ。琢磨君のことから、別の友達の娘の文枝ちゃん(仮名)を思い出した。文枝ちゃんファンの私。なんとなく勝手に、文枝ちゃんは「人を幸せにする子」って思ってる。そばにいる人をやさしい気持ちにさせてくれる子。「子は親の鏡」ってツラツラ思う。ストレートにツナガッテルわけじゃないんだけど。自分が育ってきた過程では気づかなかったけれど(自分にしても友達にしても)、大人になって10代から20代の若者と接する機会が増えるにつけ、良くも悪くも「この親にしてこの子あり」って思う。文枝ちゃんの親もとってもいいヤツで、「イイ女」という言葉で真っ先に文枝母を私は思い出すんだけど、文枝ちゃんを思うと、「その子が持って生まれてきたもの」というものをとても強く感じる。そして、琢磨君を見てると、親の育て方の影響、つまり環境の強さをとても感じる。
また書いちゃうけど今日は本当に気持ちよく走れた。いろんなこともうオッケー、頑張れ頑張ろうと思った40分だった。
今日もまた昨日のWoker's Compensationの謎解き少々。昨日、「解決の目処はたった、明日はまとめだけ」と思っていたのに……確認の詰めの甘いところに気づいてガックシ。そこに昨日気づかなかったことにガックシ。今日も、「これで目処はついた、日曜日にオフィスに出てまとめをしよう」となったけど、大丈夫でしょうね、今度こそ。
そんな合間に、アポで出かける。あのねぇ、時間に間に合わないならもっと早く電話してよ、状態で、いったん出かけた後にまた戻って40分の損。その後、3時半から再び外出。6時にオフィスに戻れた。夕日がキレイだった。
今日、またもや、e-mailサーバーがダウン。こんなにしょっちゅうダウンするものなんでしょうか?メールをパンパン続けて送りたいときに限って、じ〜っと陰でたたずんで隠れてる感じのサーバー。
今日はスポーツクラブで久しぶりに気持ちよく走れた。走っている間も気持ちよくペースに乗れたんだ。もっともっと走りたかったけど、金曜日の夜は9時で閉まってしまうため(週日の夜は11時まで空いています)、40分しか走れなかった。でも、エンドルフィンよ、ありがとう、というかんじ。
意外と。
ある一つの集団の中で誰かと新たに親しくなるとき、環境が似ている人同士がくっつくことが多い。同年齢層、結婚未婚、子どもの有無、駐在妻同士、働く女子同士、とか。だけれど、本当に友達になるときは、それらの垣根を取っ払って友達になることも意外と多い。当時20代後半だった私は、恋の話はやっぱり同年代で盛り上がった。だけど、一番仲良くなって今でもつきあいのある友達は私より30歳上の沢渡さん(仮名)だった。当時30代前半だった私と当時20代半ばだった実奈ちゃん(仮名)は、会社終わりのコンパ系の課外活動を共にすることはなかったけれど、でも笑い話で気が合って、未だに友達だったりする。そういう垣根って、あれはやっぱり自分が作ってるって、ホントかも。いや、気にする人にだけ、または気になるときだけ、存在する不思議な垣根かも。気にする人にだけ存在する垣根と気になるときだけ存在する垣根は違う気もするけど。いや、垣根があることもあるか。でも、それはただの垣根だ。大げさなもんじゃない。大きな頑丈な垣根でも。
同じ垣根の中で親しくなるということは、ワタシとアナタ、の本体に共通点があったのではなく、ワタシとアナタにくっついてくる属性に共通点があったのだ。ワタシとアナタが親しくなるということは、ワタシとアナタの本体同士の間に共感するものがある、ということだ。
ジムで鏡を横目で見ながら着替えた。Tシャツ短パン姿ではわからないけど、脱ぐとビックリ。たるんでるジャン!上腕の下、振袖じゃん。えっと、脇の下と背中のあたりもフルフルじゃん。あれまぁ。そうだ、ジムで走り続けてるのに1ポンド(500g弱)しかやせないと、ずっと前にBlogで書いたけど、その後、10ポンドぐらい体重が減った。体重が減ったことをやせたと誤解した私は、昔はいてたGパンをはいてみた。膝に至るまでに既にその予感はあったが、Gパンは腿から上にあがらなかった。それなのに、体重が減ると顔がやせちゃうんです、こけちゃうんです。ったく、老婆の休日顔になっちゃうっての。
今日は、急遽夕飯が一人だった。明日のお昼にと思って解凍していたカレーでご飯を済ませた。カレーだとつい食べすぎちゃうんだよなぁ。パクパク。
勝手な想像なんだけど。お姉ちゃんが元気がない気がしてる。そのことでメールしてみようかなとか思うんだけど。自分自身が「元気ない?」とかアレコレ聞かれることが嫌いなので躊躇してる。
友達からのメールで息子の琢磨君(仮名)の愚痴をさんざん聞いた(読んだ)。親が一番わかってると思うけど、琢磨君、いい子なんだよなぁ。そりゃさ、お母さんにはワガママ言うけどさ。ワガママが信頼や愛情だもんなぁ。琢磨君のことから、別の友達の娘の文枝ちゃん(仮名)を思い出した。文枝ちゃんファンの私。なんとなく勝手に、文枝ちゃんは「人を幸せにする子」って思ってる。そばにいる人をやさしい気持ちにさせてくれる子。「子は親の鏡」ってツラツラ思う。ストレートにツナガッテルわけじゃないんだけど。自分が育ってきた過程では気づかなかったけれど(自分にしても友達にしても)、大人になって10代から20代の若者と接する機会が増えるにつけ、良くも悪くも「この親にしてこの子あり」って思う。文枝ちゃんの親もとってもいいヤツで、「イイ女」という言葉で真っ先に文枝母を私は思い出すんだけど、文枝ちゃんを思うと、「その子が持って生まれてきたもの」というものをとても強く感じる。そして、琢磨君を見てると、親の育て方の影響、つまり環境の強さをとても感じる。
また書いちゃうけど今日は本当に気持ちよく走れた。いろんなこともうオッケー、頑張れ頑張ろうと思った40分だった。
2006/10/13 14:08
英語だったり驕りたかぶりだったり。 分類なし
今日はちまちま忙し日だった。Worker's Compensation(ワーカーズ・コンペンセーション・労災のようなもの)会社への支払いの内容をアレコレ確認。簡単な算数なんだけど、請求書の謎ときもどきに時間を費やした。
今日も人に会って話を聞いた。今日も良い話を聞くことができた。アメリカでの就職が決まって、今は希望と不安の只中にいるその人は、「アメリカで暮らしたことに対する自分なりの答えを見つける」と言っていた。
アメリカで暮らしたら英語が話せるようになる、というのは実は誤解で、堪能というレベルにはなかなか達しない。よっぽど賢い人は別かもだけど。1年暮らしてじゃぁもう英語ぺらぺらだね、なんてことはない。絶対はないけど、1年では限りなく絶対に近くない。2、3年でも結構オンナジ。
「授業は受けられる、毎日の生活もこなしていける、『だけど…』」の『だけど』や、「結婚相手はアメリカ人だ、普段の会話はだから英語だ、日常生活には何の不便もない、『だけど…』」の『だけど』はなかなか消えない。下手すりゃ10年も続く。あっ、それは私か。アメリカ人の中で働いて2、3年が経つと、『だけど』は消えていく傾向にあるかも、だけど。
うまく説明できるかな。
『だけど』は多くの人が抱くけれど、その処理は人それぞれで異なる。どうしても『だけど』の部分に拘ってしまう人もいるし、拘らない人もいるし、アメリカ人の中で働いていたなら、『だけど』を感情としては理解しても、そんなこと言ってられないし。
留学して大学を卒業したとする。それでも、卒業して就職するときに、英語に不安を覚える人も少なくない。これは、英語がしゃべれないから、ではもちろんなく、「ネイティブに限りなく近い更に上の段階」をどうしても意識するからだ。仕事では、英語以前に、英語を道具としてどうビジネスをするかが一番重要だ。でも、その道具とするための英語力はやっぱり必要なのだ。ここが気にならない人は、すごいアホか逆にとても賢い人だ。
もう一つ言えるのは、これはたいしたことじゃないかもだけど、やっぱり「単語は覚えないと知らない」ってことだ。大人になってアメリカ暮らしを始めた場合、小学校の授業で使う言い回しを知らなかったりもするし、ビジネスの場にいなければ、そこで交わされる語彙も覚える機会はないわけだ。
前にも書いたけれど、ブッシュが訪日したときにたまたま日本に帰っていて、その模様をテレビで見た。各界有名人が招待された食事会(というのかな?)で、「歌手、宇多田ヒカルさんはブッシュ大統領に「コロンビア大学に通っているそうですね?』と聞かれ…」というアナウンサーの言葉と共に映った映像(音声無し)だ。答える宇多田さんの口元と顔は"Yeah."と言っているように動いた。アメリカ人なら大統領に対して、そういう状況で"Yeah."という返事はまずしない。日本人が日本の首相に「うん。」と返事をする人がまずいないように(いるかもだけど)。
だけれど、たとえば日本人が日本語と米語のバイリンガルであるということは、日本人がアメリカ人になることを意味するわけではない。だから、米語が堪能であっても、何もかもアメリカ人と同じ行動様式をとれるとは限らないし、また、とらないという選択もある。そうなると、前者の場合(アメリカ人と同じ行動様式をとれるろは限らないという場合)、バイリンガルという二つの言葉を操る人は、自分はどちらの文化に所属するのか、ということを芯の部分で見極めておかないと、なかなかにつらいことになり得る。「アメリカ文化とも同調しづらく、日本文化とも同調しづらいワタシ」になっちゃってる可能性があるのだ。
話は変わるけど、昨日、人と会っていて、「ワタシは自分を大きく見せたいと思ってる、ダケド、大きく見せても実際は大きい人間じゃないから大きく見えるだけなんて仕方ないとも思ってる、ダケド、大きく見せたいと思ってる、ダケド、大きく見えるだけではしょうがないし無意味だ、の循環少数入っちゃってる!」とドキッとした。ヤギ、じゃなくて、ヤベ。
ワタシは頭が悪いもんで、パシリ程度に扱われることがときにある。これが、「女だから、日本人だから」と軽く扱われるんだったら、まだいいんだけど。女であることも日本人であることも属性なので、本体のワタシ自身よりは位置づけが浅いのだ(女であることよりも日本人であることの方が本体には近い)。でも、本体の本人がアホなせいでとなると、すげぇ嫌。当たってるじゃん、と、ばかりに。そんな私の学生時代だが、頭は悪いが成績は良かった。「でも、成績は良いし」は頼りになる拠り所だった。それがさぁ、学校出たら、本体で勝負するしかないじゃん。まぁ、爾来二十数年頑張りはしてるんだけどさぁ。
ということで、そこが気になるポイントなもんで、ワタシは軽く扱われることにすごく敏感だ。で、思うんだけど、軽く扱われることを嫌う人は(たいてい誰でも嫌だと思うので、特に嫌う人はってことで)、パワーゲームに敏感ってことで、パワーゲームという天秤に忠実に、しっかり或いはさり気に或いは自分ではあまり気づかず、軽い方をちゃんと軽く扱ってたりする。
まず、自分は棚に上がって、すぐ機嫌を損ねるある知り合いのことを思い出してそんなことを思った。そして、棚から降りますが、自分ではそういう部分もあるけれどそれだけはやめようと思っているんだけれど、ワタシのパワーゲームは、天富・名声・地位・権威という天秤じゃなくって、「いい人」天秤だったりする。多くの人が「いい人」を好きだろうけれど、ワタシはそこに弱みがあるもんで、すっごくすっごく憧れ過ぎちゃう。その人はワタシがモテナイモノ何でも持ってるとまで思い込んだりする。
英語だったり驕りたかぶりだったり。
今日の私はイライラ過ごした。
今日も人に会って話を聞いた。今日も良い話を聞くことができた。アメリカでの就職が決まって、今は希望と不安の只中にいるその人は、「アメリカで暮らしたことに対する自分なりの答えを見つける」と言っていた。
アメリカで暮らしたら英語が話せるようになる、というのは実は誤解で、堪能というレベルにはなかなか達しない。よっぽど賢い人は別かもだけど。1年暮らしてじゃぁもう英語ぺらぺらだね、なんてことはない。絶対はないけど、1年では限りなく絶対に近くない。2、3年でも結構オンナジ。
「授業は受けられる、毎日の生活もこなしていける、『だけど…』」の『だけど』や、「結婚相手はアメリカ人だ、普段の会話はだから英語だ、日常生活には何の不便もない、『だけど…』」の『だけど』はなかなか消えない。下手すりゃ10年も続く。あっ、それは私か。アメリカ人の中で働いて2、3年が経つと、『だけど』は消えていく傾向にあるかも、だけど。
うまく説明できるかな。
『だけど』は多くの人が抱くけれど、その処理は人それぞれで異なる。どうしても『だけど』の部分に拘ってしまう人もいるし、拘らない人もいるし、アメリカ人の中で働いていたなら、『だけど』を感情としては理解しても、そんなこと言ってられないし。
留学して大学を卒業したとする。それでも、卒業して就職するときに、英語に不安を覚える人も少なくない。これは、英語がしゃべれないから、ではもちろんなく、「ネイティブに限りなく近い更に上の段階」をどうしても意識するからだ。仕事では、英語以前に、英語を道具としてどうビジネスをするかが一番重要だ。でも、その道具とするための英語力はやっぱり必要なのだ。ここが気にならない人は、すごいアホか逆にとても賢い人だ。
もう一つ言えるのは、これはたいしたことじゃないかもだけど、やっぱり「単語は覚えないと知らない」ってことだ。大人になってアメリカ暮らしを始めた場合、小学校の授業で使う言い回しを知らなかったりもするし、ビジネスの場にいなければ、そこで交わされる語彙も覚える機会はないわけだ。
前にも書いたけれど、ブッシュが訪日したときにたまたま日本に帰っていて、その模様をテレビで見た。各界有名人が招待された食事会(というのかな?)で、「歌手、宇多田ヒカルさんはブッシュ大統領に「コロンビア大学に通っているそうですね?』と聞かれ…」というアナウンサーの言葉と共に映った映像(音声無し)だ。答える宇多田さんの口元と顔は"Yeah."と言っているように動いた。アメリカ人なら大統領に対して、そういう状況で"Yeah."という返事はまずしない。日本人が日本の首相に「うん。」と返事をする人がまずいないように(いるかもだけど)。
だけれど、たとえば日本人が日本語と米語のバイリンガルであるということは、日本人がアメリカ人になることを意味するわけではない。だから、米語が堪能であっても、何もかもアメリカ人と同じ行動様式をとれるとは限らないし、また、とらないという選択もある。そうなると、前者の場合(アメリカ人と同じ行動様式をとれるろは限らないという場合)、バイリンガルという二つの言葉を操る人は、自分はどちらの文化に所属するのか、ということを芯の部分で見極めておかないと、なかなかにつらいことになり得る。「アメリカ文化とも同調しづらく、日本文化とも同調しづらいワタシ」になっちゃってる可能性があるのだ。
話は変わるけど、昨日、人と会っていて、「ワタシは自分を大きく見せたいと思ってる、ダケド、大きく見せても実際は大きい人間じゃないから大きく見えるだけなんて仕方ないとも思ってる、ダケド、大きく見せたいと思ってる、ダケド、大きく見えるだけではしょうがないし無意味だ、の循環少数入っちゃってる!」とドキッとした。ヤギ、じゃなくて、ヤベ。
ワタシは頭が悪いもんで、パシリ程度に扱われることがときにある。これが、「女だから、日本人だから」と軽く扱われるんだったら、まだいいんだけど。女であることも日本人であることも属性なので、本体のワタシ自身よりは位置づけが浅いのだ(女であることよりも日本人であることの方が本体には近い)。でも、本体の本人がアホなせいでとなると、すげぇ嫌。当たってるじゃん、と、ばかりに。そんな私の学生時代だが、頭は悪いが成績は良かった。「でも、成績は良いし」は頼りになる拠り所だった。それがさぁ、学校出たら、本体で勝負するしかないじゃん。まぁ、爾来二十数年頑張りはしてるんだけどさぁ。
ということで、そこが気になるポイントなもんで、ワタシは軽く扱われることにすごく敏感だ。で、思うんだけど、軽く扱われることを嫌う人は(たいてい誰でも嫌だと思うので、特に嫌う人はってことで)、パワーゲームに敏感ってことで、パワーゲームという天秤に忠実に、しっかり或いはさり気に或いは自分ではあまり気づかず、軽い方をちゃんと軽く扱ってたりする。
まず、自分は棚に上がって、すぐ機嫌を損ねるある知り合いのことを思い出してそんなことを思った。そして、棚から降りますが、自分ではそういう部分もあるけれどそれだけはやめようと思っているんだけれど、ワタシのパワーゲームは、天富・名声・地位・権威という天秤じゃなくって、「いい人」天秤だったりする。多くの人が「いい人」を好きだろうけれど、ワタシはそこに弱みがあるもんで、すっごくすっごく憧れ過ぎちゃう。その人はワタシがモテナイモノ何でも持ってるとまで思い込んだりする。
英語だったり驕りたかぶりだったり。
今日の私はイライラ過ごした。
