2006/3/31 22:24
ネット記事の正誤 記事・ニュースから思うこと
インターネット内の記事は、必ずしも正しいとは限らない。
最近は、疑問点などを、書物などの紙媒体よりも、インターネットの検索で済ませてしまう場合が多い。
しかし、その偉大で膨大なる知識の宝庫と思われているインターネットには、意外と落とし穴があるようだ。
つまり、インターネット内の記事は、必ずしも正しいとは限らないという点だ。
たとえ、正しいとは限らないと認識していても、素人には正誤の判定ができず、鵜呑みにしてしまう場合が多い。
その辺りのことを、加藤寛一郎さん(東大名誉教授)がコラムに書いておられる。
氏が、ご自分の本を出版された際に、事前に何度も複数の校閲者が目を通したにもかかわらず、その後、編集者が若い人に代わり、改めて校閲者に読ませたところ、20箇所近くの間違いを指摘されたという。
その間違いの根拠として使用されたのが、インターネットの検索から得た記事の数々だったそうだ。
が、結論は、インターネットの記事の方が誤りだった。
「インターネットの書き手には、校閲者がいない。
ある種のネット記事には、誤りが加速度的に増殖しているように見える。
しかもそれが、独り歩きしている。」
と氏はおっしゃる。
その点、新聞や雑誌・書物など公的紙媒体の情報は、出版までに複数の目で確認されている。
記事の書き手も特定できる。
しかし、インターネット内に漂う情報の多くは匿名であり、出所の責任などを問いただされることは殆ど無い。
つまり、ネット内には、無責任な記事が横行しているということだ。(もちろん、当ブログも含む)
私が日頃、インターネットを使いながら注意していることは、
「匿名サイトの情報は鵜呑みにしない」
ということ。(しつこいようですが、当ブログも該当しますので、誤りにはくれぐれもご注意下さい・・)
それに対し、きちんと実名で掲載されている識者の方々の記事は、記事に対する責任をしっかり持っていらしゃるので、公的紙媒体と同じように信頼するに値する情報と言えよう。
ネット至上主義の傾向は、今後ますます高まると予想される。
くれぐれも間違った情報に振り回されないよう、ネット記事とは賢く付き合いたい。
最近は、疑問点などを、書物などの紙媒体よりも、インターネットの検索で済ませてしまう場合が多い。
しかし、その偉大で膨大なる知識の宝庫と思われているインターネットには、意外と落とし穴があるようだ。
つまり、インターネット内の記事は、必ずしも正しいとは限らないという点だ。
たとえ、正しいとは限らないと認識していても、素人には正誤の判定ができず、鵜呑みにしてしまう場合が多い。
その辺りのことを、加藤寛一郎さん(東大名誉教授)がコラムに書いておられる。
氏が、ご自分の本を出版された際に、事前に何度も複数の校閲者が目を通したにもかかわらず、その後、編集者が若い人に代わり、改めて校閲者に読ませたところ、20箇所近くの間違いを指摘されたという。
その間違いの根拠として使用されたのが、インターネットの検索から得た記事の数々だったそうだ。
が、結論は、インターネットの記事の方が誤りだった。
「インターネットの書き手には、校閲者がいない。
ある種のネット記事には、誤りが加速度的に増殖しているように見える。
しかもそれが、独り歩きしている。」
と氏はおっしゃる。
その点、新聞や雑誌・書物など公的紙媒体の情報は、出版までに複数の目で確認されている。
記事の書き手も特定できる。
しかし、インターネット内に漂う情報の多くは匿名であり、出所の責任などを問いただされることは殆ど無い。
つまり、ネット内には、無責任な記事が横行しているということだ。(もちろん、当ブログも含む)
私が日頃、インターネットを使いながら注意していることは、
「匿名サイトの情報は鵜呑みにしない」
ということ。(しつこいようですが、当ブログも該当しますので、誤りにはくれぐれもご注意下さい・・)
それに対し、きちんと実名で掲載されている識者の方々の記事は、記事に対する責任をしっかり持っていらしゃるので、公的紙媒体と同じように信頼するに値する情報と言えよう。
ネット至上主義の傾向は、今後ますます高まると予想される。
くれぐれも間違った情報に振り回されないよう、ネット記事とは賢く付き合いたい。
2006/3/30 21:33
幻のトリクル・ダウン理論 記事・ニュースから思うこと
ショックです、この結果。
社会経済生産性本部が発表した
「2005年度 能力・仕事別賃金実態調査」
従業員1000人以上の大企業と、100人未満の小企業との比較
大卒一般職の初任給
大企業・・・21万3千円
小企業・・・20万3千円
まあ、これくらいの差は良いでしょう。
これが部長級になると
大企業・・・69万5千円
小企業・・・51万6千円
役職が上がれば上がるほど、その金額の差は拡大していく傾向にある。
過去三年間の月給金額の変化は、
大企業の部長級
68万円⇒69万2千円⇒69万5千円
と、着実な伸び。
それに対して小企業は、
51万円⇒49万4千円⇒51万6千円
と、伸び悩み。
業種によって微妙な違いは見られると思うが、大体がこんなところなのだろう。
大企業はここ数年、業績を回復してきているらしいが、中小企業には全く反映されていないのが現状。
おいしいところは全て大企業に持って行かれ、中小は、相変わらず苦境に立たされている。(弊社だけか??)
トリクル・ダウン理論(trickle-down theory)といって、富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透(トリクルダウン)するという経済理論があるが、今の所、その理論は成立していないようだ。
それどころか、今後ますます、富める者はより富み、貧しきものはより貧しくなっていくような危惧の念さえ抱く。
たとえ貧しき者であっても、富める者と同じように、勤勉に働いているはずだ。(一部例外を除く)
トリクル・ダウンの回路は、どこかでプッツリ遮断されているのかもしれぬなぁ。
働けど働けど、賃金上がらず・・・
(従業員の皆様、ゴメンなさい・・・)
社会経済生産性本部が発表した
「2005年度 能力・仕事別賃金実態調査」
従業員1000人以上の大企業と、100人未満の小企業との比較
大卒一般職の初任給
大企業・・・21万3千円
小企業・・・20万3千円
まあ、これくらいの差は良いでしょう。
これが部長級になると
大企業・・・69万5千円
小企業・・・51万6千円
役職が上がれば上がるほど、その金額の差は拡大していく傾向にある。
過去三年間の月給金額の変化は、
大企業の部長級
68万円⇒69万2千円⇒69万5千円
と、着実な伸び。
それに対して小企業は、
51万円⇒49万4千円⇒51万6千円
と、伸び悩み。
業種によって微妙な違いは見られると思うが、大体がこんなところなのだろう。
大企業はここ数年、業績を回復してきているらしいが、中小企業には全く反映されていないのが現状。
おいしいところは全て大企業に持って行かれ、中小は、相変わらず苦境に立たされている。(弊社だけか??)
トリクル・ダウン理論(trickle-down theory)といって、富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透(トリクルダウン)するという経済理論があるが、今の所、その理論は成立していないようだ。
それどころか、今後ますます、富める者はより富み、貧しきものはより貧しくなっていくような危惧の念さえ抱く。
たとえ貧しき者であっても、富める者と同じように、勤勉に働いているはずだ。(一部例外を除く)
トリクル・ダウンの回路は、どこかでプッツリ遮断されているのかもしれぬなぁ。
働けど働けど、賃金上がらず・・・
(従業員の皆様、ゴメンなさい・・・)
2006/3/29 21:59
新入社員は「ブログ型」 記事・ニュースから思うこと
いよいよ今年も、新卒者の新しいスタートの日が近付いてきた。
休日にすっかり慣れた学生時代から一転、社会生活は厳しいのだ。(自分自身の経験上)
新入社員にも、その年その年の特徴があるらしく、
平成18年度新入社員のタイプは、「ブログ型」と命名されたそうだ。
この型の特徴は、表面は従順だが、ネットワーク力に優れ、インターネットでは大胆に自己主張する傾向があるということ。
財団法社会経済生産性本部 「職業のあり方研究会」(座長:森清・山野美容芸術短大名誉教授)が、企業や学校の就職・採用担当者の協力で取りまとめたものなのだそうだ。
ちなみに、平成17年度の新入社員のタイプは「発光ダイオード型」と命名。電流を流す(=ちゃんと指導する)と、きれいに光る(=いい仕事をする)が、決して熱くはならない(=冷めている)ため。
以下、
平成16年度 「ネットオークション型」
ネット上で取引が始まり、良いものには人気が殺到しさっさと売れる一方で、PR不足による売れ残りも多数。一方で、ブランド名やアピールに釣られて高値で落札したものの、入手後にアテが外れることもある。
平成15年度 「カメラ付きケータイ型」
その場で瞬時に情報を取り込み発信するセンスや処理能力を持ち、機能も豊富だが、経験や知識がなかなか蓄積されない。また、中高年者にとって使いこなしきれない側面もある。
なかなか言い得て妙である。
今年の新入社員について同本部は、
「頭ごなしに叱ると、会社の枠を超えた横の繋がりで心情を吐露する」
と分析。
その傾向と対策は、
「自分を認めてもらいたい強い欲求があり、認められると思いがけない力を発揮するが、本人の気分や他人の評価一つで、すぐになえてしまう傾向もある。暖かいまなざしと共感が育成のカギ」
なのだそうだ。
どうも、スパルタなんぞは厳禁のようだ。
この命名は昭和48年から始まったのだそうで、当初の頃のものと比較してみると、これまた面白い。
昭和48年度 パンダ型
おとなしく可愛いが、人になつかず世話が大変。
昭和49年度 ムーミン型
人畜無害でおとなしいが、大人か子供か得体知れず。
やはり古くから、新人というのはややこしいものなのだ。
中でも傑作だったのが、これ。
平成14年度 ボディピロー型(抱き付き枕)
クッション性あり、等身大に近いので気分はいいが、上司・先輩が気ままに扱いすぎると、床に落ちたり(早期退職)、変形しやすいので、素材(新人の質)によっては、いろいろなメンテナンスが必要となる。
・・・・
誰にでも新人の時代はあったものだが、年数が経つにつれ、その頃の自分のことなんぞすっかり忘れてしまうものだ。
それにしても、こう毎年傾向が変化するとなると、対策も一筋縄ではいかない。
先輩・上司も、決して楽ではないのだ・・・
休日にすっかり慣れた学生時代から一転、社会生活は厳しいのだ。(自分自身の経験上)
新入社員にも、その年その年の特徴があるらしく、
平成18年度新入社員のタイプは、「ブログ型」と命名されたそうだ。
この型の特徴は、表面は従順だが、ネットワーク力に優れ、インターネットでは大胆に自己主張する傾向があるということ。
財団法社会経済生産性本部 「職業のあり方研究会」(座長:森清・山野美容芸術短大名誉教授)が、企業や学校の就職・採用担当者の協力で取りまとめたものなのだそうだ。
ちなみに、平成17年度の新入社員のタイプは「発光ダイオード型」と命名。電流を流す(=ちゃんと指導する)と、きれいに光る(=いい仕事をする)が、決して熱くはならない(=冷めている)ため。
以下、
平成16年度 「ネットオークション型」
ネット上で取引が始まり、良いものには人気が殺到しさっさと売れる一方で、PR不足による売れ残りも多数。一方で、ブランド名やアピールに釣られて高値で落札したものの、入手後にアテが外れることもある。
平成15年度 「カメラ付きケータイ型」
その場で瞬時に情報を取り込み発信するセンスや処理能力を持ち、機能も豊富だが、経験や知識がなかなか蓄積されない。また、中高年者にとって使いこなしきれない側面もある。
なかなか言い得て妙である。
今年の新入社員について同本部は、
「頭ごなしに叱ると、会社の枠を超えた横の繋がりで心情を吐露する」
と分析。
その傾向と対策は、
「自分を認めてもらいたい強い欲求があり、認められると思いがけない力を発揮するが、本人の気分や他人の評価一つで、すぐになえてしまう傾向もある。暖かいまなざしと共感が育成のカギ」
なのだそうだ。
どうも、スパルタなんぞは厳禁のようだ。
この命名は昭和48年から始まったのだそうで、当初の頃のものと比較してみると、これまた面白い。
昭和48年度 パンダ型
おとなしく可愛いが、人になつかず世話が大変。
昭和49年度 ムーミン型
人畜無害でおとなしいが、大人か子供か得体知れず。
やはり古くから、新人というのはややこしいものなのだ。
中でも傑作だったのが、これ。
平成14年度 ボディピロー型(抱き付き枕)
クッション性あり、等身大に近いので気分はいいが、上司・先輩が気ままに扱いすぎると、床に落ちたり(早期退職)、変形しやすいので、素材(新人の質)によっては、いろいろなメンテナンスが必要となる。
・・・・
誰にでも新人の時代はあったものだが、年数が経つにつれ、その頃の自分のことなんぞすっかり忘れてしまうものだ。
それにしても、こう毎年傾向が変化するとなると、対策も一筋縄ではいかない。
先輩・上司も、決して楽ではないのだ・・・
2006/3/28 21:32
Yeah!遺影 記事・ニュースから思うこと
昨日に引き続いての話題なのだが・・・
葬儀に於いて、一番人目を惹くものとはなんだろうと考えてみるに、それは何と言っても遺影ではないだろうか。
結婚式なら、一番注目を集めるのは、主役の花婿・花嫁。
が、葬儀の場合、主役は棺桶の中。
通常、蓋を開けない限り、見ることは出来ない。
そこで、遺影というものが登場する。
参列者は、その遺影を眺めながら、故人を偲ぶ。
いわば、葬儀の主役とは遺影なのである。
時々、とても薄ボケた遺影を見かける。
多分、小さなスナップ写真を、目いっぱい引き伸ばしたものなのだろう。
不思議なことに、何となく、故人の印象も薄ボケてくる。
先日、夫が参列した葬儀では、故人は40代後半のご婦人であったにもかかわらず、遺影はどうみても20代前半だったとのこと。
後で事情を聞いてみたら、喪主であるご主人が、彼女と初デートした時に、初めて彼女を撮った写真なのだとか。
そう聞けば、なるほど、そのご夫婦にとっては、貴重な思い出の一枚。
奥様を偲ぶに値する一枚だ。
が、我が家の夫に言わせると、
「50近くにもなって、20代前半の写真を使うのはちょっと無理があるよなぁ〜」
とのことだが・・・。
ある程度亡くなった年齢に近い、違和感の無い写真を使うのが一般的ではあるが、故人が一番輝いていた時代の写真を使うというのも、それはそれでまた、良いことなのではないかと思う。
亡くなってから、遺影を作るまでというのは、かなり時間的に苦しい。
ゆっくり進行する病気ならば、それなりに写真を選んでいる時間はあるのかもしれないが、突然、事故などで亡くなった場合は、呆然としてしまうだろう。
しかも写真選びは、なかなか大変な作業だ。
どれを選んだら良いのか迷ってしまう。
他にやるべきことも多いので、適当に選んでしまいたい所だが、何しろ遺影は、故人の身代わり。注目度100パーセントなのだから、責任は重大だ。
葬儀スタイルと同じく、死人に口無し、あれがいい、これがいいなどと意見を言ってくれるわけも無い。
が、故人の気に入らない写真を使ったりしたら、あの世にいても落ち着かず、写真を差し替えに、天国から戻ってくるやもしれぬ。
自分の遺影が果たしてどのようなものに決定されたのか、是非知りたいという棺桶の主もいることであろう。
といっても、棺桶から顔を出して見るわけにもいかず・・・
そこで、最近増えているのが、生前に自分の遺影を撮影、あるいは使用する写真を予め決定しておくという方法である。
遺影用として、プロに撮影してもらうというケースも結構あるようだ。
年齢が進む毎に、写真の更新をするのも新鮮でいいかもしれない。
自分の気に入った遺影ならば、安心して成仏できそうだ・・・。
葬儀に於いて、一番人目を惹くものとはなんだろうと考えてみるに、それは何と言っても遺影ではないだろうか。
結婚式なら、一番注目を集めるのは、主役の花婿・花嫁。
が、葬儀の場合、主役は棺桶の中。
通常、蓋を開けない限り、見ることは出来ない。
そこで、遺影というものが登場する。
参列者は、その遺影を眺めながら、故人を偲ぶ。
いわば、葬儀の主役とは遺影なのである。
時々、とても薄ボケた遺影を見かける。
多分、小さなスナップ写真を、目いっぱい引き伸ばしたものなのだろう。
不思議なことに、何となく、故人の印象も薄ボケてくる。
先日、夫が参列した葬儀では、故人は40代後半のご婦人であったにもかかわらず、遺影はどうみても20代前半だったとのこと。
後で事情を聞いてみたら、喪主であるご主人が、彼女と初デートした時に、初めて彼女を撮った写真なのだとか。
そう聞けば、なるほど、そのご夫婦にとっては、貴重な思い出の一枚。
奥様を偲ぶに値する一枚だ。
が、我が家の夫に言わせると、
「50近くにもなって、20代前半の写真を使うのはちょっと無理があるよなぁ〜」
とのことだが・・・。
ある程度亡くなった年齢に近い、違和感の無い写真を使うのが一般的ではあるが、故人が一番輝いていた時代の写真を使うというのも、それはそれでまた、良いことなのではないかと思う。
亡くなってから、遺影を作るまでというのは、かなり時間的に苦しい。
ゆっくり進行する病気ならば、それなりに写真を選んでいる時間はあるのかもしれないが、突然、事故などで亡くなった場合は、呆然としてしまうだろう。
しかも写真選びは、なかなか大変な作業だ。
どれを選んだら良いのか迷ってしまう。
他にやるべきことも多いので、適当に選んでしまいたい所だが、何しろ遺影は、故人の身代わり。注目度100パーセントなのだから、責任は重大だ。
葬儀スタイルと同じく、死人に口無し、あれがいい、これがいいなどと意見を言ってくれるわけも無い。
が、故人の気に入らない写真を使ったりしたら、あの世にいても落ち着かず、写真を差し替えに、天国から戻ってくるやもしれぬ。
自分の遺影が果たしてどのようなものに決定されたのか、是非知りたいという棺桶の主もいることであろう。
といっても、棺桶から顔を出して見るわけにもいかず・・・
そこで、最近増えているのが、生前に自分の遺影を撮影、あるいは使用する写真を予め決定しておくという方法である。
遺影用として、プロに撮影してもらうというケースも結構あるようだ。
年齢が進む毎に、写真の更新をするのも新鮮でいいかもしれない。
自分の気に入った遺影ならば、安心して成仏できそうだ・・・。
2006/3/27 20:24
葬儀スタイル 記事・ニュースから思うこと
人の死というのはいつどこでやってくるかわからない。
闘病の末の死であることもあれば、突然の事故死であることも、また多い。
唯一つ言えるのは、生命あるもの全てに、死は確実に訪れるということだ。
そして、屍を葬る儀式、葬儀というものが存在する。
ならば、この世がある限り、絶対に無くならない商売は、葬儀屋かもしれない。
葬儀にもいろいろな形式があり、最近では、故人が生前に自分自身の葬儀プログラムを作成しておいたり、宗教に関係無く、故人の愛したものにこだわった葬儀などなど、個性化が進んでいるようだ。
とはいっても、日本の場合、まだまだ一般的な仏式が多い。
死亡後、一旦自宅に引き取られ、日を変えて、通夜・葬儀が執り行われる。
昔はご近所の助けなどをお借りしての儀式が多かったようだが、最近では全てをプロの葬儀屋に任せ、会場も、専用のセレモニーホールで行われることの方が断然多い。
例えば病死の場合、何時になるかわからない死をようやく看取り、親族への連絡、通夜・葬儀など一連の手続きと儀式を終える頃には、遺族はもう精魂尽き果てるくらいに疲れ切ってしまう。これから先のことも考えねばならない。悲しみを感じる余裕さえないくらいに疲れ果てる。
一人の人間の死を看取って送り出すというのは、そう簡単なことではないのだ。
しかし、その重い儀式も、変化の兆しが見えるようだ。
最近徐々に増えつつあるという「直葬」がそれだ
直葬とは、死亡した病院や自宅から、直接火葬場へ向かうスタイル。
当然、通夜・葬儀・告別式は無い。
あるのは、火葬場での簡単なお別れや、住職の読経程度。
日本消費者協会が2003年に実施した調査では、葬儀にかかる費用は全国平均で236万6千円。しかし、直葬では、30万円程で済むそうだ。
東京では、既に三割近くが直葬を選択しているとのこと。
一時代前は、セレモニーホールに全てお任せの葬儀スタイルでさえ否定的に捉えられていた。
が、今ではそれが一般的になっている。
と、考えると、葬儀に対する価値観が、今後、お手軽・簡素化へと変化を遂げ、直葬が一般的になる時代が来ないとは言い切れない。
葬儀に金銭と労力をかけることが、必ずしも故人を喜ばせるとは限らない。
愛する遺族になるべく手間を掛けさせたくないと望む人も、多いかもしれない。
以前は、身寄りの無い人の葬儀スタイルだったという直葬。
故人を偲び、故人を悼む気持ちを一番大切にできるのは、一体どのようなスタイルなのだろうか。
少なくとも、悲しみを感じる余裕も無いくらいに疲れ切ったり、支払いにおののくようなスタイルではないように思うが・・。
闘病の末の死であることもあれば、突然の事故死であることも、また多い。
唯一つ言えるのは、生命あるもの全てに、死は確実に訪れるということだ。
そして、屍を葬る儀式、葬儀というものが存在する。
ならば、この世がある限り、絶対に無くならない商売は、葬儀屋かもしれない。
葬儀にもいろいろな形式があり、最近では、故人が生前に自分自身の葬儀プログラムを作成しておいたり、宗教に関係無く、故人の愛したものにこだわった葬儀などなど、個性化が進んでいるようだ。
とはいっても、日本の場合、まだまだ一般的な仏式が多い。
死亡後、一旦自宅に引き取られ、日を変えて、通夜・葬儀が執り行われる。
昔はご近所の助けなどをお借りしての儀式が多かったようだが、最近では全てをプロの葬儀屋に任せ、会場も、専用のセレモニーホールで行われることの方が断然多い。
例えば病死の場合、何時になるかわからない死をようやく看取り、親族への連絡、通夜・葬儀など一連の手続きと儀式を終える頃には、遺族はもう精魂尽き果てるくらいに疲れ切ってしまう。これから先のことも考えねばならない。悲しみを感じる余裕さえないくらいに疲れ果てる。
一人の人間の死を看取って送り出すというのは、そう簡単なことではないのだ。
しかし、その重い儀式も、変化の兆しが見えるようだ。
最近徐々に増えつつあるという「直葬」がそれだ
直葬とは、死亡した病院や自宅から、直接火葬場へ向かうスタイル。
当然、通夜・葬儀・告別式は無い。
あるのは、火葬場での簡単なお別れや、住職の読経程度。
日本消費者協会が2003年に実施した調査では、葬儀にかかる費用は全国平均で236万6千円。しかし、直葬では、30万円程で済むそうだ。
東京では、既に三割近くが直葬を選択しているとのこと。
一時代前は、セレモニーホールに全てお任せの葬儀スタイルでさえ否定的に捉えられていた。
が、今ではそれが一般的になっている。
と、考えると、葬儀に対する価値観が、今後、お手軽・簡素化へと変化を遂げ、直葬が一般的になる時代が来ないとは言い切れない。
葬儀に金銭と労力をかけることが、必ずしも故人を喜ばせるとは限らない。
愛する遺族になるべく手間を掛けさせたくないと望む人も、多いかもしれない。
以前は、身寄りの無い人の葬儀スタイルだったという直葬。
故人を偲び、故人を悼む気持ちを一番大切にできるのは、一体どのようなスタイルなのだろうか。
少なくとも、悲しみを感じる余裕も無いくらいに疲れ切ったり、支払いにおののくようなスタイルではないように思うが・・。
2006/3/26 21:04
卒業アルバム 子育てネタ
昨日、長男の大学の卒業アルバムが送られてきた。
代金は一万円。
希望者のみの購入である。
長男は要らないと言っていた。
私も迷った。
一万円のアルバムはちょっときつい。
しかも長男はクラブやサークルにも入っていなかったようなので、行事の写真に登場する可能性は、限りなくゼロに近い。
望みの綱は、研究室の写真と個人写真である。
果たしてそれだけのものに一万円を費やす価値があるのだろうか・・・
これはもう、親としての葛藤だ。
卒業アルバムは、我が子の唯一の記念品だ。
親にしてみれば、「可愛い子どもを大学にやって、卒業させた」という一つの物的証拠でもある。
購入しないと、きっと後悔するに違いない。
ならば思い切って・・・
と、一万円を指定講座に振り込んだ。
昨日着いたにもかかわらず、今日の夕方になって、ようやく開ける気になった。
とりあえず、買ってしまえばそれで良いのであって、中身にはさほど興味は無かったりする。
このアルバム、とにかく重い。
これが一万円の重みというものか。
その重量を実感するため、敢えてテーブルの上ではなく、自分のひざの上に乗せて、ページをめくってみた。
お、重い・・・
だんだんしびれてきた。
ページをめくると、キャンパスやら、講義中の様子やら、学生同士の談笑の場面やら・・まさに青春という時の輝きが、まっすぐ目に飛び込んできた。
「そうか、あの子はこういう空間にいたんだ・・・」
長男の日々の様子が、ぼんやり目に浮かんできた。
重いアルバムを持つ手がずっしりと、彼の4年間の重さをも感じ取っているようだった。
後半は、個人写真にページがさかれていた。
総勢何名なのかは知らないが、学部によってキャンパスが数箇所に分かれているくらいなので、人数は相当多い。
ようやくその中にひとつ、長男の姿を見つけた。
3cm×4cm程の白黒写真だ。
写真嫌いの彼が、爽やかな笑顔で写っている。
こんないい表情で写っている彼の写真を見るのは、小学校以来だ。
この小さな写真を見ることができただけで、なんだか一万円の価値があったように思えた。
本当の卒業は半年後だが、この笑顔が今の充実を物語っているようで、嬉しかった。
相変わらず、親バカ健在である。
代金は一万円。
希望者のみの購入である。
長男は要らないと言っていた。
私も迷った。
一万円のアルバムはちょっときつい。
しかも長男はクラブやサークルにも入っていなかったようなので、行事の写真に登場する可能性は、限りなくゼロに近い。
望みの綱は、研究室の写真と個人写真である。
果たしてそれだけのものに一万円を費やす価値があるのだろうか・・・
これはもう、親としての葛藤だ。
卒業アルバムは、我が子の唯一の記念品だ。
親にしてみれば、「可愛い子どもを大学にやって、卒業させた」という一つの物的証拠でもある。
購入しないと、きっと後悔するに違いない。
ならば思い切って・・・
と、一万円を指定講座に振り込んだ。
昨日着いたにもかかわらず、今日の夕方になって、ようやく開ける気になった。
とりあえず、買ってしまえばそれで良いのであって、中身にはさほど興味は無かったりする。
このアルバム、とにかく重い。
これが一万円の重みというものか。
その重量を実感するため、敢えてテーブルの上ではなく、自分のひざの上に乗せて、ページをめくってみた。
お、重い・・・
だんだんしびれてきた。
ページをめくると、キャンパスやら、講義中の様子やら、学生同士の談笑の場面やら・・まさに青春という時の輝きが、まっすぐ目に飛び込んできた。
「そうか、あの子はこういう空間にいたんだ・・・」
長男の日々の様子が、ぼんやり目に浮かんできた。
重いアルバムを持つ手がずっしりと、彼の4年間の重さをも感じ取っているようだった。
後半は、個人写真にページがさかれていた。
総勢何名なのかは知らないが、学部によってキャンパスが数箇所に分かれているくらいなので、人数は相当多い。
ようやくその中にひとつ、長男の姿を見つけた。
3cm×4cm程の白黒写真だ。
写真嫌いの彼が、爽やかな笑顔で写っている。
こんないい表情で写っている彼の写真を見るのは、小学校以来だ。
この小さな写真を見ることができただけで、なんだか一万円の価値があったように思えた。
本当の卒業は半年後だが、この笑顔が今の充実を物語っているようで、嬉しかった。
相変わらず、親バカ健在である。
2006/3/25 19:49
ゆとり教育の成れの果て(親の場合) 子育てネタ
昨日は高1長女と中1次女は終業式だったようだ。
「ようだ」というのは、最近、子どもの学校行事をあまり把握していないからだ。
行事予定表なんてもの、実は全く見ていない。
授業参観と保護者会だけは、そのつどお知らせの紙をもらうので、仕事より優先にして、何とか皆出席しているが・・。
さて、三学期の個人懇談会は一体いつなのだろう・・と思っているうちに、とうとう終業式になってしまった。
そういえば、三学期の成績表だけは、親が貰いに行くのではなく、子どもに先生から直接渡されるのだった。
じゃあ楽だな〜とすっかり安心して、昨日の夕方、会社から戻った。
帰ったら、子ども達がすぐに成績表を見せてくれるだろう。
と、当然のように思っていた。
が、自宅には誰もいなかった。
子ども達が一旦帰った形跡はあるので、じゃあ成績表は、テーブルの上にでも置いてあるのかな〜
と思って見てみたが、どこにも見当たらない。
ならば子ども部屋へ行って確かめてみよう・・・
が、やはり無い。
じゃあ、カバンの中かな?
でも、親が勝手に子どものカバンを開けて成績表を見るのって、なんかおかしい。
やはり、子どもがちゃんと自分から親に、
「こんなんだったよ〜」
と、見せるのが正解だ。
仕方が無いので、子どもの帰りを待った。
しばらくして二人とも帰って来た。
さて、いよいよ成績表の登場だ。
・・と、思ってじっと待っていたが、二人とも、何事も無かったかのように、普通にいつもの会話が始まる。
成績表には程遠い雰囲気にシビレを切らし、とうとう私が話題を振った。
「今日、成績表貰って来たんでしょう?」
「うん、貰った。赤点は無かったから安心して」
と、長女。
「貰った。」
と、一言だけで終了の次女。
そこで、会話は途切れてしまった。
二人とも、全く見せようという気が無いらしい。
もっとも、そこで私が、
「どうだった?」
とかしつこく聞けば良いのだろうけど、なんだか突っ込む気になれない。
実のところ、私も大して見たいと思わないからだ。
どうしてなんだろ・・・
子どもの成績表に興味が湧かないなんて・・・
試験前、彼女達なりに一生懸命勉強していた姿をよく見ていたので、もうそれだけで充分だった。
あんまり感心した親じゃないなぁ・・
立派な親なら、きっと成績表を細かく分析して、あれこれきちんとアドヴァイスするんだろうなぁ・・・
ま、でも我が家はこれでいいや・・。
これぞ、ゆとり教育方針を真(ま)に受けてしまった親の、成れの果てである。
「ようだ」というのは、最近、子どもの学校行事をあまり把握していないからだ。
行事予定表なんてもの、実は全く見ていない。
授業参観と保護者会だけは、そのつどお知らせの紙をもらうので、仕事より優先にして、何とか皆出席しているが・・。
さて、三学期の個人懇談会は一体いつなのだろう・・と思っているうちに、とうとう終業式になってしまった。
そういえば、三学期の成績表だけは、親が貰いに行くのではなく、子どもに先生から直接渡されるのだった。
じゃあ楽だな〜とすっかり安心して、昨日の夕方、会社から戻った。
帰ったら、子ども達がすぐに成績表を見せてくれるだろう。
と、当然のように思っていた。
が、自宅には誰もいなかった。
子ども達が一旦帰った形跡はあるので、じゃあ成績表は、テーブルの上にでも置いてあるのかな〜
と思って見てみたが、どこにも見当たらない。
ならば子ども部屋へ行って確かめてみよう・・・
が、やはり無い。
じゃあ、カバンの中かな?
でも、親が勝手に子どものカバンを開けて成績表を見るのって、なんかおかしい。
やはり、子どもがちゃんと自分から親に、
「こんなんだったよ〜」
と、見せるのが正解だ。
仕方が無いので、子どもの帰りを待った。
しばらくして二人とも帰って来た。
さて、いよいよ成績表の登場だ。
・・と、思ってじっと待っていたが、二人とも、何事も無かったかのように、普通にいつもの会話が始まる。
成績表には程遠い雰囲気にシビレを切らし、とうとう私が話題を振った。
「今日、成績表貰って来たんでしょう?」
「うん、貰った。赤点は無かったから安心して」
と、長女。
「貰った。」
と、一言だけで終了の次女。
そこで、会話は途切れてしまった。
二人とも、全く見せようという気が無いらしい。
もっとも、そこで私が、
「どうだった?」
とかしつこく聞けば良いのだろうけど、なんだか突っ込む気になれない。
実のところ、私も大して見たいと思わないからだ。
どうしてなんだろ・・・
子どもの成績表に興味が湧かないなんて・・・
試験前、彼女達なりに一生懸命勉強していた姿をよく見ていたので、もうそれだけで充分だった。
あんまり感心した親じゃないなぁ・・
立派な親なら、きっと成績表を細かく分析して、あれこれきちんとアドヴァイスするんだろうなぁ・・・
ま、でも我が家はこれでいいや・・。
これぞ、ゆとり教育方針を真(ま)に受けてしまった親の、成れの果てである。
2006/3/24 20:37
エスカレーターの常識 記事・ニュースから思うこと
東京都内の駅や空港で、田舎から出てきたばかりの人を見分ける方法を教えます。
それは、エスカレーターや動く歩道で、堂々とど真ん中に立っている人です。
これは、ほぼ100パーセント、間違い無い見分け方です。
都内では、エスカレーターや動く歩道は、急いでいる人を右側から通すため、左端に詰めて立つのが常識です。
常識といっても、何か特別な規約が存在するわけではなく、暗黙の了解のようなものですけど・・。
しかし、これ、大阪では逆に、右に立つのが常識のようですから、そのどちらでもない地方の人々は、戸惑います。
田舎ではどうかというと、わざわざ端を空けている人などおりません。
二人連れなら、同じ段に並んで立って、会話を楽しみます。
小さい子ども連れならば、親と一緒に並び、しっかり手を繋いで立ちます。
田舎で、もしもエスカレータを駆け上がっている人がいたとしたら、その方がよっぽど奇異の目で見られます。
エスカレーターは、ほぼ中央に立って、左右好きな方の手すりにつかまる。
駆け上がるなんて、田舎では、迷惑・危険行為です。
そして、もう一つ、動く歩道・・・
残念ながら、田舎ではこれ自体、殆ど見かけませんので比較は出来ません・・・。
作家の中島梓さんが、あるコラムでおっしゃっています。
「右利きで足の悪い人間にとっては、右手でどうしてもつかまりたいのです」
「そんなに元気がいいならなんで階段を駆け下りないのでしょうか。急ぐのなら、階段を使ったらいいのじゃないでしょうか」
「足の悪い人、お年寄りなどは邪魔にされ、押しのけられる。これはおかしいのです」
と。
田舎では、エスカレーターは駆け上がったり駆け下りたりしないのが常識です。
もともとエスカレーターというものは、弱者の利便のために開発されたものなのではないかと思われます。
それがなぜ都会では、弱者を押しのけていち早く移動する手段として使われるようになったのでしょう。
たまに、右側は急いでいる人のために空けておくよう注意書きしているところを見かけます。(動く歩道などはそうかも)
最初からそのように書いてあれば、まあ、ここではそういうものなのかと諦めもつきますが・・・。
たまに東京へ行くと、
「あれ?ここって空けるの右だっけ?左だっけ?」
なんて一瞬迷うことがあります。
夫は平気な顔をしてど真ん中に立っています。
夫の後方をちらりと見ると、行く先を遮られ、迷惑そうな顔をした人が・・・
怖い怖い・・・
中島さんが提案なさる、
「エスカレーターの上は歩かない新常識」
果たして現代のこの忙しい都会で可能なのかな??
初めてエスカレーターが登場した頃の都会では、どうだったのでしょう。
最初から、右側を空けることになっていたとは決して思えませんが・・。
それは、エスカレーターや動く歩道で、堂々とど真ん中に立っている人です。
これは、ほぼ100パーセント、間違い無い見分け方です。
都内では、エスカレーターや動く歩道は、急いでいる人を右側から通すため、左端に詰めて立つのが常識です。
常識といっても、何か特別な規約が存在するわけではなく、暗黙の了解のようなものですけど・・。
しかし、これ、大阪では逆に、右に立つのが常識のようですから、そのどちらでもない地方の人々は、戸惑います。
田舎ではどうかというと、わざわざ端を空けている人などおりません。
二人連れなら、同じ段に並んで立って、会話を楽しみます。
小さい子ども連れならば、親と一緒に並び、しっかり手を繋いで立ちます。
田舎で、もしもエスカレータを駆け上がっている人がいたとしたら、その方がよっぽど奇異の目で見られます。
エスカレーターは、ほぼ中央に立って、左右好きな方の手すりにつかまる。
駆け上がるなんて、田舎では、迷惑・危険行為です。
そして、もう一つ、動く歩道・・・
残念ながら、田舎ではこれ自体、殆ど見かけませんので比較は出来ません・・・。
作家の中島梓さんが、あるコラムでおっしゃっています。
「右利きで足の悪い人間にとっては、右手でどうしてもつかまりたいのです」
「そんなに元気がいいならなんで階段を駆け下りないのでしょうか。急ぐのなら、階段を使ったらいいのじゃないでしょうか」
「足の悪い人、お年寄りなどは邪魔にされ、押しのけられる。これはおかしいのです」
と。
田舎では、エスカレーターは駆け上がったり駆け下りたりしないのが常識です。
もともとエスカレーターというものは、弱者の利便のために開発されたものなのではないかと思われます。
それがなぜ都会では、弱者を押しのけていち早く移動する手段として使われるようになったのでしょう。
たまに、右側は急いでいる人のために空けておくよう注意書きしているところを見かけます。(動く歩道などはそうかも)
最初からそのように書いてあれば、まあ、ここではそういうものなのかと諦めもつきますが・・・。
たまに東京へ行くと、
「あれ?ここって空けるの右だっけ?左だっけ?」
なんて一瞬迷うことがあります。
夫は平気な顔をしてど真ん中に立っています。
夫の後方をちらりと見ると、行く先を遮られ、迷惑そうな顔をした人が・・・
怖い怖い・・・
中島さんが提案なさる、
「エスカレーターの上は歩かない新常識」
果たして現代のこの忙しい都会で可能なのかな??
初めてエスカレーターが登場した頃の都会では、どうだったのでしょう。
最初から、右側を空けることになっていたとは決して思えませんが・・。
2006/3/23 21:21
大学のイメージアップ 記事・ニュースから思うこと
「生涯保証大学」
このキャッチコピーは、吉と出るか凶と出るか??
少子化が大学経営をますます脅かしていくと懸念される中、大学側は、より多くの学生獲得を狙って、新たなサービスに着手し始めている。
関西学院大学(兵庫県西宮市)が、打ち出したのは、卒業生を対象にした再就職・転職支援サービス。
同大学は、今年4月からこれをスタートさせるという。
支援の対象は、結婚やキャリアアップなどで退職した卒業生から、定年後の再就職までというから、どこかの保険会社ではないが、まさに一生涯保証というわけだ。
一般的に、大学を卒業したら後は自力で・・というのが当たり前のように思えるが、実は卒業後も、大学の恩恵に与ることはできる。
但し、それができるのは、一部の一流ブランド大学だけである。
その、○○大学卒という肩書きが、一生涯保証となるのだ。(と、世間では思われている)
しかし、それが叶うのはごく一部の人間だけ。
殆どの卒業生は、単に大学名だけでは決して保証にならない。
そこへ、この、「生涯保証大学」が登場したらどうだろうか。
学費出資者となる親のウケはかなりいいかもしれない。
いまどきの大学、就職支援の充実は当たり前。
就職率が高い大学は、やはりウケがいい。
自分の息子を見て思うのだが、これだけ高額の学費を捻出して卒業させるのだから、ニートなどとふざけたことを言い出したら、間違いなくぶっ飛ばすだろう。
が、考えてみたらこの再就職・転職というシチュエーション、一旦決めた職場を、辞めるということではないか。
定年退職後の再就職なら、それは大変素晴らしいことだが、新卒採用後数年で・・といった状況も含めるとなると、これは少々問題かもしれない。
当面は金融機関を対象とするそうだが、「生涯保証大学」を、安易に考えてしまうと、ますます過保護に拍車がかかるのではないかといった懸念も出てくる。
関西大学(大阪府吹田市)では昨年秋から同様のサービスを開始しているとのこと。
今後、他大学にも、一気に広がっていくかもしれない。
で、その分ますます学費が高騰したりするのだろうか・・
そんなに大学のイメージアップを図りたいのなら、単純に、入学金や学費をもっと下げて下されれば宜しいかと・・・
このキャッチコピーは、吉と出るか凶と出るか??
少子化が大学経営をますます脅かしていくと懸念される中、大学側は、より多くの学生獲得を狙って、新たなサービスに着手し始めている。
関西学院大学(兵庫県西宮市)が、打ち出したのは、卒業生を対象にした再就職・転職支援サービス。
同大学は、今年4月からこれをスタートさせるという。
支援の対象は、結婚やキャリアアップなどで退職した卒業生から、定年後の再就職までというから、どこかの保険会社ではないが、まさに一生涯保証というわけだ。
一般的に、大学を卒業したら後は自力で・・というのが当たり前のように思えるが、実は卒業後も、大学の恩恵に与ることはできる。
但し、それができるのは、一部の一流ブランド大学だけである。
その、○○大学卒という肩書きが、一生涯保証となるのだ。(と、世間では思われている)
しかし、それが叶うのはごく一部の人間だけ。
殆どの卒業生は、単に大学名だけでは決して保証にならない。
そこへ、この、「生涯保証大学」が登場したらどうだろうか。
学費出資者となる親のウケはかなりいいかもしれない。
いまどきの大学、就職支援の充実は当たり前。
就職率が高い大学は、やはりウケがいい。
自分の息子を見て思うのだが、これだけ高額の学費を捻出して卒業させるのだから、ニートなどとふざけたことを言い出したら、間違いなくぶっ飛ばすだろう。
が、考えてみたらこの再就職・転職というシチュエーション、一旦決めた職場を、辞めるということではないか。
定年退職後の再就職なら、それは大変素晴らしいことだが、新卒採用後数年で・・といった状況も含めるとなると、これは少々問題かもしれない。
当面は金融機関を対象とするそうだが、「生涯保証大学」を、安易に考えてしまうと、ますます過保護に拍車がかかるのではないかといった懸念も出てくる。
関西大学(大阪府吹田市)では昨年秋から同様のサービスを開始しているとのこと。
今後、他大学にも、一気に広がっていくかもしれない。
で、その分ますます学費が高騰したりするのだろうか・・
そんなに大学のイメージアップを図りたいのなら、単純に、入学金や学費をもっと下げて下されれば宜しいかと・・・
2006/3/22 20:26
能力の差異 記事・ニュースから思うこと
このところ、オリンピックやら、WBCやら、国際的大会が目白押しで、その度に、人間の美技に酔いしれる。
果たしてこれが同じ人間なのだろうか・・と思うこと度々。
やはり、この世に生を受けた時点で、既にデキが違うんだろうなぁ〜
と、半ば諦め状態。
そういえば、期待の我が子らも、特に何に秀でているわけでもない。
これは遺伝だ、許せ。
・・・と、思っていたら、どうもそうでもないらしい。
そうでもない、というのは、
「能力の生まれながらの差の有無」
についてである。
その辺のことを、脳研究家の、池谷 祐二(いけがや ゆうじ)さんがエッセイに書いておられる。
骨格や体型、体質など、体の性能・性質の「個体差」というのは確かに生まれながらのものであることが多い。
が、「脳」という部分だけを取り上げた場合、その生まれ持った個体差は、一般的に、微々たるものなのだそうだ。
脳の性能を左右するのは、育った環境であることが極めて多いとのこと。
その事実を証明するためによく引き出されるのが、「水頭症」患者の脳。
水頭症というのは、成長の過程で脳に水が溜まってしまい、脳が正常に発達できなる病気。
水頭症の脳は、正常の10パーセント程の大きさしかないそうだ。
しかし、このように小さく不完全な脳でも、人間として正常に判断したり、行動したり、思考したりできるのだという。
実際過去に、大学で数学賞を取るほど優秀な人もいたのだとか。(この人の場合、たまたま病院で脳を調べて、初めて水頭症と知った。)
つまり、人間の脳というのは、鍛え方の相違によって、かなり差が現れるということである。
これを裏返して言えば、自分が凡人である所以は、脳の鍛錬不足に尽きると言っても決して過言ではない・・か?
確かに、類稀な生まれつきの天才というのは存在するが、それはもう、全人類の中のほんの一握りに過ぎない。
そして、その偉大なる天才であっても、やはり努力無しには能力は発揮しきれないものだ。
そう考えると、凡人というのは、単に努力を怠った結果に過ぎないと言えるのかもしれない。
そのことを見事に証明してくれているのが、パラリンピックだ。
体の基本的な機能をフル装備しているはずの自分だが、決してフル装備ではないはずの彼ら彼女らのあの技の数々には圧倒されてしまう。
如何に自分が、せっかく生まれ持った能力を無駄使いしているか、できるはずの努力を怠っているかを痛感させられる。
池谷さんは、おっしゃる。
「自分の能力がいかにあるかは、つまるところ心がけ次第であるといえよう。意志の力と身辺環境への注意力、これが全てである」
と。
※ ※ ※ ※
池谷 祐二(いけがや ゆうじ)さん
1970年8月16日 静岡県藤枝市生まれ
1989年4月1日 東京大学・理科T類入学
1995年4月1日 日本学術振興会・特別研究員・DC
1998年3月30日 東京大学・大学院薬学系研究科にて薬学博士号取得
1998年4月1日 東京大学・大学院薬学系研究科・助手
2001年3月 日本薬理学会学術評議委員
2002年12月17日
〜2005年3月31日 米国ニューヨーク・コロンビア大学・生物科学講座・客員研究員
2006年2月1日 東京大学・大学院薬学系研究科・講師
「記憶力を強くする」
「海馬/脳は疲れない」
「進化しすぎた脳」他 著書多数
果たしてこれが同じ人間なのだろうか・・と思うこと度々。
やはり、この世に生を受けた時点で、既にデキが違うんだろうなぁ〜
と、半ば諦め状態。
そういえば、期待の我が子らも、特に何に秀でているわけでもない。
これは遺伝だ、許せ。
・・・と、思っていたら、どうもそうでもないらしい。
そうでもない、というのは、
「能力の生まれながらの差の有無」
についてである。
その辺のことを、脳研究家の、池谷 祐二(いけがや ゆうじ)さんがエッセイに書いておられる。
骨格や体型、体質など、体の性能・性質の「個体差」というのは確かに生まれながらのものであることが多い。
が、「脳」という部分だけを取り上げた場合、その生まれ持った個体差は、一般的に、微々たるものなのだそうだ。
脳の性能を左右するのは、育った環境であることが極めて多いとのこと。
その事実を証明するためによく引き出されるのが、「水頭症」患者の脳。
水頭症というのは、成長の過程で脳に水が溜まってしまい、脳が正常に発達できなる病気。
水頭症の脳は、正常の10パーセント程の大きさしかないそうだ。
しかし、このように小さく不完全な脳でも、人間として正常に判断したり、行動したり、思考したりできるのだという。
実際過去に、大学で数学賞を取るほど優秀な人もいたのだとか。(この人の場合、たまたま病院で脳を調べて、初めて水頭症と知った。)
つまり、人間の脳というのは、鍛え方の相違によって、かなり差が現れるということである。
これを裏返して言えば、自分が凡人である所以は、脳の鍛錬不足に尽きると言っても決して過言ではない・・か?
確かに、類稀な生まれつきの天才というのは存在するが、それはもう、全人類の中のほんの一握りに過ぎない。
そして、その偉大なる天才であっても、やはり努力無しには能力は発揮しきれないものだ。
そう考えると、凡人というのは、単に努力を怠った結果に過ぎないと言えるのかもしれない。
そのことを見事に証明してくれているのが、パラリンピックだ。
体の基本的な機能をフル装備しているはずの自分だが、決してフル装備ではないはずの彼ら彼女らのあの技の数々には圧倒されてしまう。
如何に自分が、せっかく生まれ持った能力を無駄使いしているか、できるはずの努力を怠っているかを痛感させられる。
池谷さんは、おっしゃる。
「自分の能力がいかにあるかは、つまるところ心がけ次第であるといえよう。意志の力と身辺環境への注意力、これが全てである」
と。
※ ※ ※ ※
池谷 祐二(いけがや ゆうじ)さん
1970年8月16日 静岡県藤枝市生まれ
1989年4月1日 東京大学・理科T類入学
1995年4月1日 日本学術振興会・特別研究員・DC
1998年3月30日 東京大学・大学院薬学系研究科にて薬学博士号取得
1998年4月1日 東京大学・大学院薬学系研究科・助手
2001年3月 日本薬理学会学術評議委員
2002年12月17日
〜2005年3月31日 米国ニューヨーク・コロンビア大学・生物科学講座・客員研究員
2006年2月1日 東京大学・大学院薬学系研究科・講師
「記憶力を強くする」
「海馬/脳は疲れない」
「進化しすぎた脳」他 著書多数
















