2007/1/31  21:19

お弁当恐騒曲  恐怖・悲哀体験

私は、お弁当を作るのが今ひとつ気が進まない性質である。

などという、取って付けたような表現は止め、
正直に本音を言ってしまうと・・

「嫌い!」

である。

が、嫌いなのに、毎朝3個も作っている。

夫の分、高2長女の分、そして自分の分。
たまに、中2次女分の追加もあったりで、4個になる時もある。

長女は6時半、夫は7時、次女は7時半に出かけるので、それぞれの時間に間に合うように、しかもそれぞれの好みに合わせて中味を変えるというのが、まさに職人芸である。

特に長女は、

副菜の数=愛情

だと思っているので、かなり厄介だ。

野菜を彩り良く入れろだの、肉も魚も入れろだのと、注文がうるさい。

「昼食なんて、おにぎりで十分だ!」

なんていう私の持論なんぞ、全く通用しない。

ま、この飽食時代の子らに、そりゃ無理か・・

子が子なら、夫も夫で、

「なんでもいいよ」

といいつつ、何でも良かった試しがない。

また、お弁当ってのは、味さえ良けりゃいいってもんでもないらしい。

まずは見栄えだ。

極端な話、見栄えの良し悪しが、お弁当の価値を決めるといっても過言ではないのだ。

つまり、行き着くところ、美的センスだ。

新婚なら、ハートマークの一つでも入れておきゃ何とかサマになるのだろうが、この時期に到ってそりゃ無理だ。
せいぜい頭がおかしくなったのかと思われるのがオチだ。

・・・なんてぇことを、毎朝毎朝考えながら、毎朝毎朝違うメニューを、毎朝毎朝作って詰める・・・そうそう、ずる賢い残り物リメイクも、偉大なる頭脳プレーだ。

朝の弁当作りだけで、丸一日労働したくらいの気分になる。

段取りの悪さ・手際の悪さ・センスの悪さ

これら三拍子の揃った最悪の料理人であるからして、毎日こなしているだけでも奇跡のようなものである。

朝目覚めた時、真っ先に考えるのが
「今日のお弁当のおかず、何にしよう〜〜〜????」

そして、後は時間との闘い。
恐怖と悲哀が仲良く手を繋いでフォークダンスなんぞを踊りながら頭の中を交錯する朝。

毎朝のお弁当を写真に収めて楽しむ主婦の皆さまに、心から敬意を表するボンクラ婦人である。

2007/1/30  21:42

癌との闘い(父の場合) 99、7クール第一回   両親のこと

先週の1月23日は、父の抗癌剤タキソール(パクリタキセル)点滴、6クール第3回目の予定だったのだが、疲労感が激しく休止。

結局6クール目も2回のみで終了。
今日が7クール第1回となるが、昨年末辺りからサイクルが乱れがちなので、果たして「クール」という数え方が正しいのかどうか、だんだん怪しくなってきた。

とにかく、週に1回を基調にしつつも、体調の悪い時は無理をしないで抗癌剤を休止する、といったような付き合い方に変化しつつある。

今朝は、約束の時間よりも少し早めに実家に寄ってみた。
父は丁度着替えの途中。
母は、相変わらず具合が悪く、コタツにすっぽり埋もれて横になったまま、はっきり目も開けられないような様子。

「この前、検査してもらったら、なんやら肝臓あたりに影がある言われた・・」
母が、やっとのことで薄目を開け、力無く話す。

やはり、この母の具合の悪さにも、何か嫌な病巣が潜んでいるのかもしれない。

・・・・

「セーターどこ行ったかのぅ〜」
傍らで、父がなにやらパニックになっている。

「え?セーターってどんなの?」
私も一緒にそこらあたりを探してみる。

「これ?」
「いや、そっじゃない」

「じゃあ、これ?」
「いや、ちごう」

耳の遠い父に何度も聞き返し、同じ会話を何度か繰り返した後、ようやく解決した。
なんと、父が探しているセーターは、もう既に着ていたのである。

・・・こんな高齢者が、兄夫婦が帰宅する夕方まで、たった二人っきりで居なければならないなんて・・・

・・・・

昨日、広島県で「介護放棄による殺人事件」が発覚したが、
子どもに対する「育児放棄」、老人に対する「介護放棄」・・

・・どちらも、人間としてあまりにも悲しい・・・

2007/1/29  22:26

嫁、幸せ術 「帰省」編  The 嫁 !!

世の中には、その立場になってみないとわからないもの、というのが多々存在する。

その中の一つに、「嫁」がある。

ただ、一言で「嫁」といっても、これまた種々雑多。
長男の嫁、次男の嫁、三男の嫁・・(以下省略)。
はたまた、同居・別居。

また、同居の中にも、完全二世帯住宅から、一家雑魚寝スタイルまで様々であるし、別居にしても、歩いて三分のご近所さんから海外住まいまで、これまたいろいろな状況が考えられる。

その一つ一つの状況の中で、「嫁」の立場というのも微妙に、あるいは、とんでもなく変わってくるのである。

その中の一つ、「帰省」をピックアップして考察してみたい。

「嫁」と「帰省」

この二語を並べてみると、単純に二種類の場面が思い起こされる。

まずは、夫の実家に「帰省する嫁」

もう一つは、夫の実家で「帰省を迎える嫁」

である。

これらの心境を比較してみよう。

1、夫の実家に帰省する嫁

なんだかとっても憂鬱・・・

2、夫の実家に帰省しにくる客(小姑・大姑夫婦など)を迎える嫁

すんごく憂鬱・・・


・・・つまり、要するに、早い話が・・・

両者とも憂鬱なのである。

これは、自分自身が過去、転勤時代には帰省する嫁、そして現在は迎える嫁という両実体験に基づいた、実に素直な感想である。

が、今後も続くであろう「嫁人生」、憂鬱だけで終わったのではつまらない。

この帰省鬱に、何とか打ち勝たなければ面白くない。

一番手っ取り早い方法は、盆・暮れ・正月などの帰省時に、ワイハ(“ハワイ”とも言う)なんぞにトンズラしてしまうことである。

これならば、帰省にまつわる鬱陶しい関係などとは無縁だ。

しかし残念なことに、この方法を決行するには、大枚に羽を付ける覚悟がなければならない。
しかも、特別料金が設定されるこの時期、大概の庶民にとっては、近場の温泉へ出かけるのでさえ懐が痛いのである。

さて、ならば如何致そう・・・

一番安上がりで、しかも、心穏やかな「帰省する嫁・される嫁」でいる方法は・・・

ハイ、これ!

「自分優先の考えを否定する」

茶道家 鈴木 皓詞氏のエッセイの中から答えを探ってみよう。

「身近な人に喜んでもらうことを行為で表していく」

つまり、こうだ。

「人に喜んでもらうためには、自分の気持ちを後回しにしなければ、先方に心から喜んでもらうことはできません。

この時、自分が考えることは、気持ちの量と差し上げる量の出し惜しみのことです。
どうするかを決めるその瞬間、自分の人柄が自分に問われるのです。

その時湧き上がってくる欲の深い思いを押さえつけて、相手に喜んでもらうことに全力を向けることで、初めて相手側にこちらの誠意が伝わるのです。

その時の精一杯をさせて貰うことで、一瞬、自分優先の考えが否定されるわけです。
ここに人に喜んで貰うための行為の尊さがあるのです。

眼には見えないことですが人様に喜んでもらうことで、やらせて貰う側の気持ちが清まりそして純になるのです。

自分の繁盛だけを考える世の中にあって、人の喜びを喜びとする行為は、何ものにも代えがたいものなのです」



帰省する嫁は、帰省先の夫の実家に喜んでもらえるように、そして、帰省される側の嫁も、帰省して来られる親類の方々に喜んでもらえるように、自分優先の考えを否定して、相手に幸せな気持ちになっていただくことを優先にする。

相手に喜んでもらえれば、自分も嬉しくなる。
幸せな気分になれる。

そういった幸せの循環を体感できるのが、「嫁」。
これぞまさに、嫁の役得なのである。

嫁が、「いやだいやだ」の気持ちでいれば、相手も気分が悪くなる。
これぞ、不幸せの循環である。


相手が幸せになるも不幸になるも、嫁の心得次第。

嗚呼、「嫁」って、「嫁」って・・

深くて、素敵!!

2007/1/28  17:46

「お疲れさま」と「オバサン」  好きに語る

社会人一年生(アルバイターも含む)が真っ先に、とまでも言わないが、かなり初期段階に身に付ける言葉がこれではないだろうか。

「お疲れさまです」

「ご苦労さまです」


そしてこの二語の使い分けを、

「お疲れさまです」⇒目上

「ご苦労様です」⇒目下


と、教えてもらうはずだ。

軽い口調で発すれば、ちょっとした挨拶。
丁寧な口調で発すれば、ねぎらいの意を込めることのできる、大変便利な言葉である。

が、この言葉に強い違和感を抱いている人が多いらしいことを、伊藤 洋一氏(住信基礎研究所主席研究員)のコラムで知った。

氏によると、この言葉を初対面の人からや、午前中に言われると、反発してしまうらしい。

「朝からお疲れ?」

「そんなことはないよ。おれは元気だよ」


・・なるほど

発する側は、多分軽い気持ちで使っているのだろう。
が、受け止め方によっては、違和感に繋がるというわけだ。

ふと、それと同じような類の違和感を持つ言葉が頭に浮かんだ。

中年男女に、初対面の人から発せられる呼びかけ言葉、

「おとうさん」や「おかあさん」

あるいは、

「オジサン」や「オバサン」

である。

「あたしゃ、アンタのおかあさんじゃないわよ!」

とか、
「まだ子ども産んでないわよ!」

とか、

「失礼ね!おばさんじゃなくて、お嬢さんよ!」

・・・などという反発をくらうこと請け合いである。

つまり・・

まだまだ自分は十分元気なのに、「お疲れさま」と声を掛けられることに「ムムム!?」と感じてしまう心とに、何か共通した心情が存在するのではないかと思うのである。

氏は、「お疲れさまです」という言葉を聞いただけで疲れるのだそうで、この言葉が
「不必要に日本を疲れさせ暗くしているのではないか」

と、ご指摘。

そうそう。

おそらく、未婚女性や未出産女性が「オバサン」とか「おかあさん」と声を掛けられたりする場合も、この言葉が
「不必要に女性を老けさせ暗くしている」

と捉えられるのだろう

して、氏は、同意見を持つ年上の男性と飲み屋で談義。

「お疲れさま」に代わる挨拶はないものだろうか、と。

日本以外の国で「疲れ」を表す単語を使って挨拶をしている例は無い、挨拶はもっと前向きであるべきだ。“Have a good day”のように。

との、氏のご意見、御尤も。

が、果たしてそれにふさわしい言葉があるのだろうか。

「お疲れさまです」

特にビジネスシーンに於いて、これほど便利な言葉は無い。

外回りから帰った営業マンが、「お疲れさま」とニッコリ一言、声を掛けてもらったときの暖かさ。

仕事を共にした人から、「お疲れさま〜」と言われて、「お疲れさま〜」と返せば、お互いに身も心も軽くなるってこともある。

たとえ朝であろうと、初対面であろうと、「お疲れさまです」と声を掛けて頂けることは、私個人としては大変嬉しいことだ。

それは、「お疲れさま」の言葉の中に込められた、「ねぎらいの気持ち」「相手を思いやる気持ち」を感じ取れるからである。

「お疲れさま」と声を掛けられて嫌な思いをする人は、是非とも伊藤 洋一氏ご自身がコラムで宣言なさった様に、

「お願いだ。もうこの言葉は私に使わないで欲しい。私はいつもしっかりと元気なのだから」

と、周知して貰った方がいい。


ええ。

私も。

「お願いです。この言葉は絶対に私に使わないで欲しい。私はいつもしっかりと若く美しいのだから」

そう、私に「オバサン」(将来的にはオバアサン)という言葉は、禁句なのよ。(爆??)

2007/1/27  19:52

千の風になって  言葉に想いを込めて

新聞の片隅に、おくやみ欄というのがある。

亡くなった方の氏名・年齢・住所・通夜葬儀日程などを載せた、単なるインフォメーションのような無機質なものであるけれど。

が、その僅か数行からなるスペース一件一件の中に、それぞれの人生が存在している、
と知ったのは、初めて身内を亡くしたときだった。

そして、そのとき確信したのは、

“死”は“無”とイコールではない。

ということだった。

人は死んだらどうなるのか。
“死ぬ”ということは、“終わる”ということなのか。


ずっと命の行方を考えていた。

そしたらそれは、確かに存在していた。
決して消えることなく。

いつもどこかから見守っていてくれる、
優しい命の存在。

それは、死によってもたらされた、
“新しい生”なのだ。

“新しい生”・・

その正体は、“千の風”である。


          

『千の風になって』  

私のお墓の前で 泣かないで下さい

そこに私はいません 眠ってなんかいません

千の風に 千の風になって

あの大きな空を 吹きわたっています


秋には光になって 畑にふりそそぐ

冬はダイヤのように きらめく雪になる

朝は鳥になって あなたを目覚めさせる

夜は星になって あなたを見守る


私のお墓の前で 泣かないで下さい

そこに私はいません 死んでなんかいません

千の風に 千の風になって

あの大きな空を 吹きわたっています


千の風に 千の風になって

あの大きな空を 吹きわたっています

あの大きな空を 吹きわたっています


       (作者不詳 日本語詩 新井 満




愛する人々は、千の風に生まれ変わり、

きっと、いつもあなたのそばで、生きている。

2007/1/26  21:58

スタンディングは是か非か  好きに語る

コンサートへ行くと心配なのが、

「観客は立つのか座るのか」

ということ。

オールスタンディングならば、まあしゃーないわ〜で済むが、
一応ちゃんと座席のある会場の場合、周りの空気を読まなければならない事態が発生する。

なぜだか人間は、

「興奮すると立ち上がる」

ついでに、
「こぶしなんかも突き上げちゃう」

といった性質があるようで、その特性は、コンサート会場にて遺憾なく発揮される。

ハード・ロック系ならば、ほぼ100パーセント、オープニングから総立ちである。

ま、それは諦めが付く。

そもそも発せられる音の状況が、おい、座席にしがみついている場合ではないぞ、と脅迫してくるのであるから。

が、一番悩ましいのは、

「ハードも有り、バラードも有り」

の、両刀遣い型アーティストのコンサート。

ハードな曲で勢い良く立ったは良いが、その後に、やたらスローなのをやられると、観客は全員ぼ〜っと突っ立っているしかない。

実に決まり悪い空気が、会場内を漂う。

「座ろっかな〜・・いや、よそうっかな・・」

みんな同じようなことを考えているのか、観客がムズムズし始める。

自分が座れば、つられてみんなも座るかもしれん。
いやしかし、もしかしたらみんなこのまま立ち続けて、結局自分だけが座って、前が見えないまま一曲終わってしまうという悲劇に見舞われるかもしれん・・・

そんなこんなで、どうでもいいような思考をアレコレ巡らせている間に曲が終わってしまって、
「あれぇ?今の、どんな曲だったぁ??」
などという、ドッと無力感を味わうハメにも・・。

そもそもコンサート会場の「座席」ってのは、何のために存在するのであろうか。

アーティストの全身全霊を掛けて溢れ出るパフォーマンスを、ゆっくりじっくり、リラックスした状態で鑑賞するために、が正論か。

そういえば、物心ついた頃から大人たちにしつこいくらい指導されてきたはずだ。

「きちんと椅子に腰掛けましょう」
と。

つまり、そのお約束を見事に破ってくれているのが、
ハード系コンサート会場、
というわけなのだ。

一般的な流れとして、まず立ち始めるのが前列。
前列が立つと、その次の列が見えなくなる。
で、立つ。

すると、そのまた次の列が見えなくなる。
で、また次も立つ。

・・・と、必然的に会場内全員が立たねばならなくなる。

そしてここで、歴然なる会場内格差が発露し、愕然となるのである。

その会場内格差とは・・・

「身長差」「偶然の配列差」

である。

「身長差」とは、そのまんま身長の違いによる視野格差。
そして、「偶然の配列差」とは、仮にもともと自分の身長が高くとも、たまたま偶然、自分の前列にとてつもない大男がいて視野を遮られる・・といった類の格差である。

同じ料金を支払っているにもかかわらず、全員が立ったことによって発生したこの格差を、如何せん。

その結果、椅子の上に立ち上がる輩が出てくる。

後方はますます視野を遮られるハメに陥る。

座っているしか術がない車椅子などの障害者の方々などは、絶体絶命、ハード系コンサートを楽しむなんて絶望的である。
多分、会場へ行くのは最初から諦めてしまうだろう。

座席のある会場でのスタンディングは、是か非か。

確かに、会場内総立ちでノリノリは盛り上がるのだけど・・
アーティストの皆さまも、スタンディングで盛り上がった会場に、更にステージに燃えるのだろうけど・・

せっかく座席があるのだからちゃんと座って、
上半身でノリノリ〜!

・・ってのは、ダメであろうか・・
(これなら、座高格差ぐらいのリスクで済む)

最初から最後まで、お目当てのアーティストじゃなくて、前列の人の背中しか見えなかった・・

・・なんていうストレス、結構辛いお年頃。
(本当は、立ちっ放しが辛いお年頃??)

2007/1/25  22:13


こういった事件は、一体どう考えたらよいのだろうか。

勤務する警察署の女子トイレで、巡査長が盗撮(計3回)

県警監察官室によると、巡査長は17日午前10時半ごろ、同署女子トイレにデジタルカメラを持って入り、個室内の女性をドア上から盗撮した疑い。

フラッシュで気付かれ、自席に逃げ戻ったが、上司に問い詰められて認めた。 

福岡県警は25日、軽犯罪法違反容疑で小倉南署刑事二課の男性巡査長(28)を書類送検。
同日付で減給100分の10(3カ月)とし、巡査長は辞職。

「女性がトイレに入っている姿を撮りたかった」
と話しているという。
 

・・・・

女子トイレから慌てて逃げ帰る様子を想像すると、なんだか情けなくなってしまう。

たとえ勤務時間外であっても許されないことであるのに、勤務中に実行してしまうとは・・・

こういった類の事件が起こって一番迷惑するのは、日々真面目に勤務なさっているであろう(なさっているハズの)大方の警察官ではなかろうか。

それにしても最近、「信頼」という言葉がこの世から消えて去ってしまうのではないかと思われるような事件が多過ぎる。

姉歯耐震偽装事件で大いに懲りたかと思いきや、またまた、今度はアパ系列の耐震偽装発覚である。

食品への信頼、建築・設計士への信頼、教授・教師への信頼、公務員への信頼、警察官への信頼、そして極め付けは、政治家への信頼、か・・。

毎日毎日、どこかで必ず発生している事件の数々を知る度に、「信頼」できるはずの何もかもが失われていくような気がする。

自然界は異常気象

そして、

人間界は異常気性

子にとって、最も信頼されるべき「親」も、実は、全く信頼に値しなくなっているのではないだろうか。(虐待など)

高級マンションに高級車、子供の携帯代に何万円も払えても、

「給食費は払いません」

なんて言う親では、子どもに「信頼」なんて言葉、教えられるはずもない。

2007/1/24  21:38

食に傲慢な人々よ  記事・ニュースから思うこと

スタバで見本用の洋生菓子を誤販売、自主回収へ - 読売新聞(23日)

ベッカーズ、カツサンドに賞味期限切れソース使用 - 読売新聞(23日)

<賞味期限切れ>客に3カ月半前のドリア 茨城のファミレス - 毎日新聞(23日)

「おたべ」でも期限切れ チョコ菓子、USJなどで販売 - 京都新聞(20日)

<東京ディズニーランド>賞味期限切れチーズで料理 - 毎日新聞(20日)

<ローソン>賞味期限切れのしょうゆ、弁当に 自主回収 - 毎日新聞(13日)

・・・・

嗚呼・・

不二家で一気に噴出した感の、賞味期限切れを始めとする食の安全に関する一連の問題。

「消費期限やら賞味期限やら、そんなもんいちいち表示せんでいい!」

との大胆発言をぶちかますのは、偉大なる夫の父。

一見無謀かとも思われるその発言、しかし、それもまた一理ある。

そもそも食べ物なんてものは、腐ってなければ食べられるのである。

消費・賞味期限なんてものはあくまでも単なる目安であって、重要なのは、腐敗しているかどうか、食せるかどうかを判断できる個人能力の有無であろう。

最近の子供たちは、腐った食べ物を見たことが無いという。
カビの生えた食べ物なんてものにも、めったに出会わない。

つまり、食べ物がどのような状態になったら食べてはいけないのかの学習が成されないまま大人になっていくのだ。

だから、頼りになるのは唯一、消費・賞味期限という数字のみ。
それらを過ぎてしまったものは、そのままゴミ箱に入れれば良い。
何も迷ったり考えたりする必要などない。
示されている数字が全てなのだから。

その昔、そのような表示などが全く無かった時代、頼りになるのは五感だけだった。

「見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる」

五感を研ぎ澄まして食と対峙する。

食中毒で簡単に命を落としてしまうようなそんな時代、保存料などという添加物も無かった時代、頼りになるのはそうした研ぎ澄まされた五感という能力だけだったのである。

確かに、消費・賞味期限の表示は便利であるし、それらはもう、我々の食生活に無くてはならない存在となってしまった。

しかし、だからといって、まだまだ充分に食せるものを次々と廃棄していくことは、地球規模に於いて、果たして正しいことなのだろうか。

いまだ地球の多くに存在する、飢餓に苦しむ人々。

彼らのことは映像などのメディアを通してでしか窺い知ることの出来ない我々ではあるが、彼らの現状を慮れば、今現在、我々が犯しているであろう大きな過ちに気付かされるのである。

食の安全とは一体何なのだろう。

「色良く、カビ生えず、腐敗しない」

多くの添加物を駆使して作り上げた不思議な食品たちに、そもそも厳密な消費・賞味期限などはあるのだろうか。

今にも腐敗しそうな五感を研ぎ澄ませて、人類はもっとよく考えた方がいい。
「食」を傲慢に扱っていないか、を。

※   ※   ※   ※

フジテレビ系列局の「富山テレビ放送」(本社・富山市)が20日、富山市で開かれたイベント「全国ラーメンまつりと日本海の味」会場で、キャンデーのつかみ取りコーナーを設けた際、昨年12月31日に賞味期限が切れたキャンデーを使い、参加者約30人が約800個を持ち帰っていたことが24日、わかった。

同社によると、キャンデーのつかみ取りは、ユニセフ募金に募金した来場者を対象に、20日午前10時から無料で行った。キャンデーの包装に記されていた賞味期限が切れていることに気づいた参加者から、約4時間後に連絡があった。

同社がメーカーに確認したところ、「健康被害の心配はない」との回答だったというが、これまでに、問題を知った参加者から、同社に「食べてしまった。不安だ」などの電話が4件あったという。
(読売新聞)


この一件は、担当者が賞味期限の表示を見落としていて、知らずに配ってしまったとのことだったが、もしも事前に知っていたとしても、

「賞味期限は過ぎていますが、まだまだ充分に食べることができる商品ですから、宜しければお持ち帰り下さい」

と、一言添えて配布すれば、それはそれで良かったのではないかと私は思う。

ユニセフ募金に募金した来場者の皆様ならば、飢餓に苦しむ人々を慮って下さるに違いないであろうから。

2007/1/23  22:22

続 FOURPLAY JAPAN TOUR 2007   音楽

思案した結果、昨日記事に引き続き、
FOURPLAY JAPAN TOUR 2007

今回は、Liveの内容を少々。 

まずは、FOURPLAY のメンバーを、ちょいとシビアな年齢順に並べてみよう。

それぞれのカラーは、昨日のステージ衣装のシャツの色である。
但し、ハーヴィー・メイソンは黒ではなく、白。(白はブログ画面上見えにくくなってしまうので黒で代用、御免)

ボブ・ジェームス(Keyboards)
(Bob James 1939年12月25日)67歳

ハーヴィー・メイソン(Drums)
(Harvey Mason 1947年2月22日)59歳


ラリー・カールトン(Guitars)
(Larry Carlton 1948年3月2日) 58歳


ネーザン・イースト (Bass)
(Nathan East 1955年12月8日)51歳


これらの年齢を見る限り、
「バンド活動なんて、もう無理だろう?」
と思わせるが、実は何のその。

“円熟”なんて言葉じゃとても言い表すことのできないような、完成されたサウンド、いや、完成より更にその上の、
“余裕のサウンド”
を聴かせてくれるのである。

ハーヴィー・メイソンの、パッキリ硬めのドラムスにネーザン・イーストの絶妙なベースフレーズ、ボブ・ジェームスの知能的キーボード、そして、おなじみラリー・カールトンのメロウでスムーズリィなギターサウンド、これら四つの絶妙な絡みが、脳と体を心地良く揺さぶる。

昨夜のメニューは、昨年発売された最新アルバム X(ten) からの曲が多かったようである。

クリックすると元のサイズで表示します

X(ten)

1. ターンアバウト
2. シナモン・シュガー
3. イースタン・スカイ
4. キッド・ゼロ
5. マイ・ラヴズ・リーヴィン・フィーチャリング・マイケル・マクドナルド
6. スクリーンプレイ
7. トワイライト・タッチ
8. ビー・マイ・ラヴァー
9. サンデイ・モーニング



ステージに登場するやいなや、まずは二曲(“エンジェルズ・ウィ・ハヴ・ハード・オン・ナイト” “チャント”)たっぷり演奏を聴かせて頂いた後、ネーザン・イーストによるメンバー紹介。

そして続く、ネーザン・イースト の面白トーク。

「アケマシテオメデトウゴザイマス」や
「アリガトウゴザイマス」

などなど、結構流暢な発音の日本語(カタカナ表記ではなく、ひらがなに替えてもいいくらい)で、いきなり会場に和やかな空気が流れた。

演奏途中にかまされるメンバー達のストップモーションや、
キーボード⇒ベース⇒ギター⇒ドラムス
の掛け合い連係プレイでは、場内笑い有りの大盛り上がり!

お決まりのアンコールでは、ラリー・カールトンの軽快なアコースティック・ギター・ナンバーも交えての怒涛の二曲。

名残惜しい1時間半であった。

・・・・

と、・・確かに・・良かったんだけど・・・

前売り8000円のチケットに、メンバー紹介が載っているようなパンフレットが一枚も付いてこないってのは、如何なものか。

いや、全員が貰えてないのなら諦めもつくが、貰えてる人と貰えて無い人がいるってのはねぇ・・

前売分ぐらい、パンフレットの枚数をちゃんと揃えておいてくれないか、主催者殿。

その一点さえ問題なければ、良いLiveだったんですがねぇ・・・

クリックすると元のサイズで表示します
クリックすると元のサイズで表示します

(会場内撮影禁止のため、地元紙掲載分を携帯撮影)

2007/1/22  23:38

FOURPLAY JAPAN TOUR 2007  音楽

ラリー・カールトン (Guitars)

ボブ・ジェームス (Keyboards)

ネーザン・イースト (Bass)

ハーヴィー・メイソン (Drums)


四人合わせて、Fourplay

名付けて、“ FOURPLAY JAPAN TOUR 2007 ”

・・このようなビッグなメンバーが、こんなド田舎によくぞいらして下さったもんである。

こちら、B'zは来ないが、ラリー・カールトンは来てくれるという、摩訶不思議な地方なのだ。

こんな機会はもう一生無いからと、珍しく夫がチケットを購入してくれた。

が、夜、家に残していく子供たちのことと、実家の両親の体の具合などが心配で、今ひとつ気が乗らず躊躇していたが、夫の誘いを断って機嫌を損ねるのも大いに気が引ける・・・

と、相変わらず優柔不断の性格全開のまま、ズルズルと、ついに今夜決行となったLive観戦(私にとっては一種の闘い)。

会場まで車で1時間30分。

6時会場、7時開演に合わせるため、会社を5時前に出発。
まあ、夫婦でこんな時間に退社するのは、今回が最初で最後ではなかろうか。

ド田舎の会場は狭いので、たとえ遠い席しか取れなくとも、ちゃんとメンバーの姿が見えるというのがありがたい。

前売りは8000円。当日は8500円

会場は当日分の余裕もあったようだったが、最終的には満席状態になったようで、いい感じの混み具合。

観客層は、一言で言えば、「大人」

くだけて言えば、「おっさん軍団」

もっと分かりやすく言えば、昨年開催された「拓郎&かぐや姫のつま恋」の観客層と、大いに重なっているよな感じ。

さらに端的且つ個人的に言わせて頂けば、
「やっぱり私はB'zがええわ〜」
ってことになる。

Live合計時間は約1時間30分

相当、時給が高い四人組である。

しかし、メンバーの年齢から言って、これ以上の長時間はちと無理だろう。

ピアノやドラムスは座っているからまだしも、ネーザン・イースト (Bass) とラリー・カールトン (Guitars) は、重い楽器を肩に担いで立ったままだ。
こりゃ相当きつい。
肩も凝ることであろう。

・・・と、まずはこのくらいにして、肝心の内容報告は明日にしておこうかな。
いや、やっぱりこの話題はつまらなそうなのでよそうかな。

と、思案中。

(・・おっと、「つまらない」ってのは、このコンサートの内容が、じゃなくて、私の話が、ってことですよ)





・・・で、その結論はここ。

RSS1.0