2008/5/31  19:06

諏訪哲史 『りすん』 を考察する 8  

なぜそこまでして単行本の 『りすん』 を捜し求めているかというと、それにはワケがある。

どうも、群像に掲載された『りすん』と、単行本の『りすん』とには、少々の相違箇所が存在するらしいのだ。

まず、巻頭に掲げられているエピグラムに、『妹へ』的なモノがある??
(これはプセウド・セルバンテスの言葉と、『吉林省故事風聞集成第七版』からの抜粋以外のもの?)

それから、巻末の仕掛けとやら。

ページを閉じると、二人の名前が重なる仕組みになっていて、

「次のページはなるべく開かずに、永久にぴったり閉じて、そっとしておいてあげてください」

と、記されているのだそうだ。

なぜ諏訪氏が単行本に於いてこのような追加変更を行ったのか、
それを、実際本を手にとって確認し、それらの意図を考察してみたかったのである。

単行本というのは、やはりある程度の売上げを目指さなければならない。
装丁にしても然り、そこは読者のウケを狙い、練りに練られることであろう。

たとえば、前作の『アサッテの人』は、諏訪氏自らの意向によって、スウェーデンの画家、マックス・ワルター・スワンベルク作の『ロマンチィックな遊泳』が採用されたという。

おそらく今回の『りすん』の装丁も、諏訪氏のそういった意向があってのことであろう。

さて、ではその単行本に於いて微妙に追加されたその部分が読者に与える影響とは、一体どのようなものなのだろうか。

              つづく

2008/5/30  21:25

諏訪哲史 『りすん』 を考察する 7  

「諏訪哲史 の『りすん』、ありますか?」

大型書店を三軒回っても、この表紙にお目にかかれない。
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とうとう痺れを切らした四軒目。
市内最大の書店にて、店員に冒頭の質問を試みる。

「はい?スワ?ですか?」
「はい。諏訪哲史の『りすん』です」

「スワ・・少々お待ち下さい。今お調べしますのでそちらにお掛け下さい」

店員がパソコンに向かう。

「え〜っと、スワ・・ですね?」
「はい、諏訪哲史です」

店員が、『諏訪』と入力する。

「えっと、それから・・」
「『りすん』です」

「『リスン』はカタカナで宜しいでしょうか?」
「いえ、ひらがなです」

店員が、『諏訪 りすん』で検索。
店内在庫を調べる。

ゼロ。

「申し訳ございません。只今店内に在庫はございません」

パソコン画面を覗き込む。

00000000000000000

ゼロ・ゼロ・ゼロ・ゼロ・ゼロ・・・

今日も昨日もその前も、そのまた前も。
画面は、ただのゼロの羅列である。

人気絶賛!売り切れ状態!!

・・のわけはなく、
もともと入庫していないのでは??

それに、店員も店員だ。
まさか昨日今日入ったバイト君ではあるまいに。
天下の芥川賞作家を知らんのである。

いや、これが現実である。
芥川賞作家など、高が知れているのである。
書店員でさえ知らないのだ。

いやしかし、川上未映子の本は、堂々と書店の棚のポジションを確保している。
私が巡った全ての書店に於いて。

思い返せば、正真正銘芥川受賞作 『アサッテの人』 の時もそうであった。
書店にて、単行本には見事に一冊も出会わなかったのである。(川上未映子はやたら多いのに)

余談であるが、最近では、復刊第一号の『早稲田文学』が、川上未映子を数ページもの巻頭グラビアに登場させている。
(私は、それを目にしただけでギョッとなり、残念ながら肝心の中味は読まず終いで棚に返してしまった)

もともと芥川賞受賞作品がベストセラーになることなど稀であり、諏訪哲史を知らない書店員の存在も、決して不思議なことではないだろう。

文藝春秋に掲載された『アサッテの人』、そして、群像に掲載された『りすん』。
しかし、その作品を、1,575円やら1,680円やらの大枚はたいて単行本で購入するには、正直言って少々勇気がいる。

              つづく        

2008/5/29  21:31

諏訪哲史 『りすん』 を考察する 6  

とはいうものの、誤解無きよう説明しておくが、私は決して、ここ最近の 『お決まり小説』を否定しているわけではない。

お決まりのテーマにお決まりのシチュエーション、ここで泣かせてここで笑わせてここでゾッとさせて、そうそう濡れ場も忘れずに・・と、その作者の意のままに、作品中にどっぷり浸かり、すっかり感情コントロールされてしまうような作品が好きな読者も存在する。

人間の感情がドロドロ溶け合い絡み合い、傷付き傷付け、騙し騙され、殺し殺され、そしてついでに濡れ場も忘れずに。
それらがなければ小説とは認めないぞ!といった読者も多いに違いない。

勿論、それはそれで面白いのだろう、とは思う。

要するに、好みの問題。
と言ってしまえばそれまでだ。

つまり、諏訪氏の作品は、小説という一本の大木に、従来のそれら『お決まり小説』とはまるで違った、いわば『諏訪氏ワールド』なる新芽を芽吹かせたということなのである。

但し、それはあくまでもまだ新芽の状態なのであって、今後伸びやかに成長するのか、あるいは発育途中にして朽ちてしまうのか、を確実に言い当てることは誰にも出来ないであろう。

もしも、
『小説は、大衆にウケてなんぼ』と言われる世界なのであれば、諏訪氏の目指す方向は難しいかもしれない。

ウケる=売れる

という等式が正解ならば、そして、『売れる』 ことを第一目的とするならば、おそらく『りすん』は、
兄妹の複雑な生い立ち・薄い血縁関係に揺れる兄妹の恋心・闘病を支える美しい兄妹愛、そして切なさ
に焦点を絞れば、結構いい線まで行けたかもしれない。

が、それは諏訪氏が最も嫌悪する路線である。

           つづく

2008/5/28  21:20

諏訪哲史 『りすん』 を考察する 5  

果たして、一体どのような人が『りすん』を手にして読むのだろうか。

一作目は芥川賞受賞作であったから、
「まあどんなもんか、とりあえず話のネタに読んでおくか」
といった軽いノリが多かったのではなかろうか。

で、このとき、諏訪氏への評価は、明らかに二分されたはずだ。

「こんなこねくり回したような理屈っぽい小説なんか読めるか!」
と拒絶反応を示した読者は、おそらく二作目は読まないだろう。

つまり、この『りすん』を手にした読者(書評家を除く)というのは、ほぼ間違いなく、一作目で諏訪氏に魅了された人間たちなのだ。

では、どのような人たちが諏訪氏の作品に魅かれるのだろう。

それは、ここ最近の 『お決まり小説』 にうんざりしている人たちなのではないだろうか。

暴力、殺人、不倫、貧困、お涙、セックス・・・

これでもか、これでもかと、あらゆる小説の中で繰り返されるそれらのシチュエーションは、もうすっかり読者を麻痺させている。

『麻痺させている』 というか、現実がとうの昔にそれら(小説)を超えてしまっているので、いくら小説の中でバラバラ殺人を犯してみても、不倫の果てに薬物殺害を計画してみても、不治の病で恋人を亡くしてみても、変態行為やストーカーの恐怖を描いてみても、愛する人に裏切られても、所詮現実にはかなわないフィクションの世界であり、現実を超えて小説に勝利を与えるには、更なる残酷や悲劇や倒錯の世界を創作せねばならなくなっているのである。

「もういい加減にしてくれ!」

そんな想いを持つ人たちが、諏訪氏の作品に魅かれるのである。

世の中には、腐るほどの書籍が溢れかえっている。
毎日毎日、どこかで必ず何冊もの新刊が発行され、そして埋もれていく。
しかし、どんなに多くの書籍が出版されたとしても、人が一生のうちに手にする本など高が知れている。

その、高が知れている中の一冊として諏訪氏の作品に出会え、共鳴できたことは、まさに天文学的確率である。
たとえ出会えたとしても、共鳴できない確率もまた多いからである。

     
  つづく

2008/5/27  21:23

諏訪哲史 『りすん』 を考察する 4  

実は、『りすん』は既に単行本化されている。(4月26日発行)

諏訪氏は装丁にもかなりのこだわりを持っている。
ちなみに、『りすん』と、前作の『アサッテの人』を並べると、こうなる。

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統一感があり、まるで対を成しているかのようである。

私は、『りすん』を読んだ時、『アサッテの人』と『りすん』で二部作構成になっているのではないかと感じたのだが、これら二冊の装丁を眺めて、ますますその感を強くした。

前作を理論編、今回の作品を実践編と捉える考え方も出来るが、諏訪氏が群像6月号でのエッセイ『かなしい、のはなし』の中で

『アサッテの人』は基本教科書、『りすん』は実践問題集

と表現されていたが、うん、なるほどそうだ!と一気に腑に落ちた。

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教科書問題集、とくれば、次は解答集となるわけで、
いよいよ夏目漱石の「三四郎」「それから」「門」ばりの、

諏訪アサッテ三部作の完成か?!

との期待も持てるのだが、諏訪氏のことであるから、解答は、あくまでも読者に委ね、次回はそろそろアサッテから脱却なさるのではなかろうかと、一読者は思うのである。

          つづく

2008/5/26  21:41

諏訪哲史 『りすん』 を考察する 3  

『諏訪氏の小説の根底にあるのは、世に蔓延(はびこ)る既成の小説への反逆ではないか』

と前回述べたが、いや待てよ、『反逆』じゃあ、諏訪氏が相当のひねくれ者のように聞こえるから、『挑戦』とすべきだったかな?

いや、『挑戦』と言ってしまうと、その後必ず来るのが、『勝ったか負けたか』の明らかな結果だ。
少なくとも、小説は、勝った負けたの勝負の世界じゃあない。
(賞とか売上の勝負なんてのは、全く別モノだ)

う〜ん、どうするべ・・・

と、仕事中に考えていたが、まあ、結局の所、そこまでこだわる必要は無いのかもしれないなぁと、思い直した。

が、諏訪氏の小説へのこだわりは、タダモノではない。

前作の『アサッテの人』もそうであったが、作中のとある人物が、まさに今、小説と格闘しているる諏訪氏本人であり、作者自らが小説を通して小説とは如何なるものかを苦悩しながら考察しているのである。

形式は、一般的にメタフィクション(入れ子小説)などと呼ばれる技法のようだが、敢えてその部分だけをクローズアップして論じるのは、諏訪氏の小説に関して言えば、ナンセンスなように思う。

・・・・・・・・・・・

白血病の妹、朝子。
そして、兄の隆志。

しかし、二人は本当の兄妹ではない。

そこらあたりの複雑な関係の説明は、病室での、朝子・祖母・兄の会話から見えては来るもの、読者に対しての整理が今ひとつなされていない。

その読者のもやもやを一気に解消してくれるのが、朝子と同室の若い女性患者に付き添う男性(この患者の兄)の創作ノートである。

この創作ノートは、朝子と隆志の会話を四六時中録音したテープを書き起こすことにより、記されている。

仕切られたカーテンの向こう側で、勝手に回り続ける録音テープ・・・。

まさに、聞き耳を立てる、『りすん』である。

      つづく

2008/5/25  20:47

諏訪哲史 『りすん』 を考察する 2  

白血病の妹と看病する兄。
カーテンで仕切られた隣のベッドには
二人の会話を録音するものが・・・・・


群像3月号の目次欄、『りすん』に添えられた一文である。

さて、この添え書きに因り、多くの読者はこう思うかもしれない。
「そうか、今度の諏訪哲史は、闘病記に挑戦したのか」
と。

白血病・妹・兄・看病

この、感動闘病モノ必要必須四語が揃えば、話の大体の想像が付くではないか。
世界の中心で愛なんか叫んじゃうに決まっている。

しかし、前作『アサッテの人』を読んでおれば、諏訪氏がそんなお決まりのお涙ちょうだい小説を書くわけが無いじゃないか!との、一種信念にも似た確信を持って、1ページ目をめくるに違いないのだ。

「しぇけなべいべな」
 「しぇけなべいべ」
「つぃっつぁんしゃー」
 「つぃつぁんしゃ」
「かもんかもんかもんかもべいべな」
 「かもなべ」


・・・・

ほうれ来た!

初っ端から、諏訪氏お得意の、英詞ポップスそのまんま日本語ひらがな表記だ。

白血病を患う妹を、毎日病室に泊り掛けで付き添い看病する兄。
兄は、妹の病室から大学に通学している。

病室で繰り広げられる兄妹の会話は、所々アサッテ語が散りばめられ、漫才のようにテンポ良い。

冒頭は、兄妹の掛け合いデュエットだ。

さて、題名の『りすん』だが、これは“listen”のひらがな表記であろうことは、

耳よ聴け、これら無用のものことどもを。
                  プセウド・セルバンテス


との、前書きから予想が付く。

“listen”
すなわち、自然に耳に入る状態動詞“hear”ではなく、注意を払って(努力して)耳を傾ける、の意である。

『りすん』

そうして、話は進む。
最初から最後まで、カギ括弧にくくられたまま・・・。

いや、正確に言えば、終にはその囲いから解放され・・・

※『りすん』は、全てが会話体「」で成り立っている。

結論から先に言ってしまうと、前作同様、諏訪氏の小説の根底にあるのは、世に蔓延(はびこ)る既成の小説への反逆ではないかと思う。

それは、単に、小説の形態という意味だけではなく。

           つづく

2008/5/24  18:44

諏訪哲史 『りすん』 を考察する 1  

『アサッテの人』 諏訪 哲史の魅力 のシリーズを終えてから、早7ヶ月が過ぎようとしている。

シリーズ最終日となった2007年10月22日の記事では、最後に、

では、諏訪哲史氏の第二作目を心待ちにしつつ・・。
んじゃ、また。

         母性の女 管理人ウィドー


と、記したのである。

それから心待ちにすること約4ヶ月余り、
『芥川賞受賞後第一作』と銘打って発表された作品は、
群像3月号にて、再び、我を興奮させたのである。

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して、そのタイトルは、

『りすん』

表紙を飾る犬の姿に惑わされ、一瞬、かの有名な小動物、りすが主役の話かと思う。

が、その予想は、瞬く間に裏切られることとなる。
(いや、もっとも、りすが主役の話ってのは、最初っから常識的にどうかとは思うが・・)

さて、この作品、『りすん』だが、実は、これを読み終えてから既に2ヶ月以上過ぎ去っている。

あの日、次女の高校受験送迎の待ち時間、車中で読んでいたのがこれである。
入試二日間の送迎待ち時間、しかも悪寒で頭がぼ〜っとしていた、あの時である。

283枚のこの長編小説を、そのような状況の中、一気に読了したのだ。
それは、私にそうさせるだけの魅力が、この作品に存在していたからである。

しかし、一気に読了したその後、私は、語るべき言葉がたくさんあるにもかかわらず、それを上手くまとめ上げることが出来ずにいた。

この作品を語るには、十分な時間的余裕が必要である。
そして、その時間の捻出が、なかなか難しい。

通り一遍の感想では、あまりにもったいない作品なのだ。

但し、最初に断っておくが、作品の良し悪し云々よりも、
真っ先に影響しているのが、

『私が、諏訪哲史の大ファンである』
ってことだ。

良くも悪くも、その辺が語りに影響してくることを、どうかご勘弁いただきたい。

       2へつづく

2008/5/23  21:23

夢追い人  仕事ネタ

「名刺のデザイン、少し変更したから、見本のチェックして発注しておいてくれ」

そう言い残して、出張に出掛けた社長。

早速、社長の下書きを元に作成された名刺の見本が、印刷業者からファックスで届く。

変更部分は主に、新たに取得した資格や業務内容の表現などである。

まあ、チェックといっても、そんなに大そうなものでもない。
誤字・脱字・誤植ぐらいなもので・・

もので・・

もので??


ふと、目に飛び込んだ一文。

『年中夢求です。いつでもご連絡下さい』

ちょ、ちょっと待って下さいよ。

『年中夢求』って??

あんたは年がら年中夢を追い求めてる社長さんかいな。

これは一体!?

社長の誤字か?
あるいは印刷屋の誤植か?
(いまどき文字を植える手法なんてやってないかもだが)

それにしても、どこをどうすりゃ、
「むきゅう」を「夢求」に一発変換できるんだ。

間違えるとすりゃ、『年中無給』だろ。
むしろ、弊社の内情を鑑(かんが)みるに、
そっちの方がジャスト・フィットっぽい。

もしや、意図しての
『夢求』なのか?

どうすりゃいいんだ。

『年中無休』なのか、
それとも『年中夢求』なのか。

出張中の社長に連絡が付かない。

嗚呼、一体どっちなんだ?!

『夢求』で、シャレてるつもりなのか?

もしそうだとしたら・・

ここで『無休』になんぞ訂正してしまったら、社長は、
風情を理解できなかった私に対して、怒り狂うに違いない。

かといって、『夢求』のままで発注してしまったら、
「お前はアホか!誤字の訂正ぐらい、ちゃんとしとかんかいっ!」
と、これまた怒り狂うかもしれん・・。

嗚呼・・

そんなことを考えているだけで、
今日が終わっちまうじゃないか。

しかし、ここはひとつ、よ〜く考えてみよう。

いや、よ〜く考えてみなくったって分かる。
年中夢を追い求めているだけじゃ儲かりまへん。
社長、ここはやっぱり、『年中無休』でいきましょうや。


恐る恐る、訂正して発注した。

2008/5/22  21:10

なぜ替えないのか  好きに語る

最近は、シャレたブログが多い。

『シャレたブログ』

といっても、当ブログのように、

『ダジャレを多用したブログ』
という意味ではない。

デザインが、いかにもオサレなのである。

世の中に出回る数多くのテンプレートに加え、
独自のオリジナルデザイン・・・

ああオサレだ。

※ここで、念のために一言付け加えておくが、
「オサレ」とは、「押され」でも「おサルの一種」でもない。
「オシャレ」の俗語である。


ところが、どうだ、我がブログ。

この上無きパッと見の悪さ。

第一、タイトルの、

『社長婦人はゴルフ・ウィドー』
の文字の頼りなさげといったら・・

しかも、なんなんだ、この両脇の☆マークは!!

安っぽさ強調ブログ、ナンバーワンである。

もっとカッコイイデザインは無かったのか?!

もっと、都会的で、シャープで、出来る大人の女風の!


・・・無かったんです・・・
最初の頃は・・・


そのうち徐々に、
まあまあカッコいいテンプレートも登場してきたが、
それでも、敢えて替えること無しに、
三年前の今日、
まさにブログを立ち上げたそのときのまんまの姿で、
時代錯誤も甚だしく、
古臭〜〜い、どん臭〜〜い姿のままで、
今を、そしてこれからも生きるのである。


・・とかなんとかもっともらしくまとめてみたが、
単に、デザインを考えるのが面倒なだけである。

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