2008/10/5 22:18
キリスト教文化再考 −秀吉はなぜ拡張主義に走ったのか− 文 化
大分市歴史資料館に立ち寄った。フランシスコ・ザビエルが1551年9月から11月まで2ヶ月あまり滞在した府内は、当時約8千人の人口を抱えていたと推測されている。ザビエルが中国に去った後も、イエズス会宣教師たちが府内において宣教を許され、日本でも有数のキリスト文化の育成が行われることとなった。
大友宗麟は花押にFROCとアルファベットを使っていたが、これはフランシスコを顕彰する気持ちの表れだそうだ。また、HISというアルファベットも使っていたが今では旅行会社と思われるかもしれないが、イエズス会のアブリビエーション(頭字語)だそうだ。
1545年に中国のジャンク船で豊後の国に到着したイエズス会宣教師たち。ザビエルの来訪の後は、教会、病院、青少年育成のコレギオなどなどキリスト教の布教に専心をしている。教会音楽で当時の日本人が愛したのがオルガンとリュートなどの弦楽器だそうだ。日本人の感性がすばらしく繊細であり感受性豊かであることをイエズス会宣教師は気がついていたに違いない。
8千人の府内で、多くのキリスト教関連施設が建造されていたことを考えれば、おそらく、豊後府内は当時、ほぼ完全にキリスト教化されていた、といってもよいのではないのでしょうか。
秀吉の禁教令にもかかわらず、イエズス会宣教師の一人は1622年まで日本に滞在していることを資料で突き止めた。1543年の種子島上陸以来、実に80年の間、イエズス会宣教師は日本に多大な影響を与え続けていたことになる。(禁教令以降は隠れての布教であったが・・・)
秀吉は、日本の庶民文化の奥深くまでキリスト教化されていたことを良く知っていたことでありましょう。そして、天正遣欧少年使節の伊藤マンショたちがバチカンにゆくまでの道中、東南アジアなどで日本の子供たちが奴隷として売られていることに心からの怒りを記録していたように、秀吉は「堪忍袋」の緒が切れるや禁教令を発するとともに、自ら「正義の反攻」を行おうとしたのが、文禄・慶長の役と後世呼ばれる拡張主義へと突っ走っていったのではないでしょうか。
秀吉にとって、キリスト教は乗り越えなければならない「不義不正」の「外圧」であったのであり、それを人々に証明するためには、自らがキリスト教国が行っている武力による海外植民地獲得をはるかに上回るような「権勢」と「武力」を誇示する必要があったのでありましょう。
秀吉が見ていたもの。それは、キリスト教に名を借りた海外キリスト教諸勢力の支配の目論見であったのであり、日本はそのような勢力に決して屈するものではないことを内外に知らしめる必要に駆られたのではないでしょうか。
大分市歴史資料館:日豊本線大分駅から久大(きゅうだい)本線乗り換え、豊後国分(ぶんごこくぶ)駅下車、徒歩2分。(月曜休館)
大友宗麟は花押にFROCとアルファベットを使っていたが、これはフランシスコを顕彰する気持ちの表れだそうだ。また、HISというアルファベットも使っていたが今では旅行会社と思われるかもしれないが、イエズス会のアブリビエーション(頭字語)だそうだ。
1545年に中国のジャンク船で豊後の国に到着したイエズス会宣教師たち。ザビエルの来訪の後は、教会、病院、青少年育成のコレギオなどなどキリスト教の布教に専心をしている。教会音楽で当時の日本人が愛したのがオルガンとリュートなどの弦楽器だそうだ。日本人の感性がすばらしく繊細であり感受性豊かであることをイエズス会宣教師は気がついていたに違いない。
8千人の府内で、多くのキリスト教関連施設が建造されていたことを考えれば、おそらく、豊後府内は当時、ほぼ完全にキリスト教化されていた、といってもよいのではないのでしょうか。
秀吉の禁教令にもかかわらず、イエズス会宣教師の一人は1622年まで日本に滞在していることを資料で突き止めた。1543年の種子島上陸以来、実に80年の間、イエズス会宣教師は日本に多大な影響を与え続けていたことになる。(禁教令以降は隠れての布教であったが・・・)
秀吉は、日本の庶民文化の奥深くまでキリスト教化されていたことを良く知っていたことでありましょう。そして、天正遣欧少年使節の伊藤マンショたちがバチカンにゆくまでの道中、東南アジアなどで日本の子供たちが奴隷として売られていることに心からの怒りを記録していたように、秀吉は「堪忍袋」の緒が切れるや禁教令を発するとともに、自ら「正義の反攻」を行おうとしたのが、文禄・慶長の役と後世呼ばれる拡張主義へと突っ走っていったのではないでしょうか。
秀吉にとって、キリスト教は乗り越えなければならない「不義不正」の「外圧」であったのであり、それを人々に証明するためには、自らがキリスト教国が行っている武力による海外植民地獲得をはるかに上回るような「権勢」と「武力」を誇示する必要があったのでありましょう。
秀吉が見ていたもの。それは、キリスト教に名を借りた海外キリスト教諸勢力の支配の目論見であったのであり、日本はそのような勢力に決して屈するものではないことを内外に知らしめる必要に駆られたのではないでしょうか。
大分市歴史資料館:日豊本線大分駅から久大(きゅうだい)本線乗り換え、豊後国分(ぶんごこくぶ)駅下車、徒歩2分。(月曜休館)



