サイト紹介 7) ヨーロッパの暮らし
ヨーロッパの暮らし◆ビジネス:通訳としてく(筆:フラウH)
◆音楽:モーツァルト生誕250周年
◆美術:ドイツ表現主義
◆暮らし:アンティークとの出会い
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2006/11/3 17:27
ドイツ表現主義 7) ヨーロッパの暮らし
ドイツ表現主義
日本ではゴッホ、ミレーなど印象派の絵画の愛好家が多いが、ドイツではその少し後に生まれた表現主義の画家の絵が好まれている。
「表現主義」とは、20世紀初頭にドイツで盛んとなった芸術運動。「印象派」がそれまでの伝統に捉われない自分の「印象:インプレッション」を描いたのに対して、表現派はそれを「表現:エクスプレッション」するところから名づけられた。
表現主義はそれまでの自然主義的絵画から、色彩を中心とした自由なフォーム(形)の絵画を描いた。
表現派の代表的画家はカンディンスキー、パウル・クレー、キルヒナー、ミュウンター、エゴン・シーレ等で、青い騎士、ブルッケ(橋)などのグループがあった。
表現主義は、音楽にも影響を与えた。ショーンベルク、リヒャルト・シュトラウスなどが表現主義と言われている。
カンディンスキーを中心とした「青い騎士」グループがミュンヘンやその郊外のムルナウ村で活躍した事により、ミュンヘンにはドイツ表現主義派の作品を扱った美術館が多くある。
筆:フラウH
◆レンバッハハウス美術館 Luisenstr. 33 Lenbachhaus
◆ノイエ・ピナコテーク Barer Str. 29 Pinakothek Neue
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日本ではゴッホ、ミレーなど印象派の絵画の愛好家が多いが、ドイツではその少し後に生まれた表現主義の画家の絵が好まれている。
「表現主義」とは、20世紀初頭にドイツで盛んとなった芸術運動。「印象派」がそれまでの伝統に捉われない自分の「印象:インプレッション」を描いたのに対して、表現派はそれを「表現:エクスプレッション」するところから名づけられた。
表現主義はそれまでの自然主義的絵画から、色彩を中心とした自由なフォーム(形)の絵画を描いた。
表現派の代表的画家はカンディンスキー、パウル・クレー、キルヒナー、ミュウンター、エゴン・シーレ等で、青い騎士、ブルッケ(橋)などのグループがあった。
表現主義は、音楽にも影響を与えた。ショーンベルク、リヒャルト・シュトラウスなどが表現主義と言われている。
カンディンスキーを中心とした「青い騎士」グループがミュンヘンやその郊外のムルナウ村で活躍した事により、ミュンヘンにはドイツ表現主義派の作品を扱った美術館が多くある。
筆:フラウH
◆レンバッハハウス美術館 Luisenstr. 33 Lenbachhaus
◆ノイエ・ピナコテーク Barer Str. 29 Pinakothek Neue
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2006/11/3 7:39
「通訳」として 7) ヨーロッパの暮らし
「通訳」として
ドイツに住みだしてから、はや25年以上経ち、通訳歴も20年以上となる。これだけ長く通訳をしていると、環境大臣から、研究者、デザイナー、詩人、政府高官など多くの人々と出会い、記者会見でテレビにでたり、新聞に写真がのったりした事もある。
私の場合は、アメリカの学校を卒業し英語が出来るので、ドイツに住んでいるのだが、ドイツ語の通訳よりむしろ英語の通訳の仕事を依頼される事の方が多い。特に最近では英語の通訳が主流となってきた。
これは依頼する側の日本人が、ドイツ語で会議が進まれた場合はさっぱり分らないが、英語であれば片言の英語でも大よその会議の進行の筋が分るので、ドイツ人との会議を英語で頼むケースが増えているからだ。
通訳をする場合、特に商談の場合は、まず事前に日本人側に、出来るだけ曖昧な言葉使いをしないように頼む。日本人はよく「検討します」「難しいですね」などを使うが、日本では明らかにノーの意味で、あまり強い拒否にならないようにとの意図である。だが、それをそのまま訳すと、相手には「可能性がある」ように受け取られることが多くある。
通訳としては、相手の言わんとする事を出来るだけ正確にそのまま訳すようにしているが、それでも時には誤解を生じることがある。例えば、「この点に関してはどうでしょか。」と聞かれ、「それは難しいですね。」と相手が答える。「と言うことは、難しくても可能性はあるわけですね。」と確認すると、相手は「いや、難しいので不可能という意味です。」と答える、などなどである。
これは、ヨーロッパでは、相手より優位な立場になるために、簡単に出来ることでもわざと「難しいが特別に致しましょう」と答える場合が多ので、こういう言い方を単に直訳してしまうと、相手に誤解を生じる危険性が高くなる事が多いからだ。
そのような誤解を避けるために日本人側にはあらかじめ「ノーならノー」とはっきりと言うように頼んでおく。その方が会議もスムーズに運び易い。
この他に気をつけている事は、自分の日本語能力である。当然の事ながら、通訳をするためには、ドイツ語、英語の能力は勿論必要だが、長く海外に住んでいると、日本語の変化についていけない事が多くあるものだ。言葉は生きているものなので、時代と供に変っていく。例えば、談合など、今ではスキャンダルでよく使われる言葉だが、初めて「ダンゴー」と聞いた時には驚いた。デパチカ、シカトなど、新しい言葉に慣れる為、日頃から日本の雑誌などに目を通し、「浦島太郎」にならないよう気をつけている。今ではインターネットを通し情報が入りやすく、それも最近では、超ラクになった。
よく人から「通訳の心構え」のようなものを聞かれる事があるが、通訳も普通の仕事の一種であり、時間に正確で、相手に信頼を与える、という当たり前なことが重用だ。予約した飛行機に乗り遅れない、約束の時間がどんなに早くても守る、出来ない場合は最初からはっきりと言う、など、普通の事が大切である。
その上で何よりも大切なのは、下準備である。一般の人間が医学専門用語から美術専門用語、造幣専門用語まで熟知していることはありえない。そのため、一夜漬けででも通訳する言語において、専門用語をある程度理解し、駆使する必要がある。専門用語をどれだけ使いこなせるかで通訳の質も変わってくる。2時間の会議のために二日間かけて下準備することもまれではない。専門家同士が意見を戦わせる場で怯まないだけの予備知識を、事前に詰めこまなければならない。
失敗談も色々とある。ある会議が終わりレセプションとなった。レセプションでは通訳を依頼されていなかったので、カクテルを片手に談話をしていた。ふと気がつくと、相手がキョトンとした顔をしている。なんと私は日本人にドイツ語で喋っていたのだ。どうやら会議で疲れていたところにアルコールが早くまわり、自分でも何語を喋っているのか分らなくなっていたのだろう。それからは、依頼相手がいる席では仕事が終わっても、アルコールは決けして取らない事にしている。
通訳は縁の下の力持ちの仕事で、人の言葉や考えを右から左へと正確に訳していくだけだ。しかし、それを通して普段では知り合えないような素晴らしい専門家と多く出会う事ができる素晴らしい仕事でもある。
筆:フラウH
Trackback149
ドイツに住みだしてから、はや25年以上経ち、通訳歴も20年以上となる。これだけ長く通訳をしていると、環境大臣から、研究者、デザイナー、詩人、政府高官など多くの人々と出会い、記者会見でテレビにでたり、新聞に写真がのったりした事もある。
私の場合は、アメリカの学校を卒業し英語が出来るので、ドイツに住んでいるのだが、ドイツ語の通訳よりむしろ英語の通訳の仕事を依頼される事の方が多い。特に最近では英語の通訳が主流となってきた。
これは依頼する側の日本人が、ドイツ語で会議が進まれた場合はさっぱり分らないが、英語であれば片言の英語でも大よその会議の進行の筋が分るので、ドイツ人との会議を英語で頼むケースが増えているからだ。
通訳をする場合、特に商談の場合は、まず事前に日本人側に、出来るだけ曖昧な言葉使いをしないように頼む。日本人はよく「検討します」「難しいですね」などを使うが、日本では明らかにノーの意味で、あまり強い拒否にならないようにとの意図である。だが、それをそのまま訳すと、相手には「可能性がある」ように受け取られることが多くある。
通訳としては、相手の言わんとする事を出来るだけ正確にそのまま訳すようにしているが、それでも時には誤解を生じることがある。例えば、「この点に関してはどうでしょか。」と聞かれ、「それは難しいですね。」と相手が答える。「と言うことは、難しくても可能性はあるわけですね。」と確認すると、相手は「いや、難しいので不可能という意味です。」と答える、などなどである。
これは、ヨーロッパでは、相手より優位な立場になるために、簡単に出来ることでもわざと「難しいが特別に致しましょう」と答える場合が多ので、こういう言い方を単に直訳してしまうと、相手に誤解を生じる危険性が高くなる事が多いからだ。
そのような誤解を避けるために日本人側にはあらかじめ「ノーならノー」とはっきりと言うように頼んでおく。その方が会議もスムーズに運び易い。
この他に気をつけている事は、自分の日本語能力である。当然の事ながら、通訳をするためには、ドイツ語、英語の能力は勿論必要だが、長く海外に住んでいると、日本語の変化についていけない事が多くあるものだ。言葉は生きているものなので、時代と供に変っていく。例えば、談合など、今ではスキャンダルでよく使われる言葉だが、初めて「ダンゴー」と聞いた時には驚いた。デパチカ、シカトなど、新しい言葉に慣れる為、日頃から日本の雑誌などに目を通し、「浦島太郎」にならないよう気をつけている。今ではインターネットを通し情報が入りやすく、それも最近では、超ラクになった。
よく人から「通訳の心構え」のようなものを聞かれる事があるが、通訳も普通の仕事の一種であり、時間に正確で、相手に信頼を与える、という当たり前なことが重用だ。予約した飛行機に乗り遅れない、約束の時間がどんなに早くても守る、出来ない場合は最初からはっきりと言う、など、普通の事が大切である。
その上で何よりも大切なのは、下準備である。一般の人間が医学専門用語から美術専門用語、造幣専門用語まで熟知していることはありえない。そのため、一夜漬けででも通訳する言語において、専門用語をある程度理解し、駆使する必要がある。専門用語をどれだけ使いこなせるかで通訳の質も変わってくる。2時間の会議のために二日間かけて下準備することもまれではない。専門家同士が意見を戦わせる場で怯まないだけの予備知識を、事前に詰めこまなければならない。
失敗談も色々とある。ある会議が終わりレセプションとなった。レセプションでは通訳を依頼されていなかったので、カクテルを片手に談話をしていた。ふと気がつくと、相手がキョトンとした顔をしている。なんと私は日本人にドイツ語で喋っていたのだ。どうやら会議で疲れていたところにアルコールが早くまわり、自分でも何語を喋っているのか分らなくなっていたのだろう。それからは、依頼相手がいる席では仕事が終わっても、アルコールは決けして取らない事にしている。
通訳は縁の下の力持ちの仕事で、人の言葉や考えを右から左へと正確に訳していくだけだ。しかし、それを通して普段では知り合えないような素晴らしい専門家と多く出会う事ができる素晴らしい仕事でもある。
筆:フラウH
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2006/11/3 4:48
モーツァルト生誕250周年 7) ヨーロッパの暮らし
モーツァルトと聞けば音楽の天才として誰にでも知られている。
1756年1月27日生まれ、生誕地ザルツブルクの大聖堂で受洗を受け洗礼名簿には彼の正式な名前が「ヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオフィルス・モーツァルト」とギリシャ表記で記載されているが、一般に知られている名前はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトである。
父親はザルツブルクの宮廷音楽家で、ヴァイオニストであったレオポルド・モーツァルト、母親はアンナ・マリーア・ペルトル、姉はマリーア・アンナ・モーツァルトである。
彼は7番目の子だったが、5人は幼くして亡くなり、生き延びたのたのは彼と姉のナンネルだけだった。
彼は3歳より現在のピアノを習い始め、5歳で最初の作品「アンダンテ ハ長調 K. la 」を作曲する。6歳より演奏会に参加し、既に16-17歳でミラノで「ルチオ・シルラ」オペラの上演、19歳の時ウィーンでもオペラ「偽りの女庭師」を上演している。
その後ミュンヘン、マンハイム、パリを回り、帰路ミュンヘンでアロイジア・ヴェーバーに失恋。23歳でザルツブルクに帰郷する。ここでザルツブルク宮廷にオルガニストとして復帰。
24歳でミュンヘンでもオペラ「イドメネオ」を上演、25歳の時ザルツブルク大司教ヒエロニムス・コロレドと衝突して解雇される。翌年ウィーンでオペラ「後宮からの誘惑」を上演し、まずここに定住する。
26歳で父親の反対を押し切り、かつて片思いをして失恋したアロイジ・ヴェーバーの妹であるコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚、この頃よりピアノ協奏曲の作品を作曲する。長男が誕生するがザルツブルク旅行中に死亡、翌年次男のカール・トーマスが誕生する。
モーツァルトの父がウィーンを訪ね息子の演奏会が盛況なことを喜ぶ。この年に音楽の父と呼ばれるハイドンと出会う。モーツァルトは彼より賛辞を受け、この喜びを弦楽四重奏曲「ハイドン・セット」として作曲、ハイドンに献呈する。
30歳の時にオペラ「フィガロノ結婚」を初演し最盛期を迎える。翌年の1787年にチェコのプラハでオペラ「フィガロの結婚」が大ヒットし、彼もここを訪れている。この年の4月ベートーヴェンがモーツァルトを訪れる。
5月父レオポルド・モーツァルトが死去。10月に作曲依頼を受け、更に新作オペラ「ドン・ジョヴァンニ」を作曲、初演される。32歳で「3大交響曲第39番−41番」を作曲。34歳でオペラ「コジ・ファン・トゥッテ」初演。2月に皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルド2世即位。フランクフルトで行われた戴冠式に同行、同地でコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番二長調「戴冠式」、19番ヘ長調「第二戴冠式」などを演奏する。
1791年35歳、7月に第6子フランツ・クサーヴァーが誕生。最後のピアノ協奏曲第27番変ロ調作曲。その後プラハで行われたレオポルド2世のボヘミアの王戴冠式に同行、オペラ「皇帝ティートの慈悲」初演する。この頃より健康を崩して、11月には最悪状況となる。
この年の7月にフランツ・ヴァルゼック伯爵から匿名で作曲依頼を受けていた「レクイエム K.626」の作曲を終えることなく、1791年12月5日午前1時ころ35歳の短い生涯を閉じる。
死因については色々な説があるがモーツァルト研究家によると、リューマチ性炎症熱だったのではないかと推定されている。葬式は庶民と同じく簡単なものでセンクト・マルクト墓地に埋葬されたが、墓が何回か移転・整備されており、遺骨等に関しては今もなお真相がわからず論争が続いている。現在、ザルツブルクにある国際モーツァルテウム財団には、死後10年後に発掘されたモーツァルト頭蓋骨が保管されている。
人並みはずれた楽才のモーツァルトは、35年の生涯に約600曲もの名曲をこの世に残した。彼はハイドン、ベートーベンと並んでウィ−ン古典派の三大巨匠の一人として君臨している。天才と言われる所以は、非凡な記憶力を持っていて、自筆譜の中には完成・未完成曲を含原稿及び修正の跡が見られるが、下書きもしないで作曲をしていたようだ。
そして「音楽の職人」と呼ばれるほど受注作曲された作品が多く、彼のウィーンにおける全盛期に作曲されたピアノ協奏曲は、度々開催された予約演奏会で自らの弾き振りにより披露されることが多かった。
彼の音楽には、歓喜の絶頂と隣合わせの絶望の淵や、涙にくれながらもふと浮かぶ微笑みといったものが時折聴かれる。そこに、人は、人間の存在、人生を力強く感じるのだと思う。躍動する「生」に満ちた音楽。これがモーツァルトを聴く人に歓喜と感動を与える根源ではなかろうか。
生誕250年を祝って、今年は世界中でたくさんのコンサートが催されることでしょう。生誕地ザルツブルクでは毎年7−8月に開いている恒例の音楽祭は、今回はモーツァルトのオペラ計22作品すべてが上演される。更に700以上の行事を企画しており、「モーツァルトをこれだけ堪能できる場所はほかにない」と意気込んでいる。
ウィ−ンでも、オペラ「フィガロの結婚」が作られたフィガロハウスが修復され、新たに「モ−ツァルトハウス・ウィーン」と言う名前で今年オープンした。今年はモ−ツァルト作品収集されたディスクもたくさんリリースされる予定があり、既に1982年収録のザルツブルク音楽祭でのオペラ「魔笛」DVDが発売された。
皆様も是非この機会にザルツブルクやウィーンを訪れて、モーツァルトのオペラやコンサートを鑑賞されてはいかがでしょうか。
筆:千代子ケルン
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1756年1月27日生まれ、生誕地ザルツブルクの大聖堂で受洗を受け洗礼名簿には彼の正式な名前が「ヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオフィルス・モーツァルト」とギリシャ表記で記載されているが、一般に知られている名前はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトである。
父親はザルツブルクの宮廷音楽家で、ヴァイオニストであったレオポルド・モーツァルト、母親はアンナ・マリーア・ペルトル、姉はマリーア・アンナ・モーツァルトである。
彼は7番目の子だったが、5人は幼くして亡くなり、生き延びたのたのは彼と姉のナンネルだけだった。
彼は3歳より現在のピアノを習い始め、5歳で最初の作品「アンダンテ ハ長調 K. la 」を作曲する。6歳より演奏会に参加し、既に16-17歳でミラノで「ルチオ・シルラ」オペラの上演、19歳の時ウィーンでもオペラ「偽りの女庭師」を上演している。
その後ミュンヘン、マンハイム、パリを回り、帰路ミュンヘンでアロイジア・ヴェーバーに失恋。23歳でザルツブルクに帰郷する。ここでザルツブルク宮廷にオルガニストとして復帰。
24歳でミュンヘンでもオペラ「イドメネオ」を上演、25歳の時ザルツブルク大司教ヒエロニムス・コロレドと衝突して解雇される。翌年ウィーンでオペラ「後宮からの誘惑」を上演し、まずここに定住する。
26歳で父親の反対を押し切り、かつて片思いをして失恋したアロイジ・ヴェーバーの妹であるコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚、この頃よりピアノ協奏曲の作品を作曲する。長男が誕生するがザルツブルク旅行中に死亡、翌年次男のカール・トーマスが誕生する。
モーツァルトの父がウィーンを訪ね息子の演奏会が盛況なことを喜ぶ。この年に音楽の父と呼ばれるハイドンと出会う。モーツァルトは彼より賛辞を受け、この喜びを弦楽四重奏曲「ハイドン・セット」として作曲、ハイドンに献呈する。
30歳の時にオペラ「フィガロノ結婚」を初演し最盛期を迎える。翌年の1787年にチェコのプラハでオペラ「フィガロの結婚」が大ヒットし、彼もここを訪れている。この年の4月ベートーヴェンがモーツァルトを訪れる。
5月父レオポルド・モーツァルトが死去。10月に作曲依頼を受け、更に新作オペラ「ドン・ジョヴァンニ」を作曲、初演される。32歳で「3大交響曲第39番−41番」を作曲。34歳でオペラ「コジ・ファン・トゥッテ」初演。2月に皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルド2世即位。フランクフルトで行われた戴冠式に同行、同地でコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番二長調「戴冠式」、19番ヘ長調「第二戴冠式」などを演奏する。
1791年35歳、7月に第6子フランツ・クサーヴァーが誕生。最後のピアノ協奏曲第27番変ロ調作曲。その後プラハで行われたレオポルド2世のボヘミアの王戴冠式に同行、オペラ「皇帝ティートの慈悲」初演する。この頃より健康を崩して、11月には最悪状況となる。
この年の7月にフランツ・ヴァルゼック伯爵から匿名で作曲依頼を受けていた「レクイエム K.626」の作曲を終えることなく、1791年12月5日午前1時ころ35歳の短い生涯を閉じる。
死因については色々な説があるがモーツァルト研究家によると、リューマチ性炎症熱だったのではないかと推定されている。葬式は庶民と同じく簡単なものでセンクト・マルクト墓地に埋葬されたが、墓が何回か移転・整備されており、遺骨等に関しては今もなお真相がわからず論争が続いている。現在、ザルツブルクにある国際モーツァルテウム財団には、死後10年後に発掘されたモーツァルト頭蓋骨が保管されている。
人並みはずれた楽才のモーツァルトは、35年の生涯に約600曲もの名曲をこの世に残した。彼はハイドン、ベートーベンと並んでウィ−ン古典派の三大巨匠の一人として君臨している。天才と言われる所以は、非凡な記憶力を持っていて、自筆譜の中には完成・未完成曲を含原稿及び修正の跡が見られるが、下書きもしないで作曲をしていたようだ。
そして「音楽の職人」と呼ばれるほど受注作曲された作品が多く、彼のウィーンにおける全盛期に作曲されたピアノ協奏曲は、度々開催された予約演奏会で自らの弾き振りにより披露されることが多かった。
彼の音楽には、歓喜の絶頂と隣合わせの絶望の淵や、涙にくれながらもふと浮かぶ微笑みといったものが時折聴かれる。そこに、人は、人間の存在、人生を力強く感じるのだと思う。躍動する「生」に満ちた音楽。これがモーツァルトを聴く人に歓喜と感動を与える根源ではなかろうか。
生誕250年を祝って、今年は世界中でたくさんのコンサートが催されることでしょう。生誕地ザルツブルクでは毎年7−8月に開いている恒例の音楽祭は、今回はモーツァルトのオペラ計22作品すべてが上演される。更に700以上の行事を企画しており、「モーツァルトをこれだけ堪能できる場所はほかにない」と意気込んでいる。
ウィ−ンでも、オペラ「フィガロの結婚」が作られたフィガロハウスが修復され、新たに「モ−ツァルトハウス・ウィーン」と言う名前で今年オープンした。今年はモ−ツァルト作品収集されたディスクもたくさんリリースされる予定があり、既に1982年収録のザルツブルク音楽祭でのオペラ「魔笛」DVDが発売された。
皆様も是非この機会にザルツブルクやウィーンを訪れて、モーツァルトのオペラやコンサートを鑑賞されてはいかがでしょうか。
筆:千代子ケルン
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2006/11/2 22:33
アンティークとの出会い 7) ヨーロッパの暮らし
アンティークとの出会い
イギリスで生活していた頃の家はもともとは夫の両親が住んでいた家だったので、我が家には単に古いだけのガラクタから、本当のアンティークまで、とにかく沢山の古いものがあります。
正直なところ、最初に住み始めた頃は、熱いものを置けないテーブル、へんにうねうね曲がっていてスペースばかり取って埃もたまりやすいタンスなど、不便なものばかりであまり好きではありませんでした。
ところがある日、我が家にはそれは美しいウエリッシュ・ドレッサーがやって来る事になったのです。これは現在では我が家で「預かっている」という事になっているので、財産分与の時に義姉に取られてしまう可能性もあるのですが、とにかく私はこのドレッサーに惚れてしまったのでした。
前の持ち主はあまり大切にはしていなかったと見え、表面にも艶がなく、乾ききっていてとても惨めそうに見えたので、私は彼女を丁寧に磨く事にしました。表に見える所だけでなく、内側も引き出しの中も、とにかく手に届く所はすべて磨きました。こんなに大切にしているなら、私にあげよう、という事になるといいなと思いながら。
磨いていると、「こんな所まで丁寧に作られているのか」と関心させられました。何百年か前の職人が愛情を込めて丹念に作っている姿が目に浮かんで来るようで、「職人が魂を入れる」という意味が少し理解できたような気がしました。そして磨き終えて眺めてみると、それはそれは美しく、気のせいかドレッサー自身も自分の美しさに満足しているように感じられました。
そうやって家中の家具を改めて見渡してみると、どれにもそれぞれに個性や魂などがあるように見えて来たのです。よく、「家は人が住んでいない駄目になってしまう」と言われたりするのも、きっと家から魂が抜けるからなのだろうと思います。
こんな風に古いものに囲まれて生活するうちに、古い物を大切にする気持ちが自然と養われ、アンティークの持つ何とも言えない暖かさが私にも感じられるようになっていきました。我が家にあるアンティークから魂が抜けてしまわないように、これからも大切に愛情をかけていきたいと思っています。
Trackback146
イギリスで生活していた頃の家はもともとは夫の両親が住んでいた家だったので、我が家には単に古いだけのガラクタから、本当のアンティークまで、とにかく沢山の古いものがあります。
正直なところ、最初に住み始めた頃は、熱いものを置けないテーブル、へんにうねうね曲がっていてスペースばかり取って埃もたまりやすいタンスなど、不便なものばかりであまり好きではありませんでした。
ところがある日、我が家にはそれは美しいウエリッシュ・ドレッサーがやって来る事になったのです。これは現在では我が家で「預かっている」という事になっているので、財産分与の時に義姉に取られてしまう可能性もあるのですが、とにかく私はこのドレッサーに惚れてしまったのでした。
前の持ち主はあまり大切にはしていなかったと見え、表面にも艶がなく、乾ききっていてとても惨めそうに見えたので、私は彼女を丁寧に磨く事にしました。表に見える所だけでなく、内側も引き出しの中も、とにかく手に届く所はすべて磨きました。こんなに大切にしているなら、私にあげよう、という事になるといいなと思いながら。
磨いていると、「こんな所まで丁寧に作られているのか」と関心させられました。何百年か前の職人が愛情を込めて丹念に作っている姿が目に浮かんで来るようで、「職人が魂を入れる」という意味が少し理解できたような気がしました。そして磨き終えて眺めてみると、それはそれは美しく、気のせいかドレッサー自身も自分の美しさに満足しているように感じられました。
そうやって家中の家具を改めて見渡してみると、どれにもそれぞれに個性や魂などがあるように見えて来たのです。よく、「家は人が住んでいない駄目になってしまう」と言われたりするのも、きっと家から魂が抜けるからなのだろうと思います。
こんな風に古いものに囲まれて生活するうちに、古い物を大切にする気持ちが自然と養われ、アンティークの持つ何とも言えない暖かさが私にも感じられるようになっていきました。我が家にあるアンティークから魂が抜けてしまわないように、これからも大切に愛情をかけていきたいと思っています。
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