2008/7/10 10:52
「映画史」という中華思想 分類なし
「映画史」という中華思想あるいはフランス系みやび
運動としての「キタノ」の開始と同時に失効したのが、「いき」の構造であり、「表象批判」であることは、もはや誰の目にも明らかである。にもかかわらず、かの「映画狂人」は相も変らぬ不正な操作によって帳尻合わせしながら、それを恥知らずにも「恩寵」(神の見えざる手)と称して平気の平左である。そこで奴はまず、いい加減な「パースペクティヴ」を立て、そうして対象をまったく美学的に括っておいてから、あとになってそれをテメエの都合次第で修正する。それなのに、「ほれみたことか、わしの言ったとおりだ」などとぬけぬけと言いやがるのだ。それで「誤認」(misleading)していないつもりでいやがるから、「ボケ」は無際限である。やはり、映画はその考古学的な恍惚によって見る者を「ボケ」させるのだ。かくして、奴は「対抗」を知らぬゆえ、根本的に不毛なのである。そのあっけらかんとした御都合主義(「恩寵」)は、断じて「自由」などではなく、現状に対する追従でしかありえない。そこには現在進行形の「ボケ」が露呈されている。
奴の格付けは、たんに間違っているばかりでなく、「ポップ」のアホガキども(事実からすれば、オヤジどもであるが)に、愚劣な偶像崇拝を植え付ける「環境汚染」でしかない。そこで奴は、虚偽の声明によって、かつての「教え子」たちの評価を不当にふくらまし、そうすることによって「ポップ」のアホガキどもからまんまと「買い」注文を引き出したうえ、自ら大いにその恩恵に与りつつ肥え太るのだが、そこでアホガキどもが買わされるのが「映画的センス」だとか「映画的素養」だとかいった空疎なものへの盲信でしかないということが注意されるべきである。
ついでにいっておくが、「拙者」の考えでは、蓮實がキタノよりも「本物」とみなす「映画作家」たちは、いわば「近代文学」に属している。たとえば、ソクーロフやイーストウッドにおいては、文学や映画が「価値」あるいは「ジャンル」として自明化されている。ゆえに、彼らが歴史を扱うとき、「歴史」は出来合いのもの、すなわち「一系」にならざるをえない。一方、「武」はそういった「価値」を疑う意識であるより前に、端的に「懐疑」そのものとして、いいかえれば、「視差」として出現する。かくして、そこに現れるのが、差異としての「武」である。まさにそれゆえに、キタノは、「映画史」からの蔑視と無関心によって、「亜周辺」に取り残されるということになる。実際には蓮實にしても、「傑作かどうかはわからないが、これしかない」などといった印象をときおりもらすことで、「それ」が「映画史」などという「中華思想」(フランス系みやび)とは根本的に異質であることを承認せざるをえないのだが、結局はまた「それ」を抑圧しないではいられない、というところに「奴」の限界、すなわち帝国の陰「毛」が露呈されている。端的にいえば、蓮實の表象批判とは、すでに機能しなくなって久しい「文学=官僚」制度そのものにほかならない。
運動としての「キタノ」の開始と同時に失効したのが、「いき」の構造であり、「表象批判」であることは、もはや誰の目にも明らかである。にもかかわらず、かの「映画狂人」は相も変らぬ不正な操作によって帳尻合わせしながら、それを恥知らずにも「恩寵」(神の見えざる手)と称して平気の平左である。そこで奴はまず、いい加減な「パースペクティヴ」を立て、そうして対象をまったく美学的に括っておいてから、あとになってそれをテメエの都合次第で修正する。それなのに、「ほれみたことか、わしの言ったとおりだ」などとぬけぬけと言いやがるのだ。それで「誤認」(misleading)していないつもりでいやがるから、「ボケ」は無際限である。やはり、映画はその考古学的な恍惚によって見る者を「ボケ」させるのだ。かくして、奴は「対抗」を知らぬゆえ、根本的に不毛なのである。そのあっけらかんとした御都合主義(「恩寵」)は、断じて「自由」などではなく、現状に対する追従でしかありえない。そこには現在進行形の「ボケ」が露呈されている。
奴の格付けは、たんに間違っているばかりでなく、「ポップ」のアホガキども(事実からすれば、オヤジどもであるが)に、愚劣な偶像崇拝を植え付ける「環境汚染」でしかない。そこで奴は、虚偽の声明によって、かつての「教え子」たちの評価を不当にふくらまし、そうすることによって「ポップ」のアホガキどもからまんまと「買い」注文を引き出したうえ、自ら大いにその恩恵に与りつつ肥え太るのだが、そこでアホガキどもが買わされるのが「映画的センス」だとか「映画的素養」だとかいった空疎なものへの盲信でしかないということが注意されるべきである。
ついでにいっておくが、「拙者」の考えでは、蓮實がキタノよりも「本物」とみなす「映画作家」たちは、いわば「近代文学」に属している。たとえば、ソクーロフやイーストウッドにおいては、文学や映画が「価値」あるいは「ジャンル」として自明化されている。ゆえに、彼らが歴史を扱うとき、「歴史」は出来合いのもの、すなわち「一系」にならざるをえない。一方、「武」はそういった「価値」を疑う意識であるより前に、端的に「懐疑」そのものとして、いいかえれば、「視差」として出現する。かくして、そこに現れるのが、差異としての「武」である。まさにそれゆえに、キタノは、「映画史」からの蔑視と無関心によって、「亜周辺」に取り残されるということになる。実際には蓮實にしても、「傑作かどうかはわからないが、これしかない」などといった印象をときおりもらすことで、「それ」が「映画史」などという「中華思想」(フランス系みやび)とは根本的に異質であることを承認せざるをえないのだが、結局はまた「それ」を抑圧しないではいられない、というところに「奴」の限界、すなわち帝国の陰「毛」が露呈されている。端的にいえば、蓮實の表象批判とは、すでに機能しなくなって久しい「文学=官僚」制度そのものにほかならない。
