2008/9/7  4:36

自転車操業  経済学
自転車操業

要するに、『キッズ・リターン』(1996)とは、学校から「解放」(disengage)された者等が、そこに展示してみせる変身譚なのである。しかも、学生身分から社会人への転身には、卒業式と思われる日にシンジによって感慨深げにその校舎が見上げられるということがあるにせよ、明確な区切り目がない、というか、すでに「破局」こそが目指されているかのように、そこには然したる関心が払われてはいない。北野が例によって監督という超越的な視座から、そこでの登場人物を「人形」のように扱っているというような謗りを受けかねない、そこからの過程とは、むしろ、それが「友愛=信用」によって急かされている、ということを示すものとしてあるのだ。
「キッズ・リターン」。それは、「俺たち、もう終わっちゃったのかなあ」、「馬鹿野郎、まだ始まっちゃいねえよ」への「復帰」である。それは絶え間ない終わり(=決済)の先送り、つまり、「形而上学の夢」への復帰なのである。それは米の配達をするシンジと職探しをするマサルの遭遇へと、その冒頭(出発点)へと回帰する。それは「袋」にされて、いいかえれば、さらなる「価値増殖を義務づけられた者」として、戻ってきたのだ。そうした「循環」には出口がなく、ひとは、時折、それが「坐礁」する危機の瞬間に遭遇すると、いつになく謙虚な心持で、おのれの足元を見つめ直したりするわけである。 
校庭でのマサルとシンジの「自転車操業」とは「経済的」活動、すなわち、決済を先送りする「宙吊り」の運動なのである。それは始まりも終わりもない円環(=車輪)においてなされているのだ。こうしてみると、それが「青春」ではなく、「社会(契約)」を扱った映画だ、ということは明らかである。したがって、ここでのボクシングの練習風景と『あの夏、いちばん静かな海』のサーフィン大会の時空が、ともに「浮力」を帯びるのも、それらが「信用」(=友愛)の問題を孕むがゆえである。自転車(BI-cycle)とは、つながり乞食を結ぶ紐と同様に「信用」であり、しかもそれこそが、ここで、われわれが「武」(BI弐)として見出すべき「抵抗」でもある。したがって、そこで、2人が自転車に「向き合って」乗る、あるいは屋上から人形を「吊る」というところにこそ、北野武における「理想的なるもの」がしるしづけられているといってよいだろう。
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