2008/11/5  7:37

信用の発生  人文学
  売りと買いの分裂

「それ」はどこか外国の、どことも知れぬビルの屋上家屋で起こる。われわれに、それが「この人」として知られうるのは、そこで山本の纏うその雰囲気(aura)のためであるが、どうやらあなたには「それ」が信用ならないようだ。たしかに「今ここ」で、このみすぼらしい人間である「武」を「貨幣」と視ることは「イノチガケ」の飛躍としての「信仰」である。いかにもさよう、北野武は、この『BROTHER』(2000)で、「資本」が「それ」として表明される前に、つまり、事前において「それ」を知ることができるかと、あなたに問うているのだ。かくして、その「瞬間」は「致命的Capital」なのである。「それ」は無際限の自己拡張を強いられた「資本の欲動」にほかならない。しかるに、「それ」は「強い視差 parallax」にしつこくつきまとわれたうえ、ついには、『Dolls』(2002)において、さわこが開示して見せるような独我論の「裂け目」に逢着する破目になる。すなわち、「それ」はついに「自由」(他者)への「義務」に目覚めるのだ。
つまり、こういうことだ。松本は「独特な種類の商品」であるところの、さわこ(=貨幣)をまずは「売り渡す」のである。ところが、その相手というのが、自己自身すなわち松本という次第であるから、そこで貨幣を渡された松本は自身、「跳躍」しなければならないという、そういう位置に「自ら」置かれるのである。そこで、あなたが、それはやはり「男の独善」にすぎないのではないかと指摘されるならば、それも尤もな主張であると、いちおう、われわれも認める。しかし、肝心なのは、この「自ら」である。なぜなら、ここで、その「跳躍」の時を先送りにするのもまた、この「自ら」だからである。要するに、そこで「婚約破棄」とは、「売りと買いの分裂」を生じさせて、「信用」の拡大を図るということなのである。ゆえに「信用」(credit)こそが問題である。かくして、その分裂が「赤い紐」によって結ばれるということは、そこで「信用」が発生したということなのである。そうしたわけで、両者は「ひとつのもの」として運動を続ける。しかし、その「統一」も、ついには、「強力的に一つの―恐慌によって貫かれる」(『資本論』 岩波文庫)。だから、こういう執拗に一貫した「論理」によって編まれているところのものを、「映画的センス」だとか「映画的素養」だとかいった空疎なものによって裁断することは、理の当然によって、そういう評者等の「無残なナルシズム」を公にすることにしかならない。ことわっておくが、かの「映画狂人」によってあらかじめ入力されてあるというにすぎないそうした「自明的根拠」を疑うということがないかぎり、映画批評の刷新などは望むべくもないのである。ついでに、この際だから、中毒患者であられるその生徒諸君にいっておくが、映画狂人から習い覚えた空疎な美学を基に、通を気取ってアホをさらすのは即刻やめるのが賢明というものである。

2008/11/4  7:47

形而上学の夢  人文学
  信用危機と取り付け騒ぎ 

『Dolls』(2002)の主題は明瞭である。「それ」は「モラル」、いいかえれば「形而上学」以外のなにものでもありはしないのだ。そして、まさに「それ」ゆえに「武」は野暮だと嘲笑されるのである。一方、「今時」とは何かといえば、「資本と国家」に追随し、それらのものへの「対抗」を「野暮」として嘲笑うところの、「稼ぐが勝ち」などといった「ポイント」(利益)還元の「虚無思想」にほかならない。しかも、そうした「虚無」の族は『Dolls』を嘲笑するだけでは足りずに「それ」を呪う。ならば、そうした「今時」に対し、われわれが「コマネチ!」の運動によって対抗するのは、きわめて「当然」のことといえよう。いうまでもなく、それはわれわれが「コマネチ!」に「合目的性を仮定する」ということと同義である。すると、「コマネチ!」なんかに「目的」なんかあるわけ?、その時、奴等はすかさず、したり顔にのたまうだろうが、さもあらばあれ。ことわっておくが、奴等の「今時」が、いずれそのうち、われわれ「コマネチ!」によって凌駕されるであろうことは確実である。それは「諸行無常」、というより、「人類史」にわれわれの仮定する「合目的性」であるといってよい。という次第で、ひとが、世界は漸進的にではあるが、結局は善いほうに向かうと考えるとすれば、そうした信念は根本的であると、かのカント哲人もまた肯んずるであろうこと請け合いである。そもそも「啓蒙」というのは、たんなる知識の所有から来るのではなくて、他者との「関係の非対称性」から来るのだ。かくして、誰であろうと、「売る立場」あるいは「教える立場」にたたざるをえないのである。
要するに、北野映画の核心には「分割」、あるいは「商い」がある、といってよい。それは『HANA-BI』の絵に描かれたペンギンがその頭を植物に変えることからも明らかなように、「自然成長的な」分岐の過程なのだ。そしてそうした過程は、そこに「]」(強い視差)をつきまとわせることによって、視る者に「資本と国家」への「対抗」の拠点を示唆する。こういう次第であるから、北野映画を、根本に「それ」を置いた、すべてが「それ」によって「統整」される「形而上学の夢」と見なすことが、われわれの発端となる。そういう「形而上学の夢」を強いる「動力」こそが、北野映画において吟味されるところの「それ」だからである。こうして「それ」は「自己言及的」であらざるを得ない。処女作『その男、凶暴につき』(1989)は、その現場監督の座に深作欣二の代役として、北野武を置くことから生じている。かくして、その組み替えは、「突然変異」というべき事態をそこに招来、監督=主演という「自己言及的な形式体系」が、そこから作動し始めることになる。
そもそも、北野映画が「霊力」とでも言うほかないような喚起力を伴って持続するのは「それ」のためである。たとえば、『みんな〜やってるか!』(1995)であるが、この好むにしろ厭うにしろ、あまり本気では扱われたことのない、自発的に「映画的センス」を放棄した作の「それ」とは、現金の詰め込まれたカバンを持ち運ぶ宮路社長の背後をついて歩く、会社員、作業着姿の工員、さらにインディアンの羽飾りやら、下駄履きやらの「仮装」混じりの行列が、乗用車の車内に逃げ込む社長を追って、そこに殺到するシーンである。ここに生起しているのは、やはり「恐慌」である。これは貨幣に殺到するひとの群れによって、そこに展示される「痙攣(麻痺)」として理解される。つまり、ここに現れているのは、「取り付けrun」なのである。「今ここ」において商品への信頼が揺らぐのだ。すなわち「今ここ」において、「売れない恐怖」が各自を捉える。糞便と貨幣の求心力のパラレルを描くこの作の「それ」。そこに置かれた車に、仮装交じりの一団が群がる光景を、引きの固定画面で捉えたこのシーンの突出性はまぎれもない。役者が、車の屋根の上で見得を切る。刑事が、手帳を掲げ、「みんな動くな、逮捕するぞ、動くな」と叫びながら、そこを動き回る。そこには国家権力でさえも、「それ」を収拾することができないという現実がはっきりと露呈されている。「今ここ」が、この映画の、あるいは世界の結節点である。こうした疑い得ないと同時に、信じられない「結び目」の連関を指摘することが、われわれの当座の目的である。
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