2008/10/1  7:51

恐るべき「漫才」事件  倫理学
「トランスクリティーク」とは何か      ― 恐怖の「から」谷 ―

Let us consider the problem in the light of pure reason.
Ha ! Ha ! Capital ! What do you think of pure reason and its fruits?
(SIR ARTHUR CONAN DOYLE THE VALLEY OF FEAR)

われわれは、北野武について直接論じたりもする蓮實重彦によっては、「武」について何事も解明されないというのに、柄谷行人を参照すると、「武」についてそこにすべてが書き込まれているという現実の事態をしかと見据えるべきである。いったい、キタノは「砂浜の」あるいは「自転車の」映画作家であるといった類の「呆談」によって、ひとは本当に何かを「知る」ことができるだろうか? さらに蓮實のいう北野武の「掟」とやらのその空疎さ加減はどうだろう? 本当にもう手の施しようのない「末期症状」、安易の極みを示しているではないか。蓮實のだらしなく弛緩しきった「映画崩壊前夜」(青土社)とは無残な「老醜」以外のなにものでもない。それはおのれの「空疎な美学」(「みやび」)を存続させようとして「コネ」に縋る、あられもない身贔屓なのだ。おのれの存続のためには、もはや形振りかまわぬ、恥も外聞もない蓮實のようなボケには端的に「おまえのようなボケは死ね!」と言ってやるべきである。そもそも奴の「ボヴァリー夫人はわしだぁ〜」という自己主張にしてからが、「近代文学」における「告白という制度」に則ったものにほかならないのだから、「近代文学の終り」とともにその機能は事実上、停止しているのだ。しかるに生い先短いことに居直ってか、奴はその虚ろな叫びを虚ろそれ自体として辺りに響かせずにはいないというわけだから、そうした「空疎書き暴」には、やはり早急に身柄を拘束したうえで「去勢」の処置が必要であるかもしれない。そうすれば奴もついに「恥」の何たるかを学ぶであろう。
われわれが当初から確信していたとおり、やはり、「それ」(「武」)をとらえているのは、とどのつまりは共同体の慣習によって考えさせられているというだけの、しかもそのことを疑ってみたことすらない映画評論家たちなんかではなくて、むしろ柄谷行人なのだ。「拙者」がキタノを解明するに当たってカラタニに寄生したのも、そういう事情あってのことであり、決して「左翼」のみなさんに対する嫌がらせのためなどではないことを、ここにお断りしておかねばならない。
そして、われわれが、そこから直ちに知るのは、映画評論に現在欠けているのが、「知的・道徳的関心」にほかならぬということである。そして、キタノとカラタニが交わらざるをえない所以もそこにある。つまり、このふたりは、まさに「物自体」(=未来の他者)に関わっているのである。それゆえ、ふたりは、その「超越論的統覚]」(「くじ引き」および「球」)において一致するわけである。「しかしキタノがカラタニ的と見えるのは直接にカラタニから学んだからではなく、彼自身がtranscritiqueを生きたからである」。すると、この逆もまた真なりである。「カラタニがキタノ的と見えるのは直接にキタノから学んだからではなく、彼自身がtranscritique を生きたからである」。これこそまさに「位置転換」の恐ろしさにほかならぬ。というわけで、「武」は、自然、次のように問わざるをえない。 

ほいじゃあ、なにかい、オイラの「コマネチ!」は「トランスクリティーク」なのかよ。

一方、カラタニは、ここで、当然、「アンチノミー」に陥らざるを得ない。それは次のように言い表されるだろう。 

人間の理性は、ある種の認識について特殊の運命を担っている、即ち理性が斥けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である。斥けることができないというのは、これらの問題が理性の自然的本性によって理性に課せられているからである、また答えることができないというのは、かかる問題が人間理性の一切の能力を越えているからである。(カント「純粋理性批判」 上 篠田英雄訳 岩波文庫) 

しかるに、これは要するに、『BROTHER』(2000)における「友愛」が、あるいは『Dolls』における「恋愛」が、「視差」につきまとわれるという事態と同然の経験であると考えれば、別に難解ではないし、またそれ以外の方法によってこのアンチノミーから脱け出すことは不可能である。わかりやすくいえば、「それ」は根本的に「相棒」にかかわっている。「それ」は新たなるコンビ結成というべき事態である。であれば、アドルノとホルクハイマーあるいはドゥルーズとガタリもすでにいなくなった現在において、現実への絶望が尤もらしく語られる一方で、旧態依然なロマン主義者らによる「すっぱ抜きと憂さ晴らし」(ネガティヴ・キャンペイン)がはびこりもする現在において、カントとマルクスを継承するのがほかでもないキタノとカラタニのコンビネーションであるという事実は、いったい、どういった因果のなせる業なのであろうか。むろん、その原因は複雑すぎて解明することなど到底できないし、むしろ、われわれに、今、必要なのはその原因の究明ではなくて、そこに「自然の狡知」を認めることなのである。いかにもさよう、ふたりは『HANA-BI』の西と堀部にも似た「コンビ」なのだ。ふたりは「弁証法」(ボケとツッコミ)を生きるのである。ふたりは、ここで不世出の漫才コンビである。ふたりは、まさに「どんどんボケろ、びしばしツッコムから」(ビートきよし、アジアはオネoneであるってか?)という関係性を生きているのだと言えよう。ここで誤解をさけるために付け加えておくが、この場合、両者は自在に「位置転換」をはたすのであって、どちらか一方が「ボケ」、他方が「ツッコミ」という具合にその位置が固定されているのではない。というわけで、相対する二点間を動的に揺れて止まない両者は、ここで、「差異における存在」を生きているのに相違あるまい。

2008/9/30  7:45

位置転換の恐ろしさ  倫理学
「それ」は「異種結合」にほかならない 

ところが、キタノとカラタニの、いわゆる「K・K」コンビは結成されると同時に解消され、ただちに「アソシエーション」に組み替えられる。宙に吊られたところの「二つ折り」の「無限遠点」こそ、「可能なるコミュニズム」にほかならない。かくして、そこに「球」の働きが指摘されるのも当然である。それは「アソシエーション」であるかぎり、「地球規模」(グローバル)であることを強いられるからである。《このことは、剰余価値がグローバルにのみ実現される以上、それを廃絶する運動がトランスナショナルでなければならないということを意味する》(柄谷行人 『トランスクリティーク』批評空間)。
もはや、『Dolls』(2002)のラストに現れる「宙吊り」が、「世界共和国へ」の誘いであることに疑いをさしはさむ余地などまったくない。「それ」は「場所を持たぬ」のだ。《余を驚破せり》(北村透谷)とは、まさにこのような事態を指して言うのであろう。「しるし」とは、「他者」の謂いである。「それ」は、「強い視差」を伴ってやって来る。かくして、キタノを「知る」にはカラタニを読まねばならない、あるいはまたカラタニを得心するためには、ひとは「コマネチ!」に真剣に取り組まねばならない。これが、ここでの「当為」である。だいだいカラタニを読まずしてキタノを理解するなどは、金輪際ありえんことである。それは映画評論家と称する連中をみれば明らかであろう。「当為としての認識」を欠くならば、「それ」を理解することは不可能なのだ。連中は、そもそも「知的・道徳的関心」などもったこともないのに、「それは武のことだ」などと思い込んでいるのである。評論は須らく、そういうおのれの「盲信」を問いに付すことから始めるべきではないのか? 
一方、まさに「当為」(=結び目)によってこそ「コマネチ!」は「可能なるコミュニズム」に帰着する。そもそも、キタノとカラタニは両者ともに、まさに世界に「投げ入れ」られてあるのだから、諸外国の方々も両者のこうした「対話」に、あるいは同じことだが「漫才」に、早晩気付くこととはなろう。とはいえ、この世に不正があるかぎり、われわれ「コマネチ!」(ここではすでに「アソシエーション」が前提されているのだということに注意して欲しい)は、これをなるだけ迅速に追及せねばならない。そして、そうした追及の過程において、われわれの運動が、「みやび」にとって、是非とも「改造」を強いねばならない危険思想を孕むものと映るとしても無理からぬことである。ゆえに、われわれの身の安全が保障されているとは到底いい難いのではあるが、やはり「アホはアホである」(=「ボヴァリー夫人はわしだぁ〜」)ように、不正は不正である。こうして、「拙者」は敢えて、これをなすのである。
 それはみずからそう標榜することによってではなく、「トランスクリティーク」を生きることによって、「マルクス」主義者であることを、そのひと自身がみずからをそう見なしていなかったとしても、またみずからの意図に反してさえも、ついにはそのおのれ自身にさえ隠された志向をあらわにしてしまわざるを得ないという事態によって、そこに突発的に生起するところの「異種結合」である。そのような横断的「アソシエーション」は、ここで「マルクス」・ブラザース&シスターズと呼ばれるであろう。ひとはこのような連帯=交通を恐れるべきではない。「我輩はカモである」としても、結構です。笑われたって構わないじゃないか。われわれには「理念」が憑いているのだ。何を恐れることがあろう。「拙者」が叩き台というにはまるで覚束ないものであるかもしれないが、ともかくもひとつの意見をこうして提出するというのも、畢竟「アソシエーション」によるさらなる解明を期待してのことである。

2008/9/24  7:50

光の帯  倫理学
啓蒙とは何か
  KARATANIによって解明されたKITANO 13

ところで、「啓蒙」とはenlightment 、 つまり「光」によって照らすことである。『その男、凶暴につき』(1989)では、最後の対決において、その光と「動く空気」が組み合わされ見事に形象化されている。それは「暇」(disengagement)を出された者同士の対決である。一方は麻薬の横流しを常習とするような腐敗した組織である警察から「でっち上げの別件逮捕、監禁、拷問おまけに署内での発砲」の末、辞表の提出を求められ、もう一方は「レストラン経営の傍ら覚せい剤取引」をし、邪魔になった者は抹殺するという犯罪組織から、不必要な殺しを咎められ追放される。そして妹を「採られている」我妻(ビートたけし)が、そこにやって来て、ついに最後の対決となろうというとき、清弘(白竜)によってその手下どもが「廃棄」され始める。それは「容赦ない」ものである。手下の三人がそこに並んで立ち尽くしたまま緊張でこわばる。ひとりがこれから始まるという殺し合いについて「冗談じゃないわよ」と口答えをはじめるやいなや、そこで床に座って銃の弾丸の装填を確認していた清弘は、それを後ろ向きのまま「廃棄」する。ここではその振り返る動作が編集によって省略されて、代わりに事後の硝煙がそこに流される。そこで、その隣の手下が、清弘が投げ与えておいた銃を拾い上げ、その背中に三発打ち込む。仕留めたつもりで、しばらくその余韻に捕らわれるのも束の間、起き直った清弘にこれまた「廃棄」されてしまう。三人目が駆け出すのを清弘が、そのショットガンで狙って、立て続けにぶっ放す。出口の扉が開かれ、その内側に「光」が放たれる。そこまで辿り着いた三人目が、今度は我妻によって「廃棄」される。さらに扉が開け拡げられることで、両者の間に「光」の帯が張り渡される。清弘は柱にもたれて座り、自分が「息」であることを強調する。まさにそのように、ここで、清弘は呼吸しているのである。したがって、ここで、ひとは、逃げ込んだ路地における危機を、瞬きを繰り返しながら鼻をすするという「感情」の偽装によって脱した我妻を想起せねばならない。それによって我妻はナイフを手に取り、それを相手に突き刺す「隙」を作り出すことに成功しているのだからである。それは呼吸の自己調整によってなされる「ぺてん」である(『HANA-BI』においてもやはり感情の偽装によって、西は自分を宿から外へと呼び出した追っ手の取り出した拳銃のその撃鉄部分にみずからの指を挟ませる「間」を作り出し、その発射を阻止する)。さらに、ここに警察署のロッカールームで我妻によって試みられた「ぺてん」を考え合わせると、両者の間のコミュニケーションが、まさに「ぺてん」によって成立していることは明らかである。そこで我妻は清弘の前に俯いて座り、拷問を被る立場から攻撃に転じるために必要なナイフを、手に取る「隙」を清弘に与えるかのように偽装する。むろんそこではまだ、それらの「ぺてん」は暴力と区別がつかない。だが、それらは非-暴力の「息吹」なのだ。それは言の「葉」である。そして、その「葉 lobe」は、「球 globe」に帰着する。はじめに「ぺてん」があった。そして「ぺてん」は「武」と共にあった。かくして、『BROTHER』において明らかなように、「コマネチ!」は「価値」であった。

2008/9/23  8:01

キタノ的転回  倫理学
球の開始、あるいは世界史的事件

それまで「凝固」したように動かなかった我妻(当然、これは「東」すなわち東国武士のことと解釈しうるだろう。さらに我と妻の間には「信用」の問題があろう)が、「覚悟を決めて」(cast caution to the wind)、歩み始める。白目をむいて清弘が迎え撃つ。それは直線的な歩行であり、ここで、この直線は「大円」をあらわしている、とみなされる。我妻が警察から「暇」を出されて、まず向かうのは絵画の展覧室である。それは「宙吊り」への志向である。そのとき、妹は拉致された先で、その肉体に注射針を「突き刺されて」いる。それは昆虫採集を意味するところの「夢の仕事」である。一方の我妻はバッティングセンターで、「球」を弾き返す。この「球」の存在こそが、最後に我妻をその対決の場所(destination 目的地)へと導くのである。こうして我妻は、「息」(wind)そのものと化した清弘へ向けてその歩みを進める。その肉体に相手の銃撃を浴びながらも、我妻が2点間の距離を詰めていって、ついに清弘を廃棄するその一撃は、こうして相手の「口」に当てられるのである。したがって、我妻が目掛けていくのは、あるいは引き寄せられていくのは、まさに「息」そのものである。「主の法は汝の口の中にあるのだろう」(the LORD’s law may be in thy mouth EXODUS)。それはまた弾丸だの(『HANA-BI』)、将棋の駒だの(『BROTHER』)を相手の口に含ませての制裁となって現れもする。
 薬物を求めてそこへ現れ出た妹の廃棄においても、我妻の「容赦なさ」に変わりはないが、少し間をもたせる。それは内面的なためらいではなくて、「没関心」をあらわしている。そして、そうした「無関心」は職務から「解放」された我妻が絵画を見に行く心的態度そのものであるといってよい。この妹は拉致されてきて、その場所でまさに「人形」として扱われている。男の刺激に反応しない女は、注射「針」によって、いわば「留められる」(体内に「液体」を注入される)。それでも、そこでの「性交」は、依然「没関心」なままであり、いわば「性」を除かれたものでしかない。それは性愛ではなくて、「労働」なのだ。つまり、ここに示されているのは「形而上学」なのであり、妹を廃棄する際、我妻の見せる「没関心」こそが、まさにそのことを告げているのである。その妹の廃棄は、薬莢が床に触れる乾いた音を伴う。それは、いわば「形而上学」としての金属(=固体)というべきものであって、後の座頭市における「金属性」を先触れするものにほかならない。そこからのUターンで、その我妻も呆気なく「廃棄」される。そこで上がる硝煙の輪こそ、あたかも天使の頭上に掲げられるもののごとく、「武」の本質というべきものである。それは「動く空気」であり、宙を漂うものである。そして、ここにこそ「無限遠点」が置かれているのだ。それはヤクの売人であるところのサカイの廃棄に向かう清弘と、その住処から戻る我妻が歩道橋の階段で擦れ違うところに端を発し、そこから引き伸ばされる平行線が、ついに交わる点である。そこから、さらにそのまま歩みを進める我妻は、鉄道線路のそばで不意に180度の方向転換をなして走り始める。サカイの住処に再び辿りついた我妻は、そこですでに廃棄されて、住処のすぐ前の水面に浮かべられた肉体を見出す。したがって、そこでの両者の擦れ違い、さらに我妻のUターンが逢着するところの「遅れ」こそが、『その男、凶暴につき』(1989)における真の「動力」(drive)である。この「転回」においてこそ、かのフリードリヒ・ウィリヘルム・ニーチェがスイスの湖畔において受領したとされる「永劫回帰」の啓示にも比せられるべき「武」の「思想」がはじめて現れたのだと言っても過言ではない。いうまでもなく、「武」がここで受けたのは「球」の啓示である。「それ」は「球」である。

2008/9/22  7:50

近道の浮上  倫理学
近道の浮上

ところで、『その男、凶暴につき』(1989)には、もうひとつさらに重要な、というのも、そこにおいてこそ妹(川上麻衣子)が「形而上学」(=人形)であることをその自発によって拒むからであるが、「大円」が存在する。それは夜道に我妻と遭遇した妹が、みずから発案して(「お兄さんお帰んなさい、近道してこ」)、ふたりして辿ることになる「近道」(ショートカット)である。 
 ふたりは肩を並べて歩み始める。妹がそこでハミングを開始する。それは「息」の現れである。つぎに運河の水を貫いて、そこに浮かんでいるようにも見える通路をふたりが歩くのを、キャメラが引いた位置から捕捉する。それは我妻を前にして、妹がその後ろからハミングしながら続くという「縦並び」(file)の歩行である。さらに、そこには船舶の発動機(ドライブ)から来る音響効果が付されている。おそらく、この何の変哲もないシーンにおいてこそ、北野映画という「網状組織」が、ほかでもない「それ」(IT)として機能し始めたのである。それは宙に吊るされた「瞬間」なのであり、ここには肉体の廃棄とは違った、むしろ、そのような「観念」に対抗するような志向が、つまり「弁証法」が現れている。それは『Dolls』(2002)における「息」によって宙に浮く球体という、北野映画の数ある「中心」(the Hub)のなかでも、際立って画期的な「瞬間」の、遥かな先触れなのである。その時、その「ハミング」(=息)の発現は、まさに「働く」のだ。それは映画の持続を唐突に切断し、みずからを断片化することで、未来における思いがけない関連付けを、「未来の他者」として期待しながら、そこで、不意に彷徨いだす「瞬間」といえるだろう。したがって、ここで、「弁証法」とは、ほかでもない「複数体系」を開示する「トランスクリティーク」の実践である。「それ」は北野映画という「網状組織」を横切って、そこに「アソシエーション」を形成する対抗運動としての「武」(ET)にほかならない。だから、「それ」が「球面をモデルにして」考えられているのも、「それ」が「世界史的」運動であるための必然といえよう。
この通路こそが、精神を病んだ妹との間に張り渡された紐であり、帯であり、すなわち、ふたりの「契約」なのである。それが水路(channel管)を貫く「近道」として、そこにいわば「浮かんで」いる。したがって、ここでの妹の廃棄は、契約の破棄(disengagement)である。それは暴力(=観念)的になされるのであるが、同時に、そこにつきまとうようにして現れるのが、あの硝煙の輪であり、それがその「浮力floatation」によって、近道であるところの通路と連結されるというのが、この出来事(妹の廃棄)の核心なのである。かくして、「それ」は「アソシエーション」によって作動する。そして最後の対決のすべてを見届けた組織の相続者によって「どいつもこいつも氣違いだ」という言葉が吐き出される。それはつまり、どいつもこいつも「形而上学の夢」のうちにあるということを意味する。

2008/8/4  7:37

カミさんについて  倫理学
カミさんについて

なにが「みやび」だ! ゴダールは、志賀直哉や長嶋茂雄にも似て、たしかに「高貴noble」には違いないだろうが、「闘争」を欠いている。こんなことを言えば、どうせその音響と画面の高度な組み合わせそのものが、まさに「それ」なのだという反論が帰ってくるだろうが、やんごとなき「麿」こと浅田彰をみても明らかなように、「作品の完成度」とかいったものを尺度として至極尤もらしい分類に感けながら、肝心の分析を蔑ろにする「中毒者」の自己満足は畢竟、現状に対しなんの効果も及ぼすことがない。というのもそうした中毒者らが、「空無」に仕えて「バリケード」に立て籠もる者、いいかえれば、現実を内面登録するに感けて、「終りなき当為」としての容赦ない認識あるいは現状の揚棄を促す「理念」の働きを斥ける者でしかないからである。
とどのつまり、ゴダールとは「文学」の外においては書くことも話すこともできない「カミさん」である。それは大阪出身で、もと漫才師である「武」のカミさんとは大違いである。カミさんの名である幹子とは、『HANA-BI』の砂浜に置かれた倒木であり、そこで横軸をなすものである。それは「武」の実部(相棒)なのだ。それは「武」の「幹」(stock)であり、「武」がそこから「枝」(branch)を広げようと意図していることは明白である。したがって、そこには「信用」(stock)の問題がある。実際、かのバイク事故によって余儀なくされたその病床で、「武」はカミさんに問いかけている。《そうだ、黄金色の家ってのはいつできるんだい?》(『顔面麻痺』太田出版)。ここには「恐慌」の問題がある。
一方、その本性からして野暮な「道徳性」だけはどうしても回避しないではいられぬゆえ、「闘争」を欠き、まさにそれゆえに、どこまでも迂遠であるほかはない、かくして、「音楽愛好家」たちの愛玩物であるほかはない「カミさん=ゴダール」を、その「退行」から救い出してやるためには、「それ」を現状への「対抗」に変換すべく、その内部に「統整的理念」の働きを探り当ててやるほかに手はないのである。ところが、「フランス系みやび」の連中はそんなものには関わりを持たないばかりでなく、「それ」を嘲笑する。かくして、「人が想像出来る芸術の最も偉大な仕事」に対し「音楽」に自足するような態度しか示すことができないのだ。だいたい「毛沢東語録ならぬ赤それ自体」(『中国女』)などという解釈によって、いったい何が解明されるというのか? 「犬が走る capitalist running dog」(『新ドイツ零年』)だとかさ。ホントにアホじゃねえのか? そんなんでいったいなにがわかんだよ? 「ここにはジョン・フォードの「騎兵隊」、「捜索者」、さらには「駅馬車」の記憶があるはずだ」(『フォーエヴァー・モーツァルト』)だとさ。くだらねえ、それが「批評」かよ。「モンタージュはあるが、理念がない。ストライキはあるが、ボイコットがない」(『東風』の試写会場におけるガンジーとグラムシによる共同声明)。「それ」が現状にいかなる働きかけをなしているのであるか、あるいは「未来の他者」にいかに応答しているのであるかが解明されるべきなのであって、とどのつまり、「上質の音楽は最高に気持ちいい」ということに要約されてしまうほかはないような感想などは「ブルジョワさん」の自己満足にすぎない。
ゴダールは天才である。そのことは「拙者」のような紛う方ない貧乏人にとってさえ、まったく疑い得ないことのように思われる。たとえば、ウェーベルンの「作品」が、あるいはジョイスの「作品」が、どうあっても後世に残るだろうように、彼の「作品」も廃れるというようなことには決してならないだろう。しかるに、そんな完全無欠の「音楽作品」ばかり食らわされた日には、音楽に恍惚とするのが本性の「ブルジョワさん」は結構だろうが、オイラのような「野暮天」はやりきれない。オイラの特質は「宙に浮く」ことにあるので、そんな充実を誇るだけの「作品」の内部に収まって、ヌクヌクというわけにはいかないのだ。ことわっておくが、オイラは、その種の「場所」を必要としない。浅田彰などは、そもそもが「理念」の働きを認知できないからこそ、他に言うことを持たず、音楽の質などというものをまずもって言い立てるほか仕方ないだけのことである。しかもそれは大抵の場合、衒学趣味となって現れる。この清らかな人は、音楽会で泣いていらっしゃる。それは「ブルジョワさん」特有の「お涙頂戴」ではないのか? 音楽は「麿」の「縄張り」で「おじゃる」というのが、その主張であるらしい。「ブルジョワさん」は、自らの「エリート意識」に涙していらっしゃるわけである。それは「分類」を事とする本能である。そりゃ「武」とは性が合わん。「山の手のピアニスト」(淀川長治)、まさにあんたのことじゃねえの?

2008/8/2  19:29

カミさん宛書簡  倫理学
オイラは皮かむりのスクルージであり、父菊次郎であり、芸能界の「ドン」キホーテであり、結局オイラは歴史上のすべての名前なのです。我がいとしの王女、さわこへ。オイラは子供のころ「アメリカさん」でした。明治時代にはKでした。フランス座では阿Q、さらにいえば、ブヴァールとペキュシェでした。秀吉と毛沢東は、さらに付け加えておけば、二宮尊徳は私の化身です。最後にはカントとマルクスでもありました。ひょっとしたらカラタニであったのかもしれません。オイラは性病にかかったことがあります(カミさん宛書簡 匿名希望)。 

ここで、これが告白であるのか、あるいは虚構であるのかと問うことは意味をなさない。さらに「拙者」が、このような書簡をいかにして入手したのであるかも問うべきではない。ただ、これがやはり「仮装」に関わる問題であることは注目に値する。そもそも仮面(ペルソナ)の下の素顔、つまり「オイラ」にしてからが、仮構されたものでしかないのだ。しかるに、ここで、「オイラ」とは任意の記号によって置き換えられうる一般性なのでは決してない。そこに代入されるそれぞれの固有名は、安定した構造を獲得するかにみえる仮構の瞬間が、まさに「危機」の瞬間でもあるというその都度の跳躍を指示せずにはいないだろう。いいかえれば、「それ」は「他でありえたかもしれないが現実にはこうである」という歴史性をはらんでいる。したがって、こうした名前たちが「彗星」となって回帰すること、そうした出来事こそが、「コマネチ!」と呼ばれるべきである。
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