2006/4/10  15:02

美的センス  自分史

わが家は父方のほうが芸術的才能があるみたいです。才能というか美への関心というか。
わたしはといえば、小学校の図画工作の成績は5段階評価で毎年2か3で、物を作るのもスケッチにしても非常に出来が悪かったので、わたしにはそういう才能はないのだろうと、小学6年生の時にはすっかりそう思ってました。

小学校時代にやった物作りでお気に入りはプラスチックモデルの組み立て。兄の影響で小学校2年生の時には自分で買って作ってました。最初は小さなやつをね。それから車とか戦車とか作ってたけどセメダインでくっつけるだけで、兄がかっこいい車の模型をきれいに色を塗りながら作っているのをみてきれいだなって思って、それからへたくそながら色を塗って作るようになりました。そしたら楽しくなってきて、模型も自分の好きなものを作るようになってました。一番好きなのは蒸気船でした。よく出来たものはかなり長い間自室に飾ってたけど、結局ほこりだらけになって捨ててしまいましたね。中学校に入ってプラモ作りを卒業したわたしはジグソーパズルに熱中し、そのあとの趣味は物づくりよりもSF小説にのめりこんでいきました。。

中学校では美術の時間が楽しくなりました。なぜか先生はデザイン画ばかり描かせる人で、パネルにケント紙を張ってそこにデザイン画を描くんですけど、そこでわたしは自分の才能に気づくことになりました。
わたし、中学校時代、美術の授業で作った作品はほとんど校内の展示スペースに飾られていたんです。展示スペースには優秀作品が飾られていて、もちろんわたしの作品一つではないですけど、なにかデザイン画を描くたびに他の優秀作品とともに飾られてました。自分で見て何がいいのかよく分からなかったけど、飾られたことのない友達の作品と比べると、鉛筆画の図形はバランスがよかったみたいで、色彩のデザイン画も丁寧に色を塗ってて色の配置とか色使いがよかったみたいです。

自分にそういう才能があるというのをまったく知らなかったというか、小学校時代に図工の成績があまりに悪かったので、中学に入って100点満点中平均90点をとっていたわたしは、急に物作りに目覚めました。苦手だった静物デッサンも丹念に描けるようになったし、陶芸もやるようになったし。。陶芸はてびねりやろくろで作品を作るより菊練りって土コネばかりしてました。先生が作品作るための材料の準備を手伝ってたみたいです。ろくろよりそのほうが楽しかったからいいけど、1年間陶芸のクラスにいて焼いたのははっぱ型のお皿2枚と型に入れて作った湯のみくらいかな。作品としてほとんど残ってないので覚えてません。

あいかわらず風景画や人物画はへたくそです。ぷっすまの草なぎ画伯なみです。ドラえもんは練習してそこそこうまくかけるようになりました。

大学時代、姉が某マンモス大学の芸術学部に通っていたので、その影響を受けて写真展やアングラの演劇を見に行くようになりました。
映画も好きだけど、芸術性の高いものより娯楽映画が好き。演劇も考えなきゃいけないものより、わかりやすいストーリーでみていて楽しいものがすき。
芸術の話を小難しくすることは得意ではないけど、きれいなものを見るのは大好きです。

先日の学位記授与式の写真を友人が送ってくれたんですけど、どう見てもわたしの髪型は落ち武者のようで・・・あのゴリの落ち武者、知ってますか?
もちろんわたしは月代(さかやき)があるわけではないですけど、毛先がぼーぼーの髪で・・美容院にいく余裕がなかったからだけど、きちんとフォーマルに髪もアップしておくべきでした。。わたしの美的感覚からいうと、とっても残念な写真でした。せっかく服は持っている中で一番上等なシルクのスーツだったのに。。

2006/3/24  23:02

学位記授与式  自分史

今日は横浜みなとみらいの某ホテルで大学院の学位記授与式と祝賀会が行われ、学位記をいただいてきました。

うれしい気持ちは多少ありますが、この先まだどれほどの困難に向かわなければならないのかと考えると単純には喜べない複雑な気持ちです。
今日博士号を受けたのは半分以上が留学生で、日本人は5名ほど。そのうち一人だけまだ20代あるいは30代前半かなと思う人がいましたが、あとは私よりもかなり年季の入ったおじさん、おばさんで・・・私以外の人は皆さん、経済系・経営系の専攻の人で仕事上必要なのかもしれませんが、どうなんでしょうね。仕事が確保されていて社会科学系の博士号を取ることは自己満足!?と思いました。そうはいっても、私の場合もほとんど自己満足ですね。留学生の場合はお国に帰って政府系の仕事とか国際機関関係の仕事とかいろいろ可能性はありますが、日本では、特に国際開発学なんて分野の専攻でPh.D.を取って、どうやって仕事に活かしていけるか・・・悩みます。

今日指導教官との話題もそれでした。就職先が決まってないことは先生方にとっても困ることのようです。だからといってどこかすぐに紹介できるものはないだろうし、就職浪人した人は研究生になるそうなんですけど、研究生の受付の期日を過ぎているのでその方法はとれず・・・うちの先生的には任意団体のような私的な研究センターを立ち上げてその名を使って論文発表するといいと考えているようですが、研究科長さんはそんなインフォーマルな立場でなく、給与は出ないにしても肩書き的にはもっと正式なポストを作ることを考えたらいいのじゃないかとアドバイスしてくださったんですけど、何れにしても、それは論文発表のための所属先でしかなく、生活のためには別の、お給料をもらえる仕事を探さないとだめです。

そんなことで、今日は晴れの学位記授与式でしたが、気持ちは晴れ晴れというより、現実的に困ったなという、どんよりした気持ちでした。

2006/2/15  14:49

認め合うこと  自分史

「あなたは日本で一人暮らしをしたことがないでしょう」とOさんに言われ、それは「一人暮らしの寂しい気持ちが分からないでしょう」ということだったようなんですけど、「一人暮らしをしたことがないわけではないよ、タイでもフィリピンでも一人で住んでいたから」と言って、その寂しさが分からないわけではないよと暗に言ったのだけど、彼女はどう受け取っただろうか。。

私は海外で一人暮らしをする寂しさは十分分かっているつもりだけど、そこで寂しいという気持ちを他人に話してもしょうがないと思っています。寂しいと思っていると話すよりも親しくなれる人を探して、いろんな会話をして一緒に行動すればいいわけで。。

孤独に耐えられない精神的に弱い人は海外で一人でいるよりも、やっぱりパートナーを探すべきなんです。依存しあうことでいろんなことを乗り切れられれば、なにも一人でがんばらなくてもそれでいいわけだし。でも、パートナー探しって、まあ、難しいですね。お互いがお互いを必要として認め合っていないとうまくいかないから。

寂しいと言われる方は言われた途端に一方的に依存されるような気持ちにさせられるので、それは負担になります。
たまに泣き言というか、愚痴を言いたいときはあるから、Oさんがわたしに依存しようと思ってそういうことを言ったわけではないんでしょうけどね。

今はそう考えることができますが、言われたときにはどう反応していいか、そうよね、寂しいよねと同調すればいいんでしょうね。そういう心の広さがない自分を情けなくなります。

私の場合、孤独に耐えてこそ自分というものが理解できるのかなと思っていて、精神的に弱い人と一緒にいてもこちらが重荷を負うことになると思ってしまって敬遠というか牽制してしまうのでしょう。その相手によって重荷を負っていいと思うかどうかってこともありますね。

私は姉と依存し合っているところがあるけど、今のところまだ余裕がなくって、見返りを考えずに他の人のお世話をするなんて高尚なことが、たぶんできないですね。。

彼女は「日本に帰ってきてから日本的なものが好きになったでしょう」と聞くから、「そうねホテルは日本でなくても泊まれるけど旅館は日本でないと泊まれないからね」と答えておきました。親元や自国を離れてこそその大切さがわかるというものだと思っている気持ちが伝わったかどうかわからないけど、わたしが自国の文化や伝統を尊重する気持ちと同じような気持ちは中国の人は持たないかもしれない。教育の中で愛国、愛党はあっても多民族国家の中国で文化や伝統の尊重は国の分裂に結びつきかねないからでしょうね。。少なくとも自分が生まれ育った環境や伝統は大事にしたいと思うかな。

話がそれるけど、お互いを尊重することすらできない一元主義って困るね。ひとつの一神教の宗教を他が風刺することを認めるべきではないと思うけど、その一神教の宗教が他の宗教を認めないのはもっと困ることです。一神教にも他との共存共栄の寛容さがあればいいのにね。わたしは多神教と仏教が混在した日本で生まれ育ってよかったなと思います。。宗教についてはもう少し勉強する必要があるでしょうけど、今のところ、そう思ってます。

2005/11/18  12:49

家族のもめ事  自分史

昨夜姉が母に電話したらどうも風邪を引いたようで、居間に毎年使っているホットカーペットを出したのかと聞いたら裏の家に住んでいる兄が持って行ったそうで・・・
しかも仕事中母がミスをしてそれに怒った兄と口喧嘩になったようで、その内容をひとしきり話してました。

だいたい母が70歳過ぎて兄の自営の工場で働かなきゃいけないってのがおかしいことで、兄は自分で人を雇うなり何とかすればいいのに、母に頼っているところは大いにあるんですよ。

と、わたしは母の弁護をしてしまうんだけど、姉は母がいい加減だから兄が怒るので、母のいい加減なところを治さないといけない、ときっぱり母に兄も悪いかもしれないけど母も悪いんだと言います。

母は今でも会社の経理をやっているんですけど、よく支払日を忘れて、兄があわててお金を工面して支払いにいっているそうなんです。工面のしようがないときには母の年金を当てにするそうですけど。。それに工面って大体パチンコで稼いでくるって感じですけど。。負けると母に頼るほかないようで。。

姉は母に今更行動を見直せとか、性格を直せなんて、どうしていえるんでしょうねえ。そんなこと現実的に出来るわけないのに。そんなの母の人格を否定しているようなものじゃないですか。

それに兄の悪いところは、父が生前、「自分でやればいいのに話をうまく持っていって結局わたしがしなきゃいけないように仕向ける」と兄の人(親)を使って自分は何もしない、ということを愚痴っていたんですけど、そう育てたのは兄を修行にも出さず、思い切り甘やかしてかばい続けた父のせいでもあるし、兄は自分なりに父に頼らずにやっていると言うところもあって、それぞれに言い分があるんだろうなと、一緒に住んでいなかったからそういう家族内のもめ事も喧嘩両成敗って感じで見てたんですけど。。

兄は兄なりに頑張っているけど、井の中の蛙のお坊ちゃんに育ってしまっていて遊びに関しては協調性があるけど、こと働くことに関しては社会性がまったくなくって。。

父の会社が倒産しかかった25年前から従業員をどんどん減らしてこの10年くらいは家族でやってて、しかも父は5年前に亡くなっているし。。
もう兄もいい加減独り立ちすればいいのにね。40も半ばなんだから。。

あと5年くらいで奥さんの国カナダに永住するようで、それまでの辛抱というか、それまでにカナダで家が買えるくらいのお金をためないといけないそうで。。工場を売るくらいじゃあたいしたお金になりそうにないと、母に母が持っている実家と経営しているアパートを売ってカナダに行くといったそうですけど・・母は自分の名義になっているものを兄に売らせるはずもなく、しかも工場を手伝わなくていいなら年金とアパート経営の収入で十分ゆっくり老後を過ごせるわけだし。。まだ身体は元気だし。。

兄が困るのは現金がないってことなんですよねえ、うちに。
兄も姉もわたしも、ほんとお坊ちゃんお嬢さんに育っているのに、お金には縁がないようです。

2005/7/24  15:37

タイ時代2<ピサヌローク>  自分史

今日は少し昔の思い出話でも書いておこうかと思います。
ダイアリー一覧でたまたま見つけたピサヌロークという地名。15年前にわたしが赴任した町の名前です。わたしはピサヌロークに2年9ヶ月住んで、地元の国立大学で日本語を教えていました。
懐かしさのあまり、その日記を開いてみて、そこからさらにわたしが勤めていた大学のHPに飛んでいってみました。。元同僚の顔写真でも出ていないかと期待して時々開いてみてますが、開くたびに大学の発展の様子に驚きます。タイって、ほんとにすごいですね。年々発展してますよね。
ピサヌロークに最後に行ったのは5年ほど前で、そのときでも町の発展の様子にかなり驚きましたが、バンコクが今じゃもう地下鉄も走っているくらいですからねえ、北部と東北部、中部を結ぶ分岐点で、昔から流通の要となっていたところですし、私がいる間に日系企業の工場もできていたし、町の様子が変わっていくのも当然でしょう。。

ピサヌロークは、タイでは有名な町です。流通の要所であり、タイ一美しい仏像がある町です。町に流れる川に家を浮かべた水上生活が認められている町で、それは貧困者の水上スラムとはまったく異なる、ある種の趣を感じさせるものがあります。特に夜の岸辺からの眺めは、水上家屋の明かりがとっても美しく、またその生活が丸見えでとっても開放的な雰囲気です。
岸辺はタイ語でリムナームと言いますが、リムナームは夜には屋台街となり、毎日にぎわっていました。川沿いに夜現れるオープンキッチンの食堂で夕飯を食べて、ぶらぶらと屋台で売られている雑貨や衣類なんかを見て歩いて、ロッティ(クレープ状のお菓子)やタプティムクロップ(ざくろみたいに赤い衣をつけたくわいのさくさく感が楽しい氷菓子)を食べたりして、そぞろ歩いて涼むのが日々の夜の過ごし方って感じでした。。そのあといつもパブに繰り出してましたけど。。

そういう夜の岸辺の風景は川を上下する船のレストランから見るとまた格別です。それから屋台街から少し外れると岸辺に感じのいいレストランがいつくかあって、オールドタイ風の雰囲気が作られたりしていて、なにかお祝い事とか、ちょっと豪華な食事をしようというときに利用してました。

<下に、つづく>

2005/7/24  15:36

タイ時代2<ピサヌローク、つづき>  自分史

私が15年前にピサヌロークに行った時、日本のガイドブックでこの町を紹介しているのは1冊しかなくって、だいたいのガイドブックで町の名前が出ている程度で、ほとんどはスコータイ遺跡に行くための最寄空港があるとか鉄道のピサヌローク駅で降りてバスに乗り換えるとか、その程度の記述しかありませんでした。

だから日本人の観光客もたまに乞食同然のバックパッカーが来るくらいで、あとはタイ人女性と結婚してトラブルを起こしている人とか、当時ピサヌロークに日本から来る人たちはそんな人たちでしたが、私がいた3年の間でも結構変化があって、日本人も沢山来るようになってました。

変化の原因の一つは、知人が地球の歩き方にピサヌロークの記事を投稿して採用されたこと。それから天皇陛下がスコータイにタイのロイヤルプロジェクトを視察に行かれるのにピサヌロークの空港を利用されたこと。そして、日系企業が進出してきたこと。そんなところでしょうか。
もう一つ、少し知名度を上げたのに「空とぶ野菜炒め」があります。「パックブンロイファー」これはあさがお菜という野菜の油いためなんですけど、炒めた直後のそれを5メートル先にお皿をもって待ち構える人に向けて飛ばして、それがうまくキャッチできると、そのままお客のテーブルに運ばれるというパフォーマンスです。店構えのある本店では店頭のオープンキッチンから道の反対側で受けていた程度なので5メートルくらいでしょうけど、屋台街の方では30メートルとか飛ばして、しかも受け取る側はお客さんからよく見えるようにコンテナの上に作られたステージのようなところに居ましたね。お店の人だけじゃなくお客もその野菜炒めのキャッチに挑戦できて、楽しいものでした。あれは今でもやっているんでしょうかねえ。

タイも衛生面でいろいろ規則が厳しくなってオープンキッチン自体がかなり規制の対象になっているようですけど。。人々の生活になくてはならない屋台をなくすことはないでしょうから、店を構えている食堂とは規制は別扱いなんでしょうかねえ。


その後、日本からのバックパッカーの数も増え、スコータイ遺跡観光の団体旅行の宿泊地とされ、それから日系企業の人たちも駐在者と短期出張者が常にいて、もとは狭い町ですからね。町で日本人に出会う機会もかなり増えていました。

団体さんには嫌な思いをさせられましたねえ。遺跡めぐりをする団体旅行の日本人は年配者が多かったんですけど、こんなタイの田舎の町に日本人が住んでいるなんていうのを考えもしないというか、せっかく親切に通訳してあげようと思っても信じないどころか怪しい人と思われたりして。。
ピサヌロークには仏像工場があったんですけど、夜のリムナームでその仏像を売っている直売屋台があって、日本人は半額に値切ろうと粘っていて、お店の人が困っていました。見かねたわたしの教え子が、ちょうど近くで食事してたわたしのところに来て通訳してあげてと頼むので、食べかけを一気に食べて、その場に行ってみたんです。日本人が5〜6人、まだ粘っているみたいで、普通仏像を値切って買うということはタイ人ではあまりないと思うんですけど、聞いたらガイドにこの市場の商品はすべて半額に値切って買えると教えられたそうで。。まあ、確かに他の商品はそういうものもあれば多少値切れるものもあるんですけど、それはタイ語が話せて値段交渉ができる人の話しで、日本からの観光客にそんな値段で売るわけがなく、しかも仏像ですよ。参りましたね。いくら説明しても聞く耳持たないというか、「あなたなんでそんなに日本語しゃべれるの?」と言われ、日本人だといったら、「なんでこんなとこに住んでるの?」といわれ、日本語を教えているというと、「観光客相手に値段を吹っかけさせようと、日本語教えているんでしょう」みたいなことを言われ。。
結局、その団体観光客は仏像を1体も買うことなく帰っていきました。
わたしも仏像屋も嫌な気持ちになりましたね。学生は申し訳なさそうにしながら、日本人の横柄な態度と言うか年配者の団体パワーに圧倒されてました。。

今じゃあ、リムナームはどうなっているんでしょうねえ。
相変わらず、観光名所になっているか、不衛生さが増して人が行かなくなっているか。。

5年前フィリピンに住んでいるときに休暇でタイに遊びに行ったとき、そのとき10年ぶりにピサヌロークを訪問したんですけど、元同僚よりも教え子たちの方が親切にお世話をしてくれました。タイで持つべきものはやっぱり従順な教え子です。対等な関係の友達は当てにならなかったりしますけど。。教え子たちは先生には素直です。で、教え子の一人が川沿いのはずれでパブを経営していて、その子が中心になって面倒見てくれて、毎晩誰かと一緒にご飯を食べていたんですけど、久しぶりにリムナームに行きたいといったら、夜連れて行ってくれて屋台の食堂で食べたんですけど、でも、川のどぶ臭い匂いが気になって昔みたいに食事はおいしくいただけませんでした。かなり不衛生な気がしたのは、そこに住んでいたときに気にならなかった匂いが気になるようになったからなのか、それともやっぱりより不衛生になっていたのか。。昔よりお客も減っていたみたいだし。。
やっぱりデパートや冷房の効いたレストランが増えて、町の人たちも経済的に豊かになると、不衛生な屋台でご飯を食べることはあんまりなくなるんでしょうかねえ。

タイから屋台がなくなることはないように思うんですけど、地方都市も豊かになってきていますからねえ。人々のライフスタイルは変わっていくものですね。

2005/6/29  23:54

年に一度の記念日  自分史

40歳という歳を迎えてからのこの1年、大病もせず、貧しくとも飢えることはなく、波乱万丈すぎて退屈せず、日々悩みながらも自由に生きている。そういうことが可能であることに感謝してます。

誕生日というのはいろんなことに感謝する日かもしれない。今のわたしが在ることに関わるすべてのことに。

41歳というこれからの1年をどう生きるか。そういうことに思いをはせながら誕生日の一日が終わろうとしています。

いろいろあるけど、まだまだこれからよね。大志を抱いて頑張ろう!


2005/6/29  19:42

変化なし  自分史

今日は誕生日です。わたしの。

去年からぜんぜん進展ないですねえ。いろいろ悩んだりしてますが。。だからか見た目は少し老けた気もするけど。。

家人と食事に行って気分よく帰ってきました。

そんなところですかね。特に何かあったわけでもなく、日常的な一日でした。

2005/4/19  13:55

露出 2  自分史

わたしが露出するのはなにも太った身体だけじゃありません。
最近はそういう露出は控えているし。。欧米人の多いリゾート地なら平気で出来るけど。。

こうやってダイアリーに自分の日常を晒していることも一種の露出でしょう。
考えをはっきり言ったり、人によく思われたいと思うことも別の意味で露出症でしょうね。
どちらかというとわたしもそういう意味での露出症なのでしょう。

2005/3/5  12:48

履歴書  自分史

今朝はせっか書いたく論文進捗状況が投稿ボタンを押したらなぜか消えてしまって・・論文は思うようにすすんでません。相変わらずです。

さて、最近家人が転職して新しい会社に行っているので、わたしは家人を応援するつもりで毎日お弁当を作ってもたせています。前日の残り物のときもあれば、朝、ぱぱっと炒め物を作るときもありで、どちらにしても家人は喜んでくれています。

それで、アルバイトするならお弁当屋さんとかお惣菜屋さんもいいかなと思いました。前職のまえに仕事を探していたとき、一度、お惣菜屋さんでバイトすることを考えたんですけど、前職の話が来たので結局、そこでのバイトは実現しませんでした。

そのバイト探しのとき、新聞折込に入っている、近所のバイト情報をみていくつか電話してみたんですけど、40歳で学校に行っていますというと、事務系の仕事はほとんど電話で断られました。週4日以上勤務可能な方と書いてあるから電話したところばかりなんですけど、事務職では40歳で学校に行っている人なんていうのは嫌われるんでしょうかね。正直に言うとだめなんですね。何も言わないで面接してもらうようにしないと。でも、電話で同じように言ったお惣菜屋さんは、「じゃ履歴書持ってきて、週に何日入れるの?」ととってもフレンドリーでした。履歴書持って行ったら断られたなんてことにはならなかったでしょう。たぶん。

履歴書みると驚いたかもしれないけど、お惣菜屋さんで働くのに差しさわりのある履歴じゃないとは思う。。差しさわりがあることを強いて挙げれば、途上国の不衛生なところで暮らして日本じゃ考えられない病気にもなったことがあるってことくらいでしょうか。でも一応完治してますし、たぶん、そういうことは履歴書には書いてないから聞かれないだろうし。。毎日家人に料理を食べさせているので、家人が病気じゃないから私も大丈夫だということは確認済みですし。。

自分の経験や知識を生かした仕事がしたいとは思うんですけど、そうするとなかなか職がないですね。だからとりあえずアルバイトでもしないと生活できないって思うんですけど、アルバイト見つけるのも、なかなか面倒です。いまのところアルバイトは4月以降に探せばいいことですけど。。

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