2006/9/29 21:56
Life is sweet and smart! クルマ
軽自動車は、日本の宝だ。数ある軽乗用車の中でもホンダ・ライフは、優れものだと思う。ライバルメーカーが新型車を発表するごとに、担当エンジニアから「NV(騒音振動)低減ではライフをベンチマーク=お手本・目標としました」なる言葉を聞く。ライフのレベルに到達したか、いや超えたかなる質問に返ってくるのは、ほとんどが「まだです」ライバルたちの正直さ、そして挑戦の熱意は好きだ。
ライフのマイナーチェンジは、たいへん興味がある。まずオリジナルのデザインは、たいへん優れている。フル、あるいはマイナーチェンジにせよ、デザイナーはいいものをさらによくするのは、たいへんだろうな、と思っていた。ところが、オリジナルは、『可愛いすぎる』なる印象を与えていたらしい。しかし、可愛い系に徹した軽はいくらでもある。クルマを構想し、デザインし、開発した人たちの真意の外で、マーケティングが女性層に媚びた訴求をしたのが主因だろう。なにしろスクリーン、紙の上で巨費を投じた宣伝効果は大きい。これが『可愛すぎる』イメージを植え付けてしまった。
"New"なる形容詞ほど、拡大使用されている言葉はない。マイナーにせよ、Newであることが識別できなければならない。市場から集まったデータを基に、あの素晴らしいオリジナル・ライフのデザインにも、変更が加えられた。まず、顔はより軽普遍的になった。モノフォルムの印象を与えていたボンネットが持ち上げられ、ツーボックス感を強めた。特徴的な円形ドアハンドルは、アヴァンギャルドすぎたらしい。ドアの丸凹みはそのままで、横ハンドルをはめこんだ。リアハッチ全高と同じ高さの縦型テールライトは、レンズ色分けにより、車の横幅感をだしたとのこと。
デザインとしては、壊したとまではいわないが、必要(商業的)退化だと思う。面白いのは"Diva"と呼ぶ、上級装備モデル名。ラテン語『女神』から転じ、オペラの女性主役歌手、プリマドンナの意味だ。ライフDivaは、大きなフロントグリル開口部、空力バンパー、スポイラー、大径アルミホイールなど、より骨太外観を演出している。女王様は男っぽい?
2006/9/28 11:55
竹の箸memoir - 5 石炭ガス自動車 竹の箸Memoir
終戦後も食糧難が続く。伝手の伝手、またその先の伝手の農家を訪ね、祖母の着物などと物物交換でわずかな米、麦、芋を入手した。いわゆる『買い出し部隊』で、わが家の買い出し先は千葉の奥地(当時で、現在は首都圏内だろう)。千葉駅では奥地に向かう木炭・薪バスが、エンジン始動準備をしていた。運転手が手回し送風機で大きな円筒形の窯に空気を送り込み、ガスを発生させる。これに結構時間がかかる。何時に出発するか予想もできない。そこで通りかかりのトラックの荷台に乗る。白タクならぬ白トラックだった。トラックに乗れれば幸運、町から帰る農家の馬車に便乗することもあった。まだ馬車、牛車が見られた時代だ。
第2次大戦をはさんだ時期のガスを代替燃料とした自動車は、日本に限ったことではない。北欧がハシリだとは、文献で読んだことがある。往復運動内燃機関の発達は、ガスエンジンからはじまったので、燃料不足時代に源流に戻るのは当然の成り行きだろう。
竹の箸人間だけでなく、『銀のスプーン』族にとっても、第2次対戦中のガソリン不足は深刻な問題だった。畏敬するエンジニアのひとりで旧友のイギリス人アレックス・モールトン(ミニなどのサスペンション設計開発者で、最近では高級小径車輪自転車で知られる)に、彼の自製ガス自動車の話を聞いた。
第2次大戦が勃発したのは、アレックスがケンブリッジ大学生時代。空軍に志願したが、工科系学生は技術将校予備として待機すべしと告げられる。矢も盾もたまらず、彼は伝手を頼ってブリストル航空機会社エンジン設計開発担当チーフエンジニアのアシスタントとなった。
イギリスでもガソリンは優先的に軍用にまわされ、民間用は配給となった。アレックスは、通勤手段として中古の小型フォードを買い、無煙炭ガス燃料車に改造した。ガスでは始動性がよくないので、別の小タンクのガソリンでスタート、走りだしたら直ぐにガスに切り替える。最近ホンダのパワートレイン・ミーテイングで、ブラジルのさとうきびからつくるエタノール100%燃料車が公開されたが、このクルマもサブタンクのガソリンで始動する。
アレックスの義兄の英空軍テストパイロットがガス自動車を基地通勤に使用したが、夜間、ガス発生器がサーチライトのような明るい光を発しながら基地に近づくクルマに灯火管制官がとびあがって怒ったという。
写真は、アレックス・モールトン自製の石炭ガス・フォード。
2006/9/25 22:30
竹の箸memoir-4 木炭自動車 竹の箸Memoir
第2次世界大戦・太平洋戦争の戦況が深刻となり、大規模空襲の危険が迫っていた。東京都は、地方に縁故のある家庭の学童の疎開=避難をすすめた。しかしイナカのないわが一家は、東京下町にとどまらざるをえない。
1944年6月30日、ついに『学童疎開促進要綱』が閣議決定、10日後には防空総本部が『帝都学童集団疎開実施要項』を発表した。国民学校=小学校生徒を区、学校単位で地方に集団移住させる計画だ。
浅草区(現在の台東区の半分)柳北国民学校生徒の疎開先は、蔵王山のふもとの宮城県遠刈田温泉であった。1944年8月中旬2グループ、合計735人の生徒が上野駅から東北本線で白石に向かった。白石からは、5台の木炭バスで約17km離れた遠刈田温泉に向かったと記録に残っている。複数の旅館を住まいと教室にした。
すでにガソリンは軍用以外に使用が禁止されていた。それも航空燃料が優先した。木炭と薪を原料とし、炉でガスを発生し、これを内燃機関で燃焼する仕掛けだ。奇妙なことだが、木炭は酸素含有分が少ないのに、軍政府は木炭自動車を推進したことだ。いずれもガス発生に要する準備時間のかかるのは同じようなもの。始動の前に、手回しのブロワーで空気を送り込み、蒸し焼きにしてガスを発生させる。
戦場に送り出されて兵士に比べれば生き残る機会を与えられただけ幸運であったが、親元を離れた都会育ちの子供にとって東北の生活は楽ではなかった。これは地元の人たちにとっても、たいへんな物心両面の負担であった。物質面もさることながら、精神面での軋轢摩擦も生じた。東京側、そして受け入れた地方側の記録を読むと、お互いのカルチュアショックが判る。後者は、いきなり数千人の子供と付き添いの教師たちが移住してきたので、食料の調達には苦労したとのことだ。
あの絶え間ない空腹感は、いまでも胃袋に残っている。食べるスピードが速いのは、その後遺症らしい。同級生たちと畑のとうもろこしをもぎり、生のまま食べた。その夜、ふたりが猛烈な腹痛に襲われた。そのひとりが私だった。宿舎の旅館の方が木炭トラックを手配してくれ、でこぼこの夜道をゆられながら白石の病院に向かったのを覚えている。翌朝、即手術。急性盲腸炎であった。蔵王町の記録は、疎開先で6人が病死したが、大半が盲腸炎であったと記す。木炭トラックに命を救われた。
だが、意地のきたなさからでた痛い目で、退院するや東京に戻された。
2005年7月、60年ぶりに遠刈田温泉を訪れた。インターネットで検索した大忠旅館に宿泊したのだが、きびきびした若者が食事をサービスしてくれる好感度満点の旅館であった。若女将に疎開の思い出を告げると、大忠は柳北国民学校を受け入れてくれた旅館の一軒であることが判った。先々代女将の時代であったそうだ。
写真は、戦時中から戦後にかけ薪ガス発生装置に改造されたトヨタ・トラックである。(提供トヨタ自動車・トヨタ博物館)

1944年6月30日、ついに『学童疎開促進要綱』が閣議決定、10日後には防空総本部が『帝都学童集団疎開実施要項』を発表した。国民学校=小学校生徒を区、学校単位で地方に集団移住させる計画だ。
浅草区(現在の台東区の半分)柳北国民学校生徒の疎開先は、蔵王山のふもとの宮城県遠刈田温泉であった。1944年8月中旬2グループ、合計735人の生徒が上野駅から東北本線で白石に向かった。白石からは、5台の木炭バスで約17km離れた遠刈田温泉に向かったと記録に残っている。複数の旅館を住まいと教室にした。
すでにガソリンは軍用以外に使用が禁止されていた。それも航空燃料が優先した。木炭と薪を原料とし、炉でガスを発生し、これを内燃機関で燃焼する仕掛けだ。奇妙なことだが、木炭は酸素含有分が少ないのに、軍政府は木炭自動車を推進したことだ。いずれもガス発生に要する準備時間のかかるのは同じようなもの。始動の前に、手回しのブロワーで空気を送り込み、蒸し焼きにしてガスを発生させる。
戦場に送り出されて兵士に比べれば生き残る機会を与えられただけ幸運であったが、親元を離れた都会育ちの子供にとって東北の生活は楽ではなかった。これは地元の人たちにとっても、たいへんな物心両面の負担であった。物質面もさることながら、精神面での軋轢摩擦も生じた。東京側、そして受け入れた地方側の記録を読むと、お互いのカルチュアショックが判る。後者は、いきなり数千人の子供と付き添いの教師たちが移住してきたので、食料の調達には苦労したとのことだ。
あの絶え間ない空腹感は、いまでも胃袋に残っている。食べるスピードが速いのは、その後遺症らしい。同級生たちと畑のとうもろこしをもぎり、生のまま食べた。その夜、ふたりが猛烈な腹痛に襲われた。そのひとりが私だった。宿舎の旅館の方が木炭トラックを手配してくれ、でこぼこの夜道をゆられながら白石の病院に向かったのを覚えている。翌朝、即手術。急性盲腸炎であった。蔵王町の記録は、疎開先で6人が病死したが、大半が盲腸炎であったと記す。木炭トラックに命を救われた。
だが、意地のきたなさからでた痛い目で、退院するや東京に戻された。
2005年7月、60年ぶりに遠刈田温泉を訪れた。インターネットで検索した大忠旅館に宿泊したのだが、きびきびした若者が食事をサービスしてくれる好感度満点の旅館であった。若女将に疎開の思い出を告げると、大忠は柳北国民学校を受け入れてくれた旅館の一軒であることが判った。先々代女将の時代であったそうだ。
写真は、戦時中から戦後にかけ薪ガス発生装置に改造されたトヨタ・トラックである。(提供トヨタ自動車・トヨタ博物館)
2006/9/24 21:34
竹の箸Memoir-3.5 ボーイングB377"ストラトクルーザー” 竹の箸Memoir
前回掲載したPan American World AirwaysのB377ストラトクルーザーの機体の文字とテールのエンブレムは、初期のものだ。その後、おなじみの青い地球形のエンブレムに代わった。
入社1〜2年後だったと思う。Pan Amは世界の風景写真を載せたカレンダーを発刊していた。まだ海外旅行に出る人の数がすくない時代、目的地の魅力的風景を載せたカレンダーは、非常に人気があった。次の年のカレンダーの候補地に選ばれたのが東京で、特別機を飛ばし、写真撮影をやった。よくぞ、比較的低い高度で東京上空を飛ばす許可がとれたものだと思う。
幸運だったのは、写真撮影飛行に何人かの社員が同乗を許されたことっだ。そのひとりに選ばれたのはヴェリーラッキーであった。
なにより素晴らしかったのがコクピットから真下に見える東京タワーだった。コクピット前面大半は、 B29型の大型ウインドシールドとウインドウに囲まれ、視界は抜群であった。

入社1〜2年後だったと思う。Pan Amは世界の風景写真を載せたカレンダーを発刊していた。まだ海外旅行に出る人の数がすくない時代、目的地の魅力的風景を載せたカレンダーは、非常に人気があった。次の年のカレンダーの候補地に選ばれたのが東京で、特別機を飛ばし、写真撮影をやった。よくぞ、比較的低い高度で東京上空を飛ばす許可がとれたものだと思う。
幸運だったのは、写真撮影飛行に何人かの社員が同乗を許されたことっだ。そのひとりに選ばれたのはヴェリーラッキーであった。
なにより素晴らしかったのがコクピットから真下に見える東京タワーだった。コクピット前面大半は、 B29型の大型ウインドシールドとウインドウに囲まれ、視界は抜群であった。
2006/9/24 21:04
竹の箸Memoir-3 竹の箸Memoir
竹の箸Memoirのもうひとつの構成部分が航空機、航空産業だ。1959年9月1日、当時世界航空業界のリーダーであり、先駆者的存在で、のちにPAN AMの名称として親しまれたアメリカの航空会社に入社した。当時の正式名は、Pan American World Airways。
航空機に興味を抱いたのは少年期だ。父親が購読していた『フラグヒサア』ー横書きでは右から左が定法で、今様に書くと『アサヒグラフ』ーには、新型旅客機の写真、記事が掲載されたものだ。いまでも覚えているのがダグラスDC2、そのワイド版で現在でも飛んでいるDC3、そして旅客機ではじめて気圧維持キャビンをもつボーイングB307”ストラトライナー”だ。
太平洋戦争勃発直後と記憶する。国民学校(尋常小学校がそう改名した)の学習で使う下敷きに米英軍用機の三面図が印刷されいたものがあった。たぶん、空襲に備え、敵機を識別せよなる、指導方針だったのだろう。英語は敵国語で禁止されていたが、名称は米英名そのまま載っていた。
マーチンB26"マローダー"、ノースアメリカンB25”ミッチェル"、コンソリデイテッド・バルティ、グラマン・"ヘルキャット"、チャンス・ヴォート”コルセア”、ショート・”サンダーランドなどなど、覚えているのが不思議なくらいだ。なんといっても大物は、ボーイングのB17とB29だ。後者は、日本爆撃に大挙襲来したもっとも怖い機体であった。
そのB29から派生した旅客機が私が生まれて初めて乗った飛行機だ。、ボーイングB377”ストラトクルーザー”である。Pan AmericanのB377の写真を載せるが、B29直系の特徴が見られる。セミダブルデッカーで、上階がコクピットと客席、下の階にギャリー(キッチン)と乗客がくつろげるラウンジが設けられていた。
レシプロ・プロペラ機の常として、客室の前方の部分がエコノミークラス、後部がファーストであった。ストラトクルーザーの特徴は、比較的高い天井を利用した、ファーストクラス・バース=引き下げ式ベッドであった。
航空機に興味を抱いたのは少年期だ。父親が購読していた『フラグヒサア』ー横書きでは右から左が定法で、今様に書くと『アサヒグラフ』ーには、新型旅客機の写真、記事が掲載されたものだ。いまでも覚えているのがダグラスDC2、そのワイド版で現在でも飛んでいるDC3、そして旅客機ではじめて気圧維持キャビンをもつボーイングB307”ストラトライナー”だ。
太平洋戦争勃発直後と記憶する。国民学校(尋常小学校がそう改名した)の学習で使う下敷きに米英軍用機の三面図が印刷されいたものがあった。たぶん、空襲に備え、敵機を識別せよなる、指導方針だったのだろう。英語は敵国語で禁止されていたが、名称は米英名そのまま載っていた。
マーチンB26"マローダー"、ノースアメリカンB25”ミッチェル"、コンソリデイテッド・バルティ、グラマン・"ヘルキャット"、チャンス・ヴォート”コルセア”、ショート・”サンダーランドなどなど、覚えているのが不思議なくらいだ。なんといっても大物は、ボーイングのB17とB29だ。後者は、日本爆撃に大挙襲来したもっとも怖い機体であった。
そのB29から派生した旅客機が私が生まれて初めて乗った飛行機だ。、ボーイングB377”ストラトクルーザー”である。Pan AmericanのB377の写真を載せるが、B29直系の特徴が見られる。セミダブルデッカーで、上階がコクピットと客席、下の階にギャリー(キッチン)と乗客がくつろげるラウンジが設けられていた。
レシプロ・プロペラ機の常として、客室の前方の部分がエコノミークラス、後部がファーストであった。ストラトクルーザーの特徴は、比較的高い天井を利用した、ファーストクラス・バース=引き下げ式ベッドであった。
2006/9/18 19:45
竹の箸Memoir-2 自製クルマ 竹の箸Memoir
銀のスプーン、竹の箸のいずれをくわえて生まれてきた者にも共通点はある。人間に残された数少ない自由願望である移動手段である交通機関への憧れだ。汽車ごっこ、足こぎ自動車などなどだ。
とくに移動不自由時代に育った私には、車輪のついた乗り物が好きだった。物資不足で、大人ですら自転車が買えない時代だ。そこでクルマの自製となる。ボデイが壊れた末弟用の乳母車のシャシー=車軸+車輪を貰い、厚手の板にネジどめしただけのもの。ステアリング、ブレーキなどなく、足で路面を蹴って走る。自動車交通の少ない大通りをとばしたものだった。
1966年、3リッターにフォーミュラが変わったF1モナコGP取材に行った時だった。ピットで、イギリスBRM主宰者のレイモンド・メイズに紹介され、話を聞いた。BRMは、水平対向8気筒を上下2基つなげたH16なる野心的なエンジンのクルマを持ってきた。メイズは、富裕な一家に生まれ、名門オウンドル校、ケンブリッジ大に進み、将校として従軍した第1次大戦では身の回りの世話をする専属従卒までついたという、典型的銀のスプーン紳士であった。
のちに1970年代CAR GRAPHIC LIBRARYとして出版された世界の自動車シリーズの一冊に第2次大戦前のイギリスのレーシングカー、E.R.A.について書いたことがある。E.R.A.の創設者がレイモンド・メイズであった。Eはイングリッシュ、戦後のB.R.M.のBはブリティッシュの頭文字だ。メイズが送ってくれた写真の中に、彼と友人が1909年に製作したプロトタイプ(上写真)が含まれていた。わが竹の箸も同じコンセプトだった。
30年来の旧友であり、クラシッック・ミニのサスペンション開発者で小径自転車開発製作者であるアレックス・モールトンからも面白い話を聞いた。アレックスは、曾祖父がレストアした立派な荘園邸宅に住む、銀のスプーン紳士だ。85歳の現在も自動車サスペンションと自転車の研究開発を続けている。子供の頃、飛行機が欲しかった。そこでお屋敷お抱え大工に頼み、2枚の板きれを釘付けにしたおもちゃを作ってもらった。「ブーン!」と誇らしげな音を発しながら、走って帰ってきた彼を庭師が呼び止めた。「それは一体なんですか」「ボクの飛行機だよ」「アレックスおぼっちゃま、ホンモノの飛行機は布張りなんですよ」「・・・!」
銀のスプーン族にもキビシイ評価はあるのだ。
2006/9/18 12:38
竹の箸Memoir-1 少年期 竹の箸Memoir
いよいよ今回からPersonal Memoirをはじめる。そろそろ3/4世紀を生きてきたことになるが、その間、多くの魅力的な人たちに会い、自動車、飛行機、船などの乗り物にのってきた。それらを綴ることにした。
『銀のスプーンをくわえて生まれてきた』なる西洋の言い回しがある。
富裕な家庭に生まれた幸運の人を形容する。竹の箸をくわえて生まれた私の少年期は、自動車とはバス、たまに父親がふんぱつするタクシーくらいしか縁がなかった。
子供ごころながら覚えているのは、第2次世界大戦前の箱根登山バスがヒーヒー音を発しながらゆったり登っていたこと。いまから考えれば、トランスミッションのローギア音だったのだろう。写真は、祖父母、父らとともに箱根登山バス前にたつ私。
ごく稀に父親がおごるタクシーは、ジャンプシートに座らされたことを覚えている。私の生まれた年1933年頃から、日本で多用されていたフォード・モデルBの4気筒版ではなかったか。
生まれは東京浅草向柳原町。町名統合で風情のある町名の多くが消えたのが残念だ。尋常小学校、市電、省線電車(JR、国電以前)の時代だった。

『銀のスプーンをくわえて生まれてきた』なる西洋の言い回しがある。
富裕な家庭に生まれた幸運の人を形容する。竹の箸をくわえて生まれた私の少年期は、自動車とはバス、たまに父親がふんぱつするタクシーくらいしか縁がなかった。
子供ごころながら覚えているのは、第2次世界大戦前の箱根登山バスがヒーヒー音を発しながらゆったり登っていたこと。いまから考えれば、トランスミッションのローギア音だったのだろう。写真は、祖父母、父らとともに箱根登山バス前にたつ私。
ごく稀に父親がおごるタクシーは、ジャンプシートに座らされたことを覚えている。私の生まれた年1933年頃から、日本で多用されていたフォード・モデルBの4気筒版ではなかったか。
生まれは東京浅草向柳原町。町名統合で風情のある町名の多くが消えたのが残念だ。尋常小学校、市電、省線電車(JR、国電以前)の時代だった。
2006/9/9 9:25
Jetta 2.0T & Primacy クルマ
積算計は8500kmを超えた。Jettaの燃費は、非常に安定している。東京を早朝にでて、箱根に向かい、登りでは2リッター直噴ターボとDSGのマニュアルモードの切れを楽しむ。宮ノ下を経由、小田原厚木有料,東名は順調。首都高速10km渋滞とでるので、246まわり。ストップ&ゴーの連続。これで平均11km/L。高速道路のリーズナブル(!?)な速度での巡航では12km/L以上を表示する。市街地では当然のことながら5〜7km/Lになる。それにしてもRX-8の同じような都内ー箱根往復のベスト8km/Lに比べると、格段の好燃費。ガソリン高騰の今は、助かる。もうひとつ、残量での航続距離推測値は、現実に近いのがいい。
ステアリングホイールスポーク上には、複数のスイッチがあるが、数個がヨーロッパ仕様用なので、役なし。加えてオリジナル・ナビでないので、オーデイオ音量調節スイッチも働かない。アフターマーケット・ナビの豆粒スイッチは使いづらい。
さて、Jetta 2.0T のオリジナルタイアは、BSポテンザRE050なるパフォーマンスタイプ。ちょっと脱線する。過日、フォルクスワーゲン本拠ウルフスブルグ近郊のエーラ・テストコースで開催されたヴィークル・ダイナミックス・ワークショップのプログラムのひとつに、”ステアリングロボット”があった。これはアウデイA6に自動ステアリングとアクセレレーターを装備し、ダブルレーンチェンジを行い、シャシー、タイア性能をテストするシステムだ。1秒間にステアリングホイールを720度=2回転する能力を持つ。これで機械モード、つまりステアリング修正なしでプログラム通りの舵角で走るモードと、通常人間がやるように修正を加えるモードでレーンチェンジをする。意図とするとことは、ダブルレーンチェンジ操舵を何回でも正確に反復し、サスペンション、タイア性能をテストする。モデルは、“一般ドライバー”。一般とは横g 0.4〜0.5だそうだ。ロボット自体は、最大1.0gを出せる。
ステアリングロボットのテスト例として、タイアの限界域データを見せられた。3種のタイアでダントツ通過速度が速いのがBS ポテンザRE050。ところが、RE050でも3つのデータが表示されている。わずかの差であるあるが、差は差であり、BSだけのデータ。「なぜ」と聞いたら、タイア生産時期のちがうものだそうだ!
さてわがRE050を履いたJettaであるが、やはり乗り心地は硬い。それと福島への往復では、高速道路の粗い走行車線のロードノイズと大型車の刻んだ縦方向不整で足をとられがち。これは途中の豪雨では、いささか不安。そこでタイアの探索をした。頼りになるのはエクスパートオピニオン。同業おふたりの意見を聞き、選んだのがミシュランの新製品、プライマシーHPだ。
まず注目したのは、プライマシーHPコンセプトだ。性能指標グラフは、従来型パイロット・プライマシーの特長である乗り心地、耐久性、転がり抵抗(燃費)を維持しながら、ドライ、ウエットハンドリング、同ブレーキング、そして静粛性の大幅な向上を示している。このHP性(ハイパフォーマンス)が、独立したプライマシー・ブランドに“プレミアムタイヤ”なるあらたなる地位と価値を与えている。
装着以来、梅雨時を経た数多い新型車試乗会への高速道路、山道の往復などの日常使用で2000kmを走った。カーブは短い直線の連続、その逆も真というが、直線安定性、コーナーハンドリングともに優れている。とくに初期ステアリング応答が気に入っている。縦、横方向の凹凸、不規則な不整路面の乗り越え,衝撃吸収はしなやかそのもの。トレッド面の密着と排水性は、降雨時に安心感を与える。
私のプライマシーHPの表現は、『ファスト&エレガント』である。
2006/9/3 12:14
フォルクスワーゲンJetta 2.0Tがやってきた クルマ
コブロガーに背中をつっつかれ、再々開する。そこで考えた。今後の展開としては、交互に3方向に行く。
1) 現在、過去に所有したクルマ
2) クルマ、テクノロジー、移動探求
3) Memoirらしく、クルマ人生、出会った人々の回想
今回は、RX-8に替えて乗り出したフォルクスワーゲンJetta 2.0T。
まず、いいセダンが欲しかった。ドアは4枚、トランクが条件。これまで、日本の自動車と産業の成長とともに育ってきた人間として、1950年代後半を除き、日本では日本車に乗り続けて来た。ただし、先進自動車産業を有する国では、その国製のクルマがベストバリューとの考えから、アメリカではアメリカ車、60年代はじめのイギリスでは英車、ドイツ車に乗った。
ところが日本国内には、住む地域、機械式駐車場に合ういい日本のセダンが数少ないのだ。候補に挙ったのはホンダ・インスパイア、アコード・ヨーロR、トヨタ・アベンシス、スバル・レガシーであった。インスパイアは大きすぎる、ヨーロRはMTだけ(RX-8の後はATが欲しかった)、イギリスから輸入するアベンシスは価格に割高感がある。レガシーは、中間改良後だったら、おおいに食指が動いたろう。このサイズの乗用車に力を入れているスバルには敬意を表する。
Jettaであるが、きっかけはゴルフGTIの走りとテクノロジーであった。フォルクスワーゲン・グループ技術陣は、エンジンの"ダウンサイジング”を積極推進している。比較的小排気量、4気筒でより大きな排気量と多気筒エンジン同等あるいは凌ぐ性能を得て、かつ効率=燃費を向上する。手段は直噴、VW流呼称FSIである。理論空燃比型直噴であり、燃料による燃焼室冷却効果により点火時期を大きく遅らせることなく、高圧縮比を可能とする。2.0リッター自然吸気FSIの場合は、11.5:1、高性能型ターボでも10.3:1である。出力、効率に有利である。
GTI搭載の2.0Tは、最高出力200psの強心臓。オプションとして自動変速機能を有する機械式(マニュアル)6速トランスミッションDSGを設定している。GTIにするか、と思ったのだが、スポーツ度の高いクルマで、当然乗り心地は硬め。そこで、同エンジン、DSGを標準装備するJetta 2.0Tが浮上した。仕様、装備をチェックしていくと、後者の充実に気づいた。リスト価格359万円が含むのは、本革シート、12ポジション調節パワー・ドライバーズシート、8個のエアバッグ、照射角度自動調整、ウオッシャーつきHIDヘッドライト、オーデイオ10スピーカーなどなどだ。同クラス日本車では、多くがオプション設定であることが多い。
かくして1964年以来、2台目の外国製車を所有することになった。ナンバーは、1962〜64年イギリスで使ったフォルクスワーゲン・ビートルの3桁の数字とした。

1) 現在、過去に所有したクルマ
2) クルマ、テクノロジー、移動探求
3) Memoirらしく、クルマ人生、出会った人々の回想
今回は、RX-8に替えて乗り出したフォルクスワーゲンJetta 2.0T。
まず、いいセダンが欲しかった。ドアは4枚、トランクが条件。これまで、日本の自動車と産業の成長とともに育ってきた人間として、1950年代後半を除き、日本では日本車に乗り続けて来た。ただし、先進自動車産業を有する国では、その国製のクルマがベストバリューとの考えから、アメリカではアメリカ車、60年代はじめのイギリスでは英車、ドイツ車に乗った。
ところが日本国内には、住む地域、機械式駐車場に合ういい日本のセダンが数少ないのだ。候補に挙ったのはホンダ・インスパイア、アコード・ヨーロR、トヨタ・アベンシス、スバル・レガシーであった。インスパイアは大きすぎる、ヨーロRはMTだけ(RX-8の後はATが欲しかった)、イギリスから輸入するアベンシスは価格に割高感がある。レガシーは、中間改良後だったら、おおいに食指が動いたろう。このサイズの乗用車に力を入れているスバルには敬意を表する。
Jettaであるが、きっかけはゴルフGTIの走りとテクノロジーであった。フォルクスワーゲン・グループ技術陣は、エンジンの"ダウンサイジング”を積極推進している。比較的小排気量、4気筒でより大きな排気量と多気筒エンジン同等あるいは凌ぐ性能を得て、かつ効率=燃費を向上する。手段は直噴、VW流呼称FSIである。理論空燃比型直噴であり、燃料による燃焼室冷却効果により点火時期を大きく遅らせることなく、高圧縮比を可能とする。2.0リッター自然吸気FSIの場合は、11.5:1、高性能型ターボでも10.3:1である。出力、効率に有利である。
GTI搭載の2.0Tは、最高出力200psの強心臓。オプションとして自動変速機能を有する機械式(マニュアル)6速トランスミッションDSGを設定している。GTIにするか、と思ったのだが、スポーツ度の高いクルマで、当然乗り心地は硬め。そこで、同エンジン、DSGを標準装備するJetta 2.0Tが浮上した。仕様、装備をチェックしていくと、後者の充実に気づいた。リスト価格359万円が含むのは、本革シート、12ポジション調節パワー・ドライバーズシート、8個のエアバッグ、照射角度自動調整、ウオッシャーつきHIDヘッドライト、オーデイオ10スピーカーなどなどだ。同クラス日本車では、多くがオプション設定であることが多い。
かくして1964年以来、2台目の外国製車を所有することになった。ナンバーは、1962〜64年イギリスで使ったフォルクスワーゲン・ビートルの3桁の数字とした。



