2007/9/28 23:10
MINIの『総合技術資料』 クルマ
1959年8月26日発表のMorris Mini Minor 850の広報資料。私がこれまで読んだこの種のメーカー資料のTHE BEST!

1959年、イギリスで1台のちっぽけな4人乗り乗用車が登場した。本国は、もちろんヨーロッパでセンセーションを巻き起こした。当初の正式名は『モーリス・ ミニ・マイナー850』である。のちにMINIミニと改名する。
木澤博司さんにまつわる資料を探していると、1959年8月26日付のブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)広報部の『総合技術資料』がでてきた。表紙によると、公式カタログ、エクステリア、インテリア、技術、装備の写真をもって発表資料一式となる。
タイトルは堅苦しいが、内容はたいへんリッチ。きちんとした技術解説とセオ・ペイジの透視図、いかにも生データのような性能図(通常、カタログ、広報資料のパワー、トルク・カーヴは、きれいな山形で描いているが、実際は谷もありフラット部分もあるのだ)、またじつに愉快な英国風ユーモアのページがある。自動車マンガを描かせたら天下一品のラッセル・ブロックバックのミニを主題とした絵が載っているのも楽しい。
書き出しがすごい。
『それは新しく、独自であり、シンプルであった』 - トラファルガー海戦戦術計画についての英海軍元帥ネルソン卿回顧語録
締めがまたいい。「レオナルド・ダヴィンチいわく、『道具により結果を得ようとするのなら、余計な補助部品をつけ複雑化することなく、最短の道を選べ』」
MINI(BMW以前)については、追って語りたいが、ここでは数ページをを楽しんていただきたい。この冊子、木澤さんに見せたら、ニヤッと笑ったろうに....果たせなかった。

巻頭写真。いわく、『ある種の解決策はバカげていて、他にはアホなものもあった』小型車はすしずめ、大型車は馬車そのもので、後席ステアリング。

ブロックバンクのマンガ。『3.5mあれば、ちゃんと駐車できる』ビッグフィンのアメ車とトラックの間にすべりこみ。

パワートレイン20%、居住荷物空間80%の有名なイラスト
1959年、イギリスで1台のちっぽけな4人乗り乗用車が登場した。本国は、もちろんヨーロッパでセンセーションを巻き起こした。当初の正式名は『モーリス・ ミニ・マイナー850』である。のちにMINIミニと改名する。
木澤博司さんにまつわる資料を探していると、1959年8月26日付のブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)広報部の『総合技術資料』がでてきた。表紙によると、公式カタログ、エクステリア、インテリア、技術、装備の写真をもって発表資料一式となる。
タイトルは堅苦しいが、内容はたいへんリッチ。きちんとした技術解説とセオ・ペイジの透視図、いかにも生データのような性能図(通常、カタログ、広報資料のパワー、トルク・カーヴは、きれいな山形で描いているが、実際は谷もありフラット部分もあるのだ)、またじつに愉快な英国風ユーモアのページがある。自動車マンガを描かせたら天下一品のラッセル・ブロックバックのミニを主題とした絵が載っているのも楽しい。
書き出しがすごい。
『それは新しく、独自であり、シンプルであった』 - トラファルガー海戦戦術計画についての英海軍元帥ネルソン卿回顧語録
締めがまたいい。「レオナルド・ダヴィンチいわく、『道具により結果を得ようとするのなら、余計な補助部品をつけ複雑化することなく、最短の道を選べ』」
MINI(BMW以前)については、追って語りたいが、ここでは数ページをを楽しんていただきたい。この冊子、木澤さんに見せたら、ニヤッと笑ったろうに....果たせなかった。
巻頭写真。いわく、『ある種の解決策はバカげていて、他にはアホなものもあった』小型車はすしずめ、大型車は馬車そのもので、後席ステアリング。
ブロックバンクのマンガ。『3.5mあれば、ちゃんと駐車できる』ビッグフィンのアメ車とトラックの間にすべりこみ。
パワートレイン20%、居住荷物空間80%の有名なイラスト
2007/9/26 14:49
木澤博司さんの思いで Part III-5 Autobianchi A111 竹の箸Memoir
木澤さんが日本に持ち帰ったアウトビアンキA111。

木澤さんのヨーロッパ第1期後半は、中村良夫さんんとともにロンドンに居を構えた。ホンダ・ドライバーだったジョン・サーティースにF1を解説してもらい、ポール・フレールにルマン24時間レースを案内してもらうなど、ヨーロッパの自動車人と交友を深めた。また最新のヨーロッパ車を試乗してまわった。ADO15ミニ、ADO16 ・1100などの最新の前輪駆動小型車に興味を持った。その中で、特に特に印象づけられたのがフィアット系小メーカー、アウトビアンキのA111であり、帰国の際、持ち帰った。
ホンダのエンジニア、デザイナーたちは、A111の洗練性と走行性能に一驚したという。木澤の評価は、「アレック・イシゴニス(モーリス・マイナー、ミニの親で,英BMCのチーフエンジニア)のADO16・モーリス/オースティン1100は、技術の英国魂みたいなもの。対してA111は、イタリアの情熱。ボデイ剛性はあるし、足はきびきび走る。方向としては、これだな」そして彼はいぶかった「なんで、ヨーロッパでもっと評価されないのだろう」
30年後、20世紀も終末に近づいた頃、私も木澤さんと同じ疑問を抱いた。「なんで、A111は世界のジャーナリストたちに評価されないのだろう」
A111の設計者は、フィアットのチーフエンジニア、ダンテ・ジアコーサ博士。彼は、空冷リアエンジンのフィアット500の設計者として有名であった。
小型車のスペースをもっとも有効に使う新しいパッケージとして、エンジンとトランスミッションを一線上に横置きし、前輪を駆動するレイアウトを発想した。つまり、現在の前輪駆動車の主流となったコンセプトである。
イギリスでは、イシゴニスもそのような一線横置きエンジンを構想したが、上層部の認可を得られなかったという説もある。ジアコーサもフィアット上層部のまったく新しい機構に対する危惧が原因で横置きエンジン前輪駆動方式の主流車種への適用はできなかった。彼は、まず傘下の小スペシャリティ・アウトビアンキに使わせるという巧妙な作戦にでた。これが1965年発表のプリムーラで、5ドアと瀟酒なクーペの2種であった。エンジンはフィアットの水冷OHV 12221cc直4で62馬力を発生した。プリムーラから発達したのがA111セダンでエンジンは1.4リッターを搭載した。
アウトビアンキでまず横置き前輪駆動の市場適合を確認し、フィアット本体が満を持して1970年に発売したのが128だ。一夜にして前輪駆動車に革命が起きたといったら過言だろうか。現在の世界の小型乗用車の80%がジアコーサ型横置きエンジンを用いている。
当時はヨーロッパにカー・オブ・ザ・イヤーが割拠していた時期。私が選考者を務めていたイギリスのカー選びもフィアット128を選んだ。ロンドンで開催された授賞式でダンテ・ジアコーサ博士に会い、話すことができた。同時期の自動車技術の2大巨人、ジアコーサ博士とサー・アレック・イシゴニスに会えたのは、たいへん幸運であった。
私が木澤さんと同じく、「なぜ評価されないのだ?」なる疑問を呈したのは、20世紀のカー選びをするカー・オブ・ザ・センチュリー行事。まず数人の欧米日の権威ある名誉パネル委員が、20世紀に発売された200台をシードした。ここから私たち選考者が数度にわたり絞って行き、最後に世紀車1台を選ぶというシステムだった。オランダ・アムステルダムで開催された第1回会議で示された200台のリストにフィアット128が入っていない!権威パネルメンバーのひとりの旧友ポール・フレールに問うた。「なぜ128が入っていない?!いまや世界の前輪駆動車の大半を占めるまでになったレイアウトのパイオニアなのに」「いや、当時のフィアットの信頼耐久性欠如は、ヨーロッパのジャーナリスト間の評価をひどく落とし、それをいまだに引きずっている。私としては、ジアコーサの本格的横置きエンジン前輪駆動車の先駆けとしてアウトビアンキA111を推すのが精一杯だったよ」
ごく少数製作で超高性能、高級車は別として(オーナーたちに多少マゾ的性質がある?)、量販車となり多くの人々の手に渡った後の信頼性、耐久性の欠如は、いかに発想が卓越していても、設計が秀逸でも補えないという教訓なのかもしれない。
そのA111も、200台から100台に絞る2次選考で落ちてしまった。せめてもの慰めは、ジアコーサ博士のフィアット・ヌオヴォ500,600が入っていたことか...
そうそう、2次シード100台には、木澤さんが開発リーダーの初代シビックが入っていた。
(つづく)

アウトビアンキのエンジン・トランスミッション一線上、横置きパワートレイン。

フィアット128はヨーロッパでカー・オブ・ザ・イヤー賞をとったのに・・・
木澤さんのヨーロッパ第1期後半は、中村良夫さんんとともにロンドンに居を構えた。ホンダ・ドライバーだったジョン・サーティースにF1を解説してもらい、ポール・フレールにルマン24時間レースを案内してもらうなど、ヨーロッパの自動車人と交友を深めた。また最新のヨーロッパ車を試乗してまわった。ADO15ミニ、ADO16 ・1100などの最新の前輪駆動小型車に興味を持った。その中で、特に特に印象づけられたのがフィアット系小メーカー、アウトビアンキのA111であり、帰国の際、持ち帰った。
ホンダのエンジニア、デザイナーたちは、A111の洗練性と走行性能に一驚したという。木澤の評価は、「アレック・イシゴニス(モーリス・マイナー、ミニの親で,英BMCのチーフエンジニア)のADO16・モーリス/オースティン1100は、技術の英国魂みたいなもの。対してA111は、イタリアの情熱。ボデイ剛性はあるし、足はきびきび走る。方向としては、これだな」そして彼はいぶかった「なんで、ヨーロッパでもっと評価されないのだろう」
30年後、20世紀も終末に近づいた頃、私も木澤さんと同じ疑問を抱いた。「なんで、A111は世界のジャーナリストたちに評価されないのだろう」
A111の設計者は、フィアットのチーフエンジニア、ダンテ・ジアコーサ博士。彼は、空冷リアエンジンのフィアット500の設計者として有名であった。
小型車のスペースをもっとも有効に使う新しいパッケージとして、エンジンとトランスミッションを一線上に横置きし、前輪を駆動するレイアウトを発想した。つまり、現在の前輪駆動車の主流となったコンセプトである。
イギリスでは、イシゴニスもそのような一線横置きエンジンを構想したが、上層部の認可を得られなかったという説もある。ジアコーサもフィアット上層部のまったく新しい機構に対する危惧が原因で横置きエンジン前輪駆動方式の主流車種への適用はできなかった。彼は、まず傘下の小スペシャリティ・アウトビアンキに使わせるという巧妙な作戦にでた。これが1965年発表のプリムーラで、5ドアと瀟酒なクーペの2種であった。エンジンはフィアットの水冷OHV 12221cc直4で62馬力を発生した。プリムーラから発達したのがA111セダンでエンジンは1.4リッターを搭載した。
アウトビアンキでまず横置き前輪駆動の市場適合を確認し、フィアット本体が満を持して1970年に発売したのが128だ。一夜にして前輪駆動車に革命が起きたといったら過言だろうか。現在の世界の小型乗用車の80%がジアコーサ型横置きエンジンを用いている。
当時はヨーロッパにカー・オブ・ザ・イヤーが割拠していた時期。私が選考者を務めていたイギリスのカー選びもフィアット128を選んだ。ロンドンで開催された授賞式でダンテ・ジアコーサ博士に会い、話すことができた。同時期の自動車技術の2大巨人、ジアコーサ博士とサー・アレック・イシゴニスに会えたのは、たいへん幸運であった。
私が木澤さんと同じく、「なぜ評価されないのだ?」なる疑問を呈したのは、20世紀のカー選びをするカー・オブ・ザ・センチュリー行事。まず数人の欧米日の権威ある名誉パネル委員が、20世紀に発売された200台をシードした。ここから私たち選考者が数度にわたり絞って行き、最後に世紀車1台を選ぶというシステムだった。オランダ・アムステルダムで開催された第1回会議で示された200台のリストにフィアット128が入っていない!権威パネルメンバーのひとりの旧友ポール・フレールに問うた。「なぜ128が入っていない?!いまや世界の前輪駆動車の大半を占めるまでになったレイアウトのパイオニアなのに」「いや、当時のフィアットの信頼耐久性欠如は、ヨーロッパのジャーナリスト間の評価をひどく落とし、それをいまだに引きずっている。私としては、ジアコーサの本格的横置きエンジン前輪駆動車の先駆けとしてアウトビアンキA111を推すのが精一杯だったよ」
ごく少数製作で超高性能、高級車は別として(オーナーたちに多少マゾ的性質がある?)、量販車となり多くの人々の手に渡った後の信頼性、耐久性の欠如は、いかに発想が卓越していても、設計が秀逸でも補えないという教訓なのかもしれない。
そのA111も、200台から100台に絞る2次選考で落ちてしまった。せめてもの慰めは、ジアコーサ博士のフィアット・ヌオヴォ500,600が入っていたことか...
そうそう、2次シード100台には、木澤さんが開発リーダーの初代シビックが入っていた。
(つづく)
アウトビアンキのエンジン・トランスミッション一線上、横置きパワートレイン。
フィアット128はヨーロッパでカー・オブ・ザ・イヤー賞をとったのに・・・
2007/9/24 21:57
木澤博司さんの思いで Part III-4 『あるべきだ』論 竹の箸Memoir
ベルギー、イギリスの研究所触覚役を終えて帰国した木澤さん、『あるべきだ』論、すなわち自動車とは、かくあるべきだという論理を形成し、それを研究所内で主張して回った。当時のホンダのチーフエンジニアでありチーフデザイナーは、本田宗一郎社長であった。
本田社長は、シート、ペダル配置については、独自(多少の特異)な考えをもっていた。日常使用している1300クーペのペダルについて、こう指示した。「ブレーキペダル高は、低い方がいい。アクセレレーターペダルからの踏み替えの際に、足がひっからぬからだ。ブレーキペダルは非作動時にアクセレレーターと同じ高さにせよ」
木澤さん、本田さんに対し『有るべきだ』論で反論した。「それは安全ではない。ブレーキペダルは踏み込んだときに、アクセレレーターペダルと同じ高さであるべきだ。」1300クーペの運転席に座る本田社長の足下にかがみこみながら、安全性とヒール&トウイング・テクニックを使ったギアシフトに適したペダル配置を力説した。本田さん、言葉につまり、少壮開発エンジニアの頭にゴツンを落とした、とは木澤さんの回想。
私も本田社長の好みについての記憶がある。たしか伊豆のクイントの試乗会だった。東京から試乗車に乗って出かけた。レッグルームと前肢の支持はいいが、やや硬いかな、というのが印象だった。着くと、木澤さん、横山昭允さん(3代目アコード、2代目プレリュードの開発リーダー)らの研究所エンジニアたちがむつかしい顔をしている。そして姿を消した。翌朝どこへ行ったのかと尋ねると、「おとうさん(本田社長)が来るんだ。往路、あのシートのままでは、ゴツンが落ちると、徹夜でパッドを入れていたんだよ」(!!)
(つづく)
私が所有していた1300クーペ7。本田社長式ペダルでなく,木澤さんの『あるべきだ』論ペダル配置だった。
2007/9/22 11:47
木澤博司さんの思いで Part III-3 開発エンジニア 竹の箸Memoir
Honda N600対米仕様は、スペアホイールをトランク下に配して、重量配分を向上させた。これはアメリカのコレクターがピカピカに仕上げた車

1967年に発売されるや、いきなり軽自動車市場のベストセラーになったN360については、木澤さんは手助け程度だったという。対米輸出型N600の開発は彼が担当した。ある日、木澤さんから電話をもらった。「アメリカに出す車が出来たので、乗りに行かないか」喜んでお供した。高速道路料金所のオジサンが、どっとおつりをくれた。軽料金だった!
アメリカでは、すでに安全に対する要求が高まり、安全規準もできはじめていた。前項で記した、初代連邦ハイウエイ交通安全局のトムス長官が強力に安全対策を推進していた。N600もアメリカのJターンを含む旋回時の転倒限界要件を満たす改造を必要とした。N600は、フロントのエンジン上に格納されていたスペアホールをリアに移して、重量配分を改良し、サスペンションにも手を入れ、要件をクリアした。
1970年8月号米誌ロード&トラックは、N600のロードテストをこうしめくくった。「ホンダN600がアメリカのモータリストたちの生活に定着するかいなかを予見するのはむつかしい。値段は手頃で、タウンユースのラナバウトとしては魅力なる存在であり、ときたまの遠出にも耐えられる。私たちテスターは車体サイズを気に入っているがーただし大型車の視界死角に入らぬよう、くれぐれも注意することー手軽さも好きだ。ホンダは、最近はそうお目にかかれなくなった愛すべき性格をもっている。右足をフロアに踏みつけっぱなしで走れるのは、たいへん楽しいことだ」
Z600については、木澤さん、開発サブチーフとしてドーンと腰を入れた。スペアホイールは、はじめからリア配置、フロントサスのタビライザー兼用トランスヴァースリンクの採用で操安性を向上した。また輸出向けZ600は、前輪ディスクブレーキを用いていた。
N600とクーペ型Z600は、第1次石油危機の襲来という商売上の好機に恵まれた。アメリカ市場でおそかった売れ行きが急加速し、ストックが底をつき、プレミアムがつく人気であった。現在でも熱心なコレクターがいる。
最近、シカゴの科学技術博物館のユニーク、珍製品部門でN600を見た。説明にいわく『ホンダがアメリカで最初に売った自動車。2気筒が同時に着火する』対米車は360度クランクであった。
しかしきびしくなる安全規準に対応することが至難となり、NとZはアメリカからは撤退することになる。
(つづく)

対米Z600。
1967年に発売されるや、いきなり軽自動車市場のベストセラーになったN360については、木澤さんは手助け程度だったという。対米輸出型N600の開発は彼が担当した。ある日、木澤さんから電話をもらった。「アメリカに出す車が出来たので、乗りに行かないか」喜んでお供した。高速道路料金所のオジサンが、どっとおつりをくれた。軽料金だった!
アメリカでは、すでに安全に対する要求が高まり、安全規準もできはじめていた。前項で記した、初代連邦ハイウエイ交通安全局のトムス長官が強力に安全対策を推進していた。N600もアメリカのJターンを含む旋回時の転倒限界要件を満たす改造を必要とした。N600は、フロントのエンジン上に格納されていたスペアホールをリアに移して、重量配分を改良し、サスペンションにも手を入れ、要件をクリアした。
1970年8月号米誌ロード&トラックは、N600のロードテストをこうしめくくった。「ホンダN600がアメリカのモータリストたちの生活に定着するかいなかを予見するのはむつかしい。値段は手頃で、タウンユースのラナバウトとしては魅力なる存在であり、ときたまの遠出にも耐えられる。私たちテスターは車体サイズを気に入っているがーただし大型車の視界死角に入らぬよう、くれぐれも注意することー手軽さも好きだ。ホンダは、最近はそうお目にかかれなくなった愛すべき性格をもっている。右足をフロアに踏みつけっぱなしで走れるのは、たいへん楽しいことだ」
Z600については、木澤さん、開発サブチーフとしてドーンと腰を入れた。スペアホイールは、はじめからリア配置、フロントサスのタビライザー兼用トランスヴァースリンクの採用で操安性を向上した。また輸出向けZ600は、前輪ディスクブレーキを用いていた。
N600とクーペ型Z600は、第1次石油危機の襲来という商売上の好機に恵まれた。アメリカ市場でおそかった売れ行きが急加速し、ストックが底をつき、プレミアムがつく人気であった。現在でも熱心なコレクターがいる。
最近、シカゴの科学技術博物館のユニーク、珍製品部門でN600を見た。説明にいわく『ホンダがアメリカで最初に売った自動車。2気筒が同時に着火する』対米車は360度クランクであった。
しかしきびしくなる安全規準に対応することが至難となり、NとZはアメリカからは撤退することになる。
(つづく)
対米Z600。
2007/9/22 11:08
木澤博司さんの思いで Part III-2 開発エンジニア 竹の箸Memoir
木澤さんが入社した当時の本田技術研究所は、まだ創成期にあった。杉浦英夫、中村良夫、馬淵亮三さんなどのちのホンダの重鎮がバリバリ現役技術幹部であり、杉浦さんが基礎実験のチーフだった。木澤さんは馬淵課長配下の実験課に配属された。「まだ実験室のベンチの数も少なく、4輪部門では目新しいこと、おどろくこともなかった。とくかく4輪は、ホンダにとって未知の分野。おこがましいが、私の提案したことは、すべて採用してくれる。ラジエーターのバランス容量は,コ鵜決めるんだ。ヒーターテストは、かくのごとくやる、といえば通った時代だった」とは、木澤さんの述懐。
木澤さん、次に4輪耐久走行の”オヤダマ”に任命された。といっても、初期は一般路上を走った。S600の耐久上の問題を洗いだし、分析し、解決を計る。1966年には、はじめての外国にテスト行した。カナダでのS600の耐寒テストで、ヒーターの効き、始動性確認と、それまでに報告されている市場トラブル解決方策を見いだすことだった。幌から寒風が遠慮なく侵入してくる、ヒーターの発熱量はまったく足りない。
木澤さん、アメリカ車の頑丈さに、いたく感心したと話していた。マイナス30度でも即始動する、ヒーターはよく効く。彼は、『部分的極限長所』を認識した。またタイに酷暑テストにも出かけた。
S600のカナダ販売については、藤沢副社長が「信頼耐久性確認は、きちんとやらなければいけない。チャーター貨物機1機分のエンジンを送らねばならなかった」と話されたのを覚えている。またもうひとつの藤沢副社長の妙を得たコメントを思い出す。藤沢さん、ルマン24時間レースを観戦されたが、「自動車競争とお閻魔さまの縁日だな」ホンダは三重県鈴鹿に国際級レーシングサーキットと恒久的アミューズメントパークを建設した。
木澤さんは、S600からS800のモデル移行の際には、ひと月のうちの半分をスズカ・サーキットで暮らした。レーシング走行のややゆるいモードで、何百ラップも回る。現在のようにフリートテスト何万マイル/キロなるデータ蓄積もない時代で、またホンダの急ピッチの開発では、そんな余裕もない。公道使用を主目的とした車なので、セミレーシング走行では、ありとあらゆる故障が発生した。「シンクロ、ホイールベアリング、そしてホイールまでがドエラク壊れる。われわれの課題は、サーキット走行X km=公道走行10万kmなる相関公式の確立だった」
木澤さんはスズカの価値をこう評していた。「操縦安定性研究におけるプラスはいうまでもないが、その頃のウチの連中がサーキット走行を通じて、高性能スポーツカーの挙動を”体感”として把握できたことだ」
(つづく)
木澤さん、次に4輪耐久走行の”オヤダマ”に任命された。といっても、初期は一般路上を走った。S600の耐久上の問題を洗いだし、分析し、解決を計る。1966年には、はじめての外国にテスト行した。カナダでのS600の耐寒テストで、ヒーターの効き、始動性確認と、それまでに報告されている市場トラブル解決方策を見いだすことだった。幌から寒風が遠慮なく侵入してくる、ヒーターの発熱量はまったく足りない。
木澤さん、アメリカ車の頑丈さに、いたく感心したと話していた。マイナス30度でも即始動する、ヒーターはよく効く。彼は、『部分的極限長所』を認識した。またタイに酷暑テストにも出かけた。
S600のカナダ販売については、藤沢副社長が「信頼耐久性確認は、きちんとやらなければいけない。チャーター貨物機1機分のエンジンを送らねばならなかった」と話されたのを覚えている。またもうひとつの藤沢副社長の妙を得たコメントを思い出す。藤沢さん、ルマン24時間レースを観戦されたが、「自動車競争とお閻魔さまの縁日だな」ホンダは三重県鈴鹿に国際級レーシングサーキットと恒久的アミューズメントパークを建設した。
木澤さんは、S600からS800のモデル移行の際には、ひと月のうちの半分をスズカ・サーキットで暮らした。レーシング走行のややゆるいモードで、何百ラップも回る。現在のようにフリートテスト何万マイル/キロなるデータ蓄積もない時代で、またホンダの急ピッチの開発では、そんな余裕もない。公道使用を主目的とした車なので、セミレーシング走行では、ありとあらゆる故障が発生した。「シンクロ、ホイールベアリング、そしてホイールまでがドエラク壊れる。われわれの課題は、サーキット走行X km=公道走行10万kmなる相関公式の確立だった」
木澤さんはスズカの価値をこう評していた。「操縦安定性研究におけるプラスはいうまでもないが、その頃のウチの連中がサーキット走行を通じて、高性能スポーツカーの挙動を”体感”として把握できたことだ」
(つづく)
2007/9/20 20:39
木澤博司さんの思いで Part III-1 開発エンジニアの誕生 竹の箸Memoir
三井精機の3輪トラック、オリエント。当時としては、デザインこころのあるスタイリッシュな車だった
木澤さん、1933年、岡山生まれ。同世代で、私より11ヶ月年上の兄貴分。上京して日大工学部で自動車工学、熱力学を専攻した。「さぼるものだから、景山克三教授には、よくおこられた。優等生ではなかったなァ」と木澤流ニヤッと笑い話してくれた。
1957年卒業、日野自動車関連企業の三井精機工業に入社した。戦前からの精密工作機メーカー母体で、戦後、商用車の主力であった3輪トラックに進出していた。オリエント車は、水冷直列2気筒エンジンを搭載した曲面デザインの車であった。このメーカーは、日野ブランドの四輪ピックアップ、”ブリスカ”も開発生産した。後にトヨタ・ハイラックスとなる車だ。
木澤さん、2年半ほどの現場実習ののち(このへんは、イギリス的技術訓練だ)、実験課にエンジニアとして配属された。仕事は、応力測定、出力測定、操縦安定性テストの「下働き(ご本人の言葉)」。彼が興味を抱いたのは、実験テスト台と実地走行の相関性の発見であった。たとえば、応力曲げが実験台上と実際の悪路走行の間にうまく相関性が得られているか。冷却は、赤城の山に登り、ラジエーター容量を確認したりなど。
当時、小型車メーカーの団体、小型自動車工業会は外国車を購入し、メーカーもちまわりテストしていた。木澤さんは、操安性を担当し、東京郊外の村山にあった機械研究所コースで走行テストをした。村山コースといえば、私の外国車輸入社時期も、よくモーターサイクル、小型車テストに出かけたものだ。モーターファン誌のロードテストで、BMW600を持って行き、テスト後の大学教授(景山先生、後述の近藤先生がレギュラーだった)、助手の皆さんとの印象、質疑応答にメーカー側として末席をけがしたことは、前項に記した。木澤さんが小型自動車工業会のテストで評価した車にBMW700が含まれていたが、700までには私は会社を辞めていたので、出会いはまだ先になる。その他、BMCミニ、自動クラッチつきMTサキソマット装備のサーブなどが小型自動車工業会のテスト車だったと、木澤さんから聞いた。当時の日本では、操縦安定性に関する学問的研究は、東京工業大学の近藤政市教授らの主導ではじまったばかり。木澤さんは、「はじめて仕事らしき仕事を得て、操安探究に情熱を燃やした」と話した。この時期が日本で数少なかった開発エンジニア、木澤博司の形成期といえよう。
小型自動車工業会のメーカー共同テストプログラムで、木澤さんはひとりのエンジニアの知己を得る。同じく3輪車メーカー大手の東急くろがね工業の中村良夫さんで、中村さんの当時の肩書は設計課長、企画も担当していた。
本田技研工業の技術設計部門は、1960年に本田技術研究所として独立した。ホンダは、すでに世界最大のモーターサイクルメーカーに成長し、自動車部門進出を目指してS360スポーツカーなどの研究開発に着手していた。そして中堅幹部となる人材を求めており、中村さんは本田技術研究所に入社していた。木澤さんも中村さんに誘われ、ホンダに入った。「モーターサイクル愛好者の景山教授の下で、卒業間際に2輪もやったが、本腰は入れなかったな。大二輪メーカー、ホンダに入りたいんじゃなく、新進気鋭ホンダの自動車メーカーとしての可能性に惹かれた」とは、彼の述懐。1963年8月、大学卒業から6年余後、木澤さんはオリエント=東方から世界のホンダに移った。
(つづく)
ホンダF1第1期監督の中村良夫さん。3リッター・フォーミュラ期。ピットディスプレイの前にきれいなユニフォームを着て座っている現在とはちがい、つなぎを着て帽子を冠り、コクピット内でエンジン計器を見つめる姿はすごい迫力。
2007/9/17 15:56
木澤博司さんの思いで Part II その2 Honda 1300クーペ 竹の箸Memoir
カリフォルニアのオレンジカウンティ・レースウエイの1300クーペ9Sのロード&トラック誌テスト


木澤さんは、1300構想、開発には直接関与はしていなかった。この時期、彼はベルギー、イギリスに研究所最初のヨーロッパ出店を構えていた。後期は、第1期F1活動停止で”天職”を失い、またなにかの事情で本田社長の逆鱗に触れてイギリスに避難した中村良夫さんと同居したのだという。中村さんは木澤さんに向かい、「日本の特産物軽自動車の王様になったN360/600で満足するな。われわれは、世界車をつくるべきだ」と説いた。
日本からは、1300の開発はたいへんだ、と風の便りが届いてくる。社用で帰国した際、ヒーター性能で苦労していると聞き、ヨーロッパの経験をもつ木澤さんは、赤城の山のテスト行に参加した。東京は大雪の日であった。ヒーターは効くという前触れなので、ダンデイぶりを発揮しジャケット1枚で出かけたが、ふるえ上がる思いをしたそうだ。また、研究所がヨーロッパに送り込んできたプロトで4000kmを走った。
日本に帰任した頃は、1300クーペの開発は終了していた。
八重洲の地下会議では、日本より速いペースで長丁場を走るので、直進安定性、山道のハンドリング対応の足に仕上げてくれないかと頼んだ。木澤さん、即座に数種の減衰特性を挙げ、「いかようにも仕上げる」と応えてくれた。日本での試乗はお任せして、ロスアンジェルスに空輸した。
対米輸出など計画もなかったので、ウインドシールドを含む大量のスペアパーツを車内に積みこんだが、これは間違い。途中、消えてなくなった。盗っても使い道のない部品だろうに・・・
ロスアンジェルス到着後の最初に向かったのは、私が日本エディターを務めていた専門誌ロード&トラックのオフィス。編集長で友人のロン・ウエイクフィールドとスタッフは興味津々。「丁度、キャデラック・エルドラード(巨大な前輪駆動クーペ)の計測テストに出かけるところだ。日米、大小の最新前輪駆動スポーツクーペを比べようじゃないか」販売未定なので、記事にしなければいいかと、オレンジカウンティ・レースウエイに向かった。
相手のエルドラードは、OHV8.2リッターV8で公称最高出力365馬力の巨鯨。片や1300クーペ9SはSOHC DDAC空冷1.3リッター直4で110馬力。
ここで木澤チューンの足が威力を発揮した。強度のアンダーステアのセダンとは一変した好もしいハンドリングを示した。「(ヒューと口笛)私が、いままで乗った前輪駆動車中、唯一の安定した4輪ドリフトをやった車だ!」がロンのコメントであった。
1300クーペでは、ロスアンジェルスを出発し、雪のミルウオーキー、幸運にもドライだったデトロイト、常夏のフロリダまでの往復横断をやった。デイトナでは、ホンダがドル箱スーパーバイク、CB750で200マイルレースに初挑戦というので寄った。監督は、F1第1期の2戦を勝ち取った中村良夫さん。前夜パーティで隣席に座ったのは、なんと連邦ハイウエイ交通安全局長で、安全専制君主とメーカーから怖れられたダグ・トムス長官。モーターサイクルの熱烈なファンであると知った。レースでは、ディック・マンの駆るCB750が見事に優勝した。
八重洲の地下から、エンジニア、友人としての木澤さんとビューティフルなお付き合いがはじまった。
木澤さんは、1300構想、開発には直接関与はしていなかった。この時期、彼はベルギー、イギリスに研究所最初のヨーロッパ出店を構えていた。後期は、第1期F1活動停止で”天職”を失い、またなにかの事情で本田社長の逆鱗に触れてイギリスに避難した中村良夫さんと同居したのだという。中村さんは木澤さんに向かい、「日本の特産物軽自動車の王様になったN360/600で満足するな。われわれは、世界車をつくるべきだ」と説いた。
日本からは、1300の開発はたいへんだ、と風の便りが届いてくる。社用で帰国した際、ヒーター性能で苦労していると聞き、ヨーロッパの経験をもつ木澤さんは、赤城の山のテスト行に参加した。東京は大雪の日であった。ヒーターは効くという前触れなので、ダンデイぶりを発揮しジャケット1枚で出かけたが、ふるえ上がる思いをしたそうだ。また、研究所がヨーロッパに送り込んできたプロトで4000kmを走った。
日本に帰任した頃は、1300クーペの開発は終了していた。
八重洲の地下会議では、日本より速いペースで長丁場を走るので、直進安定性、山道のハンドリング対応の足に仕上げてくれないかと頼んだ。木澤さん、即座に数種の減衰特性を挙げ、「いかようにも仕上げる」と応えてくれた。日本での試乗はお任せして、ロスアンジェルスに空輸した。
対米輸出など計画もなかったので、ウインドシールドを含む大量のスペアパーツを車内に積みこんだが、これは間違い。途中、消えてなくなった。盗っても使い道のない部品だろうに・・・
ロスアンジェルス到着後の最初に向かったのは、私が日本エディターを務めていた専門誌ロード&トラックのオフィス。編集長で友人のロン・ウエイクフィールドとスタッフは興味津々。「丁度、キャデラック・エルドラード(巨大な前輪駆動クーペ)の計測テストに出かけるところだ。日米、大小の最新前輪駆動スポーツクーペを比べようじゃないか」販売未定なので、記事にしなければいいかと、オレンジカウンティ・レースウエイに向かった。
相手のエルドラードは、OHV8.2リッターV8で公称最高出力365馬力の巨鯨。片や1300クーペ9SはSOHC DDAC空冷1.3リッター直4で110馬力。
ここで木澤チューンの足が威力を発揮した。強度のアンダーステアのセダンとは一変した好もしいハンドリングを示した。「(ヒューと口笛)私が、いままで乗った前輪駆動車中、唯一の安定した4輪ドリフトをやった車だ!」がロンのコメントであった。
1300クーペでは、ロスアンジェルスを出発し、雪のミルウオーキー、幸運にもドライだったデトロイト、常夏のフロリダまでの往復横断をやった。デイトナでは、ホンダがドル箱スーパーバイク、CB750で200マイルレースに初挑戦というので寄った。監督は、F1第1期の2戦を勝ち取った中村良夫さん。前夜パーティで隣席に座ったのは、なんと連邦ハイウエイ交通安全局長で、安全専制君主とメーカーから怖れられたダグ・トムス長官。モーターサイクルの熱烈なファンであると知った。レースでは、ディック・マンの駆るCB750が見事に優勝した。
八重洲の地下から、エンジニア、友人としての木澤さんとビューティフルなお付き合いがはじまった。
2007/9/16 22:45
木澤博司さんの思いで Part II - Honda 1300クーペ 竹の箸Memoir
荒川河川敷のテストコースに自らステアリングを握り到着した本田宗一郎社長の1300 "99"プロトタイプ

左から本田社長、馬淵役員、中村良夫さん、ポール・フレール。車は"77"

私が木澤さんと最初に会ったのは、当時東京駅八重洲口前にあった本田技研本社近くの地階居酒屋。木澤さん、ホンダ広報担当者、少壮(当時)ライターの星島浩さんと私が小部屋の畳の上にあぐらをかき、ある相談をはじめた。
きっかけは、1970年のホンダ1300クーペの発表会だった。前年発売の1300セダンのやや保守的なスリーボックスに対し、鋭く突出した2分割グリルのフロント、きれいに流れるルーフラインなど、クーペはややアメリカ的な味だったが、スポーティでスタイリッシュな車だった。1300セダンのオーナーであった星島さんと私は、大いに食指が動いた(買い替えることになる)。発表会場で、わたしたちは、藤沢武夫副社長に「アメリカで走っても様になりますね」と申し上げた。「走ってくるかね。(広報担当者に向かい)1台送ってあげなさい」駒ならぬ、H1300クーペの高性能型"9"がアメリカに向け跳び出したのである。
1300は、私のもっとも印象に残る車の1台だ。はじめて乗ったのは、ヨーロッパ自動車ジャーナリスト大御所、元レーシングドライバー(1961年ルマン総合優勝など)のポール・フレールと本田技術研究所を訪れた際、荒川河川敷のテストコースであった。本田宗一郎社長が自ら高性能版99プロトタイプのステアリングを握り、コースに来られた。この試乗をアレンジしてくれたのが、ホンダ乗用車開発の先駆者的エンジニアで、フォーミュラ1第一期の監督(1.5リッターのメキシコ、3リッター期のモンツァの優勝レースを指揮した)の中村良夫さんだった。
荒川のコースは、かなりの高速のレーンチェンジ部を除いては直線がメインであり、1300の加速と高速性能にいたく感銘を受けた。
しかしその後がわるかった。次の99プロト試乗でウエットの路面に足をとられ、わが生涯でワーストクラッシュをした。しかし1300の魅力に抗せず、直後に77を注文した(99としなかったのは、懐と度胸が不足していたから)。シングル気化器100馬力だが、減るものはよく減った。芝浦の直営サービスファクトリーSFに行くと、私の名札がついたクラッチディスク、、ブレーキパッドが準備してある手回しの良さ!そして”2プライレーティング”バイアスタイアは、消しゴムのごとく減った。
クーペでは、リアのクロスビームサス(左右2本の車幅いっぱいのスイングアーム)のピボットを変え、サス自体の剛性を上げるなど、改善されていた。アメリカに持っていったのは4基気化器の高性能型"9"。中村良夫さんが、「操安性については一家言ある開発エンジニアがいるので、車について相談したらいい」との助言を下さった。そこで木澤さんとの八重洲地下の居酒屋会合となった。
(この項つづく)

私のこれまでの生涯でのワーストクラッシュ。ウエットで大アンダーを起こし、鋳鉄の橋の欄干にぶつかった。ブラックアウトする前にシャッターをきった一枚。当時では旗本退屈男、今様ではハリ−・ポッター風の跡が額にうすく残っている
左から本田社長、馬淵役員、中村良夫さん、ポール・フレール。車は"77"
私が木澤さんと最初に会ったのは、当時東京駅八重洲口前にあった本田技研本社近くの地階居酒屋。木澤さん、ホンダ広報担当者、少壮(当時)ライターの星島浩さんと私が小部屋の畳の上にあぐらをかき、ある相談をはじめた。
きっかけは、1970年のホンダ1300クーペの発表会だった。前年発売の1300セダンのやや保守的なスリーボックスに対し、鋭く突出した2分割グリルのフロント、きれいに流れるルーフラインなど、クーペはややアメリカ的な味だったが、スポーティでスタイリッシュな車だった。1300セダンのオーナーであった星島さんと私は、大いに食指が動いた(買い替えることになる)。発表会場で、わたしたちは、藤沢武夫副社長に「アメリカで走っても様になりますね」と申し上げた。「走ってくるかね。(広報担当者に向かい)1台送ってあげなさい」駒ならぬ、H1300クーペの高性能型"9"がアメリカに向け跳び出したのである。
1300は、私のもっとも印象に残る車の1台だ。はじめて乗ったのは、ヨーロッパ自動車ジャーナリスト大御所、元レーシングドライバー(1961年ルマン総合優勝など)のポール・フレールと本田技術研究所を訪れた際、荒川河川敷のテストコースであった。本田宗一郎社長が自ら高性能版99プロトタイプのステアリングを握り、コースに来られた。この試乗をアレンジしてくれたのが、ホンダ乗用車開発の先駆者的エンジニアで、フォーミュラ1第一期の監督(1.5リッターのメキシコ、3リッター期のモンツァの優勝レースを指揮した)の中村良夫さんだった。
荒川のコースは、かなりの高速のレーンチェンジ部を除いては直線がメインであり、1300の加速と高速性能にいたく感銘を受けた。
しかしその後がわるかった。次の99プロト試乗でウエットの路面に足をとられ、わが生涯でワーストクラッシュをした。しかし1300の魅力に抗せず、直後に77を注文した(99としなかったのは、懐と度胸が不足していたから)。シングル気化器100馬力だが、減るものはよく減った。芝浦の直営サービスファクトリーSFに行くと、私の名札がついたクラッチディスク、、ブレーキパッドが準備してある手回しの良さ!そして”2プライレーティング”バイアスタイアは、消しゴムのごとく減った。
クーペでは、リアのクロスビームサス(左右2本の車幅いっぱいのスイングアーム)のピボットを変え、サス自体の剛性を上げるなど、改善されていた。アメリカに持っていったのは4基気化器の高性能型"9"。中村良夫さんが、「操安性については一家言ある開発エンジニアがいるので、車について相談したらいい」との助言を下さった。そこで木澤さんとの八重洲地下の居酒屋会合となった。
(この項つづく)
私のこれまでの生涯でのワーストクラッシュ。ウエットで大アンダーを起こし、鋳鉄の橋の欄干にぶつかった。ブラックアウトする前にシャッターをきった一枚。当時では旗本退屈男、今様ではハリ−・ポッター風の跡が額にうすく残っている
2007/9/14 20:18
CAP - 木澤博司さんの思い出 Part I 竹の箸Memoir
元本田技術研究所専務で初代シビック、アコード、プレリュード3台の車の頭文字CAP=キャップ、開発指揮者・木澤博司さん

しばらく休んでしまったが、非常に残念な知らせで再開せねばならぬ。元本田技術研究所専務で親友の木澤博司さんの訃報だ。
木澤さんは、初代シビック、アコード、プレリュードの開発リーダーを務め、以後の世界のホンダへの礎を形成した人たちのひとりだ。ホンダ3車の頭文字"CAP" の通り、キャップ指揮者であった。
私は、シビック以前のホンダ車は、本田社長の自動車造りの情熱と執念の塊のような『本田宗一郎の四輪車』ととらえ、その強烈な個性を熱愛した。対してシビック以後の車は、本田社長への畏敬を抱きながら、賢くなっていった『ホンダ人の自動車』に成長していった。CAP車と創造者たちは、ホンダを世界の自動車メーカーへの道に運び、加速した。
狭い日本の近くにいる友人、当然忙しく元気でやってるんだなと思い、年に1、2度会うことで満足する。木澤さんも会うと、昨日以来というような日常親近感を覚えたひとだ。「木澤さん、元気?」「京ちゃん、相変わらずだね」
今年の1月下旬、木澤さんがメールで映画試写会に誘ってくれた。「この頃時々新聞等でも取り上げられていて、われわれ車好きにとって、特にオヤジさん(本田宗一郎さん)に可愛がられた者にとっては観ていて涙が止まらなくなるニュージーランド、アメリカの合作映画『世界最速のインディアン』の試写会に是非ご参加いただきたく連絡する次第です。
俳優はかの有名なアンソニー・ホプキンスで、おんぼろの旧いインディアン・オートバイをこつこつ自分でいじくって,ソルトレークで最高速記録をつくるのですが、ロスアンゼルスに着いてその人間味あふれるユーモアや背景に、オヤジさんと重なって、本当に涙が止まりませんでした(原文)』
もちろん馳せ参じた。ホンダ創成期、成長期のOB、そして現役の人たちの間で、映画を鑑賞したが、これが木澤さんに会った最後となってしまった。その時も、元気?相変わらずのようだね、ですべてが通じたような気がして、試写会後三々五々散っていった。
これから何回か、木澤さんとの思いでを記す。

木澤さんと最後に会ったのがソニーピクチュア試写会場だった
しばらく休んでしまったが、非常に残念な知らせで再開せねばならぬ。元本田技術研究所専務で親友の木澤博司さんの訃報だ。
木澤さんは、初代シビック、アコード、プレリュードの開発リーダーを務め、以後の世界のホンダへの礎を形成した人たちのひとりだ。ホンダ3車の頭文字"CAP" の通り、キャップ指揮者であった。
私は、シビック以前のホンダ車は、本田社長の自動車造りの情熱と執念の塊のような『本田宗一郎の四輪車』ととらえ、その強烈な個性を熱愛した。対してシビック以後の車は、本田社長への畏敬を抱きながら、賢くなっていった『ホンダ人の自動車』に成長していった。CAP車と創造者たちは、ホンダを世界の自動車メーカーへの道に運び、加速した。
狭い日本の近くにいる友人、当然忙しく元気でやってるんだなと思い、年に1、2度会うことで満足する。木澤さんも会うと、昨日以来というような日常親近感を覚えたひとだ。「木澤さん、元気?」「京ちゃん、相変わらずだね」
今年の1月下旬、木澤さんがメールで映画試写会に誘ってくれた。「この頃時々新聞等でも取り上げられていて、われわれ車好きにとって、特にオヤジさん(本田宗一郎さん)に可愛がられた者にとっては観ていて涙が止まらなくなるニュージーランド、アメリカの合作映画『世界最速のインディアン』の試写会に是非ご参加いただきたく連絡する次第です。
俳優はかの有名なアンソニー・ホプキンスで、おんぼろの旧いインディアン・オートバイをこつこつ自分でいじくって,ソルトレークで最高速記録をつくるのですが、ロスアンゼルスに着いてその人間味あふれるユーモアや背景に、オヤジさんと重なって、本当に涙が止まりませんでした(原文)』
もちろん馳せ参じた。ホンダ創成期、成長期のOB、そして現役の人たちの間で、映画を鑑賞したが、これが木澤さんに会った最後となってしまった。その時も、元気?相変わらずのようだね、ですべてが通じたような気がして、試写会後三々五々散っていった。
これから何回か、木澤さんとの思いでを記す。
木澤さんと最後に会ったのがソニーピクチュア試写会場だった



