2008/4/26 21:10
竹の箸Memoir BMW モーターサイクル-3 ドイツシェパード変身す 竹の箸Memoir
1973年生産開始のR90S

早速ミュンヘンに試乗に出かけた。寒くてもがんばったものだ

バルコムを辞めた後、中古のBIMを入手した。無骨なBMW ルックをなんとかモダーンにできないのかという動機で、早速カスタマイジングにかかった。
まず目をつけたのが、日本車ライラックVツインの燃料タンク。ライラックは、浜松の丸正自動車製造のブランドで、ドイツのヴィクトリア・ベルクマイスターVツィンを範としたシャフトドライブ車で、BMWフラットツインの設計を範としたモデルもあった。DSK、BIMがデザイン、カラーリング、機構丸ごとコピーだったの対し、ライラックは独自のデザインとサスペンションであった。エンジン自体も外観細部を変えていた。そんなことで好感を抱いていた。
そうそう、1958, 59アサマでBMWに乗せた伊藤史朗は、55年の第1回浅間火山レースにライラックSY単気筒シャフトドライブ車を駆り、ホンダ・ワークス勢を抑えて優勝していた。
ほんとうはBSAゴールドスターの長距離レース用アルミタンクが欲しかったのだが、浅間用に取り寄せたのがバルコムに1個あるだけ。そこでライラックのタンクとなった。ヘッドライトはBSAスーパーロケット、フローテティング・スピードメーター、テーパード・テールパイプなど。かくして出来上がった習作は、名付けて"XL564"、Experimental Lady Killer の頭文字+ゴロシ、オートバイ誌に写真が掲載された。
自動車もの書き屋になって、やりたかったのは、ミュンヘンのBMW本社を訪ね、最新型車に乗り、経営、技術者たちの話を聞くことだった。古巣のバルコム貿易は、自由化された乗用車輸入販売商売で大ブレークしたBMW自動車で稼ぐのに忙しく、広報活動は限りなくないに近かった。それがさいわいした。直接、ミュンヘンに手紙を書き、自動車、モーターサイクルの取材、試乗を依頼すると、快諾してくれた。
1973年、待望のミュンヘン訪問が実現した。シリンダー形の新本社屋は建設中で、ラルヒナウアー・シュトラッセのレンガ造り建物で会ったのが、マーケティング販売担当役員のロバートA・ラッツ。現在はGMの製品開発担当の副会長だ。ボブ・ラッツは、オーストリアの富裕な家庭に生まれ、渡米してアメリカ海兵隊に入隊、戦闘機パイロットとなった。いまでも東欧製の戦闘機派生のジェット機を所有し飛ばしている。この時、ラッツと若い海外広報担当のマイケル・シンプケが試乗に揃えてくれたのが、巨大なウイングつき、ぺらぺらプラスチックウインドウの3.0CSL、そして発売間もない2002ターボ(赤い計器照明は、ラッツの戦闘機夜間照明からのヒント)、そしてR90Sスーパーバイクだった。
”ビキニ・フェアリング”と呼ばれた小さなフェアリングを纏ったR90Sは、それまでの質実剛健のBMWイメージを一変し、モーターサイクル界に衝撃を与えたスーパーバイクだった。執務室で聞いたラッツの話は面白かった。彼は自動車部門が主担当範囲だったが、もともとスーパーバイクの愛好者であり、BMW前のGM時期にはホンダCB750に乗っていた。BMWに来ると、すぐに部下に「わが社のモーターサイクルのデザインは、ドイツ・シェパードのように無骨だ(期せずして、私も彼と同じように感じていた)。誰がやっているのか」と訊ねた。「ノーバデイ、だれもいません。ですが、やりたがっている自動車部門のデザイナーがいます」「呼びたまえ」現れたのが、元ヨーロッパ・フォード、当時はBMWコンセプトカー”トウルボ”、乗用車のインテリア・デザインをやっていたハンス・ムートだ。ラッツ、ムートのコンビのモーターサイクル作品第1号がR90Sであった。ムートは、つづいてフルフェアリングのR100RSを生み出す。
BMWを離れ独立したムートの作品にスズキ・カタナ・シリーズがある。

BMW本社で当時マーケティング/販売担当役員のオーストリア生まれアメリカ人、ボブ・ラッツ(右)とモータースポーツ担当ヨッヘン・ニアパッシュの話を聞いた。ラッツのオフィスの壁には、レーシング2002とモーターサイクルの写真が飾ってあった

ボブ・ラッツは、その後フォード・ヨーロッパ社長、クライスラー社長を経て、現在はGM製品開発担当副会長。
名うてのカーガイとして知られているが、バイクガイでもある
早速ミュンヘンに試乗に出かけた。寒くてもがんばったものだ
バルコムを辞めた後、中古のBIMを入手した。無骨なBMW ルックをなんとかモダーンにできないのかという動機で、早速カスタマイジングにかかった。
まず目をつけたのが、日本車ライラックVツインの燃料タンク。ライラックは、浜松の丸正自動車製造のブランドで、ドイツのヴィクトリア・ベルクマイスターVツィンを範としたシャフトドライブ車で、BMWフラットツインの設計を範としたモデルもあった。DSK、BIMがデザイン、カラーリング、機構丸ごとコピーだったの対し、ライラックは独自のデザインとサスペンションであった。エンジン自体も外観細部を変えていた。そんなことで好感を抱いていた。
そうそう、1958, 59アサマでBMWに乗せた伊藤史朗は、55年の第1回浅間火山レースにライラックSY単気筒シャフトドライブ車を駆り、ホンダ・ワークス勢を抑えて優勝していた。
ほんとうはBSAゴールドスターの長距離レース用アルミタンクが欲しかったのだが、浅間用に取り寄せたのがバルコムに1個あるだけ。そこでライラックのタンクとなった。ヘッドライトはBSAスーパーロケット、フローテティング・スピードメーター、テーパード・テールパイプなど。かくして出来上がった習作は、名付けて"XL564"、Experimental Lady Killer の頭文字+ゴロシ、オートバイ誌に写真が掲載された。
自動車もの書き屋になって、やりたかったのは、ミュンヘンのBMW本社を訪ね、最新型車に乗り、経営、技術者たちの話を聞くことだった。古巣のバルコム貿易は、自由化された乗用車輸入販売商売で大ブレークしたBMW自動車で稼ぐのに忙しく、広報活動は限りなくないに近かった。それがさいわいした。直接、ミュンヘンに手紙を書き、自動車、モーターサイクルの取材、試乗を依頼すると、快諾してくれた。
1973年、待望のミュンヘン訪問が実現した。シリンダー形の新本社屋は建設中で、ラルヒナウアー・シュトラッセのレンガ造り建物で会ったのが、マーケティング販売担当役員のロバートA・ラッツ。現在はGMの製品開発担当の副会長だ。ボブ・ラッツは、オーストリアの富裕な家庭に生まれ、渡米してアメリカ海兵隊に入隊、戦闘機パイロットとなった。いまでも東欧製の戦闘機派生のジェット機を所有し飛ばしている。この時、ラッツと若い海外広報担当のマイケル・シンプケが試乗に揃えてくれたのが、巨大なウイングつき、ぺらぺらプラスチックウインドウの3.0CSL、そして発売間もない2002ターボ(赤い計器照明は、ラッツの戦闘機夜間照明からのヒント)、そしてR90Sスーパーバイクだった。
”ビキニ・フェアリング”と呼ばれた小さなフェアリングを纏ったR90Sは、それまでの質実剛健のBMWイメージを一変し、モーターサイクル界に衝撃を与えたスーパーバイクだった。執務室で聞いたラッツの話は面白かった。彼は自動車部門が主担当範囲だったが、もともとスーパーバイクの愛好者であり、BMW前のGM時期にはホンダCB750に乗っていた。BMWに来ると、すぐに部下に「わが社のモーターサイクルのデザインは、ドイツ・シェパードのように無骨だ(期せずして、私も彼と同じように感じていた)。誰がやっているのか」と訊ねた。「ノーバデイ、だれもいません。ですが、やりたがっている自動車部門のデザイナーがいます」「呼びたまえ」現れたのが、元ヨーロッパ・フォード、当時はBMWコンセプトカー”トウルボ”、乗用車のインテリア・デザインをやっていたハンス・ムートだ。ラッツ、ムートのコンビのモーターサイクル作品第1号がR90Sであった。ムートは、つづいてフルフェアリングのR100RSを生み出す。
BMWを離れ独立したムートの作品にスズキ・カタナ・シリーズがある。
BMW本社で当時マーケティング/販売担当役員のオーストリア生まれアメリカ人、ボブ・ラッツ(右)とモータースポーツ担当ヨッヘン・ニアパッシュの話を聞いた。ラッツのオフィスの壁には、レーシング2002とモーターサイクルの写真が飾ってあった
ボブ・ラッツは、その後フォード・ヨーロッパ社長、クライスラー社長を経て、現在はGM製品開発担当副会長。
名うてのカーガイとして知られているが、バイクガイでもある
2008/4/26 11:30
竹の箸Memoir BMW モーターサイクル-2にせもの 竹の箸Memoir
バルコム貿易品川サービスステーションでのBMW R51/3の発表会

R51の日本製コピー2車のひとつ、岩田産業のBIM

BMWは東西で盛大にコピーされた。まずは第2次世界大戦直前と大戦中。
R71サイドバルブ・エンジン車/サイドカーは、ドイツ電撃部隊の先遣用に開発されたモデルで、サイドカー輪を駆動するギアトレインを備えた後輪/2輪駆動車だった。ソ連が軍用にR71コピーを大量に生産したが、そのいきさつには2説ある。第1は、現物を入手し無許可でコピーしたもので、戦後の日本の2メーカーがR51コピーでやったのと同じ手法。第2の説は、大戦直前、ナチドイツとソ連が締結した不可侵条約の友好の証しとしてドイツ側が設計を提供したというもの。すでにBMWは、より強力なOHVのR75を開発済みだったので、『いいか』と渡したというのだ。この方が信憑性がある。
面白いのは、ソ連は戦中、R75を捕獲しコピーしたので(URAL・M72型で現在に至る)、旧式となったR71を中国共産党政権に渡したという。もちろんBMWには、断っていない。
さらに面白いのは、アメリカの老舗ハーレイ・デイヴィドソンがR75をコピーした。米陸軍が砂漠、荒地用のサイドカーを要求し、ハーレイが手っ取り早くR75をコピーした。戦中で、相手は敵国なので、ライセンス、許可もへったくれもない。ハーレイ・デイヴィドソンXAは1000台が軍に納入されたが、ジープの出現で有用性を失い、そこでオシマイ。民需型はなかったらしい。
そのハーレイ、戦後は日本勢にVツインをコピーされるのを嫌い、サウンズまで登録したという。
さて戦後の日本2社のコピーだ。輸入社に入社するまで、よもや無許可コピーとは思わなかったのでビックリ。静岡三島の大東精機工業と名古屋の岩田産業(当時名)がその会社だ。前者がR51・500ccツインをA50、R25シングルをA25、後者はR51のコピーを製作、販売した。まあ、エンブレムまでBMW風同色だった。、最近の中国の自動車にもBMW風のエンブレムを見た事がある。DSK, BIMともにスペックは、まったくホンモノと同じ。私が入社した時は、すでにこのR51、R25コピー車の生産は終了していたが、大東精機工業はなんと最新型R26・250ccのコピーを売り出した。さすがにBMWもドイツ大使館を通して抗議したが、まったく無視された。モーターサイクルのみならず、日本企業のコピーものが問題化していた。たしか通産省の後押しと記憶するが、日本橋のデパートメントストアで開催した通称『にせもの展』にホンモノ、ニセモノを展示するので、R26を貸してくれと依頼がきて提供したことがあった。
日本メーカーにコピーされたのは、BMWだけではない。私の最初のクルマ、ライナーも英車サンビームの縮小版。1/2排気量でカムシャフト駆動、デザインも一部変えていたのがカワイイ。大東精機工業、岩田産業は、部品互換性まであり(精度はよかった)、外観はエンブレムを隠せば識別不能なほどのドコピーぶりだった。
中国の自動車、モーターサイクルのコピーを見たり、記事を読む度に、日本製コピー群を思い出す。岩田産業は、その後岩田工機と名称を変えたが、いまでも会社沿革に堂々と『昭和28年自動二輪車(500cc BIM号)の製造開始に伴い、名古屋市中川区に機械工場を新設』と載せているのはスゴイ。
じつは、私、バルコム退社後、どのくらいの複製度か調べる目的と、カスタマイジングの題材(ホンモノより安く、惜しげなく改造できる)として中古BIMを買った。まさにコピーを極めていた。

BMW R26もDSKにコピーされた。ホンモノを『にせもの展』でニセモノの隣に展示した。これはホンモノ

ベトナム・ハノイ市中で見つけた中国製HONGDAをHONDA化するデコールセット。ホンモノはタイのホンダ工場製だが、ちゃんとMade in Thailandの転写マークまで含まれている
R51の日本製コピー2車のひとつ、岩田産業のBIM
BMWは東西で盛大にコピーされた。まずは第2次世界大戦直前と大戦中。
R71サイドバルブ・エンジン車/サイドカーは、ドイツ電撃部隊の先遣用に開発されたモデルで、サイドカー輪を駆動するギアトレインを備えた後輪/2輪駆動車だった。ソ連が軍用にR71コピーを大量に生産したが、そのいきさつには2説ある。第1は、現物を入手し無許可でコピーしたもので、戦後の日本の2メーカーがR51コピーでやったのと同じ手法。第2の説は、大戦直前、ナチドイツとソ連が締結した不可侵条約の友好の証しとしてドイツ側が設計を提供したというもの。すでにBMWは、より強力なOHVのR75を開発済みだったので、『いいか』と渡したというのだ。この方が信憑性がある。
面白いのは、ソ連は戦中、R75を捕獲しコピーしたので(URAL・M72型で現在に至る)、旧式となったR71を中国共産党政権に渡したという。もちろんBMWには、断っていない。
さらに面白いのは、アメリカの老舗ハーレイ・デイヴィドソンがR75をコピーした。米陸軍が砂漠、荒地用のサイドカーを要求し、ハーレイが手っ取り早くR75をコピーした。戦中で、相手は敵国なので、ライセンス、許可もへったくれもない。ハーレイ・デイヴィドソンXAは1000台が軍に納入されたが、ジープの出現で有用性を失い、そこでオシマイ。民需型はなかったらしい。
そのハーレイ、戦後は日本勢にVツインをコピーされるのを嫌い、サウンズまで登録したという。
さて戦後の日本2社のコピーだ。輸入社に入社するまで、よもや無許可コピーとは思わなかったのでビックリ。静岡三島の大東精機工業と名古屋の岩田産業(当時名)がその会社だ。前者がR51・500ccツインをA50、R25シングルをA25、後者はR51のコピーを製作、販売した。まあ、エンブレムまでBMW風同色だった。、最近の中国の自動車にもBMW風のエンブレムを見た事がある。DSK, BIMともにスペックは、まったくホンモノと同じ。私が入社した時は、すでにこのR51、R25コピー車の生産は終了していたが、大東精機工業はなんと最新型R26・250ccのコピーを売り出した。さすがにBMWもドイツ大使館を通して抗議したが、まったく無視された。モーターサイクルのみならず、日本企業のコピーものが問題化していた。たしか通産省の後押しと記憶するが、日本橋のデパートメントストアで開催した通称『にせもの展』にホンモノ、ニセモノを展示するので、R26を貸してくれと依頼がきて提供したことがあった。
日本メーカーにコピーされたのは、BMWだけではない。私の最初のクルマ、ライナーも英車サンビームの縮小版。1/2排気量でカムシャフト駆動、デザインも一部変えていたのがカワイイ。大東精機工業、岩田産業は、部品互換性まであり(精度はよかった)、外観はエンブレムを隠せば識別不能なほどのドコピーぶりだった。
中国の自動車、モーターサイクルのコピーを見たり、記事を読む度に、日本製コピー群を思い出す。岩田産業は、その後岩田工機と名称を変えたが、いまでも会社沿革に堂々と『昭和28年自動二輪車(500cc BIM号)の製造開始に伴い、名古屋市中川区に機械工場を新設』と載せているのはスゴイ。
じつは、私、バルコム退社後、どのくらいの複製度か調べる目的と、カスタマイジングの題材(ホンモノより安く、惜しげなく改造できる)として中古BIMを買った。まさにコピーを極めていた。
BMW R26もDSKにコピーされた。ホンモノを『にせもの展』でニセモノの隣に展示した。これはホンモノ
ベトナム・ハノイ市中で見つけた中国製HONGDAをHONDA化するデコールセット。ホンモノはタイのホンダ工場製だが、ちゃんとMade in Thailandの転写マークまで含まれている
2008/4/12 23:37
竹の箸Memoir BMW モーターサイクル-1 竹の箸Memoir
BMW R50

マスゾエ厚労大臣がわめいていた(としか、私には聞こえない)年金特別便なる書類が届いた。それによると、BMW、BSA輸入販売商社バルコム貿易に務めていたのはわずか19ヶ月。1959年浅間レース直前にドイツ人自動車部長ヘルマン・リンナーとレース作戦で衝突し、会社を辞めてしまったのだが、短期間にけっこう楽しんだものだ。
当時、たとえ中古、大古車でも車輪の4つ付いた乗り物は、高嶺どころか、成層圏の夢。バルコム入社前に買った最初のエンジンつき二輪車は、北川ライナーというイギリス・サンビーム直列2気筒エンジン、シャフトドライブ車の縮尺コピー版であった。何台か中古車を乗り比べ、もっとも文明的(静か)であったのがライナーを買った理由。ただし、ホンモノのサンビームのチェーン駆動OHCに対し、ベークライトかそれに類似した樹脂ギア駆動だったので、すり減りカリカリいやな音が発生した。それでも街乗りは、平和なクルマで、三多摩地方を走り回った。
ところが57年の浅間火山レース観戦に出かけ、途中で知り合ったホンダSAの青年(こっちも若者だったが)と一緒に走ってガクゼンとした。当時の道路は大半が非舗装。ホンダが名前の通り夢のようにとんでいくのに、わがライナーははねまわり、抑えるのに苦闘の連続。ライナーのサスは、フロントはテレスコピックフォークなのだが、後ろがプランジャーなるコイルスプリングを内蔵したスライド式、つまりモーガン・スポーツカーのフロントサスと同型式だった。これでがっくり。
輸入商社に入ったのは、何時かはシャフトドライブ最高峰、水平対向2気筒BMWを持ちたいというのが動機。次に航空会社に入ったのは、渡航不自由時代、それが海外に出る手っ取り早い方法なる短絡発想だった。
BMW入手の好機が到来したのは、ヘルマン・リンナー部長が販売拡張の方法としての(とリチャード・チャイルド社長とヘンリー・ヘルナンデス財務担当に売り込んだ)1958年の浅間レース参戦だった。
58年の2種目エントリーのBMWは、フロントサスはリーディングアーム型アールスフォークのままで、ダンパーの減衰力を強めたものだったが、浅間の不整路面では、すぐオイル抜けする。散々苦労し、一時はライダーの故望月修さんの提案で自転車のチューブを巻き付けたが、これも切断してしまう。プラクティスで伊藤史朗学が500ccクラス用のR50をクラッシュし、フロントサス、フレームを曲げてしまった。
リンナー、即座に新車をおろし組み替えよと命じた。クラッシュしたR50とノーマルに戻したエンジンが残った。私は、BMWの名チューナー、”グラースボーイ(眼鏡少年)”こと中村チーフメカニックに、「直るかい」と聞いた。「新品同様になりますよ」そこでリンナー部長に願い出た。「クラッシュしたR50、譲ってくれますか」「よろしい」グラースボーイが直々に修理を監督したR50が手頃な値段で入手できた。
後日談がある。春の晴れた日曜日、わがR50を駆って箱根に出かけた。ターンパイク、新道以前のことで、天下の險のつづら折れを気持ちよく登っていた。と、凍結防止に蒔いた砂を避けたラインを狙い、コーナー前でスロットルを閉じた。閉じたのは片方の気化器だけ、反対側はスタックして半閉め状態。バランスの崩れた水平対向エンジンに振られラインが乱れ、砂に足をとられて転倒。ヘルメットがゴンゴンゴンと路面にはねかえり、隣を倒れたクルマが追い抜いていったのがスローモーションで見えた。さいわい、おおきなダメージはない。起こして、再スタート、東京に戻った。
翌朝出社。オフィスは、リンナー部長に背を向けて座る。彼がなにか声をかける度に、首がまわらず、身体ごと振り返って返事をせねばならぬ。「どうしたのだ」、「なんでもありません。寝違えたのだと思います」
数年後、わが生涯最悪のクラッシュ(自動車)で病院にかつぎこまれた際、X線写真を見た医者が「タイヘンだ。すぐ砂袋で首を固定しなければいけない」本人は、額の傷はズキズキするが、首はちゃんと回る。2、3日の安静ののち、R50クラッシュの古傷らしいとの診断がでた。最近、首が凝るのは後遺症か、いや単純な加齢劣化だろう。

これは浅間の伊藤史朗の駆るR69S改で、鉄板叩き出しのフェアリングをつけた

アサマ・フェアリングを取り付けたBMW。ノーズへヴィーになり、ソロでは無理であった
マスゾエ厚労大臣がわめいていた(としか、私には聞こえない)年金特別便なる書類が届いた。それによると、BMW、BSA輸入販売商社バルコム貿易に務めていたのはわずか19ヶ月。1959年浅間レース直前にドイツ人自動車部長ヘルマン・リンナーとレース作戦で衝突し、会社を辞めてしまったのだが、短期間にけっこう楽しんだものだ。
当時、たとえ中古、大古車でも車輪の4つ付いた乗り物は、高嶺どころか、成層圏の夢。バルコム入社前に買った最初のエンジンつき二輪車は、北川ライナーというイギリス・サンビーム直列2気筒エンジン、シャフトドライブ車の縮尺コピー版であった。何台か中古車を乗り比べ、もっとも文明的(静か)であったのがライナーを買った理由。ただし、ホンモノのサンビームのチェーン駆動OHCに対し、ベークライトかそれに類似した樹脂ギア駆動だったので、すり減りカリカリいやな音が発生した。それでも街乗りは、平和なクルマで、三多摩地方を走り回った。
ところが57年の浅間火山レース観戦に出かけ、途中で知り合ったホンダSAの青年(こっちも若者だったが)と一緒に走ってガクゼンとした。当時の道路は大半が非舗装。ホンダが名前の通り夢のようにとんでいくのに、わがライナーははねまわり、抑えるのに苦闘の連続。ライナーのサスは、フロントはテレスコピックフォークなのだが、後ろがプランジャーなるコイルスプリングを内蔵したスライド式、つまりモーガン・スポーツカーのフロントサスと同型式だった。これでがっくり。
輸入商社に入ったのは、何時かはシャフトドライブ最高峰、水平対向2気筒BMWを持ちたいというのが動機。次に航空会社に入ったのは、渡航不自由時代、それが海外に出る手っ取り早い方法なる短絡発想だった。
BMW入手の好機が到来したのは、ヘルマン・リンナー部長が販売拡張の方法としての(とリチャード・チャイルド社長とヘンリー・ヘルナンデス財務担当に売り込んだ)1958年の浅間レース参戦だった。
58年の2種目エントリーのBMWは、フロントサスはリーディングアーム型アールスフォークのままで、ダンパーの減衰力を強めたものだったが、浅間の不整路面では、すぐオイル抜けする。散々苦労し、一時はライダーの故望月修さんの提案で自転車のチューブを巻き付けたが、これも切断してしまう。プラクティスで伊藤史朗学が500ccクラス用のR50をクラッシュし、フロントサス、フレームを曲げてしまった。
リンナー、即座に新車をおろし組み替えよと命じた。クラッシュしたR50とノーマルに戻したエンジンが残った。私は、BMWの名チューナー、”グラースボーイ(眼鏡少年)”こと中村チーフメカニックに、「直るかい」と聞いた。「新品同様になりますよ」そこでリンナー部長に願い出た。「クラッシュしたR50、譲ってくれますか」「よろしい」グラースボーイが直々に修理を監督したR50が手頃な値段で入手できた。
後日談がある。春の晴れた日曜日、わがR50を駆って箱根に出かけた。ターンパイク、新道以前のことで、天下の險のつづら折れを気持ちよく登っていた。と、凍結防止に蒔いた砂を避けたラインを狙い、コーナー前でスロットルを閉じた。閉じたのは片方の気化器だけ、反対側はスタックして半閉め状態。バランスの崩れた水平対向エンジンに振られラインが乱れ、砂に足をとられて転倒。ヘルメットがゴンゴンゴンと路面にはねかえり、隣を倒れたクルマが追い抜いていったのがスローモーションで見えた。さいわい、おおきなダメージはない。起こして、再スタート、東京に戻った。
翌朝出社。オフィスは、リンナー部長に背を向けて座る。彼がなにか声をかける度に、首がまわらず、身体ごと振り返って返事をせねばならぬ。「どうしたのだ」、「なんでもありません。寝違えたのだと思います」
数年後、わが生涯最悪のクラッシュ(自動車)で病院にかつぎこまれた際、X線写真を見た医者が「タイヘンだ。すぐ砂袋で首を固定しなければいけない」本人は、額の傷はズキズキするが、首はちゃんと回る。2、3日の安静ののち、R50クラッシュの古傷らしいとの診断がでた。最近、首が凝るのは後遺症か、いや単純な加齢劣化だろう。
これは浅間の伊藤史朗の駆るR69S改で、鉄板叩き出しのフェアリングをつけた
アサマ・フェアリングを取り付けたBMW。ノーズへヴィーになり、ソロでは無理であった
2008/4/12 22:52
おやじブログ BMW 135i クルマ
いたく気に入った車がある。BMW 135iクーペだ。カタログは1968年に登場したBMWの
大ヒット作、2ドアの02シリーズのベストスペック2002に2ぺージを呈している。まさに02スポーツ系が40年の月日を経て、熟成して戻って来たというのが第1印象。
都心のワンカー・ファミリー(アメリカに1台、4州を巡った古いセダンがあるが、これは別の話)、機械式駐車場というのが、私の現実環境。その中で、個性のあり、勉強になる車を求める。
まず技術的興味は、エンジンにある。稀少種となった直6、吸排気側にVANOS
可変バルブ機構、直噴,加えてツインターボのガソリン・エンジンは、なめらか、パワフル、驚異的とまでいえる低中速域トルク、そして全域で奏でる妙なるミュージック。
トランスミッションは、MT、ATともに6速だ。
日本語カタログのATの記述、『6速スポーツ・オートマチック・トランスミッション(ステップトロニック、シフト・パドル付き)ステップトロニックの採用にゆおり、クラッチ・ペダルを操作することなく、マニュアルでシフト・チェンジができます・・・』これは奇妙な記述。
操作しようにもクラッチ・ペダルは、はじめからないATなのだ。ステップトロニックは、電子制御ATのギアをマニュアルシフトするプログラムとパドル機構のはず。SMGと混同しているのでは・・・
ドイツ本社英語版カタログは、次の通りで、もちろん『クラッチ・ペダル』云々はない。
6-speed automatic transmission (here with non-smoker package) with Adaptive
Transmission Management (ATM) and Steptronic. This transmission performs very fast,
flawless gearshifts – for maximum dynamic performance (available on 135i with gearshift
paddles on steering wheel).
3シリーズが旧5くらいに大きくなった現在、1クーペは都心路地裏に住み、機械式駐車場には最適サイズ。全幅1750mm、フロント・オーバーハング690 mm、適度の傾斜のウインドシールドからの視界、路地からの出入りでストレスがない。ちゃんとした容量を確保したトランクもありがたい。
私は7、5から始まったカブキ・フェイス(隈取り)のバックパックを背負ったようなデザインは好きではなかった。鬼才クリス・バングル率いるBMWデザインのポジ、ネガ面のコントラスト、ブレンドなる意欲的アヴァンギャルド・アプローチだが、個人的好みなのでどうしようもない。3でたいぶ矯められ(主にアメリカの販売店からの声というが)、1クーペでは意欲と造形がいい融合結実したと思う。
インテリアは、いうことない出来栄え。i-Driveも使いよくなった。
3.0リッター直噴、ツインターボ・エンジンは、ガソリン・エンジンの傑作。2007年のインターナショナル・エンジン・オヴ・ジ・イヤーに選ばれた。
個人的には、欧米にはある3.0L NAで充分なのだが...ないものねだりのついでに、スゴク興味のあるのが123dだ。2.0Lコモンレール、ターボ・ディーゼルは、最高出力150 kW (135iは225kW)だが、最大トルクは両モデルとも400Nm。
ドイツ仕様で0-100km/hを7秒で加速する。最速の135iが6.4秒だ。公式CO2発生は、123dが138 g/km 、135iが190 g/km。
シャシーでは、オプションのアクテヴィヴ・ステアリングがMUSTか。なしの車は、こんぼうを振り回すように重い!びっくりしたのは、乗り心地。ファームだがハードでなく、西湘バイパスのメジをきれいにこなす。聞いたところでは、慣らし前の新車では、かなり硬いそうだ。
私にとり、最大かつ、とてもツライ問題は価格だ。500万円以上は、このきびしいご時世では考える。CG45特別号で、旧友三本和彦さんがムカシ、シトロエン2CVを50円玉貯金で買ったという故事を紹介した。私の50円貯金を2、3日前から500円玉にアップした。最初の一歩が1クーペに通じるか...
私の埋もれていた長年のBMWの思いでを語りたくなった。次から『竹の箸』にする。



