2008/9/30 10:11
おやじブログ スピットファイアとスピットファイア 飛行機
カースル・ブロムウイッチのジャガーXF生産ライン

第2次大戦中のカースル・ブロムウイッチ工場スピットファイア生産

ブリストル航空コレクションでセントーラス・エンジンの実物を見てから、イングランド中部のバーミンガム近郊のカースル・ブロムウイッチに向かった。目的は、ジャガーの最新サルーンXFの生産工場見学だ。自動車を知る最良の方法は、生産過程を見ることだと思う。プレスした板の溶接からはじまり、試走までを見られる。
カースル・ブロムウイッチ工場の歴史は興味ある。1934年、スタンレー・ボールドウイン首相は、軍備補強法案を提出した。とくに、空軍の近代化は必須の課題であった。そこで、自動車産業に協力を求めた。しかし最大手モーリス・モーター社のナッフィールド卿(本名ウイリアム・モーリス)だけが首を縦に振らない。原因は、空軍大臣スウィントン卿との個人的な確執であったという。しばらくして大臣が交代し、ナットフィールド卿も軍備拡張F計画に参画した。彼があらたに取得した土地に建設したのがカースル・ブロムウイッチの航空機専用工場であり、有名なスーパーマリン・スピットファイア戦闘機、アヴロ・ランカスター爆撃機を大量に生み出す。
ところがモーリス社生産技術陣は、航空機生産には不慣れで、生産に支障をきたした。工場運営は航空機メーカー、ヴィッカース-アームストロング(スピットファイアのメーカー、スーパーマリンを傘下に持つ)に任せられる。
第2次大戦後、カースル・ブロムウィッチ工場はフィッシャー&ラドロウの所有となる。この会社は自動車メーカーにボデイを供給していたが、その一社がモーリスであり、アレック・イシゴニスの傑作、モーリス・マイナーのボデイはカースル・ブロムウイッチ製であった。イギリスの民族系メーカーの大同団結体BMCの編成で、フィッシャー&ラドロウは同グループに入る。BMC発展体のBL時期にジャガーの主力工場となる。ジャガーのオーナーは、最近フォードからインドのタタに変わったのはご存知の通り。工場見学中、面白い看板を見た。ボンネット組み立て部門の名称が
『Hood Assembly』、案内してくれたベテランが「あれはアメリカ人が来て変えた名残ですよ」英語でボンネットが米語ではフッドである。
スピットファイアとは「火を吐く」という語源だが、気性の激しい人―とくに女性―の形容でもある。火を吐く女性、レデイ・ルーシー・フウストンは、戦闘機スピットフィアに至るスーパーマリンのレース機開発に物心ともに大きな貢献をした人物である。ファニー・ルーシー・ラドミルは、”ポピー“なる芸名コーラスガールだった。16歳の時、32歳のビールで有名なバス醸造会社一族の男性とパリに駆け落ちしたが、生涯続く手切れ金を獲得した上で別れる。サー(騎士)をもつ大佐、男爵銀行家、もう一人のサー(この人がフウストン)と3度の結婚をする。彼女自身、第1次世界大戦中の看護婦に対する支援を認められデイム(サーに相当する女性称号)を授与される。
レデイ・フウストン(テキサスの都市と同じ綴りだが、読み方がちがう)は、たいへん気性の激しい人だった。ゴシップ欄以外で彼女を有名にしたのが、1913年から31年まで開催された水上機速度レース、通称“シュナイダー・トロフィー”であった。1927年と29年レースでは、イギリス政府が支援し、空軍パイロットの操縦するスーパーマリン機が優勝した。ところが31年レースに際し、時の労働党政府、軍は一切の援助どころか、航空機の使用、パイロットの参加さえ禁じた。そこでレデイ・フウストンが火を吐いた。「ロイヤル・エアロ・クラブが提供する資金で足りぬ分は私が負担する」と大見得を切り、同時にメデイア上で政府攻撃の火ぶたを切った。これには首相も参り、ついには支援せざるをえなくなる。1931年のウイナー、スーパーマリンS.6Bから戦闘機スピットファイアが生まれ、レースのためにロールスロイスがチューンしたRタイプ・エンジンがマーリンV12に発達した。当時のロールスロイス首脳は、シュナイダー・トロフィー参加により、通常であれば
10年かかる開発を2年で達成することができたと語っている。火を吐くレデイの功績だ。

1929年のシュナイダー・トロフィー水上機レース・プログラム

スーパーマリンS.6Bからスピットファイア戦闘機が生まれる
第2次大戦中のカースル・ブロムウイッチ工場スピットファイア生産
ブリストル航空コレクションでセントーラス・エンジンの実物を見てから、イングランド中部のバーミンガム近郊のカースル・ブロムウイッチに向かった。目的は、ジャガーの最新サルーンXFの生産工場見学だ。自動車を知る最良の方法は、生産過程を見ることだと思う。プレスした板の溶接からはじまり、試走までを見られる。
カースル・ブロムウイッチ工場の歴史は興味ある。1934年、スタンレー・ボールドウイン首相は、軍備補強法案を提出した。とくに、空軍の近代化は必須の課題であった。そこで、自動車産業に協力を求めた。しかし最大手モーリス・モーター社のナッフィールド卿(本名ウイリアム・モーリス)だけが首を縦に振らない。原因は、空軍大臣スウィントン卿との個人的な確執であったという。しばらくして大臣が交代し、ナットフィールド卿も軍備拡張F計画に参画した。彼があらたに取得した土地に建設したのがカースル・ブロムウイッチの航空機専用工場であり、有名なスーパーマリン・スピットファイア戦闘機、アヴロ・ランカスター爆撃機を大量に生み出す。
ところがモーリス社生産技術陣は、航空機生産には不慣れで、生産に支障をきたした。工場運営は航空機メーカー、ヴィッカース-アームストロング(スピットファイアのメーカー、スーパーマリンを傘下に持つ)に任せられる。
第2次大戦後、カースル・ブロムウィッチ工場はフィッシャー&ラドロウの所有となる。この会社は自動車メーカーにボデイを供給していたが、その一社がモーリスであり、アレック・イシゴニスの傑作、モーリス・マイナーのボデイはカースル・ブロムウイッチ製であった。イギリスの民族系メーカーの大同団結体BMCの編成で、フィッシャー&ラドロウは同グループに入る。BMC発展体のBL時期にジャガーの主力工場となる。ジャガーのオーナーは、最近フォードからインドのタタに変わったのはご存知の通り。工場見学中、面白い看板を見た。ボンネット組み立て部門の名称が
『Hood Assembly』、案内してくれたベテランが「あれはアメリカ人が来て変えた名残ですよ」英語でボンネットが米語ではフッドである。
スピットファイアとは「火を吐く」という語源だが、気性の激しい人―とくに女性―の形容でもある。火を吐く女性、レデイ・ルーシー・フウストンは、戦闘機スピットフィアに至るスーパーマリンのレース機開発に物心ともに大きな貢献をした人物である。ファニー・ルーシー・ラドミルは、”ポピー“なる芸名コーラスガールだった。16歳の時、32歳のビールで有名なバス醸造会社一族の男性とパリに駆け落ちしたが、生涯続く手切れ金を獲得した上で別れる。サー(騎士)をもつ大佐、男爵銀行家、もう一人のサー(この人がフウストン)と3度の結婚をする。彼女自身、第1次世界大戦中の看護婦に対する支援を認められデイム(サーに相当する女性称号)を授与される。
レデイ・フウストン(テキサスの都市と同じ綴りだが、読み方がちがう)は、たいへん気性の激しい人だった。ゴシップ欄以外で彼女を有名にしたのが、1913年から31年まで開催された水上機速度レース、通称“シュナイダー・トロフィー”であった。1927年と29年レースでは、イギリス政府が支援し、空軍パイロットの操縦するスーパーマリン機が優勝した。ところが31年レースに際し、時の労働党政府、軍は一切の援助どころか、航空機の使用、パイロットの参加さえ禁じた。そこでレデイ・フウストンが火を吐いた。「ロイヤル・エアロ・クラブが提供する資金で足りぬ分は私が負担する」と大見得を切り、同時にメデイア上で政府攻撃の火ぶたを切った。これには首相も参り、ついには支援せざるをえなくなる。1931年のウイナー、スーパーマリンS.6Bから戦闘機スピットファイアが生まれ、レースのためにロールスロイスがチューンしたRタイプ・エンジンがマーリンV12に発達した。当時のロールスロイス首脳は、シュナイダー・トロフィー参加により、通常であれば
10年かかる開発を2年で達成することができたと語っている。火を吐くレデイの功績だ。
1929年のシュナイダー・トロフィー水上機レース・プログラム
スーパーマリンS.6Bからスピットファイア戦闘機が生まれる
2008/9/18 16:27
おやじブログ アレックス・モールトン博士の足跡と近況 その2 クルマ
第2次大戦中、ブリストル航空機会社には、航空エンジニアに加え、自動車産業からも多くのエンジニアが参集した。とくにレーシングカー分野の有名、勇名人が集まり、技術梁山泊状態であったらしい。
ーアレックス・モールトン(ゴメンナサイ、イシゴニスと書いてしまいました)の前任者でドイツ空爆により亡くなったエイドリアン・スクアイアは、自らのスクアイア・スポーツカーを開発製作し人物だ。
ーフィル・アーヴィングはHRDヴィンセント・モーターサイクルのエンジン設計者で、戦後の3リッタ−F1時期にジャック・ブラバムのためにV8を設計製作し、ワールドチャンピオンシップをもたらした。彼はジャーナリストでもあり、私のMOTOR誌寄稿時代には、ロンドンのテンプルプレス編集部でわいわいがやがややったものだ。
ーフランシス・ベアートは、ノートン・マンクスの名チューナー。
ーセントーラス・エンジンのテスト部門の責任者、R.R. ジャクソンは、ブルックランズ・レースの猛者。同じく高空における気化器性能向上担当だったシールズ嬢は、ブルックランズで女性としてはじめて100mphを超え、ゴールドスター賞を得たレーシングドライバーであった。アレックス、改良型オイルポンプのデモをやっていて、パイプが抜け、女史に頭からオイルを浴びせたという。
ーゴードン・ウイルキンスは、のちにイギリスのジャーナリスト大御所となった。カー・オヴ・ジ・センチュリーの名誉審査員のひとりであった。
ーピ−ター・ウエアは、ロイ・フェデンの後を追い、ブリストルを辞めてフェデンカー開発を進めた。
いまや、イギリスには民族系大メーカーはなくなった。しかし、自動車エンジニアリングは健在であり、卓越した人材を輩出している。F1をはじめ、レーシングカー産業を担っているのはイギリス人エンジニアであり、スタイリングの分野でもイギリス人メーカー・ディレクター、チーフエンジニアは多い。アレックス・モールトンは、イギリスの大いなる財産は、英語と技術であると告げる。
第2次大戦後、モールトンは、一時家業のゴム製品製造業に戻るが、技術は基本こそ肝要であると考え、ケンブリッジに復学、学位を取得する。卒業後、家業に戻り、経営陣に研究開発部門の創設を提案し、自ら部門の長となる。この時期、モーリス社は傑作小型車”マイナー”を発表し、大成功を収める。モールトンは、マイナーのチーフエンジニア、アレック・イシゴニスの業績に感銘を受け、伝手を通じ知己を得た。ふたりは、意気投合した。アレックス・モールトン34歳であり、「私が幸運にも得たふたりの技術の師のひとり」と語る。他の一人は、もちろんサー・ロイ・フェデンであった。
モールトンは、鉄道車両ボギー、軍用小型トレーラー、4駆車用ラバースプリングを開発した。イシゴニスは、好奇心がすこぶる旺盛で、モールトンがボギー案を見せると、さっそく彼自身のスケッチを描く(アレックス、「うまく作動しないだろうがね」)。後年、アレックスが小径車輪自転車を開発しようと話すと、モノコック車体を描いた。
イギリス自動車産業再編期、モーリスを併合したBMCが生まれる。イシゴニスは、自らのチーフエンジニアとしての地位が脅かされると、アルヴィス社に移った。そこでV8エンジン搭載サルーンを設計開発するが、モールトンのラバー/流体連結スプリングを用いたサスペンションを採用した。このアルヴィス・プロトタイプの写真が最近発掘されたが、いま入手すべく所有団体に依頼しているところ。
イシゴニスがBMCに復帰して設計開発したのがADO15 "MINI"である。サスペンションには、モールトンのラバーコーン・スプリングを用いたのはご存知の通り。
後年、モールトンは少年期から情熱を燃やしていた蒸気エンジン自動車を構想した。イシゴニスは、またまた「私がボデイデザインをやってやろう」と描いたのは、下のスケッチである。イシゴニス自身も、開発の本流から外された時期、蒸気エンジンMINIをやっていた。イシゴニス自邸には、インドア、アウトドア(壁にトンネルを開けて!)の模型鉄道のレールが敷かれ、蒸気機関車を走らせていた。

蒸気機関に希望を抱いていた時期のアレックス・モールトンの3気筒蒸気エンジン、前輪駆動車のコンセプトスケッチ。マクラーレンM1のようにセンタードライビングポジションのセダンを意図していた。

「君のコンセプトカーのデザインは、私に任せろ」と設計エンジニアのサー・アレック・イシゴニスが描いたスタイリングスケッチ。ミニなどADO系の角張ったデザインとは対照的なエアロルックスである。右下のAIはイシゴニスのイニシアル。

モールトン邸The HallのWhite Roomで歓談するサー・アレック・イシゴニスとアレックス・モールトン。

いまのWhite Room。ホームシアターがあり、夕食後、"ホイスキー”を飲みながら、アレックスとの歓談が楽しみな部屋。滞在中、時間があると書棚の本を斜め読みする。今回の収穫は、ヴィクトリア時代の偉大なエンジニア、ブルンネルのフォト伝記だった。
ーアレックス・モールトン(ゴメンナサイ、イシゴニスと書いてしまいました)の前任者でドイツ空爆により亡くなったエイドリアン・スクアイアは、自らのスクアイア・スポーツカーを開発製作し人物だ。
ーフィル・アーヴィングはHRDヴィンセント・モーターサイクルのエンジン設計者で、戦後の3リッタ−F1時期にジャック・ブラバムのためにV8を設計製作し、ワールドチャンピオンシップをもたらした。彼はジャーナリストでもあり、私のMOTOR誌寄稿時代には、ロンドンのテンプルプレス編集部でわいわいがやがややったものだ。
ーフランシス・ベアートは、ノートン・マンクスの名チューナー。
ーセントーラス・エンジンのテスト部門の責任者、R.R. ジャクソンは、ブルックランズ・レースの猛者。同じく高空における気化器性能向上担当だったシールズ嬢は、ブルックランズで女性としてはじめて100mphを超え、ゴールドスター賞を得たレーシングドライバーであった。アレックス、改良型オイルポンプのデモをやっていて、パイプが抜け、女史に頭からオイルを浴びせたという。
ーゴードン・ウイルキンスは、のちにイギリスのジャーナリスト大御所となった。カー・オヴ・ジ・センチュリーの名誉審査員のひとりであった。
ーピ−ター・ウエアは、ロイ・フェデンの後を追い、ブリストルを辞めてフェデンカー開発を進めた。
いまや、イギリスには民族系大メーカーはなくなった。しかし、自動車エンジニアリングは健在であり、卓越した人材を輩出している。F1をはじめ、レーシングカー産業を担っているのはイギリス人エンジニアであり、スタイリングの分野でもイギリス人メーカー・ディレクター、チーフエンジニアは多い。アレックス・モールトンは、イギリスの大いなる財産は、英語と技術であると告げる。
第2次大戦後、モールトンは、一時家業のゴム製品製造業に戻るが、技術は基本こそ肝要であると考え、ケンブリッジに復学、学位を取得する。卒業後、家業に戻り、経営陣に研究開発部門の創設を提案し、自ら部門の長となる。この時期、モーリス社は傑作小型車”マイナー”を発表し、大成功を収める。モールトンは、マイナーのチーフエンジニア、アレック・イシゴニスの業績に感銘を受け、伝手を通じ知己を得た。ふたりは、意気投合した。アレックス・モールトン34歳であり、「私が幸運にも得たふたりの技術の師のひとり」と語る。他の一人は、もちろんサー・ロイ・フェデンであった。
モールトンは、鉄道車両ボギー、軍用小型トレーラー、4駆車用ラバースプリングを開発した。イシゴニスは、好奇心がすこぶる旺盛で、モールトンがボギー案を見せると、さっそく彼自身のスケッチを描く(アレックス、「うまく作動しないだろうがね」)。後年、アレックスが小径車輪自転車を開発しようと話すと、モノコック車体を描いた。
イギリス自動車産業再編期、モーリスを併合したBMCが生まれる。イシゴニスは、自らのチーフエンジニアとしての地位が脅かされると、アルヴィス社に移った。そこでV8エンジン搭載サルーンを設計開発するが、モールトンのラバー/流体連結スプリングを用いたサスペンションを採用した。このアルヴィス・プロトタイプの写真が最近発掘されたが、いま入手すべく所有団体に依頼しているところ。
イシゴニスがBMCに復帰して設計開発したのがADO15 "MINI"である。サスペンションには、モールトンのラバーコーン・スプリングを用いたのはご存知の通り。
後年、モールトンは少年期から情熱を燃やしていた蒸気エンジン自動車を構想した。イシゴニスは、またまた「私がボデイデザインをやってやろう」と描いたのは、下のスケッチである。イシゴニス自身も、開発の本流から外された時期、蒸気エンジンMINIをやっていた。イシゴニス自邸には、インドア、アウトドア(壁にトンネルを開けて!)の模型鉄道のレールが敷かれ、蒸気機関車を走らせていた。
蒸気機関に希望を抱いていた時期のアレックス・モールトンの3気筒蒸気エンジン、前輪駆動車のコンセプトスケッチ。マクラーレンM1のようにセンタードライビングポジションのセダンを意図していた。
「君のコンセプトカーのデザインは、私に任せろ」と設計エンジニアのサー・アレック・イシゴニスが描いたスタイリングスケッチ。ミニなどADO系の角張ったデザインとは対照的なエアロルックスである。右下のAIはイシゴニスのイニシアル。
モールトン邸The HallのWhite Roomで歓談するサー・アレック・イシゴニスとアレックス・モールトン。
いまのWhite Room。ホームシアターがあり、夕食後、"ホイスキー”を飲みながら、アレックスとの歓談が楽しみな部屋。滞在中、時間があると書棚の本を斜め読みする。今回の収穫は、ヴィクトリア時代の偉大なエンジニア、ブルンネルのフォト伝記だった。
2008/9/15 23:23
おやじブログ アレックス・モールトン博士の足跡と近況 その1 自転車
モールトン博士の邸宅、研究室、工房のあるブラッドフォード・オン.エイヴォンで開催された恒例のモールトン・バイシクル・ウイークエンドに集まったファンたちに挨拶するモールトン博士

モールトンとハシュレイの共同事業モールトン・バイシクル社の紹介と次期プロトタイプの発表するモールトン博士(左からふたりめ)、ひとり置いて実務担当役員のショーン・モールトン、パシュレイ経営者のエイドリアン・ウイリアムス。台上がパシュレーで製作する新型車のプロトタイップ。シートポストのユニオンジャック旗パターン。

アレックス・モールトン博士は、自動車では原型ミニからローバー100までのラバー、液体封入、液体/ガス封入サスペンション・スプリング/ダンパー、自転車では小径車輪モールトン車で知られている。技術者としての生涯、家業である鉄道向けのゴム製品会社の研究部長時期以外は、大メーカーに属さず、独立した“革新するエンジニア”を貫いてきた。
モールトン自転車は、自邸敷地にある工房で製作する高性能、高価格モデル、AMとNSシリーズ、そしてストラトフォード・アポン・エイヴォンの英国老舗で現在唯一の自転車生産販売メーカーとなったパシュレー社が製作するAPBから発展したモデルで、いずれも小径鋼管のスペースフレームを採用している。加えて、日本のブリジストン・サイクルとモールトン博士の共同開発、ブリジストン生産のブリジストン・モールトンBSMシリーズがある。
モールトンとパシュレーは、今年6月、共同出資会社The Moulton Bicycle Companyを設立した。モールトン工房の製作台数はごく少数であり、これ以上の拡販派望めない。そこで両社の力を合わせて、小径自転車市場に置ける地位をさらに確たるものにするというのが、設立の趣旨だ。モールトン博士は社長であるが、研究開発に専念する。甥のショーン・モールトンが総支配人として販売など実務に当たる。ブラッドフォードの工房は、従来通り、AM、NS、そして将来モデルを手造りする。
今年のモールトン・バイシクル・クラブ・ミーテイングでは、モールトン博士、ショーン、そしてパシュレーのエイドリアン・ウイリアムスがパシュレーで生産する新型プロトタイプを披露した。ユニオンジャックをパターン化してシートポストチューブに貼付けたスポーテイィなモデルとなる。
パシュレーとは、どういうメーカーか。創業80年のイギリス唯一の自転車生産メーカーであり、製品は多岐にわたる。第2次世界大戦中、イギリスの空挺部隊はヨーロッパ大陸侵攻の際、パシュレー製自転車を降下し、オランダの平原を走破した。このダブルクレードル・フレーム・モデルは、いまも“パラマウント”名で生産している。たいへん魅力的な26インチ径ホイール車だ。実用車では、ロイヤルメール郵便配達用に丈夫な専用モデルを供給している。
もともと家族企業であったが、末裔どもはできがよくなかったらしく、経営危機に陥っていた。買収し再建したのがエイドリアン・ウイリアムスという経営者で、この数年の業績はいいと聞いた。
パシュレーの工場では、モールトン博士が貸与したスペースフレーム溶接を含むジグを用いてモールトン・シリーズを製作している。
これがモールトン自転車の近況である。
ほとんど年1度は、モールトン博士を訪ね、技術から政治まで話しをするのを楽しみにしている。今年は、アレックスと英独ふたりの知人との会話となったが、私の「去年の首相、今年の首相、来年の首相」なる日本の政治話はおおいに受けていた。これほど頻繁に変わるのは稀な出来事なのだ。「よくやってるね」「ヘーッ!」福田首相の言葉を借りると、国際的にたいへん恥ずかしいことだ。
自動車サスペンション、自転車では知る人も多いが、モールトン博士の青年期から壮年期の研究開発に航空機エンジンと蒸気機関がある。今回は、その探索もした。彼がケンブリッジ大学2年の時、第2次世界大戦が勃発した。空軍志願したが、技術専攻学生であることが判ると、自宅待機を命じられた。これが日本軍と違うところで、英政府は戦時中でも人材を大切にしたことがわかる。しかし、いてもたっても居られぬ若き日のアレックスは、伝手を頼り(これも英国的だ)ブリストル航空機会社のエンジン担当チーフエンジニアと面接、その場で見習いエンジニアとして雇われた。
ところがブリストルがドイツ空軍の大爆撃に襲われ、チーフエンジニアのアシスタントが死亡した。後任に選ばれたのが21歳のアレックスだった。ブリストル航空の神のごときチーフエンジニア、サー・ロイ・フェデンは、アレックスにとり技術の最高の師となった。フェデンの最新エンジン、セントーラス空冷星型18気筒についてのアレックスの分析は、とても21歳の青年とは思えない詳細かつ正確なものだ。「いや、サー・ロイの指令といえば、部内のエンジニア全員が微に入り細にわたり教えてくれたおかげだよ」サー・ロイ・フェデンは、第2次大戦終結後の事業として、乗用車開発を開始した。プロトタイプは実走までいったが、航空エンジンと同型式のスリーブバルブ星型3気筒なるユニークなものだった。結局、このプロジェクトは失敗する。
ロイ・フェデンは、非常に気性の激しい人で、経営トップと衝突し、戦時中、それも最新エンジン開発中にもかかわらずクビになってしまう。
(つづく)

21歳のアレックス・モールトンはブリストル航空機会社のエンジン担当チーフエンジニア、サー・ロイ・フェデンのアシスタントとして空冷星型18気筒セントーラス・エンジンの開発に携わった

ロイ・フェデンは終戦直前、戦後の自動車製作を目指し、フェデンカーの設計試作をしたが、結実はしなかった。
モールトンとハシュレイの共同事業モールトン・バイシクル社の紹介と次期プロトタイプの発表するモールトン博士(左からふたりめ)、ひとり置いて実務担当役員のショーン・モールトン、パシュレイ経営者のエイドリアン・ウイリアムス。台上がパシュレーで製作する新型車のプロトタイップ。シートポストのユニオンジャック旗パターン。
アレックス・モールトン博士は、自動車では原型ミニからローバー100までのラバー、液体封入、液体/ガス封入サスペンション・スプリング/ダンパー、自転車では小径車輪モールトン車で知られている。技術者としての生涯、家業である鉄道向けのゴム製品会社の研究部長時期以外は、大メーカーに属さず、独立した“革新するエンジニア”を貫いてきた。
モールトン自転車は、自邸敷地にある工房で製作する高性能、高価格モデル、AMとNSシリーズ、そしてストラトフォード・アポン・エイヴォンの英国老舗で現在唯一の自転車生産販売メーカーとなったパシュレー社が製作するAPBから発展したモデルで、いずれも小径鋼管のスペースフレームを採用している。加えて、日本のブリジストン・サイクルとモールトン博士の共同開発、ブリジストン生産のブリジストン・モールトンBSMシリーズがある。
モールトンとパシュレーは、今年6月、共同出資会社The Moulton Bicycle Companyを設立した。モールトン工房の製作台数はごく少数であり、これ以上の拡販派望めない。そこで両社の力を合わせて、小径自転車市場に置ける地位をさらに確たるものにするというのが、設立の趣旨だ。モールトン博士は社長であるが、研究開発に専念する。甥のショーン・モールトンが総支配人として販売など実務に当たる。ブラッドフォードの工房は、従来通り、AM、NS、そして将来モデルを手造りする。
今年のモールトン・バイシクル・クラブ・ミーテイングでは、モールトン博士、ショーン、そしてパシュレーのエイドリアン・ウイリアムスがパシュレーで生産する新型プロトタイプを披露した。ユニオンジャックをパターン化してシートポストチューブに貼付けたスポーテイィなモデルとなる。
パシュレーとは、どういうメーカーか。創業80年のイギリス唯一の自転車生産メーカーであり、製品は多岐にわたる。第2次世界大戦中、イギリスの空挺部隊はヨーロッパ大陸侵攻の際、パシュレー製自転車を降下し、オランダの平原を走破した。このダブルクレードル・フレーム・モデルは、いまも“パラマウント”名で生産している。たいへん魅力的な26インチ径ホイール車だ。実用車では、ロイヤルメール郵便配達用に丈夫な専用モデルを供給している。
もともと家族企業であったが、末裔どもはできがよくなかったらしく、経営危機に陥っていた。買収し再建したのがエイドリアン・ウイリアムスという経営者で、この数年の業績はいいと聞いた。
パシュレーの工場では、モールトン博士が貸与したスペースフレーム溶接を含むジグを用いてモールトン・シリーズを製作している。
これがモールトン自転車の近況である。
ほとんど年1度は、モールトン博士を訪ね、技術から政治まで話しをするのを楽しみにしている。今年は、アレックスと英独ふたりの知人との会話となったが、私の「去年の首相、今年の首相、来年の首相」なる日本の政治話はおおいに受けていた。これほど頻繁に変わるのは稀な出来事なのだ。「よくやってるね」「ヘーッ!」福田首相の言葉を借りると、国際的にたいへん恥ずかしいことだ。
自動車サスペンション、自転車では知る人も多いが、モールトン博士の青年期から壮年期の研究開発に航空機エンジンと蒸気機関がある。今回は、その探索もした。彼がケンブリッジ大学2年の時、第2次世界大戦が勃発した。空軍志願したが、技術専攻学生であることが判ると、自宅待機を命じられた。これが日本軍と違うところで、英政府は戦時中でも人材を大切にしたことがわかる。しかし、いてもたっても居られぬ若き日のアレックスは、伝手を頼り(これも英国的だ)ブリストル航空機会社のエンジン担当チーフエンジニアと面接、その場で見習いエンジニアとして雇われた。
ところがブリストルがドイツ空軍の大爆撃に襲われ、チーフエンジニアのアシスタントが死亡した。後任に選ばれたのが21歳のアレックスだった。ブリストル航空の神のごときチーフエンジニア、サー・ロイ・フェデンは、アレックスにとり技術の最高の師となった。フェデンの最新エンジン、セントーラス空冷星型18気筒についてのアレックスの分析は、とても21歳の青年とは思えない詳細かつ正確なものだ。「いや、サー・ロイの指令といえば、部内のエンジニア全員が微に入り細にわたり教えてくれたおかげだよ」サー・ロイ・フェデンは、第2次大戦終結後の事業として、乗用車開発を開始した。プロトタイプは実走までいったが、航空エンジンと同型式のスリーブバルブ星型3気筒なるユニークなものだった。結局、このプロジェクトは失敗する。
ロイ・フェデンは、非常に気性の激しい人で、経営トップと衝突し、戦時中、それも最新エンジン開発中にもかかわらずクビになってしまう。
(つづく)
21歳のアレックス・モールトンはブリストル航空機会社のエンジン担当チーフエンジニア、サー・ロイ・フェデンのアシスタントとして空冷星型18気筒セントーラス・エンジンの開発に携わった
ロイ・フェデンは終戦直前、戦後の自動車製作を目指し、フェデンカーの設計試作をしたが、結実はしなかった。
2008/9/11 16:07
おやじブログ ー ムカシ風ひとりイギリス旅 1 旅行
広大な敷地の中の見張り塔まであるホテルは、ホンダの所有で、日本料理レストランがある

モールトン・バイシクル週末ツアリングに出かけるアレックス・モールトン博士

10日間ご無沙汰してしまった。洋風にいうと『もの書き屋のブロック』症候でサイショの一行が書き出せなかった原稿を終えて、すぐ旅に出た。原点に戻るかと、駆け出し時代のように探究のひとり旅をやった。目的はある。懸案の旧友アレックス・モールトン博士の生い立ち、人柄、業績を記す本の企画だ。9月5〜7日の週末は、恒例のアレックス・モールトン・ウイークエンドの集まりが博士の自宅、工房である荘園で開催された。彼の85歳記念行事以来、行っていないので、今年はそれに合わせて計画したというわけだ。
まずは何処に行き、何をし、見聞きしたか。ヴァージン・アトランティック航空でロンドン往復をやった。燃料サーチャージ57,000円は時代のキビシさ。年一くらいは乗っているが、これほど空いていた便ははじめて。ヒースロウ空港ではジャガー広報部がXF ディーゼルを持って来てくれた。600km以上の行程なので、ネンピ優先の選択。日本では、販売の予定がない車種だが、こころよく提供してくれた。大雨、M4高速道路の渋滞、典型的田園道路の走りなど、あまり条件がよくなかったが、平均12km/Lはリッパ。
ヒースロウ空港到着が午後だったので、のんびりいくかと途中一泊。ほどほどのところと、M4からさして離れていないブランストンのホテルをインターネットで予約した。すべて高騰しているイギリスでも、ホテルはかなりディスカウントするので、一泊1万円弱。ところがチェックインすると、まわりにやらたに日本人が多く、男性ばかり。そこで思い出した。ここで食事をしたことがあった。なんとホンダが所有しているホテルなのだ。レストランは日本料理で、夕食は天ぷらソバで軽くすませた。まわりを見ると白人。土地の人たちだろう。
週末はアレックス、友人たちとしゃべり、食べ、おおいにウイークエンドを楽しんだが、ちゃんと彼の業績記録をリサーチし、広大な邸宅内の研究室を探索した。何度も訪れているのだが、すべての部屋は知らない。今回も、アレックスは、彼がかつて研究製作した蒸気エンジンを見せてくれた。そこは地下室で、隣に初期自転車のプロトがゴロゴロ転がっていた。その中にエンジンアシストがあったのはびっくり。アレックス、「こいつ、なんだけな。うまくいかなかったと思うよ」その後も電動アシストを試作したが、人力から離れるのは本体の自転車ではないと中止した。
日曜日、アレックスは、自転車クラブメンバーとのサイクリングに出かけていった。とても88歳とは思えない速度でとんでいった。私は、彼が21歳の時、ブリストル航空機会社のエンジン設計チーフエンジニアのアシスタントとして開発に加わったセントーラス空冷星型18気筒エンジンの実物を見に、ブリストル・エアロ・コレクションを訪ねた。そこからバーミンガムに向かい一泊。
翌日8日月曜日はジャガーのカースル・ブロムウイッチ工場でXFの生産工場を見学し、エルス工場長に話を聞いた。この日は、英国政府閣僚がロンドンを離れ、バーミンガムではじめての閣僚会議を行った。工場前は警察のレンジローバーとBMWモーターサイクル、警官だらけ。閣僚は分散して工業都市バーミンガムの数カ所を視察したのだが、ジャガーにはブラウン首相が来たのだそうだ。
バーミンガムからはヴァージン・トレインズでロンドンへ。ヴァージン・グループは、たいへん興味ある企業体で、できるだけ交通部門を探索したかったのがだ、打率は半分。次かその次に
記そう。そう、「Dear Sir Richard」なる会長あての英文手紙を添えて。ロンドン・ユーストン駅からナイツブリッジのホテルまでは地下鉄を使ったが、2、3カ所で故障が起き、運転休止をアナウンスしていたのは、いまも変わっていない。私の乗ったピカデリーラインは、他の路線のどことかで乗客が緊急ボタンを押したかで、しばらく駅で立ち往生。夜は、これも60年代からかわらないロイヤル・アルバート・ホール恒例のプロムス・コンサートへ。シカゴ・シンフォニーのマーラー第6は圧倒的迫力だった。

モールトン博士が一時熱意を燃やしていた蒸気エンジン。石炭を使う限り、将来なしと中止した。
ロイヤル・アルバート・ホールのBBCプロム・コンサート。フロア中央は、椅子席はない。ムカシはあぐらをかいて聴いたが、いまは皆立っているのは人気ゆえか(開演前なので写真撮影は禁じられていない)
モールトン・バイシクル週末ツアリングに出かけるアレックス・モールトン博士
10日間ご無沙汰してしまった。洋風にいうと『もの書き屋のブロック』症候でサイショの一行が書き出せなかった原稿を終えて、すぐ旅に出た。原点に戻るかと、駆け出し時代のように探究のひとり旅をやった。目的はある。懸案の旧友アレックス・モールトン博士の生い立ち、人柄、業績を記す本の企画だ。9月5〜7日の週末は、恒例のアレックス・モールトン・ウイークエンドの集まりが博士の自宅、工房である荘園で開催された。彼の85歳記念行事以来、行っていないので、今年はそれに合わせて計画したというわけだ。
まずは何処に行き、何をし、見聞きしたか。ヴァージン・アトランティック航空でロンドン往復をやった。燃料サーチャージ57,000円は時代のキビシさ。年一くらいは乗っているが、これほど空いていた便ははじめて。ヒースロウ空港ではジャガー広報部がXF ディーゼルを持って来てくれた。600km以上の行程なので、ネンピ優先の選択。日本では、販売の予定がない車種だが、こころよく提供してくれた。大雨、M4高速道路の渋滞、典型的田園道路の走りなど、あまり条件がよくなかったが、平均12km/Lはリッパ。
ヒースロウ空港到着が午後だったので、のんびりいくかと途中一泊。ほどほどのところと、M4からさして離れていないブランストンのホテルをインターネットで予約した。すべて高騰しているイギリスでも、ホテルはかなりディスカウントするので、一泊1万円弱。ところがチェックインすると、まわりにやらたに日本人が多く、男性ばかり。そこで思い出した。ここで食事をしたことがあった。なんとホンダが所有しているホテルなのだ。レストランは日本料理で、夕食は天ぷらソバで軽くすませた。まわりを見ると白人。土地の人たちだろう。
週末はアレックス、友人たちとしゃべり、食べ、おおいにウイークエンドを楽しんだが、ちゃんと彼の業績記録をリサーチし、広大な邸宅内の研究室を探索した。何度も訪れているのだが、すべての部屋は知らない。今回も、アレックスは、彼がかつて研究製作した蒸気エンジンを見せてくれた。そこは地下室で、隣に初期自転車のプロトがゴロゴロ転がっていた。その中にエンジンアシストがあったのはびっくり。アレックス、「こいつ、なんだけな。うまくいかなかったと思うよ」その後も電動アシストを試作したが、人力から離れるのは本体の自転車ではないと中止した。
日曜日、アレックスは、自転車クラブメンバーとのサイクリングに出かけていった。とても88歳とは思えない速度でとんでいった。私は、彼が21歳の時、ブリストル航空機会社のエンジン設計チーフエンジニアのアシスタントとして開発に加わったセントーラス空冷星型18気筒エンジンの実物を見に、ブリストル・エアロ・コレクションを訪ねた。そこからバーミンガムに向かい一泊。
翌日8日月曜日はジャガーのカースル・ブロムウイッチ工場でXFの生産工場を見学し、エルス工場長に話を聞いた。この日は、英国政府閣僚がロンドンを離れ、バーミンガムではじめての閣僚会議を行った。工場前は警察のレンジローバーとBMWモーターサイクル、警官だらけ。閣僚は分散して工業都市バーミンガムの数カ所を視察したのだが、ジャガーにはブラウン首相が来たのだそうだ。
バーミンガムからはヴァージン・トレインズでロンドンへ。ヴァージン・グループは、たいへん興味ある企業体で、できるだけ交通部門を探索したかったのがだ、打率は半分。次かその次に
記そう。そう、「Dear Sir Richard」なる会長あての英文手紙を添えて。ロンドン・ユーストン駅からナイツブリッジのホテルまでは地下鉄を使ったが、2、3カ所で故障が起き、運転休止をアナウンスしていたのは、いまも変わっていない。私の乗ったピカデリーラインは、他の路線のどことかで乗客が緊急ボタンを押したかで、しばらく駅で立ち往生。夜は、これも60年代からかわらないロイヤル・アルバート・ホール恒例のプロムス・コンサートへ。シカゴ・シンフォニーのマーラー第6は圧倒的迫力だった。
モールトン博士が一時熱意を燃やしていた蒸気エンジン。石炭を使う限り、将来なしと中止した。



