2008/10/13  15:48

竹の箸 memior - クルマとクルマ 1 モールトン  クルマ

1973年、はじめてアレックス・モールトンを訪れた時の試乗車3台。左からプロト・ハイドラガス装着MINI クーパーS、ヨーロッパ仕様シビック、ハイドロラスティック1300。
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「これでサスペンションがついていれば、いいクルマだがなア』シビックを論じるアレックス・モールトン博士。たしかにヨーロッパ仕様のサスはガチガチに硬めてあった。
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このブログのカテゴリーには、『クルマ』と『自転車』の分類がある。自動車と人動車は両方ともクルマだな。

アレックス・モールトンを訪ねるきっかけは、BMCのミニに続く1100のハイドロラスティック・サスペンションの乗り心地とハンドリングにいたく感心したからだ。

在英中、発表されたばかりの1100の試乗に出かけた。アテンドしてくれたケン・レヴィス広報部員は、第2次大戦従軍の負傷で全盲になった人。彼は市街地から小高い丘のオフロードコースまで、正確に道筋を指示してくれた。丘の上で会ったのがイギリスの有名なジャーナリスト、故ディヴィド・ベンソン。雲つくような大男、ディヴィドが楽々1100に収まった。オフロードといっても草原だったが、1100の乗り心地のよさには驚嘆した。

試乗が終わると、ケンは「本社に戻りましょう。アレック・イシゴニスに会う手筈をしています」びっくりした。モーリス社時代のマイナー、BMCのMINI、1100などの生みの親で、すでに次期モデルの設計開発に大多忙のイシゴニスが会ってくれるという幸運に恵まれた。幼年期、ギリシャから移民してきたイシゴニスであるが、きれいなクイーンズ・イングリッシュを話した。イギリス人は、話す言葉で生まれ育ちが判る。のちにアレックス・モールトンにイシゴニスはオックスブリッジ(オックスフォードとケンブリッジ大学)出身ではないのに、あの素晴らしい英語はどうやってと
聞いた。「彼の母親は、非常に教育熱心で、正統英語を話しユーモアのセンスのある家庭教師をつけたのだよ。イシゴニスのからめのユーモアは天下一品だった」

さて、アレックス・モールトンを最初に訪れたのは1973年。発表されたばかりのシビックでヨーロッパ旅行をした折であった。彼が自動車サス、自転車開発に使っていた旧英空軍基地の滑走路でハイドロラステック1100、未発表のハイドラガスMINIクーパーS(後者は健在である)とシビックを比較試乗した。ハイドラガスMINIの乗り心地とハンドリングには驚嘆した。アレックスのヨーロッパ仕様シビック評、「これでサスペンションがついていれば、たいへんいいクルマだがね」!

モールトン邸で『発見』したのが、もう一種のクルマ、彼の小径車輪自転車のプロトタイプと部品の山だった。当時、第2世代Fフレーム(アルファベットのFの形状)モデルMk3を製造販売していた大手自転車メーカー、ラレーとの関係が冷却していた。翌年には、生産中止となり、ラレーとの関係は終わる。

翌74年のアレックス・モールトン再度訪問の主な目的は、BLとなっていた民族系メーカーの新型車オースティン・アレグロの試乗印象とディスカッションだった。モールトン・ハイドラガスなる最新液体/ガス封入の前後連結サスには大いに期待していたが、イギリスの試乗では乗り心地、ハンドリングに失望した。どうなっているのかをアレックスに問うた。彼、苦い顔をして、「あれは、新経営陣のコスト低減の指示で、設計陣がMINI/1300の大型フロント・サブフレームを止め、直付けした。その結果、4気筒エンジンとサスのバネ/ダンピングが共振を起こした。妥協を余儀なくされたのがサスペンション側だったのだ。」

その時、アレックスは、Mk3自転車のラレー最終生産分から10台を引き取り持っていた。、私、懇願して1台を分けてもらい、手荷物として持ち帰った。2、3年前にフルレストアしたが、やりすぎてフロントフォークスリーヴまでメッキをかけ、操舵が重くなっていた。最近、モールトン名チューナー、Koowhoの”ドクター”永井に調整していただき、タイアもモールトン自転車生産型メーカー、パシュレーのエンジニア・ダンの見つけてくれたシュワルブにつけかえ、街乗りラナバウトとして常用している。

東京路地裏住まいでは自動車は1台しか持てないが、自転車は複数可能。仕事部屋にはモールトンMk 3, '74年型シリーズ1、パシュレー製APB (モールトン・サス最後の生産車MGFのイギリス試乗の際に買った)、そしてブリジストン共同開発BS179の4台が同居している。


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1974年型、最後のMk 3

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