2008/11/16 17:55
おやじブログ ブリストル クルマ
川上完さんのブリストル406。見る度にきれいになり、外装アクセサリーがオーセンティックになる。フロントフェンダーの大英帝国空軍の円盤形エンブレムは、ノンスタンダード

これはBMWミュージアムの素晴らしいBMW328

大磯プリンス・ホテルで開催された2008/2009日本カーオフザイヤー選考イベントで再会したのが自動車、飛行機、etcもの識り博士、川上完さんのブリストル406。見る度にきれいになっていくのは、レアものクラシックカー・オーナー共通現象かな。
さてブリストル・エアロコレクション展示で半分期待していたのは、第2次大戦後のブリストル・400シリーズ車か、少なくとも直6エンジンであったが、これはなかった。多分コレクターズ・アイテムであり、小規模な財団経営のコレクションでは入手がむつかしいか、あるいは第2次大戦の敵国ドイツのBMW設計を基本としているので避けたのかな・・・は勝手な想像の域を出ない。戦前のBMW ・300シリーズの326シャシー、327ボデイとスポーツタイプ328のエンジンなる最良のコンビをBMWのチーフエンジニア・フリッツ・フィードラーを招き設計製作したのがブリストル400であった。BMWの戦前300、ブリストルの400、そして自動車生産を再開したBMW高級/高性能シリーズが500なのは、フィードラーの主張という説が有力だ。ちなみに川上さんのクルマは406だ。
BMW328直6のブリストル版は、ブリストルに加え、AC社のAceとクーペ型Aceca(AC社で試乗した際の発音は”アシーカ”)そしてクーパーのフォーミュラ・レーシングカーに用いられた。国際モータースポーツ元締めFIAの1950~87年のF1グランプリ記録によるとブリストル・エンジン車は17戦に出場している。
エアロ・コレクションには、何台かが現存する401も、完さんの406もなかったが、興味ある写真パネルを数枚と道路補修トラック、市電の実物が展示されていた。航空機、エンジン製造会社ブリストルも第1次世界大戦が終わり、軍需が先細りになると生計のために乗用車ボデイと市電車両を生産した1920年代の写真、そしてブリストル空冷星形エンジン設計で有名なチーフエンジニア、ロイ・フェデンのブリストル以前のストレイカー・スクアイア時代に設計した自動車とエンジン写真は興味があった。空冷、スリーヴバルブ、星形の頑な信奉者といわれるフェデンもはじめの頃は水冷、キノコ形サイドバルブ、直列エンジンを開発していた。

第1次大戦後、1920年頃のブリストル・フィルトン工場では、軍用機ではなく乗用車、市電のボデイを生産していた。そのかたわら、ほそぼそとF2B戦闘機の改装を続けていたというが、この写真には見えない。

1930年代の道路補修トラック。Bristolなる車名をラジエーターにつけている。

伝説的ブリストル航空エンジン・チーフデザイナー、ロイ・フェデンが設計したストレイカー・スクアイア車のフツーの直4
これはBMWミュージアムの素晴らしいBMW328
大磯プリンス・ホテルで開催された2008/2009日本カーオフザイヤー選考イベントで再会したのが自動車、飛行機、etcもの識り博士、川上完さんのブリストル406。見る度にきれいになっていくのは、レアものクラシックカー・オーナー共通現象かな。
さてブリストル・エアロコレクション展示で半分期待していたのは、第2次大戦後のブリストル・400シリーズ車か、少なくとも直6エンジンであったが、これはなかった。多分コレクターズ・アイテムであり、小規模な財団経営のコレクションでは入手がむつかしいか、あるいは第2次大戦の敵国ドイツのBMW設計を基本としているので避けたのかな・・・は勝手な想像の域を出ない。戦前のBMW ・300シリーズの326シャシー、327ボデイとスポーツタイプ328のエンジンなる最良のコンビをBMWのチーフエンジニア・フリッツ・フィードラーを招き設計製作したのがブリストル400であった。BMWの戦前300、ブリストルの400、そして自動車生産を再開したBMW高級/高性能シリーズが500なのは、フィードラーの主張という説が有力だ。ちなみに川上さんのクルマは406だ。
BMW328直6のブリストル版は、ブリストルに加え、AC社のAceとクーペ型Aceca(AC社で試乗した際の発音は”アシーカ”)そしてクーパーのフォーミュラ・レーシングカーに用いられた。国際モータースポーツ元締めFIAの1950~87年のF1グランプリ記録によるとブリストル・エンジン車は17戦に出場している。
エアロ・コレクションには、何台かが現存する401も、完さんの406もなかったが、興味ある写真パネルを数枚と道路補修トラック、市電の実物が展示されていた。航空機、エンジン製造会社ブリストルも第1次世界大戦が終わり、軍需が先細りになると生計のために乗用車ボデイと市電車両を生産した1920年代の写真、そしてブリストル空冷星形エンジン設計で有名なチーフエンジニア、ロイ・フェデンのブリストル以前のストレイカー・スクアイア時代に設計した自動車とエンジン写真は興味があった。空冷、スリーヴバルブ、星形の頑な信奉者といわれるフェデンもはじめの頃は水冷、キノコ形サイドバルブ、直列エンジンを開発していた。
第1次大戦後、1920年頃のブリストル・フィルトン工場では、軍用機ではなく乗用車、市電のボデイを生産していた。そのかたわら、ほそぼそとF2B戦闘機の改装を続けていたというが、この写真には見えない。
1930年代の道路補修トラック。Bristolなる車名をラジエーターにつけている。
伝説的ブリストル航空エンジン・チーフデザイナー、ロイ・フェデンが設計したストレイカー・スクアイア車のフツーの直4
2008/10/30 11:16
おやじブログ さよなら、ジェッタ クルマ
「さよならジェッタ。いいパートナーだったよ」

ミシュラン・パイロットHPはおおいに満足。メルシ、ムッシュ・ビベンダム

3年弱、2.5万km走ったVWジェッタがわが家を去った。車検と保証期限が迫っていたので、このウン10年の慣習で売却し、次のクルマに移ることにした。
性能、居住・快適、ネンピの要件、プラス直4・直噴2L ターボと6速ウェットクラッチDSGの勉強、体験に価値あるクルマだった。ウルフスブルグで開催されたTSI試乗にいたく感心したのが購入の動機だった。TSI, TDI, CNGの技術プレゼンと試乗イベントで、TSIの日本導入は数ヶ月先の時点だった。そこですでに市販されていた2L直噴ターボ+DSGに乗って
みようかということになった。候補はゴルフGTIとジェッタ2.0Tであったが、実用、快適性から後者を選択した。
ハンドリング、とくにステアリング反応は、やはりGTIに軍配を上げるが、DSGのSに入れるか、パドルシフトをすれば、活気のある走りをする。オリジナルタイアはBSポテンザであったが、栃木で豪雨に遭遇、排水能力が気になり、ミシュランHPパイロットに履き替えた。乗り心地、安定性、ウエット性能ともに、たいへん満足してきた。
VWJ広報の丸田さんからVW式ネンピ節減運転法を教えてもらい実践したが、これはもとものの効率のよさに加え、効果抜群。聞く所によると、VW販売ディーラー主催のエコランで、2Lが1.4 TSIを凌いだそうだ。試乗会の多い河口湖への往復をネンピ測定の基準にしているが、ターボエンジンを積んだ軽乗用車よりはるかにいい(軽の不得手なコースだが)。
おおきな故障は、8月猛暑の日中、突然エアコンが暖気を送り込みだしたこと。ブログサブマスターを成田に送る途中で、「オヤジ、まわりの車で窓を開けているのはいないよ」!コンプレッサーのタービンが破損し、交換とエアコンシステムの大掃除が必要となった。さいわい保証期間で費用はかからなかった。原因は判明し、対策をとったとのこと。ディーラー・サービスの方によると、そのコンプレッサー、日本系メーカー製とのこと。
こんな経験は前にもした。サブマスターが乗っていたサターンがリコールになった。運転席シートバックが突然倒れる可能性があるという。これも日本系サプライヤーの製品だった。
ジェッタは、私にとり43年ぶりのノン日本車であった。在英時期に所有した1963年のVWビートル以前、日本では大古ヒルマン・ミンクス(日本ではいすゞ製が大半だったが、私のはサイドバルブ・エンジンのイギリス製)とBMWイセッタ&R50モーターサイクルだった。64年の帰国以来、ずっと国産車に乗り継ぎ、その進化を体験してきた。
ジェッタを早めに売却した理由は、久しぶりに雰囲気、性能、メカにこころを動かされた輸入車に遭遇したから。ところが予想価格を上回ったので断念した。希望と失望は隣合わせ...次の候補と目する2、3の国産新型車の出現は、数ヶ月先になる。それとも輸入車の中から選択するかな・・・しばらくは地下鉄、JR、モールトン自転車、徒歩、そして時たま新型試乗車がわが家に一、二泊する生活となる。

ベストハイウエイ平均燃費18.3km/L。この調子だと、満タンで1000kmを走れた!?

1960年代在英時期に所有していたVWビートル。腕木式方向式灯だった。テムス川上流の水位上昇で道路冠水した際の記念ショット
ミシュラン・パイロットHPはおおいに満足。メルシ、ムッシュ・ビベンダム
3年弱、2.5万km走ったVWジェッタがわが家を去った。車検と保証期限が迫っていたので、このウン10年の慣習で売却し、次のクルマに移ることにした。
性能、居住・快適、ネンピの要件、プラス直4・直噴2L ターボと6速ウェットクラッチDSGの勉強、体験に価値あるクルマだった。ウルフスブルグで開催されたTSI試乗にいたく感心したのが購入の動機だった。TSI, TDI, CNGの技術プレゼンと試乗イベントで、TSIの日本導入は数ヶ月先の時点だった。そこですでに市販されていた2L直噴ターボ+DSGに乗って
みようかということになった。候補はゴルフGTIとジェッタ2.0Tであったが、実用、快適性から後者を選択した。
ハンドリング、とくにステアリング反応は、やはりGTIに軍配を上げるが、DSGのSに入れるか、パドルシフトをすれば、活気のある走りをする。オリジナルタイアはBSポテンザであったが、栃木で豪雨に遭遇、排水能力が気になり、ミシュランHPパイロットに履き替えた。乗り心地、安定性、ウエット性能ともに、たいへん満足してきた。
VWJ広報の丸田さんからVW式ネンピ節減運転法を教えてもらい実践したが、これはもとものの効率のよさに加え、効果抜群。聞く所によると、VW販売ディーラー主催のエコランで、2Lが1.4 TSIを凌いだそうだ。試乗会の多い河口湖への往復をネンピ測定の基準にしているが、ターボエンジンを積んだ軽乗用車よりはるかにいい(軽の不得手なコースだが)。
おおきな故障は、8月猛暑の日中、突然エアコンが暖気を送り込みだしたこと。ブログサブマスターを成田に送る途中で、「オヤジ、まわりの車で窓を開けているのはいないよ」!コンプレッサーのタービンが破損し、交換とエアコンシステムの大掃除が必要となった。さいわい保証期間で費用はかからなかった。原因は判明し、対策をとったとのこと。ディーラー・サービスの方によると、そのコンプレッサー、日本系メーカー製とのこと。
こんな経験は前にもした。サブマスターが乗っていたサターンがリコールになった。運転席シートバックが突然倒れる可能性があるという。これも日本系サプライヤーの製品だった。
ジェッタは、私にとり43年ぶりのノン日本車であった。在英時期に所有した1963年のVWビートル以前、日本では大古ヒルマン・ミンクス(日本ではいすゞ製が大半だったが、私のはサイドバルブ・エンジンのイギリス製)とBMWイセッタ&R50モーターサイクルだった。64年の帰国以来、ずっと国産車に乗り継ぎ、その進化を体験してきた。
ジェッタを早めに売却した理由は、久しぶりに雰囲気、性能、メカにこころを動かされた輸入車に遭遇したから。ところが予想価格を上回ったので断念した。希望と失望は隣合わせ...次の候補と目する2、3の国産新型車の出現は、数ヶ月先になる。それとも輸入車の中から選択するかな・・・しばらくは地下鉄、JR、モールトン自転車、徒歩、そして時たま新型試乗車がわが家に一、二泊する生活となる。
ベストハイウエイ平均燃費18.3km/L。この調子だと、満タンで1000kmを走れた!?
1960年代在英時期に所有していたVWビートル。腕木式方向式灯だった。テムス川上流の水位上昇で道路冠水した際の記念ショット
2008/10/14 17:59
竹の箸 memior - クルマとクルマ 2 クレイグ・ヴェッター クルマ
クレイグ・ヴェッターの成功商品が一連のツアリング・フェアリング。これがもっとも有名な”ウインドジャマー”。クルマはホンダGL1000ゴールドウイング。

クレイグの才能を見込んだ英BSAのアメリカ輸入社が750cc3気筒車のスポーツモデルとしてデザイン委託したトライアンフ・ハリケーンX-75。このバイクに魅せられ、取材に訪れた。

『忘れ得ぬ人たち』のひとりと1/4世紀ぶりにコンタクトができた。アメリカ人デザイナー、アントレプリルーナー、クレイグ・ヴェッターだ。クレイグに最初に会ったのは1984年、彼のモーターサイクル・デザインに魅力を感じ、カリフォルニアに訪ねた。その10年前のアレックス・モールトン訪問と同じように、そこで発見したのがHPV=ヒューマン・パワード・ヴィークル、つまり人の力で動かすクルマだった。即座に彼のデザイン、製作した=qualizer(イコライザーと発音する)を注文してしまった。これについては、次に紹介する。
まずクレイグ・ヴェッター。1965年イリノイ大学工業デザイン部卒業、しばらく大学に残り教育用科学実験器具のデザインをする。大のモーターサイクル愛好者で、コロラドのデザイン会議に愛車を駆り出かけ、ツアリング・フェアリングの必要性を痛感する。ヨーロッパ車の高速達成用のスポーツ・フェアリングとは別の機能とスタイルがあっていいはずだ。いまでこそカヴァー面積の差はあるがフェアリングが標準で、そうでないものを"ネイキッド”と呼ぶ時代だが、当時はモーターサイクルのスタイルは、機能本位の画一的であった(ヴェッターは、例外として本田宗一郎社長の“神社仏閣”ルックスを挙げるが、やは的外れだったと評する)。
そこで彼は、ガールフレンドから借りた80ドルを資本に自らのツアリング・フェアリングを製作販売するが、最初のものはまったく売れない。5、6年の苦闘の後、生み出したのが大ヒット作”ウインドジャマー”だ。それまでの市販フェアリングの大半は、FRP製であり、外はきれいに仕上がるが、ライダーの目に入る裏側は不整面のまま。ヴェッターは、開発されたばかりのABS樹脂を用いたパイオニアであった。彼のフェアリングは、裏もきれいに仕上げらていた。事業としては、カリフォルニアを中心に大流行した"ホットタブ”の製作販売に乗り出し、これも大成功。ホットタブとは、屋外に大きな風呂桶のようなタブに据え付け、家族、友人などでジャブジャブ楽しむレジャーだ。
クレイグ・ヴェッターの才能に注目したのが、イギリス製モーターサイクルBSAのアメリカ支社支配人、ドン・ブラウンだ。BSAは、その頃まで最大のライバルであったトラインフ、そうでもない英ブランド、サンビームを傘下に収めていた。一時期は、自動車のデイムラーもBSAグループに入っていた。デイムラーのV8エンジンを設計したのは、トライアンフ・スピードツイン2気筒エンジン設計者のエドワード・ターナーだ。脱線するが、デイムラーSP250スポーツカーには思い出がある。62-64年在英時期のある日、田園のワインディングを気持ちよく走っていた。ミラーに映ったのが黒いロードスター。引き離すかと加速した途端、ジャラジャラとベルの音。パトカーだった!その頃のイギリスのパトカー、サイレンでなくベルを鳴らした。さいわい、珍しい日本人ということでお説教で終わった。当時は、ロンドンですら日本人の数が500人というマイノリティだった。
ドン・ブラウンは、BSAが間もなく投入するスーパーバイク、ロケット3(と双子車トラインフ・トライデント)が3気筒750ccなる意欲的エンジンを用いているが、相変わらず典型的イギリス車のデザインに不満を抱いた。ブラウンは、ホンダがまったく新しいスーパーバイクを開発しているのを知っていた(彼は、元Cycle誌編集長で、アメリカ業界には顔が広かった)。
私もBMW/BSA輸入社を離れ、10年以上経っていたが、友人の販売店主が入荷した新車の試乗をする機会があった。たしかにロケット3は、3気筒以外は従来路線そのままで、その3気筒も気難しく、調子を出すのに時間のかかるバイクだったと記憶する。
クレイグ・ヴェッターがBSAアメリカ支社に出向きデザインしたクルマは、アメリカでは人気の高かったトライアンフ・ブランドで発売された。それがハリケーンX-75だ。彼は、モーターサイクルも”ボデイ”を持つべきと主張し、一体化した細身のタンクとサイドカウルをデザインした。そこにHONDA CB750FOURが出現、アメリカのスーパーバイク市場を席巻する。結局、BSA、トラアンフなどの英国勢は撤退を余儀なくされる。ハリケーンは台数は多く売れなかったが、いまやコレクターズ・モデルになっている。
1980年代になり、ヴェッターは高収益事業のモーターサイクル・フェアリングとホットバス部門を売却した。富豪になった彼は、デザインと他の分野に活動を移した。そのひとつが、少数を自製、販売したカワサキをベースとしたフルボデイのスーパーバイク、”ミステリーシップ”である。
84年に私がクレイグ・ヴェッターを訪れたのは、トライアンフ・ハリケーンとミステリーシップの話を聞くのが目的であった。
(つづく)
1984年の自宅仕事場のクレイグ・ヴェッター。背後に次のプロジェクト”ストリームライナー”のスケッチが見える。

ヴェッターが少数製作販売した"ミステリーシップ”

クレイグの才能を見込んだ英BSAのアメリカ輸入社が750cc3気筒車のスポーツモデルとしてデザイン委託したトライアンフ・ハリケーンX-75。このバイクに魅せられ、取材に訪れた。
『忘れ得ぬ人たち』のひとりと1/4世紀ぶりにコンタクトができた。アメリカ人デザイナー、アントレプリルーナー、クレイグ・ヴェッターだ。クレイグに最初に会ったのは1984年、彼のモーターサイクル・デザインに魅力を感じ、カリフォルニアに訪ねた。その10年前のアレックス・モールトン訪問と同じように、そこで発見したのがHPV=ヒューマン・パワード・ヴィークル、つまり人の力で動かすクルマだった。即座に彼のデザイン、製作した=qualizer(イコライザーと発音する)を注文してしまった。これについては、次に紹介する。
まずクレイグ・ヴェッター。1965年イリノイ大学工業デザイン部卒業、しばらく大学に残り教育用科学実験器具のデザインをする。大のモーターサイクル愛好者で、コロラドのデザイン会議に愛車を駆り出かけ、ツアリング・フェアリングの必要性を痛感する。ヨーロッパ車の高速達成用のスポーツ・フェアリングとは別の機能とスタイルがあっていいはずだ。いまでこそカヴァー面積の差はあるがフェアリングが標準で、そうでないものを"ネイキッド”と呼ぶ時代だが、当時はモーターサイクルのスタイルは、機能本位の画一的であった(ヴェッターは、例外として本田宗一郎社長の“神社仏閣”ルックスを挙げるが、やは的外れだったと評する)。
そこで彼は、ガールフレンドから借りた80ドルを資本に自らのツアリング・フェアリングを製作販売するが、最初のものはまったく売れない。5、6年の苦闘の後、生み出したのが大ヒット作”ウインドジャマー”だ。それまでの市販フェアリングの大半は、FRP製であり、外はきれいに仕上がるが、ライダーの目に入る裏側は不整面のまま。ヴェッターは、開発されたばかりのABS樹脂を用いたパイオニアであった。彼のフェアリングは、裏もきれいに仕上げらていた。事業としては、カリフォルニアを中心に大流行した"ホットタブ”の製作販売に乗り出し、これも大成功。ホットタブとは、屋外に大きな風呂桶のようなタブに据え付け、家族、友人などでジャブジャブ楽しむレジャーだ。
クレイグ・ヴェッターの才能に注目したのが、イギリス製モーターサイクルBSAのアメリカ支社支配人、ドン・ブラウンだ。BSAは、その頃まで最大のライバルであったトラインフ、そうでもない英ブランド、サンビームを傘下に収めていた。一時期は、自動車のデイムラーもBSAグループに入っていた。デイムラーのV8エンジンを設計したのは、トライアンフ・スピードツイン2気筒エンジン設計者のエドワード・ターナーだ。脱線するが、デイムラーSP250スポーツカーには思い出がある。62-64年在英時期のある日、田園のワインディングを気持ちよく走っていた。ミラーに映ったのが黒いロードスター。引き離すかと加速した途端、ジャラジャラとベルの音。パトカーだった!その頃のイギリスのパトカー、サイレンでなくベルを鳴らした。さいわい、珍しい日本人ということでお説教で終わった。当時は、ロンドンですら日本人の数が500人というマイノリティだった。
ドン・ブラウンは、BSAが間もなく投入するスーパーバイク、ロケット3(と双子車トラインフ・トライデント)が3気筒750ccなる意欲的エンジンを用いているが、相変わらず典型的イギリス車のデザインに不満を抱いた。ブラウンは、ホンダがまったく新しいスーパーバイクを開発しているのを知っていた(彼は、元Cycle誌編集長で、アメリカ業界には顔が広かった)。
私もBMW/BSA輸入社を離れ、10年以上経っていたが、友人の販売店主が入荷した新車の試乗をする機会があった。たしかにロケット3は、3気筒以外は従来路線そのままで、その3気筒も気難しく、調子を出すのに時間のかかるバイクだったと記憶する。
クレイグ・ヴェッターがBSAアメリカ支社に出向きデザインしたクルマは、アメリカでは人気の高かったトライアンフ・ブランドで発売された。それがハリケーンX-75だ。彼は、モーターサイクルも”ボデイ”を持つべきと主張し、一体化した細身のタンクとサイドカウルをデザインした。そこにHONDA CB750FOURが出現、アメリカのスーパーバイク市場を席巻する。結局、BSA、トラアンフなどの英国勢は撤退を余儀なくされる。ハリケーンは台数は多く売れなかったが、いまやコレクターズ・モデルになっている。
1980年代になり、ヴェッターは高収益事業のモーターサイクル・フェアリングとホットバス部門を売却した。富豪になった彼は、デザインと他の分野に活動を移した。そのひとつが、少数を自製、販売したカワサキをベースとしたフルボデイのスーパーバイク、”ミステリーシップ”である。
84年に私がクレイグ・ヴェッターを訪れたのは、トライアンフ・ハリケーンとミステリーシップの話を聞くのが目的であった。
(つづく)
1984年の自宅仕事場のクレイグ・ヴェッター。背後に次のプロジェクト”ストリームライナー”のスケッチが見える。
ヴェッターが少数製作販売した"ミステリーシップ”
2008/10/13 15:48
竹の箸 memior - クルマとクルマ 1 モールトン クルマ
1973年、はじめてアレックス・モールトンを訪れた時の試乗車3台。左からプロト・ハイドラガス装着MINI クーパーS、ヨーロッパ仕様シビック、ハイドロラスティック1300。

「これでサスペンションがついていれば、いいクルマだがなア』シビックを論じるアレックス・モールトン博士。たしかにヨーロッパ仕様のサスはガチガチに硬めてあった。

このブログのカテゴリーには、『クルマ』と『自転車』の分類がある。自動車と人動車は両方ともクルマだな。
アレックス・モールトンを訪ねるきっかけは、BMCのミニに続く1100のハイドロラスティック・サスペンションの乗り心地とハンドリングにいたく感心したからだ。
在英中、発表されたばかりの1100の試乗に出かけた。アテンドしてくれたケン・レヴィス広報部員は、第2次大戦従軍の負傷で全盲になった人。彼は市街地から小高い丘のオフロードコースまで、正確に道筋を指示してくれた。丘の上で会ったのがイギリスの有名なジャーナリスト、故ディヴィド・ベンソン。雲つくような大男、ディヴィドが楽々1100に収まった。オフロードといっても草原だったが、1100の乗り心地のよさには驚嘆した。
試乗が終わると、ケンは「本社に戻りましょう。アレック・イシゴニスに会う手筈をしています」びっくりした。モーリス社時代のマイナー、BMCのMINI、1100などの生みの親で、すでに次期モデルの設計開発に大多忙のイシゴニスが会ってくれるという幸運に恵まれた。幼年期、ギリシャから移民してきたイシゴニスであるが、きれいなクイーンズ・イングリッシュを話した。イギリス人は、話す言葉で生まれ育ちが判る。のちにアレックス・モールトンにイシゴニスはオックスブリッジ(オックスフォードとケンブリッジ大学)出身ではないのに、あの素晴らしい英語はどうやってと
聞いた。「彼の母親は、非常に教育熱心で、正統英語を話しユーモアのセンスのある家庭教師をつけたのだよ。イシゴニスのからめのユーモアは天下一品だった」
さて、アレックス・モールトンを最初に訪れたのは1973年。発表されたばかりのシビックでヨーロッパ旅行をした折であった。彼が自動車サス、自転車開発に使っていた旧英空軍基地の滑走路でハイドロラステック1100、未発表のハイドラガスMINIクーパーS(後者は健在である)とシビックを比較試乗した。ハイドラガスMINIの乗り心地とハンドリングには驚嘆した。アレックスのヨーロッパ仕様シビック評、「これでサスペンションがついていれば、たいへんいいクルマだがね」!
モールトン邸で『発見』したのが、もう一種のクルマ、彼の小径車輪自転車のプロトタイプと部品の山だった。当時、第2世代Fフレーム(アルファベットのFの形状)モデルMk3を製造販売していた大手自転車メーカー、ラレーとの関係が冷却していた。翌年には、生産中止となり、ラレーとの関係は終わる。
翌74年のアレックス・モールトン再度訪問の主な目的は、BLとなっていた民族系メーカーの新型車オースティン・アレグロの試乗印象とディスカッションだった。モールトン・ハイドラガスなる最新液体/ガス封入の前後連結サスには大いに期待していたが、イギリスの試乗では乗り心地、ハンドリングに失望した。どうなっているのかをアレックスに問うた。彼、苦い顔をして、「あれは、新経営陣のコスト低減の指示で、設計陣がMINI/1300の大型フロント・サブフレームを止め、直付けした。その結果、4気筒エンジンとサスのバネ/ダンピングが共振を起こした。妥協を余儀なくされたのがサスペンション側だったのだ。」
その時、アレックスは、Mk3自転車のラレー最終生産分から10台を引き取り持っていた。、私、懇願して1台を分けてもらい、手荷物として持ち帰った。2、3年前にフルレストアしたが、やりすぎてフロントフォークスリーヴまでメッキをかけ、操舵が重くなっていた。最近、モールトン名チューナー、Koowhoの”ドクター”永井に調整していただき、タイアもモールトン自転車生産型メーカー、パシュレーのエンジニア・ダンの見つけてくれたシュワルブにつけかえ、街乗りラナバウトとして常用している。
東京路地裏住まいでは自動車は1台しか持てないが、自転車は複数可能。仕事部屋にはモールトンMk 3, '74年型シリーズ1、パシュレー製APB (モールトン・サス最後の生産車MGFのイギリス試乗の際に買った)、そしてブリジストン共同開発BS179の4台が同居している。

1974年型、最後のMk 3
「これでサスペンションがついていれば、いいクルマだがなア』シビックを論じるアレックス・モールトン博士。たしかにヨーロッパ仕様のサスはガチガチに硬めてあった。
このブログのカテゴリーには、『クルマ』と『自転車』の分類がある。自動車と人動車は両方ともクルマだな。
アレックス・モールトンを訪ねるきっかけは、BMCのミニに続く1100のハイドロラスティック・サスペンションの乗り心地とハンドリングにいたく感心したからだ。
在英中、発表されたばかりの1100の試乗に出かけた。アテンドしてくれたケン・レヴィス広報部員は、第2次大戦従軍の負傷で全盲になった人。彼は市街地から小高い丘のオフロードコースまで、正確に道筋を指示してくれた。丘の上で会ったのがイギリスの有名なジャーナリスト、故ディヴィド・ベンソン。雲つくような大男、ディヴィドが楽々1100に収まった。オフロードといっても草原だったが、1100の乗り心地のよさには驚嘆した。
試乗が終わると、ケンは「本社に戻りましょう。アレック・イシゴニスに会う手筈をしています」びっくりした。モーリス社時代のマイナー、BMCのMINI、1100などの生みの親で、すでに次期モデルの設計開発に大多忙のイシゴニスが会ってくれるという幸運に恵まれた。幼年期、ギリシャから移民してきたイシゴニスであるが、きれいなクイーンズ・イングリッシュを話した。イギリス人は、話す言葉で生まれ育ちが判る。のちにアレックス・モールトンにイシゴニスはオックスブリッジ(オックスフォードとケンブリッジ大学)出身ではないのに、あの素晴らしい英語はどうやってと
聞いた。「彼の母親は、非常に教育熱心で、正統英語を話しユーモアのセンスのある家庭教師をつけたのだよ。イシゴニスのからめのユーモアは天下一品だった」
さて、アレックス・モールトンを最初に訪れたのは1973年。発表されたばかりのシビックでヨーロッパ旅行をした折であった。彼が自動車サス、自転車開発に使っていた旧英空軍基地の滑走路でハイドロラステック1100、未発表のハイドラガスMINIクーパーS(後者は健在である)とシビックを比較試乗した。ハイドラガスMINIの乗り心地とハンドリングには驚嘆した。アレックスのヨーロッパ仕様シビック評、「これでサスペンションがついていれば、たいへんいいクルマだがね」!
モールトン邸で『発見』したのが、もう一種のクルマ、彼の小径車輪自転車のプロトタイプと部品の山だった。当時、第2世代Fフレーム(アルファベットのFの形状)モデルMk3を製造販売していた大手自転車メーカー、ラレーとの関係が冷却していた。翌年には、生産中止となり、ラレーとの関係は終わる。
翌74年のアレックス・モールトン再度訪問の主な目的は、BLとなっていた民族系メーカーの新型車オースティン・アレグロの試乗印象とディスカッションだった。モールトン・ハイドラガスなる最新液体/ガス封入の前後連結サスには大いに期待していたが、イギリスの試乗では乗り心地、ハンドリングに失望した。どうなっているのかをアレックスに問うた。彼、苦い顔をして、「あれは、新経営陣のコスト低減の指示で、設計陣がMINI/1300の大型フロント・サブフレームを止め、直付けした。その結果、4気筒エンジンとサスのバネ/ダンピングが共振を起こした。妥協を余儀なくされたのがサスペンション側だったのだ。」
その時、アレックスは、Mk3自転車のラレー最終生産分から10台を引き取り持っていた。、私、懇願して1台を分けてもらい、手荷物として持ち帰った。2、3年前にフルレストアしたが、やりすぎてフロントフォークスリーヴまでメッキをかけ、操舵が重くなっていた。最近、モールトン名チューナー、Koowhoの”ドクター”永井に調整していただき、タイアもモールトン自転車生産型メーカー、パシュレーのエンジニア・ダンの見つけてくれたシュワルブにつけかえ、街乗りラナバウトとして常用している。
東京路地裏住まいでは自動車は1台しか持てないが、自転車は複数可能。仕事部屋にはモールトンMk 3, '74年型シリーズ1、パシュレー製APB (モールトン・サス最後の生産車MGFのイギリス試乗の際に買った)、そしてブリジストン共同開発BS179の4台が同居している。
1974年型、最後のMk 3
2008/9/18 16:27
おやじブログ アレックス・モールトン博士の足跡と近況 その2 クルマ
第2次大戦中、ブリストル航空機会社には、航空エンジニアに加え、自動車産業からも多くのエンジニアが参集した。とくにレーシングカー分野の有名、勇名人が集まり、技術梁山泊状態であったらしい。
ーアレックス・モールトン(ゴメンナサイ、イシゴニスと書いてしまいました)の前任者でドイツ空爆により亡くなったエイドリアン・スクアイアは、自らのスクアイア・スポーツカーを開発製作し人物だ。
ーフィル・アーヴィングはHRDヴィンセント・モーターサイクルのエンジン設計者で、戦後の3リッタ−F1時期にジャック・ブラバムのためにV8を設計製作し、ワールドチャンピオンシップをもたらした。彼はジャーナリストでもあり、私のMOTOR誌寄稿時代には、ロンドンのテンプルプレス編集部でわいわいがやがややったものだ。
ーフランシス・ベアートは、ノートン・マンクスの名チューナー。
ーセントーラス・エンジンのテスト部門の責任者、R.R. ジャクソンは、ブルックランズ・レースの猛者。同じく高空における気化器性能向上担当だったシールズ嬢は、ブルックランズで女性としてはじめて100mphを超え、ゴールドスター賞を得たレーシングドライバーであった。アレックス、改良型オイルポンプのデモをやっていて、パイプが抜け、女史に頭からオイルを浴びせたという。
ーゴードン・ウイルキンスは、のちにイギリスのジャーナリスト大御所となった。カー・オヴ・ジ・センチュリーの名誉審査員のひとりであった。
ーピ−ター・ウエアは、ロイ・フェデンの後を追い、ブリストルを辞めてフェデンカー開発を進めた。
いまや、イギリスには民族系大メーカーはなくなった。しかし、自動車エンジニアリングは健在であり、卓越した人材を輩出している。F1をはじめ、レーシングカー産業を担っているのはイギリス人エンジニアであり、スタイリングの分野でもイギリス人メーカー・ディレクター、チーフエンジニアは多い。アレックス・モールトンは、イギリスの大いなる財産は、英語と技術であると告げる。
第2次大戦後、モールトンは、一時家業のゴム製品製造業に戻るが、技術は基本こそ肝要であると考え、ケンブリッジに復学、学位を取得する。卒業後、家業に戻り、経営陣に研究開発部門の創設を提案し、自ら部門の長となる。この時期、モーリス社は傑作小型車”マイナー”を発表し、大成功を収める。モールトンは、マイナーのチーフエンジニア、アレック・イシゴニスの業績に感銘を受け、伝手を通じ知己を得た。ふたりは、意気投合した。アレックス・モールトン34歳であり、「私が幸運にも得たふたりの技術の師のひとり」と語る。他の一人は、もちろんサー・ロイ・フェデンであった。
モールトンは、鉄道車両ボギー、軍用小型トレーラー、4駆車用ラバースプリングを開発した。イシゴニスは、好奇心がすこぶる旺盛で、モールトンがボギー案を見せると、さっそく彼自身のスケッチを描く(アレックス、「うまく作動しないだろうがね」)。後年、アレックスが小径車輪自転車を開発しようと話すと、モノコック車体を描いた。
イギリス自動車産業再編期、モーリスを併合したBMCが生まれる。イシゴニスは、自らのチーフエンジニアとしての地位が脅かされると、アルヴィス社に移った。そこでV8エンジン搭載サルーンを設計開発するが、モールトンのラバー/流体連結スプリングを用いたサスペンションを採用した。このアルヴィス・プロトタイプの写真が最近発掘されたが、いま入手すべく所有団体に依頼しているところ。
イシゴニスがBMCに復帰して設計開発したのがADO15 "MINI"である。サスペンションには、モールトンのラバーコーン・スプリングを用いたのはご存知の通り。
後年、モールトンは少年期から情熱を燃やしていた蒸気エンジン自動車を構想した。イシゴニスは、またまた「私がボデイデザインをやってやろう」と描いたのは、下のスケッチである。イシゴニス自身も、開発の本流から外された時期、蒸気エンジンMINIをやっていた。イシゴニス自邸には、インドア、アウトドア(壁にトンネルを開けて!)の模型鉄道のレールが敷かれ、蒸気機関車を走らせていた。

蒸気機関に希望を抱いていた時期のアレックス・モールトンの3気筒蒸気エンジン、前輪駆動車のコンセプトスケッチ。マクラーレンM1のようにセンタードライビングポジションのセダンを意図していた。

「君のコンセプトカーのデザインは、私に任せろ」と設計エンジニアのサー・アレック・イシゴニスが描いたスタイリングスケッチ。ミニなどADO系の角張ったデザインとは対照的なエアロルックスである。右下のAIはイシゴニスのイニシアル。

モールトン邸The HallのWhite Roomで歓談するサー・アレック・イシゴニスとアレックス・モールトン。

いまのWhite Room。ホームシアターがあり、夕食後、"ホイスキー”を飲みながら、アレックスとの歓談が楽しみな部屋。滞在中、時間があると書棚の本を斜め読みする。今回の収穫は、ヴィクトリア時代の偉大なエンジニア、ブルンネルのフォト伝記だった。
ーアレックス・モールトン(ゴメンナサイ、イシゴニスと書いてしまいました)の前任者でドイツ空爆により亡くなったエイドリアン・スクアイアは、自らのスクアイア・スポーツカーを開発製作し人物だ。
ーフィル・アーヴィングはHRDヴィンセント・モーターサイクルのエンジン設計者で、戦後の3リッタ−F1時期にジャック・ブラバムのためにV8を設計製作し、ワールドチャンピオンシップをもたらした。彼はジャーナリストでもあり、私のMOTOR誌寄稿時代には、ロンドンのテンプルプレス編集部でわいわいがやがややったものだ。
ーフランシス・ベアートは、ノートン・マンクスの名チューナー。
ーセントーラス・エンジンのテスト部門の責任者、R.R. ジャクソンは、ブルックランズ・レースの猛者。同じく高空における気化器性能向上担当だったシールズ嬢は、ブルックランズで女性としてはじめて100mphを超え、ゴールドスター賞を得たレーシングドライバーであった。アレックス、改良型オイルポンプのデモをやっていて、パイプが抜け、女史に頭からオイルを浴びせたという。
ーゴードン・ウイルキンスは、のちにイギリスのジャーナリスト大御所となった。カー・オヴ・ジ・センチュリーの名誉審査員のひとりであった。
ーピ−ター・ウエアは、ロイ・フェデンの後を追い、ブリストルを辞めてフェデンカー開発を進めた。
いまや、イギリスには民族系大メーカーはなくなった。しかし、自動車エンジニアリングは健在であり、卓越した人材を輩出している。F1をはじめ、レーシングカー産業を担っているのはイギリス人エンジニアであり、スタイリングの分野でもイギリス人メーカー・ディレクター、チーフエンジニアは多い。アレックス・モールトンは、イギリスの大いなる財産は、英語と技術であると告げる。
第2次大戦後、モールトンは、一時家業のゴム製品製造業に戻るが、技術は基本こそ肝要であると考え、ケンブリッジに復学、学位を取得する。卒業後、家業に戻り、経営陣に研究開発部門の創設を提案し、自ら部門の長となる。この時期、モーリス社は傑作小型車”マイナー”を発表し、大成功を収める。モールトンは、マイナーのチーフエンジニア、アレック・イシゴニスの業績に感銘を受け、伝手を通じ知己を得た。ふたりは、意気投合した。アレックス・モールトン34歳であり、「私が幸運にも得たふたりの技術の師のひとり」と語る。他の一人は、もちろんサー・ロイ・フェデンであった。
モールトンは、鉄道車両ボギー、軍用小型トレーラー、4駆車用ラバースプリングを開発した。イシゴニスは、好奇心がすこぶる旺盛で、モールトンがボギー案を見せると、さっそく彼自身のスケッチを描く(アレックス、「うまく作動しないだろうがね」)。後年、アレックスが小径車輪自転車を開発しようと話すと、モノコック車体を描いた。
イギリス自動車産業再編期、モーリスを併合したBMCが生まれる。イシゴニスは、自らのチーフエンジニアとしての地位が脅かされると、アルヴィス社に移った。そこでV8エンジン搭載サルーンを設計開発するが、モールトンのラバー/流体連結スプリングを用いたサスペンションを採用した。このアルヴィス・プロトタイプの写真が最近発掘されたが、いま入手すべく所有団体に依頼しているところ。
イシゴニスがBMCに復帰して設計開発したのがADO15 "MINI"である。サスペンションには、モールトンのラバーコーン・スプリングを用いたのはご存知の通り。
後年、モールトンは少年期から情熱を燃やしていた蒸気エンジン自動車を構想した。イシゴニスは、またまた「私がボデイデザインをやってやろう」と描いたのは、下のスケッチである。イシゴニス自身も、開発の本流から外された時期、蒸気エンジンMINIをやっていた。イシゴニス自邸には、インドア、アウトドア(壁にトンネルを開けて!)の模型鉄道のレールが敷かれ、蒸気機関車を走らせていた。
蒸気機関に希望を抱いていた時期のアレックス・モールトンの3気筒蒸気エンジン、前輪駆動車のコンセプトスケッチ。マクラーレンM1のようにセンタードライビングポジションのセダンを意図していた。
「君のコンセプトカーのデザインは、私に任せろ」と設計エンジニアのサー・アレック・イシゴニスが描いたスタイリングスケッチ。ミニなどADO系の角張ったデザインとは対照的なエアロルックスである。右下のAIはイシゴニスのイニシアル。
モールトン邸The HallのWhite Roomで歓談するサー・アレック・イシゴニスとアレックス・モールトン。
いまのWhite Room。ホームシアターがあり、夕食後、"ホイスキー”を飲みながら、アレックスとの歓談が楽しみな部屋。滞在中、時間があると書棚の本を斜め読みする。今回の収穫は、ヴィクトリア時代の偉大なエンジニア、ブルンネルのフォト伝記だった。
2008/8/17 21:05
おやじブログ アンドレア・ピニンファリーナの訃報 クルマ
8月7日、ピニンファリーナCEOのアンドレア・ピニンファリーナが交通事故で死去した。朝、トリノ近郊でヴェスパ・スクーターに乗った彼は、フォードと衝突したと報じられている。享年51歳の若さであった。
ピニンファリーナ・グループは、2代目セルジオが名誉会長が副会長、アンドレアの弟パオロが副会長である。イタリアの名門カロッツェーリア群は、自動車産業自体の製品、ビジネスモデルの激変から、岐路に立っているのが現状だ。ピニンファリーナも業績の低下に対応するためフランスの投資家(電気自動車の共同開発を意図している)、インドのTATAによる増資を計っている矢先の事故であった。
ピニンファリーナは、フェラーリのデザインで有名だ。ミドシップ・スーパー、メガカーの圧倒的な覇気と存在感もさることながら、私の好きなのはフロントエンジン後輪駆動グラントウリスモ群だ。ダイナミックな流麗さは、他のカロッツエリアはとても及ばない。
ピニンファリーナは、歴史的にヨーロッパ、アジア、日本メーカー群の生産車デザイン開発あるいは協力をしてきた。カロッツェリア、デザインハウスたちは、時にして自動車ブランドではなく、彼らのデザインアイデンティティ丸出し(そうメーカーが願っているのかもしれない)にする例が多々ある。
ピニンファリーナにもあるのだが、独特のエレガンスはブランドを問わず受け入れたくなる。
しかし、ピニンファリーナはフェラーリで精気を発する。イタル、ベルトーネが成し得ないオーラだ。
2008/7/13 13:45
おやじブログ TRW先進技術試乗会 クルマ
ピニンファリーナ所有のパリ郊外CERAMコース

異種試乗車の一部。左からルノー・ラグーナ、メルセデスベンツ・スプリンター、ルーマニア製低価格車ダチア・ローガン

酷暑で参り気味で、遅くなってしまったパリ郊外のアメリカ系部品メーカーTRWの試乗会を紹介する。イベント名『TRWセーフティデー』のように、同社が研究開発、そして生産しているステアリング、ブレーキ、アクティヴ安全システムを搭載した複数ブランドのクルマの試乗だが、本来の目的はフランス、イタリアの自動車メーカーの開発エンジニアを招いての技術、商品訴求だ。3日目に欧米日ジャーナリストにも乗せた。試乗車大半の搭載技術は、先進型であり、これからメーカーに採用してもらいたいということだ。これはたいへん興味がある。
CERAMコースは、イタリアのデザイン会社として有名なピニンファリーナ・グループが所有する。同グループは、フランスのマトラ(かつてスポーツカーを市販し、F1にも出たの)自動車部門も傘下に収めたらしい。バンクつき高速周回路、スプリットミュー部を含む広大な総合テスト場、カントリーロード、オフロードを含めたテストコースで、自動車、部品メーカーたちが開発テストに使っている。使用料がそんなに高くはないとは、TRW広報女性の話。
自動車メーカーの試乗会と違い、欧米日のメーカーの最新型車、それも当分あるいは絶対日本には入ってこないクルマに乗れるのはありがたい。ヨーロッパらしいのは、大半がディーゼルでマニュアルトランスミッションであること。私が乗った中では、BMW 330iとシヴォレー・タホー・ハイブリッドが唯一ガソリンだった。
電気モーターによる駐車ブレーキ、油圧+低出力電気モーター駆動スピンドル/ナット・ホールド機構を持つ駐車ブレーキは、ヨーロッパの坂道駐車ブレーキ力の法規に合致する。従来は、リアディスクブレーキに駐車用ドラムを合わせたものがあったが、コスト、重量に難がある。しかし油圧だけでは、充分な締め力が足りないので、このようなシステムが開発された。
アダプティヴクルーズコントロール、クラシュミティゲーションでは、どこまで自動制動すべきかを選択設定するツールとなるのが、ジョイスティック、ステアリングホイール上のスイッチで減速度を可変できるシステム搭載車もある。0.3Gから緊急停止ブレーキングまで、調整できる。開発手段として用いられる。
電子安定制御(ESC)には、高性能、高精度の"プレミアム”システム”搭載デモカーがあった。ABS, TRC, ESC, ヒルアシストを制御するシステム搭載のBMW 330iは、80km/h+スラーロムで驚異的速さと安定を示した。
まだ乗っていないクルマにGM大型SUV、シヴォレー・タホー・2モード・ハイブリッド・システムがあった。6Lなる大排気量V8、2個のモーター、4速ATを組み合わせたシステムで、ダイムラー(クライスラーを含む)、BMWと共同開発した。低負荷走行時には、4気筒走行で燃費を向上する。パワートレインとブレーキを協調制御し、最大の回生エネルギーを得て、かつ安定性を確保するのがTRWのスリップコントロールブースト(SCB)だ。48km/hまではEVモードで走り、加速、走行、制動ともにスムーズであった。GM、クライスラーは、2モードシステムで大型SUVの燃費を向上し、ユーザーをつなぎ止めようとする戦略だが、GMの場合、ノーマルSUVとの価格差はかなり大きく、トータル費用節減につながるかは疑問。売れ行きは、期待を下回っているらしい。
ステアリングは、電動パワステと電動油圧発生/油圧パワステの生産型、先進型、コスト低減型を用いた車群が試乗に供された。同じシステムを用いながら、メーカーによる味付けの差が判るのは興味があった。それと車体剛性、シャシー性能が操舵感に大いに寄与する、あるいは削ぐ例を体感できた。
たいへん勉強になった試乗イベントであった。

GMのフルサイズSUV、シヴォレー・タホー・ハイブリッドはTRWのブレーキ制御システムを採用

シートベルトエアバッグを採用した自動車はまだにないと思う。ミニバン、観光バスなどいいのではないか。旅客機ではヴァージンアトランティック航空のエアバス340のアッパークラスが採用している。
異種試乗車の一部。左からルノー・ラグーナ、メルセデスベンツ・スプリンター、ルーマニア製低価格車ダチア・ローガン
酷暑で参り気味で、遅くなってしまったパリ郊外のアメリカ系部品メーカーTRWの試乗会を紹介する。イベント名『TRWセーフティデー』のように、同社が研究開発、そして生産しているステアリング、ブレーキ、アクティヴ安全システムを搭載した複数ブランドのクルマの試乗だが、本来の目的はフランス、イタリアの自動車メーカーの開発エンジニアを招いての技術、商品訴求だ。3日目に欧米日ジャーナリストにも乗せた。試乗車大半の搭載技術は、先進型であり、これからメーカーに採用してもらいたいということだ。これはたいへん興味がある。
CERAMコースは、イタリアのデザイン会社として有名なピニンファリーナ・グループが所有する。同グループは、フランスのマトラ(かつてスポーツカーを市販し、F1にも出たの)自動車部門も傘下に収めたらしい。バンクつき高速周回路、スプリットミュー部を含む広大な総合テスト場、カントリーロード、オフロードを含めたテストコースで、自動車、部品メーカーたちが開発テストに使っている。使用料がそんなに高くはないとは、TRW広報女性の話。
自動車メーカーの試乗会と違い、欧米日のメーカーの最新型車、それも当分あるいは絶対日本には入ってこないクルマに乗れるのはありがたい。ヨーロッパらしいのは、大半がディーゼルでマニュアルトランスミッションであること。私が乗った中では、BMW 330iとシヴォレー・タホー・ハイブリッドが唯一ガソリンだった。
電気モーターによる駐車ブレーキ、油圧+低出力電気モーター駆動スピンドル/ナット・ホールド機構を持つ駐車ブレーキは、ヨーロッパの坂道駐車ブレーキ力の法規に合致する。従来は、リアディスクブレーキに駐車用ドラムを合わせたものがあったが、コスト、重量に難がある。しかし油圧だけでは、充分な締め力が足りないので、このようなシステムが開発された。
アダプティヴクルーズコントロール、クラシュミティゲーションでは、どこまで自動制動すべきかを選択設定するツールとなるのが、ジョイスティック、ステアリングホイール上のスイッチで減速度を可変できるシステム搭載車もある。0.3Gから緊急停止ブレーキングまで、調整できる。開発手段として用いられる。
電子安定制御(ESC)には、高性能、高精度の"プレミアム”システム”搭載デモカーがあった。ABS, TRC, ESC, ヒルアシストを制御するシステム搭載のBMW 330iは、80km/h+スラーロムで驚異的速さと安定を示した。
まだ乗っていないクルマにGM大型SUV、シヴォレー・タホー・2モード・ハイブリッド・システムがあった。6Lなる大排気量V8、2個のモーター、4速ATを組み合わせたシステムで、ダイムラー(クライスラーを含む)、BMWと共同開発した。低負荷走行時には、4気筒走行で燃費を向上する。パワートレインとブレーキを協調制御し、最大の回生エネルギーを得て、かつ安定性を確保するのがTRWのスリップコントロールブースト(SCB)だ。48km/hまではEVモードで走り、加速、走行、制動ともにスムーズであった。GM、クライスラーは、2モードシステムで大型SUVの燃費を向上し、ユーザーをつなぎ止めようとする戦略だが、GMの場合、ノーマルSUVとの価格差はかなり大きく、トータル費用節減につながるかは疑問。売れ行きは、期待を下回っているらしい。
ステアリングは、電動パワステと電動油圧発生/油圧パワステの生産型、先進型、コスト低減型を用いた車群が試乗に供された。同じシステムを用いながら、メーカーによる味付けの差が判るのは興味があった。それと車体剛性、シャシー性能が操舵感に大いに寄与する、あるいは削ぐ例を体感できた。
たいへん勉強になった試乗イベントであった。
GMのフルサイズSUV、シヴォレー・タホー・ハイブリッドはTRWのブレーキ制御システムを採用
シートベルトエアバッグを採用した自動車はまだにないと思う。ミニバン、観光バスなどいいのではないか。旅客機ではヴァージンアトランティック航空のエアバス340のアッパークラスが採用している。
2008/6/18 16:15
トンプソン、ラモ、ウールドリッジの偉業 クルマ
NASAで製作中のパイオニア10 (NASA Ames Lab.)
部品メーカー名で頭文字は数少ないと思う。自動車メーカーでは、私がムカシ働いた輸入商社のクルマBMW、BSAがそうだった。前者はいうまでもなく、バイエルン州発動機製造工場の頭文字。後者はバーミンガム小兵器で、一時はジャガー、デイムラーを傘下に収めた時期もあった。面白型ではドイツ二輪車、自動車のDKW(現在のアウディとなる)の『小さ驚異』、2ストロークエンジンのパワーを意味した。
そうそう、もうひとつ、月刊誌のアジア担当エディターをやっているアメリカSAEは、今年の大会で「(従来の)国際自動車技術者協会なる称号は使わないこと。SAEと記す」なる指示があった。エンジニアリングの世界では、すでに周知なので三文字の方がカッコがいいのだと思う。
さて、パリ郊外のシャシー先進技術搭載車試乗会のホスト、TRWの3文字は、同社母体創設者名の頭文字だ。Tはトンプソンで、1901年創立のクリーヴランド押さえネジ社が改名したもの。重要なのはRとWで、それぞれサイモン・ラモとディーン・ウールドリッジだ。ふたりとも卓越した技術者であり、第2次大戦終戦直前に巨大飛行艇スプリース・グースを製作、飛ばしたハワード・ヒューズのヒューズ航空機において多大の技術革新を起こした。ヒューズは天才的実業家であり航空機と産業に意欲を燃やしたが、映画『エヴィエーター』に描かれているように、奇人を通り越した狂気の人物だった。米空軍当局とラモ、ウールドリッジは辟易し、ふたりは別れてラモ・ウールドリッジ社を創設する。その後、トンプソン社と合併し、社名がTRWとなる。
私がはじめてアメリカを訪れた際、ロスアンジェルス空港脇にそびえるTRW航空宇宙部門ビルを見たのを覚えている。TRWは、米空軍のソー、アトラス、タイタンなどのロケットを開発した。1972年3月、打ち上げ、2003年2月まで交信を続けた無人木星探索機ジュピタ−10の開発製作に関わったのがTRWだ。
その後、宇宙航空部門は売却され、現在は自動車部品サプライヤーである。
欧米企業がそうであるように、TRWも多くの会社を合併吸収し成長した。オールドパーソンズにとり、懐かしいのがイギリスの灯火メーカー、ルーカス。そして現在でもブランド名を継続しているガーリングだ。
1881年生まれのA.H.ガーリングは、知人のブレーキライニング製作の協力からはじまり、ブレーキ開発で名をなした。フォードT型用のライニングは摩耗すると効きがひどく荒くなる欠点があり不成功。
アメリカのロッキード社が油圧ブレーキを販売すると、機械式でもサーボをつければ劣らぬ性能をだせると、開発した。1930年代には、ガーリング開発のブレーキは、ローバーに採用された。40年代になり、ルーカス・グループは、ベンディックス・ブレーキ社を傘下に収めたが、ロッキード、ガーリングに対する競争力不足に悩み、ガーリング・ブレーキを生産していた会社を買収した。
A.H.ガーリングは、ルーカスの傘下に入ることを嫌い、独立し技術コンサルタントとなった。
アメリカ側のヒューズ対ラモ、ウールドリッジ、イギリスのルーカス対ガーリングの葛藤は、いかにも強烈な個性派技術者らしい。
ガーリングの名称は、現在もTRWが用いている。
70年代、私はイギリス・ガーリングで出来たばかりのABS装備車を試乗した。いまでは、左右輪をミューの異なる路面で急制動するテストはびっくりもしなくなった。当時は、ほとんど未知の先進技術。あまり広くないコースで、パッセンジャーシートの技術者が、「そこの左右色の変わった路面でフル制動せよ。白っぽい方のミューは氷並みだよ」「この道幅では、もしかしたらとび出しますよ」「いいから、力いっぱい踏んで」結果は、おなじみABS振動とともに、真っすぐ止まった。
ラモとウールドリッジは、功績ある科学者としてタイム誌のカバーストーリーとなった
最新のガーリング”コレット”キャリパー。コレットなる女性名は、70年代から用いられてきた。たしかチーフエンジニアの3人娘のひとりと聞いた覚えがある。開発は長女アネット(A)からはじまり、バベット(B)を経て最終設計コレット(C)となった
2008/5/31 12:47
おやじブログ おやじ、さらなるダウンサイジング? クルマ
明日、6月1日から原油価格高騰をキチンとユーザーに転化(転嫁よりミエミエ)するガソリン値上げとなる。
わが国のソーリ、与党政治屋どもが範としたがる欧米では、原油高騰はたいへんな事態を招いている。
フランス、イタリア、ポルトガル、スペインの燃料費高騰に抗議した漁民が操業停止、港閉鎖なる手段に出ている。ロンドンの幹線道路の一車線を大型トラック群が抗議占拠した。
イギリスのブラウン首相は、『第3次石油危機』と表現し、北海油田の増産の方針を打ち出した。予定されていたリッター当たり2ペンス(約4円)の燃料税引き上げも先送りする論議もでている。ロイター通信によると、フランスのサルコジ大統領は、付加価値税が原油価格上昇に比例して上がっていいものか、と述べたそうだ。しばらく前だが、アメリカ大統領選挙の共和党候補マッケイン上院議員と民主党候補を争っているクリントン上院議員はガソリン減税を提案していた。ブッシュ大統領が高騰する物価に対処するため、所得税の還元を実施したのは、このブログでも記した。
日本の与党は、2/3議決で暫定税率を復活させ、物価高騰の一因をつくり、6月の最値上げで景気を一層冷却する。しかし、政府与党からブラウン首相、サルコジ大統領の説くような危機感は伝わってこない。空いてきた道路をさらに伸ばすのか。こんどこそ、ほんとうに国際的に恥ずかしいことだ。
このところ河口湖、軽井沢などの試乗会が続いた。都内への出入り、高速道路で感じたのは交通量の減りと、走っている車群の速度が下がったことだ。片側3車線の高速道路の中央分離帯寄りの追い越しレーンをつっぱしっていくのは、大中型トラックが多い。乗用車たちは、左2車線を法定最高+くらいで流している。『なんじ、民どもあまり走るな暫定税率』復活効果か。
私もしばらく前に習ったドイツNGO/メーカー・エコドライブ・テクニックをフルに用いて流したが、取り分は大きい。VWジェッタ2.0Lターボ直噴、6DSGのわが車での都内、河口湖往復では、トリップ平均ネンピ18.3km/Lと表示された。そんなにとろとろ走っているわけではなく、時にはターボFSI、DSGをエンジョイしてだ。ジェッタの燃費情報表示は、かなり正確なのも助けだ。
次のステップは、さらなるダウンサイジングだろうな。候補は3つある。来年登場するホンダの新ハイブリッド、新型プリウス。両車ともにグローバルカーとなるので、どんなサイズになるか。プリウスは、全長、全幅ともやや大きくなるらしい。ホンダの車幅がどうなるか。よもやヨーロッパのCセグのいくつかがなった1800mmは超えないだろうな。VWポロに1.4LターボのみのTSIとドライクラッチ7DSGがついたモデルがでれば、食指は動く。ゴルフで充分なパワートレインなのだから、小型軽量なポロであれば、性能、ネンピはいうことあるまい。

河口湖の帰りトリップ平均は、下り坂のせいか18.3km/Lを示す。290kmを60リッタータンク1/4で走っているので、いいネンピだ
わが国のソーリ、与党政治屋どもが範としたがる欧米では、原油高騰はたいへんな事態を招いている。
フランス、イタリア、ポルトガル、スペインの燃料費高騰に抗議した漁民が操業停止、港閉鎖なる手段に出ている。ロンドンの幹線道路の一車線を大型トラック群が抗議占拠した。
イギリスのブラウン首相は、『第3次石油危機』と表現し、北海油田の増産の方針を打ち出した。予定されていたリッター当たり2ペンス(約4円)の燃料税引き上げも先送りする論議もでている。ロイター通信によると、フランスのサルコジ大統領は、付加価値税が原油価格上昇に比例して上がっていいものか、と述べたそうだ。しばらく前だが、アメリカ大統領選挙の共和党候補マッケイン上院議員と民主党候補を争っているクリントン上院議員はガソリン減税を提案していた。ブッシュ大統領が高騰する物価に対処するため、所得税の還元を実施したのは、このブログでも記した。
日本の与党は、2/3議決で暫定税率を復活させ、物価高騰の一因をつくり、6月の最値上げで景気を一層冷却する。しかし、政府与党からブラウン首相、サルコジ大統領の説くような危機感は伝わってこない。空いてきた道路をさらに伸ばすのか。こんどこそ、ほんとうに国際的に恥ずかしいことだ。
このところ河口湖、軽井沢などの試乗会が続いた。都内への出入り、高速道路で感じたのは交通量の減りと、走っている車群の速度が下がったことだ。片側3車線の高速道路の中央分離帯寄りの追い越しレーンをつっぱしっていくのは、大中型トラックが多い。乗用車たちは、左2車線を法定最高+くらいで流している。『なんじ、民どもあまり走るな暫定税率』復活効果か。
私もしばらく前に習ったドイツNGO/メーカー・エコドライブ・テクニックをフルに用いて流したが、取り分は大きい。VWジェッタ2.0Lターボ直噴、6DSGのわが車での都内、河口湖往復では、トリップ平均ネンピ18.3km/Lと表示された。そんなにとろとろ走っているわけではなく、時にはターボFSI、DSGをエンジョイしてだ。ジェッタの燃費情報表示は、かなり正確なのも助けだ。
次のステップは、さらなるダウンサイジングだろうな。候補は3つある。来年登場するホンダの新ハイブリッド、新型プリウス。両車ともにグローバルカーとなるので、どんなサイズになるか。プリウスは、全長、全幅ともやや大きくなるらしい。ホンダの車幅がどうなるか。よもやヨーロッパのCセグのいくつかがなった1800mmは超えないだろうな。VWポロに1.4LターボのみのTSIとドライクラッチ7DSGがついたモデルがでれば、食指は動く。ゴルフで充分なパワートレインなのだから、小型軽量なポロであれば、性能、ネンピはいうことあるまい。
河口湖の帰りトリップ平均は、下り坂のせいか18.3km/Lを示す。290kmを60リッタータンク1/4で走っているので、いいネンピだ
2008/5/26 10:05
おやじブログ NISSAN 360 その2 クルマ
初日は雨で、もっとも精気のあった参加モノ、いやカモ

日本仕様の日産タクシー・セトリックも登場。外にでると地元のタクシーの気分を害するというのでサーキット敷地内の走行

NISSAN360参加の世界メデイ6百ウン十人中、日本人は80人というので、10%以上。これはスゴイことで、当たり前ではないのだ。
海外でクルマを盛大に生産し販売している日本メーカーにとり、日本市場は“One of the
markets”であり、"The Market"ではないのかもしれないからだ。それだから、80数人はすごい。
昨今、日本でも発売される新型車が海外でワールドプレミアをやるケースが多い。日本のプレスリリースは、お座なりのもので、ウエブで詳細情報と写真を引っぱりださねばならぬ。向こうのメデイアの試乗リポートを読み、フーム、そうかなと知る。しばらくして本邦初(そうだろうナ)公開として発表されても、お古い話と感じられ、気抜けする。
フルーいヤツとお笑いでしょうが、国、故郷、ルーツあってこそ、感情移入製品である自動車の製作メーカーが存在しうると信じたい。メーカーに「あなたの製品は絶対必要ではないのです。他にも選択がいくらでもあるのです。"Needでなく、Wantの製品を造ってこそ、貴方の存在価値があるのです」と申し上げたい。ルノーとアライアンスを組む日産は、日本メーカーであり、日本国内のユーザーへの通弁である自動車ライターを最多数、招いてくれたことは賞賛すべきだ。
わが日本人クルマ乗り、もの書きご同輩、世界から集まったメデイアの中で、最多数の試乗車に乗ったのだそうだ。主催者は、各自が首から下げたIDタグをセンサーでパチッとやり統計をとっていた。半日早く帰りたいから、サーキット走行を先にしてくれと注文をつけた他国のグループがいたそうだ。私たちの対グループがそうで、日程を入れ替えた。おかげで向こうが大雨、こちらがピイカンのエストリル・サーキット試乗となった。マジメにやるものである。
多くの日本メデイアに試乗インプレは掲載されるのだろうから、私はちょっと変わり種を紹介する。
ーカシュカイは、日本名デュアリスで、英国はサンダーランド工場製のCプラットフォーム・ベースのSUVだ。エンジンはルノー製M1D2.0Lコモンレール・ディーゼルとATの組み合わせ。排気規制され通れば、そのまま日本でも売れ筋になりそう。ヨーロッパでは2007年に118,692台売れたとのこと。ヨーロッパの衝突安全規準テストNCAPで最高点を得てもいる(36.82/37満点!)。大雨のカシュカイ(スペルがちがう)地域の試乗にはうってつけの安心、爽快カーだった。
ーNP300ピックアップ 日産車体生産のコンパクト・ピックアップ。YD25DDTIなる呼称の直4は純日産製。なんとはなしに、添乗員のお嬢さんをパッセンジャーシートに乗せ、エストリルの近くの風光明媚な観光地へ行った。カラカラとディーゼル音、振動は伝わるが、会話はちゃんとできる。のんびり一周してきた。でも女性と一緒なのだから、もっとスタイリシュなクルマにすればよかった?!
ーグランド・リヴィナ 発展国向けのミニヴァンで,グランドは、ティーダと同じBプラットフォームの3列シート・ロング型で、インドネシア産。エンジンはMR18DEガソリンで、4ATとの組み合わせ。パワーウインドウ、エアコン、木目調トリムなど、日本的”ミニバン”要素たっぷり。と、前方の車が急制動。こちらもハードめのブレーキング。ずるっと横に出た。ABSなしだった。海岸の砂地駐車場でトライしたら、トラコンもなし。聞くところによると、インドネシアでは高級車であり、お抱え運転手が運転し、ご主人夫妻は2列目に座り、3列目は子供と子守り用なのだそうだ。給料を貰うのだから、アクセレレーター、ブレーキ制御はプロとしてなめらなにこなす。砂地では、ABSなしのポンピングが制動距離を縮めることを思い出した。
ー面白かったのは、日産タクシーのボデイに書いた日本のタクシー仕様セドリック。ちゃんとメーターから領収証が印字されて出る。ちょっと頼りないステアリングだった。
ーEXTERRA SUV Fアルファと称するシャシーは、大型ピックアップ、SUVと共通だが、比較的扱いいいミドサイズ。日本のX-TRAILより本格的なオフロード機能を有する。エンジンはVQの4リッター型だ。ヒルデセント・コントロールもついたランドローバー級の優れもので、価格ははるかに安い。
ーGT-R 自分でおっかなびっくりサーキットを走るより印象的だったのが、"ファストカー”同乗。レーシングドライバーで20年間日産開発ドライバーをやってきたというダーク・ショイマンは、故ポール・フレールが共通の友人だったことを知り、一層プッシュしてくれた。私が試乗したのは、急遽引っ張りだした左ハンドルのスペアカー(乗るはずだった右ハンドル車が、前のドライバー氏が制御コンピュター予測プログラムに反したシフトをしたので、ストを起こしたらしい)。はじめてのサーキットでマニュアルシフトなんてやったら、とっちらかる、コンピューターに任せた方が速いと、オートで走ったのだが、シフトは日本で乗った車より格段にスムーズであったというのが印象。好天候、ドライなので、タイア、ブレーキディスク、パッドは、安全係数を見越して交換したとのこと。スゴい車が出たものだ。

アメリカ生産販売のXTERRAは、大型トラック・ピックアップと共用プラットフォームの本格的オフロードSUV

エストリル・サーキット商用車展示場のボール紙製家具。欧米人の体格・重をしっかり支え、オブジェとしてもいい
日本仕様の日産タクシー・セトリックも登場。外にでると地元のタクシーの気分を害するというのでサーキット敷地内の走行
NISSAN360参加の世界メデイ6百ウン十人中、日本人は80人というので、10%以上。これはスゴイことで、当たり前ではないのだ。
海外でクルマを盛大に生産し販売している日本メーカーにとり、日本市場は“One of the
markets”であり、"The Market"ではないのかもしれないからだ。それだから、80数人はすごい。
昨今、日本でも発売される新型車が海外でワールドプレミアをやるケースが多い。日本のプレスリリースは、お座なりのもので、ウエブで詳細情報と写真を引っぱりださねばならぬ。向こうのメデイアの試乗リポートを読み、フーム、そうかなと知る。しばらくして本邦初(そうだろうナ)公開として発表されても、お古い話と感じられ、気抜けする。
フルーいヤツとお笑いでしょうが、国、故郷、ルーツあってこそ、感情移入製品である自動車の製作メーカーが存在しうると信じたい。メーカーに「あなたの製品は絶対必要ではないのです。他にも選択がいくらでもあるのです。"Needでなく、Wantの製品を造ってこそ、貴方の存在価値があるのです」と申し上げたい。ルノーとアライアンスを組む日産は、日本メーカーであり、日本国内のユーザーへの通弁である自動車ライターを最多数、招いてくれたことは賞賛すべきだ。
わが日本人クルマ乗り、もの書きご同輩、世界から集まったメデイアの中で、最多数の試乗車に乗ったのだそうだ。主催者は、各自が首から下げたIDタグをセンサーでパチッとやり統計をとっていた。半日早く帰りたいから、サーキット走行を先にしてくれと注文をつけた他国のグループがいたそうだ。私たちの対グループがそうで、日程を入れ替えた。おかげで向こうが大雨、こちらがピイカンのエストリル・サーキット試乗となった。マジメにやるものである。
多くの日本メデイアに試乗インプレは掲載されるのだろうから、私はちょっと変わり種を紹介する。
ーカシュカイは、日本名デュアリスで、英国はサンダーランド工場製のCプラットフォーム・ベースのSUVだ。エンジンはルノー製M1D2.0Lコモンレール・ディーゼルとATの組み合わせ。排気規制され通れば、そのまま日本でも売れ筋になりそう。ヨーロッパでは2007年に118,692台売れたとのこと。ヨーロッパの衝突安全規準テストNCAPで最高点を得てもいる(36.82/37満点!)。大雨のカシュカイ(スペルがちがう)地域の試乗にはうってつけの安心、爽快カーだった。
ーNP300ピックアップ 日産車体生産のコンパクト・ピックアップ。YD25DDTIなる呼称の直4は純日産製。なんとはなしに、添乗員のお嬢さんをパッセンジャーシートに乗せ、エストリルの近くの風光明媚な観光地へ行った。カラカラとディーゼル音、振動は伝わるが、会話はちゃんとできる。のんびり一周してきた。でも女性と一緒なのだから、もっとスタイリシュなクルマにすればよかった?!
ーグランド・リヴィナ 発展国向けのミニヴァンで,グランドは、ティーダと同じBプラットフォームの3列シート・ロング型で、インドネシア産。エンジンはMR18DEガソリンで、4ATとの組み合わせ。パワーウインドウ、エアコン、木目調トリムなど、日本的”ミニバン”要素たっぷり。と、前方の車が急制動。こちらもハードめのブレーキング。ずるっと横に出た。ABSなしだった。海岸の砂地駐車場でトライしたら、トラコンもなし。聞くところによると、インドネシアでは高級車であり、お抱え運転手が運転し、ご主人夫妻は2列目に座り、3列目は子供と子守り用なのだそうだ。給料を貰うのだから、アクセレレーター、ブレーキ制御はプロとしてなめらなにこなす。砂地では、ABSなしのポンピングが制動距離を縮めることを思い出した。
ー面白かったのは、日産タクシーのボデイに書いた日本のタクシー仕様セドリック。ちゃんとメーターから領収証が印字されて出る。ちょっと頼りないステアリングだった。
ーEXTERRA SUV Fアルファと称するシャシーは、大型ピックアップ、SUVと共通だが、比較的扱いいいミドサイズ。日本のX-TRAILより本格的なオフロード機能を有する。エンジンはVQの4リッター型だ。ヒルデセント・コントロールもついたランドローバー級の優れもので、価格ははるかに安い。
ーGT-R 自分でおっかなびっくりサーキットを走るより印象的だったのが、"ファストカー”同乗。レーシングドライバーで20年間日産開発ドライバーをやってきたというダーク・ショイマンは、故ポール・フレールが共通の友人だったことを知り、一層プッシュしてくれた。私が試乗したのは、急遽引っ張りだした左ハンドルのスペアカー(乗るはずだった右ハンドル車が、前のドライバー氏が制御コンピュター予測プログラムに反したシフトをしたので、ストを起こしたらしい)。はじめてのサーキットでマニュアルシフトなんてやったら、とっちらかる、コンピューターに任せた方が速いと、オートで走ったのだが、シフトは日本で乗った車より格段にスムーズであったというのが印象。好天候、ドライなので、タイア、ブレーキディスク、パッドは、安全係数を見越して交換したとのこと。スゴい車が出たものだ。
アメリカ生産販売のXTERRAは、大型トラック・ピックアップと共用プラットフォームの本格的オフロードSUV
エストリル・サーキット商用車展示場のボール紙製家具。欧米人の体格・重をしっかり支え、オブジェとしてもいい



