2007/8/31 22:15
ドブロヴニクの城壁 ’07.夏 クロアチア・他 旅行
<城壁1周の散策へ>
本日、2つ目の城壁散策はドブロ。
50KNでロブリイェナッツの砦にも入場できる。
プラッツァ通りとフランシスコ会修道院

ボカール要塞

ロブリイェナッツの砦

下はレヴェリン要塞からの写真。

見えにくいけど、
旧港の右手アーチ状の柱がある建物はかつて造船場だったらしい。
(今はレストランとワインバー)
ロクルム島が左奥に見えている。
左端の建物は海洋博物館と水族館、
右手前の鐘楼はドミニコ会修道院のもの。
その左横に見えるドーム状の屋根は大聖堂。
1周に休憩を含めて2時間。
曇り空の夕方で、日差しがなくて楽だった。
下に下りたら、雷が鳴って、夕立にあった。
日中、晴天で暑いと夕立が来るのが普通なのだと
現地ガイドさんが昼間話していた。
風の種類は3つ
・ブラ 大陸 → 海への風 天気がよくなる。
冬だと強風(25km/h)になるほど。
・ユゴ 海 → 大陸への南風 天気が悪く(雨に)なる
波は高くなり船航海には難。
・マギストラール 暖かい風 水上スポーツに向いている
金曜の夜だから?
7時ごろだっただろうか・・・
旧総督邸前ではブラスバンドが演奏していた。
10時過ぎに教会でオルガンコンサートやピアノ&ヴァイオリンの演奏会など
企画されていてチケットを売っていた。
さすがに疲れてて待ちきれない。
そして・・・ 今夜はお腹いっぱいなので夕食はなし。
本日、2つ目の城壁散策はドブロ。
50KNでロブリイェナッツの砦にも入場できる。
プラッツァ通りとフランシスコ会修道院
ボカール要塞
ロブリイェナッツの砦
下はレヴェリン要塞からの写真。
見えにくいけど、
旧港の右手アーチ状の柱がある建物はかつて造船場だったらしい。
(今はレストランとワインバー)
ロクルム島が左奥に見えている。
左端の建物は海洋博物館と水族館、
右手前の鐘楼はドミニコ会修道院のもの。
その左横に見えるドーム状の屋根は大聖堂。
1周に休憩を含めて2時間。
曇り空の夕方で、日差しがなくて楽だった。
下に下りたら、雷が鳴って、夕立にあった。
日中、晴天で暑いと夕立が来るのが普通なのだと
現地ガイドさんが昼間話していた。
風の種類は3つ
・ブラ 大陸 → 海への風 天気がよくなる。
冬だと強風(25km/h)になるほど。
・ユゴ 海 → 大陸への南風 天気が悪く(雨に)なる
波は高くなり船航海には難。
・マギストラール 暖かい風 水上スポーツに向いている
金曜の夜だから?
7時ごろだっただろうか・・・
旧総督邸前ではブラスバンドが演奏していた。
10時過ぎに教会でオルガンコンサートやピアノ&ヴァイオリンの演奏会など
企画されていてチケットを売っていた。
さすがに疲れてて待ちきれない。
そして・・・ 今夜はお腹いっぱいなので夕食はなし。
2007/8/31 21:49
復興に頑張るドブロヴニク 旧ユーゴスラビアについて
<戦争の爪あと 4>
表通りの建物は
殆ど修復されているドヴロの町。
それでも路地裏には、
まだ戦争の痕が生々しい崩壊したままの建物がある。
城壁から見下ろすと
旧ユーゴ軍の容赦ない攻撃が伺える。

ピエ門から入ってスロープを降りる途中に
攻撃の痕を記した地図が掲示されている。
「半壊」「全壊」「火事」など説明されている。
表通りの建物は
殆ど修復されているドヴロの町。
それでも路地裏には、
まだ戦争の痕が生々しい崩壊したままの建物がある。
城壁から見下ろすと
旧ユーゴ軍の容赦ない攻撃が伺える。
ピエ門から入ってスロープを降りる途中に
攻撃の痕を記した地図が掲示されている。
「半壊」「全壊」「火事」など説明されている。
2007/8/31 21:08
ペレシャツ半島 ワイナリー クナ ’07.夏 クロアチア・他 旅行
<クナ KUNA>
クナの意味は動物の「テン」
1KNコインのデザインにも描かれている。
ペレシャツ半島にはワイナリーが沢山ある。
ワイン造りに敵した環境
(海からの風、南向き斜面の日当たり、斜面に多くある石の熱)
KUNAは1つの町。

マリブラバス(ワイン葡萄の有名種)

「マリ」は「小さい」の意味、その通り背丈が低い。
膝丈くらい。
ちなみに・・・ 手前の葉っぱはキャベツ!!
別に巻く品種もクロアチアにはあるそうだ。
良かった(^_^;) って何が?
この種から2銘柄のワインが出来る。
「DINBACディンガチ」
「PLAVACプラバツ」
地名による違いだけ。
DINGACの方が高価。
DINGAC山は険しくて、ロバしか登れなかったことから
良質のワインにはロバマークのラベルがつけられ、更に値段が上がる。

今もワイナリーの近くに飼われているロバたち。
ワイナリーでワインの試飲。
生ハムとメロン、パン、乾燥イチジクが出された。
室内の天井には生ハムが沢山ぶら下がっていた。
1杯目1口で、既に上機嫌。

赤2種類、白1種類、デザートワインを試飲。
超甘いデザートワインは飲みやすくて、ついゴクゴク行きそうになった・・・
通常1本の葡萄の木から21kgのワインができるが
Peljesac は1本の木から16kgしか作れない程、濃厚。
ここのハウスワインの赤を1本購入。
<聖フランシスコ修道院>
ペレエシャツ半島の最高峰イリアSv.Ilija(標高961m)
麓の町Kunaにはフランシスコ会修道院がある。
18世紀に造られた、バロック様式の建物。
オレビチの船乗り等のお墓があり
今も10時と18時にミサがあるそうだ。
修道士は4名。
教会の中の像

建物裏の壁にあった彫刻

クナの意味は動物の「テン」
1KNコインのデザインにも描かれている。
ペレシャツ半島にはワイナリーが沢山ある。
ワイン造りに敵した環境
(海からの風、南向き斜面の日当たり、斜面に多くある石の熱)
KUNAは1つの町。
マリブラバス(ワイン葡萄の有名種)
「マリ」は「小さい」の意味、その通り背丈が低い。
膝丈くらい。
ちなみに・・・ 手前の葉っぱはキャベツ!!
別に巻く品種もクロアチアにはあるそうだ。
良かった(^_^;) って何が?
この種から2銘柄のワインが出来る。
「DINBACディンガチ」
「PLAVACプラバツ」
地名による違いだけ。
DINGACの方が高価。
DINGAC山は険しくて、ロバしか登れなかったことから
良質のワインにはロバマークのラベルがつけられ、更に値段が上がる。
今もワイナリーの近くに飼われているロバたち。
ワイナリーでワインの試飲。
生ハムとメロン、パン、乾燥イチジクが出された。
室内の天井には生ハムが沢山ぶら下がっていた。
1杯目1口で、既に上機嫌。
赤2種類、白1種類、デザートワインを試飲。
超甘いデザートワインは飲みやすくて、ついゴクゴク行きそうになった・・・
通常1本の葡萄の木から21kgのワインができるが
Peljesac は1本の木から16kgしか作れない程、濃厚。
ここのハウスワインの赤を1本購入。
<聖フランシスコ修道院>
ペレエシャツ半島の最高峰イリアSv.Ilija(標高961m)
麓の町Kunaにはフランシスコ会修道院がある。
18世紀に造られた、バロック様式の建物。
オレビチの船乗り等のお墓があり
今も10時と18時にミサがあるそうだ。
修道士は4名。
教会の中の像
建物裏の壁にあった彫刻
2007/8/31 21:00
欲攫タ半島 ’07.夏 クロアチア・他 旅行
<オレビチOrebic>

ドブロヴニクから111km、2時間。
ペレシャツ半島(PELJESAC)半島の住民1500人の町。
かつては町民の殆どが船乗りだった。
今も船員の家が残っている。

ここは、今も船長さんのお宅

ドアに錨のマークが彫られている。

海岸でみかけたお祖父さんと孫娘の2人。
魚をさばいて、海水で洗っていた。
どうやって捕まえたのか聞いたところ
昨夜のうちにネットを仕掛けておいて
昼間獲りにいったのだと教えてくれた。
孫娘も英語がペラペラだった。
コルチュラ島へのフェリーは 6時〜23時 15便 片道15KN だったが
季節により便数が減るようだ。

コルチュラ島の周りには大小40個の島があるが
その殆どが無人島。
コルチュラ島には石きり場があり、島内とドブロヴニクの町で使用されている。
コルチュラ島には救急車がないので急患がでると
オレビックなど半島の町からフェリーで救急車を載せていくそうだ。
ドブロヴニクから111km、2時間。
ペレシャツ半島(PELJESAC)半島の住民1500人の町。
かつては町民の殆どが船乗りだった。
今も船員の家が残っている。
ここは、今も船長さんのお宅
ドアに錨のマークが彫られている。
海岸でみかけたお祖父さんと孫娘の2人。
魚をさばいて、海水で洗っていた。
どうやって捕まえたのか聞いたところ
昨夜のうちにネットを仕掛けておいて
昼間獲りにいったのだと教えてくれた。
孫娘も英語がペラペラだった。
コルチュラ島へのフェリーは 6時〜23時 15便 片道15KN だったが
季節により便数が減るようだ。
コルチュラ島の周りには大小40個の島があるが
その殆どが無人島。
コルチュラ島には石きり場があり、島内とドブロヴニクの町で使用されている。
コルチュラ島には救急車がないので急患がでると
オレビックなど半島の町からフェリーで救急車を載せていくそうだ。
2007/8/31 20:30
8月31日は自由行動。オプショナルツアーに。 ’07.夏 クロアチア・他 旅行
8月31日(金)
6:30am モーニングコールは今日も人の手によるもの。
しかも・・・時間を間違えて、かなり早かったし。
どうやら部屋を間違えたらしい。
7:00am〜 朝食Buffe可能。
クッキーをつまみながら物色。
8:30am ペレェシャツ半島1日観光
(オプショナルツアー \16,000 昼食・ワイン試飲付き) へ出発
ドブロの町の近くには森林があったが、
造船が発達すると樹木は伐採されて
草木ばかりの枯れた土地になってしまった。

アドリア海岸線6000kmに1185島がある。
「アドリア」名はギリシア語がルーツ。
最も深い所は1004m、ドブロとイタリア・パリの間。
海流により、ゴミはイタリア側に流れてしまうらしい。
途中のドライブイン。
オレンジ色の屋根瓦の様子を撮影。
半円の瓦を互い違いにかみ合わせているのが分かる。
日本の瓦とは組方が異なる。
6:30am モーニングコールは今日も人の手によるもの。
しかも・・・時間を間違えて、かなり早かったし。
どうやら部屋を間違えたらしい。
7:00am〜 朝食Buffe可能。
クッキーをつまみながら物色。
8:30am ペレェシャツ半島1日観光
(オプショナルツアー \16,000 昼食・ワイン試飲付き) へ出発
ドブロの町の近くには森林があったが、
造船が発達すると樹木は伐採されて
草木ばかりの枯れた土地になってしまった。
アドリア海岸線6000kmに1185島がある。
「アドリア」名はギリシア語がルーツ。
最も深い所は1004m、ドブロとイタリア・パリの間。
海流により、ゴミはイタリア側に流れてしまうらしい。
途中のドライブイン。
オレンジ色の屋根瓦の様子を撮影。
半円の瓦を互い違いにかみ合わせているのが分かる。
日本の瓦とは組方が異なる。
2007/8/30 21:20
世界遺産 コトル2 ’07.夏 クロアチア・他 旅行
(大聖堂・カテドラル)
聖トリフォン広場St, Tryphon’s Squareの
聖トリフォン大聖堂St.Tryphone’s Cathedoral

9Cに最初の教会が建てられた。
そこに増改築して12Cに今の容姿になった。
主祭壇には14C、聖トリフォンの生活を描いたフレスコ画が少し残っている。
正面中央の本体はルネッサンス様式、
2つの鐘楼上部はバロック様式。
1979年の地震で破壊された鐘楼は造り直しているが
資金不足で、特に左側は修復の途中になっている。
(大聖堂内のアーチ部分は壊れずに残った)

聖トリフォンは、アジアから来たコトルの保護・支持者で
キリスト教を止めさせようとした政府により首を切られた。
商人のアンドレ(リ)ア・サランセツがコンスタンチノープルからコトルに持ち込んだ
聖トリフォンの遺骨と遺品の全てを収めるために
809年に建立された聖堂。
毎年2月2日には聖トリフォン祭がとり行われる。
(聖ルカ教会)
1195年に建設された。

(セルビア正教会・聖ニコラス教会)
聖ルカ広場にある。
1540年 ドミニカ会修道院だった
1896年 大火災により焼失・崩壊し
1902〜1909年 再建築された。
かつてロシア教会に支配された痕跡は
建物の上の複十字架に残っっている。

ここに海運・水兵学校を作って
教育したこともあった。
ローマカトリック教会からセルビア正教会へと替わった。
(聖クララ教会・フランシスコ修道院)

14世紀、ジランシスコ修道院の横に隣接して
ベネディクト女史修道院が建てられた。
15世紀、ギリシャ教会に替わる。
現在は図書館として政府の資料保管庫になっていて
一般観光客は入ることは出来ない
(司教の広場)
広場の片隅に樹齢300年、コトルで一番の古木が立っている。
<司教の家>は、貴族ドラゴ家がカテドラル横へ移転した後の建物の一部を利用。
9世紀初頭の土台の上に、14〜15世紀に改築された。
<聖ミハエル教会>は司教の家の北東に位置する。
1166年トリフォンカテドラル奉献記録にも記載されている。
(城壁)
高さ2〜20m、厚さ4〜5m、
全長4〜4.5kmの城壁(ランバート)は
数百年(約900年?)かけて海岸線から山の斜面まで
町を取り囲むように造られた。
斜面中腹の教会は病人が祈りに行く教会とされた。
(要は、隔離するのが目的か?)

聖トリフォン広場St, Tryphon’s Squareの
聖トリフォン大聖堂St.Tryphone’s Cathedoral
9Cに最初の教会が建てられた。
そこに増改築して12Cに今の容姿になった。
主祭壇には14C、聖トリフォンの生活を描いたフレスコ画が少し残っている。
正面中央の本体はルネッサンス様式、
2つの鐘楼上部はバロック様式。
1979年の地震で破壊された鐘楼は造り直しているが
資金不足で、特に左側は修復の途中になっている。
(大聖堂内のアーチ部分は壊れずに残った)
聖トリフォンは、アジアから来たコトルの保護・支持者で
キリスト教を止めさせようとした政府により首を切られた。
商人のアンドレ(リ)ア・サランセツがコンスタンチノープルからコトルに持ち込んだ
聖トリフォンの遺骨と遺品の全てを収めるために
809年に建立された聖堂。
毎年2月2日には聖トリフォン祭がとり行われる。
(聖ルカ教会)
1195年に建設された。
(セルビア正教会・聖ニコラス教会)
聖ルカ広場にある。
1540年 ドミニカ会修道院だった
1896年 大火災により焼失・崩壊し
1902〜1909年 再建築された。
かつてロシア教会に支配された痕跡は
建物の上の複十字架に残っっている。
ここに海運・水兵学校を作って
教育したこともあった。
ローマカトリック教会からセルビア正教会へと替わった。
(聖クララ教会・フランシスコ修道院)
14世紀、ジランシスコ修道院の横に隣接して
ベネディクト女史修道院が建てられた。
15世紀、ギリシャ教会に替わる。
現在は図書館として政府の資料保管庫になっていて
一般観光客は入ることは出来ない
(司教の広場)
広場の片隅に樹齢300年、コトルで一番の古木が立っている。
<司教の家>は、貴族ドラゴ家がカテドラル横へ移転した後の建物の一部を利用。
9世紀初頭の土台の上に、14〜15世紀に改築された。
<聖ミハエル教会>は司教の家の北東に位置する。
1166年トリフォンカテドラル奉献記録にも記載されている。
(城壁)
高さ2〜20m、厚さ4〜5m、
全長4〜4.5kmの城壁(ランバート)は
数百年(約900年?)かけて海岸線から山の斜面まで
町を取り囲むように造られた。
斜面中腹の教会は病人が祈りに行く教会とされた。
(要は、隔離するのが目的か?)
2007/8/30 21:10
世界遺産 コトル1 ’07.夏 クロアチア・他 旅行
<コトルKotor>
1979年にコトルは世界遺産に登録された。
ユネスコからの資金援助で修復中
人口 約2万人の都市
高さ2〜20m、全長4〜4.5kmの城壁に囲まれている
山の斜面に造った一番高いところは
海抜250mの聖ジョバンニ要塞。
BC3世紀 イーリア人が支配(旧市街地)。
BC2世紀 ローマ人が入ってきた。
〜476年までは西ローマ帝国が支配
476年〜1185 東ローマ帝国・ビザンチンが支配
この時代に要塞都市として、城壁を作った。
(修復を繰り返しながら17世紀に現在の様子に)
後にゴート族を退けるなどに役立ったが・・・
歴史的には、ハンガリー、クロアチア、ボスニア、オーストリア、ロシア、フランス、ブルガリア、イタリアなどに支配されてきた。
(西の門)

「海の門」と呼ばれ16世紀に造られた。
門の上の日付「1944.11.21」は第二次世界大戦でコトルが解放された日。

☆は旧ユーゴの紋章から。
注)五ぼう星は旧ユーゴスラビア5国
(マケドニア・スロベニア・クロアチア・アルバニア・セルビア)を表す。
6番目のモンテネグロは入ってない。
入り口は、5〜6世紀に作られた北の門「川の門」、
南門「グルディック門」の計3箇所。

左が北門 中央はセルビア教会
(中央広場)
西門を入ったすぐ目の前に「武器の広場」がある。
名前のとおり、かつては武器庫だったところ。
(時計台)
17Cのもの。
オスマン・トルコ支配時代には刑務所として使われた。
正面下方の三角はさらし台だったところ。
最初は時計は写真の1個だったが、
フランス統治時代に南(向かって右壁面)に1つ増設された。
(宮廷・旧市庁舎)
旧市庁舎は食物倉庫に使われ、
19Cには劇場に使われたので「フランス劇場」「ナポレオン劇場」とも呼ばれる。
54mある宮廷は軍隊のさまざまな目的に使用された。
(小麦粉の広場)
角にパン屋があった。
アーチやバルコニーが特徴的な17Cのピマ宮殿(PimaPalace)や

質素なつくりの14〜17Cのブッツァ宮殿(BucaPalace)が並んでいる。
どの民家(庶民)にも、玄関(入り口)上に紋章がある。
1979年にコトルは世界遺産に登録された。
ユネスコからの資金援助で修復中
人口 約2万人の都市
高さ2〜20m、全長4〜4.5kmの城壁に囲まれている
山の斜面に造った一番高いところは
海抜250mの聖ジョバンニ要塞。
BC3世紀 イーリア人が支配(旧市街地)。
BC2世紀 ローマ人が入ってきた。
〜476年までは西ローマ帝国が支配
476年〜1185 東ローマ帝国・ビザンチンが支配
この時代に要塞都市として、城壁を作った。
(修復を繰り返しながら17世紀に現在の様子に)
後にゴート族を退けるなどに役立ったが・・・
歴史的には、ハンガリー、クロアチア、ボスニア、オーストリア、ロシア、フランス、ブルガリア、イタリアなどに支配されてきた。
(西の門)
「海の門」と呼ばれ16世紀に造られた。
門の上の日付「1944.11.21」は第二次世界大戦でコトルが解放された日。
☆は旧ユーゴの紋章から。
注)五ぼう星は旧ユーゴスラビア5国
(マケドニア・スロベニア・クロアチア・アルバニア・セルビア)を表す。
6番目のモンテネグロは入ってない。
入り口は、5〜6世紀に作られた北の門「川の門」、
南門「グルディック門」の計3箇所。
左が北門 中央はセルビア教会
(中央広場)
西門を入ったすぐ目の前に「武器の広場」がある。
名前のとおり、かつては武器庫だったところ。
(時計台)
17Cのもの。
オスマン・トルコ支配時代には刑務所として使われた。
正面下方の三角はさらし台だったところ。
最初は時計は写真の1個だったが、
フランス統治時代に南(向かって右壁面)に1つ増設された。
(宮廷・旧市庁舎)
旧市庁舎は食物倉庫に使われ、
19Cには劇場に使われたので「フランス劇場」「ナポレオン劇場」とも呼ばれる。
54mある宮廷は軍隊のさまざまな目的に使用された。
(小麦粉の広場)
角にパン屋があった。
アーチやバルコニーが特徴的な17Cのピマ宮殿(PimaPalace)や
質素なつくりの14〜17Cのブッツァ宮殿(BucaPalace)が並んでいる。
どの民家(庶民)にも、玄関(入り口)上に紋章がある。
2007/8/30 20:42
世界遺産 ドブロヴニク ’07.夏 クロアチア・他 旅行
8月30日(木)
7:00am モーニングコール。人の声だった。
7:00am〜 朝食Buffe可能
パンケーキが美味しかった。
8:30am ドブロヴニク旧市街観光へ出発
11:45am 水族館近くのレストランで昼食
蛸と烏賊のお料理

午後 モンテネグロのコトル半日観光(オプショナルツアー \8,000 夕食付き) へ出かけた
<ドブロヴニクDubrovnik>

7世紀にドブロヴニクが出来た。
8世紀から城壁を作り始め、増改築を続けた。
ナポレオンに4年間支配された
第二次世界大戦後、オーストリアからユーゴスラビアへ。
1991年独立宣言後、旧ユーゴ軍からの攻撃をうけた。
住人2000人の町に
2000発の砲弾が落とされ、200人以上の死者がでた。
32の教会、モスク、シナゴーグ(ユダヤ教寺院)がある。
1994年 世界遺産に登録
(城壁)
全長2000m。
5つの砦塔がある
(1つはロブリイェナッツ砦で城壁から離れている)
50KNで1周できる。
20KNでイヤホンガイドのレンタルができる(日本語はなかった)
(ロブリイェナッツの砦)
旧市街・城壁の西側。
この砦から、湾を挟んで旧市街が見えるようだが
行かなかった。
城壁1周の券でこちらの砦の入場が出来る。
(ピレ門Gradska Vrata Pile)
16世紀に作られた、西の門。
かつては木製の跳ね橋だったが、
今は石製の固定橋になっている。
門の上にはドブロヴニクの守護聖人ヴラホ像がある
(街には40体くらいのブラホ像があるらしい)

(プラッツァ通り)
30mのメインストリート。
かつて島と本土の間の水路だった所を
15世紀に埋めたてて陸続きにしてプラッツァ通りになった。

ラグーザと呼ばれる衛兵は
(ラテン語LIBELTAS自由が語源らしい)
プロチェ門、スポンザ宮殿からピエ門の間を
ドラムを鳴らしながら1日数回行進する。
朝夕はピレ門の前にも立っていた。

(オノフリオの噴水)
15世紀に造られた建築家・彫刻家オノフリオの(大)噴水。
12km離れた源泉から今も変わらず水を引いてきている。
反対側のルシャ広場にはオノフリオ(小)噴水がある。
(聖フランシスコ修道院)
1320年に建築完了した修道院。
病院や薬局の機能を果たしていた。
1667年の地震で多くは壊れ建て直されたが
ロマネスク様式の回廊の被害は少なく、
壁面のフレスコ画はイタリアの画家により
フランシスコの生活を描いたもので
一部がそのまま残っている。

1317年開業の薬局がある。
ヨーロパで3番目に古い薬局、
現在も営業を続けている最古の薬局とされている。
修道院の中庭でハーブを育て薬に使った。

自家製剤クリームなども販売されていた。
ちなみに・・・シワ取りクリームは市販のものの倍の値段だったが
肌さわりは滑らかで無臭・無刺激でよさそうだった。
(スポンザ宮殿)
ここの上にも聖ヴラホ像がある。
海洋貿易を管理していた宮殿。
今は、古い資料が展示されている古文書館に。

(聖ヴラホ教会)
夜、パイプオルガンの2時間コンサートが開かれたりしている。

(旧総督邸)
入り口の前には衛兵がたっている。
総督は不正防止のために、毎月交替していた。
(大聖堂)
イギリス王国・リチャード国王からの資金でロマニカ教会として建立。
1667年の地震により崩壊し、
1720年にバロック様式にて再建された。
地震の時、教会の土台に6世紀の教会跡が発見されて
ドブロヴニクの歴史が覆された。
イコンや聖母子などの絵画や財宝が展示保管されている。
(聖イグナチオ教会と修道院)
独立戦争で破壊されて修復中。
再建されたイグナチオ教会の大理石の祭壇とドーム天井のフレスコ画が壮大。
(入国管理・検疫)
町の北東角・レヴェリン要塞の近くのプロチェ門の先には
かつての入国管理・検疫所があり
外洋からの船で入港する場合は必ず立寄らねばならなかった。
施設内で、40日間、隔離されて過ごす。
発病ない場合には入港が許可されたが
1人でも病人がいると、その船の全乗り組み員が入港できない。
(スルジ山)
旧市街の背後にそびえる、標高412mの山。
ロープウェイが架かっていたが独立戦渦に巻き込まれて破壊された。
戦争を忘れないために山頂駅はそのままの状態で残されることになった。
徒歩かTAXIで行けるが、まだ、地雷が残っているから危険だと言われた。

7:00am モーニングコール。人の声だった。
7:00am〜 朝食Buffe可能
パンケーキが美味しかった。
8:30am ドブロヴニク旧市街観光へ出発
11:45am 水族館近くのレストランで昼食
蛸と烏賊のお料理
午後 モンテネグロのコトル半日観光(オプショナルツアー \8,000 夕食付き) へ出かけた
<ドブロヴニクDubrovnik>
7世紀にドブロヴニクが出来た。
8世紀から城壁を作り始め、増改築を続けた。
ナポレオンに4年間支配された
第二次世界大戦後、オーストリアからユーゴスラビアへ。
1991年独立宣言後、旧ユーゴ軍からの攻撃をうけた。
住人2000人の町に
2000発の砲弾が落とされ、200人以上の死者がでた。
32の教会、モスク、シナゴーグ(ユダヤ教寺院)がある。
1994年 世界遺産に登録
(城壁)
全長2000m。
5つの砦塔がある
(1つはロブリイェナッツ砦で城壁から離れている)
50KNで1周できる。
20KNでイヤホンガイドのレンタルができる(日本語はなかった)
(ロブリイェナッツの砦)
旧市街・城壁の西側。
この砦から、湾を挟んで旧市街が見えるようだが
行かなかった。
城壁1周の券でこちらの砦の入場が出来る。
(ピレ門Gradska Vrata Pile)
16世紀に作られた、西の門。
かつては木製の跳ね橋だったが、
今は石製の固定橋になっている。
門の上にはドブロヴニクの守護聖人ヴラホ像がある
(街には40体くらいのブラホ像があるらしい)
(プラッツァ通り)
30mのメインストリート。
かつて島と本土の間の水路だった所を
15世紀に埋めたてて陸続きにしてプラッツァ通りになった。
ラグーザと呼ばれる衛兵は
(ラテン語LIBELTAS自由が語源らしい)
プロチェ門、スポンザ宮殿からピエ門の間を
ドラムを鳴らしながら1日数回行進する。
朝夕はピレ門の前にも立っていた。
(オノフリオの噴水)
15世紀に造られた建築家・彫刻家オノフリオの(大)噴水。
12km離れた源泉から今も変わらず水を引いてきている。
反対側のルシャ広場にはオノフリオ(小)噴水がある。
(聖フランシスコ修道院)
1320年に建築完了した修道院。
病院や薬局の機能を果たしていた。
1667年の地震で多くは壊れ建て直されたが
ロマネスク様式の回廊の被害は少なく、
壁面のフレスコ画はイタリアの画家により
フランシスコの生活を描いたもので
一部がそのまま残っている。
1317年開業の薬局がある。
ヨーロパで3番目に古い薬局、
現在も営業を続けている最古の薬局とされている。
修道院の中庭でハーブを育て薬に使った。
自家製剤クリームなども販売されていた。
ちなみに・・・シワ取りクリームは市販のものの倍の値段だったが
肌さわりは滑らかで無臭・無刺激でよさそうだった。
(スポンザ宮殿)
ここの上にも聖ヴラホ像がある。
海洋貿易を管理していた宮殿。
今は、古い資料が展示されている古文書館に。
(聖ヴラホ教会)
夜、パイプオルガンの2時間コンサートが開かれたりしている。
(旧総督邸)
入り口の前には衛兵がたっている。
総督は不正防止のために、毎月交替していた。
(大聖堂)
イギリス王国・リチャード国王からの資金でロマニカ教会として建立。
1667年の地震により崩壊し、
1720年にバロック様式にて再建された。
地震の時、教会の土台に6世紀の教会跡が発見されて
ドブロヴニクの歴史が覆された。
イコンや聖母子などの絵画や財宝が展示保管されている。
(聖イグナチオ教会と修道院)
独立戦争で破壊されて修復中。
再建されたイグナチオ教会の大理石の祭壇とドーム天井のフレスコ画が壮大。
(入国管理・検疫)
町の北東角・レヴェリン要塞の近くのプロチェ門の先には
かつての入国管理・検疫所があり
外洋からの船で入港する場合は必ず立寄らねばならなかった。
施設内で、40日間、隔離されて過ごす。
発病ない場合には入港が許可されたが
1人でも病人がいると、その船の全乗り組み員が入港できない。
(スルジ山)
旧市街の背後にそびえる、標高412mの山。
ロープウェイが架かっていたが独立戦渦に巻き込まれて破壊された。
戦争を忘れないために山頂駅はそのままの状態で残されることになった。
徒歩かTAXIで行けるが、まだ、地雷が残っているから危険だと言われた。
2007/8/30 20:30
モンテネグロについて 旧ユーゴスラビアについて
モンテネグロ共和国 Republic of Montenegro
(概要)
6〜7世紀ごろ、
モンテネグロ人等のスラブ系民族がバルカン半島に定住開始。
11世紀 セルビア王国の一部になった。
14~18世紀 オスマン・トルコに占領され、
トルコ人移住。オスマン・トルコ崩壊
1878年 モンテネグロ公国として独立。
1910年 公国から王国へ
1916年 王政廃止
1917年 第一次世界大戦でセルビアに編入されて
ユーゴスラビア王国の一部になった。
1941年 第二次世界大戦中にイタリアに占拠された。
1944年11月21日 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の5番目の国となった。
旧ユーゴスラビア独立紛争から残った連邦共和国セルビア・モンテネグロから
2006年5月21日、投票率86.5%の住民投票55.5%賛成で自治を決定。
同年に6月に独立宣言をした、世界で最も新しい国。
名前の由来は伊語で「黒い山」
国土 1万3,812ku (福島県とほぼ同じ)
山地が多く、中央にカルスト地形がみられる。
海岸線は全長約300kmにおよぶ。
コトルスカ湾(Boka Kotorska Bat)はフィヨルドが美しい。
湾を横断するフェリー(大型観光バスが乗れる程大きい)が
運行されている。
カキの養殖がされているらしい。

島に教会が立っていた。
海岸保養地・城塞都市のヴドゥバはビーチが綺麗で人気のリゾートになっている。
コトルから南へ30kmのスヴェティ・ステファン島は道で繋がれた小さな島。
過疎化が進み、住民がいなくなった後1960年に島全体をHotelとしてOpenさせた。
建物をそのまま生かし、壁に囲まれておりプライバシーが守られるので
世界中のセレブが利用するリゾート地になった。
人口 約63万人
首都 ポドゴリツァ (人口15万人)
民族 モンテネグロ人 43% セルビア人 32% ボスニア人 8%
アルバニア人 5% イスラム系 4% クロアチア人1% 他7%
言語 セルビア語(モンテネグロ語とも言われている) 他、各地方の言語
気候 地中海性気候 夏暑く、秋から春にかけて雨が降る。
コトルでは年間112日は晴天だと言われている。
通貨 かつて、リナル・マルク → 現在はユーロ通貨使用
(EU加盟が最優先課題)
産業 観光業が大きい。
他に、アルミニウム等の製造業 農牧。 失業率17%
(日本との関係)
日本より、文化無償資金協力により、文化財保存用機材を供与。
企業による投資は、大同メタルがコトル市の自動車用ベアリング工場を買収したほか、商船三井がビエラ港に船員研修センター(日本人クルーよりアジア人乗務員の育成が目的らしいとのこと)を開設するなど。
(概要)
6〜7世紀ごろ、
モンテネグロ人等のスラブ系民族がバルカン半島に定住開始。
11世紀 セルビア王国の一部になった。
14~18世紀 オスマン・トルコに占領され、
トルコ人移住。オスマン・トルコ崩壊
1878年 モンテネグロ公国として独立。
1910年 公国から王国へ
1916年 王政廃止
1917年 第一次世界大戦でセルビアに編入されて
ユーゴスラビア王国の一部になった。
1941年 第二次世界大戦中にイタリアに占拠された。
1944年11月21日 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の5番目の国となった。
旧ユーゴスラビア独立紛争から残った連邦共和国セルビア・モンテネグロから
2006年5月21日、投票率86.5%の住民投票55.5%賛成で自治を決定。
同年に6月に独立宣言をした、世界で最も新しい国。
名前の由来は伊語で「黒い山」
国土 1万3,812ku (福島県とほぼ同じ)
山地が多く、中央にカルスト地形がみられる。
海岸線は全長約300kmにおよぶ。
コトルスカ湾(Boka Kotorska Bat)はフィヨルドが美しい。
湾を横断するフェリー(大型観光バスが乗れる程大きい)が
運行されている。
カキの養殖がされているらしい。
島に教会が立っていた。
海岸保養地・城塞都市のヴドゥバはビーチが綺麗で人気のリゾートになっている。
コトルから南へ30kmのスヴェティ・ステファン島は道で繋がれた小さな島。
過疎化が進み、住民がいなくなった後1960年に島全体をHotelとしてOpenさせた。
建物をそのまま生かし、壁に囲まれておりプライバシーが守られるので
世界中のセレブが利用するリゾート地になった。
人口 約63万人
首都 ポドゴリツァ (人口15万人)
民族 モンテネグロ人 43% セルビア人 32% ボスニア人 8%
アルバニア人 5% イスラム系 4% クロアチア人1% 他7%
言語 セルビア語(モンテネグロ語とも言われている) 他、各地方の言語
気候 地中海性気候 夏暑く、秋から春にかけて雨が降る。
コトルでは年間112日は晴天だと言われている。
通貨 かつて、リナル・マルク → 現在はユーロ通貨使用
(EU加盟が最優先課題)
産業 観光業が大きい。
他に、アルミニウム等の製造業 農牧。 失業率17%
(日本との関係)
日本より、文化無償資金協力により、文化財保存用機材を供与。
企業による投資は、大同メタルがコトル市の自動車用ベアリング工場を買収したほか、商船三井がビエラ港に船員研修センター(日本人クルーよりアジア人乗務員の育成が目的らしいとのこと)を開設するなど。
2007/8/29 22:47
ドブロのホテル ’07.夏 クロアチア・他 旅行
<ARGOSY アゴーシー ホテル>
DUBRAVA BABIN KUK CR-20000 DUBROVNIK CROATIA

Dobrovnik から車で10分程度、
少し離れたリゾート地のバビン・クック地区。
半島の海岸線に中級クラスのホテルが立ち並ぶエリア。
ホテルは高台にあり、
プライベートビーチまでは徒歩7〜8分下りなければならない。
半島の北にはグルージュ港があり
大きな客船が数隻停泊していた。
※更に大きな船がドブロヴニクの沖合いに
停泊してボートで客を輸送していた。
部屋のテラスから北の裏庭を見下ろすろすと
遠くに近代的な大きな橋も見えた。

部屋の前には広いテラスが。
大はしゃぎで出てみると
隣の部屋の男性が海パンとタオルを干しに出てきた。
更に、向かい側の部屋の窓が開き、ツアーで一緒の母娘さんが・・・
隣と向かいとの4部屋で共有になるため
物騒で開けっ放しにはできない。

エアコンもあるのだが、天井のファンで風を送ると気持ちよい。

DUBRAVA BABIN KUK CR-20000 DUBROVNIK CROATIA
Dobrovnik から車で10分程度、
少し離れたリゾート地のバビン・クック地区。
半島の海岸線に中級クラスのホテルが立ち並ぶエリア。
ホテルは高台にあり、
プライベートビーチまでは徒歩7〜8分下りなければならない。
半島の北にはグルージュ港があり
大きな客船が数隻停泊していた。
※更に大きな船がドブロヴニクの沖合いに
停泊してボートで客を輸送していた。
部屋のテラスから北の裏庭を見下ろすろすと
遠くに近代的な大きな橋も見えた。
部屋の前には広いテラスが。
大はしゃぎで出てみると
隣の部屋の男性が海パンとタオルを干しに出てきた。
更に、向かい側の部屋の窓が開き、ツアーで一緒の母娘さんが・・・
隣と向かいとの4部屋で共有になるため
物騒で開けっ放しにはできない。
エアコンもあるのだが、天井のファンで風を送ると気持ちよい。
