2007/3/11 23:02
ハケひとつ 父のこと
土曜は休日出勤
とは言っても普段の業務の延長ではなく
仕事場のレイアウト変更にともなって
一旦室内のものをすべて外に出し
フロアのゴム製マットを張替え
タバコのヤニが染み付いた壁を塗り替えるというもの
当初、壁は前面下地処理のためにヤニを落としてから
ペンキを塗る予定だったのだが
どう考えてもそれをしていたら一日で仕事が終わらないことが判明したので
途中からは下地処理無しにそのまま上塗りする事に
私はローラーとハケ担当
他にスプレーガンを使って塗る人が二人
ローラーもハケも、ペンキを垂らさずに塗るのは本当に難しい
プロだったオヤジ
http://diary.jp.aol.com/h7exadxb/159.html
http://diary.jp.aol.com/h7exadxb/160.html
が俺のガキの頃簡単そうに見えるローラーでも
一人前の仕事が出来るようになるのは
3年掛かるって言ってたっけ
ハケで使ってローラーでは塗れないような細かい場所を塗っていて
ハケ裁きもままならない
オヤジはこのハケ一本で俺を育ててくれたのかと思うと
いまさらながらに胸が奥が痛かった
もっと学生の時オヤジの仕事を手伝えばよかったな。。。
もっともっといろいろ教えてもらえればよかった…
そんなオヤジは今年3回忌
とは言っても普段の業務の延長ではなく
仕事場のレイアウト変更にともなって
一旦室内のものをすべて外に出し
フロアのゴム製マットを張替え
タバコのヤニが染み付いた壁を塗り替えるというもの
当初、壁は前面下地処理のためにヤニを落としてから
ペンキを塗る予定だったのだが
どう考えてもそれをしていたら一日で仕事が終わらないことが判明したので
途中からは下地処理無しにそのまま上塗りする事に
私はローラーとハケ担当
他にスプレーガンを使って塗る人が二人
ローラーもハケも、ペンキを垂らさずに塗るのは本当に難しい
プロだったオヤジ
http://diary.jp.aol.com/h7exadxb/159.html
http://diary.jp.aol.com/h7exadxb/160.html
が俺のガキの頃簡単そうに見えるローラーでも
一人前の仕事が出来るようになるのは
3年掛かるって言ってたっけ
ハケで使ってローラーでは塗れないような細かい場所を塗っていて
ハケ裁きもままならない
オヤジはこのハケ一本で俺を育ててくれたのかと思うと
いまさらながらに胸が奥が痛かった
もっと学生の時オヤジの仕事を手伝えばよかったな。。。
もっともっといろいろ教えてもらえればよかった…
そんなオヤジは今年3回忌
2005/6/5 18:02
最後の旅行 父のこと

↑山形の空。手前はラフランスの花。
GWの終り、5月6日〜8日まで父と山形へ旅行へ行った。昨年の10月末に末期がんの告知を受けてから、これだけを楽しみにがんばってきた父だった。昔から渓流釣りが唯一の趣味で、暇さえあれば釣りに出かけていた。私が幼い頃は八ヶ岳の麓の川上村(今は名前が変ってると思われる)の梓川が主な釣り場だったのだが、晩年はクルマを何時間も走らせて山形まで足を伸ばしていた。私は当初誘われておらず、また大型連休も5日までであったので頭数に入ってなかったのだが、この機会を逃したらもう2度と一緒に旅行できないと思い急遽一緒に行くことにした。妻も本当に一緒に行きたがっていたが、仕事をどうしても休むわけにはいかず泣く泣く諦めた。私が旅行に参加することを告げると父は手放しで喜んだ。運転手が増えたことで母も父の看護に専念できるので嬉しそうだった。
旅行はハプニングから幕が開けた。いきなり東北道でK察にスピード違反で私が捕まったのだ。わざわざ自分のクルマからレーダーを持ってきて付けていたのに父が眠っているときにうるさいからとスイッチを切ったまま、連休の遊び疲れでぼーっと運転していたらいきなり赤いサイレン。最悪。。。その後は自重してゆっくり走っていたので当然何事もなく、目的地へと淡々と走った。
大雪だった今年は5月だというのに所々にまだ雪が残っていて、その脇にさくらが咲いているというなんとも幻想的な風景を走って目的の川に付くと、そこには無常にも大量の雪解け水と、行く手を阻む残雪。とてもじゃないが川に近づける状態ではなかった。しょうがないので別の川に移動。しかしどこも似たような状況。ようやくなんとか糸を垂らせることができそうな場所を見つけて釣りをするが、自分ひとりではクルマから下りることさえできなくなった父はクルマから我々兄弟が釣っているところを見るだけでいいと、結局釣りはしなかった。しかし、強い風にまともに竿がさばけず父の目の前で目的の魚を釣り上げることは出来なかった。が、ちょうど川原に芽吹いていたふきのとうや土筆、タラの芽などの山菜を収穫した。
父は山形にセカンドハウスを持っている。仕事を引退したら山形で第二の人生をやり直すと、60の時に購入したものだ。今回もそこへ泊まる。周りをラフランスの樹の畑に囲まれ、近くには最上川、家の隣にはボロボロだが蔵もあった。老後は蔵を自分でリフォームして作業場を作り、好きなことをしていたいと夢を語っていた。
家に着くとやはり長旅の疲れか夕飯も早々に父は寝込んでしまった。兄と私はクルマで5分の温泉へと行く。温泉でゆっくりと温まって長旅の疲れを癒す。おかげでいい感じで体がほぐれたが、その夜はひさびさの兄の大きないびきに寝ることができなかった。。。
翌日は地元の人のツテを伝って岩魚を養殖している人を紹介して頂く。父がお世話になった人に岩魚の燻製を作ってお礼がしたいというのだ。運良く養殖している人が見つかり岩魚を仕入れることができた。その養殖している池は山から湧き出る清水を利用していてとても贅沢な感じがして羨ましい限りであった。仕入れたは数なんと50匹。。。ま、父の希望だから仕方ない。早速持ち帰ってえらとはらわたを取り除く。50匹も居るためやってもやっても終わらない。しかも氷につけて持ってきたので冷たくて敵わない。兄と交代しながらなんとか50匹の岩魚をさばききった。その中から形の小さいものを選んで、その日の夕食の材料とする。一方は昨日取った山菜と一緒にてんぷらに、もう一方はうどといっしょに味噌汁に。この味噌汁こそ、父が切望していたものであった。その晩の父はものすごくよく食べた。これが本当に胃がんを患っている人かと思うくらいよく食べた。
こうして父との最後の旅行は過ぎていった。最後の日、私たち兄弟はまだ山形に残る父と母に別れを告げて新幹線で帰らなければならかった。その時交わした言葉がよもや私が父が交わす最後の言葉になるとは思っていなかった。でも最後に父の望む旅行を一緒に行くことができて本当によかったと思う。
2005/6/5 14:18
御礼 父のこと
今朝無事に自宅に到着致しました。
葬儀はつつがなく終り、最近の習慣ということで告別式の日に初七日も済ませました。
今度は7月の四十九日に帰ることになりそうです。
今夜あたりからまたぼちぼち更新を再開させて頂きます。
葬儀はつつがなく終り、最近の習慣ということで告別式の日に初七日も済ませました。
今度は7月の四十九日に帰ることになりそうです。
今夜あたりからまたぼちぼち更新を再開させて頂きます。
2005/5/30 5:15
喪中 父のこと
父逝去の為暫くの為更新を止めさせて頂きます。
浜名湖SAより。
浜名湖SAより。
2005/4/15 22:58
70回目の誕生日 父のこと
昨年末に余命3ヶ月の胃がんと宣言されてからもう4ヶ月経ったことになる。
年末に兄と今日は迎えられないだろうと二人で話していた。
しかし今日を迎えることができたのは父の執念としかいえないだろう。
多少体重が減ったとはいえ、まだまだ電話口の声は元気でこれが末期がん患者なんて微塵も感じさせなかった。
生きていてくれてありがとう。
貴方の残りの人生は抗がん剤の副作用とガンそのものの痛みで決して楽なものではないけれど、それでももう少しがんばって生きていて欲しい。
年末に兄と今日は迎えられないだろうと二人で話していた。
しかし今日を迎えることができたのは父の執念としかいえないだろう。
多少体重が減ったとはいえ、まだまだ電話口の声は元気でこれが末期がん患者なんて微塵も感じさせなかった。
生きていてくれてありがとう。
貴方の残りの人生は抗がん剤の副作用とガンそのものの痛みで決して楽なものではないけれど、それでももう少しがんばって生きていて欲しい。
2005/3/20 23:17
帰京 父のこと
お休み頂いてる間に週末を利用して東京帰りました。
第一の理由は父の体が心配だったこと。
もうひとつは・・・、別の記事にします。
で、結論から言うと、彼はとっても元気でした。
といってもガンの進行が止まったわけでもなく、体重の減少が止まったわけでもありません。
しかし、前回会ったときには流動食しか口に出来なかった父が、今回は、普通にお雑煮や煮豆や、かにを食べていたのを見て驚きました。まさにそれは生きる為の食事で、イコールガンとの戦いでもあるのです。胃ガンである父は、食事に苦痛を伴います。食べての美味しいと感じるのは最初の一口だけだそうです。その後はひたすら体重を減らさないために我慢して食べる。嫌でも食べる。食べたくなくても食べる。その姿からは見ていて気迫を感じました。普段食べることは楽しいこと、美味しいこと、大きな楽しみである私にとってショックな現実でした。
ちょっとでも思っていたものと違う料理が出ると罵声を浴びせられる義母にも頭の下がる想いです。帰り際、駅へ送ってもらう道すがら、そのことに対して私が謝ると「病気が言わせてるんだから気にしない」と言ってくれた深く感謝しています。
今抗がん剤を変えて来週から2クール目の治療を開始する父。もしうまくいって少しでも進行を遅らせることができれば、4月にはもしかしたら我が家へ来てくれるかもしれません。入院せずにわがままを言って特別に医師の許可を得て自宅で治療を続けていたからこそ、今の元気があるのかも。昨年末に余命3ヶ月と言われてもうすぐ4月。どうやら70回目の誕生日は無事迎えられそうです。
第一の理由は父の体が心配だったこと。
もうひとつは・・・、別の記事にします。
で、結論から言うと、彼はとっても元気でした。
といってもガンの進行が止まったわけでもなく、体重の減少が止まったわけでもありません。
しかし、前回会ったときには流動食しか口に出来なかった父が、今回は、普通にお雑煮や煮豆や、かにを食べていたのを見て驚きました。まさにそれは生きる為の食事で、イコールガンとの戦いでもあるのです。胃ガンである父は、食事に苦痛を伴います。食べての美味しいと感じるのは最初の一口だけだそうです。その後はひたすら体重を減らさないために我慢して食べる。嫌でも食べる。食べたくなくても食べる。その姿からは見ていて気迫を感じました。普段食べることは楽しいこと、美味しいこと、大きな楽しみである私にとってショックな現実でした。
ちょっとでも思っていたものと違う料理が出ると罵声を浴びせられる義母にも頭の下がる想いです。帰り際、駅へ送ってもらう道すがら、そのことに対して私が謝ると「病気が言わせてるんだから気にしない」と言ってくれた深く感謝しています。
今抗がん剤を変えて来週から2クール目の治療を開始する父。もしうまくいって少しでも進行を遅らせることができれば、4月にはもしかしたら我が家へ来てくれるかもしれません。入院せずにわがままを言って特別に医師の許可を得て自宅で治療を続けていたからこそ、今の元気があるのかも。昨年末に余命3ヶ月と言われてもうすぐ4月。どうやら70回目の誕生日は無事迎えられそうです。
2005/1/30 20:11
夢 父のこと
今日は朝方まで夜更かししていたくせに朝8時に目が醒めてしまった。なんとなくすぐに眠れそうになかったので1時間程『SLUM DUNK』を読んでウルウルしてから再びベッドに入った。それから昼までうとうとしていたのだが、眠りが浅かったのか夢を見た。
夢の内容はというと、東京にある高尾山(小学生の遠足で登ったことある)に、登山が好きな父とそして小学生の時に亡くなった祖父の3人でハイキングというものだった。父は若い頃登山が好きで、米と味噌と釣り竿をもって下駄を履いてアルプスに出かけて行っては登っていたらしい。祖父は祖父で散歩好きで小さい頃よく近くの井の頭公園や深大寺に連れて行ってもらっていた。そんな祖父だが父と同じ胃がんで亡くなっている。父が同じ胃がんに冒されたというべきか。この二人と一緒に登山(ハイキング)するというのは一体どういう意味があるだろう。。。
夢の中の父は元気で、一方祖父はというとなぜかガンの末期の状態なのにスタスタ登山道を歩いている。が、突然痛みに苦しみだすのだ。祖父が亡くなった時私は小学校の高学年だったが、祖父がどんな入院生活を送っていたかあまり記憶がない。覚えてるのは病室での穏やかな表情と、見舞いに行った私にいつもピーナッツを振舞ってくれたことだけ。
しかし夢の中の祖父はガンの痛みで苦しみ悶えている。地面に突っ伏しうんうん唸っているのだが、私はオロオロするだけで何もできない。父はというと探したが見当たらなかった。動転した私が唯一できたことは祖父の背中をさすることだけだった。とめどなく涙を流しながら。
夢はそこで醒めた。しばらくぼーっとして何も考えられなかった。今のところ父は小康状態で体重の減少も止まっている。胃がちょっと痛む程度で苦しみもがいてるということもない。今は祖父が亡くなった時とは違い、痛みの緩和ケアという面で昔と比較できないほど進歩している。そして決定的に違うのは、祖父が最後まで自分の病気を知らなかったのに対し、父はすでに告知を受け、最後の時を迎えるまでいかに有意義に過ごすかということを考えられる状況にあることだ。幸い父は自分の死を冷静に受け入れ、取り乱すこともなく淡々と残りの日々を過ごしてくれている。どうしてそんなに自分の死を素直に受け入れられるのか、周りのほうが不思議なほど穏やかである。そんな中、この夢は一体何を意味するのか。答えは見つからないかもしれないが、時間を掛けて探していこう。
夢の内容はというと、東京にある高尾山(小学生の遠足で登ったことある)に、登山が好きな父とそして小学生の時に亡くなった祖父の3人でハイキングというものだった。父は若い頃登山が好きで、米と味噌と釣り竿をもって下駄を履いてアルプスに出かけて行っては登っていたらしい。祖父は祖父で散歩好きで小さい頃よく近くの井の頭公園や深大寺に連れて行ってもらっていた。そんな祖父だが父と同じ胃がんで亡くなっている。父が同じ胃がんに冒されたというべきか。この二人と一緒に登山(ハイキング)するというのは一体どういう意味があるだろう。。。
夢の中の父は元気で、一方祖父はというとなぜかガンの末期の状態なのにスタスタ登山道を歩いている。が、突然痛みに苦しみだすのだ。祖父が亡くなった時私は小学校の高学年だったが、祖父がどんな入院生活を送っていたかあまり記憶がない。覚えてるのは病室での穏やかな表情と、見舞いに行った私にいつもピーナッツを振舞ってくれたことだけ。
しかし夢の中の祖父はガンの痛みで苦しみ悶えている。地面に突っ伏しうんうん唸っているのだが、私はオロオロするだけで何もできない。父はというと探したが見当たらなかった。動転した私が唯一できたことは祖父の背中をさすることだけだった。とめどなく涙を流しながら。
夢はそこで醒めた。しばらくぼーっとして何も考えられなかった。今のところ父は小康状態で体重の減少も止まっている。胃がちょっと痛む程度で苦しみもがいてるということもない。今は祖父が亡くなった時とは違い、痛みの緩和ケアという面で昔と比較できないほど進歩している。そして決定的に違うのは、祖父が最後まで自分の病気を知らなかったのに対し、父はすでに告知を受け、最後の時を迎えるまでいかに有意義に過ごすかということを考えられる状況にあることだ。幸い父は自分の死を冷静に受け入れ、取り乱すこともなく淡々と残りの日々を過ごしてくれている。どうしてそんなに自分の死を素直に受け入れられるのか、周りのほうが不思議なほど穏やかである。そんな中、この夢は一体何を意味するのか。答えは見つからないかもしれないが、時間を掛けて探していこう。
2005/1/15 3:22
父の仕事A 父のこと
↑”レベッカはリバティの中にいる”
やがて映画の仕事も邦画が下火になったことで減り、メインはテレビCMのセットの塗装になっていく。高校生の頃バイト代欲しさに父の仕事を手伝ったのもCMの仕事のひとつだった。学生援護会の就職情報誌「an」のCMで、リクルートスーツをずぶ濡れにしてやって来た企業のエントランスホールで、萩原聖人演ずる学生が受付書類をカバンから出そうとするとそこにはコウモリ傘が。。。といったようなストーリーのCMだったと思う。その頃は家の近くに撮影スタジオがあり、自転車でも行ける距離だった。スタジオに組まれたセットは一面ベニヤの壁&床。しかしCMデザイナーから届いたFAXの絵コンテは全面大理石となっていた。どうするのかと思っていたら、塗装でベニヤ板を大理石に変身させるという。嘘か本当かわからないが、父はそんな塗装方法を発明したのは自分が一番で特許をとっておけばよかったと言っていた(まぁハリウッドではそんな技術とっくにあったと思うが)。しかしいうだけあって色を重ねる毎にどんどんと本物の大理石のようになっていく。あとでCMを見たが、偽物とは思えない出来栄えだった。
私がスタジオに来てやることと言えば、材料の搬入などの雑用だけで、ほとんどすることがなかった。なんせこの仕事、塗りで一人前になるにも3〜5年、材料の色合わせに至っては10年は掛かると言われたからだ。そんなこんなで父の仕事振りを見ているだけしかなかったのだが、密閉されたスタジオで大量に塗料を噴霧するため、室内には塗料が霧となって漂い、これが原因で翌日私は全身酷いジンマシンに襲われた。このことがあってから以後一切父の仕事は手伝わなくなったし、継ごうとも思わなくなった。まぁ現実には継ぎたくてもたぶん美術の才能が無かったので無理だっただろうが。
そんな父がした仕事はテレビを見る人であれば必ず一度は見ていると思う。なんせバブルの頃は流れるCMの6割に携わったと父が言っていたからだ(マジ?)。実際仕事依頼のFAXを見ても誰もが知っている大企業の名前のCMセットの絵コンテばかりだった。具体的にどんなものかというと、あまり覚えていないのだが
・SONY ミニステレオコンポイ リバティ(上の画像)
・キリン ラガービール ハリソン・フォードシリーズ
(海の家にハリソン・フォードがやってきて一言「キリンラガービールくださ〜い」等)
・キリン ラガービール 中山美穂シリーズ(駄々茶豆たべた〜〜〜い!等)
・資生堂 スパーマイルドシャンプー ♪シャンプーをしませんか〜♪編
・JRA 木村拓也 ダンス編
などなど。実際にCMを見れば、あーコレコレってわかると思うだが、あまり父と一緒にテレビに向かったことがないので、実際どのCMが父が手がけた仕事なのかよくわからない。この他にも1985年の筑波博や、東京ディズニーランドのオープン時のパビリオンのセットの塗装などもやっていて、招待券を貰ったりもした。藤原紀香の生写真を持っていたのでびっくりして聞いたら、父の会社で請け負ったセットで撮ったCMに出演したので、デザイナーの人が撮影に立ち会った際に撮って焼き増ししたものをくれたという。私は特に藤原紀香には興味がなかったのでくれると言われたのに貰わなかったが。
そんな父はもうすぐ70歳になるが、未だに仕事をしている。病気のことはまだ仕事仲間には言っていない。60まで働いたらその後は田舎に引っ込んで毎日釣り三昧だ なんて言ってたくせにずるずる辞められずにいる。早く仕事なんて仲間に引き継いで辞めてしまえばいいのに。そして70の誕生日を無事迎えて、まだ雪が残るあの場所へ尺以上の岩魚を釣りに行けたらいいのに。
2005/1/14 23:12
父の仕事@ 父のこと

普段テレビをつけていれば必ず目にするCM。父はそんなCMの裏方だ。
母と出会った美大を中退し、映画会社に就職。そこでセットの塗装の仕事を覚える。やがて映画会社は業績不振のためピンク路線へ転向。それを機に退社し、独立。しばらくは仕事がなくてかなり貧乏だったらしいが、私が生まれる頃には仕事も順調に増えて軌道に乗ってきたらしい。だから幸運にも私には貧しい思い出はない。
小学生の頃一度「戦国自衛隊」の野外セットに連れて行ってもらったことがある。俳優さんはおろか監督やスタッフは誰もおらずただぽつんと組み立てられたばかりの砦があったのだが、そんなものに興味を引かれるわけもなく、裏手の田んぼで金魚釣りをして遊んでいた。父はと言えば、新品同様の砦を、戦国時代の風合いにするため砦を塗料で汚していた。なんとなく雰囲気は覚えているのだが、本編を見てもどの場面にでてくるのがわからないのが残念だ。
普段は滅多に自慢しない父だが、黒澤明監督の「影武者」「乱」の仕事だけは劇場招待券を握り締め「このセットは俺がやったんだ」と得意気に話していた。きっと幼い私にも理解できる自分の仕事だったからだろう。
続く
2004/12/14 2:55
帰着報告 父のこと
とりあえず東京から帰ってきました
色々あったので整理して書いていこうと思います
少しは親孝行してきました
穏やかな笑顔が見れてこちらも安心しました
彼に残された時間はあまりありませんが、その間にもう一個くらいは
うれしいニュースを持っていけるよう努力してみようと思います
その話はまた別の機会に
色々あったので整理して書いていこうと思います
少しは親孝行してきました
穏やかな笑顔が見れてこちらも安心しました
彼に残された時間はあまりありませんが、その間にもう一個くらいは
うれしいニュースを持っていけるよう努力してみようと思います
その話はまた別の機会に
