2007/3/31  23:10

この横浜に勝るあらめや。  分類なし

H19・3・31(土) 
 九時過ぎまで寝ていた。遅い朝食の後に、自宅でのんびりしていた。午後、大行社の岡樹延氏が昨日お世話になったA会長の会社にご挨拶に行くとのことで、同道する。岡氏と分かれてから、有隣堂にて本を幾冊か購入してから帰宅しようと思ったら、伊勢佐木町に長い行列が出来ている。何かと思ったら「カレーミュージアム」という、カレーの専門店が今日で閉店することで、イベントが行われていた。
 私は、残念ながら、そのミュージアムも、新横浜にある「ラーメン博物館」とやらへ足を運んだことがない。特別な理由があるわけではないが、酒を飲みに行くのではないので、たかだか一食のために、遠くに出かけたり、並んだりするのがばかげているし、それに、最大の理由はヨコハマの匂いがしないし、街に似合わないと勝手に思っているからである。「ドンキホーテ」やマクドナルドなんかも好きではない。日本中が画一化、新宿化しているような気がする。街の匂いが消えてゆくのが何か寂しい。
 
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 ワルシャワの街は、第二次世界大戦の際に徹底的に破壊されたそうだ。復興に際して、新しい街づくりをするのではなく、生き残りの人たちの記憶を辿って、昔のままに街を復興した。いや再現したのである。その理由を知らないで訪れた観光客などは、まるで中世にタイムスリップしたような感じがする。と感激するそうだ。パリなども古い町並みを極力残す努力をしている。それに比べて日本はどうか。いやわが街ヨコハマも例外ではない。子供に訪ねられて、答えられないような看板などが目抜き通りに氾濫している。そんな商売を否定する気はないが、ある程度条例で規制できないものだろうか。
 誕生日に、家族から「百年前の横浜・神奈川」という豪華な絵葉書の写真集をプレゼントされた。そこに写る明治の横浜・・・。当然ながらその面影は全くない。文化が進み都市が発展するのをNoと言っているわけでもなく、懐古趣味でもない。しかし、開発という安易な利権のために海は埋め立てられ、いまや東京湾はコンクリートに囲まれた巨大なドブと化しているではないか。
 森鴎外が作詞した「横浜市歌」の一節に、「されば港の数は多かれど、この横浜に勝るあらめや」と。(私はこの一説が好きで、全国、どの港に行ってもこの一説を口ずさみ、一人悦に入る)
 その横浜港もまだ埋め立ての計画があるとか。
 いやはや、「カレーミュージアム」の閉店が、都市論のようになってしまった。自宅に戻って夕食時に、久しぶりにサントリーの「プレミアムモルツ」を一本飲んだら眠くなってしまい。床に入ったが、雨と風の音に起こされた。
 神様も心無いことをするものだ。せめて桜の季節が終わる頃にこの風雨を寄こせば良いのに。桜が可愛そうである。

2007/3/31  12:32

ああモンテンルパ。  分類なし

H19・3・30(金)
 午後四時半から、新宿の東通りにある「大久」という料理屋にて、四宮正貴先生の還暦のお祝いがあり、岡樹延、柳田勲、長谷川光良の諸氏と「ルノアール」にて待ち合わせて出席。諸先生、諸先輩、同志等約三十名が出席。まだ体調が回復していないので、乾杯のビールに口をつけただけで、あとはウーロン茶にしていた。国学院の大原康男先生や民族革新会議の山口申先生、一水会の鈴木邦男、木村三浩の両氏、山浦嘉久、藤元正義、渡辺謙二の諸先生など、楽しい酒席となった。

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 赤いチャンチヤンコが良く似合ふ四宮先生。隣は山口申先生。

 四宮正貴先生が、十八番の「俵星玄藩」や「ああモンテンルパの夜は更けて」などを熱唱された。モンテンルパといえば、平成三年に野村先生のご好意で四宮先生らと訪れたことがある。それは私がまだ大悲会の会長の座に居たときに、会の十五周年を某ホテルで行った。そのときに、四宮先生が祝辞と共に歌ってくれたのが、渡辺はま子の「ああモンテンルパの夜は更けて」。その歌を聞いた野村先生が「四宮君、モンテンルパに言ったことがあるのかい。行ったことがないのならば、一緒に行こう」と、それからすぐにフィリッピン行きとなった。
 刑務所を慰問してから、裏手にある慰霊碑に向かった。慰霊碑では線香を手向け、慰霊の鐘を撞いた後に、四宮先生が「ああモンテンルパの夜は更けて」の歌を歌った。しかし四宮先生は、感極まって歌の途中で号泣。それにつられて野村先生はじめ全員の頬を涙が伝った。野村先生が自決なされる二年前、すなわち平成三年の三月のことで゜ある。毎年、暮れになるとテレビではナツメロの特番が組まれるが、「ああモンテンルパの夜は更けて」の歌を聞くたびに、その日のことが脳裏に甦る。

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モンテンルパ刑務所の裏にある慰霊碑の前で。
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モンテンルパ刑務所の正門にて。
左より、新藤厚、古谷喜久男、四宮先生、ガイド、蜷川、野村先生、ヒロ山口の諸氏。

 還暦のお祝いが終了後に、小川勝正先生の奥さんのお店「オンリーワン」に岡、柳田、山平の諸氏と転戦。ママさんにご無沙汰を詫びて送ればせながら一周年記念のお祝いを渡す。一時間ほどいて横浜に帰る途中に、政友皇志会の綿谷会長から電話があり、岡氏と共に関内の「おりーぶ」へ。その後、福富町へ転戦して、深夜一時近くに帰宅。

2007/3/29  21:14

烈士は暮年にして壮心已まず。  分類なし

H19・3・29(木) 
 熱も下がり、寒気もしない。いくらか咳が出るくらいでどうやら快方に向かっている。 起床後に少し自宅の前を歩いてみた。マアマアであるが、まだ酒を口にするような体調ではない。午後一時、五日の長谷川光良氏の激励会の会場となる中華料理店に、その店を紹介してくれた大行社横浜支部の内川徳彦氏と待ち合わせて、店の責任者氏との最終的な打合せを行う。ご好意で、「当日は貸切で使用して下さい」とのこと。
 二時から事務所にて機関誌の表紙の印刷。三時、朝日新聞社のY氏の取材を受ける。昨年の堀米氏による加藤紘一邸焼き討ち事件や昨今の民族派運動について等、約一時間ほど。私は勝手に東京本社から来たと思っていたが、聞けば大阪本社からわざわざ、私の取材のためだけに出張してきた、という話。恐縮する。体調が悪いのと、自宅で別の印刷を行わなければならなかったので、丁寧に謝して大阪に帰るというY氏を関内駅までお送りし、再会を約す。
 五時過ぎに自宅に戻り、机に向かい、夕食の後に少し横になった。
 明日は、日頃からお世話になっていてる四宮正貴先生の還暦の祝いがあり、その小宴に出席するために新宿に行く予定。
 世話人の犬塚哲爾さんからの案内状に「一般社会人の多くはこの年で定年になるようです。所謂『還暦』、生まれた年の干支に還る、数え年六十一歳を指し、『本掛還り』ともいうそうです」とあった。
 昔ならばいざしらず、現代の六十などはまだ青年であると言っても過言ではない。
 伊能忠敬は五十歳になってから、当時三十余歳の高橋作左衛門の門に入って測量を学び、七十歳を越えて日本全国の測量地図を完成させた。趙州和尚と言う人は六十歳から参禅修行をはじめて、二十年を経てようやく大悟徹底し爾後衆生を化度(衆生を教え導くこと)した。孔子も五十にして天命を知り、六十にして耳順(した)がい、七十にして心の欲ところにしたがって矩を踰(こ)えずと言った。老いるにしたがってますます識高く非凡の健康と精力とを有して、その寿命を君国のために捧げ尽くすことこそ、真の日本人といえる。
 烈士は暮年にして、壮心已まず。とか。

2007/3/28  20:44

薄れ行く昭和の灯。  分類なし

H19・3・28(水) 
 早朝から病院に予約のカードを入れて、採血に行く。熱は下がり、咳もそれほどではなくなったたが、まだ体がだるい。午前中はそのまま寝ていた。午後もまた別の医者で検査。思いのほか時間がかかり、夕方にやっと帰宅した。
 今朝の新聞にはクレージーキャッツの植木等氏が亡くなったとの記事があった。私の世代はドリフーターズよりもクレージーキャッツである。実は私がライブを見た一番最初のスターは、クレージーキャッツであった。確か中学の一年生のときで、場所は、現在市民ホールとなっている馬車道の横浜宝塚劇場、通称「横宝(よこほう)」。その斜め前には東宝の映画館があったが、ついニ、三年前に解体されてホテルになってしまった。クレージーキャッツのライブ(最も当時はライブなどとは言わずに「実演」と言っていた)で覚えているのは、客席に下りてきた植木等の顔がドーランで真っ白だったこと。その後、「横宝」では、寺内タケシとブルージーンズの演奏を聴きに行った。そのときの前座が「ジュンとネネ」という女の子の二人組みだった。
 それから随分と後の話だが、クレージーキャッツや植木等の主演した映画、「日本一の無責任男」などのシリーズの監督をした古沢憲吾と言う人が、大アジア主義を基にしたスケールの大きい映画を撮る、ということで友人から脚本を見せていただいたことがあった。もちろん当時も今も、そんな莫大な費用のかかる映画の制作に関わることなどできるわけもない。しかし、どうしても植木等の映画の監督とその映画とが、イメージ的に結びつかずいたことを覚えている。
 クレージーキャッツの一人一人は、コミックバンドというよりも、ジャズやカントリーなどでも本格的なプレイヤーであり、役者としても個性的な人たちであった。個人的には、ハナ肇の「馬鹿が戦車でやってくる」や「なつかしい風来坊」「馬鹿丸出し」などの映画が大好きで、最近もレンタルして見たばかりである。
 徐々に薄れつつある昭和の灯の暖かさを忘れぬために、一昨日は、赤坂にあった「ニューラテンクォーター」の物語を読み、昨日は、以前読んだ「赤坂ナイトクラブの光と影」を再読し、友人の若き映画プロデューサーの都築新吾君から教えられた「六本木水脈」という本をアマゾンで注文した。
 夜七時より、自宅の近くで近所のオヤジとオバハンたちの会合に家族で顔を出すが、ウーロン茶のみで帰って来た。
 具合が悪いから酒をやめているのではない。美味い酒を飲めるような体になるまで自粛しているだけである。健康は常に酒と共にある。
 分かっちゃいるけど、やめられねぇ。こりゃ! 植木等さんに合掌。

2007/3/27  16:34

まだ微熱と寒気が・・・。  分類なし

H19・3・27(火) 
 今日も体調悪し。やっと朝食に起きて、すぐまたそのまま布団に入った。午後、三時半から医者へ。とりあえず風邪薬を三日分だけ貰い、明日の午前中に採血して結果を見ましょうとのこと。連日、微熱と寒気が続いている。
 今日は、ヨンドン会であるが、欠席するわけには行かず、とりあえず顔だけ出して帰ってくるつもり。
 最悪の状態である。

2007/3/26  21:23

十八年前もあまり変わりません。  分類なし

H19・3・26(月) 
九時起床。まだ体が本調子ではない。寒気がするし、だるい。午前中に事務所に行き、掃除して、机に向かう。午後一時、柳田勲、長谷川光良両氏を関内駅に迎えに行き、事務所にて四月五日の長谷川君の激励会の打ち合わせ。二時半に両氏を送って、そのまま帰宅。そのまま少し横になっていた。
 何気なく、昔の「獄中日記」に目を通していたら、平成元年の今日の頁に目がいった。その日、私は網走の「切り通し農場」にて日曜「免業」だった。
 「昨夜から吹き出した『能取湖おろし』の風が耳について仲々寝付かれなかった。免業日だからいいもの、これが作業日だったら、この寒風の中で、おそらく仕事どころではあるまい。朝食終了後、免業が二日続くときは大掃除。九時から誕生会。本所では誕生会といえば、集会室にその月生まれた人が集まって、テレビ映画を見て、ショートケーキを食べてコーヒーを飲む、といったもので、昨年は七十名ほどもいる三月生まれの懲役と一緒に誕生日を祝った。今回は、泊り込み農場の職員室で、ネスカフェを三杯おかわりしてケーキを味わい、三十八歳という歳を実感することになった」
 それから十八年が過ぎて、文字通り馬齢を重ねてきた。少年老い易く、学成りがたしを実感している今日この頃である。
 今日も休肝日。これで三日目であるが、もう一月も酒を飲んでいないような気分である。

2007/3/26  10:43

禁酒三日目。  分類なし

H19・3・25(日)   
 深夜、風が強く陋屋が風邪に揺れてうるさくてほとんど寝れなかった。
九時に起床した時には、横山、湯浅の両氏はすでに起きていた。午前中はまだ風雨強し。遅い朝食を中華街の「中華飯店」にて。正午に、横山氏を関内駅に送って自宅に戻る。体調が悪いので三時まで横になっていた。湯浅氏栃木へ帰る。
四時半にY氏に迎えに来ていただき、お世話になっている先輩の快気祝いのために中華街へ。請われて挨拶を述べる。石橋卓次氏らと同席。ここでも体調悪く、ウーロン茶のみ。終了後に、Y氏と興国義塾の同志等と、黄金町の「じえもん」に行くが、運が良いのか悪いのか分からないが、「森伊蔵」が入っているのに、ただ眺めるだけ。久しぶりに悔しい思いをした。ここではひたすら水を飲んでいた。十時過ぎに帰宅して、十二時前には寝た。禁酒三日目なり。
 今朝、北陸を中心に強い地震が発生し、相当被害が出た模様。

2007/3/26  10:30

横山、湯浅の両氏泊。  分類なし

H19・3・24(土) 
 花粉症か風邪かどちらか分からぬ症状が続き、絶不調である。なぜか歯も痛くなり、あわてて近くの歯医者に行った。自宅に戻ると、四時過ぎに今日の「革正評論青年講座」の勉強会に参加するために、栃木社友会の湯浅進君や横山孝平君が来訪。六時に関内駅に、今日の講師である野間健先生を迎えに行くが、この頃になると寒気がして、どうしようもなくなった。余程中座しようと思ったが、何とか頑張って最後まで講義を聴き終えた。直会は近くのそば屋で。針谷大輔、鈴木信行、小針政人、大野義貴の諸氏なども参加。
解散後に湯浅、小針、横山、松本の諸氏らが二次会へ行くが、体調悪く辞退して、自宅で横になっている。十二時近くに横山、湯浅の両氏帰宅して、我が家泊。

2007/3/24  9:50

風邪か花粉症か、歯も痛い。そしてニュースも多い。  分類なし

H19・3・23(金)
 気ぜわしい一日だった。起床後、昨日の酒がたたってか体調が悪い。風邪か花粉症か分からないほど、鼻水が出て、目はしょぼしょぼ、頭も重い。おまけに、歯も痛い。それに二日酔いも加わって、死にたいような気分である。
 四月五日の長谷川光良氏の激励会の案内状と封筒の印刷のために午前中は事務所へ。柳田勲氏と電話で打合せをしながら印刷を終えた。しかし会場となる中華レストランの地図を忘れていたので、午後から家族で、その店に食事に行き、地図をコピーしてもらった。
 三時に、友人二名が来訪。その後に、布団に入って寝てしまった。目を覚ませば七時。夕食をとるきもせずに、布団の中で澤田ふじ子の「葉菊の露」を読んでいた。明日の勉強会や日曜日の先輩の快気祝い、そして来週は会合が三つも入っているので、何とか体調を回復しなければ・・・。
 藩命によって、佐幕側に味方し、会津城で官軍と戦い捕虜となった郡上藩の凌霜隊。国許へ返されたが、藩は新政府を慮って牢獄に監禁する。過酷な環境からようやく赦免されたところまで読んで、眠くなった。

 昨日の新聞で、作家の城山三郎氏が亡くなったことを知った。私は伝記小説が好きであり、城山氏のほかには小島直記氏のファンである。城山氏の小説に最初に興味を持ったのが「一歩の距離」で、その後、氏の小説はほとんど読了している。経済小説も良いが、昭和の政治家、軍人を扱ったものが好きだ。享年七十九歳。合掌。

 同じ日の新聞に、山口元労相の収監も報じられていた。旧東京協和、旧安全両信用組合の乱脈融資事件で背任や詐欺など四罪に問われ、懲役三年六月の実刑判決が確定した、山口敏夫氏が、昨日、小菅の東京拘置所に収監された。六十六歳という高齢での懲役はきついかも知れないが、健康に留意して頑張ってほしいと思っている。
 随分前のことだが、その山口氏が前記の事件で騒がれている頃に、六本木にあった眞露ガーデンという焼肉屋で食事を共にする機会があった。同席したのは、亡くなられた若島征四郎先生と、事業家のM社長。山口氏が、「何か良い対処法はないかね」と、私に話を向けたので、いつも野村先生から言われていることがあります。「熱い風呂に入っているときはジッとしていろと」。

 地方選挙が二十二日に告示された。特に今回は東京都知事選挙が注目されている。おそらく今回は投票率が伸びるに違いない。都民でないので投票権がないのが残念である。

2007/3/23  16:02

勉強会のご案内。  分類なし

第九回・革正評論青年講座のご案内

日    時  三月二十四日(土)午後六時半開場・七時開演。八時半終了。
場    所  横浜市技能文化会館八階 八〇二号室(大研修室)
           〒二三一ー八五七五 横浜市中区万代町二丁目四番地七
          電話〇四五ー六八一ー六五五一(JR関内駅下車徒歩五分)
会場整理費   千円
講    師  野間健先生(のま たけし)
演    題  わが体験的選挙、政治論
講 師略 歴  昭和三十三年東京まれ
         慶応大学卒業後、十年間の商社勤務を経て、松下政経塾入
         塾。以後二度衆議院議員選挙に立候補(東京、鹿児島)、
         現在(株)ケイアンドケイプレス「月刊日本」取締役編集委
         員ほか会社役員を務める。
問 合わせ  事務局 〒二三二ー〇〇五四
             横浜市南区大橋町二ー四十七
         電 話 〇四五ー七三〇ー二九三〇
         FAX 〇四五ー七三一ー四五五一
主    催  革正評論青年講座
後    援  野村秋介思想研究会
※どなたでもご自由にご参加下さい。


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