2008/7/28

No More NOMO 「英雄」の引き際  RECOMMENDATION

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野茂英雄選手が引退する。
うそだあ。もう一度復活するんじゃないかな。伊達公子選手みたいに。
わたしはまだ信じられない。
たしかに、最近は、不遇な日々のようにみえたけど、今はなき近鉄で、プロ1年目に新人王、MVPなど8冠に輝いたとき「僕は華があるうちにやめるんじゃなく、落ちぶれてぼろぼろになっても投げ続けようと決めました。」と言っていた。
もうぼろぼろなんですか。
「自分ではまだやりたい。でもプロとして、お客さんに最高のパフォーマンスを見せられるかというと、そうではないので……。」

野茂は松坂や松井のように、高校野球からの野球エリートだったわけではない。確かに、高校野球の予選で完全試合! をやってのけて、その才能の片鱗を見せていたわけだが、実業団に入って都市対抗野球で「若獅子賞」をもらうなどして、頭角を現してきた。そして、ドラフト1位で近鉄にに入る。
へんてこなトルネード投法はすでに野茂のトレードマークで、当時の監督の故・仰木監督が「いじるつもりはない。それよりも、故障しないように、トレーニングをさせろ。」と言ったことで「俺流」をつらぬける環境が整った。それで、1年目から破竹の快進撃。シーズンが終われば、沢村賞をはじめ、8つもの賞をもらう。野茂は球界のエースへの階段を上り始める。

そういえば、ことしのオフに、今、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのダルビッシュ投手日本ハム)にフォークボールを教えたそうだ。今の監督が元近鉄の正捕手だった梨田氏なので、実現したのだろうか。その辺のことはよくわからないのだが、この梨田監督も、強肩と好リード、そして、こんにゃく打法といわれた、くにゃくにゃしたへんてこな打ち方の個性的な選手だった。実は、イチローも今はそれほどではないが、鈴木一朗を名乗っていた昔はかなりへんてこな一本足打法で、それでも安打の山を築いていた。イチローはオリックスに在籍していたが、その時の監督は仰木監督だった。「おまえ、これから、イチローで登録するぞ。」と、イチローの名付け親としても知られる。野茂イチローをつなぐものは、仰木監督その人で、イチローのへんてこなフォームも、「それでよし。」とした人であった。野茂とイチローは、すれ違いのようにして、日本球界と大リーグとかかわるのだが、仰木監督という理解者がいてこそ、現在があるのはまちがいのないところだ。

みなさんは、野茂の投球を生で見たことがあるだろうか。
当時のパ・リーグというのは、セ・リーグと比べて、お客さんが少なく、当日券でネット裏でも入れてしまう。わたしは、当時野球をよく見に行っていて、好んでパ・リーグの試合を見に行った。
間近で見る野茂のフォークボールというのは、素人目にもすさまじいもので、すとーんと肩口から落下してくる。これをどうやって打てというのだろう。大石オリックス現監督代行は、近鉄時代、野茂のチームメイトで、名野手だった。彼によれば、野茂の登板のときというのは、とても疲れたのだそうだ。なぜなら「三振か、四球」だからだとか。野手は、いつどんな打球がきてもいいように、一球一球緊張しているのだが、当時の野茂は、圧倒的な投手としての勢いがあったから、勝負は自分対打者だったのだろう。彼にとって「打たれるのは恥ずかしいことではない。逃げることの方が恥ずかしい」のであったのだ。打たせて取るということも兵法のうち。しかし、野茂は打者との勝負にこだわった。

きっと今でも、かわすピッチングで生き残る術はあるかもれない。でも野茂はそう器用ではない。同時代の投手の東尾(西武)がそれこそ、「頭」球術で、針の穴を抜くような絶妙なコントロールを武器にしていたのとは違う。どちらかというと、無骨な投手なのだ。

そんな野茂が近鉄を捨て、大リーグに行くときは大騒動だった。巨人や阪神のような、テレビ中継がしょっちゅうあるわけではないパ・リーグにいたわけだから、世間的な知名度は今ひとつ。ただ、実力的には、日本球界のエースと位置づけられていた実力派。それが、なぜ……ということだった。

しかし、人生はわからないもので、当時の大リーグは、ストなどで、ファンから見放され、存亡の危機とさえ言われていた。ついにドジャースユニホームに袖をとおした野茂は、その奇妙きてれつなフォームと、とんでもない魔球(フォークボール)で、米国野球に新風を吹き込み、観客離れに歯止めをかけた。三振か四球もしくはノーコンというのも豪快にうつったことだろう。

ともかく、第2の野球人生で、人生2度目の新人王になる。最多奪三振のおまけつき。「ノモマニア」という人々まで現われ、世界的有力誌「タイム」などの表紙を飾った。その後は山あり谷ありだったが、日米合わせて201勝、大リーグで2度ものノーヒットノーランというのは大変な業績だ。さらにいえば、自分の原点ともいえる、ノンプロの球団を作り、いろいろな理由で野球の王道から外れたけれども、野球への情熱を捨てきれない選手たちを集め、育てている。

野茂は、実は、誰よりも野球を愛しているのだろう。自分のことで精一杯なはずなのに、自らを踏み台にして、世界に羽ばたく選手を育てよう、才能のある選手を埋もれさせないようにしよう、という未来的な広い視野がある。

昔、王・ソフトバンク監督が、本塁打の世界記録を達成したとき、「日本の球場はせまいから……」と揶揄されたことがあった。野茂は、単身海を渡って「じゃあ、日本の投手を打てるかい?」と示して見せた。王監督は、内心、野茂の活躍を一番喜んでいたのではないかと思う。

なんだか、まだ信じられなくて、うまく筆がすすまない。
目の前に繰り返し現われるのは、ドジャースの白いユニホームを着て、ばったばったと三振の山を築いていく野茂の姿である。
不言実行。
これこそが野茂の美学であり、ひいては日本人の美学を体現してくれたのではないかと思う。
野茂の第3の人生に祝福を。

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まだ間に合う 星野ジャパン強化試合

今年もまだまだこれから 熱セ・熱パ

2008/7/21

怒ることを忘れた国民とKYな宰相  RECOMMENDATION

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フランスで一番好きな街はと問われたら、トゥールーズと答えるだろう。
もちろん、パリは大好きだ。しかし、住むならトゥールーズに住みたい。老後はトゥールーズに移住しようかとも思っているくらいだ。
急にこんなことを言い出すのはなぜかって? なんだか日本がすっかり嫌いになったのだ。まあフランスも例のサルのつく大統領のお陰で暮らしにくいらしいが、でもまだ人々は日本よりお上にたてつくだけ元気だ。

トゥールーズは空港もあり、新幹線(TGV)は止まり、申し分のない便利さ。物価は安く、大学都市で、若い人が多く、街は活気づいている。東京で言えば、お茶の水羽田と東京駅がくっついたみたいなものだ。学生街だったら、モンペリエも捨てがたいのだが、トゥールーズの特異性は、その街の色にある。ガロンヌ川から採取した土でつくった煉瓦はピンク色で、「薔薇の街」と形容される。その美しい街並みが心をとらえて放さぬのである。友人の家に長期滞在した、ということもある。フランス一美しい本屋(ロンブル・ブランシェ)、古本市、画材屋、文房具屋、レコード屋(バロック専門のハルモニアムンディの支店もある)、楽譜屋、楽器屋、スタジオ(ここでよくピアノの練習をした)、美術大学(もぐりこんで、ヌードデッサンをした。けっこうほめられて気分が良かった)、美術館(ここにはボナールの部屋というのがある! 画集には載っていない静物画が!)、とまあ、書き出すと止まらないのだが、ここでもフランス名物「スト」はある。

ある日、バスに乗ってミディ運河の途中で降り、少し歩くとしょぼいスタジオがある。ここのピアノはひどいのだが、アマチュアの演劇やロックバンドが利用していて、そういう人たちと言葉をかわすのが、楽しかったので、ひどいピアノでも練習やらないよりはましだし、その美しい運河のすぐそばというロケーションで、通い詰めていた。

ある日、練習を終えて、バスに乗って帰ろうとした。バスに乗ると、急に右折した。あれ? なんかいつもと違う道みたいな気がするな、と思ったら、客が騒ぎ始めた。「おい、どこに連れて行くんだ」「なんだなんだ」
運転手はぼそっと「いやあ、ストがあるんで、そこに行くんだ。」

客は全員真っ青。
「そうか。そいつは君の自由だが、その前に、どこか、地下鉄の駅のそばでもなんでも降ろしてくれないかな。」と交渉の末、ある地下鉄の駅のところで降ろしてもらえた。日本では、信じられない話である。客を乗せながら、スト会場になんの断りもなく向かうなんて。

フランス革命の昔から、フランス人は、デモとストが大好きである。日本では懸命に回避しようとするが、フランスの場合、まず、ストをやる側とやられる側は決裂するのが普通である。なにしろ、高校生までストをやる。そういうときは、ストに参加しなかった生徒を相手に先生が教える。わが親友は、教師をしていて、学生のストにあい、たった2人の生徒のために、授業をしたそうだ。もちろん、先生もストをする。日本では、昔は日教組のストなどなくもなかったが、このごろはほとんど聞かない。
特筆すべきは、最近あった、高級紙「ル・モンド」のストである。多額の負債をかかえつつ、なんとかどこにも身売りせずにがんばったが、もう限界。ついに経営者側はレイオフをすることにした。それに抗議して、ストをして、新聞が出なくなった。この春くらいだったか、最初のストがあり、断続的に何度かストをしている。また、放送局もストをした。同じように、レイオフに抗議してのことである。放送局や新聞社がストをするなんて、日本では、考えられないことである。

しかし、いちばんポピュラーなのは、先ほども挙げたが、交通ストである。よくパリなどで一斉に交通ストに突入して、サラリーマンはみな自転車やら車やらで通勤している。また、地方でも、列車がこないなあ、と思っていると「ストなので運休してます」と急にいわれる。

面白いのは、ストに対して、国民が寛容なことである。確かに非常に迷惑なのだが、自分たちも明日やらないとも限らないし、とか、言い分はわかるし、とかそんなことで、あまり怒っている人は見たことがない。例のバス事件でも、誰も怒らなかった。

こんな社会のフランスなら、ともかく、勤勉実直、働くのが大好きな日本人は、スト突入という方がめずらしい。昭和50年代は、東京で国鉄(今のJR)のストが頻発した。しかし、今は、ほとんどストはない。どちらかというと、人身事故の方が多く、自殺の増加という点で社会問題になっている。なんだか、ひとりで、がまんにがまんを重ねて、病気になったりする人を見ることの方が多い。みな、怒りを忘れてしまったのか。自分を責め、自分の中で問題をかかえてしまう。労働組合というのも機能してるのか。というか組合のある企業って、新しい企業ではめずらしいのでは。

そんななかで、江戸時代なら農民一揆のようなことが起きた。それも全国規模で。全国の漁師さんたちが一日漁をやめてしまったのである。燃料の高騰で、魚をいくら捕っても、収支がマイナス。これでは、商売あがったりだ。なんとかしてくれ、と立ち上がったのだ。東京では、漁師さんたちの抗議集会も開かれた。画期的なことである。
しかし、KYなわが首相は、翌日から夏休みを取ってしまうし、マスコミも、漁をやめたことで生活に支障はないのか、ということに力点をおいて、いるような印象。肩すかし感は否めない。

政府のみなさん。ガソリンは世界中で高い。しょうがない。それで無策なのか。
なんだか、漁師さんが気の毒だし、結局はわれわれ消費者もめぐりめぐってかわいそうだ。
なにしろ他の業界も、お上になんとかしてもらう前に、どんどん物の値段を上げたり、コストカットすることで乗り切ろうとしている。消費者はなぜ黙っているのか。政治家は何をしているのか。確か、選挙では「生活者の視点で」とかなんとかいってなかったか。

「どうせ、何やってもだめだよ。」
ものわかりが良すぎると、病的に閉塞してしまう。社会全体の気力がなえてしまう。こういう気運は、敏感な子供にすぐに影響を与えてしまう。そしてますます社会に活気と希望の光がなくなる。戦争に負けて、焼け野原から立ち直った日本人は、もっとたくましくなかったのか。
不思議なのは、漁師さんの起こした行動になぜもっと大きなリアクションを起こさないのか、ということである。わたしは不思議でならない。われもわれもと続いてもいいはずだ。それが、ガソリンが高いから、車に乗るのを止める、というような、ネガティブな行動になってしまう。どうして、もっと怒らないのか。役人は、政治は、こういうときに機能しないでいつするというのだ。

とにかく何かが違っていないだろうか。
コストカットされて、物を値上げされたら、ただでさえ給料が上がらなくなっている労働者はどうやって生きていけばいいのか。贅沢をしているならいざしらず、真面目につましく暮らしている者たちに全てのしわ寄せがきているのだ。こういうときに大なたをふるうのが、政治というものなのではないのか。

なのに「わかりますよ。大変だと思いますよ」でもって「お休み」ですか。
全く、神経をさかなでるのがお上手な庶民感覚のない宰相。

とにかくね、福田首相、国産ニンニクを一つ300円近くで買うなんて、おかしいことなんですよ。ねえ。おかしいんだってば。おかしいの!


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気になる国際ニュース

おいしい海産物をたべよう

2008/7/14

深くて暗い洞爺湖の溝  RECOMMENDATION

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まだまだ日本から外国に行くのが難しい時代に、ひょんなことから、叔母はインドに行くことが出来た。そこで盲腸になってしまった。人生はわからないもので、そのとき出会ったインド人の医師と結婚。むかしの話で、日本の家族はビックリ仰天。なかば勘当状態で、そのままインドにいつく。

インドにはカースト制度というのがある。夫(叔父)は上から2番目のカーストの一族だった。しかし、叔母はヒンドゥー教徒ではない。カーストももっていない。そういうわけで、叔母は最初、一番下のカーストとして、扱われた。結婚したといっても、夫の家族とともに食事もとれない。みなの食事が終わってから土間で食べる。そんな扱いがしばらく続いて、子供(従姉)が産まれると、やっと家族の一員として認められたそうだ。しかし、使用人や、大多数の人は、英語をしゃべれない。インドはお札をみるとわかるのだが、言語がたくさん書いてある。一族はコルカタカルカッタ)に住んでいたのだが、南インドの言語はさっぱりわからないそうだ。とにかく、叔母は一人前の女主人になるべく、コルカタで必要だった言語のヒンドゥー語と、ベンガル語を覚えインドに同化した。そして、インドにわたって10年、初めて夫と娘を伴って、日本にやってきた。

日本の祖父母は明治の生まれで「異人」……肌の色のちがうインド人(明治の典型的な考え方であろう)を家族に迎えるということに大変な抵抗があったようだ。とくに祖母は、意固地なまでに差別的な言葉をはいていた。しかし、頑固だが、ニュートラルな見方をする祖父は、インド人の叔父と、とたんにうちとけた。お互い、言葉はわからないのだが、叔父のおおらかな人柄に、すっかり魅了されてしまった。それで、祖母に「なんだ、同じ人間じゃないか。俺はお前の考えていることの方がよっぽどわからないぞ。」と言い放ったという。それからは、どこに行くにも、叔父と従姉(祖父から見たら孫)をつれて、あちこち出かけていった。祖父と叔父は、どうやって、コミュニケーションをとっているのかさっぱりわからないのだが、とにかく「ツーカー」でとても親密になっていた。また叔父にとって、義理の父親となるので、とても献身的だった。インド人は、目上の家族をとても大切にするのである。仏様にするように、毎日足をさわって、尊敬の念を示す。わたしのことも、とてもかわいがってくれた。わたしは小さな子供だったので、なんの偏見もない。いい香りのする巨体のやさしい叔父が大好きになった。それから、何度か「インドの親類」はやってきた。そのたびに、溝はどんどんうまっていった。

大学生になって、わたしはインドに行くことになった。大学の冬休みを使って長期滞在をした。とにかく、驚くことばかりであった。コルカタは、インドでも人口の多い街で、治安も悪い。わたしはもうお姫様のように、出かけるときは、使用人が護衛につく。使用人の多さも驚くほどであった。なぜなら、インドの使用人というのはたとえば、住み込みの家事全般をやるもの、運転手、犬の散歩、床拭き、と全部テリトリーが別々なのである。床拭きの人は、朝来て床を掃除して帰る。日本では、一人がいろいろな仕事をするが、インドでは、一人は決まった仕事しかしない。そして、英語はわかっていても絶対に話さない。だから、わたしも必要なヒンドゥー語を少し習った。そして、彼らは、ほとんど下層のカーストに属していた。使用人としては話はするけれど、それだけの仲である。

従姉とその子供と叔母とわたしとインドを旅行することになった。あるホテルで、ターバンを巻いたハンサムな人と知り合った。わたしはその人とうまがあって、いろいろなことを話した。しかし、従姉や叔母は知らんぷり、というか無視してつきあおうとしない。どうしてなのか、従姉に聞くと、「彼はシーク(教徒)だから。」えっ? そういうもんなの?
叔母の家はインドの大多数を占めるヒンデゥー教徒である。ヒンデゥー教徒は同じヒンドゥー教徒としか関係をもたない。商売などは別であるが、学校なども、ちがうようなことを言っていた。今はどうだかさだかではないが。あと、目につくのは、灰色の詰め襟を着た人たちであった。彼らとも全く話そうとしない。詰め襟を着た人たちは、回教徒なのだった。

ある日、従姉とバスに乗った。途中から、回教徒やシーク教徒たちが乗ってきた。バスはそんなにすいていたわけではないのだが、さっとモーゼの十戒のように二手に人々がわかれ、バスの真ん中にスペースができた。回教徒とシーク教徒がそこに場所を占める。従姉が「バッグから目を離してはだめよ。目も合わせてはだめ。」とわたしにささやいた。ええっどうして? と思ったが、それまでわいわいしていたバスは、しーんと静まりかえった。
わたしはその時悟った。同じ人間で、同じ国に暮らしていながら口も聞かない。はじめから、理解と対話というのは、ここには存在しないのだ。日本でぬくぬくと育ってきた自分が恥ずかしかった。世界というのは、こうしたことの方がもしかしたら多いのかも知れない。だとしたら、世界平和だとか、人類みな兄弟だとかそういうことは、不可能に等しいのではないか。

叔母の家の階上に住む人が、夕飯に訪れた。コルカタではそのころ地下鉄を通す計画が持ち上がっていた。わたしは、「アンタッチャブル」と呼ばれている、カーストももたない人々があふれかえっている街の現実をもう十分理解していた。彼らの中には、お金をもらうために、手首を切って自ら不虞になるような者もいた。しかし、叔母や従姉の話では、彼らは、商売がうまく、意外と稼ぎがあるのだそうだ。インドは年間を通して温暖で、冬に野宿してもまず死ぬことはない。それに、大半の人たちは、輪廻転生を信じているから、死を恐れない。いまある生活や境遇は、今たまたまそうなのだ、という考え方をしているようだった。それにしても、わたしにはやはり合点がいかなかった。
「地下鉄を通すようなお金があるのだったら、街中にいる、貧しい子どもたちを学校に通わせてあげればいいじゃないの。彼らは、抜け目ないし、そう頭が悪いようには見えないから、インドの将来を考えたら、そうやって、みんなが教育を受ければ、インドはもっと発展するんじゃないの?」
と「言ってしまった」。そうしたら、階上の住人は、ものすごい勢いで反論した。
「何を言うのだ。そんな必要はない。インドも、地下鉄を走らせるとか、そういう近代的な発展をする権利があるはずだ。」
本末転倒だと思ったが、とにかく、階級というのは絶対的なもののようだった。わたしはますます絶望的になった。人類が相互理解を深める、なんてことは、永久に無理ではないのか。

それから時がたって、フリーの編集をしていた頃、仕事の間隔が開いたので、フランスに行くことにした。その時は、もう暇が出来るとフランスに行くという生活であった。たまたま、インドに電話すると叔母が「フランスかあ。インドと方向が一緒じゃない。ちょっと寄って行ってよ。」なんと。方向が同じ。たしか地球儀ではそうだがなんとも強引な話である。とにかく、叔母はインドに同化し、もまれたすえ、かなりの豪傑になっていたのだった。しかし、話を聞くと叔父がどうも重い認知症になったのだという。叔母はもう看病に疲れて、たまにはゴルフのコンペに出たいから、わたしに介護をしてくれということだった。そうか。そういうことならと、インドに行くことにした。

インドは全く見た目は変わらない。雑踏と混乱と信仰と。しかし、少しずつ内部に変化が起きていた。カーストの低い使用人は、みな回教徒に改宗していた。回教は、神のもとに平等だという考えからなのだそうだ。ますます、宗教間の対立はぎすぎすとしているように思えた。叔父の甥はバンガロールに土地を買い、おりしもIT業界がなだれうってきて、土地長者になっていた。私は、叔父の看護を2週間ほどして、フランスへ旅立った。インドも変わっていくけれど、人々の溝は前より深くなったな、と思いながら。

洞爺湖サミットで、福田首相が最後の記者会見で「成果があった」という言葉を何度も吐いていた。しかし、報道では、途上国の人々は失望したと口々に言っていた。首相は、そのことを感じていないはずはないと思う。なぜなら、会見での言葉は力無く、顔は憔悴していたからだ。国や宗教や国情の違うものたちを、地球環境を救うということを理解した上で、目的にむかって一丸となって取り組むというのは、並大抵のことではない。インドという一つの国でさえ、人々は、たくさんの集団にわかれ、それぞれがそれぞれの利害を持っているのだ。
これから日本に求められるのは、狡猾さであろう。己の主張をきっちりして、他人の主張も聞く。G8でさえ、それぞれ引くことはないだろう。その中で、日本の出来ること、日本しかできないこと、そういった優位性をちらつかせ、ときには脅し、ときには懐柔し、ハードルを越していくのだ。大陸に住む人々には長年に渡る隣国との駆け引きにいちじつの長がある。日本は鎖国をしていたこともあり、長いことそういう駆け引きとは無縁であった。今は海外に簡単に出られる世の中である。そこで、文化や宗教の違いを深く悟って、難局を乗り越える「戦略」をたてられるよう意識改革をせねばなるまい。しかし、これは、つい数年前まで、家の扉を開けっ放しにしても、大丈夫だったという平和な時代が続き、人を疑うことを最近になってやっとはじめた日本人の最も苦手なことやもしれない。

あなたが今怒っていることは? ねじれ国会どうなるの?

まずは自分でできることを。途上国の人々の生活を支えるフェアトレード

グローバルな企業で働く

世界の“今”がわかるブログポータルGencheez

2008/7/7

聖なるものを汚せる人とは  RECOMMENDATION

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大学生のとき、古美術研修旅行というのがあった。飛鳥、奈良、平安京神社仏閣を巡り、仏教美術に親しみ、理解を深めるというものだ。仏教美術専門の講師がついて、2週間にわたり神社、仏閣をまわる。個人的には大変楽しい旅であった。が、これが相当ハードである。寺の朝は早い。そして、日没には門を閉ざす。したがって、早朝からの強行軍。あるときはバスで、あるときは電車で、ある時は徒歩で、さながら仏教美術ブートキャンプである。
しかし、先生や、ご住職の説明をききながら、日本の宝というべきものに毎日触れていると、終わった頃には、一目で、その寺院の伽藍配置、いつ作られたものかというものがわかるようになってしまう。
余談だが、こういう機会は滅多にないので、さらに一週間京都に滞在し、修学院離宮桂離宮にも行って来た。途中で、奈良の東大寺でお祭りがあり、本当に貴重な体験だった。

実は、その後、すぐにインドに行った。叔母がインド人の医者と結婚してコルカタ(カルカッタ)に住んでいたので、訪ねていったのだ。彼の地に降り立ってから、全てが、カルチャーショックの連続であった。人種、宗教、階級、そして、生きるエネルギー全てが濃密に襲ってくる。色々な寺院も巡ったが、一番驚いたのは、つい最前に観た、奈良や京都の仏像たちのありようと、インドのヒンドゥーの神々との像のありようは、寸分たがわぬことであった。ヒンドゥー教の神が、仏教の仏様になっているのであり、そのポーズ、持ち物、まとっているもの、ポーズなど、全く書き写したかのように同じなのだ。日本に伝わったのは、遠い砂漠を越えて、人づてに伝わった物である。わたしなど、観たとたんに忘れてしまうのに、信仰の力というものは、すさまじい。遠く離れた日本まで、正確に伝わっているのだ。古代人の精神力と集中力にはあらためて敬服する。そういえば、インド人の叔父が日本の墓に来たとき、卒塔婆に書かれている梵字は、サンスクリットだと言っていたことがある。
その後、親戚がいることもありでインドには何度か行ったので、書くことは山ほどあるのだが、ここでは、プリでの出来事を書こう。

プリは、カルカッタから、東へ、夜行列車で一晩で着く。この夜行列車もなかなかすごい体験だったのだが、機会があったら、書くことにしよう。叔母の「知り合い」で、当地の偉い銀行家の秘書さんが、有名どころを案内してくれたのだが、ちょっと足を伸ばしてコナーラクの「太陽神寺院」も観てきた。ここは今や世界遺産なのだそうな。
偉い人の案内は窮屈なので、適当なところで、お帰り頂いて、あとは叔母と日本人は絶対行かない(行けない)場所に行くことにした。そこは、数千年も前に建てられたヒンドゥー教の寺院で、「異教徒様お断り」の寺院である。

インドにはこうした寺院がたくさんある。さきほどの「太陽神寺院」ももちろん、信仰の場であり、見物するというのは二義的なものである。叔母は、現地語を数種類流ちょうに話せたので、できた所行である。わたしたちは、ヒンデゥー教徒として、寺院に入ることが出来た。叔母に、ヒンドゥー教徒の所作や、してはならないことなど、事前にたたき込まれ、寺院の中では、お互いに一言も日本語で話さないことにした。そこでは、それほど厳格にヒンドゥーであることが求められるのである。

寺院は、石造りで、広大だった。至る所に祠(ほこら)があり、夕方にさしかかっているのに、参詣者はあとをたたない。みな無言だ。このような古い時代に建てられたプリミティブな寺院は、偶像崇拝をしていない。よって、抽象的な、物体や記号を拝むことになる。その神秘的なこと。陽が落ちた頃、やっと一周して、本尊のある場所にたどりついた。
そこは、なんと、子宮であった。中は、心地よく暖かく、じっとりと湿り気があり、壁は赤く塗られていた。そこに屹立しているのは、本尊たる、男根である。
わたしは、知らぬうちにひざまづいていた。いや、ひざまづかされていた、というのが正しい。なんという包容力のある空間であろうか。そして、そこには、全ての生命の源が宿っている。信仰の篤さと聖なる力が体を真綿のように包む。私はいつの間にか、無心になっていた。すると、聖職者が、ひざまづいているわたしの額に赤い印をつけた。「結婚したら、もう一度いらっしゃい。」残念ながら、いまだ独り者。果たせずにいるが。

そして、フランス語を勉強して、何度もフランスに行くが、パイプオルガン聴きたさに、教会のミサによく潜り込む。フランスでは、ミサにほとんど若い人が来なくなっているが、ミサ以外の時間に行くと、ひざまづいて一心に何かを祈っている若者をよく見かける。インドの寺院もそうだが、フランスの教会も、当たり前だが信仰の場だ。観光地の前に聖なる場所なのだ。

さて、最近、そういった教会に心ない落書きされているのが話題だが、日本人であるわたしたちは、たとえば、比叡山延暦寺に行って、落書きができるだろうか。
比叡山は、霊山として名高い。わたしは、そこに行ったとき、プリのヒンドゥー寺院に行ったときのような、聖なる圧迫感を感じた。
何かを信仰するということとは別に、聖なる物の重みというものがあるはずだ。それを感知できなくなったら、人間として、どうなのだろう。そうした人間の原始的な霊感をなくしてしまったものが、自分の足跡を残したいなどと考えて、信仰の場を汚すまねができてしまうのではないか。

もちろん、何千年も使われている先の先のヒンドゥー寺院に落書きなどというものは、あるわけがない。なにしろ、具体的なものはなにひとつないのだから。あるものは祠と抽象的な象徴物のみ。つきつめていくと、聖なるものというのは、かたちにできないものに帰結するのかもしれない。

一度は行きたい世界遺産

<第一回目:街を歩けば中世にタイムトリップ>

<第三回:天まで伸びる大伽藍に圧倒される>

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