2008/9/29

フランスの警察に行く羽目になった  RECOMMENDATION

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20余年、来毎年のようにフランスと日本を行き来している私が、ついにやられてしまった。
財布をすられたのである。

思えば、いままで無事故に済んでいたのが幸運すぎた。フランス人の友人たちも、みな一度ないし、数度はやられている。しかし、あと30mでホテルだというところで、プロの女2人組にやられてしまった。わたしには連れもいたのだが、まったく気づかなかったという。それはそうだろう。当事者もホテルの自室につくまでわからなかったのだから。
しかし、もし、気づいて、財布を返せと言ったところで、刺されるか殴られるか、はたまた、まわりに隠れている仲間たちに取り囲まれるかされて、無事でいられたかどうか。ケガもなく帰国できたことに感謝せねばなるまい。

気づいてからは、カードと銀行口座を凍結するのに電話をかけまくる。幸い、というか、帰国あと1日というところだったので、お土産などの買物モードに入っていて、現金が多めに入っていた。泥棒たちは、それで満足したらしく、銀行口座、カード類には手をつけていなかった。クレジットカードは、メインとあと2枚もっていたが、そのうち1枚だけ、即日発行してくれた。おかげで、翌日、お土産類など、買うことが出来た。
しかし、はじめて、警察というものに行くことに相成った。日本だって交番くらいしか行ったことがないというのに、いきなり、警察で調書を取ってもらうことになってしまった。まあ、行かずに泣き寝入りというのもあったのだが、やり場のない怒りをなんとかしたかったし、調書があれば、必要なときに、泥棒にあったという証拠になる。

警察に行くと、受付のおばさんに、ざっくりしたアンケート用紙(問診票みたいなもの)を渡され、記入させられる。
そのとき「あっ。」と思った。

わたしのフランス語はお茶の水のアテネ・フランセという語学専門学校に、大学に通いながら行ったのが始まりだ。両親が戦中派で、学生をしながら、働いて家計をささえるということを早くからやらざるを得なかったため、子供には、そういう苦労は学生の間はさせない、という方針があった。どうしたって、学校を出たら大いに働かざるを得ないのだ。だから、学生時代は勉強せよ。アルバイトをするなら、その時間は語学を習得せよ、と命令されていた。そこで、姉は英語を、わたしは、幼い頃からあこがれていたフランス語を習得することにした。そういうわけで、アテネ・フランセの門をたたいたのである。

果たして、警察の「問診票」に出てくる文言は、アテネ時代のごく初期のころにたたきこまれた問答や語彙であった。
たとえば、何をされたか…盗み強盗車上荒らしひったくり刺された撃たれた、などなど。それから、犯人の人相人種性別、どんな格好か、どこで遭ったか、被害額はいくらか、などなど。初歩の文法をやりながら、これに関係することは、すべて、ほぼ初めて半年の間に出てきたものである。だから、もちろん辞書は一切必要なかった。

そして、さらに、警官の部屋に行って、調書を作る際に問答が行われる。
いつ、どこで、どういう人にどんなシチュエーションで、どんなことをされたか、ということを簡潔に説明するのである。これも、初級から上級に至るまで(わたしは結局連綿と10余年ほど学校にいきつつ、また卒業してからは、働きながら、アテネ・フランセに通った)、何度も何度も、いろいろなシチュエーションでやらされたことである。口頭試問でも、かならず、何らかのビデオをみせられたり、文章を読まされ、口頭で簡潔にストーリーを説明させられた。おかげで、警官の部屋に入っても、あがることもなく、また、問答にもひとつも困ることがなかった。まるで、期末に行われるアテネ・フランセの試験での口頭試問のようだったからだ。つまり、シミュレーションはばっちりだったのだ。

わたしは、教えを受けた先生方に心の中で感謝した。こうした、身の危険が起こったときに、きちんと他人に説明する、ということを本人が知らないうちに繰り返し、繰り返し、体にたたき込んでくれていたのだ。

考えてみれば、コミュニケーションの基本は、そこにあるのだ。簡潔に自分の言いたいことをまとめて相手に伝えること。そして、相手が、何を要求しているのか、判断すること。そして、自分がどう思ったかということを(とくにフランスでは)きちんと述べること。

おかげで、調書はスムーズにとれ、警官たちに、大いに励まされ、警察をあとにした。励まされたところで、盗まれた物は戻らぬのだが。

連れの話では、わたしが調書をとられている間に、3人もの、しかもフランス人が、同じような盗みにあったと訴えに来たという。泥棒フェアでもしていたのか、これが日常なのか、よくわからなかったが、また一つ勉強になった。しかし高い授業料払い、精神的禍根を残したけれど。

読者のみなさん、くれぐれも泥棒には気をつけましょう。
誰の上にも等しく「雨」は降るのでありますからして。
まさに「人を見たら、泥棒と思え」。


ちょこっと英語の勉強しよう

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2008/9/22

ドーヴィルでダバダバダ  RECOMMENDATION

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ノルマンディーリズーに住んでいるフランス人の親友に数年ぶりに会った。
お互い、白髪がところどころある以外は、まるで変わらなかった。
彼は高校教師で、地理と歴史を教えている。リズーで夕飯を一緒にして、次の日は、朝からパリへ戻ろうかと思っていたら、なんと仕事が休みだということで、一日車で、あちこち回ってくれるという。
夕飯は、新鮮きわまりないノルマンディーの海産物で、日本人にはたまらない。しかし、デザートでいただいたリンゴのシャーベットにカルバドスをかけたものは、すばらしくおいしかった。帰りに空港の免税店で、カルバドスを思わず買ってしまったくらいだ。週末の夜にちびちびなめようと思う。

さて、翌日、さっとリズーをまわってから、ドーヴィルに向かった。有名な保養地である。今、彼はドーヴィルの高校で教鞭をとっているという。ドーヴィルは金持ちが多く、また、観光業にたずさわる人が多いため、地理・歴史の授業に生徒たちはとても熱心なのでうれしいという。

ノルマンディーは列車に乗ったときも思ったのだが、とにかく景色が抜群である。森や牧場、羊や牛が放牧され、林檎の林がある。雨に濡れた緑はことさら美しく、どこも絵のようだ。絵のようだと言えば、よくみる洋画の風景画だが、あれは、まったくある景色をそのまま写したということがノルマンディーの旅でわかった。あまりにもそのままを写し取り、工夫がなさすぎて、怒りを覚えるくらいである。逆に言えば、いまだに風景画の景色がそのまま残されている事実がすごいともいえるのかもしれないけれど。

さて、わたしにとってのドーヴィルルイ・フィリップという王様の名前をかたるフランス人のシンガーソングライター(今は英国に住んでいる)の歌う、寂しげな冬の海岸のイメージである。しかし、実際は、以前書いた、ナポレオンIII世痛風の療養に行って以来、取り巻きの貴族やブルジョワがひっついていって、いつしか高級保養地となった、ビアリッツの何倍もスノッブな街であった!

軒を連ねるエルメスなどのブランドショップ瀟洒(しょうしゃ)なお屋敷群。こんな立派なセカンドハウスを持っているなんて、どんな金持ちだろう。そして、広大な「高級旅館」、パトリシア・カーズに歌われた「ホテル・ノルマンディー」。ここのオーナーがもうひとつ大きな高級ホテルを持っていて、それはそれは壮観である。ホテル・ノルマンディーは、古いノルマンディーの民家風の外観なのだが、中はたぶん、とんでもなく高級に違いない。今回ははいらなかったが、敷地面積といい、堂々とした風格だ。

街の中程には、市が立っていて、新鮮な食材が売っている。もちろん海産物は豊富である。しかし、友人によれば、はちみつは高すぎるといっていた。ここらへんのはちみつは、いろいろな花の蜜を雑多に摂っているので、価格は安いはずだという。ふつう、たとえばアカシアとか、そういう特定の花の蜜しか与えずに養蜂するはちみつが、フランスでは沢山の種類売っていて、それぞれの風味を楽しむものなのだ。ドーヴィルは物価も高いと言うことだろう。

市のそばのビストロで食事。またもや海産物。フランスでは、ここまで海産物を食べられるところは限られている。普通は、魚は肉に比べて高価なのだ。日本人には、食べ物には飽きない場所であろう。しかし、ここを訪れる前に、ルーアンで食べた、フランスの家庭料理だという仔牛の赤ワイン煮はとてつもなくうまかった。ブイヨンでゆでたにんじんの上に、ちょっとさわっただけで崩れるコラーゲンたっぷりの肉のかたまりは、日本ではまず食べられないものであろう。しかし、これが、家庭料理だというのだから、贅沢なものだ。

さて、お腹がいっぱいになったので、散策に出る。ついに海岸にでるのだ。ここは、有名な板張りの散策路がある。そして、そこに行ったとたん、なぜか、自然と歌ってしまうのである。断言しよう。これを読んでいるあなたも、絶対に歌ってしまう。なぜなら、他の人も歌っていたからである。

「ダバダバダ、ダバダバダ」

そう。クロード・ルルーシュ監督の「男と女」のテーマである。
私も友人も、ダバダバダバダバ言って止まらない。誰か止めてくれ。

友人の勤めるリセ(高校)はそのすぐ近くにあった。リセの脇は、ヨットハーバーである。
「もしかして、先生一人にヨット一つとかってこと、ないでしょうね。」
「だといいね。」
「サル(コジ大統領)に頼んでみたら?」
「そうだね。あいつは贅沢放題だから、それくらいさせてもらわないとね。」
リセの入り口では、生徒が煙草を吸っていた。フランスでは当たり前だという。日本では退学だと言うと、厳しすぎないか? という。煙草の飲み過ぎで肺ガンで亡くなった父を持つわたしは、煙草に厳しすぎることはありえない、と答えた。ましてやティーンエイジャーで。

それからオン・フルールへ足を伸ばした。途中の森の緑が美しい。オン・フルールは列車の駅がないのだが、車で来た外国人観光客で一杯だった。小さくて、かわいらしい街。そして、印象派の画家たちや、かの異端のピアニスト、エリック・サティーもいた場所である。船大工が造ったという、ヨーロッパでもめずらしい木造の教会があった。そこでは、お葬式が行われていた。初めてみたのだが、今でも、フランスでは土葬が一般的だという。友人は、火葬にしてもらいたいと言っていた。火葬場もないことはないのだそうだ。日本人にとっては、驚きである。ご遺体が、オルガンの荘厳な演奏に送られている。みな悲しみの中にあった。
葬儀のあと、教会の中を見た。屋根が、船底をひっくり返したような作りで、柱も天井も黒光りしていて、由緒あるものであることがうかがえた。そして、エリック・サティーの家の外を見たりして、街を散策し、カフェでシードルを頼んだ。
シードルだけ飲むなんて、考えられないよ。」と、友人。
「わたしはさ、ガイジンの観光客だもんいいじゃない。」と、わたし。
シードルとつまみのパイが運ばれてきたら、なんだか、背中を押すものがある。気がつくとわたしは、リュックに忍ばせていた小さなスケッチブックを出していた。そして、万年筆で、テーブルの上のシードルやパイをさらさらと素描していた。

「奇跡が起きたよ!」

わたしは、両親を失い、愛猫を失って、それぞれのデスマスクを描いてから、ここ数年間というもの、病で絵を描くことができなくなっていたのだ。しかし、何事もなかったかのように、自動筆記かと思うほどさらさらと気負いなく描いた。
「よかった!」わたしも友人も泣けてきた。友人は、フランスで私が書いた墨絵などを額装して飾ってくれていて、いつかはフランスで展覧会をするよう言ってくれるほどの絵の愛好家で、絵の描けなくなっていたわたしをとても心配していたのだった。わたしはわたしで、無駄かも知れないけれど、いつか描ける日が来ると信じて、小さなスケッチブックを携帯していたのだった。

さて、日本に帰って、同僚にドーヴィルに行ったと話したら、ちょうどその頃、映画の「男と女」を家で観ていたという!
なんたる怪奇現象であろうか。ノルマンディーは天使か悪魔が住んでいるに違いない。



クロード・ルルーシュ監督の「男と女」を観る

あなたにも運命の出会いが

格安ネット電報

2008/9/15

ノルマンディーでアロママッサージ  RECOMMENDATION

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休みが取れたので、またもやフランスに行った。
まったくバカのひとつおぼえを絵に描いたようだが。
今回のテーマは「ノルマンディー上陸作戦」。
北の地、しかし「印象派」という名称の発祥の地である。
列車でごとごと「鉄子」になった。石丸謙二郎さんのナレーションが聞こえるようだ。

ノルマンディーといえば、ワインがとれないかわりに、リンゴの里で、シードルと呼ばれるリンゴの発泡酒が旨い。そして、麦もよくとれないため、そば粉でクレープなるものを食していた。これが、世界中に広まっている。フランスのクレープは、甘いものばかりではなく、溶けたチーズをたっぷりぬったり、ソーセージを巻いたりと、おやつ感覚というよりは、しっかりのんだくれて、お食事できる。クレープ屋に行くのは甘食屋に行くわけではないのである。

そのノルマンディーも9月の声を聞くともう秋である。ノルマンディーの秋は猫の目のような天気で、天気予報は、全天候が書かれている。お目当てのモネ印象派(当時は侮蔑表現)と呼ばれる祖となった「印象 日の出」(原画はパリマルモッタン美術館にある)を描いた海岸近くの美術館は休みだったので、翌日行くことにして、世界遺産になっているという街を散策することにした。

程なく豪雨となった。
強風で、ホテルで借りた傘はぼろぼろである。体も冷え切ってしまった。
さて、どうしよう。

実は、今回泊まったホテルには「スパ」と言って、プールジャグジーエステがついていたのだ。あまりよく調べずに予約してしまったので、チェックインしたときに、レセプションフロント)で説明を受けてビックリした。飛行機で早朝パリに着いて、すぐに列車でここ、ル・アーブルにきたわけなのだが、そんな立派なホテルとはつゆ知らず、しかもすでにシーズンオフなので、値段も安く、宿泊客もまばらだ。

実は、わたしは、マッサージが好きで、週に一度は指圧に行くくらいだ。いつも同じ人にやってもらうのだが、マッサージの本場、フランスに行くと言ったら、その指圧師に是非体験してきてくれと頼まれてもいた。そこで、スパアロママッサージなるものをやってもらうことにした。

笑ったのは、部屋と同じフロアーにスパがあって、利用者は、みなバスローブでやってくる。欧米では、ホテルの廊下は公的な場所だから、そんな、日本の温泉宿の様に浴衣でうろうろするようなまねはしないのだが、ここは特別で、かなり閉じた空間であり、またそのほうが、まあ簡単で合理的だというということなのだろう。わたしも予約した時間にバスローブを羽織ってカウンターにいくと、マッサージ師の女性が待っていた。

リラックスするような音楽が低くかかっている、間接照明の小部屋に案内された。ちょっとアジアの雰囲気を意識したような作りのインテリア。そこで、紙製のTバックのアブナイ、男性の下帯のような下着を渡される。それをつけて、裸でマッサージの台にうつぶせになると、日本のマッサージと同じで、マッサージ台の顔のところがくりぬかれていて、窒息しないようになっている。これは万国共通なのだな。

いきなり、柔らかい、木の香りのような豊潤な香りが鼻孔をそそった。
アロマオイルである。
それだけで、なんだか頭の芯がぼーっとなってきた。
マッサージ師は、私の体の全体を触ると、飛行機に長時間乗っていたせいか、足に目をつけたようだった。そこで、オイルをたっぷりつけて、両足をもむでもなし、上から下へ、下から上へさすり始めた。最初は、日本の指圧を知っているので、ずいぶんソフトなのだな、と思ったのだが、これがとんでもなかった。

マッサージ師は足に油をつけて、執拗に上下にさすり続ける。足の裏を時々触るそして、だんだん背中や腕へと移っていった。30分もすると、もう桃源郷である。意識がどこかに浮遊している。オイルの効用とそのさすり方にたぶん秘密があるのだろうが、終わったとたん、何もできなくなった。毒が全部出たような感じで、ぼーっとして何がなにやらわからない。なるほど、みなそのままバスローブはおって部屋に帰るわけだ。何しろ、もう他人のことなんか目に入らないのだ。自己の脳内世界で遊んでいるような感じである。

部屋のベッドに横たわると、東京での疲れと旅の疲れがじわじわと足から吹き出してくる。目も疲れていたのか、熱を帯びている。目を直接触ったわけではないのだが、足のどこかにツボがあるのだろう。これはたまらん。もう寝るしかないじゃん。
というわけで、その夜は、ルーム・サービスを頼んだ。とても外になんか行けたもんじゃない。全身弛緩して、リラックス・モードに突入である。日本のエステには行ったことがないのでわからないのだが、アロママッサージというのは、こんなに意識を弛緩(しかん)させ、気持ちよくなるものなのか。これはクセになるな。

次の日になんと、ツボを押していないのに、、揉み返しが来た。
オイルを塗って、単に上下にさすっているように見えて、なにか魔法を使ったとしか思えない。足から毒が沢山にじみ出ているかのようだ。

実は、パリにもどってから、美容院や、化粧品屋にも行ったのだが、フランスというのは、本当にこうした「美容」の中心地なのだとつくづく思った。それぞれが、自分たちを、「働くアーティスト(芸術家)」と呼んでいる。美容院には行くたびに寄るのだが、今回は、オペラ座の美容室に行ってみた。これが、また、すごいのだ。まるで彫刻を造るように髪を切っていく。そして、化粧品屋では、男性のメイクアップのプロが、一筆か二筆で、わたしの顔を別人に変えていく。そして、わたしがどうしたら、よりよく美しく変われるか、的確なアドバイスをしてくれるのだ。

洋服もそうなのだが、常に考え方がスリーディメンション(立体)というのか、立体的に物を処理していく。話をしていても、そうで、いろいろな方向から物事を見る傾向がある。
これはフランスのお国柄、まさに世界遺産なのかもしれない。

若さを保つアンチエイジングコラム

2008/9/8

白ちゃん大脱走  RECOMMENDATION

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最近、ゲリラ豪雨とかで、集中的豪雨がピンポイントで襲ってくる。
お天気予報は今や機能不全に陥っている。いつ何時どこにやってくるのかさっぱり予想できないのである。あちこちで、洪水や鉄砲水、落雷などで命を落とすいたましい事故もおこっている。
少なくとも、わたしの記憶の中では、こういう気象は初めてのことで、まったく、地球は壊れつつあるのではないかと、なんとなく思ってしまう。

わたしの住んでいる地域は、戦前より何度も洪水にみまわれている。
そこで、10数年前に、区内の治水を大々的に工事をし、ついでに歩道と車道の間にに花が咲く木を植えて、並木道にした。
それからというもの、台風が来ようが、ゲリラ豪雨が来ようが、びくともしなくなった
。まったくもって、治水工事というのは大事なことだと思う。こういうことのためなら、税金は惜しみなく使って欲しいものだ。

この治水工事が完結する前、最後の洪水があった。
台風の直撃をうけたのである。20余年ほど前のことだろうか。ものすごい強力な台風で、あれよあれよという間にどぶから水があふれてしまった。
幸い、床下浸水で済んだのだが、夜通しの嵐に、一体どうなることかと思った。

翌日はピーカン。
台風一過の快晴であった。

「おい白ちゃんがいないぞ。」

父が、叫んだ。白ちゃんとは、体長30cmの真っ白な鯉で、拙宅の池に生息していた。
真っ白だから、白ちゃん。安易すぎる名前ではある。

「えー、ど、どこにいっちゃったんだろう。流されちゃったんだろうか。」
と、わたし。

「いや。泳いでいったんだろう。」
と、父が、真理をぼそっと言った。
まあ、それはそうだが、この日照り、無事なんだろうか。
犬、猫と同じように、張り紙を出したところで、見つかるかしら。
それより、白ちゃんの写真なんかないぞ、張り紙どうしよう……などとと考えていたら、

「ちわー。○○寿司です。」

○○寿司とは、家から、道路2本挟んだ向かいにある寿司屋で、よく出前を頼んでいる。

「こんにちは。きょう、うちお寿司頼んでないよ。」
「ああ、そうじゃなくて、先生の家の鯉が、うちまで泳いできたんでね、捕まえてきたんだ。」

先生とは、うちの俗称である。代々教師をしているので、みんな我が家を「先生」と呼ぶのであった。いまだに、いろいろなところに出前を頼むと「ああ先生の所ですね。はいはい、わかりました。」といわれる。わたしはセンセーじゃないので、抵抗があるのだが、この地域では、両親、祖母の教え子でない人を見つける方が大変なのであった。つまり、わたしの人格というのはこの地域では存在せず、つまりは、センセーの孫であり、センセーの娘なのである。
昨年、町会の「組長」というのが順番でまわってきたのだが、お祭りの寄付を集めるとか、そんな用事で、うけもちの家をまわると、どこに行ってもみんなわたしのことを「先生のお孫さん」「先生のお嬢さん」とよばれるので参った。つくづく地域における存在感の小ささを痛感した次第である。なにしろ、祖母も父母ももう故人ときてるんだから。

それより鯉である。

「うっそー。」
「ほんとだよ。これ、先生んちの鯉だろう?」

小僧さんが持っているバケツをみると、

「あっ白ちゃん。白ちゃんだ。よかったー。」

なんと、白ちゃんは、池があふれてから、悠々と、この町内を泳ぎ、二本も道路を隔てたところまで行ってしまったのだった。
しかし、泳ぎ着いたところが、よりによって寿司屋で、しかも、寿司屋はどうして、その鯉がうちの鯉だと知っていたのだろう。
まったく下町というのは、恐ろしい。
向こう三軒両隣どころか、むこう2本道路隔てたところまで、みんな人のうちのペットのことまでご存じなのである。

さいわい、白ちゃんは、寿司屋で鯉こくにもされずに、我が家の池に戻された。
ああ、白ちゃん。つかの間の自由はどうだったんだい。
いい人に拾われてよかったねえ。

その後、治水工事が粛々と行われ、庭の鯉が逃げ出すということはなくなった。

ペットフォトコンに応募しよう

2008/9/1

西日差す美術室から さよなら深浦加奈子先輩  RECOMMENDATION

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名脇役とうたわれた深浦加奈子さんが亡くなった。
実をいうと、高校時代の美術部の先輩だった。
卒業してから、全く接点がなくなってしまったのだが、とてもかわいがってもらったことを覚えている。

先輩のことは、みなさんの方がご存じかと思う。明大から劇団「第三エロチカ」の看板女優になり、それからは、名バイプレイヤーとして、テレビなどでご活躍された。
追悼の意味も込めて、高校生のころの話をさせていただこうかと思う。

わたしたちの通っていた学校は、東京の真ん中にある都立高で、むかしはいわゆるナンバースクールといわれていた。そんな中で、とくに変わった存在で、東京都の教育庁からは常に目の敵にされていた学校であった。前後期制で前期の期末試験のあとには秋休みがあったり、先生は、ほとんどが、卒業生で、何十年も居座って教鞭をとっていた。授業は、ほとんんどが発表授業(発表のあとはディベートあるいは、先生の鋭い突っ込みにとことん闘うことになる)であったし、評価も絶対評価(10段階で、たとえば試験で54点とったら5)だったから、誰も自分の偏差値を知らない。知りたい人は、予備校に行け、とまあ、こんな具合。単位制で、勉強をしたければ、いくらでもできたし、わたしのように、早くから美術大学に行こうと決めた者は、読書三昧、カルチャー探求三昧ができた。とても自由な校風で、実に楽しい3年間だった。

新入生だったわたしが、美術クラブに入ろうと、美術室に入ったら、にこにこと歓迎して下さった。先輩はウエストがものすごく細くて、栗色の髪はウエーブがかかっていた。わたしは「わー美人な先輩だあ。いいことがありそう」とのぼせてしまった。

先輩は、クラブには足繁く通うのだが、絵を描いてた記憶がない。いつも静かに話したり、読書をしたりと、美術室の風景にとけこんで、いたように思う。
私はというと、先輩がいた頃はまだ美術大学に行くための予備校には通っておらず、それほど忙しくなかったので(美術大学の予備校は週6日、毎晩3時間厳しくしごかれる)、自由に色々な制作をしていた。ルパンIII世のしおりをペン画でつくってみたり、ウィリアム・ブレイクや、デューラーを気取った、神秘的で暗いエッチングを延々やったり、当時一世風靡していたイラストレーターペーター佐藤さんのまねをして、山口小夜子さんなどを鉛筆とパステルで色鮮やかに描いてみたり。
先輩は、いつもわたしの制作を見ては、ていねいに批評をしてくださり、それがとてもうれしくもはずかしかった。遠くからへたくそなオーケストラ部の練習の音が聞こえていた。無謀にもチャイコフスキーの6番なんかをやっていた。第一楽章に出てくる、難しいトランペットの主題を、繰り返し練習していた。

わたしは、図書館の主でもあった。蔦の絡まる図書館は、震撼として、古書もたくさんあった。美術クラブに行く前によく図書室に行ってその雰囲気にひたった。そのうち図書委員でもないのに、ときどきカウンターをまかされてしまった。とにかく本はずいぶん読んだ。筒井康隆有吉佐和子全集を読破するかたわらで、心理学の棚を制覇するという具合。とくにユングにはずいぶん傾倒して、ついには彼のまねをして占星術の勉強までしてしまった。美術室で借りてきた本の山を手に取って、先輩は「面白いわねえ」といってわたしの異端児ぶりを笑っていた。

庭に大きなイチョウの木があって、校歌に「大銀杏」と読み込まれていた。大銀杏のもとで、漠然とした将来や、不安を先輩と話した。
先輩は、綿のように人を包み込むような人で、自分の主張というものはついぞしなかったように思う。わたしの、生意気な未来像や、悩みを、ただ「うん、うん」と聞いていた。先輩は何をしたいのかな、と思ったけども、先輩自身将来何をやりたかったのか、ついに聞くことはなかった。

だから、先輩の名前をちらしで見つけたときはビックリした。
先輩は、演劇をやりたいなんて、一言も言ってなかったし、学園祭で(これが大変なのだ。クラス対抗で、旧制高校さながらに、みな我を忘れて対抗意識むき出しにして没頭する)劇をやったということもなかった。
ただ、美術部にいてもほとんど制作もせず、自分を解放していないように、なんだかわたしには感じられた。だから、劇団・第三エロチカで、主役を張っている先輩は、自分を表現し、解放させる場をついに見つけたのだな、と思ったものだった。
あるテレビ番組で、劇団の旗揚げのときに、裏方をやろうとしていた先輩を、演出の川村某が「おまえが役者をやれ」というので抵抗したが、結局舞台に上がることになり、そのまま当時の小劇場運動の女優の旗手の一人になったのだ、と先輩は告白していた。それもとても先輩らしいと思ったエピソード。きっと、裏方をやるといって、自己主張しない先輩の中に、表現者としてのちろちろとした種火が、演出家には見えたのだろう。その後、脇役をたくさんやったというのも、先輩らしいと思った。先輩は、そうして、周りを生かし、自分も生きるというような人であった。

先輩の訃報に接してまず思い出したのは、暮れなずむ美術室で、西日を感じながらたたずんでいた姿だ。美術クラブ員なのに、絵もかかずに、ほおづえをついて、ただたたずんでいる美しい先輩。
わたしには、先輩自身が絵のように思えて、なんだかはかなげに見えた。

卒業されるとき「いい絵を描いてね」とわたしに言った。
そうだった。果たさねばならぬ約束を思い出した。

「新・科捜研の女」「ナースのお仕事」「野ブタ。をプロデュース」など深浦加奈子さん出演のドラマDVD

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