2008/10/27
こら。みんな怒ってるんだぞ RECOMMENDATION
戸建ての住人なら、悩みの種の季節である。街路樹と庭木の落葉が始まり、毎朝、額に汗して、掃除をする。掃いても掃いても次の日はまた同じ事の繰り返し。5時から起きて大奮闘である。もう日の出が遅くなっているので、薄暗いうちから、掃き掃除である。
今やおひとりさまとはいえ、一家の主となってしまい、家の管理を一手にすることになった。今まで分担していたゴミ出しも、何もかもみんなわたしにまわってきた。猫に手伝ってよ、というのだが「ニャー」とお返事だけはいい。もちろん手伝ってくれるはずもなし。
やることがとにかく細々多い。そんな中での朝の一仕事である。
近所総出で「主婦」とおぼしき人々が、朝から黙々掃き掃除。
男性はなぜかやらない。なぜであろうか。うちでは、父がしていたものだったが。
しかし、それはたいしたことではない。
口には出さぬが、みんな心の中で、毎日怒っていることがある。
それは、あまりにポイ捨てゴミが多いのということである。
しけモク。
これは代表的である。本当に言語道断。かならずといっていいほど毎日あるのだ。それこそ、雨など降ろうものなら、フィルターの部分が、溶けてしまって、アスファルトにべったりくっついてしまう。それをとるのがどんなに大変か。
ガム、梅干しの種。ミカンの皮。
全く論外である。自分で掃除をしてみろってんだ。
そして、最近多いのが、スナック菓子の空き袋、アイスクリームのスプーン、コンビニの袋、飲み物の紙パック、空き缶、焼き鳥の串などである。
この前など、コンビニの袋にゴミがつまっているものが、ご丁寧に植え込みに隠されていた。そこまでするんなら、持って帰りたまえ。
そうです。自分で出したゴミは、家まで持って帰りましょう。
しかし、なんでポイ捨てなんだろう。その心理がわからない。
そう思いながら、ある天気の良い日曜日、家の前を掃いていた。
3人のチャリンコにのった少年たちがやってきた。
そして、ふいに自分の飲み干した、紙パックをストローごと、わたしの目の前で捨てたのである。
「ちょっと!」
わたしは、ほうきとちりとりをもって仁王立ちで大声を出した。
「人の家の前にゴミ捨てていかないでよ。一体なんだと思ってるの。警察呼ぶわよ。あんたたちどこの学校?」
目をつり上げて、怒鳴り散らした。3人は、自転車を止めた。ばつが悪そうであるが、自転車から降りようとしない。
「すみません〜。」
首謀者は列の後ろに下がってしまう。
「なによ、その謝り方は。これ飲んだの誰よ。拾いなさいよ。なによ、なんとかいったらどお?」
沈黙。
結局、その中の一人が拾って、自転車の前かごに入れ、立ち去った。
わたしは、怒りのオーラをぶちまけながらギロリとにらんだままだ。
だいたい、人が掃除している鼻先でモノを捨てるのも信じがたい話だが、人にあやまるという礼儀がなってない。
普通は、自転車をとめ、そこから降りて、あいすいませんでした、ぺこり。
とこうなるのではないのか。人が見ていなければ何をしてもいい、どころではない。人が見ていても、平気でポイ捨てである。まったく、この世の中は大きなゴミ箱だと思っているのか。
彼らは、恐らく平均的な、学生であろう。みんな似たり寄ったりである。男子も女子も。少数の心ある人間もいるやもしれぬが、それはあくまでマイノリティー。なにしろ、電車の中で、ぺちゃくちゃ大声で話しながら、女子高生がファストフードを食い散らかしている世の中である。まったく、こっちは、ゴミの出し方ひとつとっても、自治体からえらく難しいことをさせられているのである。しかし、子どもたちは、そんなこと知った事じゃない。
ゴミがどれだけ地球環境に悪影響を与えているのか、これほど毎日テレビやラジオや新聞で叫ばれている昨今だが、彼らは、まるで耳を閉じている。いやそれ以前の問題だ。ゴミはゴミ箱に捨てる。こんな簡単なことでさえできないのだ。もはや赤子以前。
もう、学業は、この際いいから、学生たちには奉仕活動をさせるべきだ。
なんでもいいのだ。公園の掃除でも学校の前の道路掃除でもいいから。
さっきの一件でもわかるように、子どもたちは、親の手伝いをしていないのは明白だ。手伝いをしていたら、掃除をしている人の鼻先でゴミを捨てるなんていう、無神経なことはまずしないはずだ。
むかしは、家でごろごろしていたら、叱られたものだ。子供は、親の手伝いをするものなのだ。いったい世の中どうなっているのだ。
日本の崩壊は、地球の崩壊より早いかもしれない。
お掃除用具
ゴミ袋
2008/10/20
かわりゆく町 RECOMMENDATION
週末、朝ウオーキングをするようになって、わかったのだが、わが住み慣れた町がかわりつつある。下町で、大きな家が多かったのだが、最近代替わりが進んできたらしく、そのまま居着くのであれば二世帯住宅にしたり、建て替えたり、リフォームしたりしているが、さもなければ、土地そのものを売ってしまい、不動産業者が家を建てて、新しい住人が入ってきているようだ。もしくはさら地にして、屋根のない駐車場になっている。
家を建て替える場合、驚くのは、一軒の家を3分割か4分割にして、戸建てを建てるのである。見た目はこじゃれていて、駐車スペースなどもあったり、防犯システムもあったりするのだが、どう考えても、マンションの3DKなどとそうかわらない広さではないかと思う。これを一体いくらで売っているのか考えるのも恐ろしい。これが戸建てといえるのか。
大きな家は、至る所にあるので、それなりの大きさの場合は、集合住宅(マンションというらしい)にしてしまう。しかも、9階建てとかかなりの高さである。ここでも、まったくウサギ小屋よろしく、小さく小さく分割して、つめこむだけ詰め込もうという意図が丸見えである。近代的で見た目も安全性も良さそうだが、まずは、そんなに狭くして何が面白いのかと思ってしまう。
日本はいつまでたっても、金儲けが一義で、人の居住空間の快適さとか、そういうことをあとまわしにしているように思ってしまう。
そうして、新しい住人が、増えてくるが、あいさつもない。
下町だから町会という組織があって、安全や、近所づきあいが密になっていたものだ。
ところが、新しく入ってきた住人は、みな町会にはいらない。
ブロックごとに「組」ができているのだが、我が家の属している「組」はたったの5世帯だ。
実際は10世帯はありそうなものなのだが。
この「組」制度というのは、回覧板をまわしたりして、例えば、ゴミの出し方とか、そういう大事な情報などもやりとりする。実際、ゴミの出し方のルールは町会に入っていない人は、むちゃくちゃな出し方をしばしばし、町会に入っているもので、ゴミの仕分けを、ゴミを出した当事者が知らぬ間に(犯人はわからないからだ)してやったりする。まあ、そういうことは、新聞の折り込みに区の機関紙が入っているし、ゴミ集積所にも立て看板があって、周知されるはずなのだが、どうも新聞をとっていないのか、看板を見もしないのか。
町会というのは、葬式などのときも、いろいろ助けてくれる。それから、なにより、わたしのような、天涯孤独の「おひとりさま」を影でそっと見守ってくれるのだ。
普段は、何もいわないのだが、家の外を掃除していたりすると、声をかけてくれたりして、留守がちにしているけれども、何か守られているような気がするものだ。そういえば、警備会社に加入するよう勧めてくれたのも、そういう折りであった。今では、それぞれが同じ警備会社に加入するようになった。それというのも、新参者が、町会にはいらず、あいさつもせず、不気味で、なんだか治安が悪くなったような印象があるからだ。町会は寄付とか、お祭とか、夜回りとか面倒な面もあるのだが、地域の互助組織としては、よい機能であると思う。
わたしの考えは古いのだろうか。
そういえば、最近、お茶の水に行ったらびっくりした。
お茶の水は、ティーンエイジャーの頃は本やレコードを買ったり、美術大学に行くための予備校に通ったり、また、フランス語を習ったアテネ・フランセもあって、わたしにとっては、人生の中でかけがえのない町である。湯島聖堂の美しい緑と神田川にかかる聖橋、ニコライ堂、並木道にちいさなレストラン、喫茶店に専門書店。それらは自分にとってなんと心の慰めになっていただろう。それがである。レコード屋こそ残っていたのだが、居酒屋チェーン店が雨後の竹の子のように駅の周りを占領してしまい、本屋は消え、調剤薬局ばかりが目につくという、なんとも殺風景なところになってしまった。
たった数年のことだと思うのだが、なぜ、これほどまでかわってしまったのだろう。
そういえば、銀座もそうだ。今や、黒船のごとく、外国の一流ブランドの大きな建物が林立している。昔の銀座はどこにいったのか。
はかなくも和光はあるのだが、周りのきらきらしいブランド店の狭間に肩身せまそうにひっそり鎮座しているようにもみえる。
町がかわるのは、時代の流れかもしれない。でも、ここまで外観をかえ、印象をかえることを許すのは、日本ならではかもしれない。
わたしが住みたい街、フランスのトゥールーズはテナントの中身こそかわれども、建物の外観は、まるでかわらない。美しいピンク色の煉瓦でできた建物が、いつ行ってもかわらず迎えてくれる。
人間は弱ったときに、行きたい場所がある。それは己をはぐくんだ町である。わたしにとってはそれはお茶の水だった。でも、もどってみたら、安っぽい居酒屋ばかり……喪失感が心を吹き抜けた。
確かに、日本は、地震や台風などの災害を受けやすい。だから、町の外観そのものを残すという思想がないのかもしれない。しかし、外国、特にヨーロッパでは、町が壊されたら、まず、復元を考える。日本では、新しい店舗を作るとしたら、既存の建物を壊して新築することから始める。災害に遭えば、まったく新しい町を造ろうとする。
もし、日本や日本人の心ががすさんでいるとしたら、我々をはぐくむ、町が病んでいるからなのかもしれない。わたしは、お茶の水に帰ろうとした。でももう今のお茶の水は私の知っているお茶の水ではなかった。なんだかもう行きたくない。そこまで思ってしまった。
わたしは、心が弱ったときに帰る場所をひとつ失った。
町を見にいこう
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2008/10/13
世の中に認められるということ RECOMMENDATION
同僚がインディーズバンドの音源を聴かせてくれた。お友だちが関わっているのだという。
若い頃は毎週何らかのギグに行っていた自分は少し晴れやかな気分になった。同時に、昔つきあっていたバンドマン(でもサラリーマン)はどうしているかな、と少し感傷的にもなった。
なになに「JOKE COLLECTION」楽しげな名前。都内のクラブなどで活動しているという。楽器はめちゃめちゃ上手い。コード進行もしっかり勉強したふしがある。どうもジャズを下敷きにしつつ、明るく楽しい音楽を繰り広げているようだ。アントニオ・カルロス・ジョビンのテイストのようなボサノバあり、カリビアンビートの軽快な曲があったり、ロックのXTCみたいなのもあり…。ブラスがこなれているので、実験音楽のような難解さはない。新しい力のあるバンドに出会うのは、やはり楽しい。しかし、メジャーレーベルではないという。地道に活動をしているのか。
最近では、ご高齢のミュージシャンがやってくると「もう聴けないのでは!?」と無理して出かけていくが、どうも人混みとスタンディングのギグに耐えられなくなっている。昔は、いち早く、新人バンドに目をつけては追いかけて行ったものであったのだが。
今では信じられないだろうが、山下達郎と大貫妙子が六本木のピットイン(その日のメインは大貫さん)という有名だが、けして広くないライブハウスでギグをしたのを観たことがある。わたしの斜め前には、かの高橋幸宏がいて、大ファンだったわたしは、どきどきしたものであった。
そういえば、いまや、世界的なニュースにもなるビョークも、無名当時、渋谷のクラブ・クワトロで、シュガー・キューブスの一員として来日したとき、ほぼ至近距離で観ることが出来た。その後大化けして、いまや世界のビョークになってしまい、いまだ目が白黒する思いだ。反論を承知で書くと、ビョークは当時とほとんどメロディーラインなどは変わっていない。変わったのは、アレンジとか、衣装とか、メイクとか、まあ歌詞は深みを持ったかも知れないが、わたしにとっては、あのときの「素」のビョークがなんだか全ての始まりで終わりのような気がしている。
天下のYMOもはじめは小さいところでやっていた。これも本人たちの思惑とは違うところで一人歩きして、社会現象になるようなバンドになってしまった。パチンコ屋から「ライディーン」が漏れ聴こえてきてめまいがした。ついにはYMOとかかわりがなければ人でなし、のような感じになってしまい、新人アーティストのアルバムや出版物にさえYMO関連の人々や、YMOの人たちが制作にかかわったり記事をのせたりなど、まるでYMO印のお墨付きだらけの異常な時期があった。わたしは、YMO以前から高橋幸宏さんのおっかけ(ドラマーフェチなのだ)であったので、かなり憤慨していた。本人たちも辟易していたきらいがある。
それを壊したのが、バンドブームである。「イカ天」というオーディション形式の番組がはじまって、YMOとはまるで縁戚関係のない、無名のアマチュアバンドが競い合う。この番組で輩出されたバンドでわたしが、もっとも気に入ったのはBLANKEY JET CITY。彼らは、ぶっちぎりで5週連続で勝ち残り「グランドイカ天キング」を易々と獲得した覚えがある。ボーカルの音程不全なことをぬかせば、日本人離れしたグルーブ感と楽器の上手さはわたしを魅了しつづけた。ここでもドラマーフェチのわたしは、中村達也にいちはやくツバをつけさせていただいた。稀代のドラマーである。そういえば、このひとはカルトバンドのザ・スターリンにいたのではあるまいか。ライブハウスで観た覚えがあった。後づけだが、ジャズドラマーの日野元彦さんの弟子だと聞いて、納得した。しかし、彼の卓越したリズムの隙間を遊ぶような揺れのあるリズム感覚は、彼生来の才能であって、それを日野さんに習うことで磨きがかかったのだと思う。
バンドブームでYMOの縁戚主義は瓦解した。YMOは「散開」し、新しいバンド群雄割拠の時代となった。しかしそれも今は昔。時代は大きく変わった。またもや音楽シーンは、閉塞感が渦巻いている。
ところで、わたしの本業は画家であるが、絵では食えない。大きな後ろ盾(有名な画家を師匠にする)があって、臥薪嘗胆数十年すれば、お上から勲章をもらえることもあるが、それと仕事の質は関係ない。後ろ盾を無くした物は、細々と画廊を借り、展覧会を開く。しかし、タレントさんのような付加価値があればよいが、普通は、よっぽどのことがなければ世に認められないし、生活できない。なにしろ、ひとつの絵に最低でも半年は制作期間がかかる。その間どうやって暮らしていくのか。
実は、わたしは新橋などの画廊に営業にいったことがある。そこで引導をわたされた。
わたしは五重苦をかかえているのだという。まず日展など大きな公募展に属している先生についていないこと(平たく言えばコネがないということ。これについては、機会があったら書くが、いうなればわたしの思想と画風ゆえ、破門されたのである)。よって、公募展に名を連ねていないこと。ヌードを描いていること(日本人は家にヌードの絵を飾る場所もなければ、奥方が怒るのでまず飾れない)。象徴主義にかぶれていること(日本人はイコノロジーに暗い)。女であること(わが日本国では、女は信用されない。結婚すればやめるとか、子供ができればやめるとかそういうばかげた理由である)。五重苦をあきらめれば、売ってもいいといわれた。それは、わたしに死ねと言っているに等しい。つまり、日本の画壇からほされたわけである。
そうなると、貸し画廊で展覧会を開くことになるが、まず世間的に影響力をもつことはない。いろいろな後ろ盾やお膳立てや付加価値があって、はじめて話題になったり、絵を買ったりしてくれるのだ。もちろん、批評などされない。日本には純粋な美術評論というのは存在しないといってもいい。わたしに活路があるとすれば、フランスである。フランスの画廊に見せに行ったが、どこも好感触であった。2年以上フランスに滞在したら、売ってやる、といわれた。しかし、最初は莫大な資金がいる。絵をフランスまで運び、まずは自前で展覧会をひらかねばならないのだ。
まあ、結論として日本は捨てることにした。いつかかならずフランスで展覧会をしようと思う。
ちょっと話が横道にそれた。音楽の世界も、美術とほとんどかわらないのではないか。今やメジャーなミュージシャンでも大きなレーベルと契約するのは至難のわざだと聞いている。しかし、そういったひとたちは、自前でレーベルを立ち上げている。ホームページから直販したり、コンサートのチケットをさばいたりするのだ。アマチュアでも、自前でレコード(CD)を焼いたりということが昔より容易になったと思う。
ノーベル賞の栄誉に輝いた4人の科学者も言っているではないか。彼らの業績は数十年前のもの。それが世の中のためになって、この栄誉につながった。人生をあきらめるな。長いタームで考えれば、80年もあるではないか。例えば、クラシックのピアニストで油が乗っている時期というのは、50代から70代の演奏であることが多いのだ。
肝心なのは芸を磨き、創り続けるのをあきらめないことだ、と思っている。
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2008/10/6
財布盗難症候群 RECOMMENDATION
さて、前回の続きである。
フランスで、巧妙なプロのスリ2人組に財布を盗まれた。
もう一カ月ならなんとしているが、いまだに心理的、身体的にぼろぼろである。
たかが財布を盗まれたくらいで、と思われるかもしれぬが、犯罪に遭うということはこういうことかと、日々かみしめている次第である。
異国で泥棒に遭うのはそうめずらしいことではない。
フランスではフランス人であっても何度か財布を盗まれるという。
だから、特別なことではない、とは思おうとしていた。
しかし、自分にとっては、初めての出来事であった。つまり、かなり個人的には特別な体験なのだった。
それはエコール通りという、ソルボンヌ大学の裏手にある、今までの常識では治安のいい場所であった。時刻は午後8時。日本とは違い、まだ少し明るい。ホテルはもう視界に入っていた。ゆるい坂を上っていたら、後ろから、ツーリストを装った、2人組の女性がそれぞれ地図を片手に近づいてきた。
「オペラ座に歩いて行きたいが、どうしたらいいのか?」
妙な英語で聞いてきた。
驚いた。エコール通りとオペラ座とは、セーヌ川をはさんで、バスでも20分はかかるところである。それを徒歩で行きたいというのだ。まず、ここであやしいと気づくべきだった。しかし、パリを知らない道に迷ったツーリストなのかと、思ってしまった。ここにつけいる隙があった。
彼女たちはやれ「フランス語がわからない」「絶対徒歩で行きたい」「ここはどこに当たるのか」とてもヒステリックな語調で、わたしが何か言おうとすると、言葉をさえぎる。しだいに、わたしはイライラしてきた。頭に血が上って、冷静さを欠いてしまった。「ちょっと、黙ってください。今、どうしたらいいか、教えるから。」と英語で、しかも強い語調で言って、女の持つ地図に手をかけた。
思うつぼである。ここらへんで、どうも財布を取られたと思われる。
「ロマ族ですよ。」
翌日の昼下がり、警察で調書をとる警官に言われた。このごろ、この手口が頻発しているそうだ。
今までなら、ロマ族は、駅や繁華街の中心にいて、裸足だったり、ロマ族特有の格好をしていたものだった。だれかが古新聞を持っていて、それを買わせようとし、その隙に仲間が、バッグなどをひったくる。そんな手口が一般的であった。しかし、今回であった2人組は、よくいる若い女性2人組の旅行者然としていて、こざっぱりした身なりに、はやりの若者の装いであった。シナリオが実に凝っていて、人をイライラさせる心理攻撃は見事としかいえない。
ホテルに帰り、ようやく、財布がなくなっているのに気づいた。その前にアラブ屋(セブンイレブンみたいな食糧雑貨屋)で、ワインや総菜、果物を買っていた。そのときは、財布は確かにあった。とにかく、アラブ屋から、ホテルまで、もう一度たどることにした。
アラブ屋で、財布がないかきいてみた。「ないよ。」
やっぱり。
仕方なく、つぶさに、帰り道の路上に財布が落ちていないか、半ばあきらめつつホテルまでたどった。もちろんみつからない。絶対「やられた」んだから。もう確信に近かった。
さて、ホテルに着いてからは、電話にとりついた。クレジットカードと銀行口座を止めるのと、被害があったかどうか、聞きまくる。幸い、カードを使ったことはなかったようだった。一時間余り電話をあちこちかけ続け、あるカードだけ翌日朝10時に再発行されることとなった。場所は、にっくきオペラ座である。しかし、まあ、助かった。
ようやく総菜やらワインやらで空腹を満たすと、フロントに行った。近所に警察署があるという。行ってみた。警官は、夜だったからか「そいつは大使館の管轄だ。」と大嘘をついた。皮肉にも、ドイツ人の老夫婦が、わたしに近づいてきて、道を聞いた。もう何も盗られるモノがないわたしは、道を教えてやった。
さて、なぜ、警官が大嘘かというと、大使館には捜査権はないからである。仕方がないので、翌朝一番で大使館に電話した。「近くに親切な警察があるから、大使館までいらっしゃい。」かくして、被害届を出し、調書をとられたのであった。
旅の相棒は、その日、日本人のバス日帰りツアーでモン・サン・ミッシェルまで行くことになっていた。もう150ユーロも払い込んでいる。なのに、彼女は、早朝、集合場所に行くと、すぐに戻ってきた。わたしのカード再発行オフィス、大使館、警察行脚につきあうというのだ。友情に胸が熱くなった。
帰りの飛行機で、したたか吐いた。
食事自体はおいしく食べたのだが、全部出してしまった。
相棒は医者だったので、介護に手際がよい。
その後、12時間のフライトは、まるで昏睡状態になったかのように、眠りに落ちた。
目覚めたらもう成田なのである。普通なら、長すぎるフライト時間をもてあますものなのに、その間の時間はまったくないかのようだった。
相棒の友人の精神科医によれば、まず、おう吐して、体にショック症状がでて、その後、眠ったのは、よいことであったと言った。それで、無意識に傷ついていた精神的ショックが、かなりいやされたはずだ、ということだった。
かなり。
しかし、それからもめろめろであった。帰宅して、すぐに銀行に行く。凍結していた全ての銀行口座を開き、キャッシュカードなど再発行の手続き。運転免許に保険証の再発行。
それから、1週間にわたって、五月雨式にクレジットカードやら、キャッシュカードやら、ご丁寧に書留でばらばらとやってきた。配達時は昼間であるから、働いている自分は、ある時は、再配達を願い、ある時は、近所にある本局に夜中に取りに行った。
運転免許は、試験場まで行くことになる。
そして、全てはタダではない。クレジットカードなどの再発行にはそれぞれ平均千円余はかかる。運転免許は3千余円。弱り目にたたり目である。ただでさえ、現金盗まれへこんでいるのに。財布も新しい物を買わねばならない。
そして、毎日ずっと下痢が続いた。いまも体調がどうもおかしい。行きつけのマッサージでは、体がぼろぼろだと言われた。
たかが、財布を盗まれただけ。しかし、精神的、肉体的な打撃がここまで大きいとは思わなかった。
わたしより酷い、悲惨な事故や事件に遭った人の気持ちを思った。
恐らく、こんなものではすまないに違いない。
犯罪とはかくも人を傷つけ、疲弊させ、病的になるということなのだ。新聞やテレビのニュースで繰り返しいわれる社会的な犯罪、テロ。これに比べればわたしの被害など軽微なものだ。しかし、犯罪の被害者に対する見方が変わった。明らかに変わった。
まずは心のケアをしよう

