2008/3/24  0:00

お花見をひとりでしてもいいですか  RECOMMENDATION

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桜の開花予想。
そんな時期になった。花の名所はどこも人でいっぱい。
花の下で宴会。一度、千葉の桜の散歩道をぐるっと友人たちと回ったことがあったが、あれはきれいだった。そここに当地ゆかりの文豪の碑がたっていて、それをよみつつ回っていくと、中間地点に大きなしだれ桜の古木のある寺院にたどりつく。そこから、桜で有名な大きな公園までそぞろ歩く。満開の夜桜がきれいだった。

私にとって、花見で楽しかったのはこれくらいだ。
今こそ立錐の余地のないほどにぎわう千鳥ヶ淵も、昔、つき合っていた人と訪れたときは、まだあまり知られておらず、夜のお堀にうつる薄墨色の影のかかった、桜の洪水にかえって怖い思いがしたものだ。その人とはその後、とても悲しいつらい別れを経験したが、桜と漆黒の闇と月明かりにほの暗く光る水面が、それを暗示していたように思う。
文楽などでは、桜というと隅田川ものといって、精神のバランスを失った女性があるいは激しい恋に、あるいは子供への情に殉じていく。大夫の義太夫三味線の抑揚は、ここぞとばかり哀愁にそして、幽玄に響く。春は隅田川ものを観たい。今年はあるかしら。

休日になると、テレビや新聞はやれどこそこで、楽しい行事があって、家族連れでにぎわいました、というニュースをかならず「命の洗濯ができました」とか「いい思い出になりました」とか、たいてい女性や子供やらのコメントつきで流す。いつだったか、有名なキャスターが「こういう話題って、電波の無駄遣いじゃないですかね」と言っていたような気がする。
本当に楽しかったの? 休みの日はそうやって過ごさなくちゃいけないの? 家族や恋人がいない人はそういう映像を見てどう思うか考えているの? あるドキュメンタリー、格差社会について、だったと思うが、一人暮しのお年寄りの男性が「わたしは起きて寝るだけ。世の中の人が楽しげに見える」と言っていたのを思い出す。ハレの行事はみんな参加しないと、取り残されたように寂しくなるのだ。
ステレオタイプが日本人は大好きだ。たとえば、良き母、良き妻にして、仕事も一線でこなすとか、新聞に登場する女性は枕のようにそうやって紹介される。そんな人、いるんだろうか。いたとしたら、とても近寄りがたいんじゃないだろうか。それより、本人はそうしたいのだろうか。そうならねば、と思ってはいないだろうか。
姉が、ある女性のよりよい生き方を説いた本を書いて、最近ベストセラーになった人の家をテレビで取材してたのを見て、部屋中ゴミだらけだったので、ほっとしたといっていた。本当のところ、どこか抜かないと、生きていくのは不可能なんじゃあるまいか。
休日の「楽しい行事」を取材する人たちは、仕事でやっているのだし、それを紹介するアナウンサーも仕事だ。よって、流れる番組もしらじらとした雰囲気が流れるのは必定じゃないのか。

日本フランスを比べると、その休日の数たるや、比較にならない。また、祭りは別として、フランス人の休日の過ごし方は一律ではない。バーゲンでにぎわいましたくらいの話はやるけれど、ラジオニュースでは、まず交通情報と天気予報くらいしかバカンス情報はない。
だいたい、列車時刻表というものが、売っていないのだ! 出かけたくなったときが旅行の日。だから、イギリスのトーマスクックの時刻表をわたしがながめて付箋などつけていると、フランス人の友人は鼻で笑う。「そんなの見て面白い? 列車の時間なんて、出かけたくなったら駅にきけばいいじゃん。」ちなみに、そのトーマスクックは、フランスのどこの本屋に行っても売ってません。誰も買わないからです。でも休日の過ごし方はたぶん世界一上手い。
ひとけのないロマネスク教会を訪ねたり、100人しか住民がいないけれど美しい景観の村に行ったり、そして、そういう小さな村も、どこもかしこも、食事と酒がものすごく旨い。
でも、わたしは、時刻表見ながらフランスの列車旅行は好きである。最近は時間に遅れたり、ストでにっちもさっちも行かなくなることが多くなったが、一番好きなのは「タルゴ」という列車である。
「あんながたがたうるさい列車のどこがいいんだ」とフランス人にまた笑われる。でもイタリアから、フランスのモンペリエを通ってスペインまで行くタルゴは、旅情たっぷりなのだ。わたしはモンペリエからペルピニアンまでしか乗ったことがないが、これが素晴らしいものだった。時は、復活祭間近。モンペリエでタルゴの乗ると、すぐに、地中海沿いにすすむ。それも地中海ギリギリかと思うほど海に迫ったところである。左手に地中海の春のきらめきがせまり、右手にはなだらかな野原や畑が見える。
そして、桜だ。桜がたくさん咲いているのだ。誰も花見なんてしていない、というか人っ子ひとりいないのだけども、ミモザの花にまじって桜の木が車窓に近づいては去り、近づいては去りしていく。
ああ、なんと美しいことよ、異国で見る桜の。
そこには、日本でいう桜のネガティブなイメージ、たとえば、隅田川ものに代表される狂気とか、何かに失敗したとか、梶井基次郎が「桜の樹の下には屍体が埋まっている」など書きたくなるような霊的なものや、私が千鳥ヶ淵で感じたような、墨絵の深遠のようなそういったものはない。
ただほのぼのとして、明るい、南国のぼんやりとした暖かな風情をただよわせているだけであった。


日本の桜を楽しむ旅へ出かけよう



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