2008/4/7 1:42
トランジットの密室恐怖体験 RECOMMENDATION
飛行機の乗り継ぎでひどい目に遭った人は、それこそ星の数ほどいるに違いない。
わたしは、旅の回数の割には少ない方だが、2回ほどひどい目に遭っている。一度目は、ヨーロッパから日本に帰るとき、ソ連時代のモスクワで、二度目はインドに行く途中、バンコックで。バンコックでは、インド在住の叔母をやきもきさせたが、滞在自体は屋台なんか行ったりして面白かったので、今回はソ連時代のモスクワでの不安な一夜について語ろう。
フランス語の上級試験に受かって、語学学校で机を並べた人類学者の卵と、腕だめしにフランスに行くことにした。初めてにして念願のフランス旅行である。まだ学生だったから、復活祭の時期、1カ月半の貧乏旅行をした。最初の2週間は友人と一緒だったが、その後は、それぞれ、一人で旅をしようということになった。わたしは、とにかく見たかった絵を全部見ようという意気込みで、グリューネヴァルトを見にコールマールに行った他は、パリにとどまり、かたっぱしから美術館巡りをした。また、バッハの復活祭のオラトリオをサンジェルマン・デ・プレでやっていたので、夢だったバッハの教会音楽をヨーロッパの教会で聴くということも実現した。1カ月フランスに滞在の後、ベルギーに留学しているピアニストの卵…彼女も机を並べた仲だが…のところに2週間滞在した。そこでは、当時、最も心奪われていたベルギー象徴主義を当地で堪能した。
若かった画家の卵にとって、何百という絵を、しかも本物を、作家のいた場所の空気を吸いながら集中して観られた経験は、今思っても貴い。一生のロードマップが描けたというか、自分の行くべき道がはっきりと示されたといっても過言ではない有意義な旅であった。師事していた先生に早々と破門され、インディペンデントの画家になり、いつもへこたれたときに自分の背中を押すしてくれるのは、このとき観た膨大な数の作品の放つエネルギーである。その後もフランスはたびたび訪れているのは、今までのコラムでご存じの通りだ。フランス語も、その後足かけ十年ほどその語学学校に戻って勉強した。また時間が許せば勉強したいくらいだ。
さて、ついにベルギーから、日本に帰ることになった。貧乏な旅だから、よくいえば質素なアエロフロートに乗り、モスクワ経由で成田に着くはずであった。ベルギーのブリュッセルからモスクワまでは順調にいけば確か二時間くらいだったと記憶している。それが、なぜか、遅れたのだ。
モスクワ空港に着いたら、乗るべき飛行機はもう飛び去った後だった。
乗り遅れた乗客はわたしだけ。「呆然」の二文字が頭を支配した。共産圏の空港で、一体どうしたらいいのか。搭乗カウンターの職員が英語で「明日乗れる飛行機を手配したから、今日は、空港内のホテルに泊ってくれ」と言ってるような気がしたが、頭が混乱して、事態が良く把握できない。なにしろ、初めての経験のうえ、マトリョーシカとウオッカしか棚に並んでいない、ただただ、だだっ広く殺風景にして人気のない空港ロビーが不気味で仕方なかった。たぶん「共産圏に一人取り残された」という状況が妙な恐怖感を増幅させたのだ。
「フランス語が出来る人を出してください」
そういって、もう一度説明してもらった。やはり同じ事をいうので、いわれた番号のカウンター…たしか20番だった…に行くと、これからトルコに行くという日本人の団体客と一緒になった。ここで乗り継ぎのために一泊するのだという。少しほっとした。そして、我々は、バスにつめこまれ、空港内のホテルまで搬送された。遠くに白樺林がぼんやり見える。不安は増すばかりだ。
ホテルの建物は大きく立派だった。フロントに二人ロシア人女性がおり、あなたはこっち、あなたはそっちと、部屋割りをしている。ここのセオリーは、同国民の同性で一部屋に泊めるというものだった。わたしは、トルコ行きの団体の一人とペアにされた。
「あの、電話はかけられないんですか」
「外とのコンタクトは一切禁止です」
「家族が、心配しているんです。なんとかなりませんか」
当時は、祖母がまだ存命していた。さぞかし心配しているだろうと思ったのだ。
ほとんどけんかのようになってしまった。なんてゆうずうがきかないのだろう。
後から知ったが、成田の方から家族には連絡が行っていたようだった。それならそうと、いってくれればいいのに、知らぬ、存ぜぬと、とにかくコミュニケーションを拒否するのだ。
部屋は、広いが質素だった。電話はない。シングルのベッドが部屋の両脇に置かれている。シーツは洗濯されていて、清潔だったが、ごわごわだった。風呂場にあるタオル類は全部雑巾かとみまごう布きれだった。ぬるま湯がかろうじて出る。こんなに立派なホテルでこれだったら、他はどうなんだろう。窓からは、やはり白樺林がみえる。ぼんやりした風景だ。昭和二〇年代かとおもうような木製のラジオがあって、ロシア語で何か言っている。三〇分ごとにボルガの舟歌が流れる。
かっぷくのいい女性がいきなり入ってきて、
「夕食ですよ」
といったかどうかは不明だ。しかし、そうらしい。フロント以外のソ連の人はすべて、ロシア語しか話さない。英語で話しかけてもロシア語で返す。外国人との接触を制限しているようだった。
体育館かと思うくらい広大な食堂に案内される。はじからすわらせられて、食事がはじまる。一応スープに肉料理、野菜にデザート、ワイン、パン、などがある。給食みたいだ。味は最悪。きっとあの女性はフロアーの係だ。彼女がロシア語しか話さないとなると、本当に明日、無事に飛行機に乗せてくれるのかしらん。このままどこかにつれていかれちゃうとか……なんだか食べた気がしなかった。
トルコ行きの人たちは、早朝に旅立っていった。こちらはツアーコンダクターがいるので、安心だ。ああ、ついに一人になってしまった。共産圏に一人。電話もかけられない。当時はインターネットも携帯なんてものはない。一体どうなっちゃうの。ラジオはあいかわらずロシア語で何か言っている。30分ごとにボルガの舟歌。
「昼食ですよ」
といったらしいので、また「体育館」に行った。そうしたら、こんどはフランス人のテーブルだった。涙が出そうになった。スティングによく似たお兄さんがいろいろ話しかけてくる。二人で、待遇の悪さの悪態をつきまくる。やはりフランス人はいいなあ。言葉が通じるのがこれほどうれしかったことはない。
「しーっ。誰が聞いてるかどうかわからないからね。時に、日本人と中国人の見分け方はどうやるの」
悪口をさんざん言ってたのはあなたでしょうが。
フランス人によれば、ビザがないので「上陸」はできないが、モスクワの観光バスツアーがあるという。わたしは飛行機の時間の関係(言ってることが確かなら)で行けなかった。一人でまた部屋でぼーっとする。これからどうなるんだろう。一分が一時間のように思えた。孤独で所在ない絶望感。
何十回目かのボルガの舟歌を聴いた後、かっぷくのいい例の女性が部屋に来た。どうやら「時間ですよ」と言っているらしい。荷物(手荷物だけ。他の荷物はどうなったのか不明)を持てと身振りで示している。フロントまで出て行くと、どうやら、飛行機に乗せてくれるらしい。日本人がいっぱいだ。やっと安心した。搭乗券ももらえた。
ずっと後になって、北朝鮮の拉致事件のことを知った。そのとき頭をよぎるのは、このときの体験である。さぞかし無念で絶望的だったであろう。わたしは、日本に帰れたけれど、どこかに連れて行かれるんじゃないかとずっと思って震えていた。閉鎖的なソ連の国のホテルの一室に入れられて、電話一つかけられない。そこのスタッフとも話もできない。部屋を出るのも許されない。ないないづくしのなかでの不安と恐怖。旅慣れた人にはたいしたことではないのだろうが、まだ若かった自分には、得難い経験だった。今のロシアはどうなんだろう。あのホテルは今もあるのかしら。
安心安全な海外ツアーをそろえました
2008/4/7 16:51
朝 [WATCH!首都圏]
窓から差し込んだ太陽の光が、私の左の腕のジャージの上に当たっています。
そう言えば、今日のAOLのお知らせダイアリーを読んで思い出したんですけど、昔テレビで、まりっぺがモスクワは渋谷より怖いって言ってましたよ。

