2008/11/19 17:20
全日本空挺同志会(補足) 空挺・落下傘
前のダイアリーに全日本空挺同志会の構成メンバーについて書いた。
このほかに、空挺教育隊(習志野駐屯地:千葉)において基本降下課程を履修した隊員の中には、陸上自衛官以外の隊員もいる。例えば、昭和40年当時齋が基本降下課程に入校中、航空自衛隊の戦闘機パイロットが降下訓練を受けていたほか、航空救難隊のレスキュー隊員は現在もその訓練を受けているから、広義には彼等も空挺隊員の仲間であり、その一部の隊員或いはOBが空挺同志会会員となっている。
蛇行飛行:空挺同志会の会員は、旧軍・現役・OBその他を問わずその結束が極めて固いことは他に例を見ない。
例えば日本全国、全日本空挺同志会の宴席ではその最後を「空の神兵」(昭和17年、梅木三郎作詞、高木東六作曲)合唱で締めるが、数年前札幌での忘年会の折り、たまたまその合唱を聞きつけた本州からの観光客が、「わたしも元空挺隊員、仲間に入れて」と、合唱の輪に加わって来た。
合唱終了後、我々がその観光客に対し異口同音に訊いたことは「何期(空挺基本降下課程の期別)ですか?」「00期です」、「所属は?」「群3(普通科群第3中隊)です」「では中隊長はH3佐だね」「いえ米留時は1尉で、帰国後3佐に」等々、そして当然のことのように、2次会は彼を仲間にしてドンチャン騒ぎと相成った。
さて、今年最初の忘年会は月末だ。師走には忘年会が目白押しという理由から、空挺同志会北海道連合支部の忘年会はこの10数年来11月下旬と決めた。空の神兵らしく“切り込み”即ち忘年会始めとなる。
師走には既に道外での開催を含み5件の忘年会が予定されている。
依然として容体が不安定な義母を見舞うため、明日から日曜まで函館に行く。多分積雪の中山峠越えとなりそうだ。
22日は二十四節気「小雪」
このほかに、空挺教育隊(習志野駐屯地:千葉)において基本降下課程を履修した隊員の中には、陸上自衛官以外の隊員もいる。例えば、昭和40年当時齋が基本降下課程に入校中、航空自衛隊の戦闘機パイロットが降下訓練を受けていたほか、航空救難隊のレスキュー隊員は現在もその訓練を受けているから、広義には彼等も空挺隊員の仲間であり、その一部の隊員或いはOBが空挺同志会会員となっている。
蛇行飛行:空挺同志会の会員は、旧軍・現役・OBその他を問わずその結束が極めて固いことは他に例を見ない。
例えば日本全国、全日本空挺同志会の宴席ではその最後を「空の神兵」(昭和17年、梅木三郎作詞、高木東六作曲)合唱で締めるが、数年前札幌での忘年会の折り、たまたまその合唱を聞きつけた本州からの観光客が、「わたしも元空挺隊員、仲間に入れて」と、合唱の輪に加わって来た。
合唱終了後、我々がその観光客に対し異口同音に訊いたことは「何期(空挺基本降下課程の期別)ですか?」「00期です」、「所属は?」「群3(普通科群第3中隊)です」「では中隊長はH3佐だね」「いえ米留時は1尉で、帰国後3佐に」等々、そして当然のことのように、2次会は彼を仲間にしてドンチャン騒ぎと相成った。
さて、今年最初の忘年会は月末だ。師走には忘年会が目白押しという理由から、空挺同志会北海道連合支部の忘年会はこの10数年来11月下旬と決めた。空の神兵らしく“切り込み”即ち忘年会始めとなる。
師走には既に道外での開催を含み5件の忘年会が予定されている。
依然として容体が不安定な義母を見舞うため、明日から日曜まで函館に行く。多分積雪の中山峠越えとなりそうだ。
22日は二十四節気「小雪」
2008/11/18 17:49
全日本空挺同志会高野山慰霊祭 空挺・落下傘
今年も高野山境内の奥の院『空』墓前において去る9月14日、全日本空挺同志会が主催する「第53回高野山慰霊祭」が執り行われた。
蛇行飛行:全日本空挺同志会は、旧陸軍挺進部隊、陸上自衛隊第1空挺団所属隊員、元空挺団所属隊員、退官者及びその遺族並びにその他の部隊・人々から構成されている。
旧陸軍挺進部隊とは、大東亜戦争(第二次世界大戦)開戦劈頭の昭和17年2月15日、スマトラ島南東部パレンバンに降下し油田地帯を占領した旧陸軍落下傘部隊及び終戦間近、沖縄米軍飛行場に強行着陸した義烈空挺隊等の部隊とその部隊を空輸した輸送機部隊である。
高野山慰霊祭における全日本空挺同志会会長の祭主祭文:「全日本空挺同志会会長 木家勝 謹んで申し上げます。大東亜戦争の敗北から63年、今年もここ高野の空(くう)の墓の御前において、日本陸軍落下傘部隊の戦没者等及びその後継者たる自衛隊空挺隊員の殉職者、並びに物故されし空挺同志会員の御霊を祀る慰霊祭を執り行う日を迎えました。
陸軍落下傘部隊生き残りの戦友達が、ここ高野の聖地に「空挺落下傘隊員」の墓を設けようと、力を合わせて努力され、とりわけ中村軍医の御尽力によって、これが実現したのは、昭和31年9月23日のことでありました。今年はその時から52年を経て、53回目の慰霊祭となりました。我々が今日、ここ高野の地において慰霊祭を執り行うのは、日本陸軍挺進部隊の遺訓「挺身赴難」の伝統を継承し、先輩達の慰霊を行うとともに、その伝統を若い空挺隊員が受け継いで行くことに、大きな意義を見出しているからであります。
世界いずれの国においても、祖国、民族のために戦って倒れし軍人の慰霊を行い、その伝統を若きもののふが受け継ぐのは、当然のことであり、今我々は、そのことを粛々と執り行いつつあるのです。(中略)
最後に、本日ここにお参り下さったご遺族並びに参列者の皆様方に衷心よりお礼申し上げます。
在天の御霊よ、わが日本の行く末を見守り、後に続くもののふたちに、ご加護を賜らんことを。
蛇行飛行:全日本空挺同志会は、旧陸軍挺進部隊、陸上自衛隊第1空挺団所属隊員、元空挺団所属隊員、退官者及びその遺族並びにその他の部隊・人々から構成されている。
旧陸軍挺進部隊とは、大東亜戦争(第二次世界大戦)開戦劈頭の昭和17年2月15日、スマトラ島南東部パレンバンに降下し油田地帯を占領した旧陸軍落下傘部隊及び終戦間近、沖縄米軍飛行場に強行着陸した義烈空挺隊等の部隊とその部隊を空輸した輸送機部隊である。
高野山慰霊祭における全日本空挺同志会会長の祭主祭文:「全日本空挺同志会会長 木家勝 謹んで申し上げます。大東亜戦争の敗北から63年、今年もここ高野の空(くう)の墓の御前において、日本陸軍落下傘部隊の戦没者等及びその後継者たる自衛隊空挺隊員の殉職者、並びに物故されし空挺同志会員の御霊を祀る慰霊祭を執り行う日を迎えました。
陸軍落下傘部隊生き残りの戦友達が、ここ高野の聖地に「空挺落下傘隊員」の墓を設けようと、力を合わせて努力され、とりわけ中村軍医の御尽力によって、これが実現したのは、昭和31年9月23日のことでありました。今年はその時から52年を経て、53回目の慰霊祭となりました。我々が今日、ここ高野の地において慰霊祭を執り行うのは、日本陸軍挺進部隊の遺訓「挺身赴難」の伝統を継承し、先輩達の慰霊を行うとともに、その伝統を若い空挺隊員が受け継いで行くことに、大きな意義を見出しているからであります。
世界いずれの国においても、祖国、民族のために戦って倒れし軍人の慰霊を行い、その伝統を若きもののふが受け継ぐのは、当然のことであり、今我々は、そのことを粛々と執り行いつつあるのです。(中略)
最後に、本日ここにお参り下さったご遺族並びに参列者の皆様方に衷心よりお礼申し上げます。
在天の御霊よ、わが日本の行く末を見守り、後に続くもののふたちに、ご加護を賜らんことを。
2008/7/3 21:11
東京五輪、東洋の魔女 空挺・落下傘
読売新聞の報道によれば本日、昭和39年の東京五輪で金メダルを獲得し「東洋の魔女」の異名をとった元全日本女子バレーボールチームの主将だった中村(旧制、河西)昌枝さんが、マサチューセッツ州にあるバレーボール殿堂に今年度の殿堂入りが決まったそうだ。
蛇行齋がその当時の中村昌枝さんにお会いしたのは正に劇的だった。
蛇行齋は昭和40年6月に入隊、じ後前期過程、後期課程及び空挺教育隊の基本降下課程修了後、第一空挺団普通科群の戦闘中隊に配属されたが、基本降下中に負傷(主落下傘が開かず予備落下傘で降下し両足首を圧迫捻挫3週間入院)していたため、本部中隊に再配置された。
折りもおり、現在その辺りのことをブログに紹介の最中である。
蛇行齋が本部中隊に配置されるのとほぼ同時にご着任の新中隊長が、五輪の優勝を機に日紡を退職した河西昌枝さんと結婚したばかりの中村一等陸尉、佐藤栄作総理大臣の取り計らいでお見合いは首相官邸だった。蛇行齋は中隊長伝令として身辺をお世話したが当時は右も左も分からず、懸命に中隊長に付いていっただけだったように思う。
蛇行飛行:中隊長は酒を飲まず無類のヘビースモーカー、落下傘降下の際には中隊長から預かった「ピース」を20箱くらい雑嚢(ざつのう:物入れ袋)に入れ中隊長に続き降下した。降着後は中隊長と行動を共にし、夜は中隊長のテントで話を聞いた。一等陸士(一等兵)19歳だった。
駐屯地では、中隊長不在間中隊長への電話に応対したが、ほとんどは新聞社・放送局等の中隊長夫人に対するインタビュー申し込みだった。
夫人は身長1m75Cmくらいで中隊長とほぼ同じだったが、着用していたローヒールの分だけ夫人の方が高く見えた。中隊長室で初めて夫人にお会いしたとき、夫人は世界にその名を馳せた東洋の魔女軍団の主将だったとは思えないほどに穏やかでチャーミングな印象を受けた。
爾来40有余年親しくお会いしていないが、中村中隊長夫人、旧姓河西昌枝さんのバレーボール殿堂入りを心からお祝いしたい。
蛇行齋がその当時の中村昌枝さんにお会いしたのは正に劇的だった。
蛇行齋は昭和40年6月に入隊、じ後前期過程、後期課程及び空挺教育隊の基本降下課程修了後、第一空挺団普通科群の戦闘中隊に配属されたが、基本降下中に負傷(主落下傘が開かず予備落下傘で降下し両足首を圧迫捻挫3週間入院)していたため、本部中隊に再配置された。
折りもおり、現在その辺りのことをブログに紹介の最中である。
蛇行齋が本部中隊に配置されるのとほぼ同時にご着任の新中隊長が、五輪の優勝を機に日紡を退職した河西昌枝さんと結婚したばかりの中村一等陸尉、佐藤栄作総理大臣の取り計らいでお見合いは首相官邸だった。蛇行齋は中隊長伝令として身辺をお世話したが当時は右も左も分からず、懸命に中隊長に付いていっただけだったように思う。
蛇行飛行:中隊長は酒を飲まず無類のヘビースモーカー、落下傘降下の際には中隊長から預かった「ピース」を20箱くらい雑嚢(ざつのう:物入れ袋)に入れ中隊長に続き降下した。降着後は中隊長と行動を共にし、夜は中隊長のテントで話を聞いた。一等陸士(一等兵)19歳だった。
駐屯地では、中隊長不在間中隊長への電話に応対したが、ほとんどは新聞社・放送局等の中隊長夫人に対するインタビュー申し込みだった。
夫人は身長1m75Cmくらいで中隊長とほぼ同じだったが、着用していたローヒールの分だけ夫人の方が高く見えた。中隊長室で初めて夫人にお会いしたとき、夫人は世界にその名を馳せた東洋の魔女軍団の主将だったとは思えないほどに穏やかでチャーミングな印象を受けた。
爾来40有余年親しくお会いしていないが、中村中隊長夫人、旧姓河西昌枝さんのバレーボール殿堂入りを心からお祝いしたい。
2008/6/29 13:42
初仕事は落下傘降下#2 空挺・落下傘
入隊時の身体検査では68Kgだった体重が、約12週後には63Kgの筋肉体質へと変化していた。入隊前の蛇行齋のニックネームは級友からは“ブーちゃん”、高校の歴史教師からは“隆盛”(西郷)だったから、12週間後旧友に再会したとき皆は異口同音に「ブーちゃん痩せた(締まった)ナー」、当時は「あっそう」程度だったが今なら驚喜するだろね。
教育隊(前期)での一日の訓練内容は概ね、午前中が学科、午後が基本教練や各種の基本戦闘訓練、加えて一日の“締め”はお決まりのハイポート(重量4,3Kgの口径30M1ガーランド半自動小銃を両腕で胸の位置に保持しての駆け足で、当初は1−2Km、最終的には5Km以上)に明け暮れていたから、当然といえば当然の結果であろう。
戦闘訓練だけでも全身の筋肉がクタクタになり両肘と両膝が内出血するほどだったが、更に「体育」があった。“新兵”教育にはお馴染みの運動帽・ジャージ上下・シューズ姿で、腕立て伏せ、懸垂腕曲げ、ウサギ跳び、走り幅跳び、ソフトボール投げ、50Kgの土のう運搬50mと最後は持久走(一番きつかった)だった。別に障害走もあった。徹底的にシゴかれた。
蛇行飛行:訓練開始当初は環境の激変と疲労のためか、食事がほとんど喉を通らず、真夏の九州では発汗が激しく喉がやたらと乾くため、生水や氷菓子ばかり口にしていた。
第2週目辺りから訓練は激しさを増したが身体がこれに適応し、ついには一日3食合計約5、000KCal近い、過去に摂取したことのない高カロリーの給食を軽く平らげ、放課後には隊内の売店でしこたま買い求めたおやつを腹一杯喰い続けたにも拘わらず、僅か12週で体重が5Kg減り脂肪体質から筋肉体質に変化したのであるから、驚異的だ。(今は、ビール一杯飲むにも先ずは体脂肪や血糖値の増加、腹囲の寸法が気になり、来年4月に受検する航空身体検査が頭をよぎる有様である)
昨日は午前中、ボストン・レッドソックス松阪の好投を、午後は日本のデーゲームをTV観戦したため歩いていない。本日サボると癖になる。
教育隊(前期)での一日の訓練内容は概ね、午前中が学科、午後が基本教練や各種の基本戦闘訓練、加えて一日の“締め”はお決まりのハイポート(重量4,3Kgの口径30M1ガーランド半自動小銃を両腕で胸の位置に保持しての駆け足で、当初は1−2Km、最終的には5Km以上)に明け暮れていたから、当然といえば当然の結果であろう。
戦闘訓練だけでも全身の筋肉がクタクタになり両肘と両膝が内出血するほどだったが、更に「体育」があった。“新兵”教育にはお馴染みの運動帽・ジャージ上下・シューズ姿で、腕立て伏せ、懸垂腕曲げ、ウサギ跳び、走り幅跳び、ソフトボール投げ、50Kgの土のう運搬50mと最後は持久走(一番きつかった)だった。別に障害走もあった。徹底的にシゴかれた。
蛇行飛行:訓練開始当初は環境の激変と疲労のためか、食事がほとんど喉を通らず、真夏の九州では発汗が激しく喉がやたらと乾くため、生水や氷菓子ばかり口にしていた。
第2週目辺りから訓練は激しさを増したが身体がこれに適応し、ついには一日3食合計約5、000KCal近い、過去に摂取したことのない高カロリーの給食を軽く平らげ、放課後には隊内の売店でしこたま買い求めたおやつを腹一杯喰い続けたにも拘わらず、僅か12週で体重が5Kg減り脂肪体質から筋肉体質に変化したのであるから、驚異的だ。(今は、ビール一杯飲むにも先ずは体脂肪や血糖値の増加、腹囲の寸法が気になり、来年4月に受検する航空身体検査が頭をよぎる有様である)
昨日は午前中、ボストン・レッドソックス松阪の好投を、午後は日本のデーゲームをTV観戦したため歩いていない。本日サボると癖になる。
2008/6/29 1:15
初仕事は落下傘降下だった 空挺・落下傘
今から43年前の昭和40年(’65)6月29日、蛇行齋は陸上自衛隊に入隊した。18歳、身長1m68Cm、体重68Kgだった。約3ヶ月後には63Kgだった。
入隊後は教育隊の前期過程で共通課目を12週間、じ後普通科(歩兵)・特科(大砲)・機甲科(戦車)等の各部隊に教育入隊して後期課程(専門的基礎課目)を約12週間履修後当該部隊に配置となる。
蛇行齋は大分県別府の教育隊に入隊して前期課程を12週間、千葉県の第一空挺団普通科群(連隊)に入隊して後期課程を12週間履修した。引き続き同一駐屯地内にある空挺教育隊の基本降下課程に教育入隊し落下傘降下の基本を習得した後空挺団普通科群(連隊)の中隊に配置されたが、そこでの初仕事(訓練)が当然のことながら、落下傘降下だった。
本日の“入隊記念日”を機に「自分史」の中から、平成13年に定年退官するまでの約36年間を抜粋してみたい。
入隊後は教育隊の前期過程で共通課目を12週間、じ後普通科(歩兵)・特科(大砲)・機甲科(戦車)等の各部隊に教育入隊して後期課程(専門的基礎課目)を約12週間履修後当該部隊に配置となる。
蛇行齋は大分県別府の教育隊に入隊して前期課程を12週間、千葉県の第一空挺団普通科群(連隊)に入隊して後期課程を12週間履修した。引き続き同一駐屯地内にある空挺教育隊の基本降下課程に教育入隊し落下傘降下の基本を習得した後空挺団普通科群(連隊)の中隊に配置されたが、そこでの初仕事(訓練)が当然のことながら、落下傘降下だった。
本日の“入隊記念日”を機に「自分史」の中から、平成13年に定年退官するまでの約36年間を抜粋してみたい。
2007/9/19 15:16
開かなかった落下傘 空挺・落下傘
年齢を問わず人には誰にも様々な経験があり、多くの思い出があるものだ。
しかしながらそれは良きに付け悪しきに付け、大概の場合他愛の無いことが多い。一時は人生の終わりかと独り勝手に悩んだようなことでも、振り返ってみれば大したことではなくなっているから人生は不思議で面白い。
その中にあって、落下傘が開かなかった経験は特別で、例え酔っていてもしらふでも(酔っていることが圧倒的に多いが)、それを回想するたび手の平に汗が滲んでくるから、これはやはり今までの自分の人生で最大級のイベントだったといえそうだ。
基本降下課程の最終課目は、当然のことながら飛行中の輸送機から落下傘降下することだ。
自分の場合3日間に5回降下した。即ち昭和41年1月31日午前と午後に各一回、翌2月1日午前と午後に各一回、2月2日午前に最終となる第五回目の降下で全ての課目を終了する、はずだった。
その第四回目の降下の時、全ての手順は午前中同様に実施できたから問題はなかったと思う。例によって跳び出しと同時に「ハッ降下から四降下」まで発唱したが、いつもと違うのはその時だけ開傘衝撃がほとんどなかったことだ。
傘体を点検すると、いつものような丸い傘体のかわりに細長い塊が上空に伸びているのを確認したため、ほぼ無意識に胸の前面に装着した予備傘のハンドルを右手で引き抜いた。
小さい雨傘くらいの誘導傘が目の前に跳びだした。それに続いて予備傘の傘体が開き始めると同時に上半身にからみついたため、両手でそれを払いのけたが次々に傘体がからみついてきた。
地面を見ることが出来なければいずれの方向に着地するか判断出来ないから、最悪の後方着地を予期し両腕を“後方交差”して後頭部を保護し、揃えた両脚の膝を軽く曲げて着地の姿勢を確立した。依然外は見えず覚悟を決めた。
しかしながらそれは良きに付け悪しきに付け、大概の場合他愛の無いことが多い。一時は人生の終わりかと独り勝手に悩んだようなことでも、振り返ってみれば大したことではなくなっているから人生は不思議で面白い。
その中にあって、落下傘が開かなかった経験は特別で、例え酔っていてもしらふでも(酔っていることが圧倒的に多いが)、それを回想するたび手の平に汗が滲んでくるから、これはやはり今までの自分の人生で最大級のイベントだったといえそうだ。
基本降下課程の最終課目は、当然のことながら飛行中の輸送機から落下傘降下することだ。
自分の場合3日間に5回降下した。即ち昭和41年1月31日午前と午後に各一回、翌2月1日午前と午後に各一回、2月2日午前に最終となる第五回目の降下で全ての課目を終了する、はずだった。
その第四回目の降下の時、全ての手順は午前中同様に実施できたから問題はなかったと思う。例によって跳び出しと同時に「ハッ降下から四降下」まで発唱したが、いつもと違うのはその時だけ開傘衝撃がほとんどなかったことだ。
傘体を点検すると、いつものような丸い傘体のかわりに細長い塊が上空に伸びているのを確認したため、ほぼ無意識に胸の前面に装着した予備傘のハンドルを右手で引き抜いた。
小さい雨傘くらいの誘導傘が目の前に跳びだした。それに続いて予備傘の傘体が開き始めると同時に上半身にからみついたため、両手でそれを払いのけたが次々に傘体がからみついてきた。
地面を見ることが出来なければいずれの方向に着地するか判断出来ないから、最悪の後方着地を予期し両腕を“後方交差”して後頭部を保護し、揃えた両脚の膝を軽く曲げて着地の姿勢を確立した。依然外は見えず覚悟を決めた。
2007/9/17 16:27
4秒間の緊張 空挺・落下傘
空挺隊員が降下するとき日本では通常、輸送機から跳びだすと同時に「ハッ降下、2降下、3降下、4降下」と発唱する。
この理由は二つ、一つは「4秒の間を計る」ため、二つ目は「かけ声」だ。
4秒の間とは、空挺隊員が輸送機から跳び出してから主傘が開くまでの時間が約4秒、この時点で開傘衝撃を感じなかった場合、降下隊員は間髪入れず予備傘を作動させる。
蛇行飛行:昭和40年代、自分が降下の際に装着した昭和35年制式の国産「60式空挺傘:通称60傘(ロクマルサン)藤倉航装製」はその後61傘及び62傘へと改良された。昭和33年に編成完結した第一空挺団はそれまで、米占領軍の落下傘T−7を装備させられていた。
平成12年、62傘から現在の「12傘:通称ヒトニーサン」に換装された。これはフランス製M696M1を藤倉航装がライセンス生産したもので、主傘重量約15Kg、予備傘7Kg、降下速度は全備重量150Kgの場合約6.2m/秒(毎分1200フィート強)と60傘シリーズよりも降下速度が50%程度速いがその分滑空距離も長く、専用の操縦索装備もあり、操縦性は60傘よりもかなり向上している。開傘所用時間は60傘と同じ4秒だ。
蛇行#2:通常の降下訓練では、対地高度300m(約1,000Ft)から降下するが、この300mという数字の根拠は以下のとおり。
落下傘を装着しない物体(ダミー:開かなかった場合を想定)は約9秒で地面に達する(激突する)。主傘は通常約4秒で開く(ハズだ)から、4秒をカウントしても開傘衝撃がない場合には、1秒以内に予備傘を操作しなければ安全な着地は望めない。
予備傘の開傘時間も主傘同様約4秒であるから、9−(4+4)=1秒、即ちこの1秒が非常時の場合の時間の余裕となり、通常の最低安全降下高度を300mと定めた根拠となった。
補足:実戦では、降下高度は約150mだがそれでも予備傘は“一応”装着する。御守りとしてか、親心か、せめてもの慰めか。降下予定地域の状況に関わらず救命胴衣も装着する。
降下高度が高いほど緊急時には操作の余裕があるが、在空時間が長いことは敵の攻撃に対し不利となるため、可能な限り低高度からの降下となる。その結果主傘が開くと同時に着地する150mとした。
一方、スポーツパラシュートでは、安全第一でなければならないから、手動による最低開傘高度を概ね6−700mとし、これ以下の高度では自動開傘するようにタイマーをセットする。
開くまでの自由落下及び開いてからの高度・降下・景色を楽しむには丁度良い高度だ。
この理由は二つ、一つは「4秒の間を計る」ため、二つ目は「かけ声」だ。
4秒の間とは、空挺隊員が輸送機から跳び出してから主傘が開くまでの時間が約4秒、この時点で開傘衝撃を感じなかった場合、降下隊員は間髪入れず予備傘を作動させる。
蛇行飛行:昭和40年代、自分が降下の際に装着した昭和35年制式の国産「60式空挺傘:通称60傘(ロクマルサン)藤倉航装製」はその後61傘及び62傘へと改良された。昭和33年に編成完結した第一空挺団はそれまで、米占領軍の落下傘T−7を装備させられていた。
平成12年、62傘から現在の「12傘:通称ヒトニーサン」に換装された。これはフランス製M696M1を藤倉航装がライセンス生産したもので、主傘重量約15Kg、予備傘7Kg、降下速度は全備重量150Kgの場合約6.2m/秒(毎分1200フィート強)と60傘シリーズよりも降下速度が50%程度速いがその分滑空距離も長く、専用の操縦索装備もあり、操縦性は60傘よりもかなり向上している。開傘所用時間は60傘と同じ4秒だ。
蛇行#2:通常の降下訓練では、対地高度300m(約1,000Ft)から降下するが、この300mという数字の根拠は以下のとおり。
落下傘を装着しない物体(ダミー:開かなかった場合を想定)は約9秒で地面に達する(激突する)。主傘は通常約4秒で開く(ハズだ)から、4秒をカウントしても開傘衝撃がない場合には、1秒以内に予備傘を操作しなければ安全な着地は望めない。
予備傘の開傘時間も主傘同様約4秒であるから、9−(4+4)=1秒、即ちこの1秒が非常時の場合の時間の余裕となり、通常の最低安全降下高度を300mと定めた根拠となった。
補足:実戦では、降下高度は約150mだがそれでも予備傘は“一応”装着する。御守りとしてか、親心か、せめてもの慰めか。降下予定地域の状況に関わらず救命胴衣も装着する。
降下高度が高いほど緊急時には操作の余裕があるが、在空時間が長いことは敵の攻撃に対し不利となるため、可能な限り低高度からの降下となる。その結果主傘が開くと同時に着地する150mとした。
一方、スポーツパラシュートでは、安全第一でなければならないから、手動による最低開傘高度を概ね6−700mとし、これ以下の高度では自動開傘するようにタイマーをセットする。
開くまでの自由落下及び開いてからの高度・降下・景色を楽しむには丁度良い高度だ。
2007/9/16 21:47
初降下#3 空挺・落下傘
降下の度に学生が機内から1人ずつ消えていくのは過去に経験のない不思議な光景だった。ついに自分の前に誰も居なくなり、主任教官の「位置に付け」の号令及び手信号で降下扉の前で姿勢をとると、「前方を見よ」との指示で、遙か前方の水平線に目をやった。その時には既に、それまでの不安と恐怖は全て消え失せ、エンジンの轟音と強烈な風圧だけを感じた。
「降下用意」という号令を聞き、多少腰を落として身構えると同時に尻にタッチの感触があったので、勢いよく(半ばヤケで)前方に跳びだした。その時に「降下」という声を聞いたかどうか記憶にない。タッチされるはずの尻に全神経を集中していたからだろう。
手順どおり「ハッ降下、2降下、3降下、4降下」と“4秒の間”を取るために発唱した・・・つもりだったが、風圧で息が詰まり「2降下」までを頭の中で発唱、ようやく「3降下」を発唱したあたりで衝撃を受けた。見上げると丸い傘体が思いのほか小さく見えた。
その時突然周囲には静寂が訪れ、強烈な風圧もなくなった。下方には降下場がこれ又小さく横たわっていた。地上からは拡声器による地上教官の声が聞こえたがほとんど理解できなかった。
対地高度約15mで着地姿勢を確立するように教わったが、その時は高度判定もまともにできず、地面がやや流れるように見えたとき(多分着地の恐怖感があったと思われるが)、手順通りに接地地点を見、両脚を揃え、膝を軽く曲げ、両腕を後頭部で交差(後方交差:後方着地の際に頭部を保護する)して着地に備えた。その直後やや後方に着地した。
とにかく先ずは無事着地したことにホットし、一呼吸後ようやく落下傘他の装具を外し始めた。その時周囲に人影を感じたので、主傘を両手で巻き取りながらその人影を見ると、それは教官に引率された“訓練途中で様々な理由により降下課程を去っていった元同期生達”だった。
その時は無我夢中でまさかの再会に多少の驚きもあり、とりあえず「オー」と叫んだことだけは覚えているが、そのあと彼等と私がどのような会話を交わしたか、今は記憶にない。
蛇行飛行:降下訓練では着地後落下傘を通常“野戦巻き”とする。これは降下隊員による応急的処置で、これを最終的に整備・乾燥・包装するのは、落下傘整備中隊の任務。なお、実戦ではこれを穴に埋め、あるいは草地に隠すなど敵から発見されないようにする。
「降下用意」という号令を聞き、多少腰を落として身構えると同時に尻にタッチの感触があったので、勢いよく(半ばヤケで)前方に跳びだした。その時に「降下」という声を聞いたかどうか記憶にない。タッチされるはずの尻に全神経を集中していたからだろう。
手順どおり「ハッ降下、2降下、3降下、4降下」と“4秒の間”を取るために発唱した・・・つもりだったが、風圧で息が詰まり「2降下」までを頭の中で発唱、ようやく「3降下」を発唱したあたりで衝撃を受けた。見上げると丸い傘体が思いのほか小さく見えた。
その時突然周囲には静寂が訪れ、強烈な風圧もなくなった。下方には降下場がこれ又小さく横たわっていた。地上からは拡声器による地上教官の声が聞こえたがほとんど理解できなかった。
対地高度約15mで着地姿勢を確立するように教わったが、その時は高度判定もまともにできず、地面がやや流れるように見えたとき(多分着地の恐怖感があったと思われるが)、手順通りに接地地点を見、両脚を揃え、膝を軽く曲げ、両腕を後頭部で交差(後方交差:後方着地の際に頭部を保護する)して着地に備えた。その直後やや後方に着地した。
とにかく先ずは無事着地したことにホットし、一呼吸後ようやく落下傘他の装具を外し始めた。その時周囲に人影を感じたので、主傘を両手で巻き取りながらその人影を見ると、それは教官に引率された“訓練途中で様々な理由により降下課程を去っていった元同期生達”だった。
その時は無我夢中でまさかの再会に多少の驚きもあり、とりあえず「オー」と叫んだことだけは覚えているが、そのあと彼等と私がどのような会話を交わしたか、今は記憶にない。
蛇行飛行:降下訓練では着地後落下傘を通常“野戦巻き”とする。これは降下隊員による応急的処置で、これを最終的に整備・乾燥・包装するのは、落下傘整備中隊の任務。なお、実戦ではこれを穴に埋め、あるいは草地に隠すなど敵から発見されないようにする。
2007/9/15 14:58
降下完了凱旋行進 空挺・落下傘
基本降下課程を修了し空挺隊員として部隊に配置されると、月に平均2回の練成降下訓練が始まるが、習志野駐屯地に所在する降下予定のない隊員は特に基本降下課程の学生が降下する予定時刻頃になると、勤務を中断し作業の手を休めて降下場(DZ)の上空を見上げ、輸送機の進入を今や遅しと待ち構え、輸送機からの跳び出しを目を皿のようにして見つめる。
訓練生の無事の開傘を見届けると、着地を確認することはできないが、「よしよし」、「よくやった」などと各人各様に安堵と喜びの気持ちを表し、新空挺隊員の誕生を祝福した。
その時の学生は先輩達の心配・祝福など夢にも知らず、卒業条件となる5回を異常なく降下しなければならない。最終の第5回目では跳び出しから約4秒後、開傘の衝撃を全身に受け止めるや直ちにその開傘を目で確認し「傘体点検異常なし」と呼称して、次の難関:着地操作に備え他学生との空中接触を避けながら降下姿勢を確立する。着地後は戦闘編成を整えて敵陣地を攻撃占領し、全ての教育課目を終了する。
学生たちはその場で服装を整え(とはいえ全身汗と泥まみれのまま)学生隊旗を捧持した旗手を先頭に隊伍を整えて行進、降下場から国道を経て駐屯地に凱旋した。
駐屯地を警備する警衛隊と相互に敬礼を交わしつつ正門を通過すると、空挺団本部隊舎に続く松並木の沿道には、駐屯地所在の全隊員が延々と並んでいて拍手喝采、遠く正面奥の壇上には第一空挺団長が我々学生の到着を待ち受けてくれていた。
但しただひとり、学生隊旗を先頭にして意気高らかに凱旋行進するそのあとから、数十m遅れて懸命に隊列のあとを追うビッコの学生がいた。私だった。
訓練生の無事の開傘を見届けると、着地を確認することはできないが、「よしよし」、「よくやった」などと各人各様に安堵と喜びの気持ちを表し、新空挺隊員の誕生を祝福した。
その時の学生は先輩達の心配・祝福など夢にも知らず、卒業条件となる5回を異常なく降下しなければならない。最終の第5回目では跳び出しから約4秒後、開傘の衝撃を全身に受け止めるや直ちにその開傘を目で確認し「傘体点検異常なし」と呼称して、次の難関:着地操作に備え他学生との空中接触を避けながら降下姿勢を確立する。着地後は戦闘編成を整えて敵陣地を攻撃占領し、全ての教育課目を終了する。
学生たちはその場で服装を整え(とはいえ全身汗と泥まみれのまま)学生隊旗を捧持した旗手を先頭に隊伍を整えて行進、降下場から国道を経て駐屯地に凱旋した。
駐屯地を警備する警衛隊と相互に敬礼を交わしつつ正門を通過すると、空挺団本部隊舎に続く松並木の沿道には、駐屯地所在の全隊員が延々と並んでいて拍手喝采、遠く正面奥の壇上には第一空挺団長が我々学生の到着を待ち受けてくれていた。
但しただひとり、学生隊旗を先頭にして意気高らかに凱旋行進するそのあとから、数十m遅れて懸命に隊列のあとを追うビッコの学生がいた。私だった。
2007/9/14 19:28
初降下・跳び出しの時 空挺・落下傘
加齢の所為か残暑ボケか、本日と思っていた長女の誕生祝いは明日15日だった。しかしながら楽しみが一日増えたと考えればこれも又楽しいものだ。
久しぶりに近くの温泉施設に足を運んだが、その道すがら農家の庭先には出荷待ちであろうか、うず高く積み重ねられたタマネギのコンテナーがあり、沿道ではトウモロコシの即売をやっていた。帰路スーパーに立ち寄ると、新鮮なイカやサンマ、あるいは秋鮭の特売をやっていて、食欲をそそる味覚の秋の風景だ。
昭和41年1月31日初降下の日、輸送機C−46の降下扉に正しく位置に着き降下長の指示どおり水平線を見た時、それまでの不安と恐れは消え失せ、腹は完全に決まっていた。
蛇行飛行:基本課程を終了した隊員は物量降下などを除き通常連続降下する。先頭降下者に対してのみ降下長の「位置に付け」「降下用意」「降下」の号令が下され、同時に降下扉付近に設置された降下ランプの色がそれまでの赤から緑に変わると共にベルがけたたましく鳴り続ける。その間に14名の降下隊員と最後に降下長、片方の扉からは15名が連続して降下する。約12−3秒で30名が降下完了するが、前に続き後方からは押されて、連続と言うよりもダンゴになってという表現が相応しい。
基本降下課程では、訓練生がひとりずつ降下長(主任教官)の指示により位置に着き、用意し、降下する。降下長は降下した学生の開傘を見届けた後、次の学生に対し同様に指示し指導するから、3名くらいが降下すると輸送機は降下場(DZ)から外れるため、再びDZに対して降下進入のため旋回する。輸送機が降下態勢を完了すると、前述の行為が繰り返されることになる。
学生が誤ってDZ外に降下(場外降下)しないように、降下の合図(臀部をタッチ)までは、教官のひとりが学生の胸元に手を差し伸べ、もう1人が後方から落下傘を握る。
蛇行#2:それまでの地上訓練においては鬼のように思えた教官方が、初降下の前日以降機上でも例えば主任教官は厳しくも優しい父親、助教方は弟思いの兄のような存在となった。
それまでの厳しい冷酷な態度は全てこの日のために心を鬼にした教育方針だったのだと、懐かしく思い出される。しかも課程終了式の時に最も喜び泣きじゃくっていたのは、卒業する我々学生達よりも助教方だったから、その真剣な教育態度には今でも頭が下がる。
独り言:それとも、我々がよほど出来の悪い学生だったから、ようやく卒業の日を迎えることができたことに教官方の喜びもひとしおで感激の涙となったのか。
久しぶりに近くの温泉施設に足を運んだが、その道すがら農家の庭先には出荷待ちであろうか、うず高く積み重ねられたタマネギのコンテナーがあり、沿道ではトウモロコシの即売をやっていた。帰路スーパーに立ち寄ると、新鮮なイカやサンマ、あるいは秋鮭の特売をやっていて、食欲をそそる味覚の秋の風景だ。
昭和41年1月31日初降下の日、輸送機C−46の降下扉に正しく位置に着き降下長の指示どおり水平線を見た時、それまでの不安と恐れは消え失せ、腹は完全に決まっていた。
蛇行飛行:基本課程を終了した隊員は物量降下などを除き通常連続降下する。先頭降下者に対してのみ降下長の「位置に付け」「降下用意」「降下」の号令が下され、同時に降下扉付近に設置された降下ランプの色がそれまでの赤から緑に変わると共にベルがけたたましく鳴り続ける。その間に14名の降下隊員と最後に降下長、片方の扉からは15名が連続して降下する。約12−3秒で30名が降下完了するが、前に続き後方からは押されて、連続と言うよりもダンゴになってという表現が相応しい。
基本降下課程では、訓練生がひとりずつ降下長(主任教官)の指示により位置に着き、用意し、降下する。降下長は降下した学生の開傘を見届けた後、次の学生に対し同様に指示し指導するから、3名くらいが降下すると輸送機は降下場(DZ)から外れるため、再びDZに対して降下進入のため旋回する。輸送機が降下態勢を完了すると、前述の行為が繰り返されることになる。
学生が誤ってDZ外に降下(場外降下)しないように、降下の合図(臀部をタッチ)までは、教官のひとりが学生の胸元に手を差し伸べ、もう1人が後方から落下傘を握る。
蛇行#2:それまでの地上訓練においては鬼のように思えた教官方が、初降下の前日以降機上でも例えば主任教官は厳しくも優しい父親、助教方は弟思いの兄のような存在となった。
それまでの厳しい冷酷な態度は全てこの日のために心を鬼にした教育方針だったのだと、懐かしく思い出される。しかも課程終了式の時に最も喜び泣きじゃくっていたのは、卒業する我々学生達よりも助教方だったから、その真剣な教育態度には今でも頭が下がる。
独り言:それとも、我々がよほど出来の悪い学生だったから、ようやく卒業の日を迎えることができたことに教官方の喜びもひとしおで感激の涙となったのか。
