2008/5/7 22:21
ある子供の瞳 世界
先日、とあるシンクタンク主催の食糧危機に関するLuncheonに出席。
ゲスト・スピーカーはWFP(国連世界食糧計画)の理事。
ワシントンでは、昼休みを利用し、シンクタンクや大学院によるセミナーがあちこちで開催される。
時宜を得たセミナーであり、大いに学ぶべきところがありそうだったので足を運んでみると、Luncheonなので、当然ながら「食糧」が置かれている。
そういえば、以前友人から、「数あるシンクタンク等の中でも、ここのシンクタンクが提供するランチは質が高い」と聞いたことを思い出す。
ビュッフェ形式なのだが、高級そうな肉や魚が美味しそうに所狭しと並べられている。
肉と野菜をそれぞれ少量とって口にすると確かに美味しい。
食べながら、手交されたプレゼン資料を読むためにパッケージから取り出すと、分厚い資料の表紙にカラー印刷された1人の子供と目が合った。
まだ3歳くらいにしか見えないその子供は汚い布を一枚身にまとい、物欲しげな目で見つめてくる。腹ペコの状態であることが一目瞭然だ。
僕も、あまり「食糧」を口にしておらず、空腹は満たされていなかったのだけれど、その瞬間、何となく食欲が減退し、食べるのを止めてしまった。
その後、会場はほぼ満員になった。
プレゼンの開始まで少し時間があったので、周りの人は皆もぐもぐと食べている。
会場の前面のスクリーンには、資料の表紙と同じ子供の顔がアップで映し出されている。
その子供の物欲しげな視線の先には、綺麗な服を身にまとい、楽しそうに歓談しながら、無料で支給される高級料理をたらふく食べている大人たちがいる。
別に良い子ぶるつもりはない。
偽善者となるつもりも毛頭ない。
ただ、食糧危機、即ち飢餓(HUNGER)のプレゼンの会場で、そのような子供の映像を前にして、もぐもぐ食べることに得体のしれない居心地の悪さを覚えた。
生きていく上で食事をすることは当然のことであるし、僕なぞは、エチオピアやカンボジアなどの超貧困地域を実際に目の当たりにした経験があるにも拘わらず、東京やワシントンにいる時はできるだけ美味しいものを食べたいと思うし、事実(予算の制約はあるものの)そうしてきた。
考えてみると、何の気兼ねもなく堂々と食べていられる人の方が(良い意味で)物事をきちんと割り切って考えているような気もするし、こんな居心地の悪さを感じるのは、自分が中途半端な同情を抱いている、たちの悪い人間である証なのではないかとも思った。
そんなことを感じながら、ようやく始まったプレゼンを聞きながら考えていたのは、恵まれた地域に住む人々(自分も含めて)のうちどれだけの人間が、どれほどの真剣さで喫緊の課題に取り組めるのだろうかということ。
そして、その取り組み方について改善の余地があるとすれば、どのようにすればよいのだろうかということ。
飢餓に限らず、イラク戦争でも気候変動でも何でも良いのだが、これらの問題が生み出す大きくかつ直接的なひずみは貧困国の国民(「支配者」層を除く)の生活という土俵において、大きな皺寄せとなって具現化するのが現実。
その一方で、問題の予防や解決をリードすべき先進国に住んでいると、それを実感することはなかなか難しい。これも現実。
Luncheonには、米国の政府関係者や国際機関職員の顔もちらほら。
非常に賢い人間であれば、たとえリアリティーを感じない状況においても、頭の中で情報と状況を整理し、的確な政策提言と政策決定ができるのかもしれない。
事実、世の中は(全てがそうとは言わないが)そういう人々が大勢いるのだろう。
ただ、リアリティーを感じない状況での政策提言と政策決定には時として危険が伴う。
命に直接関わる場合はなおさらだ。
社会人になってから、ずっと感じている。
ミクロとマクロのフィードバックの大切さ。
とは言え、いちいち考え込んでいても埒が明かないとも思う。
結局は、日頃からアンテナを高くそして広く張り、様々な経験を積み、様々な人に会うというプロセスを繰り返し、様々な切り口から物事を見ようとする訓練をしておくということなのだろう。
至極当然の帰結に落ち着いた。
ゲスト・スピーカーはWFP(国連世界食糧計画)の理事。
ワシントンでは、昼休みを利用し、シンクタンクや大学院によるセミナーがあちこちで開催される。
時宜を得たセミナーであり、大いに学ぶべきところがありそうだったので足を運んでみると、Luncheonなので、当然ながら「食糧」が置かれている。
そういえば、以前友人から、「数あるシンクタンク等の中でも、ここのシンクタンクが提供するランチは質が高い」と聞いたことを思い出す。
ビュッフェ形式なのだが、高級そうな肉や魚が美味しそうに所狭しと並べられている。
肉と野菜をそれぞれ少量とって口にすると確かに美味しい。
食べながら、手交されたプレゼン資料を読むためにパッケージから取り出すと、分厚い資料の表紙にカラー印刷された1人の子供と目が合った。
まだ3歳くらいにしか見えないその子供は汚い布を一枚身にまとい、物欲しげな目で見つめてくる。腹ペコの状態であることが一目瞭然だ。
僕も、あまり「食糧」を口にしておらず、空腹は満たされていなかったのだけれど、その瞬間、何となく食欲が減退し、食べるのを止めてしまった。
その後、会場はほぼ満員になった。
プレゼンの開始まで少し時間があったので、周りの人は皆もぐもぐと食べている。
会場の前面のスクリーンには、資料の表紙と同じ子供の顔がアップで映し出されている。
その子供の物欲しげな視線の先には、綺麗な服を身にまとい、楽しそうに歓談しながら、無料で支給される高級料理をたらふく食べている大人たちがいる。
別に良い子ぶるつもりはない。
偽善者となるつもりも毛頭ない。
ただ、食糧危機、即ち飢餓(HUNGER)のプレゼンの会場で、そのような子供の映像を前にして、もぐもぐ食べることに得体のしれない居心地の悪さを覚えた。
生きていく上で食事をすることは当然のことであるし、僕なぞは、エチオピアやカンボジアなどの超貧困地域を実際に目の当たりにした経験があるにも拘わらず、東京やワシントンにいる時はできるだけ美味しいものを食べたいと思うし、事実(予算の制約はあるものの)そうしてきた。
考えてみると、何の気兼ねもなく堂々と食べていられる人の方が(良い意味で)物事をきちんと割り切って考えているような気もするし、こんな居心地の悪さを感じるのは、自分が中途半端な同情を抱いている、たちの悪い人間である証なのではないかとも思った。
そんなことを感じながら、ようやく始まったプレゼンを聞きながら考えていたのは、恵まれた地域に住む人々(自分も含めて)のうちどれだけの人間が、どれほどの真剣さで喫緊の課題に取り組めるのだろうかということ。
そして、その取り組み方について改善の余地があるとすれば、どのようにすればよいのだろうかということ。
飢餓に限らず、イラク戦争でも気候変動でも何でも良いのだが、これらの問題が生み出す大きくかつ直接的なひずみは貧困国の国民(「支配者」層を除く)の生活という土俵において、大きな皺寄せとなって具現化するのが現実。
その一方で、問題の予防や解決をリードすべき先進国に住んでいると、それを実感することはなかなか難しい。これも現実。
Luncheonには、米国の政府関係者や国際機関職員の顔もちらほら。
非常に賢い人間であれば、たとえリアリティーを感じない状況においても、頭の中で情報と状況を整理し、的確な政策提言と政策決定ができるのかもしれない。
事実、世の中は(全てがそうとは言わないが)そういう人々が大勢いるのだろう。
ただ、リアリティーを感じない状況での政策提言と政策決定には時として危険が伴う。
命に直接関わる場合はなおさらだ。
社会人になってから、ずっと感じている。
ミクロとマクロのフィードバックの大切さ。
とは言え、いちいち考え込んでいても埒が明かないとも思う。
結局は、日頃からアンテナを高くそして広く張り、様々な経験を積み、様々な人に会うというプロセスを繰り返し、様々な切り口から物事を見ようとする訓練をしておくということなのだろう。
至極当然の帰結に落ち着いた。



