2008/8/31 22:28
ハリケーン「グスタフ」の接近に際して 米国社会
昨日はペイリン氏に湧いたメディアも、今日は朝からハリケーン「グスタフ」について、(文字通り)絶え間なく報道し続けている。
CNNを始め、キー局のサブ画面には、常時、米国南部及びカリブ海の地図とその上に渦巻状のマークとその予想進路・強度・その他最新情報が示されている。
メイン画面には、ニューオリンズを始めとするメキシコ湾岸都市の住民の退避模様、ルイジアナ州知事やニューオリンズ市長等の行政府の長による会見、そして明日から始まる共和党大会の現場風景が、繰り返し交替に映し出されている。
人命を奪い得る自然災害に備え、徹底的な報道態勢を敷いていることは、国民への情報提供という観点から高く評価できる。
日本でも既に報道されていると思うが、グスタフがこれ程の関心を集めているのは、明日から開催される共和党大会を含む大統領選の動向と無関係ではあり得ない。
マケイン候補は声明を出して党大会よりもハリケーン対策を優先することを強調したし、ブッシュ大統領(+チェイニー副大統領)は明日の現地での演説をキャンセルすることを決定し、当該対策に専念する姿勢を示している。
ちょうど3年前にハリケーン・カトリーナ(因みに、米国のハリケーンの名前は、原則として、毎年アルファベット順に男女の名前が交替につけられる)が同地域を襲った際は、政府による対応の遅れが問題となったのはご存知のとおり。
その結果、例えばニューオリンズ市では、復興が遅々として進まず、今でも人口を含め、復興は道半ばといったところ(それでも随分と回復したようだが)。
それ故、大統領選・連邦議会選を間近に控えた今、現政権は対応をしくじることが絶対に許されない状況にある。
ホワイトハウスやFEMA(連邦緊急事態管理庁)、国土安全保障省を始めとする行政府は万全の対応を期し、意気込みが感じられるのは事実だ。
一方、僕は気象学者ではないので詳細は分からないが、専門家は、グスタフはカトリーナに比べると弱く3年前のような脅威はない、としている。
しかし、現場のネーギン・ルイジアナ市長は会見で、「我々は今回のハリケーンを恐れ、心配する必要がある。何故なら、これは世紀のハリケーン(a storm of a century)と言えるからだ」と関係者の気を引き締めている
CNNの生中継を見ていると、Anderson Cooperが現地からリポートしているのだが、彼のコメント通り、20時頃(ワシントン時間)、風に乗った雨雲が物凄い勢いで押し寄せ、空の色が一秒ごとに黒く変化し、瞬く間に黒一色に染まるのが分かった。
まるでオセロのようだ。
素人ながら、個人的に懸念していることは2つ。
1つは、物理的なもの。
堤防システム(levee system)とグスタフとの攻防。
カトリーナ襲来があれほどまでの惨事に発展した理由としては、当時の堤防の高さ・強度が昔(確か60年代に)到来したカテゴリー3(因みにカテゴリーは5段階。5が最強)のハリケーンに対応できるように整備されており、カトリーナには対応できなかったことが挙げられる。
メキシコ湾・ミシシッピ川の水が堤防を越えて(壊して)市内になだれ込み、8割以上が冠水した。
この経験を踏まえて、プロジェクトが立ち上げられ、堤防システムの強化が進められていたのであるが、現時点では、プロジェクトは完了していない。
公園の砂場で堤防を作って水を回りに流して遊んだことはみなさんもあると思う。
その時を思い出して欲しい。
堤防が一箇所でも決壊すると、中の構築物がドミノのように次々と倒れていった記憶はないだろうか。
事を過度に単純化したくはないが、蟻の一穴とはよく言ったもので、堤防強化プロジェクトなるものは100%完了して初めて意味を持つのである。
この点が懸案事項の一つ。
もう一つの懸案事項は、ニューオリンズ市民を始めとする住民の心。
カトリーナが傷を付けたのは、インフラを含む物理的な「物」もさることながら、そこに住む住民の「心」だったと思う。
「心」が回復すれば、「物」は回復するだろうが、「心」の傷跡は癒すのに時間がかかる。
このような中、カトリーナで心を傷付けられた住民は、やっとの思いで立ち上がりつつあるようだ(僕は、カトリーナ以降はニューオリンズを訪れていないのでfirst-handの情報ではないが、メディアを通じて得た印象)。
ここで、僕が何を心配しているのかと言うと、立ち上がりつつある時に、再度上から殴り倒される場合、かなりの人々が立ち上がる気力を永久に失ってしまうのではないかということ。
こればかりは仮定の話を続けても仕方ないのだが、ふと、シベリア抑留時に日本人捕虜がロシア兵に穴を掘るよう命令され、掘り終わった後に、今度は埋めろと命令されて心が折れた、という話を思い出したのである。
「グスタフ」は明日早朝に上陸するようだ。
惨事をもたらさないこと、そして人々の心がこれ以上傷付かないことを心から祈る。
2008/8/30 23:03
共和党副大統領候補(サラ・ペイリン氏)の発表について 米国大統領選
ワシントンに戻り24時間が経過したが、この間メディアは一人の中年女性で一色になっている。
彼女の名は、
サラ・ペイリン(Sarah Palin)アラスカ州知事。
知事であるがまだ44歳の若さ。
事実上、副大統領候補の発表に始まり、オバマ氏の指名演説で閉じた民主党大会の盛り上がりも、一気にかすんでしまった感がある。
今回の共和党副大統領候補の公表について個人的に感じたことを以下に述べる。
まず、ペイリン氏の略歴だが、高校時代はチームを州代表に導くほどのバスケットボールの名選手であり、その後準ミス・アラスカに選ばれ、ワシラ市議、ワシラ市長を経て、2006年に州史上最年少かつ初の女性知事に選出。
政治の世界に入ってからは、時の権力者に立ち向かうことも恐れずに道を切り拓いてきた経歴を持つ。
銃規制と妊娠中絶には断固反対の伝統的共和党員と位置付けられる。
特に、後者については、5児の母である彼女は、5番目の子を身籠った時、初期の段階でダウン症に罹っていることを認識したのであるが、そのまま出産したことがエピソードとして取り上げられている。
次に、今回の副大統領候補の選出(英語ではpickという)について。
結論から言えば、僕は、マケイン氏が大きな賭けに出たと考えている。
逆に言えば、このままだと負けるのではないかとの懸念があったものと推測する。
確かに、最近の世論調査ではオバマ氏とマケイン氏とのポイントは拮抗しており、時としてマケイン氏がオバマ氏を上回る結果も見られるが、僕が多くのアメリカ人の友人達と話している限りでは、伝統的な保守派・リベラル派を除くいわゆる浮動層については、圧倒的にオバマ氏の支持者が多い(その意味では、何故世論調査で拮抗しているのか個人的には理解するのが困難。世論調査の方法も影響しているのかもしれないが)。
いずれにしても、今回の人選は、選挙で勝つことに大きな比重を置いたものであり、ひとまずは成功を収めたように感じているが、個人的に興味深いと感じている点を2点挙げる。
一つは、本来、副大統領候補は大統領候補の短所を補うことにより、その結果として大統領候補の長所をより引き立たせる点にあると考えられるが(オバマ氏とバイデン氏との組み合わせ(英語ではticketという)もその例だと思う)、ペイリン氏はそれを超えて、マケイン氏の存在自体をかすませてしまったこと。
そもそも、ペイリン氏の登場が人々の大きな関心を呼んだのは、若く美しい女性というマケイン氏とのギャップに加え、全国的に無名であったことがその主な理由となっていると個人的には感じているが、いずれにしても、彼女がマケイン氏に勝るとも劣らない存在感を醸し出していることは、彼らが選挙を戦う上で必ずしも悪いことではないような気がする。
何故なら、まず、選挙の観点からは、「国民的英雄」であることがマケイン氏の主な長所である一方で、中道寄りであるために伝統的共和党層を固めることに苦心しており、また、オバマ氏との比較では女性票の取り込みに遅れを取っていたのであるが、この点を解消できる。
更に言えば、「米国史上初の女性副大統領を!」というスローガンを前面に出せば、未だ燻っているヒラリー・クリントン氏の支持者層を引き込むことを通じ、民主党の融和モードに楔を打ち込むことができる(確かに、クリントン氏支持の女性のうちペイリン氏の思想に共鳴する人間は一部に過ぎないだろうが、オバマ氏に比し女性の支持率が低いマケイン氏の助けにはなるだろう)。
そして、女性・若さというペイリン氏の有する新鮮なイメージに加え、アラスカというワシントンからの物理的な距離が、支持率が低迷する現政権との差別化を容易にする。
ペイリン氏の存在が大きくなればなるほど、以上のような効果をより期待できるようになると考える。
もう一つの興味深い点は、両党ともに、「経験」+「新星」の組み合わせとなったこと。
これは、マケイン氏が、オバマ氏との関係を考慮した結果だと個人的には考えているが、このことは、オバマ氏がバイデン氏を選んだことと相まって、今後重要な機会を創出することになったと考える。
それは、10月8日に予定されているセントルイスでの副大統領候補同士の討論会。
ペイリン氏の既述の長所を有する一方で、多くの(潜在的な)問題点が指摘されている。
市長を務めたとはいえ人口9千人足らずの市であり、知事になってからも僅か2年。
国策としての経済政策や社会保障・医療政策、そして何より外交・安全保障政策に係る彼女の考え方が未知数であることは選挙戦上デメリットとなる。
勿論、チケットとして見れば、マケイン氏の外交・安全保障政策に係る類稀なる経験があれば何ら問題はないだろうが、最近のブログで指摘したとおり、副大統領は大統領に万一のことがあった場合、この国の指揮権を掌握することになるわけで、あらゆる分野におけるバランスの取れた知見が求められて然るべきだ。
対する相手は外交・安全保障分野の重鎮であり、国の政策決定に長年関与してきた経験を持つバイデン氏。討論会ではペイリン氏の考え方を徹底的に追求するだろう。
オバマ氏のキャッチフレーズである「CHANGE」。
この言葉には、「旧来型のワシントンの政治を変える」との意味が含まれているのはご存知のとおりであるが、マケイン氏やクリントン氏に比し経験がないと揶揄されたオバマ氏は、度重なる討論会や演説で人々の予想を良い意味で覆してきた。
一方で、これまでオバマ氏を支持してきた浮動層の中には、「CHANGE」の意味を「単に新しいもの」としてしか認識しない人々が存在するのもまた事実であろう。
そのような人々にとっての「CHANGE」とは表層的なものであり、もしかするとキャンペーンを開始して1年半程経過したオバマ氏の存在は既に賞味期限切れとなっており、彼らの存在が今回の(ペイリン氏選出の)熱狂に寄与している部分があるかもしれないと邪推するのは僕だけだろうか。
いずれにしても、民主党のチケットとは異なり、共和党のチケットは副大統領候補が衆目を集めているだけに、大統領選の勝敗は「ペイリン人気」がどれだけ持続するかという点にも大きく左右されることになろう。
今のところ政治的に無傷である新星ペイリン氏だが、民主党陣営は、これまで無名であったペイリン氏の過去の言動を徹底的に調べ上げることが予想される。
その意味で、僅か約2ヶ月ではあるが、今後公の場での彼女の言動は注目されることになるだろうし、副大統領候補としての真価が問われることになるだろう。
彼女に期待している人々も大勢いると思う。
実りある論戦を期待したい。
彼女の名は、
サラ・ペイリン(Sarah Palin)アラスカ州知事。
知事であるがまだ44歳の若さ。
事実上、副大統領候補の発表に始まり、オバマ氏の指名演説で閉じた民主党大会の盛り上がりも、一気にかすんでしまった感がある。
今回の共和党副大統領候補の公表について個人的に感じたことを以下に述べる。
まず、ペイリン氏の略歴だが、高校時代はチームを州代表に導くほどのバスケットボールの名選手であり、その後準ミス・アラスカに選ばれ、ワシラ市議、ワシラ市長を経て、2006年に州史上最年少かつ初の女性知事に選出。
政治の世界に入ってからは、時の権力者に立ち向かうことも恐れずに道を切り拓いてきた経歴を持つ。
銃規制と妊娠中絶には断固反対の伝統的共和党員と位置付けられる。
特に、後者については、5児の母である彼女は、5番目の子を身籠った時、初期の段階でダウン症に罹っていることを認識したのであるが、そのまま出産したことがエピソードとして取り上げられている。
次に、今回の副大統領候補の選出(英語ではpickという)について。
結論から言えば、僕は、マケイン氏が大きな賭けに出たと考えている。
逆に言えば、このままだと負けるのではないかとの懸念があったものと推測する。
確かに、最近の世論調査ではオバマ氏とマケイン氏とのポイントは拮抗しており、時としてマケイン氏がオバマ氏を上回る結果も見られるが、僕が多くのアメリカ人の友人達と話している限りでは、伝統的な保守派・リベラル派を除くいわゆる浮動層については、圧倒的にオバマ氏の支持者が多い(その意味では、何故世論調査で拮抗しているのか個人的には理解するのが困難。世論調査の方法も影響しているのかもしれないが)。
いずれにしても、今回の人選は、選挙で勝つことに大きな比重を置いたものであり、ひとまずは成功を収めたように感じているが、個人的に興味深いと感じている点を2点挙げる。
一つは、本来、副大統領候補は大統領候補の短所を補うことにより、その結果として大統領候補の長所をより引き立たせる点にあると考えられるが(オバマ氏とバイデン氏との組み合わせ(英語ではticketという)もその例だと思う)、ペイリン氏はそれを超えて、マケイン氏の存在自体をかすませてしまったこと。
そもそも、ペイリン氏の登場が人々の大きな関心を呼んだのは、若く美しい女性というマケイン氏とのギャップに加え、全国的に無名であったことがその主な理由となっていると個人的には感じているが、いずれにしても、彼女がマケイン氏に勝るとも劣らない存在感を醸し出していることは、彼らが選挙を戦う上で必ずしも悪いことではないような気がする。
何故なら、まず、選挙の観点からは、「国民的英雄」であることがマケイン氏の主な長所である一方で、中道寄りであるために伝統的共和党層を固めることに苦心しており、また、オバマ氏との比較では女性票の取り込みに遅れを取っていたのであるが、この点を解消できる。
更に言えば、「米国史上初の女性副大統領を!」というスローガンを前面に出せば、未だ燻っているヒラリー・クリントン氏の支持者層を引き込むことを通じ、民主党の融和モードに楔を打ち込むことができる(確かに、クリントン氏支持の女性のうちペイリン氏の思想に共鳴する人間は一部に過ぎないだろうが、オバマ氏に比し女性の支持率が低いマケイン氏の助けにはなるだろう)。
そして、女性・若さというペイリン氏の有する新鮮なイメージに加え、アラスカというワシントンからの物理的な距離が、支持率が低迷する現政権との差別化を容易にする。
ペイリン氏の存在が大きくなればなるほど、以上のような効果をより期待できるようになると考える。
もう一つの興味深い点は、両党ともに、「経験」+「新星」の組み合わせとなったこと。
これは、マケイン氏が、オバマ氏との関係を考慮した結果だと個人的には考えているが、このことは、オバマ氏がバイデン氏を選んだことと相まって、今後重要な機会を創出することになったと考える。
それは、10月8日に予定されているセントルイスでの副大統領候補同士の討論会。
ペイリン氏の既述の長所を有する一方で、多くの(潜在的な)問題点が指摘されている。
市長を務めたとはいえ人口9千人足らずの市であり、知事になってからも僅か2年。
国策としての経済政策や社会保障・医療政策、そして何より外交・安全保障政策に係る彼女の考え方が未知数であることは選挙戦上デメリットとなる。
勿論、チケットとして見れば、マケイン氏の外交・安全保障政策に係る類稀なる経験があれば何ら問題はないだろうが、最近のブログで指摘したとおり、副大統領は大統領に万一のことがあった場合、この国の指揮権を掌握することになるわけで、あらゆる分野におけるバランスの取れた知見が求められて然るべきだ。
対する相手は外交・安全保障分野の重鎮であり、国の政策決定に長年関与してきた経験を持つバイデン氏。討論会ではペイリン氏の考え方を徹底的に追求するだろう。
オバマ氏のキャッチフレーズである「CHANGE」。
この言葉には、「旧来型のワシントンの政治を変える」との意味が含まれているのはご存知のとおりであるが、マケイン氏やクリントン氏に比し経験がないと揶揄されたオバマ氏は、度重なる討論会や演説で人々の予想を良い意味で覆してきた。
一方で、これまでオバマ氏を支持してきた浮動層の中には、「CHANGE」の意味を「単に新しいもの」としてしか認識しない人々が存在するのもまた事実であろう。
そのような人々にとっての「CHANGE」とは表層的なものであり、もしかするとキャンペーンを開始して1年半程経過したオバマ氏の存在は既に賞味期限切れとなっており、彼らの存在が今回の(ペイリン氏選出の)熱狂に寄与している部分があるかもしれないと邪推するのは僕だけだろうか。
いずれにしても、民主党のチケットとは異なり、共和党のチケットは副大統領候補が衆目を集めているだけに、大統領選の勝敗は「ペイリン人気」がどれだけ持続するかという点にも大きく左右されることになろう。
今のところ政治的に無傷である新星ペイリン氏だが、民主党陣営は、これまで無名であったペイリン氏の過去の言動を徹底的に調べ上げることが予想される。
その意味で、僅か約2ヶ月ではあるが、今後公の場での彼女の言動は注目されることになるだろうし、副大統領候補としての真価が問われることになるだろう。
彼女に期待している人々も大勢いると思う。
実りある論戦を期待したい。
2008/8/29 22:14
前へ その他
ワシントンへ向かう機内にいる。
今回の日本滞在は非常に慌しかった。
時間に限りがあり、一握りの知人としか会うことができず、敬愛する多くの友との再会が叶わなかったことは非常に残念だった(また会おう!)。
しかし、有意義な滞在であったことは間違いない。
お世話になっている人生の先輩方から、今後人生を歩んでいくにあたっての貴重なアドバイスを頂いた。
生きていくための知恵を得た。
多忙の中、時間を割いてくれたことに感謝。感謝。そして感謝。
志に共感してくれる仲間から心のこもったエールをもらった。
生きていくための勇気を得た。
とても力強くて、とても澄んでいて、そしてとても熱い、この無形の宝物をギュッと凝縮して心のトランクケースに詰め込む。
一人ひとりの力を合わせて、
この国をもっと良くしたい、
この世界をもっと良くしたい。
素朴過ぎる想いかもしれないけれど、そこには俗世にまみれた欲は一切ない。
だからこそ、この想いで繋がれる太い絆がある。
この絆さえあれば、どんな山でも乗り越えていけるし、
この絆さえあれば、皆で大きな夢を紡いでいける。
一歩ずつ。
前へ。
2008/8/28 23:53
雑感 その他
米民主党大会でオバマ氏が正式に大統領候補として指名され、米国大統領選は再び盛り上がりを見せ始めているようだ。
ワシントンに住む一生活者の視点から今後もしっかりとフォローしていきたい。
さて、米国の連邦議員(我が国の国会議員に当たる)は、日本同様、常に政局を意識しながら行動している。国民の目に晒されない、いわゆるbehind the doorで重要事項が決定されるのは日常茶飯事である。
しかし、一方で、「公人」として国民の目に晒される機会が非常に多いのも事実であり、そのせいか、議会における討論は我が国のそれに比し、非常に建設的であり、本質を突く議論が展開されることが多い(勿論、地元に配慮するためだけの意見を述べることもあるが)。
したがって、連邦議員が、理屈0%、政局100%で行動する姿はあまり目にしない。
たとえタテマエであっても、自らの行動理由を公の場で説明する。
翻って、我が国の国政に目を転じると、何やら新たな「動き」が生じたようだ。
この点について、一言だけ感想を述べておきたい。
権力闘争が繰り広げられる政治の世界での離合集散はさして驚くべきことではないが、そこには一定の理念的又は政策的な観点からの説得力ある理由付けが必要である。
しかし、今回の動きについては、「保身」又は「政局」という観点からは十分理解できるものの、「政治家に求められる姿勢」という観点からは全く理解できない(特に今回の動きに加わった人間の一部に対して)。
そもそも何のために政治に携わっているのか、いや、政治に携わる権利を信託されているのか。
最も根本的な問題を自問自答してもらいたい。
そして有権者への説明責任を十分に果たしてもらいたい。
政治とはそういうものだ、と開き直るようであれば、それは政治屋でしかない。
羅針盤なき今の日本に、理念と品格の欠ける政治屋は要らない。
求められているのは、政治家である。
高邁な理想と厳然たる現実を妥協なくして調和させる気骨ある人間のみに、その資格は与えられるべきなのである。
2008/8/26 23:31
心温まる場所 その他
先日、香川の従妹から電話があった。
「鷹ちゃん、お帰り。ブログ読んどるで。物事よう考えとるようやけど、たまに難しくてようわからへん時があるきん。」
とのことだったので、少し意識して書くことにする。
ところで、夏季休暇を取得して久しぶりに日本に帰ってきたが、先週はお世話になっている多くの方々と会うため分刻みで行動していて、「休暇」という感じは全くなかった。
時間が限られていたこともあり、まだまだお会いしたい方はいたけれど、とりあえず先週末より休暇モードに入ることにする。
残り時間は限られているが家族や旧知の友人とともに過ごしたい。
ごく一部の友人にしか会えないだろうけど。
さて、まずは、妻と共に福島県いわき市に住む友人を訪ね「ランニング合宿」。
マイナスイオンに包まれた新緑の中を走った後は、温泉で疲れを癒し、海と山の幸に舌鼓を打つ。
結局走ることよりも食べることに重点を置いたダイニング合宿となった。
寿司屋の大将からは、最近の原油高で(燃料を大量に要する)トローリングがしにくくなったこと、温暖化のせいかどうかわからないが、名物のカツオの漁場が最近は気仙沼沖まで北上したこと、など「現場」の声を聞く。
「生きた情報」は、加工された伝聞情報よりも、物事を考える上で遥かに参考になる。
満喫したいわきの町に関する感想はここでは省略するが、僕の故郷の一つ、香川と同じく、住民の方々は素朴で、通りがかりの僕たちにも温かく接してくれた。
そして、今日は、箱根は宮の下を訪ねてきた。
今は帰りのロマンスカー内にいる。
箱根というからには、温泉も目的の一つであるわけだが、今日の主目的は、親友の「店」の訪問。
店の名前は、
NARAYA CAFE
箱根登山鉄道の宮の下駅から徒歩30秒のところにあるこの店は、僕の一押しスポットだ。
日本に戻った時は訪れるようにしている。
何故なら、この空間には、家族や友に対するとてつもなく温かい気持ちが詰まっているから。
箱根ファンの方はご存知かと思うが、数年前まで、宮の下には「奈良屋旅館」という老舗旅館があった。
正月恒例の箱根駅伝のテレビ中継では、山登りの5区で「選手が奈良屋旅館前を通過します」との解説が決まって流れていたが、様々な経緯があり、数年前旅館はたたまれることとなった。
当時の旅館のご主人の長男であり、現在NARAYA CAFEのマスターであるアドゥーという男は、僕の大学時代のボート部の同期で、マネージャー(主務)を務めた仲間。
代々受け継がれてきた奈良屋への想いを生まれた時から肌で感じてきたのであろうか、箱根と奈良屋をこよなく愛するこの友は、奈良屋再生のために、勤めていた会社を突如退職した。
別の想いもあったようだ。
国際感覚のある彼の目には、そう映ったようだ。そして、こう思ったようだ。
マスター夫妻の人柄に惹かれ、その思いに共感する多くの仲間が宮の下に集まり、設計から建築まで手作りで仕上げた、まさに汗と涙の結晶。
決して派手ではないが、風光明媚な自然と一体となるように、そしてお客様フレンドリーとなるように、様々な工夫が凝らされている独特の空間。
奈良屋はNARAYAとして看板を替え、その伝統に凝縮された想いはしっかりと受け継がれている。
時々手伝いに来られるご両親は、想いを受け継ぎつつも更なる高みを目指す息子の姿を見て心から喜んでいるように見える。
過去と今、日本と海外、友と友。
様々な意味で「絆」を体現する場所。

マスターと筆者(足湯に浸かってビールを飲んだせいか赤ら顔)

奈良屋旅館の看板が店内に飾られている。
心優しいマスター夫妻と二人の看板娘が醸し出す温かい雰囲気に包まれ、足湯に浸かると、心と体がポカポカすると思う。
しかもその温かさはとても長く持続するはず。
百聞は一見に如かず。
是非一度訪れてもらいたい。

心地良い足湯
「鷹ちゃん、お帰り。ブログ読んどるで。物事よう考えとるようやけど、たまに難しくてようわからへん時があるきん。」
とのことだったので、少し意識して書くことにする。
ところで、夏季休暇を取得して久しぶりに日本に帰ってきたが、先週はお世話になっている多くの方々と会うため分刻みで行動していて、「休暇」という感じは全くなかった。
時間が限られていたこともあり、まだまだお会いしたい方はいたけれど、とりあえず先週末より休暇モードに入ることにする。
残り時間は限られているが家族や旧知の友人とともに過ごしたい。
ごく一部の友人にしか会えないだろうけど。
さて、まずは、妻と共に福島県いわき市に住む友人を訪ね「ランニング合宿」。
マイナスイオンに包まれた新緑の中を走った後は、温泉で疲れを癒し、海と山の幸に舌鼓を打つ。
結局走ることよりも食べることに重点を置いたダイニング合宿となった。
寿司屋の大将からは、最近の原油高で(燃料を大量に要する)トローリングがしにくくなったこと、温暖化のせいかどうかわからないが、名物のカツオの漁場が最近は気仙沼沖まで北上したこと、など「現場」の声を聞く。
「生きた情報」は、加工された伝聞情報よりも、物事を考える上で遥かに参考になる。
満喫したいわきの町に関する感想はここでは省略するが、僕の故郷の一つ、香川と同じく、住民の方々は素朴で、通りがかりの僕たちにも温かく接してくれた。
そして、今日は、箱根は宮の下を訪ねてきた。
今は帰りのロマンスカー内にいる。
箱根というからには、温泉も目的の一つであるわけだが、今日の主目的は、親友の「店」の訪問。
店の名前は、
NARAYA CAFE
箱根登山鉄道の宮の下駅から徒歩30秒のところにあるこの店は、僕の一押しスポットだ。
日本に戻った時は訪れるようにしている。
何故なら、この空間には、家族や友に対するとてつもなく温かい気持ちが詰まっているから。
箱根ファンの方はご存知かと思うが、数年前まで、宮の下には「奈良屋旅館」という老舗旅館があった。
正月恒例の箱根駅伝のテレビ中継では、山登りの5区で「選手が奈良屋旅館前を通過します」との解説が決まって流れていたが、様々な経緯があり、数年前旅館はたたまれることとなった。
当時の旅館のご主人の長男であり、現在NARAYA CAFEのマスターであるアドゥーという男は、僕の大学時代のボート部の同期で、マネージャー(主務)を務めた仲間。
代々受け継がれてきた奈良屋への想いを生まれた時から肌で感じてきたのであろうか、箱根と奈良屋をこよなく愛するこの友は、奈良屋再生のために、勤めていた会社を突如退職した。
別の想いもあったようだ。
箱根の良さをもっと多くの外国人に味わってもらいたい。
しかし、今の箱根は普通の外国人が訪れるには多少敷居が高い。
国際感覚のある彼の目には、そう映ったようだ。そして、こう思ったようだ。
バックパッカーでも気軽に訪れることができ、箱根の良さを満喫できる場所を作りたい。
しかも自分たちの手で。
マスター夫妻の人柄に惹かれ、その思いに共感する多くの仲間が宮の下に集まり、設計から建築まで手作りで仕上げた、まさに汗と涙の結晶。
決して派手ではないが、風光明媚な自然と一体となるように、そしてお客様フレンドリーとなるように、様々な工夫が凝らされている独特の空間。
奈良屋はNARAYAとして看板を替え、その伝統に凝縮された想いはしっかりと受け継がれている。
時々手伝いに来られるご両親は、想いを受け継ぎつつも更なる高みを目指す息子の姿を見て心から喜んでいるように見える。
過去と今、日本と海外、友と友。
様々な意味で「絆」を体現する場所。
マスターと筆者(足湯に浸かってビールを飲んだせいか赤ら顔)
奈良屋旅館の看板が店内に飾られている。
心優しいマスター夫妻と二人の看板娘が醸し出す温かい雰囲気に包まれ、足湯に浸かると、心と体がポカポカすると思う。
しかもその温かさはとても長く持続するはず。
百聞は一見に如かず。
是非一度訪れてもらいたい。
心地良い足湯
2008/8/24 23:18
求められる資質 〜米国副大統領候補(民主党)の公表を受けて〜 米国大統領選
昨日、米国では、オバマ氏が副大統領候補者を公表した。
既に報道でご存知と思うが、候補者の名はジョゼフ・バイデン上院議員。
議会の枢要ポストである外交委員長を務める実力者で、個人的には、色々な意味でこの人選は考え抜かれたものだと感じている。
今現在ワシントンにいないので、当地でどのような感触で受け止められているのか詳細はわからないが、少なくとも主要紙であるワシントン・ポスト紙の記事を読む限りは概ね好意的に受け止められているようだ。
各種報道がなされていると思うので、今回の人選に関する僕個人の詳細な批評をこの場で行うことはしないが、副大統領候補者の選定に係るこれまでの議論について、ワシントンに住む一外国人として一つ気になる点がある。
それは危機管理の視点からの議論がもう少しなされても良いのではないかということ。
6月にオバマ氏とクリントン氏との候補者指名競争に終止符が打たれて以降、ワシントン界隈の関心は副大統領候補の人選に集まっていたが、その議論の大半は、両大統領候補者が如何にして自らの弱点を補う副大統領候補者を見つけるかという視点からなされてきた。
勿論、大統領候補者からすれば、現時点では選挙に勝つことが至上命題であり、彼らにとっては、自分への支持が浸透していない層に支持があることと自分の政策的弱点(と思われている点)を補うことが副大統領候補者の資質として重要となる。
オバマ氏にとって、白人労働者層に支持があり外交政策に定評があるバイデン氏は、チケット(ticket)の相手方として絶好のパートナーと考えられよう。
一方、大統領を選ぶ有権者の側からすれば、副大統領候補者がどの層に支持されているかはさして重要な問題ではない。
それでは、大統領候補者の政策的弱点を補う点だけが重要なのだろうか。
答えはNOであろう。
米国政治に多少なりとも関心を持っている人にとっては既知のことだろうが、米国憲法上、大統領が死亡、辞任等により不在となる時、副大統領が大統領に昇格することが規定されている。
副大統領が政策決定プロセスに関わる重要人物であることは間違いないが、米国民にとって副大統領が重要とされる最大の所以は、大統領を輔弼する役割を有することよりも、寧ろ、大統領に万一のことがあった場合に世界最強の国の陣頭指揮を執ることにあると考える。(因みに、副大統領が大統領に昇格した比較的最近の事例としてはトルーマン、ジョンソン、フォードが挙げられる。)
そうであるとすれば、例えば、米国民がバイデン氏を副大統領候補者として分析・評価するに当たり重要なのは、彼がオバマ氏の相対的弱点とされる外交分野に通暁していることもさることながら、万一の場合に彼が大統領として相応しい指導力を発揮できるか否かということなのである。
一時期、オバマ氏の暗殺可能性やマケイン氏の皮膚ガンに関する話題が物議をかもしたように、大統領候補者に係る不測の事態を選挙キャンペーン期間中に正面切って議論することは、いかに表現の自由が保障されている米国であれ、モラルに欠けると非難される恐れがある。
しかし、一般論としてアメリカという国の危機管理能力を高く評価する僕としては、(かなり酷なこととは思いつつも)有権者が「副大統領候補の大統領候補としての資質」をも意識して投票所に向かえるよう、今後幅広い観点から大統領選に関する議論が展開されることを敢えて期待したいのである。
2008/8/23 23:10
渋谷にて その他
今月22日(金)午後6時45分頃。
渋谷にて殺人未遂事件が発生。
各紙でも報道されたので、以下参考までに毎日新聞から抜粋する。
詳細は省くが、実は、様々な報道から判断すると、僕はその頃、ほぼ確実に容疑者の半径10メートル以内にいたことになる。
妻と共に。
その晩お互いに会合が控えていたので、現場付近を離れ、階段を上り、6時48分に銀座線渋谷駅の改札を通り、同50分の電車で浅草方面行きの電車に乗った。
したがって事の顛末はその後の報道で知った次第。
報道を見た瞬間、呆然とした。
被害に遭われた女性の切られた部分が別の場所だったら?
被害に遭ったのが子供だったら?
そして、自分の妻も被害に遭っていたとしたら?
(容疑者は)高齢の女性であったため殺傷能力は相対的には低いと考えられるものの、色々考え出すと、時の経過とともに実感が湧いてくる。
恐ろしい、の一言に尽きる。
確か最近の世論調査で、日本人の8割以上がここ10年間で日本の治安が悪化していると感じていると回答したと記憶している。
犯罪件数を含め、各種データに鑑みれば、必ずしも日本の治安が悪化しているとは言えない気もする(メディアがセンセーショナルに不安感を煽っているだけのような気もする)。
しかし、仮にそうであったとしても、「治安」という客観的な指標もさることながら、「安心」という主観的な指標が大切であることは論を待たない。
秋葉原の無差別殺傷事件以降、政策対応の必要性が多くの人々に意識されるようになったようだが、事の性質上、映画『Minority Report』に出てくるような殺人予知システムでもない限り、どんなに努力しても防ぎ切れないリスクが存在するに違いない。
至極当たり前のことであるのだが、今回の事件を通して、そのリスクが自分の身の回りで顕在化しうること、そしてそのリスクが顕在化する時に備えて自分の身は極力自分で守れるよう日々心掛けるべきであること、その結果として安心も得られること、を肌身で強く感じた。
渋谷にて殺人未遂事件が発生。
各紙でも報道されたので、以下参考までに毎日新聞から抜粋する。
殺人未遂:東京・渋谷で2人刺される 79歳女、容疑で逮捕−−東横のれん街
22日午後6時45分ごろ、東京都渋谷区渋谷2の東急百貨店東横店1階で、刃物を持った女に女性2人が次々に切りつけられた。2人は腰を刺されるなどしたが意識はあり、命に別条はないという。警視庁渋谷署員らが約50メートル離れたJR渋谷駅南改札口券売機付近で、目撃証言と似た女を発見、刺したことを認めたため、殺人未遂容疑で現行犯逮捕した。
逮捕されたのは自称、住所不定の無職、北川初子容疑者(79)。
調べでは、北川容疑者は、東横のれん街東側出入り口前で都内の派遣社員(26)の左腰を果物ナイフ(刃渡り約10センチ)で刺し、5分後に約50メートル離れたフラワーショップ前で神奈川県内の契約社員(27)の左上腕部に切りつけた疑い。「都内の施設を今週初めに引き払った。お金はないし、事件を起こせば警察が何とかしてくれると思った」と供述しているという。逮捕時の所持金は約6500円だった。
現場近くの和菓子屋で働く川崎仁志さん(54)は「お客さんから『若い女の子が刺された』と聞いて外を見ると、人だかりで騒然としていた。渋谷でも通り魔事件が起きるなんて」と驚いていた。
詳細は省くが、実は、様々な報道から判断すると、僕はその頃、ほぼ確実に容疑者の半径10メートル以内にいたことになる。
妻と共に。
その晩お互いに会合が控えていたので、現場付近を離れ、階段を上り、6時48分に銀座線渋谷駅の改札を通り、同50分の電車で浅草方面行きの電車に乗った。
したがって事の顛末はその後の報道で知った次第。
報道を見た瞬間、呆然とした。
被害に遭われた女性の切られた部分が別の場所だったら?
被害に遭ったのが子供だったら?
そして、自分の妻も被害に遭っていたとしたら?
(容疑者は)高齢の女性であったため殺傷能力は相対的には低いと考えられるものの、色々考え出すと、時の経過とともに実感が湧いてくる。
恐ろしい、の一言に尽きる。
確か最近の世論調査で、日本人の8割以上がここ10年間で日本の治安が悪化していると感じていると回答したと記憶している。
犯罪件数を含め、各種データに鑑みれば、必ずしも日本の治安が悪化しているとは言えない気もする(メディアがセンセーショナルに不安感を煽っているだけのような気もする)。
しかし、仮にそうであったとしても、「治安」という客観的な指標もさることながら、「安心」という主観的な指標が大切であることは論を待たない。
秋葉原の無差別殺傷事件以降、政策対応の必要性が多くの人々に意識されるようになったようだが、事の性質上、映画『Minority Report』に出てくるような殺人予知システムでもない限り、どんなに努力しても防ぎ切れないリスクが存在するに違いない。
至極当たり前のことであるのだが、今回の事件を通して、そのリスクが自分の身の回りで顕在化しうること、そしてそのリスクが顕在化する時に備えて自分の身は極力自分で守れるよう日々心掛けるべきであること、その結果として安心も得られること、を肌身で強く感じた。
2008/8/21 23:36
上を向いて歩こう その他
久しぶりに朝の通勤電車に乗る。
勿論超満員だ。
日本人にしては身長の高い僕は、頭一つ抜け出すので視界は良好なのだが、その分バランスキープが難しい。
突発的な揺れにも即座に対応できるように足裏に意識を集中する。
とは言っても身動き一つとれないので座っている人を中心に人間観察。
寝る、打つ、黙る、読む。
大きくこの4パターンに分かれる。
ワシントンDCの地下鉄には、前二者はいない。
黙るか読むか。
日本と比べると話している人間が多いような気もするから、喋るかと読むかと言った方が適切かもしれない。
その後、乗換駅そして終着駅にて引き続き観察。
久々に観るサラリーマンの集団歩行。
僕もアメリカに来るまではこの集団の中の一員として通勤していた身だ。
これだけ多くの人間がこれだけ狭いエリアに住み、その大半が、ほぼ同じ始業時間目指して電車通勤しているのだから、この光景もある意味当然の成り行き。
一つだけ気になって仕方ないことがある。
視線の向き。
殆どの人が下を向いて歩いている。
所々階段もあるし、足元が気になるのも仕方ないが、それにしても観ていて美しくない。
社会人になりたての頃、特に深夜2時、3時まで働く日が続くと、毎朝、眠いし、疲労困憊しているし、目の前にある一日がとてつもなく長く思えて仕方がないこともあった。
ある日、通勤中、視線が下向きになっている自分にふと気付いた。
疲れていて人に干渉されたくない、だけど周囲に人がいて独りになれない時、下を向くと、その瞬間は即席の独房に入ることができる。
視野が限定され、回りが見えなくなり、情報を遮断することができるのだ。
コンクリートでできた灰色の道や白いタイルが張り詰められたフロアは、視覚を不必要に刺激しないので、思考に耽ることだけでなく思考を停止することをも可能にする。
その時、周りのサラリーマンを見ると、同じく下を向いて歩いていることに気付く。
活力が感じられなかった。
もしかすると、自分の姿も他人の目にはそのように映っていたのかもしれないな。
そう思って以来、通勤時は、胸を張り、背筋を伸ばし、やや斜め上方に視線を固定して歩くことを心掛けるようにしている。
上を向いて歩くと、視野は広がるし、遠近感がある。
だから様々な情報が入ってくる。
疲れている時には太陽の光が多少眩しく感じられることもあるけれど、その光の射し具合は日々異なるし、その光に照らされる景色の色も日々異なる。
日々流転するこの世の中で、各事象は瞬間瞬間形を変える。
不変という概念は、形而上的世界では成立し得ても、形而下的世界では成立し得ない、僕はそう思う。
いわば、変化は世の中の本質であると思う。
だから、この世の中で生きていくということは、変化を当然のこととして受け入れた上で、変化に能動的に対応していくということであり、そのためには広くアンテナを張ることが求められるのではないかと僕は思う。
「前向きに生きる」とよく言われるが、生きるという行為自体が「前向き」なことのようにも思えてくる。
『蟹工船』
文学としては立派な作品であるとは思うが、何故今頃ブームが到来しているのだろうか。
仮に、閉塞感漂う我が国の社会になぞらえている故だとすれば、少々奇妙な感じがする。
勿論、現社会の一面を見れば、似ている部分もあるのだろうけれど、この作品を読んで妙なカタルシスを覚えることよりも、むしろ、自分自身の心の持ち様でまだまだ改善できる部分があるのではないか、そう自分に問いかけることが余程大切だと思う。
上を向いて歩くことには、涙をこぼさないという目的を超えた何かがあると感じるのは僕だけだろうか。
勿論超満員だ。
日本人にしては身長の高い僕は、頭一つ抜け出すので視界は良好なのだが、その分バランスキープが難しい。
突発的な揺れにも即座に対応できるように足裏に意識を集中する。
とは言っても身動き一つとれないので座っている人を中心に人間観察。
寝る、打つ、黙る、読む。
大きくこの4パターンに分かれる。
ワシントンDCの地下鉄には、前二者はいない。
黙るか読むか。
日本と比べると話している人間が多いような気もするから、喋るかと読むかと言った方が適切かもしれない。
その後、乗換駅そして終着駅にて引き続き観察。
久々に観るサラリーマンの集団歩行。
僕もアメリカに来るまではこの集団の中の一員として通勤していた身だ。
これだけ多くの人間がこれだけ狭いエリアに住み、その大半が、ほぼ同じ始業時間目指して電車通勤しているのだから、この光景もある意味当然の成り行き。
一つだけ気になって仕方ないことがある。
視線の向き。
殆どの人が下を向いて歩いている。
所々階段もあるし、足元が気になるのも仕方ないが、それにしても観ていて美しくない。
社会人になりたての頃、特に深夜2時、3時まで働く日が続くと、毎朝、眠いし、疲労困憊しているし、目の前にある一日がとてつもなく長く思えて仕方がないこともあった。
ある日、通勤中、視線が下向きになっている自分にふと気付いた。
疲れていて人に干渉されたくない、だけど周囲に人がいて独りになれない時、下を向くと、その瞬間は即席の独房に入ることができる。
視野が限定され、回りが見えなくなり、情報を遮断することができるのだ。
コンクリートでできた灰色の道や白いタイルが張り詰められたフロアは、視覚を不必要に刺激しないので、思考に耽ることだけでなく思考を停止することをも可能にする。
その時、周りのサラリーマンを見ると、同じく下を向いて歩いていることに気付く。
活力が感じられなかった。
もしかすると、自分の姿も他人の目にはそのように映っていたのかもしれないな。
そう思って以来、通勤時は、胸を張り、背筋を伸ばし、やや斜め上方に視線を固定して歩くことを心掛けるようにしている。
上を向いて歩くと、視野は広がるし、遠近感がある。
だから様々な情報が入ってくる。
疲れている時には太陽の光が多少眩しく感じられることもあるけれど、その光の射し具合は日々異なるし、その光に照らされる景色の色も日々異なる。
日々流転するこの世の中で、各事象は瞬間瞬間形を変える。
不変という概念は、形而上的世界では成立し得ても、形而下的世界では成立し得ない、僕はそう思う。
いわば、変化は世の中の本質であると思う。
だから、この世の中で生きていくということは、変化を当然のこととして受け入れた上で、変化に能動的に対応していくということであり、そのためには広くアンテナを張ることが求められるのではないかと僕は思う。
「前向きに生きる」とよく言われるが、生きるという行為自体が「前向き」なことのようにも思えてくる。
『蟹工船』
文学としては立派な作品であるとは思うが、何故今頃ブームが到来しているのだろうか。
仮に、閉塞感漂う我が国の社会になぞらえている故だとすれば、少々奇妙な感じがする。
勿論、現社会の一面を見れば、似ている部分もあるのだろうけれど、この作品を読んで妙なカタルシスを覚えることよりも、むしろ、自分自身の心の持ち様でまだまだ改善できる部分があるのではないか、そう自分に問いかけることが余程大切だと思う。
上を向いて歩くことには、涙をこぼさないという目的を超えた何かがあると感じるのは僕だけだろうか。
2008/8/19 23:34
メディア・リテラシー 〜五輪放映を見ていて〜 米国社会
飛行機に接続する蛇腹に一歩足を踏み出した瞬間、湿度が200%くらいあるんじゃないかと思うほどの熱風に身を包まれた。
久しぶりに日本に戻ってきた。
ワシントンの生活にずっぽり浸かっていたため、母国で妙な違和感を抱いた。
逆に言えば、この違和感のせいで、自分がいかにアメリカの生活スタイルに順応していたかを改めて認識した。
この点については、おいおいこのブログで書いてみることにする。
さて、今日は日本のテレビを見ていて感じたことについて簡単に書いてみようと思う。
このブログも、最近は五輪に関するものがやや多い気もするが、今日も然り。
日本でも、連日、五輪関連番組が組まれており、否が応でも目にすることとなる。
スポーツ観戦は好きなのであるが、実は、
一日で飽きた。
五輪そのものではなく、五輪関連番組に、である。
僕は、元来、祭りの文化や、ハレとケのコントラストが大好きだ。
また、五輪について言えば、選手の感動秘話なども決して嫌いではない。
ただ、日本の五輪放映は様々な点において奇妙だと思う。
どのチャンネルをつけても、一日の大半が五輪ネタで、しかもほぼ同じ内容の番組ばかり。
芸能人やアナウンサーを中心とするレポーターやコメンテーターは番組を盛り上げようと意気込むようにコメントする。
たまに役に立つ「解説」もあるが、コメントの大半は何らの付加価値もない「感想」。
寸暇を惜しむようにスタジオ間を移動するメダリスト達には同じような質問が何度も浴びせかけられる。
どの番組もまるで金太郎飴のようだ。
まだまだ言いたいことはあるがキリがないので止めておく。
メディアは基本的には商業ベースで行動するから、視聴率の取れる五輪関連番組を放映することはある意味では理に適っているし(夏休み中が集中する時期でもあり、普段視聴率が取りにくい昼間の時間帯でも一定の視聴率をとれることからも説明できる気がする)、また、我が国憲法は表現の自由を保障している。
しかし、僕は日本のテレビメディアには「倫理」が欠けているような気がしてならない。
この倫理には、真実を伝えること、政治的に中立であること、人権を侵害しないこと、という点もさることながら、視聴者に伝えるべきことを伝えること、という点も含まれるべきであると思う。
確かに、インターネットが発達した今、必要な情報はGOOGLEやYAHOOで検索すれば一瞬にして入手できるので必ずしもテレビが「必要な」情報を提供しなくともよいとの見方もできるし、また、お金を支払いさえすれば多様な番組を提供するサービスを購入することもできる。
しかし、我が国においては、国民への情報提供及び国民の意識形成という点において、未だ民放各社の影響力はとてつもなく大きいのが現実。
この影響力が大きければ大きいほど、高い倫理観が求められると思うのだが、悲しき哉、現実は、過度の横並びと過度のワイドショー化。
真に伝えられるべきことが伝えられていない状況に、正直目を覆いたくなる。
たまたま五輪の報道を見ていてこのように思いを改めて抱いただけであり、五輪番組に限ったことではない。
「需要があるから供給がある」
報道する側がこう言ってしまえばそれまでであり、そこに倫理を求めようとしても無理だろう。
なぜなら、「本来あるべき需要」と「本来あるべき供給」とが失われている中で、現状を所与のものとして肯定しているからだ。
翻って視聴者はどうかと言えば、一部の意識の高い人々を除き、民放各社の提供する番組を客観的・批判的に見る姿勢が欠如しているように見える。
僕は、民放各社の提供する番組を見るべきでないとか楽しむべきではないとか、そんな過激かつ傲慢なことを言うつもりは決してない。
良い番組もたくさんあると思うし、(個人的には大嫌いであるが)ワイドショーだって場合によっては見る価値はあると思う。
ただ、僕が言いたいのは、(少なくとも現時点では)民放各社の提供するある一定の番組だけを見ていると、いきおいアンテナが低くそして狭くなっていくリスクを視聴者はしっかりと認識する必要があるということ。
そして、それを避けるためには、報道内容を鵜呑みにしないということだけでは足りず、本来報道されるべきことが報道されていないのではないかというところまで意識を張り巡らす必要があるということ。
そうならない限り、今のテレビメディアと視聴者との「緩み切った関係」は改善されない。
本来、マスコミと視聴者との間には一定の緊張関係が必要であると僕は思う。
自戒を込めて。
2008/8/17 23:03
誰かのために生きるということ 趣味
先日、たまたま、邦画『半落ち』を観る機会があった。
ご覧になられた人も多いと思うが、横山秀夫氏の小説を原作とし、愛するが故に殺す、という一見相矛盾する行為が根差す人間の心の葛藤を描き出した映画である。
4年前の映画であるがまだ観ていない方がいるかもしれないので詳細には触れないが、ある場面で寺尾聰演ずる主人公が一言発する。
「あなたは誰のために生きていますか」
何の変哲もないシンプルな問いかけではあるのだが、思わずハッとした。
「何」のために生きるのか、という問いかけはよく聞くが、「誰」のために生きるのか、という問いかけは、実は意外と珍しいような気がしたのだ。
そして、ふと考え込んだ。
答えが思い浮かばなかったということでは決してない。
「誰かのために生きる」とはそもそもどういうことだろうか、ということに頭を巡らせたのである。
日々更新するこのブログにて、深遠なテーマに関して思ったことを全て書き連ねようとすると紙幅の限界に直面するので、その結論だけを極簡単に書こうと思う。
その前にまず一言だけ。
僕は、人生とは一義的には「自分のために生きる」ことと捉えている。
これは、「誰かのために生きる」ということと対になる概念ではなくて、単に、いかなる人であっても、それぞれが生きる「舞台」を持っていて、その舞台の主役は言うまでもなくその自分自身であり、その舞台は自分の出生とともに開幕し、命の終焉と共に閉じるという意味において。
したがって、ここで言う「自分のために生きる」ということは人生そのものを普遍的に言い表しているのであって、人生の一形態を指す「自分だけのために生きる」ということとはその次元において異なる。
それでは、「誰かのために生きる」とはどのような人生を指すのであろうか。
さしずめ人生劇場という舞台に喩えてみれば、どのような生き方であれ、舞台には少なくとも一人は主役が存在する。
繰り返しになるが、それは自分自身である。
ただ、舞台の主役は必ずしも一人である必要はない。
自ずと数は限られようが、それは複数であっても良い。
その主役は、当然のことながら悪役としての存在ではなく、自分との間に、愛、友情、敬意といった要素で固められた絆を有するものとしての存在。
「自分だけのために生きる」ということは、飽くまで主役が一人だけの舞台なのだと思う。
全ての登場人物は、その主役との関係に濃淡はあれ、その舞台の上で主役として振舞うことは許されない。
飽くまで「従」の存在であるのだ。
一方、誰かのために生きるということは、自分の舞台において、自分以外の他者にも主役を演じることを認めることだと僕は思う。
(そう、自分は主役であると同時に、主役を認定する監督でもあるのだ。)
勿論、自分以外の主役にとっては、その舞台は必ずしもメインとなる舞台ではない。
自分が彼らの舞台でも主役となるのか否かは自分が判断すべき類の話ではなく、舞台監督である彼らの判断次第である(ただし、お互いがそれぞれの舞台で主役として認め合う場合、お互いにとって双方の舞台がメインの舞台となる)。
いずれにしても、自分以外にも主役がいるということは何を意味するのであろうか。
結論だけ言えば、二つの大きな意味があると僕は思う。
一つは、その主役がいなければ、舞台が成り立たないということである。
勿論、主役に限らず、どの登場人物の存在にも何らかの意味があるのは確かだが、主役が存在しなければ、舞台が成立し得ないし、そもそも成立させようとする意味がない。
もう一つは、自分以外の主役は、死を向かえて彼らが監督を務める舞台が幕を閉じたとしても、自分が監督を務める舞台では、自分が生きている限り、彼らは「存在」し続けられるということ。
「存在」としたのは、当然のことながら、物理的という意味ではなく、有り体に言えば、「心の中に生き続ける」という意味において。
最終場面で一人の登場人物が言う。
「俺は自分のために生きているよ」
と。
上述した僕の言葉で言えば、
「俺は自分だけのために生きているよ」
ということになる。
僕は、ここでどのような生き方が良いのか一般化するつもりは毛頭ない。
ただ、僕自身どうかと言えば、「自分のためだけに生きる」というよりも、「誰かのために自分らしく生きる」という生き方が感覚的にも理屈の上でもフィットする。
自分以外の他者のためにも生きること。
その「結果」として、
自分の人生に価値がもたらされ、自分の人生が輝きを放つことも往々にしてあるのではないか。
みなさんは、誰のために生きていますか?



