2008/8/19 23:34
メディア・リテラシー 〜五輪放映を見ていて〜 分類なし
飛行機に接続する蛇腹に一歩足を踏み出した瞬間、湿度が200%くらいあるんじゃないかと思うほどの熱風に身を包まれた。
久しぶりに日本に戻ってきた。
ワシントンの生活にずっぽり浸かっていたため、母国で妙な違和感を抱いた。
逆に言えば、この違和感のせいで、自分がいかにアメリカの生活スタイルに順応していたかを改めて認識した。
この点については、おいおいこのブログで書いてみることにする。
さて、今日は日本のテレビを見ていて感じたことについて簡単に書いてみようと思う。
このブログも、最近は五輪に関するものがやや多い気もするが、今日も然り。
日本でも、連日、五輪関連番組が組まれており、否が応でも目にすることとなる。
スポーツ観戦は好きなのであるが、実は、
一日で飽きた。
五輪そのものではなく、五輪関連番組に、である。
僕は、元来、祭りの文化や、ハレとケのコントラストが大好きだ。
また、五輪について言えば、選手の感動秘話なども決して嫌いではない。
ただ、日本の五輪放映は様々な点において奇妙だと思う。
どのチャンネルをつけても、一日の大半が五輪ネタで、しかもほぼ同じ内容の番組ばかり。
芸能人やアナウンサーを中心とするレポーターやコメンテーターは番組を盛り上げようと意気込むようにコメントする。
たまに役に立つ「解説」もあるが、コメントの大半は何らの付加価値もない「感想」。
寸暇を惜しむようにスタジオ間を移動するメダリスト達には同じような質問が何度も浴びせかけられる。
どの番組もまるで金太郎飴のようだ。
まだまだ言いたいことはあるがキリがないので止めておく。
メディアは基本的には商業ベースで行動するから、視聴率の取れる五輪関連番組を放映することはある意味では理に適っているし(夏休み中が集中する時期でもあり、普段視聴率が取りにくい昼間の時間帯でも一定の視聴率をとれることからも説明できる気がする)、また、我が国憲法は表現の自由を保障している。
しかし、僕は日本のテレビメディアには「倫理」が欠けているような気がしてならない。
この倫理には、真実を伝えること、政治的に中立であること、人権を侵害しないこと、という点もさることながら、視聴者に伝えるべきことを伝えること、という点も含まれるべきであると思う。
確かに、インターネットが発達した今、必要な情報はGOOGLEやYAHOOで検索すれば一瞬にして入手できるので必ずしもテレビが「必要な」情報を提供しなくともよいとの見方もできるし、また、お金を支払いさえすれば多様な番組を提供するサービスを購入することもできる。
しかし、我が国においては、国民への情報提供及び国民の意識形成という点において、未だ民放各社の影響力はとてつもなく大きいのが現実。
この影響力が大きければ大きいほど、高い倫理観が求められると思うのだが、悲しき哉、現実は、過度の横並びと過度のワイドショー化。
真に伝えられるべきことが伝えられていない状況に、正直目を覆いたくなる。
たまたま五輪の報道を見ていてこのように思いを改めて抱いただけであり、五輪番組に限ったことではない。
「需要があるから供給がある」
報道する側がこう言ってしまえばそれまでであり、そこに倫理を求めようとしても無理だろう。
なぜなら、「本来あるべき需要」と「本来あるべき供給」とが失われている中で、現状を所与のものとして肯定しているからだ。
翻って視聴者はどうかと言えば、一部の意識の高い人々を除き、民放各社の提供する番組を客観的・批判的に見る姿勢が欠如しているように見える。
僕は、民放各社の提供する番組を見るべきでないとか楽しむべきではないとか、そんな過激かつ傲慢なことを言うつもりは決してない。
良い番組もたくさんあると思うし、(個人的には大嫌いであるが)ワイドショーだって場合によっては見る価値はあると思う。
ただ、僕が言いたいのは、(少なくとも現時点では)民放各社の提供するある一定の番組だけを見ていると、いきおいアンテナが低くそして狭くなっていくリスクを視聴者はしっかりと認識する必要があるということ。
そして、それを避けるためには、報道内容を鵜呑みにしないということだけでは足りず、本来報道されるべきことが報道されていないのではないかというところまで意識を張り巡らす必要があるということ。
そうならない限り、今のテレビメディアと視聴者との「緩み切った関係」は改善されない。
本来、マスコミと視聴者との間には一定の緊張関係が必要であると僕は思う。
自戒を込めて。



