2008/8/21  23:36

上を向いて歩こう  その他

久しぶりに朝の通勤電車に乗る。
勿論超満員だ。
日本人にしては身長の高い僕は、頭一つ抜け出すので視界は良好なのだが、その分バランスキープが難しい。
突発的な揺れにも即座に対応できるように足裏に意識を集中する。
とは言っても身動き一つとれないので座っている人を中心に人間観察。
寝る、打つ、黙る、読む。
大きくこの4パターンに分かれる。

ワシントンDCの地下鉄には、前二者はいない。
黙るか読むか。
日本と比べると話している人間が多いような気もするから、喋るかと読むかと言った方が適切かもしれない。

その後、乗換駅そして終着駅にて引き続き観察。
久々に観るサラリーマンの集団歩行。
僕もアメリカに来るまではこの集団の中の一員として通勤していた身だ。
これだけ多くの人間がこれだけ狭いエリアに住み、その大半が、ほぼ同じ始業時間目指して電車通勤しているのだから、この光景もある意味当然の成り行き。
一つだけ気になって仕方ないことがある。

視線の向き。

殆どの人が下を向いて歩いている。
所々階段もあるし、足元が気になるのも仕方ないが、それにしても観ていて美しくない。

社会人になりたての頃、特に深夜2時、3時まで働く日が続くと、毎朝、眠いし、疲労困憊しているし、目の前にある一日がとてつもなく長く思えて仕方がないこともあった。

ある日、通勤中、視線が下向きになっている自分にふと気付いた。
疲れていて人に干渉されたくない、だけど周囲に人がいて独りになれない時、下を向くと、その瞬間は即席の独房に入ることができる。
視野が限定され、回りが見えなくなり、情報を遮断することができるのだ。
コンクリートでできた灰色の道や白いタイルが張り詰められたフロアは、視覚を不必要に刺激しないので、思考に耽ることだけでなく思考を停止することをも可能にする。

その時、周りのサラリーマンを見ると、同じく下を向いて歩いていることに気付く。
活力が感じられなかった。

もしかすると、自分の姿も他人の目にはそのように映っていたのかもしれないな。
そう思って以来、通勤時は、胸を張り、背筋を伸ばし、やや斜め上方に視線を固定して歩くことを心掛けるようにしている。

上を向いて歩くと、視野は広がるし、遠近感がある。
だから様々な情報が入ってくる。
疲れている時には太陽の光が多少眩しく感じられることもあるけれど、その光の射し具合は日々異なるし、その光に照らされる景色の色も日々異なる。

日々流転するこの世の中で、各事象は瞬間瞬間形を変える。
不変という概念は、形而上的世界では成立し得ても、形而下的世界では成立し得ない、僕はそう思う。
いわば、変化は世の中の本質であると思う。

だから、この世の中で生きていくということは、変化を当然のこととして受け入れた上で、変化に能動的に対応していくということであり、そのためには広くアンテナを張ることが求められるのではないかと僕は思う。

「前向きに生きる」とよく言われるが、生きるという行為自体が「前向き」なことのようにも思えてくる。

『蟹工船』

文学としては立派な作品であるとは思うが、何故今頃ブームが到来しているのだろうか。
仮に、閉塞感漂う我が国の社会になぞらえている故だとすれば、少々奇妙な感じがする。
勿論、現社会の一面を見れば、似ている部分もあるのだろうけれど、この作品を読んで妙なカタルシスを覚えることよりも、むしろ、自分自身の心の持ち様でまだまだ改善できる部分があるのではないか、そう自分に問いかけることが余程大切だと思う

上を向いて歩くことには、涙をこぼさないという目的を超えた何かがあると感じるのは僕だけだろうか。

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