2008/6/30  7:02

故郷の大悲山磨崖仏(ダイヒザンマガイブツ)  仏教史

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日本の歴史を振り返る時に、東北地方は文化の後進国と言うのが、事実として有る様です。世界を見渡せば普通は、北は工業が盛んで南は農業が盛んで有るのだが(例えば北米とかフランス等々)日本は「白河以北は一山一文等」と嘲られた時も有り、北は貧しい農村地帯でも有ったのです。

しかしながら我が故郷の福島県にも、上の写真(大悲山薬師堂、観音堂石仏)で見る様に、文化水準の高かった証拠を示す「磨崖仏」が有るのです。制作年代は奈良時代初期頃のものかと推定されるのです。貴重な文化財ですから、昭和41年度(1966年)には国の「文化財保護委員会と美術院国宝修理所」が来て、保存修理が図られたのです。(現在は国の指定遺跡となっている)

この磨崖仏の有る場所は、福島県相馬地方と呼ばれ、太平洋を望んだ地域で海も山(阿武隈高地)も有って、江戸時代は陸前浜海道の宿場町で有った。南北朝から戦国時代終期までは、千葉氏の支流相馬氏の根拠地(小高城)が有って、野馬追い祭りと民謡が有名で有る。往古は浮田国造家等も居たらしく、後には奥州藤原氏(岩城氏一族)の影響も及んだらしい。

さて大悲山の磨崖仏は奈良時代前期に彫られた様ですが、奈良時代とは仏教国家の出現が有って、時代的には藤原宇合が多賀城を築いた頃(724年)かも知れない。磨崖仏とは岩面や洞窟内の壁面に仏像を刻んだもので、仏教史上から見れば原始的な手法と言わなければならない。仏教史上では早くから先行したのですが、姿を消すのも早かった様です。磨崖仏よりは寺院の仏像を拝む方に変化したわけです。平成の現在まで貴重な文化遺産が残ったのですが、これは地元民とか施政者(相馬氏)の厚い信仰心が有ったのです。但し、江戸期に起きた天明や天保の大飢饉時では、保護者も無く、荒れ果ててしまった様です。

中国の岩山には大きな字で「南無阿弥陀仏」等の赤字で彫られた仏語が見られますが(例えば、広州市の白雲山で仏教の聖地)あれは、悪戯書きでは有りません。そもそも岩に仏典を彫ったルーツは、往古に仏教に対する弾圧(法難が四度有ったと言う)が有って、仏典を忘れない様に岩に彫り付けたものと言われるのです。


大悲山薬師仏(地元ではその様に呼ぶ)の大悲山には、有名な「大蛇物語」も有る様です。また天台宗の開祖「最澄」と法論した、法相宗の「徳一」が、この地に来て磨崖仏を彫った等の伝承も有る様です。

私が想像するには、これを彫った者の財的な支援者は、藤原氏と関係のある渡来人達で有って、彫った工人も渡来人だったと思うのです。その目的は仏教に対する理解者でも有るが、蝦夷討伐に出征する者達への支援(鎮魂)だと思われるのです。この地域は、大和国家の前進基地でも有ったのです。

2008/6/29  7:15

福島県会津盆地の「伊佐須見神社」  日本文化史

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以前にもUPしたが、老妻の故郷は福島県会津地方(盆地)の西方に位置してる旧高田町(現在は美里とかに改称)で、ここには「伊佐須見神社」と呼ばれる古社が建っている。畿内地方の神社にも、負けず劣らず古そうで有る。そもそも会津と言う地名は、元は古事記に「相津」と有って、これが地名の由来だそうで有る。


古事記中巻の崇神天皇の項に依れば、「大毘古命は前に下された勅命に従い、越国の平定に出掛けて行った。そして東方の東海道に遣わせれた建沼河別は、その父の大毘古と相津(会津)で行き会った」と有る。(小学館発行日本古典文学古事記より)

古事記は、猿女の血を引く(卑弥呼の様なシャーマン)碑田阿礼と太安万侶のコンビで合作したもので、和銅5年(712年)に撰上されたと言う。このコンビは既に会津と言う東北地方の歴史的な地位をナニに依って知っていたのだろうか。天皇家の系譜を知る元ネタが有ったとしか思い無いのです。

江戸期に書かれた「新編会津風土記」に依れば、伊佐須見神社の創建は現在の旧高田町では無く、新潟県に近い地域(博士山付近とも)に有ったらしい。現在の位置に遷宮されたのは欽明天皇(552年)の頃だと言う。ここで思い出されるのは、中国の宋書に見える雄略天皇(武と言われる第21代天皇)の事跡で有る。

、、すなわち山川を跋渉して寧処にいとま有らず。東は毛人を征する事55ヶ国、西は衆夷を服すること66ヶ国、渡りて海北を平げること95ヶ国、王道融泰にして、、と有りますが、これは大和政権の軍事力を誇ったもので、大袈裟では有るかと思うのです。先ほどの、大毘古命と建沼河別との会津での親子再会とは符合するのだろうか。

何れにしても、伊佐須見神社は畿内地方に有る古社に比肩できる、古く立派な神社で有る事には違え無い様です。なおこの伊佐須見神社には「御田植え祭り」が有って(昼田植え)伊勢の「猿田彦神社」の田植え祭りとは相似形でも有る様です。旧高田町は老妻の実家であって、子供の頃には見物した事が有ると言うから色々と聞いて見るが、何せ60有余の春秋を重ねているから、記憶は定かでは無いと仰るのです。


伊佐須見神社については、新編会津風土記第4冊巻之七十五「大沼郡之四高田組」雄山閣昭和52年刊によった。

2008/6/28  6:24

中国の現代「偉人伝」  中国社会史

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写真は中国の「診察券」と言うべきもので「門診病歴本」と呼ばれるものです。「南柵王小強医院」の南柵とは地域を表し、王小強とはこの医院を作った者の姓名で有る。つまり王さんが作った医院の事で有る。

王小強氏は、広東省東莞市の南柵地域の出身者で改革開放の波に乗り、文房具等を生産する実業者として成功し、生まれ故郷にこの医院を設立したと言う。

医院の待合室には、石碑にその設立趣意書が刻字されている。(肖像も有った様な気がするが失念した)それによればこの村は極貧な村で、村人の多くは、その日の食事にも事欠く程で有ったらしい。従って、病気になっても医者に掛るお金も無く医者も居ない。死亡率(恐らく乳幼児とか老人かも知れない)も高く、村人は難儀していたそうで有る。こんな村にも医院を建て、村人に役にたちたいと言うのが王小強氏の願いで有ったそうです。

この村の出身者であった王小強は、早くから香港に出て文房具制作(バインダーから始めて現在は総合文具メーカー)の会社を設立して大成功をおさめたと言う。その文具会社は現在この医院の傍に工場が有り、2千人規模の従業員が居る様です。

この様な物語は故郷に錦を飾ったと言う、成功者の物語と言ってしまうのでは無く、真に偉人とも言うべきお話で有って、行いは神仏を超えていると思うのです。人は誰でも心の中には神仏は居るのだが、これを実行したのが素晴らしいのです。我々日本人も参考にすべきお話では無かろうか。こんなお話は、日本では久しく聞かないが、医療行政の参考の為に記して見た。

なお医院の規模は、面積4千平方メートルで8階建の総合病院の様です。医療機器としては、多くのものを備えていますが、その中に日立製の「B超診断儀」も備えて有ると書かれています。

2008/6/27  7:14

「商務印書館」と原亮三郎  日本と中国歴史

中国に留学とかビジネスで行った者は「商務印書館」が発行した書籍にお世話になった事が有ると思うのです。(現在は中国本土や台湾、シンガポール、マレーシア等にも有る)この商務印書館(上海に本社)とは日本人の「原亮三郎」と言う者が出資した事でも知られ、言わば日本人の息がかかった出版社で、日本人が誇りにしても良いのです。商務印書館が果たした学術的出版物の役割は、中国の近代化に大きく貢献したのです。

1902年(明治35年)に未だ清朝時代だった中国は、欧米に追い付けとばかりに全国に学校を設立したので有るが(公布)、学校で使用する教科書に目を付けたのが、当時日本の四大出版社の一つ「金港堂書籍株式会社」の原亮三郎で有った。これより前にアメリカ長老会の印刷所で働いたい者が、四人で共同出資して商業簿記等を扱っていたのです。商務の由来はここに有るわけです。つまり設立は中国人で有ったが、発展させたのは日本人の資本と協力で有ったのです。

さて原亮三郎は日中双方で50:50の割合で出資し、小学校用の教科書(国語とも)を出版したので有る。これがタイミング的にも良く大当たりし、以後の教科書販売は商務印書館の独占となったのです。これに気を良くした商務印書館は雑誌類(例えば東方雑誌とか教育雑誌)を始め、創作物や翻訳物等で大当たりして中国最大の出版会社に成長したので有る。魯迅は日本留学も有ったのですが、当時の中国知識人達にも思想形成上に大きな影響を与えて、先ほどの魯迅等は商務印書館発行の「天演論」によって開眼したと言われるのです。この頃の中国は日本を通じて西欧知識を学んでいるから、遣隋使や遣唐使(全ての授業料は砂金で払った)の時代とは逆になるわけです。

毛沢東の時代(一党独裁主義)に代わってからの出版物は「中華書店」に統一されたのですが、現在(改革開放政策以後)では到る所(各省)に出版社が有って、それぞれが質の良い書籍を出版している様です。日本の現代文学(例えば川端康成や芥川龍之介等々)や、古典文学類も見掛けます。問題が有るとすれば、日本の工学関係書の「ソックリさん」も見られる様です。ついでに言えば日本のアニメは殆どコピー品の様です。版権の問題は有るだろうが、中国の青少年に日本を理解する手段として、無断使用を認めるのは大いに結構かと思うのです。ODA等よりは効果的で有ろう。クレームをつけても版権の意味が理解し難いかも知れません。

商務印書館は現在でも中国本土でも活動していますし、台湾商務印書籍や東南アジアの華僑達にも見られる様です。台湾や東南アジアに出張したついでに書店を覘くと商務印書館発行の書籍が目に付きます。私の本棚にも「魏晋神仙道教」なる本が有って、これの発行所は、台湾商務印書館発行となっています。また「日本地名詞典」や「日本姓名詞典」等々は中国の商務印書館発行となっています。


商務印書館の事跡は「上海史資料業刊、上海公共租界史稿」の複写版によった。これに依れば、後に「辞源」は商務印書館が出版し、「辞海」は中華書店で出版したらしい。つまりライバルになった様です。

2008/6/26  7:15

今時の古本屋さん事情  日本文化史

小子高齢化社会の現出に伴っているのかどうかは知らないが、出版社や神田古本屋街等の売れ行きが活発ではないらしい。出版社の事情はよく知らないが、私が利用しているWEBの「日本の古本屋」さんや、懇意にしている旧知の古書店等からは殆ど悲鳴に近い声が聞こえて来るのです。

また県内の新刊書販売店等でも、明治時代から続く老舗の店が相次いで店仕舞いした話も有る様です。従って、新刊書を入手したければ東京まで出向いて購入する必要が有るのです。ついでに神田古書店を歩いてみても、若者よりは中高年の方が多い様が気が致しますし、昔よりは人影は少ない様です。若者達は神田古書店よりは、渋谷や新宿や秋葉原の旧電気街などに出来た遊楽街に流れているのでしょうか。ずっと昔の話だが秋葉原の電気街等は、電気(電子)少年の憧れの街で有って、そこに行って電気部品やジャンク物を漁ったもので有る。


現在の中国でも、旧秋葉原電気街に負けない大規模な電気街(デパート形式)が各地に見られます。最近の新聞だか何にかで、秋葉原は世界一の電気街と読んだ様な気がするが、それは中国の電気街を見た事が無い「戯言」で有って、中国の電気街を一見すれば、ない物は無い品物の豊富さにビックリするだろう。日本とは違え国土も広く、人口も多い中国では生産量の桁が違うのです。とっくの昔に日本の電気産業界は死んでいるのです。ただ品質に問題が有り、日本の模造品も多数有る事は確かです。

話は本屋さんから外れてしまったので元に戻すが、私の住む町にも「BOOKOFF」と呼ばれるチェーン店が出来て、ここは中古本や中古CD、DVD等を販売しているのです。ここは買取もしているから、これらの不用品の整理には便利でも有る様です。時々覗いてみるが神田古書店街で千円以上するものでも、たったの105円で売られている事も有る様です。知らぬ顔で買うのだが、古い本や汚れ破れた物は「レア本」と呼んで、買い手が無いそうで有る。喜ばれるのはコミック本だそうで、普通は店の半分程度を占有している。

要するに、この「BOOKOFF」の動向が、日本の本屋(古書、新刊書)さん事情を反映しているのかも知れません。義務教育は勿論の事大学に行っても、本を読まない買わない者が増えている事は確かな様です。専門書以外にも情操豊かにする為には、日本古典文学や世界古典文学等を読むべきでは有ろう。お茶の水大学教授の藤原正彦氏が嘆いていたが、現在の学生達に必要な事は、読書をして知らず知らずの中に人の生き様を学ぶ事が必要で有ろう。特に霞が関の官僚達は若い頃に受験勉強に忙しく、人生の何で有るかが忘れている様な気が致します。それが日本をダメにしているのでは無いのか。但し、AOLダイアリーに見られる「QMSS様」の様に、国際政治学教授として、広い視野を持ち的確な話題を提供している方もいますので、読書代わりに読んで見るのも良いだろう。

懇意の古本屋さんの話によれば、店仕舞いする本屋さんの在庫品を私が買わないと、貴重な古書の全てがゴミとして処分されてしまうから、財布が空になるまで引き取ってしまうと語ってくれたが、ゴミになれば日本の文化遺産が消滅してしまうわけです。さればと言っても、私が引き取る訳にも行かないから(我家も古書で埋まっている)困った世の中では有る様です。あれもこれも少子高齢化社会の現出と、若者の職場が狭まった事に遠因が有るのだろう。

成果主義とか勝ち組とか言う言葉は、もっとも悪い日本語で有って、日本をダメにする差別用語では無いのかと思うのです。八つ当たり気味では有るが、要するに読書を友としない日本の方向は向きが違う様です。中国人が驚く事に「日本人は読書好き」で有って、電車やバスの中でも本を読んでいる者が多いと話された。現在は乗り物の中で、化粧をしてる若い女性が多いのだが、それを見れば愕然とし言葉も出ないだろう。恥の文化等は何処に飛んでいったのだろう。

2008/6/25  7:40

相馬神社(茨城県旧藤代町)  日本文化史

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奥州相馬(福島県相馬地方)生まれの者は、何故こんな場所に「相馬」と名の付く神社が有るのか訝しげに思うかも知れない。世の中は刻一刻変化するのが歴史というもので、この地方は往古は、下総国の相馬と言われたのです。平成の大合併で残念ながら相馬と呼ぶ地域名は消滅してしまったのです。しかし、幸いな事に神社名としては、その傷痕を残してくれたのです。

相馬氏の祖は、鎌倉幕府開府の頼朝の功臣で有った千葉常胤の次男が、相馬御厨を伝領した事に始まるのだが、鎌倉時代末期になると北条得宗家(内管領長崎氏)の圧力に屈し、現在の福島県相馬地方に移住したのです。従って、写真でみる相馬神社の方がより相馬を名乗る事がふさわしいのです。東北地方には、鎌倉御家人の後裔と呼ばれる者達が多いのです。これは頼朝の、平泉藤原氏討伐での恩賞地として貰った為です。

現在は茨城県取手市に編入されてしまったが、旧名は北相馬郡相馬町と呼んだ事も有る様です。相馬氏の守り本尊は、北斗七星の妙見大菩薩なのですが、この神社にはそれらしい傷痕は無い様です。あくまでも地名に由来するのだろう。なおこの町は奥州(陸前)浜海道の宿場町でも有った様です。

蛇足
奥州相馬氏(他に下総相馬氏も有った)は、平将門の祖では有りません。奥州相馬氏の系図は10本以上もの種類が有る様ですが、将門にはつながりません。あくまでも千葉氏の一支流なのです。その千葉氏とは「国造家」だったのです。そこに都から流れて来た「桓武平氏」が貴種として入り婿になったと思うのです。

ただこの貴種説にも異論が有って、桓武天皇の第三子の葛原親王は「文徳実録」で確認出来るのですが、そのお子の高見王(無位無官)の存在が疑問視されるのです。平氏を名乗った最初は平高望なのです。

2008/6/24  7:35

日本の神々たち(阿波神社蔵版)  日本文化史

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「阿波神社」と有りますが、徳島県の阿波神社か、三重県の阿波神社かは良くわかりません。又はそれ以外にも有るのでしょうか。(阿波神社蔵版と有る)上段に「万民八重垣守護尊神」と書かれています。何れにしても我が日本国の皇祖神達の揃い踏みなので有ろう。

記紀の神代記を読むと、神は多勢おられるが大きく分けてみると「住居に関する神」、「自然界の現象に係わる神」、「生産に係わる神」等に分かれる様です。編纂者はシッカリとした構想を本にして書いた様です。日本の神々は記紀を原本にしているが、万世一系で有る事は誇りでも有り幸せな事かも知れません。

中国にも正史(二十五史)は有るけれど、王朝が滅びると次の王朝に仕える者が書いたもので、先代の悪行を書く事は憚られるから、曲筆が見られる様です。司馬遷の「史記」は曲筆は無いにしても、後代の者が加筆した部分がかなり有るとは中国人からお聞きしている。

掛軸の神の中心はには「天照皇大神」が書いて有るから、日本と言う国家は女性上位の国家だったのでしょうか。

2008/6/23  6:36

老子は孔子の先輩なのか  中国社会史

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以前に抱朴子の抱朴とは老子の「道徳経」から採用したのかも知れないと書いたが、これは「通行本第十九章」から引用したもので、通行本第十八章には、古来から有名な「大道廃れて仁義有り」が載っている。

既にご存じの様に、論語は「仁」を前面に押し出したもので、これは儒教の原点とも言うべき言葉では有るのです。「仁とは何か?」簡単に言うなら、他人に対する思いやりとか(愛情)、接する時に親切に対応する事を指すのだろう。この「仁」を、誰れにでも施せば殺伐とした現代の清涼剤にはなるのだろう。欧米流の「成果主義」を日本に持ち込み、知った被りで話す経済界の大立物を知っているが、神とか仏でも有るまいし、それが日本を悪くしている事に気付かない素振りで有る。成果主義ほど日本を悪くしたものは無いと断言しても良いだろう。もしも皆さんが部下をお持ちで有るならば、何を持って成果とするのか基準に困るだろう。会社等は協同で機能するもので有り、個人プレーでは無かろう。協同が有ってこそ公平が有るわけです。

さて孔子の後に続く者がいて、この仁を発展させ、仁の下に義を追加して「仁義」と言う考えを堤唱した者がいる。これが孟子である。すなわち「孔孟」と言えば儒教代表する思想家で有るわけです。仁義の無い戦いをしてるのが、現在の日本の姿では無いのかと思うのです。今時なんで「蟹工船」が売れるのか不思議でならなかったが、背景には労働者苛めが有ったのですね。

ここで司馬遷の史記に登場して貰うのだが、司馬遷によれば老子と孔子は同時代人の様に書かれているのです。孔子が弟子達に話すには「老子は竜の様な人だと」と語っているのです。先ほどの「仁義廃れて大道有り」とは、有名な老子の言葉で有るから、老子とは孔孟の後代に生まれていなければならないのです。後から生まれた者が先人の話を知っているのは理屈が合わないのです。つまり老子と言われる「道家」を提唱する一派の人々が、孔孟一派の上位に付く為の画策(攻撃)をしたので有ろう。

道教関係を読んでいるが、老子が書き残したと言う5000字有余の道徳経には、王道(皇帝)を目指した言葉や、他派への攻撃等が潜んでいる様です。老子達一派の目的とするのは「自然に帰れ」と言う事かも知れません。ただ老子の道徳経と言うのは、一言一言が格言にも満ちた宝庫かも知れません。私の好みで言うなら「老壮」の方が好きです。


老子道徳経は「王弼の注釈書」が有名で有るが、注釈書には更に注釈を付けないと理解は困難でも有る様です。注釈書に注釈書を付けると、新たに独立した生命を持つ様です。

2008/6/22  7:05

丸木舟(大宝八幡宮の宝物館所蔵品)  日本文化史

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丸木舟の本物を見たくなり、茨城県下妻市に有る「大宝八幡宮」に行って来た。世に八幡宮は数多いが、この八幡宮は関東地方では最古(大宝元年701年)を誇っていて、かっては平将門等も戦勝祈願をしたと言う。将門が巫女の宣託を受け親王の位についたのも、この八幡宮に住んだ巫女によるものだと言われる。

八幡宮の往古は四方(細長い)を沼に囲まれ(大宝沼)、あたかも浮島の如くで有ったらしく、守るに易く攻めるに難い場所では有ったらしい。従って南北朝時代には下妻氏が城を築き南朝方として忠節を尽している。

現在では長閑な田園地帯になっているが、かっては沼地で有ったから江戸時代後期の安政年間(1854年)に干拓工事が有って、その時に丸木舟が発見されたと言う。

現品を拝見すると、いわゆる丸太を刳りぬいた「刳舟」で、恐らく古墳時代後期のもので有ろう。木は「イトスギ」を使用し、長さ6.05メートル、幅58センチメートル有るから、想像していたより長いのです。底面は材料が丸木ですから平底です。(参拝のしおり)

驚くべきは舟の内外が精巧に削られている。写真は船尾の部分を強調して写したので有るが、かなり鋭利な刃物で削られているのが分かります。日本人は太古の昔から、腕に自慢の職人が居たのですね。職人さんは腕は勿論の事、工具を工夫したり大切に手入れするのです。工場でも工具を大切にしない者は、良い仕事が出来ないものです。

随分と昔の話では有るが、複雑な成形品の金型を、個人企業主に依頼する時は、一升瓶を下げて行き頼んだもので有る。頑固親父さんの工具の手入れとか保管状況を見れば、出来具合は満足すべきもので有ったのです。現在は、この頑固親父さんの様な職人技の持ち主が少なくなって、日本の産業も廃れてしまったわけです。

恐らく古墳時代にも、頑固親父さんの様な職人技の持ち主が居て、この様な立派な丸木舟を作ったので有ろう。工具は手斧(チョウナ)と言われるものを使用したかも知れない。


写真は茨城県「指定文化財」ですが、撮影は大宝八幡宮様から許可を得ています。良い仕事ぶりの作品を見れば、こころも満たされるのです。

2008/6/21  5:27

公開裁判と銃殺刑の現場を見て  中国社会史

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中国に滞在した者(1995年以前)で有れば、一般大衆の目の前で行われる「公開裁判と死刑現場」を見た事が有るかも知れない。否、話とか日本の新聞、雑誌、テレビ等では話題になった事は有るかも知れないが、実見した日本人はそう数が多くは無いだろう。最近、死刑に対する論評が見られる様だが、私にはその是非を問う資格や見識を持たないから、実見した事を虚実を混ぜず有りのまま話そうと思う。

場所:中国東鎮市々内の某中学校校庭
公開裁判と死刑現場期日:’95年8月18日(火)AM10.00(気温30度以上で暑い)
横断幕:赤地に黒字で「東莞市中級人民法審判大会」と有る。
被告者合計:34名(強盗殺人犯や窃盗犯)
死刑宣告者:15名(判決後10分以内に死刑執行)
見物人:約3000以上?(外来工が多い事業所は半強制的に参加)
周囲の警備状況:学校は小高い丘に有り、ライフル銃を手にした警備兵が多数見える。
臨時の裁判所:学校の正面玄関階段に赤い絨毯が敷かれている。
罪人の登場:新聞紙大の紙に名前が書かれ、胸に下げている被告人がトラックに乗せられて登場した。意味不明の凄い歓声が上がる。又、被告人の手や足には鎖が掛けれ、両脇には警護人が付き添っている。

裁判は被告人が横一列に並ばされると同時に、裁判官が登場し罪状を一人2分以内?で読み上げられた。その判決文の言え渡し合計は、一時間以内かと思われる。裁判所(正面玄関前)の特等席は街の老人達で占められ、青いビニールシートが敷かれ座っている。中国の裁判は、中級裁判所の判決(二審で終了する)で確定すると言う。もちろんこの裁判の前には、十分な審議を尽されていると思うのです。

死刑の判決が下った者は、グランド脇の広場(焼却炉が有る片隅)に直ちに引き立てられて行き、10分と経過しない内に銃殺刑が始まるのです。両足が地に付かず自ら歩けない者もいるし、昂然と胸を張って死につく者もいるが、殆どは立っていられない。

銃殺は目に黒い布で目隠しされ木に縛られ、銃殺隊が2名いて、10メートル以内からライフル銃で撃つ。パーンと言う乾いた音がすると同時に、生命は終わりを告げる。死体は傍らの草むらに両手を引きずられて積み上げられる。この日銃声が15発聞こえて15人の生命がこの世から消えた。目前で銃で撃たれ本当に人間が死ぬのです。

この時の公開裁判について公示したものが、写真の一部で有る。罪を犯し死んだ者にも人間としての尊厳が有り、外国人で有る私が、詳細を書くのは憚られるので一部分のみ公開する。公開文を読めば、死刑になった者は死刑に与えする重大な強盗殺人等を犯している様です。なおこの公開裁判の判決文は街の中でも見ることが出来ます。赤字のレ点印は確定の意味で有る。

公開裁判と公開死刑の目的は、犯罪を犯せばこの様な死刑になると言う意味が有るのだろう。なお銃殺刑を執行した者(ライフル銃を撃った者)は未だ10代の少年兵だった様な気が致します。有る日、彼等が集団で夜市を歩いている姿を目撃した事が有ります。童顔では有ったが、彼等の振る舞いはどこか涼しげで落ち着いている。何物にも動じない風で有る事に、恐れを感じた事を覚えている。


あれから月日は経ち、既に時効になっている白昼夢(真夏)の出来事では有った様ですが、殺人犯罪と死刑の関心が高まっている現在、おもい出して公開するものです。なおこの記事の転載流用等は固く禁じます。又、現在の中国では、公開裁判とか銃殺刑は有りません。

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