2006/10/6  20:42

ハイデガーとスピノザ  哲学
 公務でテュービンゲン・トゥールーズを回ってきた。死生学関係の若手中心のワークショップに参加するためで、若手でない私は一つ司会を務めただけ。生命倫理関係の発表などを聞くが、現在の問題なるものに対する世論のまさしくオピニオンの分布の調査結果が研究として提示されることに愕然とする。
 それはさておき、テュービンゲンの本屋で、刊行されたばかりのハイデガー全集の新たな巻を購入する。第23巻『トマス・アクィナスからカントまでの哲学史』。『存在と時間』公刊直前の、1926年から1927年の冬学期の講義録である。ハイデガー研究者でもない私が敢えて購入した理由はただ一つ、スピノザに関して30頁ほどの本格的な論述が含まれていたからである。
 ハイデガーが哲学史家として極めて目利きであったこと、またその哲学の多くの概念が古代哲学を初めとする哲学史上の様々な概念を換骨奪胎することから練り上げられていったものであることはよく知られているが、他方で、近世の哲学に関して言えば、デカルトとの批判的な対峙、ライプニッツへのより微妙な応接の陰で、スピノザに対する言及が殆ど見られないことは一つの謎であった。その間隙を縫うようにして、むしろ、ハイデガーの表面的な無言をスピノザの思考との「思考されなかった一致」(Jean-Marie Vaisse, Totalité et finitude, Vrin)と捉えて、ハイデガー・スピノザ間の真の遭遇を組織する仕事も既に出現してはいるが、いずれにしろ、ハイデガーがスピノザをどのように読んでいたのか、ということは、20世紀後半の哲学運動におけるスピノザの位置を考えると、多くの者が知りたかった主題ではある。
 現象学的存在論としての哲学に関する予備的考察を経て、トマス・アクィナス、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、ヴォルフ、クルジウスの順に講義は進められていく。各哲学者に関する論述は、その生涯・著作の紹介などから始まる基礎的なもので、例えばデカルトに関しては、『省察』を各省察ごとに比較的詳しく読解している点に興味を抱かせるが、基本的にはその内容に全集第17巻と比べても大きな違いはない。
 スピノザに関しては...かなり期待はずれなものであった。基本的には『エチカ』各部の祖述に費やされるのみで、当時の研究水準を考えてもそう目新しいことは述べられていない。敢えて言えば、個物に関する第一部定理25系「個物は神の属性の変状、言うなら神の属性が或る一定の仕方で表現される様態に他ならない」という一節に対し、欄外注記で「表現、ライプニッツ!」という書き込みがり、その読解の確かさを示しているとか、或いは、「附録」に収められた同じく欄外注記で、原因と自己原因概念に関して、スアレスからカントに至る概念史を辿っている、といったあたりが眼を引くだけである。
 速断はもちろん出来ないが、やはり、ハイデガー自身はスピノザとは真に出会うことはなかった、というのがテキスト的な事実であろう。但し、Vaisseの言うような「思考されなかった一致」を私たちが考えることは可能である、という留保付きにではあるが。
RSS1.0