2007/1/30  16:29

デュシャンの「泉」  文化・芸術
 既に日本でも報道されているようだが、デュシャンによるレディ・メイド作品「泉」(1917)――小便器のあれです――が、襲撃されたとのこと。
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 Les inrockuptibles, N°576 によると、1月9日までパリのポンピドウ・センターで開催されていた「ダダ展」に展示されていたこの記念碑的作品に、ニースの77歳のハプニング・アーティストが、金槌で傷を与えて取り押さえられた。このアーティストは、1993年にもニームの美術館で、同じ――と言ってもどのように同じなのか?――作品に対して、いわゆる「本来の」仕方で「使用」した後、金槌で一撃を加えていた。本人曰く、この作品を破損したのではなく、「本物・実物(original)」なものにすることによって、価値を高めたのだ、とか。裁判の一審では、3ヶ月の禁固刑(執行猶予付き)と修復費用の支払いが命じられた。問題は、その修復費用だが、この作品――同作品8点のうちの一つ――を1986年に230000フラン(日本円にして500万位か)で購入していたポンピドウ・センター側は、市場価格の高騰を考えると、その損害は200000ユーロ(3000万円位)になる、と見積もっているらしい。関係者によれば、小便器の価格自体は83ユーロ(1万円ちょっと)、そして、アーテイストは、ポンピドウ・センターに対して、同価格の小便器を引き渡した模様。
 お騒がせなアーテイストであることは事実だが、レディ・メイド作品の本質に関する問いを喚起するような行為としては大成功のパフォーマンスと言えないこともない。作品のオリジナルとは何かという問い、単なる小便器が制度としての美術館に置かれることによって作品となるということが如実に示している芸術なる制度への問い、等々を改めて浮き彫りにするものではある。3000万円もする小便器を美術館で鑑賞する、という行為がかなりグロテスクである、というのも事実だ。
 そう言えば、日本で2004年に「マルセル・デュシャンと20世紀美術展」が開催された際に、美学者の篠原資明が、この作品(Fountain)は、「泉」ではなく「噴水」と訳されるべきであり、そうしないと噴水との関わりのある「大ガラス」との関係も見えなくなる、という刺激的かつ挑発的な議論を展開していた(「「泉」は「泉」ではない マルセル・デュシャンの表題考」『朝日新聞』(関西版)2004年11月26日)。この作品と個人的な縁を長らく感じていた私はちょっとしたショックを受けたのだが、それはともあれ、今なお思考に刺激を与える「作品」であるのも事実のようだ。
[文章の乱れが酷かったので一部修正、1月31日記]

2007/1/28  4:07

Friction  音楽
 フリクションについて語る言葉を未だ持ち合わせていない。速度・切断・重さ・鋭さ・緊張感といった特質の共存と言っても何も語ったことにはならないだろうし、『ノー・ニューヨーク』的なダダ・ジャンクと惰性的なロックン・ロールの回帰の後での冒険等々、とロック史的に纏めるだけではあまり意味がないように思う。20数年前に出会って以来、ずっと魅了されてきたし、1995年の『Zone Tripper』には新鮮な驚きと共に、心から揺り動かされた。とにかく、言葉が足りなくて恥ずかしいが、何でこんなにカッコいいのだろう、としか言えないままに20数年が過ぎた。
 そのフリクションの二枚組ベスト盤『Friction Maniacs』と研究書・資料集・写真集『Friction The Book』(ライブ映像DVD付き、株式会社ブルース・インターアクション)が発売・刊行された。
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 前者は、Disk one がスタジオ篇、Disk two がライブ篇。選曲には色々と評価があるだろうが、コンピレーションアルバムへの提供曲(「Telegram Sam」(!)、「Puerto Rican Ghost」)や、未発表ライブ(何と「Communication Breakdown」(!)や最近の中村達也との3曲――「Fire」(!)がその一つ――)を含み、貴重。後者は、レックは勿論のこと、チコ・ヒゲから中村達也に至る歴代のメンバーへのインタヴュー、詳細な年譜や雑誌などの記事目録等の資料、様々な時期の写真、そして、様々な角度からの数多くの論考が並び、こちらも貴重。さらに、1978年から1981年の四つのライブを収めたDVDは今見ても新鮮だ。
 数多くの論考は、基本的には資料として興味深いものが多く、必ずしもその音そのものに切り込むものは多くないが――音そのものに関してはミュージシャンらへのインタヴューが多くのことを教えてくれる――、95年のディスク・ユニオンのブックレットでもその歌詞の魅力について論じていた沼田順の論考や監修者の河添剛によるレックの写真についての論考など、少し斜交いの論考が興味深い。同じく河添による力の籠もった別の論考も興味深いものではあったが、スピノザとフリクション・レックを結びつける刺激的な(はずの)論点の内実が今ひとつよくわからなかった。フリクション・レックの未完の運動を続けるその活動のあり方が目的なき過程としてのスピノザ主義であるのはいいとして、「思考とは身体の思考である」ことを教えてくれる「ロックンロール哲学者」スピノザが、フリクション・レックの音そのものとどのように繋がるのかを知りたいと思う。
 「Zone Tripper」のハードなリフを偏愛する私としては、個人的に、T-Rex やツェッペリンの楽曲を変形させるカヴァー曲――カヴァーと言えば、1989年頃のレパートリー、ヴェルヴェッツの「White Light/White Heat」を聞いてみたい――を聴くにつけ、リフについて再考を迫られる。それにしても、ここ最近のライブの音源は、中村達也の独特なドラムと相俟って、驚きであった。残念なことに、昨年の4月以降のライブは、いずれも都合がつかずに行けないでいる。次は必ずと思うし、新作が待ち遠しい。
[一部加筆、1月30日記]

2007/1/2  7:52

PANTA『CACA』  音楽
 我がアイドル PANTA の待望の新譜『CACA』がリリースされ、また幾つかライブも見たので、PANTAX'S WORLD について記す。
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 アルバム『CACA』が、PANTA の膨大にある未発表曲を宿便よろしく大放出するものであることは既に触れたが、ニューアルバムのリリースは2002年の『波紋の上の球体』以来、そして、それが今や「漣」と名づけられたアコースティック・ユニットによるものであったから、バンドを従えてのアルバムは、1991年の頭脳警察名義の『歓喜の歌』以来、さらにソロによるものは、1989年の『P.I.S.S.』以来である(PISS から CACA へ、ということか)。
 今回のアルバム、十数年待った甲斐のあるものだった。多くの曲は、ライブ等で聴いたことがあったが、CD の形でいつでも聴けるのはとても喜ばしいことだし、何よりも、PANTA を長い間支えてきたミュージシャンたちとドラムの Cherry によって結成された「陽炎」が作り出す音は今の PANTA に相応しく、また、声もよく出ている。そして、これまでのソロ名義のアルバムでは、ついつい飛ばしてしまうような捨て曲が混ざっていたようにも思うが、今回はさすがに膨大な曲の中から厳選されただけあって、それも少ない。さらに、今回は、普通のスタジオと異なり、何と歌舞伎町の風林会館にあったキャバレー跡地を録音場所に選び、普通のスタジオ録音とは異なる一発録りに近い形でのレコーディングが行われたとのことで――その模様は初回限定の DVD で見ることが出来る――、特に激しいナンバーに関して緊張感をもたらすいい効果をあげている。
 収められた曲のヴァラエティは、PANTAX'S WORLD の広がりをよく示す。以下、駆け足で見ておく。その世界の核心には、反・叛の姿勢と共に、ロックの初期衝動をそのまま体現するような激しさ(「やかましい俺の Rock め」)があると思うが、冒頭三曲(「MUSHUS〜ムシュフシュの逆襲」・「Melting Pot」・「Geard」)はその典型。しかし、それに留まらずに、バイク好きの PANTA の場合、これにメカへの偏愛が加わる。爆発寸前のマシーンの激しさが後二曲に体現されている。他方、アッシリア文明の神話から題名の取られた一曲目は、時折顔を見せる(「桃源郷」『頭脳警察3』・『マラッカ』――但し、東南アジアを舞台にしているのに曲はサンバ、というのが最近まで国外に出たことのなかった PANTA らしいが――・「おお詩人よ夕べが迫って」『波紋の上の球体』等々)古代文明や中近東・アジアへの関心が示されている。が、それだけでなく、この曲では北一輝のことが暗示されていて(「止まらない空の 北にひとつの輝きを見た」)、水晶の夜を主題とした1987年の『クリスタルナハト』や天皇制をモチーフとする一連の曲(「人間もどき」『走れ熱いなら』・『1980X』・「蝗が飛んだ」『P.I.S.S.』等々)と共に、20世紀現代史と一気に呼応する。現代史に関しては、「ナハト・ムジーク」『クリスタルナハト』・「Again & Again」『R・E・D』と共に三部作を構成する「Damascus〜ダマスカス」が、ユーゴからシリアまでの国際謀略の世界を暗示する。(これに、東京・新宿=メルティング・ポットという主題も加わる――「新宿A子バックレブギー」――。)
 現代史三部作は、しかし、長尺のとても美しいバラードである(微妙に異なるメロディ・ラインで、ちょっと聴いただけでは、どの曲かわからない)。これらの曲に示されているロマンティシズムも PANTA の魅力である。ユダヤ人が虐殺された水晶の夜、商店のショー・ウインドウのガラスが粉々に割れて水晶のように美しかった、という残酷な現実をこのようなバラードで歌うこと――ここには、PANTA の根っ子にあるヒューマニズムが現れているだろう――に対しては評価が分かれるところだとは思うが、「裸にされた街」『マラッカ』などと共に、心を揺さぶるものではある。この方面の曲が他に二曲、平岡正明の批判に対する反歌として考えてもいいような性愛をも歌った「Pas de deux」や「Dèmon de midi〜午後の悪魔」――但し、フランス語は誤植、Démon だろう。大体、PANTA のフランス語関係の表記には誤りが多すぎる。誰かチェックしたらいいのに――が収められている。
 さらに、PANTA には、彼独特のそれこそ変な・狂気に接したような世界がある。その集大成は1984年の『16人格』だが、他にも1998年のライブ『NakedII』に収められた「バクテリア」などがあり、今回で言えば「朝を呼ぶ男」がそれで、そう、日活ロマンポルノの幻想場面のバックに流れていてもいいような曲だ(「うらむらく」『波紋の上の球体』のメロディ・ラインもかなり変ではないか?)。これが、GS の匂いを感じさせるポップな「フライデーフライト」や「Cruisin'」と共存するのだから、不思議な人だ。
 他にもアメリカとの屈折を孕んだ関係(「J」――バンド・ヴァージョンになって、見違えるような曲になった――)、今回は表には出ていないが冒頭三曲に片鱗の現れている危機感の喚起、等々その世界の特質は他にもあるが、今日はこの位にしておこう。
 ニューアルバムを引っさげてのライブ(12月24日於初台ドアーズ、12月31日於幕張メッセ)も、期待以上の素晴らしいものだった。昨年の役者としての経験が、もともとあった演劇的感性(「前衛劇団"モータープール"」『頭脳警察3』・『頭脳警察 Music For 不連続線』等々)を開花させたのだろうか、オーヴァーアクション気味のステージは圧倒的な迫力であったし、「Countdown Japan 06/07」という大舞台では、今様の青春歌謡ににうつつを抜かしている若者にも大きな印象を与えたはずだ。初台のライブでは、アンコール代わりにピンスポットだけがあたった無人の舞台に、足立正夫監督の『幽閉者』でのブランキ役のヴォイスが流れて驚いたが、その公開はもうすぐとのこと。刮目して待ちたいと思う。[一部字句修正。1月3日記。一部修正。1月10日記。]
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