2007/6/29 15:10
「中野幹隆という未来」 哲学
哲学書房の中野幹隆さんが今年の1月に亡くなって半年が過ぎようとしている。編集者としての中野さんの優れた見識とその行動力、そしてこの国の――いやそれだけではない、例えばフーコーからデリダへの反論を引き出したのはまさに中野さんなのだから、このような限定はいらないかも知れない――哲学・思想の世界に与えた余りに大きな影響力に関しては、私如きが俯瞰するべくもない。どなたか適任の方が、『パイデイア』・『現代思想』・『エピステーメー』・『季刊 哲学』、そして哲学書房の数々の書籍、さらには数々の予告にほの見える無数の企画を初めとするその(未完の)お仕事の総体を俯瞰して未来につなげるような作業をされたらいいなあ、と思っていたところ、早くも7月から10月にかけて、中野さんが関わった書籍のフェアが開催される(「中野幹隆という未来――編集者が拓いた時代の切鋒」7月1日〜8月31日、ジュンク堂書店新宿店;9月10日〜10月9日、ジュンク堂書店池袋本店)。略歴や編集雑誌一覧、編集図書刊行年表などを纏めたリーフレットも用意されているとのこと。中野さんのお仕事の大きさを改めて発見するいい機会である。

(珠玉の雑誌群!!ちょっとピンぼけなので、いずれ差し替える予定。)
私事になるが、私が中野さんと初めてお会いしたのは、院生時代、黒崎政男さんや山内志朗さんが積極的に関わった『季刊 哲学』刊行の頃に、校正のお仕事をお手伝いしたときだったと思う。その後、坂部シューレの末端の一人としておつきあい下さった。「哲学史の大きな本を早く書いて下さらないと」と、いつも励まして下さったあの声が、今でも聞こえてくるようだ。最後にお会いしたのは、昨年の7月、お電話で声をお聞きしたのは確か9月だったと思う。中野さんとおつきあいのあった方が皆口を揃えて言うことだとは思うが、対話相手の考えていることの一番の核心を即座に掴んで、魅力的な作品へと結晶させるようにことを一気に運ぶ速度、そして哲学への愛に満ちあふれている方だった。葬儀の際に坂部先生が弔辞で述べておられたように、編集者の枠を越えてたとえば文筆家や評論家として活躍されることも十分可能だっただろうに、一編集者として黒子に徹しながら哲学・思想の世界に数知れぬインパクトを与えて来られた中野さんが最早この世におられないことは、私たちにとって大きな損失である。(同じく黒崎さんがそのお気持ちを率直に吐露された弔辞も感動的なものであった。)そして筆の遅さ故に、お約束を果たせなかったのが、心底悔やまれる。とはいえ、中野さんの精神=霊は私たちそれぞれにおいて未だ生きておられるのであって、その声を反芻しながら、中野さんに「これいいですね」と言って頂けるような作品を作ることこそが、その霊=精神に応えることになるだろう。
中野さんの雑誌編集者時代の仕事を知らない若い世代には特に、是非とも足を運んで欲しいと思う。(なお、文中で触れた坂部・黒崎両氏の弔辞は、小林康夫氏のそれと共に『水声通信』no. 16、2007年3月号に掲載されている。)[誤植等微修正、6月30日記。末尾括弧内を追加、他若干の微修正、7月17日記。]
(珠玉の雑誌群!!ちょっとピンぼけなので、いずれ差し替える予定。)
私事になるが、私が中野さんと初めてお会いしたのは、院生時代、黒崎政男さんや山内志朗さんが積極的に関わった『季刊 哲学』刊行の頃に、校正のお仕事をお手伝いしたときだったと思う。その後、坂部シューレの末端の一人としておつきあい下さった。「哲学史の大きな本を早く書いて下さらないと」と、いつも励まして下さったあの声が、今でも聞こえてくるようだ。最後にお会いしたのは、昨年の7月、お電話で声をお聞きしたのは確か9月だったと思う。中野さんとおつきあいのあった方が皆口を揃えて言うことだとは思うが、対話相手の考えていることの一番の核心を即座に掴んで、魅力的な作品へと結晶させるようにことを一気に運ぶ速度、そして哲学への愛に満ちあふれている方だった。葬儀の際に坂部先生が弔辞で述べておられたように、編集者の枠を越えてたとえば文筆家や評論家として活躍されることも十分可能だっただろうに、一編集者として黒子に徹しながら哲学・思想の世界に数知れぬインパクトを与えて来られた中野さんが最早この世におられないことは、私たちにとって大きな損失である。(同じく黒崎さんがそのお気持ちを率直に吐露された弔辞も感動的なものであった。)そして筆の遅さ故に、お約束を果たせなかったのが、心底悔やまれる。とはいえ、中野さんの精神=霊は私たちそれぞれにおいて未だ生きておられるのであって、その声を反芻しながら、中野さんに「これいいですね」と言って頂けるような作品を作ることこそが、その霊=精神に応えることになるだろう。
中野さんの雑誌編集者時代の仕事を知らない若い世代には特に、是非とも足を運んで欲しいと思う。(なお、文中で触れた坂部・黒崎両氏の弔辞は、小林康夫氏のそれと共に『水声通信』no. 16、2007年3月号に掲載されている。)[誤植等微修正、6月30日記。末尾括弧内を追加、他若干の微修正、7月17日記。]
2007/6/14 8:28
Journées d'étude franco-japonaise 2 哲学
日本のデカルト研究の歴史にとっては、こちらの意義の方が大きいかも知れない。6月11日と12日、ディジョンのブルゴーニュ大学において、デカルトをめぐる日仏合同の院生中心の研究セミナーが開催された。
日本側からは、大西克智(パリ第一大学)、津崎良典(パリ第一大学、大阪大学)、曽我千亜紀(名古屋大学)、竹中利彦(京都大学)、沢崎壮宏(京都大学)の五人が報告し、(予め送られてあった)彼らの報告内容に対してフランス側の院生レベルの若い研究者が(これまた予め準備してきた)コメント・反論を報告し、議論を行った。まさしくデカルトの「反論と答弁」の精神に適う企画であるが、このような実質的な討議が日仏の研究者同士の間で集中的に行われたことはなかったし、また、このような相互批判の場は、個人主義的雰囲気の色濃いフランスにおいても珍しいために、後で聞くところによれば、フランス側の参加者にとっても好評だったらしい。
このような企画が実行に移され、成功裡に終了するには、村上さんのご尽力やカンブシュネル教授のお人柄と情熱、さらには、(アグレガシオンの試験期間という)忙しい中、自らが発表するわけでもないのに、ディジョンまで来てくれてセミネールに付き合ってくれたフランス側の教授クラスの研究者(例えば、Kim Sang Ong-Van-Cung, Thiery Gonthier)らの厚意、そして、ブルゴーニュ大学での開催を支えてくれたゲナンシア教授(Pierre Guenantia)のお人柄と熱意が必要であった。しかし、それだけでなく、日本側の若い研究者の実力があってこそのことだろう。フランス語の巧みさには驚くばかりであったし、その報告それ自体も、それぞれにオリジナリティをもったテーゼを提出するものであった。
懐疑の展開の内実を「第四省察」の側から照射し、そこに機能している知性と意志との共働のありさまを詳細に分析することを通して、デカルト的な自由の新たな姿を浮かび上がらせる大西報告、デカルトの道徳論の核心にある魂の生きられた「修練」の次元を、そこにおいて主題化される真理との関係で詳細に解明する津崎報告、デカルト研究においても難問として指摘されることの多い心身合一を、『規則論』以来の想像力概念の特殊な位置づけから解明する曽我報告、デカルト哲学における感覚的な経験の意義の諸相を特にその生理学に焦点をあてながら解明し、「自然の設定」という問題の重要性を浮かび上がらせた竹中報告、デカルトの認識論の重要性を、現代英米の心の哲学における「命題的態度」に関する議論と交差させることによって解明し、デカルトの真理概念と構文論的な仕方で定式化される真理概念との関係性という問題を提起することになった沢崎報告、いずれも、フランス側の若い研究者に、全て理解されたり、受け入れられるとは限らなかったものの、むしろ、双方において展開された激しい議論がかえって、今回のセミナーの充実した内容を示していた。
以前、このブログでも触れたとおり、フランス哲学をフィールドとする日本の哲学者が、単なる「批評家でも観客でもなく」、舞台に上って演じる演技者になることは、現在において重要な課題である。そのような課題に対して十分に答えるような若い研究者が、デカルト研究において数多く誕生しつつあることを喜ぶとともに、そのような機会を設定された、村上・カンブシュネルの両教授に深い敬意を示したい。《 larvati prodent 》
[アクサン等修正、そして沢崎さんの名前を訂正。沢崎さん御免なさい。6月24日記。]
日本側からは、大西克智(パリ第一大学)、津崎良典(パリ第一大学、大阪大学)、曽我千亜紀(名古屋大学)、竹中利彦(京都大学)、沢崎壮宏(京都大学)の五人が報告し、(予め送られてあった)彼らの報告内容に対してフランス側の院生レベルの若い研究者が(これまた予め準備してきた)コメント・反論を報告し、議論を行った。まさしくデカルトの「反論と答弁」の精神に適う企画であるが、このような実質的な討議が日仏の研究者同士の間で集中的に行われたことはなかったし、また、このような相互批判の場は、個人主義的雰囲気の色濃いフランスにおいても珍しいために、後で聞くところによれば、フランス側の参加者にとっても好評だったらしい。
このような企画が実行に移され、成功裡に終了するには、村上さんのご尽力やカンブシュネル教授のお人柄と情熱、さらには、(アグレガシオンの試験期間という)忙しい中、自らが発表するわけでもないのに、ディジョンまで来てくれてセミネールに付き合ってくれたフランス側の教授クラスの研究者(例えば、Kim Sang Ong-Van-Cung, Thiery Gonthier)らの厚意、そして、ブルゴーニュ大学での開催を支えてくれたゲナンシア教授(Pierre Guenantia)のお人柄と熱意が必要であった。しかし、それだけでなく、日本側の若い研究者の実力があってこそのことだろう。フランス語の巧みさには驚くばかりであったし、その報告それ自体も、それぞれにオリジナリティをもったテーゼを提出するものであった。
懐疑の展開の内実を「第四省察」の側から照射し、そこに機能している知性と意志との共働のありさまを詳細に分析することを通して、デカルト的な自由の新たな姿を浮かび上がらせる大西報告、デカルトの道徳論の核心にある魂の生きられた「修練」の次元を、そこにおいて主題化される真理との関係で詳細に解明する津崎報告、デカルト研究においても難問として指摘されることの多い心身合一を、『規則論』以来の想像力概念の特殊な位置づけから解明する曽我報告、デカルト哲学における感覚的な経験の意義の諸相を特にその生理学に焦点をあてながら解明し、「自然の設定」という問題の重要性を浮かび上がらせた竹中報告、デカルトの認識論の重要性を、現代英米の心の哲学における「命題的態度」に関する議論と交差させることによって解明し、デカルトの真理概念と構文論的な仕方で定式化される真理概念との関係性という問題を提起することになった沢崎報告、いずれも、フランス側の若い研究者に、全て理解されたり、受け入れられるとは限らなかったものの、むしろ、双方において展開された激しい議論がかえって、今回のセミナーの充実した内容を示していた。
以前、このブログでも触れたとおり、フランス哲学をフィールドとする日本の哲学者が、単なる「批評家でも観客でもなく」、舞台に上って演じる演技者になることは、現在において重要な課題である。そのような課題に対して十分に答えるような若い研究者が、デカルト研究において数多く誕生しつつあることを喜ぶとともに、そのような機会を設定された、村上・カンブシュネルの両教授に深い敬意を示したい。《 larvati prodent 》
[アクサン等修正、そして沢崎さんの名前を訂正。沢崎さん御免なさい。6月24日記。]
2007/6/14 7:28
Journées d'étude franco-japonaise 1 哲学
去る6月9日に、デカルト研究センター(パリ・ソルボンヌ大学)とパリ第一大学共催の研究集会「日仏共同研究:デカルトの解釈者スピノザ:『デカルトの哲学原理』」に参加してきた。日本に帰った後では、また仕事に追われてゆっくりと報告が出来そうもないので、パリを発つ寸前の今、報告してしまおう。プログラムは以下の通り。
Journée d'étude franco-japonaise, 《 Spinoza interprète de Descartes : les Principia Philosophiae Cartesianae 》
9 h 30. M. Fichant, J.-L. Marion, D. Kambouchner : Ouverture de la journée
9 h 45. Pierre-Francois Moreau (ENS-LSH/UMR 5037): 《 D'une seule vue ainsi qu'en un tableau 》
10 h 15. Izumi Suzuki (Tokyo): 《 Degrés de réalité 》 et puissance. Remarques sur Principia... I, 7, scolie
10 h 45. Discussion. Pause.
11 h 30. Chantal Jaquet (Paris I): Erreur et privation dans les Principia ... I, XV
12 h 00. Katsuzo Murakami (Univ. Toyo, Tokyo): Les preuves de l'existence des corps et le statut de l'imagination
12 h 30. Discussion
Buffet.
14 h 30. Denis Kambouchner (Paris I): La correction des preuves de Dieu
15 h 00. Michio Kobayashi (Kyoto): Causalité cartésienne et causalité spinoziste
15 h. 30. Discussion.
16 h Frédéric Manzini (Paris IV) : Reliqua desiderantur. Sur les Principia, III
16 h 30. Discussion générale
スピノザの著作の中でも比較的研究文献の少ない『デカルトの哲学原理』を素材に、デカルトとスピノザの思索の関係を問うというのが基本的な主題。日本からは村上勝三(東洋大学)、小林道夫(京都大学)の日本を代表するデカルト学者に加えて、私も話した。今回の企画は、パリ第一大学のカンブシュネル教授が最終的には立案・実行されたものだが、日仏合同の研究集会になったのは、小林さんに加えて、特に以前からカンブシュネル教授と親交の深い村上さんのご尽力が大きい。数年前にカンブシュネル教授を日本にお呼びして以来、今度はフランスで共同研究を行おうということになっていたのが、ようやく結実したのである。私はどういうわけかその尻馬に乗ることが出来た。



(Fabien Chareix氏提供。但し、まだ本人の許可は取っていない。)
全体として稔り多い学会だったと思う。フランス側からは、現在のフランスでのスピノザ研究を代表するモロー、ジャケの両氏、デカルト研究者としてカンブシュネル教授などが報告を行った。『デカルトの哲学原理』の文体・叙述形式を分析しながら、そこに見てとれる経験のありようや戦略を引き出すモローの報告は、その大著『スピノザ。経験と永遠』の著者に相応しいブリリアントなものであった。カンブシュネル教授の発表は、私も扱った、二つめの神の実在のアポステオリな証明に対するスピノザの批判・訂正の意味をデカルトの側から論じ直すものだったが、いつものごとく早口だったので、とても全てを追うことは出来なかったものの、自存性(aseitas)概念を巡ってのデカルトの議論(「第二答弁」だったか?)に「第二の誇張法」(?)を見て取るところなど、彼らしい斬新な読みを示していた。他方、小林さんは、ご自身永年のテーゼを『デカルトの哲学原理』にぶつけてデカルトの本来的な主張を浮かび上がらせた。村上さんは、これまで正当な位置づけの与えられてこなかったデカルトにおける想像力の位置づけを、デカルトとスピノザそれぞれにおける「物体の実在証明」の対比を通して、詳細かつ鮮明に浮かび上がらせるもの。これは今後もかなりの評判を呼ぶのではないか。私は、カンブシュネル教授と同じく『デカルトの哲学原理』第一部定理七を、但しスピノザの側から分析し、デカルトの証明に対してスピノザの与えた批判・変更を少し細かく考察して、デカルト哲学の核心に潜んでいる力能(potentia)概念が『デカルトの哲学原理』においては消え去り、『エチカ』において浮上する意味を考えることを通して、デカルト/スピノザの思索の抗争の中心を浮かび上がらせるようとした。発表寸前までテーゼが固まらなかったりして、フランス語に関してパリ在住の若い友人に手伝ってもらうというていたらくだったが、発表自体は大過なく終えることが出来たし、幾つか重要なコメントをもらうことも出来たので、まあ何とか責務は果たすことが出来たようには思う。(発表でも参照したCharles Ramondと知り合えたのも収穫の一つか。但し、ものすごく鼻息の荒い人だった。)
いずれにしろ、日本のデカルト研究の歴史の中で、時代を画するような一つの出来事であったのは疑いもない。フランス語が自在に扱えて、もっと十分に議論出来るようになっていたら、という思いは残るものの、次の世代の諸君が既に新たな道を切り開きつつあることを、このコロックに続く数日目撃することになった。その件は、エントリーを改めて報告したい。(この項続く)[写真追加、6月25日。]
Journée d'étude franco-japonaise, 《 Spinoza interprète de Descartes : les Principia Philosophiae Cartesianae 》
9 h 30. M. Fichant, J.-L. Marion, D. Kambouchner : Ouverture de la journée
9 h 45. Pierre-Francois Moreau (ENS-LSH/UMR 5037): 《 D'une seule vue ainsi qu'en un tableau 》
10 h 15. Izumi Suzuki (Tokyo): 《 Degrés de réalité 》 et puissance. Remarques sur Principia... I, 7, scolie
10 h 45. Discussion. Pause.
11 h 30. Chantal Jaquet (Paris I): Erreur et privation dans les Principia ... I, XV
12 h 00. Katsuzo Murakami (Univ. Toyo, Tokyo): Les preuves de l'existence des corps et le statut de l'imagination
12 h 30. Discussion
Buffet.
14 h 30. Denis Kambouchner (Paris I): La correction des preuves de Dieu
15 h 00. Michio Kobayashi (Kyoto): Causalité cartésienne et causalité spinoziste
15 h. 30. Discussion.
16 h Frédéric Manzini (Paris IV) : Reliqua desiderantur. Sur les Principia, III
16 h 30. Discussion générale
スピノザの著作の中でも比較的研究文献の少ない『デカルトの哲学原理』を素材に、デカルトとスピノザの思索の関係を問うというのが基本的な主題。日本からは村上勝三(東洋大学)、小林道夫(京都大学)の日本を代表するデカルト学者に加えて、私も話した。今回の企画は、パリ第一大学のカンブシュネル教授が最終的には立案・実行されたものだが、日仏合同の研究集会になったのは、小林さんに加えて、特に以前からカンブシュネル教授と親交の深い村上さんのご尽力が大きい。数年前にカンブシュネル教授を日本にお呼びして以来、今度はフランスで共同研究を行おうということになっていたのが、ようやく結実したのである。私はどういうわけかその尻馬に乗ることが出来た。
(Fabien Chareix氏提供。但し、まだ本人の許可は取っていない。)
全体として稔り多い学会だったと思う。フランス側からは、現在のフランスでのスピノザ研究を代表するモロー、ジャケの両氏、デカルト研究者としてカンブシュネル教授などが報告を行った。『デカルトの哲学原理』の文体・叙述形式を分析しながら、そこに見てとれる経験のありようや戦略を引き出すモローの報告は、その大著『スピノザ。経験と永遠』の著者に相応しいブリリアントなものであった。カンブシュネル教授の発表は、私も扱った、二つめの神の実在のアポステオリな証明に対するスピノザの批判・訂正の意味をデカルトの側から論じ直すものだったが、いつものごとく早口だったので、とても全てを追うことは出来なかったものの、自存性(aseitas)概念を巡ってのデカルトの議論(「第二答弁」だったか?)に「第二の誇張法」(?)を見て取るところなど、彼らしい斬新な読みを示していた。他方、小林さんは、ご自身永年のテーゼを『デカルトの哲学原理』にぶつけてデカルトの本来的な主張を浮かび上がらせた。村上さんは、これまで正当な位置づけの与えられてこなかったデカルトにおける想像力の位置づけを、デカルトとスピノザそれぞれにおける「物体の実在証明」の対比を通して、詳細かつ鮮明に浮かび上がらせるもの。これは今後もかなりの評判を呼ぶのではないか。私は、カンブシュネル教授と同じく『デカルトの哲学原理』第一部定理七を、但しスピノザの側から分析し、デカルトの証明に対してスピノザの与えた批判・変更を少し細かく考察して、デカルト哲学の核心に潜んでいる力能(potentia)概念が『デカルトの哲学原理』においては消え去り、『エチカ』において浮上する意味を考えることを通して、デカルト/スピノザの思索の抗争の中心を浮かび上がらせるようとした。発表寸前までテーゼが固まらなかったりして、フランス語に関してパリ在住の若い友人に手伝ってもらうというていたらくだったが、発表自体は大過なく終えることが出来たし、幾つか重要なコメントをもらうことも出来たので、まあ何とか責務は果たすことが出来たようには思う。(発表でも参照したCharles Ramondと知り合えたのも収穫の一つか。但し、ものすごく鼻息の荒い人だった。)
いずれにしろ、日本のデカルト研究の歴史の中で、時代を画するような一つの出来事であったのは疑いもない。フランス語が自在に扱えて、もっと十分に議論出来るようになっていたら、という思いは残るものの、次の世代の諸君が既に新たな道を切り開きつつあることを、このコロックに続く数日目撃することになった。その件は、エントリーを改めて報告したい。(この項続く)[写真追加、6月25日。]
2007/6/14 6:20
Anselm Kiefer au Grand Palais 文化・芸術
デカルト・スピノザに関する学会・研究会・会議でフランスとドイツに滞在している合間を縫って、一つだけ展覧会を見ることが出来たので、その報告。(学会と研究会に関しては、すぐに別のエントリーで報告する。)

20世紀後半から21世紀にかけての美術家の中でも、少し前に日本でも大きな展覧会のあったゲルハルト・リヒターとアンゼルム・キーファーが巨大な存在であることは衆目の一致するところだろう。1945年生まれであるからまだまだ現役のキーファーは、現在フランスに居を据えて活動しているらしいが、現在、パリのグラン・パレ(Grand Palais)で大規模な展覧会が開催されている(Nef du Grand Palais, 7月8日まで)。大規模と言っても回顧展のようなものではなく、グラン・パレの大きな建物を毎年一人の芸術家に委ねて、未聞の経験を創出することを目指すという、モニュメンタ展の第一弾(来年はリチャード・セラ、再来年はボルタンスキーということらしいから、独米仏の順番でのなかなかの企画である)。体育館のように、ないしは大聖堂のように大きな会場は、天井が高く、光が降り注ぐが、光あふれるがらんどうの空間に七つの小部屋が据えられ、その中にキーファーお馴染みの大きなタブローと、ときに併せて小屋のようなものが配置される。そして、ちょうどその真ん中に、これまたお馴染みの焼けこげた書物や瓦礫が大量にバラかまれている。廃墟・瓦礫と光。展覧会は 《 Sternen fall 》(星々の墜落)と題されているが、まさしくベンヤミンを思い起こさせるインスタレーションである。
七つの小部屋はそれぞれ次のように題される。1. 霧の国(Nebelland); 2. シダの秘密(Geheimnis der Farne); 3. 銀河(La voie lactée); 4. 地は開かれる(Aperatur Terra); 5. 夜の果てへの旅(Voyage au Bout de la Nuit); 6. 星々の墜落; 7. 枝の主日(Palmesonntag)。Ingeborg Bachmann, パウル・ツェラン、『イザヤ書』、セリーヌ、カバラ等々への参照が明白である。植物の繁茂、書物の主題、聖書とカバラ、難破船、廃墟、といった主題が提示されるが、ショアーの問いも含めて、その壮大な神話的な体系を読み解くだけの余裕も資格もない。かつてのスキャンダラスな雰囲気は背景に退きながらも、廃墟と希望といった主題に関して極めて大きな世界を展開しているのは確かである。カバラの部屋の手前にあのセリーヌの部屋が据えられていることなどなかなかに意味深くはないだろうか。大部のカタログ(Paul Ardenne et Pierre Assouline, Anselm Kiefer Sternenfall : Grand Palais, Paris, Editions du Regard)など参考になりそうである。
20世紀後半から21世紀にかけての美術家の中でも、少し前に日本でも大きな展覧会のあったゲルハルト・リヒターとアンゼルム・キーファーが巨大な存在であることは衆目の一致するところだろう。1945年生まれであるからまだまだ現役のキーファーは、現在フランスに居を据えて活動しているらしいが、現在、パリのグラン・パレ(Grand Palais)で大規模な展覧会が開催されている(Nef du Grand Palais, 7月8日まで)。大規模と言っても回顧展のようなものではなく、グラン・パレの大きな建物を毎年一人の芸術家に委ねて、未聞の経験を創出することを目指すという、モニュメンタ展の第一弾(来年はリチャード・セラ、再来年はボルタンスキーということらしいから、独米仏の順番でのなかなかの企画である)。体育館のように、ないしは大聖堂のように大きな会場は、天井が高く、光が降り注ぐが、光あふれるがらんどうの空間に七つの小部屋が据えられ、その中にキーファーお馴染みの大きなタブローと、ときに併せて小屋のようなものが配置される。そして、ちょうどその真ん中に、これまたお馴染みの焼けこげた書物や瓦礫が大量にバラかまれている。廃墟・瓦礫と光。展覧会は 《 Sternen fall 》(星々の墜落)と題されているが、まさしくベンヤミンを思い起こさせるインスタレーションである。
七つの小部屋はそれぞれ次のように題される。1. 霧の国(Nebelland); 2. シダの秘密(Geheimnis der Farne); 3. 銀河(La voie lactée); 4. 地は開かれる(Aperatur Terra); 5. 夜の果てへの旅(Voyage au Bout de la Nuit); 6. 星々の墜落; 7. 枝の主日(Palmesonntag)。Ingeborg Bachmann, パウル・ツェラン、『イザヤ書』、セリーヌ、カバラ等々への参照が明白である。植物の繁茂、書物の主題、聖書とカバラ、難破船、廃墟、といった主題が提示されるが、ショアーの問いも含めて、その壮大な神話的な体系を読み解くだけの余裕も資格もない。かつてのスキャンダラスな雰囲気は背景に退きながらも、廃墟と希望といった主題に関して極めて大きな世界を展開しているのは確かである。カバラの部屋の手前にあのセリーヌの部屋が据えられていることなどなかなかに意味深くはないだろうか。大部のカタログ(Paul Ardenne et Pierre Assouline, Anselm Kiefer Sternenfall : Grand Palais, Paris, Editions du Regard)など参考になりそうである。
