2007/9/29 17:48
種明かし 音楽
ひょんなことから知り合った友人の誘いによって、50人がそれぞれ大好きなアルバム50枚を選出して公表するという試みに参加することが出来た(『THE DIG』50号記念特別付録「MY FAVORITE ALBUM 50」シンコー・ミュージック・エンターテイメント、9月29日発売)。
50枚を選ぶのはなかなか難しいし、音楽に順位をつけるというのは好ましくないので、1ミュージシャンないしは1ユニット1枚という制限をつけた上で、しりとりないしは連想ゲームのように数珠繋ぎにして50枚を選んでみた。但し、1枚目と50枚目だけは我がアイドルのかつてのバンドと現在も継続中のユニットから選んで設定した。半分遊びだが、興味のある方は、出来れば購入の上ご覧下さると幸いである。(そのPANTA や レックも50枚を選んでいるから、お買い得だろう。)
さて、その詳細は実際に見て頂くとして、しりとりないしは連想ゲームに関して、無粋かも知れないが少しだけ種明かしをしておこう。ベタなものや秘密のものまであるので、全てを明かすことは避けたいし、誰にでもわかるもの(たとえば、01→02のマーク・ボランつながり、09→10の「悪魔を憐れむ歌」つながり、ましてや49→50等々、他にはプロデューサーつながりやタンゴつながりなど)には敢えて触れる必要もないだろう。
16→17は段ボールつながり(これもベタでくだらないか)。
19→20は夏つながり。ブリジット・フォンテーヌは、冷たい声で「夏、夏」と歌うのだったが、四人囃子の「おまつり」は終わりつつある夏の歌である。
34→35は猫つながり。(というか、35で歌っている梶芽衣子のことを挙げたかっただけだ。)
36→37には、どういうわけか同じ曲のカヴァーが含まれている(但し、36のそれは解体され尽くしているが)。
37→39はご飯つながり。(これもくだらない。)
こう書いてくると、我ながら駄洒落が過ぎたようにも思われ気恥ずかしいが、しりとりのおかげで結構広がりのあるリストが出来上がったのも事実。なお、リフとジャケットの美しさにも注意を払ったのだけれど、四枚だけ小さく掲げられたジャケットは、偶然だが共通点があって、偶然が必然に転化するという事実にちょっと驚いた。好きなものを示すというのは恥ずかしい行為だとは思うが、趣味判断を提示することによる連帯ということもある。[ちょっと加筆、10月2日記]



50枚を選ぶのはなかなか難しいし、音楽に順位をつけるというのは好ましくないので、1ミュージシャンないしは1ユニット1枚という制限をつけた上で、しりとりないしは連想ゲームのように数珠繋ぎにして50枚を選んでみた。但し、1枚目と50枚目だけは我がアイドルのかつてのバンドと現在も継続中のユニットから選んで設定した。半分遊びだが、興味のある方は、出来れば購入の上ご覧下さると幸いである。(そのPANTA や レックも50枚を選んでいるから、お買い得だろう。)
さて、その詳細は実際に見て頂くとして、しりとりないしは連想ゲームに関して、無粋かも知れないが少しだけ種明かしをしておこう。ベタなものや秘密のものまであるので、全てを明かすことは避けたいし、誰にでもわかるもの(たとえば、01→02のマーク・ボランつながり、09→10の「悪魔を憐れむ歌」つながり、ましてや49→50等々、他にはプロデューサーつながりやタンゴつながりなど)には敢えて触れる必要もないだろう。
16→17は段ボールつながり(これもベタでくだらないか)。
19→20は夏つながり。ブリジット・フォンテーヌは、冷たい声で「夏、夏」と歌うのだったが、四人囃子の「おまつり」は終わりつつある夏の歌である。
34→35は猫つながり。(というか、35で歌っている梶芽衣子のことを挙げたかっただけだ。)
36→37には、どういうわけか同じ曲のカヴァーが含まれている(但し、36のそれは解体され尽くしているが)。
37→39はご飯つながり。(これもくだらない。)
こう書いてくると、我ながら駄洒落が過ぎたようにも思われ気恥ずかしいが、しりとりのおかげで結構広がりのあるリストが出来上がったのも事実。なお、リフとジャケットの美しさにも注意を払ったのだけれど、四枚だけ小さく掲げられたジャケットは、偶然だが共通点があって、偶然が必然に転化するという事実にちょっと驚いた。好きなものを示すというのは恥ずかしい行為だとは思うが、趣味判断を提示することによる連帯ということもある。[ちょっと加筆、10月2日記]
2007/9/2 16:24
大西巨人『地獄篇三部作』 本
『未完結の問い』において話題とされていた大西巨人唯一の未発表の小説『地獄篇三部作』(光文社)が刊行された。

出版までの経緯などはかなり複雑である。既に『精神の氷点』新版(みすず書房、2001年)「おくがき」において『地獄篇三部作』のことは触れられていたが、それがどのような内容のものであるかは不明であった。『未完結の問い』においても、三部作をなすというその小説の構成は明かされていなかった。本書の第一部「笑熱地獄」――『未完結の問い』における表記は『笑熱』――は、『近代文学』に掲載予定だったが、同同人らの要請によって掲載・発表取り止め、第二部「無限地獄」は『白日の序曲』の題名で『近代文学』(1948年12月号)に掲載後、改造社版『精神の氷点』(1949年)に収められた後、連環体長編小説『地獄変相奏鳴曲』(講談社、1988年)の第一楽章として刊行、第三部「驚喚地獄」は未発表。そして、「この小説(『地獄篇三部作』)の、やや長い「前書き」(文中敬称略)」(以下「前書き」)によれば、『近代文学』同人らも含めて、『近代文学』向けに構想された三部作の第二部が「白日の序曲」であることは知らされていなかった。「白日の序曲」と題された短編小説は「約六十年ぶりに本来の場所を占有し得た」のであり、未発表原稿『地獄篇三部作』が初めて刊行されたことになる。(このことによって、『地獄変相奏鳴曲』は、解体され、そこに含まれていた残り三篇は「各独立の小説」となった。だから、古本で高値のついている同書は再刊されなかったのか。)
以上の経緯はかなり奇妙なものである。『未完結の問い』と本書「前書き」に触れられている『近代文学』における「笑熱地獄」掲載・発表取り止めもそうだけれども、それ以上に、『地獄篇三部作』が未発表原稿と呼ばれている、というそのことである。大西巨人は、未発表原稿が「小説に一つ(四百字詰め原稿用紙約三百枚)」あり、それが本書であると述べているが、第一部130枚――もともとは約90枚――、第二部150枚強、第三部7枚弱といったところだから、少なくとも半分以上を第二部が占めるのであって、読者は『地獄篇三部作』の半分以上の部分を既に読んでいたことになる。だが、それを含めて大西巨人は未発表原稿と呼び、三部作全体を一つの小説と呼んでいる。
第二部「無限地獄」=「白日の序曲」は、主人公税所の、戦時中から続く強烈なニヒリズム(「喪失の砂漠」)と戦後におけるそこからの脱出・克服の兆しとを、澄江と瑞枝という二人の女性との性愛との関わりにおいて描くもの、と一般には纏めることが出来るだろう。そして、可憐な澄江の生命を、実質的には虫けらのようにして奪ったことに対する恥と罪の意識からの回復には、そこに屈辱と絶望とが記されてはいても、いい気なものだ、或いは、第二部冒頭に掲げられることになったエピグラフの言葉を借りれば、「綜合」に至る前の「否定」の深さが足りない、というような評価も含めて、様々な判断があるだろう。だが、――第三節のエピグラフの位置の変更だけではなく――本書第二部に収められることによって、次のような変化が生じた。まず第一に、第二部冒頭に、「≪『白日の序曲』――『コメディ・リテレール』一九四八年九月号所載の小説≫」という一文がゴチックで加えられることによって、私たちがこれまで読んできた「白日の序曲」が『地獄篇三部作』における小説内小説となった。第二部「無限地獄」はこの一文を含めて一つの全体を構成する。そして、そのように記されている以上、「白日の序曲」は、第一部「笑熱地獄」において、芸術創造と「芸術創造主体の一大重要属性」たる「芸術家的愛我心・名誉心・利己心」、さらには「民主主義革命への(作家としての)主体的参加」との間で煩悶する作家「大螺狂人」の手になる作品となる。そして、第三部「驚喚地獄」は、「白日の序曲」に対する批評の引用――村正黒鳥や大森秀雄による批評は、対応する批評家による批評からの引用なのか、とついつい「卑近・蛇足的」に思ってしまうが、後者の全集第八巻を見る限りは単なるパスティーシュのよう。但し、『コメデイ・リテレール』という雑誌名など、よく考えられたものであることもわかる――と、その批評のうち好意的な箇所だけを抜き取った出版元を同じくする雑誌所載の「近刊予告」から成立している。これらが総体として『地獄篇三部作』を構成する。かなり手の込んだメタ・フィクションである。もはや「白日の序曲」を素朴には読むことが出来ない(その発表月も実際とは3ヶ月ずれている)。
こういった仕掛けを考えた場合、第一部で堕罪修や泣村死一郎等々が登場することなどは、それ自体は大したことではないし、そのような試みはもっと壮大な規模でもって『三位一体の神話』において試みられて、<文学的独立小宇宙の仮構性>を理解しないこの国の私小説的風土に衝撃を与えると共に、愚かな反応を引き起こしたのだった。メタ・フィクションとしての三部作という総体から見た『地獄篇三部作』。当初の構想がそのまま現実に移されて、今回出版されたのかどうかはわからないが、出版をめぐる茶番劇をも示す第一部と批評を先回りして封じるような意地の悪い第三部、そして、それらに挟まれることによって評価の難しくなった「白日の序曲」を含む第二部、これら三部作としての『地獄篇三部作』は、60年前のメタ・フィクション作家としての大西巨人に関して大きな謎を投げ掛けるものだ。
50年もの間ずっと取っておいた詩をもとに暴力的な作品―――『新潮』連載の『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』、「第四章 「アナベル・リイ映画」無削除版」はちょっと凄い。「「赤」の誘惑」どころの話ではない。もうすぐ発売の『新潮』10月号で完結するらしいが待ち遠しい――を提示する大江健三郎にも触れたいが今日はここまで。
出版までの経緯などはかなり複雑である。既に『精神の氷点』新版(みすず書房、2001年)「おくがき」において『地獄篇三部作』のことは触れられていたが、それがどのような内容のものであるかは不明であった。『未完結の問い』においても、三部作をなすというその小説の構成は明かされていなかった。本書の第一部「笑熱地獄」――『未完結の問い』における表記は『笑熱』――は、『近代文学』に掲載予定だったが、同同人らの要請によって掲載・発表取り止め、第二部「無限地獄」は『白日の序曲』の題名で『近代文学』(1948年12月号)に掲載後、改造社版『精神の氷点』(1949年)に収められた後、連環体長編小説『地獄変相奏鳴曲』(講談社、1988年)の第一楽章として刊行、第三部「驚喚地獄」は未発表。そして、「この小説(『地獄篇三部作』)の、やや長い「前書き」(文中敬称略)」(以下「前書き」)によれば、『近代文学』同人らも含めて、『近代文学』向けに構想された三部作の第二部が「白日の序曲」であることは知らされていなかった。「白日の序曲」と題された短編小説は「約六十年ぶりに本来の場所を占有し得た」のであり、未発表原稿『地獄篇三部作』が初めて刊行されたことになる。(このことによって、『地獄変相奏鳴曲』は、解体され、そこに含まれていた残り三篇は「各独立の小説」となった。だから、古本で高値のついている同書は再刊されなかったのか。)
以上の経緯はかなり奇妙なものである。『未完結の問い』と本書「前書き」に触れられている『近代文学』における「笑熱地獄」掲載・発表取り止めもそうだけれども、それ以上に、『地獄篇三部作』が未発表原稿と呼ばれている、というそのことである。大西巨人は、未発表原稿が「小説に一つ(四百字詰め原稿用紙約三百枚)」あり、それが本書であると述べているが、第一部130枚――もともとは約90枚――、第二部150枚強、第三部7枚弱といったところだから、少なくとも半分以上を第二部が占めるのであって、読者は『地獄篇三部作』の半分以上の部分を既に読んでいたことになる。だが、それを含めて大西巨人は未発表原稿と呼び、三部作全体を一つの小説と呼んでいる。
第二部「無限地獄」=「白日の序曲」は、主人公税所の、戦時中から続く強烈なニヒリズム(「喪失の砂漠」)と戦後におけるそこからの脱出・克服の兆しとを、澄江と瑞枝という二人の女性との性愛との関わりにおいて描くもの、と一般には纏めることが出来るだろう。そして、可憐な澄江の生命を、実質的には虫けらのようにして奪ったことに対する恥と罪の意識からの回復には、そこに屈辱と絶望とが記されてはいても、いい気なものだ、或いは、第二部冒頭に掲げられることになったエピグラフの言葉を借りれば、「綜合」に至る前の「否定」の深さが足りない、というような評価も含めて、様々な判断があるだろう。だが、――第三節のエピグラフの位置の変更だけではなく――本書第二部に収められることによって、次のような変化が生じた。まず第一に、第二部冒頭に、「≪『白日の序曲』――『コメディ・リテレール』一九四八年九月号所載の小説≫」という一文がゴチックで加えられることによって、私たちがこれまで読んできた「白日の序曲」が『地獄篇三部作』における小説内小説となった。第二部「無限地獄」はこの一文を含めて一つの全体を構成する。そして、そのように記されている以上、「白日の序曲」は、第一部「笑熱地獄」において、芸術創造と「芸術創造主体の一大重要属性」たる「芸術家的愛我心・名誉心・利己心」、さらには「民主主義革命への(作家としての)主体的参加」との間で煩悶する作家「大螺狂人」の手になる作品となる。そして、第三部「驚喚地獄」は、「白日の序曲」に対する批評の引用――村正黒鳥や大森秀雄による批評は、対応する批評家による批評からの引用なのか、とついつい「卑近・蛇足的」に思ってしまうが、後者の全集第八巻を見る限りは単なるパスティーシュのよう。但し、『コメデイ・リテレール』という雑誌名など、よく考えられたものであることもわかる――と、その批評のうち好意的な箇所だけを抜き取った出版元を同じくする雑誌所載の「近刊予告」から成立している。これらが総体として『地獄篇三部作』を構成する。かなり手の込んだメタ・フィクションである。もはや「白日の序曲」を素朴には読むことが出来ない(その発表月も実際とは3ヶ月ずれている)。
こういった仕掛けを考えた場合、第一部で堕罪修や泣村死一郎等々が登場することなどは、それ自体は大したことではないし、そのような試みはもっと壮大な規模でもって『三位一体の神話』において試みられて、<文学的独立小宇宙の仮構性>を理解しないこの国の私小説的風土に衝撃を与えると共に、愚かな反応を引き起こしたのだった。メタ・フィクションとしての三部作という総体から見た『地獄篇三部作』。当初の構想がそのまま現実に移されて、今回出版されたのかどうかはわからないが、出版をめぐる茶番劇をも示す第一部と批評を先回りして封じるような意地の悪い第三部、そして、それらに挟まれることによって評価の難しくなった「白日の序曲」を含む第二部、これら三部作としての『地獄篇三部作』は、60年前のメタ・フィクション作家としての大西巨人に関して大きな謎を投げ掛けるものだ。
50年もの間ずっと取っておいた詩をもとに暴力的な作品―――『新潮』連載の『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』、「第四章 「アナベル・リイ映画」無削除版」はちょっと凄い。「「赤」の誘惑」どころの話ではない。もうすぐ発売の『新潮』10月号で完結するらしいが待ち遠しい――を提示する大江健三郎にも触れたいが今日はここまで。
