2007/12/31 23:49
2007年の収穫幾つかと新刊紹介 分類なし
昨年も同じようなことを書いていたが、本年(2007年)の回顧のようなものをしたいものの、頂き物すら全てを読むには至っていないので、とてもその資格はない。それでも敢えて挙げれば、哲学畑では何と言っても『坂部恵集』(岩波書店)全五巻の完結が喜ばしい出来事であったが、他には、このブログでもメモをアップした市田良彦『ランシエール 新<音楽の哲学>』(白水社)が圧倒的な印象を残した。また、論文だけれども、先日紹介し、もうすぐ刊行される『ドゥルーズ/ガタリの現在』(平凡社)の編集作業の過程において(いまだ面識のない)平井玄「ドゥルーズ/サイード――音楽の飛翔力と重力」(同書所収)を読むことが出来たのもまた喜ばしいことだった。小説では、大江健三郎のの『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(新潮社)にとどめを刺す。これに関しては、『新潮』最新号所収の蓮実重彦のそれを含めて、また納得の行く評論を読んではいない。そして、そのつながり(?)で言うと、四方田犬彦『先生とわたし』(新潮社)については今なお考えるところがある。由良先生の若いときの研究論文を纏めてコピーして読まなければと思いつつ既に長い時間が経ってしまった。
音楽に関しては、数多くのライヴのあった我がアイドルのことは別にするなら、『ZONE TRIPPER』の件のみならず、10数年ぶりにようやっと二度もライヴを見ることの出来たFRICTIONのことを考えながら過ごした一年だった。FRICTIONとの再会ないしはそれを機縁にして生じた出来事を通して考えたこと・刺激を受けたことは無数にあるが、これは、私なりの哲学を展開する中で明らかにしていきたいと思う。
後は、ペースを元に戻して新刊紹介。
ドゥルーズに関しては、次の二点。
Deleuze et les écrivains. Littérature et philosophie, sous la direction de Bruno Gelas et Hervé Micolet, Nabtes, Editions Cécile Default, 2007.
Derrida, Deleuze, Psychoanalysis, edited by Gabriele Schwabe, New York, Columbia University Press, 2007.
前者は、フランスにおいて一足早く刊行された大部の論文集(42人が寄稿、600頁弱)。主立ったところを挙げるだけでも、Raymon Bellour, Philippe Mengue, Jean-Clet Martin, Eric Alliez, Stéfan Leclerque, Chrisitine Buci-Glucksmann, Jacques Rancière(!), Claude Imbert, François Zourabichvili(!)等々と、勢揃い。後者の方が、資料としては重要だろう。デリダ-ドゥルーズ関係については既に研究書があるけれども、本書は、それを精神分析との関係に絞っているのみならず、デリダその人の本格的な講演(2002年4月、カリフォルニア大学)原稿「ドゥルーズによる人間の超越論的「愚鈍」と動物への生成変化(The Transcendental " stupidity " ( " Bêtise ")of Man and the Becoming-Animal According to Deleuze)」が収められているからである。デリダその人によるドゥルーズに関する言及は少ない――例えば、思いつく限りで挙げれば、« La différance » (Marges de la philosophie, Paris, Les éditions de Minuit, 1972) と追悼文 « Gilles Deleuze (1925-1995). Il me faudra errer tout seul » (Chaque fois unique, la fin du monde, Paris, Galilée, 2001)――以上、これは貴重だろう。
17世紀関係では次の二点。
Lichtgefüge des 17. Jahrhunderts. Rembrandt und Vermeer ―― Leibniz und Spinoza, München, Wilhelm Fink Verlag, 2008.
Tammy Nyden-Bullock, Spinoza's Radical Cartesian Mind, New York/London, Continuum, 2007.
前者は目次を眺めただけだが、17世紀哲学を考える際の隠れた光源になるはずの光学や光のメタファーとスピノザ・ライプニッツ・レンブラント・フェルメールとの関係を扱う論文集だから、非常に面白そう。特に、ドゥルーズとセールの弟子で、ドゥルーズもその名をライプニッツ論やスピノザ論の中で引いていた Yvonne Toros がスピノザ論を寄せているのに注目。後者は、オランダの急進派デカルト主義者=デカルト左派を背景にスピノザ哲学を読もうとするものだが、『神学政治論』のみならず、スピノザの認識論をもここから読もうとしている点で興味深そうだが、スピノザ思想全体をデカルト主義の完成形態とする解釈を提起しているようだから、ちょっと怪しい。
最後に、以前このエントリーでも触れた ピエール・モンテベロの新著が届いた。
Pierre Montebello, Nature et subjectivité, Grenoble, Millon, 2007.
これも未読だが、ニーチェ、ベルクソン、ハンス・ヨナスなどを扱いながら、主観性・生ける身体・宇宙の微妙な関係を解き明かすという、これまでの仕事の集大成のようなものか。いづれ報告することにしたい。
もうすぐ新年なので、今日はここまで。
音楽に関しては、数多くのライヴのあった我がアイドルのことは別にするなら、『ZONE TRIPPER』の件のみならず、10数年ぶりにようやっと二度もライヴを見ることの出来たFRICTIONのことを考えながら過ごした一年だった。FRICTIONとの再会ないしはそれを機縁にして生じた出来事を通して考えたこと・刺激を受けたことは無数にあるが、これは、私なりの哲学を展開する中で明らかにしていきたいと思う。
後は、ペースを元に戻して新刊紹介。
ドゥルーズに関しては、次の二点。
Deleuze et les écrivains. Littérature et philosophie, sous la direction de Bruno Gelas et Hervé Micolet, Nabtes, Editions Cécile Default, 2007.
Derrida, Deleuze, Psychoanalysis, edited by Gabriele Schwabe, New York, Columbia University Press, 2007.
前者は、フランスにおいて一足早く刊行された大部の論文集(42人が寄稿、600頁弱)。主立ったところを挙げるだけでも、Raymon Bellour, Philippe Mengue, Jean-Clet Martin, Eric Alliez, Stéfan Leclerque, Chrisitine Buci-Glucksmann, Jacques Rancière(!), Claude Imbert, François Zourabichvili(!)等々と、勢揃い。後者の方が、資料としては重要だろう。デリダ-ドゥルーズ関係については既に研究書があるけれども、本書は、それを精神分析との関係に絞っているのみならず、デリダその人の本格的な講演(2002年4月、カリフォルニア大学)原稿「ドゥルーズによる人間の超越論的「愚鈍」と動物への生成変化(The Transcendental " stupidity " ( " Bêtise ")of Man and the Becoming-Animal According to Deleuze)」が収められているからである。デリダその人によるドゥルーズに関する言及は少ない――例えば、思いつく限りで挙げれば、« La différance » (Marges de la philosophie, Paris, Les éditions de Minuit, 1972) と追悼文 « Gilles Deleuze (1925-1995). Il me faudra errer tout seul » (Chaque fois unique, la fin du monde, Paris, Galilée, 2001)――以上、これは貴重だろう。
17世紀関係では次の二点。
Lichtgefüge des 17. Jahrhunderts. Rembrandt und Vermeer ―― Leibniz und Spinoza, München, Wilhelm Fink Verlag, 2008.
Tammy Nyden-Bullock, Spinoza's Radical Cartesian Mind, New York/London, Continuum, 2007.
前者は目次を眺めただけだが、17世紀哲学を考える際の隠れた光源になるはずの光学や光のメタファーとスピノザ・ライプニッツ・レンブラント・フェルメールとの関係を扱う論文集だから、非常に面白そう。特に、ドゥルーズとセールの弟子で、ドゥルーズもその名をライプニッツ論やスピノザ論の中で引いていた Yvonne Toros がスピノザ論を寄せているのに注目。後者は、オランダの急進派デカルト主義者=デカルト左派を背景にスピノザ哲学を読もうとするものだが、『神学政治論』のみならず、スピノザの認識論をもここから読もうとしている点で興味深そうだが、スピノザ思想全体をデカルト主義の完成形態とする解釈を提起しているようだから、ちょっと怪しい。
最後に、以前このエントリーでも触れた ピエール・モンテベロの新著が届いた。
Pierre Montebello, Nature et subjectivité, Grenoble, Millon, 2007.
これも未読だが、ニーチェ、ベルクソン、ハンス・ヨナスなどを扱いながら、主観性・生ける身体・宇宙の微妙な関係を解き明かすという、これまでの仕事の集大成のようなものか。いづれ報告することにしたい。
もうすぐ新年なので、今日はここまで。
2007/12/27 17:04
『ドゥルーズ/ガタリの現在』 哲学
小泉義之・檜垣立哉の両氏と編者に名を連ねた『ドゥルーズ/ガタリの現在』がお正月明けに刊行される。30数人の論者によるドゥルーズ/ガタリを巡る論文集(平凡社、2008年1月10日刊行、本体価格5800円)。720頁(!)、凶器にも成りかねない厚さと重さである。私は、「ドゥルーズ/ガタリの研究・活用の現在」という報告を寄せているに過ぎないが、今後のドゥルーズ/ガタリ活用に大きな刺激を与える論文集になったと思う。本論文集の目論見については、「後書きに代えて」をお読み頂きたい。高い本だが、それだけの値打ちのあることがわかると思う。

(先ほど届いた見本。厚い!)
(先ほど届いた見本。厚い!)
2007/12/23 4:24
「ファンシー・ヤンキー・ベイビー問題」研究についての覚書 音楽
2007年7月16日付けのエントリー「Friction at Liquid Room(前置き)」において、私は次のように書いた。
「長渕剛や尾崎豊と遠藤賢司はどこで違うのかという「長渕問題」・「尾崎問題」として考えたこともあった。「B'z問題」や「Love Psychedelico問題」等々と置き換え可能。微妙だが「Char問題」もある。」これは、「ロックの何が魅力的であり、そこにどんな意義があって、個々のミュージシャンの魅力がどこにあるか」を考えるための問いである。つまり、一見するとロックに近いかも知れないが、ロックとは似て非なる音楽の特質をネガとして取り出すことによって、ロックの魅力を考えるための問いである。勿論、ロックの魅力を本質主義的に取り出しても意味はないが、そこにはなにがしかの家族的類似――家族の成員が、特定の本質を共有しているのではないにしても、類似しているということ――を見ることが出来るだろうから、それを取り出すための補助的な作業のための問いに他ならない。
この問いに対して、簡単な整理をしておきたい。まず、サンプルとなる問題群を列挙しよう。
長淵問題、尾崎問題。これらは、かつての若者に蔓延していた、もしかしたら今でも蔓延している病気に関する問題である。かつて知り合った少なからぬ学生がこの病気に罹患していた。少し遅い自我の目覚めとともに、世の中に対する反抗の気分をもった若者が、長渕剛や尾崎豊を聞くようになっていたように思う。そして、彼らの音楽を聞くことによって、自らの弱さを埋め合わせていた、というのが診断である。但し、比喩的に言うが、そのヴィールスの作用の仕方は異なり、長渕剛の場合は、自らの音楽やその姿勢に寸分の疑いももたないマッチョ的な強さに憧れてしまうようであり、尾崎豊の場合には、弱さをさらけ出す、傷つく姿に同一化することによって慰めを与えられているようである。以上は、症状に関する通俗的な分析だが、これに加えて、その音や歌詞の分析がなされねばならない。比較の項は、差し当たり、アコギ一本でとてつもない世界を作り上げている遠藤賢司がいいだろう。
B'z問題、Love Psychedelico問題。こちらは微妙である。B'zもLove Psychedelicoも、一般にはロックの一つに数え挙げられる。B'sは、たとえ売り上げ枚数によるのだとしても、ロックの殿堂入りを果たしてしまったし、朝日新聞に毎月掲載されている今月の<ベストアルバム>のような企画では、なんと小倉エージがその最新作を挙げている。また、Love Psychedelicoに関しては、これまたなんと中村とうようが一時期惚れ込んでいた。だが、前者に関しては、ロック好きの誰もが言うことだが、周りにそのCDを所有している者が見つからない、という謎を抱えている。もしかしたら、皆所有しているが、恥ずかしくてそれを隠しているだけなのかも知れない。私は、正直に言うが、今後研究対象として購入する予定はあるものの、一枚も所有していない。ロック好きからは認められていないロックの殿堂入りミュージシャン。そして、数少ないTV等での視聴によると、とても二度と聞く気の起こらない体のものであった。後者に関しては、数枚所有しているが、TVでのライヴを見て、その偽物性を強く感じ、購入した過去を深く恥じた。また、信頼できる友人が生のライヴを見たところ、そのペラペラな内容に驚愕したとのことである。それでは、これらの音楽と、私が魅力を感じるロックとの違いは何か。類似の問題として、アルフィー問題もある。研究しなければならない。
Char問題。こちらはさらに微妙である。中学生の頃ギター小僧であった私は、ご多分に漏れず、チャーのファンであり、Pink Cloud等を初め、かなりのCDを所有しており、かつ、今なおファースト・アルバムは愛聴盤ですらある。また、PANTAのCDに参加したことも二度ほどあり、「屋根の上の猫」を初めとするそのギターは大好きである。だが、以前、四人囃子とのジョイント・ライヴを見て以来、様々な疑問をもつようになっている。これは、単なる嗜好の問題だろうか。
ミッシェル・ガン・エレファント問題。ミッシェルに関しては、ロックバンドであることを疑う者はいないし、私もそれなりにCDを所有している。だが、最後まで、このバンドに共鳴することはなかった。同時期に活動し始めたものの、ミッシェルほどメジャーにはならなかったギターバンド The Groovers に関しては、心から共鳴しているにもかかわらずである。この違いは何だろうか。
以上の問題群は、すべて同じ地平にあるわけではないし、これを解き明かすことは、もしかしたら、私にとってのロックの魅力を示すことに過ぎないのかも知れない。しかし、そこから何かが明らかになりそうな予感もある。
まず、ミッシェル・ガン・エレファント問題について、少しだけ考えてみよう。直感的に言って、私が苦手なのは、そこに含有されている<ヤンキー度>の高さである。矢沢永吉から横浜銀蠅に至る<ヤンキー>的な感覚が私には耐えられない。或る若い友人の報告によれば、ミッシェルのライヴでは、「ゴッド・ファーザーのテーマ」が流される中メンバーが登場するらしいが、この事実は、その音そのものが含有する<ヤンキー度>以上に、このバンドのもっていた<ヤンキー度>の高さを示してあまりあるものである。それでは、<ヤンキー度>とは何であり、それはロックとどのような関係にあるのか。このあたりから研究を始めよう。
この点に関しては、「世の中の9割はヤンキーとファンシーでできてる」という根本敬の言葉を念頭に置きながら、<ヤンキー>と<ファンシー>に関する日々の観察を怠らず、深い思索を繰り広げた故ナンシー関の研究がまずもって参照されるべきである(引用は、町山広美との対談『隣家全焼』(文春文庫、2001年)からのもの)。彼女にならって、矢沢永吉から横浜銀蠅、さらにはバクチクからX-JAPANに通底する何かを、仮に<ヤンキー>と<ファンシー>と呼ぶとして、その特質を解明しなければならないだろう。それを知性の欠如・幼稚性・ナルシシズム等々と纏め上げるだけでは不十分である。「かわいい」という表現にも通底するようなその特質は何か。それが「世の中の9割」にも蔓延しているのはどうしてか。そして、それはロック・ミュージックとはどのような関係を有しているのか。<ヤンキー>と<ファンシー>とが、ミッシェルの音楽の全部を覆い尽くしているわけでは勿論ないが、その含有度の高さが直感的には理解出来るだけに、そこから見えてくることも大きいだろう。(他方で、例えば四方田犬彦の『「かわいい」論』(ちくま新書、2006年)の分析を批判的に捉え返すことが出来るかも知れない。)この問いを「ファンシー・ヤンキー・ベイビー問題」と名付けて分析を進めよう。(なお、以上の内容は、12月19日から20日にかけて開催されたとある研究会における討論を踏まえたものである。問題の命名者を含む研究会の参加者各位に深く感謝したい。この項続く。が、いつになるかは全く不明です。)
「長渕剛や尾崎豊と遠藤賢司はどこで違うのかという「長渕問題」・「尾崎問題」として考えたこともあった。「B'z問題」や「Love Psychedelico問題」等々と置き換え可能。微妙だが「Char問題」もある。」これは、「ロックの何が魅力的であり、そこにどんな意義があって、個々のミュージシャンの魅力がどこにあるか」を考えるための問いである。つまり、一見するとロックに近いかも知れないが、ロックとは似て非なる音楽の特質をネガとして取り出すことによって、ロックの魅力を考えるための問いである。勿論、ロックの魅力を本質主義的に取り出しても意味はないが、そこにはなにがしかの家族的類似――家族の成員が、特定の本質を共有しているのではないにしても、類似しているということ――を見ることが出来るだろうから、それを取り出すための補助的な作業のための問いに他ならない。
この問いに対して、簡単な整理をしておきたい。まず、サンプルとなる問題群を列挙しよう。
長淵問題、尾崎問題。これらは、かつての若者に蔓延していた、もしかしたら今でも蔓延している病気に関する問題である。かつて知り合った少なからぬ学生がこの病気に罹患していた。少し遅い自我の目覚めとともに、世の中に対する反抗の気分をもった若者が、長渕剛や尾崎豊を聞くようになっていたように思う。そして、彼らの音楽を聞くことによって、自らの弱さを埋め合わせていた、というのが診断である。但し、比喩的に言うが、そのヴィールスの作用の仕方は異なり、長渕剛の場合は、自らの音楽やその姿勢に寸分の疑いももたないマッチョ的な強さに憧れてしまうようであり、尾崎豊の場合には、弱さをさらけ出す、傷つく姿に同一化することによって慰めを与えられているようである。以上は、症状に関する通俗的な分析だが、これに加えて、その音や歌詞の分析がなされねばならない。比較の項は、差し当たり、アコギ一本でとてつもない世界を作り上げている遠藤賢司がいいだろう。
B'z問題、Love Psychedelico問題。こちらは微妙である。B'zもLove Psychedelicoも、一般にはロックの一つに数え挙げられる。B'sは、たとえ売り上げ枚数によるのだとしても、ロックの殿堂入りを果たしてしまったし、朝日新聞に毎月掲載されている今月の<ベストアルバム>のような企画では、なんと小倉エージがその最新作を挙げている。また、Love Psychedelicoに関しては、これまたなんと中村とうようが一時期惚れ込んでいた。だが、前者に関しては、ロック好きの誰もが言うことだが、周りにそのCDを所有している者が見つからない、という謎を抱えている。もしかしたら、皆所有しているが、恥ずかしくてそれを隠しているだけなのかも知れない。私は、正直に言うが、今後研究対象として購入する予定はあるものの、一枚も所有していない。ロック好きからは認められていないロックの殿堂入りミュージシャン。そして、数少ないTV等での視聴によると、とても二度と聞く気の起こらない体のものであった。後者に関しては、数枚所有しているが、TVでのライヴを見て、その偽物性を強く感じ、購入した過去を深く恥じた。また、信頼できる友人が生のライヴを見たところ、そのペラペラな内容に驚愕したとのことである。それでは、これらの音楽と、私が魅力を感じるロックとの違いは何か。類似の問題として、アルフィー問題もある。研究しなければならない。
Char問題。こちらはさらに微妙である。中学生の頃ギター小僧であった私は、ご多分に漏れず、チャーのファンであり、Pink Cloud等を初め、かなりのCDを所有しており、かつ、今なおファースト・アルバムは愛聴盤ですらある。また、PANTAのCDに参加したことも二度ほどあり、「屋根の上の猫」を初めとするそのギターは大好きである。だが、以前、四人囃子とのジョイント・ライヴを見て以来、様々な疑問をもつようになっている。これは、単なる嗜好の問題だろうか。
ミッシェル・ガン・エレファント問題。ミッシェルに関しては、ロックバンドであることを疑う者はいないし、私もそれなりにCDを所有している。だが、最後まで、このバンドに共鳴することはなかった。同時期に活動し始めたものの、ミッシェルほどメジャーにはならなかったギターバンド The Groovers に関しては、心から共鳴しているにもかかわらずである。この違いは何だろうか。
以上の問題群は、すべて同じ地平にあるわけではないし、これを解き明かすことは、もしかしたら、私にとってのロックの魅力を示すことに過ぎないのかも知れない。しかし、そこから何かが明らかになりそうな予感もある。
まず、ミッシェル・ガン・エレファント問題について、少しだけ考えてみよう。直感的に言って、私が苦手なのは、そこに含有されている<ヤンキー度>の高さである。矢沢永吉から横浜銀蠅に至る<ヤンキー>的な感覚が私には耐えられない。或る若い友人の報告によれば、ミッシェルのライヴでは、「ゴッド・ファーザーのテーマ」が流される中メンバーが登場するらしいが、この事実は、その音そのものが含有する<ヤンキー度>以上に、このバンドのもっていた<ヤンキー度>の高さを示してあまりあるものである。それでは、<ヤンキー度>とは何であり、それはロックとどのような関係にあるのか。このあたりから研究を始めよう。
この点に関しては、「世の中の9割はヤンキーとファンシーでできてる」という根本敬の言葉を念頭に置きながら、<ヤンキー>と<ファンシー>に関する日々の観察を怠らず、深い思索を繰り広げた故ナンシー関の研究がまずもって参照されるべきである(引用は、町山広美との対談『隣家全焼』(文春文庫、2001年)からのもの)。彼女にならって、矢沢永吉から横浜銀蠅、さらにはバクチクからX-JAPANに通底する何かを、仮に<ヤンキー>と<ファンシー>と呼ぶとして、その特質を解明しなければならないだろう。それを知性の欠如・幼稚性・ナルシシズム等々と纏め上げるだけでは不十分である。「かわいい」という表現にも通底するようなその特質は何か。それが「世の中の9割」にも蔓延しているのはどうしてか。そして、それはロック・ミュージックとはどのような関係を有しているのか。<ヤンキー>と<ファンシー>とが、ミッシェルの音楽の全部を覆い尽くしているわけでは勿論ないが、その含有度の高さが直感的には理解出来るだけに、そこから見えてくることも大きいだろう。(他方で、例えば四方田犬彦の『「かわいい」論』(ちくま新書、2006年)の分析を批判的に捉え返すことが出来るかも知れない。)この問いを「ファンシー・ヤンキー・ベイビー問題」と名付けて分析を進めよう。(なお、以上の内容は、12月19日から20日にかけて開催されたとある研究会における討論を踏まえたものである。問題の命名者を含む研究会の参加者各位に深く感謝したい。この項続く。が、いつになるかは全く不明です。)
2007/12/22 15:21
クスクス・ロワイヤルもどき 食
モロッコには行ったことがないが、パリで食事をするときに、一番簡単でかつ美味しく食べられるものの一つはクスクスである。(そう言えば、日本人で最も世界的に著名な哲学者にクスクスをムフタール街でご馳走してもらったことがある。)そして、日本ではまともなクスクスが簡単には食べられない。クスクスそれ自体が、ほんの少しだけ付け合わせとして添えられていることが殆どで、クスクスを食べたという気持ちにならないのだ。クスクスは、スープをかけて好きなだけ食べられなければ意味がない。ところが、最近ではちょっとしたスーパーならば、インスタント・クスクスが手に入るので、好きなときに好きなだけクスクスを食べることができるようになった。以下、自家製レシピ。(これは、全くのオリジナルなので、クスクスもどきと言うべきか。)なお、クスクス・ロワイヤルとは、上にチキンやメルゲス(辛いソーセージ)などをのせた豪華版の意味。
材料(4人前):鶏もも肉400グラム、メルゲス8本(なければスパイシー・ソーセージ)、玉葱2個、人参2本、セロリ2茎、トマト4個、アリサ(北アフリカの唐辛子ソース、これは不可欠)、クスクス(スムール)250グラム、バター大さじ3、塩、胡椒、エルブ・ド・プロヴァンス(これはなくてもいい)それぞれ適量、オリーブオイル
1. 肉に塩・胡椒をすり込み、2時間ほどおく。
2. フライパンにオリーブ・オイルを入れて熱して、鶏肉を皮目からソテーする。
3. 色がついたら、デロンギ・オーブンのコンベクションで、皮を上にして210℃で20分ほど焼く。
4. ヴィタクラフト鍋にオリーブ油を敷き、薄切りにした玉葱を弱火で炒める。(以下、出来るだけ、蓋を閉め、ときどきかき回すようにする。)
5. 玉葱が透き通ってきたら、1cm角のサイコロに切った人参、セロリを鍋に入れて、弱火で炒め続ける。
6. 野菜に火が通ったら、トマトをざく切りにして入れる。蓋をして弱火で熱する。
7. ときどきかき回して、トマトが煮崩れてきてから、さらに5分ほど加熱を続ける。
8. クスクス(スムール)をふかす。簡易なふかし方は、クスクスの外箱に書いてあるからそれに従う。色々あるようだが、基本的には次がいい。
8-1. 鍋に250mlの水を入れ、オリーブオイル大さじ1、塩小さじ1を入れ、沸騰させた後、火からおろす。
8-2. クスクスを、8-1にかき混ぜながら加える。さらによくかき混ぜる。
8-3. 2分間そのままにおいて、水分を吸わせる。
8-4. 大さじ3のバターを加え、固まらないようにかき混ぜながらごく弱火で3分間加熱する。
9. メルゲスをオリーブ・オイルで炒める。
10. 野菜スープにエルブ・ド・プロヴァンス、胡椒、塩を適量入れる。
11. クスクスを皿に盛り、上から野菜スープをかけ、その上に、四つに切り分けた鶏肉とメルゲスをのせる。アリサをお好みで加えつつ、スープをクスクスに混ぜながら食する。
コメント:ヴィタクラフト鍋等の多層鍋でないと、あっという間に焦げ付いてしまい、スープにならないので、その場合には、野菜のストック等を加えてスープにする。また、鶏肉は、デロンギ・オーブンのコンベクション機能を用いると驚くほどに美味しくできるが、このオーブンがない場合には、適宜考える。野菜は、赤ピーマンやかぼちゃ、カブなど季節のものを追加するといい。
アリサがないとクスクスを食べた気にならない。アリサも、チューブ入りのものをスーパーでよくみかけるので、まずはこれを使用すればいい。パリのアラブ人ショップ(コンビニ)等で売っている、瓶入りのアリサがお気に入りだったが、昨年行ったときに購入したものの、セキュリティが厳しくなって、空港で没収されてしまった。スーツケースに入れて持ち帰ること。
また、クスクス(スムール)のふかし方に関しては、本格派を目指すなら専用蒸し鍋が必要だろうが、クスクスもどきだからそこまでは必要ない。昔知り合ったモロッコ人の友人によれば、ふかし方はとても難しくて、家庭ごとにやり方があるそうで、お母さんの技量が問われるところらしい。日本人が米を炊くのと同じようなことだろう。だから、インスタント・クスクスは、米を洗わずに炊いたり、あるいは「サトウのご飯」をちんするようなものか。
四方田犬彦『モロッコ琉謫』を読んで以来、モロッコへの素朴な憧れは高まるばかりだが、ブライアン・ジョーズを聞きながらクスクスもどきを食べるのもいいだろう。(当分、レシピ紹介はありません。)
材料(4人前):鶏もも肉400グラム、メルゲス8本(なければスパイシー・ソーセージ)、玉葱2個、人参2本、セロリ2茎、トマト4個、アリサ(北アフリカの唐辛子ソース、これは不可欠)、クスクス(スムール)250グラム、バター大さじ3、塩、胡椒、エルブ・ド・プロヴァンス(これはなくてもいい)それぞれ適量、オリーブオイル
1. 肉に塩・胡椒をすり込み、2時間ほどおく。
2. フライパンにオリーブ・オイルを入れて熱して、鶏肉を皮目からソテーする。
3. 色がついたら、デロンギ・オーブンのコンベクションで、皮を上にして210℃で20分ほど焼く。
4. ヴィタクラフト鍋にオリーブ油を敷き、薄切りにした玉葱を弱火で炒める。(以下、出来るだけ、蓋を閉め、ときどきかき回すようにする。)
5. 玉葱が透き通ってきたら、1cm角のサイコロに切った人参、セロリを鍋に入れて、弱火で炒め続ける。
6. 野菜に火が通ったら、トマトをざく切りにして入れる。蓋をして弱火で熱する。
7. ときどきかき回して、トマトが煮崩れてきてから、さらに5分ほど加熱を続ける。
8. クスクス(スムール)をふかす。簡易なふかし方は、クスクスの外箱に書いてあるからそれに従う。色々あるようだが、基本的には次がいい。
8-1. 鍋に250mlの水を入れ、オリーブオイル大さじ1、塩小さじ1を入れ、沸騰させた後、火からおろす。
8-2. クスクスを、8-1にかき混ぜながら加える。さらによくかき混ぜる。
8-3. 2分間そのままにおいて、水分を吸わせる。
8-4. 大さじ3のバターを加え、固まらないようにかき混ぜながらごく弱火で3分間加熱する。
9. メルゲスをオリーブ・オイルで炒める。
10. 野菜スープにエルブ・ド・プロヴァンス、胡椒、塩を適量入れる。
11. クスクスを皿に盛り、上から野菜スープをかけ、その上に、四つに切り分けた鶏肉とメルゲスをのせる。アリサをお好みで加えつつ、スープをクスクスに混ぜながら食する。
コメント:ヴィタクラフト鍋等の多層鍋でないと、あっという間に焦げ付いてしまい、スープにならないので、その場合には、野菜のストック等を加えてスープにする。また、鶏肉は、デロンギ・オーブンのコンベクション機能を用いると驚くほどに美味しくできるが、このオーブンがない場合には、適宜考える。野菜は、赤ピーマンやかぼちゃ、カブなど季節のものを追加するといい。
アリサがないとクスクスを食べた気にならない。アリサも、チューブ入りのものをスーパーでよくみかけるので、まずはこれを使用すればいい。パリのアラブ人ショップ(コンビニ)等で売っている、瓶入りのアリサがお気に入りだったが、昨年行ったときに購入したものの、セキュリティが厳しくなって、空港で没収されてしまった。スーツケースに入れて持ち帰ること。
また、クスクス(スムール)のふかし方に関しては、本格派を目指すなら専用蒸し鍋が必要だろうが、クスクスもどきだからそこまでは必要ない。昔知り合ったモロッコ人の友人によれば、ふかし方はとても難しくて、家庭ごとにやり方があるそうで、お母さんの技量が問われるところらしい。日本人が米を炊くのと同じようなことだろう。だから、インスタント・クスクスは、米を洗わずに炊いたり、あるいは「サトウのご飯」をちんするようなものか。
四方田犬彦『モロッコ琉謫』を読んで以来、モロッコへの素朴な憧れは高まるばかりだが、ブライアン・ジョーズを聞きながらクスクスもどきを食べるのもいいだろう。(当分、レシピ紹介はありません。)
2007/12/19 3:16
L'aquoiboniste 芸能
くだらないことを思いついたので少しだけ。
今年の流行語大賞には選ばれなかったが、沢尻エリカの「別に」という返答は色々と話題になった。何故、あの小娘がツェッペリンの再結成ライヴに行けたのか、ということ以外に沢尻エリカに関心はないが、「別に」という日本語をもしフランス語に訳すとしたらどうなるのだろうか。
先日のジェーン・バーキンのライヴに行ってきた友人から、そのライヴでも披露されたセルジュ・ゲンズブール作詞の« L'aquoiboniste »やその中で繰り返される« à quoi bon »というのは、どういう意味なのかと質問された。邦訳では前者は「無造作紳士」ないしは「ちっともかまわない主義者」、後者は「何にもならない」と訳されており、前者の訳が日本語としてどうかは別にして、確かにそういうことだろう。手許の辞書には« Discuter avec cet obstiné ? A quoi bon »=「あの頑固者と議論するだって、そんなことして何になるんだ」とある。この詞自体は、« A quoi bon »と言うのが口癖のギタリストのことを歌っているのだが、母親がフランス人である「エリカ様」にとって「別に」というのは、« A quoi bon »の日本語訳だったのかも知れない。 「そんなことに答えて何になるの」の省略形として。だから何だ、と言われると困るし、沢尻エリカを擁護するつもりも批判するつもりもないけれども、久しぶりにジェーン・バーキンを聞いて思いついたので記念に。
今年の流行語大賞には選ばれなかったが、沢尻エリカの「別に」という返答は色々と話題になった。何故、あの小娘がツェッペリンの再結成ライヴに行けたのか、ということ以外に沢尻エリカに関心はないが、「別に」という日本語をもしフランス語に訳すとしたらどうなるのだろうか。
先日のジェーン・バーキンのライヴに行ってきた友人から、そのライヴでも披露されたセルジュ・ゲンズブール作詞の« L'aquoiboniste »やその中で繰り返される« à quoi bon »というのは、どういう意味なのかと質問された。邦訳では前者は「無造作紳士」ないしは「ちっともかまわない主義者」、後者は「何にもならない」と訳されており、前者の訳が日本語としてどうかは別にして、確かにそういうことだろう。手許の辞書には« Discuter avec cet obstiné ? A quoi bon »=「あの頑固者と議論するだって、そんなことして何になるんだ」とある。この詞自体は、« A quoi bon »と言うのが口癖のギタリストのことを歌っているのだが、母親がフランス人である「エリカ様」にとって「別に」というのは、« A quoi bon »の日本語訳だったのかも知れない。 「そんなことに答えて何になるの」の省略形として。だから何だ、と言われると困るし、沢尻エリカを擁護するつもりも批判するつもりもないけれども、久しぶりにジェーン・バーキンを聞いて思いついたので記念に。
2007/12/18 2:52
ゆらゆら帝国と深さの回避 音楽
ゆらゆら帝国のライヴに行ってきた(12月17日、於SHIBUYA-AX)。どういうわけか、はじめはクラブ・クアトロに、次いで、ONAIR-EASTに行ってしまった。前者ではイースタン・ユースのライヴが、後者の(確か、近く)では少女-ロリヰタ-23区のライヴが、それぞれあったようで、後者のまわりのラブホテル街にはロリータ・ファッションに身を包んだ少女達が多くて度肝を抜かれたが、SHIBUYA-AXに近づくと、それらしき若者が多くてちょっと安心。1時間40分ほどのライヴ、超満員。最新アルバム『空洞です』からのナンバーを中心にしたいつもの如くの静かな熱狂に酔いしれた。

聞きながら考えたことを一つだけ記しておきたい。
少し前のエントリーで告知したように、先日、永井晋氏の『現象学の転回』の合評会を行った。<神学的転回以降の現象学>を正面から受け止め、その最大限の可能性を極めてオリジナルな仕方で――キーファーの絵画から妖怪に至るまで――引き伸ばした好著である。だが、師の一人である新田義弘譲りの深さへの志向には、ある種の共感とともに、最終的には大きな違和感を覚えるのも事実である。人間的な表象によって支えられる日常的な経験からの遡行を徹底し、地平的な現象や存在論的差異の運動すら突き抜けて現象そのものの顕現へと至る、その思考の道筋は正当なものである。だが、そのような思考には複数の途がある。永井氏自身は、キリスト教的な受肉の論理に貫かれたミシェル・アンリの途にも最終的には批判的で、レヴィナスとデリダに見られるような、カバラーの色濃い文字神秘主義――砕け散り、散種された文字の流動的な運動を自由に解釈し続けるそれ――に好意的で、そこから独特の<イマジナルの現象学>を構想し、さらに現在では仏教への接近をはかっているようであるが、いずれにしろ深さへの志向に変わりはない。
だが、人間的な表象によって支えられる日常的な経験からの遡行を徹底し、地平的な現象や存在論的差異の運動すら突き抜けて現象そのもの=出来事の顕現へと至るためには、必ずしも深さが不可欠であるわけではない。「深きもの、それは表層の皮膚である」と言うことも出来るのであり、日常的な経験からの横滑りの遡行を徹底させて、差異そのものを毎回毎回の事件として顕現させるという途もあるだろう。そのときには、深さへの志向が、必ずや全体=一者を呼び寄せるのとは異なる思考が生まれる。そのような思考においては、深さを有する意味よりも無意味=ノンセンスが、どこかしら有機的な身体よりも即物的=唯物論的な身体=物体が浮上する。
「美しい」に典型的な無意味で即物的なゆらゆら帝国の世界は、――そのサイケデリックな世界の魅力が語られることが多いが――まさしくそのような思考を顕現させているのではないか、と妄想した。そして、この点に、例えば(最近、改めて纏めて聞くことによって、ブートレグには決して手を出さないことに決めた)裸のラリーズとの根本的な違いがあるだろう。以上の件を、より丁寧に概念化することは、別の機会に委ねることにしたい。
付け加えれば、そのような世界を開示するゆらゆら帝国の音楽が、普通では考えられないほどの人気を博していることには、率直に言って驚きと喜びとを覚える。社会学的な分析には何の関心もないが、それでも、詰めかけた若者たちにとって何が魅力的なのかは知りたく思う。それとも、彼らもまた孤立した島宇宙の一つを形作っているに過ぎないのだろうか。渋谷駅近くの大画面に映る浜崎あゆみの化け物のような顔を見つつ、彼らには浜崎あゆみ好きの友達はいるのだろうか、などとふと思った。(こちらも空虚だが、美しくはない。)
聞きながら考えたことを一つだけ記しておきたい。
少し前のエントリーで告知したように、先日、永井晋氏の『現象学の転回』の合評会を行った。<神学的転回以降の現象学>を正面から受け止め、その最大限の可能性を極めてオリジナルな仕方で――キーファーの絵画から妖怪に至るまで――引き伸ばした好著である。だが、師の一人である新田義弘譲りの深さへの志向には、ある種の共感とともに、最終的には大きな違和感を覚えるのも事実である。人間的な表象によって支えられる日常的な経験からの遡行を徹底し、地平的な現象や存在論的差異の運動すら突き抜けて現象そのものの顕現へと至る、その思考の道筋は正当なものである。だが、そのような思考には複数の途がある。永井氏自身は、キリスト教的な受肉の論理に貫かれたミシェル・アンリの途にも最終的には批判的で、レヴィナスとデリダに見られるような、カバラーの色濃い文字神秘主義――砕け散り、散種された文字の流動的な運動を自由に解釈し続けるそれ――に好意的で、そこから独特の<イマジナルの現象学>を構想し、さらに現在では仏教への接近をはかっているようであるが、いずれにしろ深さへの志向に変わりはない。
だが、人間的な表象によって支えられる日常的な経験からの遡行を徹底し、地平的な現象や存在論的差異の運動すら突き抜けて現象そのもの=出来事の顕現へと至るためには、必ずしも深さが不可欠であるわけではない。「深きもの、それは表層の皮膚である」と言うことも出来るのであり、日常的な経験からの横滑りの遡行を徹底させて、差異そのものを毎回毎回の事件として顕現させるという途もあるだろう。そのときには、深さへの志向が、必ずや全体=一者を呼び寄せるのとは異なる思考が生まれる。そのような思考においては、深さを有する意味よりも無意味=ノンセンスが、どこかしら有機的な身体よりも即物的=唯物論的な身体=物体が浮上する。
「美しい」に典型的な無意味で即物的なゆらゆら帝国の世界は、――そのサイケデリックな世界の魅力が語られることが多いが――まさしくそのような思考を顕現させているのではないか、と妄想した。そして、この点に、例えば(最近、改めて纏めて聞くことによって、ブートレグには決して手を出さないことに決めた)裸のラリーズとの根本的な違いがあるだろう。以上の件を、より丁寧に概念化することは、別の機会に委ねることにしたい。
付け加えれば、そのような世界を開示するゆらゆら帝国の音楽が、普通では考えられないほどの人気を博していることには、率直に言って驚きと喜びとを覚える。社会学的な分析には何の関心もないが、それでも、詰めかけた若者たちにとって何が魅力的なのかは知りたく思う。それとも、彼らもまた孤立した島宇宙の一つを形作っているに過ぎないのだろうか。渋谷駅近くの大画面に映る浜崎あゆみの化け物のような顔を見つつ、彼らには浜崎あゆみ好きの友達はいるのだろうか、などとふと思った。(こちらも空虚だが、美しくはない。)
2007/12/15 23:03
カレーのレシピ 食
唐突だが、美味しいカレーのレシピを紹介する。カレーにも、欧風・和風・タイ風等々色々あるが、これはインド風である。(以下は、全日本カレーライス学会/編『カレーライス』(勁文社文庫、1994年)所収のレシピや森枝卓士のレシピに改変を加えたもの。)
材料(6皿から8皿):鶏肉1キロ強(モモ肉1キロ弱、手羽元300グラム)、玉葱大4個、ニンニク3片、生姜2片、ギー(1カップ、これについては後述)、トマト2個、ヨーグルト1カップ、チャツネ大さじ1杯、塩小さじ1〜2杯、シナモンスティック半分(5センチ程度)、クローブ10個、カルダモン10個、クミン(粒)大さじ3杯、コリアンダー(粒)大さじ2杯、粒黒胡椒大さじ2杯、ローリエ2枚、レッドペッパー大さじ2杯、赤唐辛子10本、ターメリック(粉でいうと)大さじ1杯、カレー粉大さじ1杯(鶏肉にまぶす分)。
作り方:
1. スパイスを全部挽く。(すり鉢でやってもいいが、ブレンダーについているミルで挽くと簡単。)
2. 鶏肉を適当な大きさに切る。皮や脂は、独特の匂いがあり、カレーには合わないので丁寧に取り除く。鶏肉にカレー粉を軽くまぶし、よく揉み込む。これにヨーグルトをまぶし、2時間ほどマリネする。これによって肉が締まり、下味がつく。
3. 玉葱をすり下ろす。(みじん切りは不可。)ブレンダーでやると簡単。(すり下ろす場合には、勿論、ゴーグルが必要になる。)
4. 鍋にギーを入れ、おろし玉葱を投入。これを焦がさないように炒め続ける。ヴィタ・クラフト鍋なら、それほど気にしないで、ときどきかき回す位で、30分くらいで炒め終わる。ペースト状になったら、ニンニク・生姜をすり下ろして入れる。さらに、軽く炒める。
5. そこに、自家製カレーパウダーを入れ、炒める。油(=ギー)にスパイスの香りを移すつもりで、香りが移れ移れと念じつつ、心をこめて炒める。トマトを小さく切って入れる。(湯剥きしてもいいが、いずれわからなくなる。)
6. 鍋が煮立ったら、ヨーグルト漬けの鶏肉をヨーグルトごと入れる。弱火で約1時間、ときどきかき混ぜながら煮込む。
7. 表面に油が浮いていかにも煮込んだという状態になったら、チャツネを入れる。塩で味を調整。
8. 仕上げに、ガラム・マサラを入れて、煮込んでいるうちに失われた香りを補給する。
ポイント:森枝卓士らの定番本にあるように、インド(風)カレーのポイントは、スパイスの香りを油に移し、それによって香りを豊かにすることと、大量の玉葱を用いることによって甘みを出すこと、この二点である。だから、油の量も玉葱の量もびっくりする位多い。
慣れてきたらスパイスの配分は好みで調整したらいいと思うが、私はクミンの香りが好きなので、クミンの量がやや多い。また、辛さも唐辛子の量や唐辛子の種類で調整可能。この配合だと少し(かなり?)辛い(CoCo壱のカレーで5辛位か)。また、トマト以外に、すり下ろしたバナナや人参、或いはセロリを入れて風味を出すのもあり。水は一切入れない。但し、普通の鍋だと焦げ付くかもしれないので、その場合には、注意深くかき回すか、若干の水を入れる。(いずれにしろ、ヴィタ・クラフト鍋のようなものがあると便利。)
使用食材:ギーはなかなか手に入れにくいかも知れないし、スーパーで売っているようなギーは値段が高過ぎて、なかなかこの分量は使えない。だが、東京在住の方は、東銀座の老舗インドレストランであるナイル・レストランで安く手に入る。(通信販売もしている模様。)サラダオイルで作って作れないことはないかも知れないが、出来上がりが格段に違う。鶏肉にまぶすカレー粉とガラム・マサラも、私はナイル・レストランのものを使用しているが、これは他社製や自家製でも勿論代用可。チャツネとスパイスは、基本的には朝岡スパイスのものを使用しているが、これも他社製で十分だろう。ただ、チャツネは朝岡スパイス製のものを特に愛用。(通信販売も行っている模様。大瓶に入ったチャツネを店頭販売していた池袋西武店が閉店したのが、残念ではある。)
コメント:私は、インドカレーでは湯島のデリー、欧風カレーでは神保町のボンディが好きである。(他に、本当に美味しいかと言われると困るが、本郷の我がルオーも好きであるし、渋谷のムルギーも懐かしい。関西では、結局これはというところには巡り会えなかったが、梅田にもあるピッコロカレーはお気に入り。自由軒は雰囲気だろうか。)が結局は、上に掲げたレシピをもとに自分で作ったカレーが一番好きである。自画自賛と言われてもいいが、とにかく美味しいので、騙されたと思って作って食べてみて下さい。これに、湯がいたほうれん草をブレンダーにかけたものを入れれば、一挙にほうれん草カレーに早変わり。これも美味しい。(次回は、クスクス・ロワイヤルのレシピ。)[一部、訂正。12月20日記]
材料(6皿から8皿):鶏肉1キロ強(モモ肉1キロ弱、手羽元300グラム)、玉葱大4個、ニンニク3片、生姜2片、ギー(1カップ、これについては後述)、トマト2個、ヨーグルト1カップ、チャツネ大さじ1杯、塩小さじ1〜2杯、シナモンスティック半分(5センチ程度)、クローブ10個、カルダモン10個、クミン(粒)大さじ3杯、コリアンダー(粒)大さじ2杯、粒黒胡椒大さじ2杯、ローリエ2枚、レッドペッパー大さじ2杯、赤唐辛子10本、ターメリック(粉でいうと)大さじ1杯、カレー粉大さじ1杯(鶏肉にまぶす分)。
作り方:
1. スパイスを全部挽く。(すり鉢でやってもいいが、ブレンダーについているミルで挽くと簡単。)
2. 鶏肉を適当な大きさに切る。皮や脂は、独特の匂いがあり、カレーには合わないので丁寧に取り除く。鶏肉にカレー粉を軽くまぶし、よく揉み込む。これにヨーグルトをまぶし、2時間ほどマリネする。これによって肉が締まり、下味がつく。
3. 玉葱をすり下ろす。(みじん切りは不可。)ブレンダーでやると簡単。(すり下ろす場合には、勿論、ゴーグルが必要になる。)
4. 鍋にギーを入れ、おろし玉葱を投入。これを焦がさないように炒め続ける。ヴィタ・クラフト鍋なら、それほど気にしないで、ときどきかき回す位で、30分くらいで炒め終わる。ペースト状になったら、ニンニク・生姜をすり下ろして入れる。さらに、軽く炒める。
5. そこに、自家製カレーパウダーを入れ、炒める。油(=ギー)にスパイスの香りを移すつもりで、香りが移れ移れと念じつつ、心をこめて炒める。トマトを小さく切って入れる。(湯剥きしてもいいが、いずれわからなくなる。)
6. 鍋が煮立ったら、ヨーグルト漬けの鶏肉をヨーグルトごと入れる。弱火で約1時間、ときどきかき混ぜながら煮込む。
7. 表面に油が浮いていかにも煮込んだという状態になったら、チャツネを入れる。塩で味を調整。
8. 仕上げに、ガラム・マサラを入れて、煮込んでいるうちに失われた香りを補給する。
ポイント:森枝卓士らの定番本にあるように、インド(風)カレーのポイントは、スパイスの香りを油に移し、それによって香りを豊かにすることと、大量の玉葱を用いることによって甘みを出すこと、この二点である。だから、油の量も玉葱の量もびっくりする位多い。
慣れてきたらスパイスの配分は好みで調整したらいいと思うが、私はクミンの香りが好きなので、クミンの量がやや多い。また、辛さも唐辛子の量や唐辛子の種類で調整可能。この配合だと少し(かなり?)辛い(CoCo壱のカレーで5辛位か)。また、トマト以外に、すり下ろしたバナナや人参、或いはセロリを入れて風味を出すのもあり。水は一切入れない。但し、普通の鍋だと焦げ付くかもしれないので、その場合には、注意深くかき回すか、若干の水を入れる。(いずれにしろ、ヴィタ・クラフト鍋のようなものがあると便利。)
使用食材:ギーはなかなか手に入れにくいかも知れないし、スーパーで売っているようなギーは値段が高過ぎて、なかなかこの分量は使えない。だが、東京在住の方は、東銀座の老舗インドレストランであるナイル・レストランで安く手に入る。(通信販売もしている模様。)サラダオイルで作って作れないことはないかも知れないが、出来上がりが格段に違う。鶏肉にまぶすカレー粉とガラム・マサラも、私はナイル・レストランのものを使用しているが、これは他社製や自家製でも勿論代用可。チャツネとスパイスは、基本的には朝岡スパイスのものを使用しているが、これも他社製で十分だろう。ただ、チャツネは朝岡スパイス製のものを特に愛用。(通信販売も行っている模様。大瓶に入ったチャツネを店頭販売していた池袋西武店が閉店したのが、残念ではある。)
コメント:私は、インドカレーでは湯島のデリー、欧風カレーでは神保町のボンディが好きである。(他に、本当に美味しいかと言われると困るが、本郷の我がルオーも好きであるし、渋谷のムルギーも懐かしい。関西では、結局これはというところには巡り会えなかったが、梅田にもあるピッコロカレーはお気に入り。自由軒は雰囲気だろうか。)が結局は、上に掲げたレシピをもとに自分で作ったカレーが一番好きである。自画自賛と言われてもいいが、とにかく美味しいので、騙されたと思って作って食べてみて下さい。これに、湯がいたほうれん草をブレンダーにかけたものを入れれば、一挙にほうれん草カレーに早変わり。これも美味しい。(次回は、クスクス・ロワイヤルのレシピ。)[一部、訂正。12月20日記]
2007/12/4 20:33
「リフの美学――『ZONE TRIPPER』に寄せて――」 音楽
明日(12月5日)再発されるFRICTION『ZONE TRIPPER』(PASS RECORDS/P-VINE)に、やや長めのライナーノーツ(「リフの美学――『ZONE TRIPPER』に寄せて――」)を書くという僥倖に恵まれたので、関心のある方は是非とも購入の上、お読み下されば幸いである。
勿論、購入をお勧めするのは、何よりもその音に触れて欲しいからである。『REMIXXX+ONE』から「MIND BIND」がボーナス・トラックとして追加されている他に、発売当時のPV(「ZONE TRIPPER」)――魅力的!――も収められているし、美しいジャケットに一新された上にレック自身が撮影した写真もふんだんに見ることが出来るから、とてもお買い得である。
世の中で最も愛しているCDに文章を寄せることが出来たのは個人的には僥倖と言うしかないが、特に若い人々がフリクションの魅力にとりつかれるための何らかの助けに少しでもなればと願う。

勿論、購入をお勧めするのは、何よりもその音に触れて欲しいからである。『REMIXXX+ONE』から「MIND BIND」がボーナス・トラックとして追加されている他に、発売当時のPV(「ZONE TRIPPER」)――魅力的!――も収められているし、美しいジャケットに一新された上にレック自身が撮影した写真もふんだんに見ることが出来るから、とてもお買い得である。
世の中で最も愛しているCDに文章を寄せることが出来たのは個人的には僥倖と言うしかないが、特に若い人々がフリクションの魅力にとりつかれるための何らかの助けに少しでもなればと願う。
2007/12/1 5:26
無限大の宇宙―埴谷雄高『死霊』展 文学
閉会間際の「無限大の宇宙―埴谷雄高『死霊』展」(於県立神奈川近代文学館、11月25日迄)に行ってきた。

ほぼ全甲の尋常小学校時代の通信簿、ゲオルグ・ビュヒナー『ダントンの死』の上演時のポスター(埴谷も出演)、『農民闘争』掲載の論文、埴谷所蔵のカントの『純粋理性批判』の原書(PhB)と翻訳(岩波文庫)――但し、獄中で読んだものではなさそう――等々、貴重な資料を見ることが出来た。
そのなかでも、まずは最近発見され『群像』11月号に掲載された『死霊』構想案、3500枚にも及ぶ『死霊』構想メモ、『死霊』第5章・第7章・第8章の推敲の夥しい原稿などが興味深かった。さらには、黒田寛一からの書簡なども。現行全集は全集と銘打っている割には編集が甘いように思うが、いずれ、ペンネーム論文やメモ、そして書簡を収めた本格的な全集が刊行されることを望む。
戦後日本近代文学の巨星は、埴谷雄高と大西巨人だと思う。いずれも『近代文学』同人だけれども、恐らくそのこと自体は大したことではない。(文壇や近所づきあいの様子――ムード・ミュージックをかけてのダンス・パーティや野球チーム――など、鼻白むが、埴谷にも日常があったということだろう。)ドストエフスキーやカフカに匹敵するような世界を作り上げたのは埴谷雄高だし、記憶の問題や差別を孕んだ俗世間の活写を行うという長編作家としてプルーストに匹敵するのは大西巨人だと思う。
埴谷雄高に関しては、鶴見俊輔と鹿島徹による好著があるから、私など付け加えることは殆どないが、それでもいいかな、「自同律の不快」という着想と「虚体」といった概念について、ドゥルーズの差異概念や潜在性概念との遠くからの共鳴があると密かに思っているのも事実である。(問題の出発点の共有がある一方、その最終的な行く先は大きく異なるが。)
ほぼ全甲の尋常小学校時代の通信簿、ゲオルグ・ビュヒナー『ダントンの死』の上演時のポスター(埴谷も出演)、『農民闘争』掲載の論文、埴谷所蔵のカントの『純粋理性批判』の原書(PhB)と翻訳(岩波文庫)――但し、獄中で読んだものではなさそう――等々、貴重な資料を見ることが出来た。
そのなかでも、まずは最近発見され『群像』11月号に掲載された『死霊』構想案、3500枚にも及ぶ『死霊』構想メモ、『死霊』第5章・第7章・第8章の推敲の夥しい原稿などが興味深かった。さらには、黒田寛一からの書簡なども。現行全集は全集と銘打っている割には編集が甘いように思うが、いずれ、ペンネーム論文やメモ、そして書簡を収めた本格的な全集が刊行されることを望む。
戦後日本近代文学の巨星は、埴谷雄高と大西巨人だと思う。いずれも『近代文学』同人だけれども、恐らくそのこと自体は大したことではない。(文壇や近所づきあいの様子――ムード・ミュージックをかけてのダンス・パーティや野球チーム――など、鼻白むが、埴谷にも日常があったということだろう。)ドストエフスキーやカフカに匹敵するような世界を作り上げたのは埴谷雄高だし、記憶の問題や差別を孕んだ俗世間の活写を行うという長編作家としてプルーストに匹敵するのは大西巨人だと思う。
埴谷雄高に関しては、鶴見俊輔と鹿島徹による好著があるから、私など付け加えることは殆どないが、それでもいいかな、「自同律の不快」という着想と「虚体」といった概念について、ドゥルーズの差異概念や潜在性概念との遠くからの共鳴があると密かに思っているのも事実である。(問題の出発点の共有がある一方、その最終的な行く先は大きく異なるが。)
