2005/9/25 17:04
ジェリー校長からのメッセージ 分類なし
イスラエル軍のガザ撤退は完了し,ラファの国境にはエジプト軍が境界線の警備のために配置されました。入植地の存在で苦しんでいた,特に南部の人々の喜びはひとしおです。しかし,西岸のパレスチナ武装組織とイスラエル軍の衝突から端を発して,パレスチナ側からのロケット弾攻撃と,イスラエル軍による市街地や難民キャンプへの空爆も起こりました。一方,ガザの中の状況も,自由の喜びと同時に将来の不安にも包まれています。そのようなガザの様子については,パレスチナ子どものキャンペーンのホームページ
http://www32.ocn.ne.jp/~ccp/
にガザの人々の声として載っています。その中にはアトファルナろう学校のジェリー校長の声もあります。
ここでは,前の学期が終わるころのアトファルナからの,ジェリー校長のメッセージを伝えます。
========
2005年6月
友だちと支援者の皆様,
ガザ地区は今,最終試験の時期です。だから,空気がもうほとんど自由に感じられます。普段は混雑して騒がしいこの辺りも,地元風の石蹴りや隠れん坊で遊ぶ子どもたちが集まっていないので,いつもとは違って見えます。この二週間の間,母親たちが学校に行っている子どもたちをできるだけ教科書に縛り付けておけるように,すべての社会活動が止められます。母親たちは軍事訓練の教官みたいになって,自分たちの子どもにアラブ世界の歴史や,英語の動詞の活用や,アラビア語の文法や,九九を休み無く教え続けます。ここの教育システムは,できるだけ多くの情報を暗記するということを重視するモデルに従っているため,教室での競争は厳しいものがあります。自分の子どもの誕生日を覚えるのも難しいほど記憶力の無い私は,ここの子どもたちに本当に同情します。
アトファルナでも今が試験の時期です。今朝,教室を歩いてみると,子どもたちはストレスで疲れきっているというといそして彼らは熱心に,そしていく人かは顔に笑顔さえ浮かべて,試験問題に答えていました。私は教師の一人に何かカンニングか何かが行われているのではないの?と尋ねました。彼はそうは思わないと答えました。しかし,前に小さい子どもたちは聞こえる教師にはわからない秘密の手話を作って,それで楽しんでいたことがあると言いました。「それで,私たちは試験の時は教室にろうの教師も配置しているんですよ。」
04年〜05年の学期は教師や子どもたちにとってチャレンジの連続でした。あるときは,ミサイル攻撃の最中に,子どもたちが耐えるべき挑戦をはるかに超えた恐怖の中で学校に来なければなりませんでした。今年,多くの教師が職場にたどり着くために,危険な戦車の配置された道路封鎖をかいくぐらなければなりませんでした。一人の女性教師は私に,仕事に来るために命を危険にさらすのは悲しいけれども,他に選択の余地はなかったと言いました。なぜなら,大家族の中で彼女は唯一の働き手であるだけでなく,彼女の弟や妹を大学に行かせるためにできるだけの手助けをしなければならなかったからです。
今年は多くの悲しいことがありました。子どもたちやスタッフが紛争で愛する人を失ったり,家や生活の糧を破壊されたり。また今年は多くの恐怖がありました。私たち全てが,恐ろしいミサイル攻撃の夜に耐えなければなりませんでした。ここにいる誰もがパレスチナ人のための解決策が見つかるとは思っていなかったにも関わらず,この苦しみを終わらせる政治的解決策の新しい希望が見えています。大切なことは希望です。それを考えることなしには私たちは生きていくこともできません。
世界中からの支援を元に私たちが世話をしている子どもたちにもたらそうとしていること,それは教育を通じたより良い未来への希望です。アトファルナのすばらしい教師たちは,発展途上国におけるろうの子どもの必要に応じたさまざまな教育の設計を行おうと最善を尽くしています。私たちは特に,252人の生徒たちの両親に手話を教えようと努力しました。そうすることで,両親は子どもたちの教育全般に関する積極的なパートナーとなれるからです。私たちの努力は報われるでしょう。結果は生徒たちの振る舞いや学業成績に現れています。
子どもたちやその両親,そしてアトファルナのスタッフに代わって,私は皆さんが関心を持ってくださること,そして今学期への支援に感謝申し上げます。
アトファルナろう学校 校長
ジェリー・シャワ
2005/8/21 20:45
ガザ撤退に寄せて 分類なし
ガザ地区の入植地撤去は、今のところ(8月21日現在)順調に進んでいるようです。この撤退の経過や、パレスチナ人、イスラエル人の反応などについては既にいろいろなところで報道されていますし、様々な問題点の指摘もされています。パレスチナ子どものキャンペーンでも、この件に関して声明を発しています。
今回の撤退が政治的にどのような意味があるかについては別の場所に譲るとして、ここでは入植地撤廃がガザの一般の人たちの暮らしをどう変えるか、変えないかについて考えたいと思います。
もっとも大きな変化は、少なくとも入植地と隣接していた場所はこれまでよりもずっと安全になるだろうということです。入植地とパレスチナ人の街が隣接するところでは、これまで衝突が相次いでいました。入植地に不用意に近づいた人たちはたとえ子どもであっても銃撃を受けて死傷してきましたが、ハン・ユニス周辺では入植地に近づかないと家に帰ることもできない人がたくさんいました。入植地周辺だけでなく、入植地とイスラエルを結ぶ入植地道路が街道と交わるところも危険な場所でした。このような危険な場所は確実に少なくなります。
しかし、イスラエル側からの攻撃が全くなくなるかというと、それはわかりません。和平が全体的に進まなければ、パレスチナの武装勢力幹部を暗殺するなどの目的でガザ地区の奥深くまで攻撃される事態も考えられます。これまでも、そのような攻撃で多くの一般市民が巻き添えになってきました。また、元々壁に囲まれていたガザ地区から自爆攻撃が行われることはほとんどなかったのですが、パレスチナ人武装組織が手製ロケット弾をイスラエル側に撃ち込むという事件が多発し、それに対する報復攻撃が行われています。これらの粗雑なロケット弾の多くはパレスチナ側に落ちて人々を傷つけてもいます。
イスラエルとの境界地帯は今後も緊張が続くでしょうし、ガザが軍事的に包囲された紛争地帯の只中だという事実は変わりません。特にラファ市のエジプト国境の状況はこれまでとそれほどかわりません。
入植地が分断していたガザ地区は一つに統合されます。このことの経済的な意味は大きいですが、より以上に心理的な意味は大きいのです。ラファの人はすぐそばにある海にようやくたどり着くことができます。ガザ市の病院や、アトファルナのような学校に出かけることもできるようになります。このことは人々の生活と心理を大きく改善すると思われます。
しかし、ガザが包囲され周辺から隔離された状況はこれまでと変わりません。ガザの人々がエルサレムやヨルダン川西岸地区、あるいはヨルダンやエジプトのような隣国、さらにヨーロッパや日本に出かけていくことの大変さはこれまでと変わりません。地区からの出入りの管理は依然イスラエル側に残されるので、イスラエルからの許可がないと境界を越えられないためです。ガザ空港の将来も不明確です。このことは、ガザの今後の経済状況を不確実にしています。
入植地が占めていた広い土地がパレスチナ側に引き渡されたことは、人口密集したガザ地区の人にとっては大変うれしいことです。5年間の紛争で多くの人が住む家を無くしました。しかし、これらの土地が多くの人に役立つように有効に使われるのか、あるいは一部の自治政府幹部などに独占されてしまうかは、今後パレスチナがどんな国となるかを見守る上で重要な点です。
資源と土地の管理、特に水の管理は重要な問題です。多くの井戸が破壊され、入植地の水の汲み上げで水質が悪化していました。しかし、ガザの水資源はイスラエル側とつながっているので、水の管理は双方で協力しあわない限りうまくいきません。そのようになるかどうかも、今後の和平の進展、それもただ撃ち合わないというだけでなくて、双方の生存のために協力し合うというかたちの和平の進展がなければ達成できないことです。これは長期的な課題であり、またこれからの「和平」がどんな形になるかに関わる重要な点です。
経済がこれで上向くかもまだ不明確です。短期的には、治安が良くなるというプラス面があると同時に、イスラエル側への出稼ぎが確実に減っていますのでマイナスに向かっている部分もあります。ガザの人たちは少しでも雇用が増えて、金銭的な収入だけでなくて、自立して生活しているという誇りを取り戻したいと考えています。
このことは、ガザ地区の出入りがどれくらい自由になるかということとともに、外部からの援助や投資、そして自治政府の統治能力も試されます。今、人々はとりあえずの喜びをかみしめていますが、それが長く続くものとなるには、パレスチナ人自身の努力、イスラエルがどれくらい共存に真剣か、そして日本を含む外国がどのように有効な支援をできるかといった多くのことにかかっています。

今回の撤退が政治的にどのような意味があるかについては別の場所に譲るとして、ここでは入植地撤廃がガザの一般の人たちの暮らしをどう変えるか、変えないかについて考えたいと思います。
もっとも大きな変化は、少なくとも入植地と隣接していた場所はこれまでよりもずっと安全になるだろうということです。入植地とパレスチナ人の街が隣接するところでは、これまで衝突が相次いでいました。入植地に不用意に近づいた人たちはたとえ子どもであっても銃撃を受けて死傷してきましたが、ハン・ユニス周辺では入植地に近づかないと家に帰ることもできない人がたくさんいました。入植地周辺だけでなく、入植地とイスラエルを結ぶ入植地道路が街道と交わるところも危険な場所でした。このような危険な場所は確実に少なくなります。
しかし、イスラエル側からの攻撃が全くなくなるかというと、それはわかりません。和平が全体的に進まなければ、パレスチナの武装勢力幹部を暗殺するなどの目的でガザ地区の奥深くまで攻撃される事態も考えられます。これまでも、そのような攻撃で多くの一般市民が巻き添えになってきました。また、元々壁に囲まれていたガザ地区から自爆攻撃が行われることはほとんどなかったのですが、パレスチナ人武装組織が手製ロケット弾をイスラエル側に撃ち込むという事件が多発し、それに対する報復攻撃が行われています。これらの粗雑なロケット弾の多くはパレスチナ側に落ちて人々を傷つけてもいます。
イスラエルとの境界地帯は今後も緊張が続くでしょうし、ガザが軍事的に包囲された紛争地帯の只中だという事実は変わりません。特にラファ市のエジプト国境の状況はこれまでとそれほどかわりません。
入植地が分断していたガザ地区は一つに統合されます。このことの経済的な意味は大きいですが、より以上に心理的な意味は大きいのです。ラファの人はすぐそばにある海にようやくたどり着くことができます。ガザ市の病院や、アトファルナのような学校に出かけることもできるようになります。このことは人々の生活と心理を大きく改善すると思われます。
しかし、ガザが包囲され周辺から隔離された状況はこれまでと変わりません。ガザの人々がエルサレムやヨルダン川西岸地区、あるいはヨルダンやエジプトのような隣国、さらにヨーロッパや日本に出かけていくことの大変さはこれまでと変わりません。地区からの出入りの管理は依然イスラエル側に残されるので、イスラエルからの許可がないと境界を越えられないためです。ガザ空港の将来も不明確です。このことは、ガザの今後の経済状況を不確実にしています。
入植地が占めていた広い土地がパレスチナ側に引き渡されたことは、人口密集したガザ地区の人にとっては大変うれしいことです。5年間の紛争で多くの人が住む家を無くしました。しかし、これらの土地が多くの人に役立つように有効に使われるのか、あるいは一部の自治政府幹部などに独占されてしまうかは、今後パレスチナがどんな国となるかを見守る上で重要な点です。
資源と土地の管理、特に水の管理は重要な問題です。多くの井戸が破壊され、入植地の水の汲み上げで水質が悪化していました。しかし、ガザの水資源はイスラエル側とつながっているので、水の管理は双方で協力しあわない限りうまくいきません。そのようになるかどうかも、今後の和平の進展、それもただ撃ち合わないというだけでなくて、双方の生存のために協力し合うというかたちの和平の進展がなければ達成できないことです。これは長期的な課題であり、またこれからの「和平」がどんな形になるかに関わる重要な点です。
経済がこれで上向くかもまだ不明確です。短期的には、治安が良くなるというプラス面があると同時に、イスラエル側への出稼ぎが確実に減っていますのでマイナスに向かっている部分もあります。ガザの人たちは少しでも雇用が増えて、金銭的な収入だけでなくて、自立して生活しているという誇りを取り戻したいと考えています。
このことは、ガザ地区の出入りがどれくらい自由になるかということとともに、外部からの援助や投資、そして自治政府の統治能力も試されます。今、人々はとりあえずの喜びをかみしめていますが、それが長く続くものとなるには、パレスチナ人自身の努力、イスラエルがどれくらい共存に真剣か、そして日本を含む外国がどのように有効な支援をできるかといった多くのことにかかっています。
2005/8/14 15:11
あの子は今@ パン職人イスマイール 分類なし
1992年の開校から13年たったアトファルナろう学校から巣立った卒業生について、パレスチナ子どものキャンペーンのインターンとしてガザに駐在している中村哲也さんからのレポートが届いています。
就職第1号
「卒業生が作ったのよ」アトファルナろう学校を訪れる来客にパンやお菓子をジェリー校長が誇らしげに差し出す。チーズや野菜が入っているロールパン、アラブ風に香辛料を効かせたもの、クッキー風の生地にジャムを挟んだり巻いたりしているものなど様々だ。アトファルナから車で5分ほどいった所にあるパン屋“No.1”からこれらのパンとお菓子は届けられた。小さいお店の前に立つと焼きたての少し甘い香りがして、大きなショーケースにこんがり狐色に焼けたパンや色とりどりのお菓子が並んでいるのが見える。奥からは短髪で手足のひょろっと長い青年が現れた。
イスマイール・アル・ジャッバ。アトファルナを卒業して以来、このお店の職人としてパンとお菓子を作り続けている。働き始めてから9年、当時13歳だった彼も22歳になった。重度の難聴を抱え、1992年のアトファルナ設立と同時に入学。5年生のとき、アトファルナの先生に連れられて職場見学としてこの店を訪れ、パン職人としての道に入ることを決める。店の名前と同じく、彼は卒業生の中でアトファルナから就職を決めた第1号なのだ。
一家を支える稼ぎ手に
彼は男6人、女6人の12人兄弟の上から2番目だ。妹3人がアトファルナに通い、末の弟はダウン症である。1番上の兄は昨年大学を卒業したが職には就けていない。ガザで下水の工事をしていた父親は2ヶ月前にガンで他界したばかり。1つ年下の妹は大学生だったが、毎日の交通費の2シェケル(50円)もままならない状況になり休学をして家で内職をしている。13人家族の中で稼ぎ手はイスマイールと妹の内職のみ。難民ではないので国連の支援も受けられない。彼の稼ぎは一家にとって大切な収入となっている。
彼の仕事は朝7時から始まる。2時にお昼休憩を挟んで家に帰るのは6時くらいになる。お店の様子によっては遅いときで10時くらいまで残業をするときもある。パン生地をこしらえたり、粉をふったりする手つきは慣れたものだ。「仕事はすごく好きだな。ストレスもないし、面白いよ。」とイスマイールは自信を持って言う。初任給の100シェケル(2,500円)も毎年の昇給を重ねて1200シェケル(30,000円)にまでなった。
言葉が無くても気持ちは通じる
当時のアトファルナには職業訓練もなく、就職準備は有志の先生によって行われていた。イスマイールは、卒業を控えた3ヵ月間を調理訓練に費やした。「女の子4人の中に男の子1人。彼は当時から“僕はキッチンでやることは好きだよ”と言っていたの。パンやケーキ、ピザの基本的な作り方を勉強したのよ。」と当時彼に料理を教えていたヒルダ先生は語る。5年生のときに担任をしていたサミーラ先生も「彼が就職したのが13歳のときでしょ。働くにはまだ幼すぎる。私も心配だったし、卒業を控えた頃の彼は不安げだったことを覚えているわ。」こうしてイスマイールはスタッフの期待と心配を背に受けてアトファルナを巣立っていった。就職後の3ヵ月間はソーシャルワーカーが2〜3週間に1度、電話や職場訪問を通してイスマイールが働く様子を見守った。
興味を持っていたことも手伝ってイスマイールは順調に仕事を覚えていった。またお店がイスマイールを受け入れてきた姿勢がある。パンをご馳走になりながらオーナーの話を聞いた。「先生や家族から彼の能力や生活の様子を聞いて、うちの仕事ならやれるって信じていたよ。実際、彼は人柄もいいし実によく働いている。だから例えお店の稼ぎが少ないときでも、お給料はちゃんと出しているよ。うちの従業員も始めから手話ができたわけじゃないが、彼は唇や手の動作を読んでこっちが伝えたいことを理解できるし、簡単なジェスチャーから始めて少しずつお互いの意思を伝えられるようになっていったんだ。大切なのは相手から敏感に感じとることなんだ。相手が怒っていたり嬉しそうにしてたりするのを見れば、言葉がなくても気持ちはわかるだろう。それと同じだよ。」
親友を得たアトファルナ
アトファルナでの日々についてイスマイールに聞いた。
「アトファルナで1番思い出に残っているのは4年生。今でも一瞬一瞬を思い出せるよ。入学してすぐは読み書きができなかったのが、段々と分かるようになってきて、テストの点を友達と競い合うようになった。ビラールは1つ年下だけどあの頃からの1番の親友だよ。学校が終わった後も毎日一緒にお互いの家を訪ね合って勉強したり、サッカーしたり、冗談を言い合ったりしてた。仲間のことや家族のこと、新しく入学した子のことなんか。大人になったいまの話題はね、結婚とか女の子のこと(笑)。僕にはガールフレンドはいないんだけど、ビラールにはいるんだ。お互い何でも言い合う仲だよ。秘密を共有できるっていうのは貴重な友達さ。他にも政治的なことやガザの悲惨な状況、事件についてはよく話すかな。そうだねぇ、他の人と意見や考えを交換し合うことの大切さや、友達というものの素晴らしさを知っていったのがあの頃だったと思う。職場の友人ともコミュニケーションは取れるし冗談も言い合うけれど、やっぱりアトファルナの友達はいいなぁって思う。ビラールといるときが一番安心できるんだ。今でも休日は一緒にいるよ。」
ゆっくりと色々なことを話した。戦争のこと、彼が生まれたイラクのこと、携帯電話の目覚まし機能にバイブレーションがなくて困っていること、仕事や給料のこと。
彼は真剣な顔つきで私に言った。「僕が家族を食べさせなきゃいけない。それに母や兄弟が欲しいものを買ってあげたいんだ。」父が亡くなり、兄も仕事がない中で自分が家族を支えなければという使命感を感じた。アトファルナから社会に飛び出た少年は青年となり、一家の大黒柱へとたくましい成長を遂げている。
就職第1号
「卒業生が作ったのよ」アトファルナろう学校を訪れる来客にパンやお菓子をジェリー校長が誇らしげに差し出す。チーズや野菜が入っているロールパン、アラブ風に香辛料を効かせたもの、クッキー風の生地にジャムを挟んだり巻いたりしているものなど様々だ。アトファルナから車で5分ほどいった所にあるパン屋“No.1”からこれらのパンとお菓子は届けられた。小さいお店の前に立つと焼きたての少し甘い香りがして、大きなショーケースにこんがり狐色に焼けたパンや色とりどりのお菓子が並んでいるのが見える。奥からは短髪で手足のひょろっと長い青年が現れた。
イスマイール・アル・ジャッバ。アトファルナを卒業して以来、このお店の職人としてパンとお菓子を作り続けている。働き始めてから9年、当時13歳だった彼も22歳になった。重度の難聴を抱え、1992年のアトファルナ設立と同時に入学。5年生のとき、アトファルナの先生に連れられて職場見学としてこの店を訪れ、パン職人としての道に入ることを決める。店の名前と同じく、彼は卒業生の中でアトファルナから就職を決めた第1号なのだ。
一家を支える稼ぎ手に
彼は男6人、女6人の12人兄弟の上から2番目だ。妹3人がアトファルナに通い、末の弟はダウン症である。1番上の兄は昨年大学を卒業したが職には就けていない。ガザで下水の工事をしていた父親は2ヶ月前にガンで他界したばかり。1つ年下の妹は大学生だったが、毎日の交通費の2シェケル(50円)もままならない状況になり休学をして家で内職をしている。13人家族の中で稼ぎ手はイスマイールと妹の内職のみ。難民ではないので国連の支援も受けられない。彼の稼ぎは一家にとって大切な収入となっている。
彼の仕事は朝7時から始まる。2時にお昼休憩を挟んで家に帰るのは6時くらいになる。お店の様子によっては遅いときで10時くらいまで残業をするときもある。パン生地をこしらえたり、粉をふったりする手つきは慣れたものだ。「仕事はすごく好きだな。ストレスもないし、面白いよ。」とイスマイールは自信を持って言う。初任給の100シェケル(2,500円)も毎年の昇給を重ねて1200シェケル(30,000円)にまでなった。
言葉が無くても気持ちは通じる
当時のアトファルナには職業訓練もなく、就職準備は有志の先生によって行われていた。イスマイールは、卒業を控えた3ヵ月間を調理訓練に費やした。「女の子4人の中に男の子1人。彼は当時から“僕はキッチンでやることは好きだよ”と言っていたの。パンやケーキ、ピザの基本的な作り方を勉強したのよ。」と当時彼に料理を教えていたヒルダ先生は語る。5年生のときに担任をしていたサミーラ先生も「彼が就職したのが13歳のときでしょ。働くにはまだ幼すぎる。私も心配だったし、卒業を控えた頃の彼は不安げだったことを覚えているわ。」こうしてイスマイールはスタッフの期待と心配を背に受けてアトファルナを巣立っていった。就職後の3ヵ月間はソーシャルワーカーが2〜3週間に1度、電話や職場訪問を通してイスマイールが働く様子を見守った。
興味を持っていたことも手伝ってイスマイールは順調に仕事を覚えていった。またお店がイスマイールを受け入れてきた姿勢がある。パンをご馳走になりながらオーナーの話を聞いた。「先生や家族から彼の能力や生活の様子を聞いて、うちの仕事ならやれるって信じていたよ。実際、彼は人柄もいいし実によく働いている。だから例えお店の稼ぎが少ないときでも、お給料はちゃんと出しているよ。うちの従業員も始めから手話ができたわけじゃないが、彼は唇や手の動作を読んでこっちが伝えたいことを理解できるし、簡単なジェスチャーから始めて少しずつお互いの意思を伝えられるようになっていったんだ。大切なのは相手から敏感に感じとることなんだ。相手が怒っていたり嬉しそうにしてたりするのを見れば、言葉がなくても気持ちはわかるだろう。それと同じだよ。」
親友を得たアトファルナ
アトファルナでの日々についてイスマイールに聞いた。
「アトファルナで1番思い出に残っているのは4年生。今でも一瞬一瞬を思い出せるよ。入学してすぐは読み書きができなかったのが、段々と分かるようになってきて、テストの点を友達と競い合うようになった。ビラールは1つ年下だけどあの頃からの1番の親友だよ。学校が終わった後も毎日一緒にお互いの家を訪ね合って勉強したり、サッカーしたり、冗談を言い合ったりしてた。仲間のことや家族のこと、新しく入学した子のことなんか。大人になったいまの話題はね、結婚とか女の子のこと(笑)。僕にはガールフレンドはいないんだけど、ビラールにはいるんだ。お互い何でも言い合う仲だよ。秘密を共有できるっていうのは貴重な友達さ。他にも政治的なことやガザの悲惨な状況、事件についてはよく話すかな。そうだねぇ、他の人と意見や考えを交換し合うことの大切さや、友達というものの素晴らしさを知っていったのがあの頃だったと思う。職場の友人ともコミュニケーションは取れるし冗談も言い合うけれど、やっぱりアトファルナの友達はいいなぁって思う。ビラールといるときが一番安心できるんだ。今でも休日は一緒にいるよ。」
ゆっくりと色々なことを話した。戦争のこと、彼が生まれたイラクのこと、携帯電話の目覚まし機能にバイブレーションがなくて困っていること、仕事や給料のこと。
彼は真剣な顔つきで私に言った。「僕が家族を食べさせなきゃいけない。それに母や兄弟が欲しいものを買ってあげたいんだ。」父が亡くなり、兄も仕事がない中で自分が家族を支えなければという使命感を感じた。アトファルナから社会に飛び出た少年は青年となり、一家の大黒柱へとたくましい成長を遂げている。
2005/7/9 23:48
ガザ地区の町と村 分類なし
ガザ地区は、海岸に沿って首都圏で言えば東京-横浜の京浜地区、関西で言えば阪神間ほどの広がりのある地域です。しかし、ガザ市以外の町には訪れる外国人も少なく情報はわずかしか入ってきません。今日は、ガザ地区の町を紹介します。
ベイト・ハヌーン
ガザ地区の北の端にある町です。イスラエル側の呼び名はエレツで、パレスチナ人がガザ地区からイスラエル側に行き来できる唯一のチェックポイント、エレツ検問所はこの町の名から来ています。この町はガザ市から近く、実質的にはガザ市の衛星都市のようになっていて、多くの人がガザ市に通勤していますが、ガザ地区の中では水資源に恵まれた土地で、農業も大変盛んです。水道水(地下水を汲み上げている)が塩辛いガザの人はベイト・ハヌーンに水を買いに行くというそういう土地です。
ベイト・ハヌーンはイスラエルとの境界線に近いため、パレスチナの武装組織がロケット弾をここからイスラエルの村に向けて発射して、イスラエル軍が報復のために侵攻するということが繰り返されました。特に昨年は衝突が激しく、多くの家屋が破壊されてしまい、子どもたちを含む大勢が死亡しました。
デリ・バラ
この古いパレスチナの町はガザ地区の中央にあり、ガザ市の13キロ南西の海岸に位置しています。他のガザ地区の町と同様に、古くからの町と難民キャンプが同居しています。オスロ合意が進展していた時期には、ここには貿易港の建設が進められていました。デリ・バラ村はナツメヤシの木が豊富で、おいしいナツメヤシの生産で有名です。村としての歴史は古く紀元前14世紀ごろには人が住んでいて、人型に似た石棺が数多く見つかっています。
ハン・ユニス
ガザ市の25キロ南、タクシーで30分から40分程度の、ガザ地区第2の都市で、近隣の村から農作物を売りにくる市場となっています。ここも、隣接してハン・ユニス難民キャンプがあり、合わせて約12万4千人が住んでいます(1999年の統計)。
ハン・ユニスなどガザの南部地域はガザ市と比べて貧しく生活が厳しいし、医療や福祉もより遅れています。また、援助も投資もガザ市に集中しがちです。また、ガザ全体で問題になっている水質は、ハン・ユニスが最悪の状態と言われています。
前回書いたように、ここには町には中心あるアミール・ユニスのキャラバン・サライ(隊商宿、アラビア語でハン)があります。このハンはこの地域ではアル・カーラ(要塞)とよばれていますが、それはオスマン時代の間、地中海沿岸の主要道路を支配する軍事基地として用いられていました。このハンは輸入されてきた石灰岩と地元の砂岩で作られていて、建物の中にはいくつかの大理石の床板を見ることができます。ハンの大部分は壊れてしまっていますが、ファサードの南側は現在でも幅60メートル、高さ10メートルにわたって立っています。この町はハンの周辺で発展してきました。ドイツの旅行者シューマッハーは1866年にハン・ユニスにやってきてこの町を次のように記述しました。「ここには良いマーケットがあり、多くの乾燥した食べ物や多くの豆を供給していて町の南側を占めている。この町は非常に注意深く正確にレイアウトされていて、通りは直角に交わっていて、清潔で広い。」
ハン・ユニスのそばにはイスラエルの入植地ネーブ・デカリムがあり、ここはガザ地区でもっとも大きな入植地の入り口となっています。パレスチナ人の街と入植地がこれほど近接している例はガザ地区でもめずらしく、第二次インティファーダが始まった後は数え切れないほどの侵攻と衝突で多くの人命が失われました。
ラファ
ラファ市はガザの38キロ南にあって、難民キャンプとあわせると人口は約9万2千人の町です(1999年の統計)。
この町は、エジプトとパレスチナの間に国境が引かれた1916年以来、国境の町となっていて、古くはクレオパトラの結婚式が行われたところとして有名です。現在もアルテミスとアポロンの神殿跡を見ることができます。ガザ国際空港が町の南東に作られましたが、現在は滑走路が破壊されて使用できません。しかし、今でも空港職員は毎日出勤して空港が再び使える日のために備えているそうです。
ラファの難民キャンプは1978年にエジプトとイスラエルで結ばれたキャンプ・デービット合意でシナイ半島がエジプトへ返還されたときに、新しい国境によって二つに分断されました。その時、新しい国境は家族や家そのものを文字通り分割してしまいました。この状況が国際的に非難されたにもかかわらず、これまで何も行われていません。かつては、毎日パレスチナ人の子どもや老人や女性たちが、会うことができない家族とフェンス越しに語り合う姿が訪れる人の胸をうちました。ここはかつてベルリンがそうであったように、分断された町なのです。
第二次インティファーダが始まった後、ラファのエジプト国境沿いの難民キャンプは、エジプトからの武器密輸トンネルを破壊するという理由で繰り返し攻撃を受け、国境沿いの地区の家々はすべて破壊されてしまいました。国境には高い(そして地下にも深く埋まった)金属の壁が立てられ、監視塔から狙撃兵が市民を狙い撃つガザ地区で最も死と隣り合わせの町になってしまいました。アメリカ人の平和活動家レイチェル・コリーさんがイスラエル軍のブルドーザーにひき殺されたのもこの町です。
ガザの入植地の撤収はラファの人々にとって朗報ですが、イスラエル側はエジプトとラファの間にあるフィラデルフィ回廊の管理を続けると明言しているので、ラファの人々が安心して眠れる夜がいつ来るのかはわかりません。
ベイト・ハヌーン
ガザ地区の北の端にある町です。イスラエル側の呼び名はエレツで、パレスチナ人がガザ地区からイスラエル側に行き来できる唯一のチェックポイント、エレツ検問所はこの町の名から来ています。この町はガザ市から近く、実質的にはガザ市の衛星都市のようになっていて、多くの人がガザ市に通勤していますが、ガザ地区の中では水資源に恵まれた土地で、農業も大変盛んです。水道水(地下水を汲み上げている)が塩辛いガザの人はベイト・ハヌーンに水を買いに行くというそういう土地です。
ベイト・ハヌーンはイスラエルとの境界線に近いため、パレスチナの武装組織がロケット弾をここからイスラエルの村に向けて発射して、イスラエル軍が報復のために侵攻するということが繰り返されました。特に昨年は衝突が激しく、多くの家屋が破壊されてしまい、子どもたちを含む大勢が死亡しました。
デリ・バラ
この古いパレスチナの町はガザ地区の中央にあり、ガザ市の13キロ南西の海岸に位置しています。他のガザ地区の町と同様に、古くからの町と難民キャンプが同居しています。オスロ合意が進展していた時期には、ここには貿易港の建設が進められていました。デリ・バラ村はナツメヤシの木が豊富で、おいしいナツメヤシの生産で有名です。村としての歴史は古く紀元前14世紀ごろには人が住んでいて、人型に似た石棺が数多く見つかっています。
ハン・ユニス
ガザ市の25キロ南、タクシーで30分から40分程度の、ガザ地区第2の都市で、近隣の村から農作物を売りにくる市場となっています。ここも、隣接してハン・ユニス難民キャンプがあり、合わせて約12万4千人が住んでいます(1999年の統計)。
ハン・ユニスなどガザの南部地域はガザ市と比べて貧しく生活が厳しいし、医療や福祉もより遅れています。また、援助も投資もガザ市に集中しがちです。また、ガザ全体で問題になっている水質は、ハン・ユニスが最悪の状態と言われています。
前回書いたように、ここには町には中心あるアミール・ユニスのキャラバン・サライ(隊商宿、アラビア語でハン)があります。このハンはこの地域ではアル・カーラ(要塞)とよばれていますが、それはオスマン時代の間、地中海沿岸の主要道路を支配する軍事基地として用いられていました。このハンは輸入されてきた石灰岩と地元の砂岩で作られていて、建物の中にはいくつかの大理石の床板を見ることができます。ハンの大部分は壊れてしまっていますが、ファサードの南側は現在でも幅60メートル、高さ10メートルにわたって立っています。この町はハンの周辺で発展してきました。ドイツの旅行者シューマッハーは1866年にハン・ユニスにやってきてこの町を次のように記述しました。「ここには良いマーケットがあり、多くの乾燥した食べ物や多くの豆を供給していて町の南側を占めている。この町は非常に注意深く正確にレイアウトされていて、通りは直角に交わっていて、清潔で広い。」
ハン・ユニスのそばにはイスラエルの入植地ネーブ・デカリムがあり、ここはガザ地区でもっとも大きな入植地の入り口となっています。パレスチナ人の街と入植地がこれほど近接している例はガザ地区でもめずらしく、第二次インティファーダが始まった後は数え切れないほどの侵攻と衝突で多くの人命が失われました。
ラファ
ラファ市はガザの38キロ南にあって、難民キャンプとあわせると人口は約9万2千人の町です(1999年の統計)。
この町は、エジプトとパレスチナの間に国境が引かれた1916年以来、国境の町となっていて、古くはクレオパトラの結婚式が行われたところとして有名です。現在もアルテミスとアポロンの神殿跡を見ることができます。ガザ国際空港が町の南東に作られましたが、現在は滑走路が破壊されて使用できません。しかし、今でも空港職員は毎日出勤して空港が再び使える日のために備えているそうです。
ラファの難民キャンプは1978年にエジプトとイスラエルで結ばれたキャンプ・デービット合意でシナイ半島がエジプトへ返還されたときに、新しい国境によって二つに分断されました。その時、新しい国境は家族や家そのものを文字通り分割してしまいました。この状況が国際的に非難されたにもかかわらず、これまで何も行われていません。かつては、毎日パレスチナ人の子どもや老人や女性たちが、会うことができない家族とフェンス越しに語り合う姿が訪れる人の胸をうちました。ここはかつてベルリンがそうであったように、分断された町なのです。
第二次インティファーダが始まった後、ラファのエジプト国境沿いの難民キャンプは、エジプトからの武器密輸トンネルを破壊するという理由で繰り返し攻撃を受け、国境沿いの地区の家々はすべて破壊されてしまいました。国境には高い(そして地下にも深く埋まった)金属の壁が立てられ、監視塔から狙撃兵が市民を狙い撃つガザ地区で最も死と隣り合わせの町になってしまいました。アメリカ人の平和活動家レイチェル・コリーさんがイスラエル軍のブルドーザーにひき殺されたのもこの町です。
ガザの入植地の撤収はラファの人々にとって朗報ですが、イスラエル側はエジプトとラファの間にあるフィラデルフィ回廊の管理を続けると明言しているので、ラファの人々が安心して眠れる夜がいつ来るのかはわかりません。
2005/7/3 13:57
夏休みの自由研究:ガザに見る人類の足跡 分類なし
アフリカとアジアをつなぐ位置にあるガザ地区は、有史以前から通行路・戦場として重要な位置を占めていました。
現在有力な「出アフリカ」説に従えば、現生人類(新人)の起源はアフリカにあり、そこからユーラシアに広がったと考えられます。そして、アフリカ以外の最も古い新人の化石はイスラエルのカフゼー洞窟から見つかっています。それは約10万年前のものです。アフリカを出た最初の人類が、地形の平坦なシナイ半島の北側からガザを通ってそこに辿り着いたというのは十分ありそうです。しかし、このカフゼーの人々がそのままユーラシアの人間の祖先となったわけではなさそうです。彼らはそこで足止めを食って遠くに拡がることはありませんでした。イスラエルやシリアの遺跡では約4万年前まで旧人であるネアンデルタール人の化石が見つかっており、新人の足跡はそこで途絶えています。
現在アフリカ以外の場所に住む人々の遺伝子がとても均質なので、ある時アフリカを出た共通のごくわずかな数の祖先から枝分かれしたというのが「出アフリカ」説の基本的な考えです。我々の祖先はガザを通過したのかもしれませんが、氷河期当時はもっと狭かった紅海の入り口をエチオピアからアラビア半島に渡ったのかもしれません。いずれにせよ、その彼らはユーラシア大陸の南岸に沿って拡がり、環境に適応しながら再び地中沿岸まで戻ってきました。
ガザに人が住み着いたのが分っているのは紀元前6千年頃で、前3千年頃にはカナン文明の都市の中心となりました。ワジ・ガザの北の岸にあるテル・アル・アジュールの遺跡からははたくさんの陶器、アラバスター、青銅器が発見されており、東エルサレムのロックフェラー博物館に展示されています。また、エジプトがこの地域を支配するようになるとガザはエジプト王朝の行政的な首都となりました。
紀元前12世紀頃に入ると「海の民」の呼ばれる武装難民集団が地中海に登場し、ミケーネ文明を衰退させます。ペリシテ人はこの海の民の一部で、エジプトと海の民がガザで激しい戦いを繰り広げたことがメディネト・ハブのラメセス3世葬祭殿の壁画に描かれています。このペリシテ人の名がパレスチナという言葉の元となりました。「海の民」の正体は世界史の謎ですが、その前の時代のクレタ文明の崩壊、気候変動など様々な要因で玉突き式に多くの民族が移動を始めたのではないかと思われます。
鉄器時代初期にはガザ港の役割は重要なものとなりました。旧約聖書のサミュエル前書には、ペリシテ人が鉄器を紹介しそれを独占していたとあります。カルタゴ人の陶磁器がテル・ルキッシュ(デリ・バラの近く)の共同墓地で発見されています。
その後もガザはエジプトとアッシリア帝国やバビロニアとの戦いに巻き込まれるなどし、紀元前332年に町はアレキサンダー大王に攻略されガザは2ヶ月もの間抵抗しましたが、最終的に陥落し住民は虐殺されたか奴隷として売り飛ばされました。前64年にはローマに占領され、前34年にはローマ属領ユダヤ王国のヘロデ大王に引き継がれましたが、その後ローマ直轄領になります。初期キリスト教時代、ガザは哲学と修辞学の学校で有名でした。この時代の大きな集落後がジャバリア難民キャンプのそばから発掘されていて、モザイクの床や舗装された道路跡、装身具などが見つかっています。また、ビーチ難民キャンプの北西には当時の港湾都市アテンドン(ギリシャ語で花々の場所)の遺跡があり、その南のマウイマスの遺跡は4〜6世紀の都市の跡で、教会跡が見つかり、中にいろいろな動物が描かれている円形のモザイクや、竪琴を弾くオルフェウスの姿がありました。これらのモザイクはエルサレムのイスラエル博物館に移され、現在は幾何学模様の枠だけが残っています。
ビザンチン帝国時代は季節ごとにバザールで有名で、それはアラブ部族クライシュ族によって運営されていて、第二代カリフのオマル・ブン・ハッターブはガザにおける交易で利益を得ました。637年にはイスラム帝国による支配が始まり、十字軍の支配を除いて、12世紀までアラブの支配下にありました。マムルーク朝のもとでガザは大きく発展し、モスクや学校、病院、浴場などが建設され、彼らの時代はパレスチナにおける黄金時代と考えられています。スルタンの副官であったアミール・ユニス・イブン・アブダラー・アル・ナウルージは1387年にガザ地区南部にハン(キャラバン・サライ)を建てて通行する旅行者、巡礼者、キャラバンに安全な場所を提供しました。その建物は今でも見ることがで、それがハン・ユニスの町の語源になりました。
ガザ市で最も有名なサイード・ハシム・モスクは後のオスマン時代の建物ですが、ここには預言者ムハンマドの曾祖父ハシムが埋葬されているという言い伝えがあります。ハシムはアラビアとダマスカスを往復する商人で、毎年ガザで夏を過ごしていましたが、滞在中に亡くなり、市の城壁に近い洞窟に葬られたといいます。ガザの人々はこの周辺を好んで墓所とするようになりました。
ガザは1516年にマムルーク朝からオスマン帝国の手に渡り、ガザは400年間トルコの支配下にありました。エジプト遠征の帰途のナポレオンが一時占領し、そのとき彼が司令部に使ったガザ市内の建物は現在は女子校になっていて、放課後であれば管理人に頼んで中を覗かせてもらうことができます。
ガザ地区の地下にはまだまだ多くの人類の宝が眠っているに違いありませんが、組織的な発掘は始まっておらず、政治的な混乱や戦闘で文化財はむしろ失われ続けています。平和は、ガザの人々の現在の暮らしはもちろんのこと、人類の過去と未来を守るためにも必要なことです。
現在有力な「出アフリカ」説に従えば、現生人類(新人)の起源はアフリカにあり、そこからユーラシアに広がったと考えられます。そして、アフリカ以外の最も古い新人の化石はイスラエルのカフゼー洞窟から見つかっています。それは約10万年前のものです。アフリカを出た最初の人類が、地形の平坦なシナイ半島の北側からガザを通ってそこに辿り着いたというのは十分ありそうです。しかし、このカフゼーの人々がそのままユーラシアの人間の祖先となったわけではなさそうです。彼らはそこで足止めを食って遠くに拡がることはありませんでした。イスラエルやシリアの遺跡では約4万年前まで旧人であるネアンデルタール人の化石が見つかっており、新人の足跡はそこで途絶えています。
現在アフリカ以外の場所に住む人々の遺伝子がとても均質なので、ある時アフリカを出た共通のごくわずかな数の祖先から枝分かれしたというのが「出アフリカ」説の基本的な考えです。我々の祖先はガザを通過したのかもしれませんが、氷河期当時はもっと狭かった紅海の入り口をエチオピアからアラビア半島に渡ったのかもしれません。いずれにせよ、その彼らはユーラシア大陸の南岸に沿って拡がり、環境に適応しながら再び地中沿岸まで戻ってきました。
ガザに人が住み着いたのが分っているのは紀元前6千年頃で、前3千年頃にはカナン文明の都市の中心となりました。ワジ・ガザの北の岸にあるテル・アル・アジュールの遺跡からははたくさんの陶器、アラバスター、青銅器が発見されており、東エルサレムのロックフェラー博物館に展示されています。また、エジプトがこの地域を支配するようになるとガザはエジプト王朝の行政的な首都となりました。
紀元前12世紀頃に入ると「海の民」の呼ばれる武装難民集団が地中海に登場し、ミケーネ文明を衰退させます。ペリシテ人はこの海の民の一部で、エジプトと海の民がガザで激しい戦いを繰り広げたことがメディネト・ハブのラメセス3世葬祭殿の壁画に描かれています。このペリシテ人の名がパレスチナという言葉の元となりました。「海の民」の正体は世界史の謎ですが、その前の時代のクレタ文明の崩壊、気候変動など様々な要因で玉突き式に多くの民族が移動を始めたのではないかと思われます。
鉄器時代初期にはガザ港の役割は重要なものとなりました。旧約聖書のサミュエル前書には、ペリシテ人が鉄器を紹介しそれを独占していたとあります。カルタゴ人の陶磁器がテル・ルキッシュ(デリ・バラの近く)の共同墓地で発見されています。
その後もガザはエジプトとアッシリア帝国やバビロニアとの戦いに巻き込まれるなどし、紀元前332年に町はアレキサンダー大王に攻略されガザは2ヶ月もの間抵抗しましたが、最終的に陥落し住民は虐殺されたか奴隷として売り飛ばされました。前64年にはローマに占領され、前34年にはローマ属領ユダヤ王国のヘロデ大王に引き継がれましたが、その後ローマ直轄領になります。初期キリスト教時代、ガザは哲学と修辞学の学校で有名でした。この時代の大きな集落後がジャバリア難民キャンプのそばから発掘されていて、モザイクの床や舗装された道路跡、装身具などが見つかっています。また、ビーチ難民キャンプの北西には当時の港湾都市アテンドン(ギリシャ語で花々の場所)の遺跡があり、その南のマウイマスの遺跡は4〜6世紀の都市の跡で、教会跡が見つかり、中にいろいろな動物が描かれている円形のモザイクや、竪琴を弾くオルフェウスの姿がありました。これらのモザイクはエルサレムのイスラエル博物館に移され、現在は幾何学模様の枠だけが残っています。
ビザンチン帝国時代は季節ごとにバザールで有名で、それはアラブ部族クライシュ族によって運営されていて、第二代カリフのオマル・ブン・ハッターブはガザにおける交易で利益を得ました。637年にはイスラム帝国による支配が始まり、十字軍の支配を除いて、12世紀までアラブの支配下にありました。マムルーク朝のもとでガザは大きく発展し、モスクや学校、病院、浴場などが建設され、彼らの時代はパレスチナにおける黄金時代と考えられています。スルタンの副官であったアミール・ユニス・イブン・アブダラー・アル・ナウルージは1387年にガザ地区南部にハン(キャラバン・サライ)を建てて通行する旅行者、巡礼者、キャラバンに安全な場所を提供しました。その建物は今でも見ることがで、それがハン・ユニスの町の語源になりました。
ガザ市で最も有名なサイード・ハシム・モスクは後のオスマン時代の建物ですが、ここには預言者ムハンマドの曾祖父ハシムが埋葬されているという言い伝えがあります。ハシムはアラビアとダマスカスを往復する商人で、毎年ガザで夏を過ごしていましたが、滞在中に亡くなり、市の城壁に近い洞窟に葬られたといいます。ガザの人々はこの周辺を好んで墓所とするようになりました。
ガザは1516年にマムルーク朝からオスマン帝国の手に渡り、ガザは400年間トルコの支配下にありました。エジプト遠征の帰途のナポレオンが一時占領し、そのとき彼が司令部に使ったガザ市内の建物は現在は女子校になっていて、放課後であれば管理人に頼んで中を覗かせてもらうことができます。
ガザ地区の地下にはまだまだ多くの人類の宝が眠っているに違いありませんが、組織的な発掘は始まっておらず、政治的な混乱や戦闘で文化財はむしろ失われ続けています。平和は、ガザの人々の現在の暮らしはもちろんのこと、人類の過去と未来を守るためにも必要なことです。
2005/6/26 20:07
夏休み 分類なし
先週お伝えしたとおり、アトファルナろう学校は8月末まで夏休みに入りました。
ガザの夏は、日本と同様、あるいはそれ以上に蒸し暑く過ごし難い季節です。しかし、同時に開放的な気分にもなれる季節でもあるようです。ガザ市では多くの人が海岸に出かけて一時の涼を求めて海に入ります。女性たちは服を着たまま。海岸の道路では露店が出て飲み物やスナックなどを売っています。
2000年9月にインティファーダが始まって以来、夏も安心して過ごせる季節ではなくなっていました。曲がりなりにも和平が進んでいた頃に作られた遊園地などはもう人が訪れることもなくなってしまいました。それでもやはり夏は楽しい季節であるようです。
この夏は8月にガザから入植地とイスラエル軍の撤退が予定されています。その撤退が予定通り行くのか、弱体化して腐敗の噂も絶えない自治政府が順調にガザ地区を統治していけるのか、ほぼ壊滅状態の経済が少しでも上向くのか、いろいろな不安を抱えながらの夏休みです。
今年は夏休みが開けた後、10月の初旬からラマダンが始まります。その後はお祭りの時期が続き、寒くて雨が多い冬に向かっていきます。
でも、いつの時でも人々の日常生活は続き、そして子どもたちには、笑顔で勉強したり遊んだりする権利があるはずです。夏休みに入った子どもたちが、全員元気良く新学期を迎えられるように祈っています。
2005/6/19 23:13
おもちゃ支援ありがとうございます 分類なし
アトファルナろう学校の二学期も終わり、秋からの新しい学年にむけての夏休みが始まりました。多くのアトファルナの生徒たちにとって、夏休みは手話で話せる仲間たちと離れる少し淋しい時期でもあります。そんな中、昨年の夏に皆さんから支援していただいたおもちゃの配布の写真が届きました。子どもとして遊ぶ機会もなかなか得られない子どもたちにとって、自分のおもちゃを手に入れられることは、自分が一人の人間と認められているんだと自覚できるとても大切なことです。これからも変わらない支援をお願いします。
2005/6/11 20:06
子どもたちとその家族のために 分類なし
子どもの教育が、家庭と学校が手を携えて行われなければならないものであることは、パレスチナであれ日本であれ、あるいはろうの子どもであれ健聴の子どもであれかわりはありません。しかし、失業率が53%、一人一日2ドル以下で生活する貧困ライン以下の世帯が60%、人口の13.3%が栄養失調の状態にある(サハラ以南のアフリカの最貧国と同水準、世界銀行2003年)というガザ地区では、子どもたちに十分な保護を与えられる家庭の方が少なくなっています。
フセイン君のお話の中に出てきたアトファルナの「家庭支援部門」(Information, Case Management, and Client Advocacy Unit,ICCA)は3年前にろう学校の地域サービスセンターの活動として開始されました。この部門の設立によって、ガザ地区においてヘルスケア、人道援助、社会参加、特殊教育、社会福祉の活動行っている他のNGOや公的機関との効果的な連携と相互補完体制が確立されました。
ICCAは3名のパレスチナ手話に堪能なケースマネージャーを擁して、聴覚障害者とその家族向けのカウンセリング、両親向けの子どもの養育指導、他機関との連携による様々な社会福祉サービスの提供、教育活動を行っています。
アトファルナは学校という孤島ではなくて、自分たちには手の届かないことは地域と連携しながら、地域にしっかり根ざし、また地域に明かりを照らす灯台としても活動しています。フセイン君の事例はその一つです。
2005/6/4 20:08
最近のアトファルナからの知らせ(2) 分類なし
特別教室のフセイン君
フセイン君は新しく作られた「年長者教室」の20名の生徒の一人です。彼には、16歳、19歳、23歳の3人の姉がいて、皆ある程度聞こえに問題があります。また、フセイン君の母親もほとんど聞こえません。母親と姉たちは1992年にアトファルナろう学校が開校してはじめてガザ地区の聴覚障害者への教育が始まったため、まったく学校に行けませんでした。
フセイン君はとても貧しい家で育ちました。フセイン君の母親のニーマは妊娠3ヶ月で、大勢の家族のための仕事がたくさんあって、アトファルナでの母親のための手話教室には通えません。父親は時々市場の下働きの仕事があるだけで、月の収入は200〜500シェケル(5000円〜12000円)ほどです。そのため、この家族はガザの他の何千もの世帯と同様に貧困ラインよりはるかに下の暮らしを強いられています。時々近所の人や親戚がフセイン君の家族に食べ物や服を分けてくれます。
フセイン君と他の11人の家族はアパートの屋上の二部屋のフラットで暮らしています。二年前には部屋には電気が来ていませんでした。そこで、アトファルナの家庭支援部門は家族の部屋に電気が通じるように援助しました。家族の持っている家具は、扉の壊れた空っぽの戸棚と、部屋の隅に重ねられたマットレスだけです。地元の支援者の助けがあって、アトファルナは新しいマットレスとプラスチックのテーブルといすのセットを家族に贈りました。また、時折は調理に使ったり、冬には暖房に使うプロパンガスも手に入れられるようになりました。
フセイン君が始めて特別クラスにきたときには、彼は落ち着きがなく、規律がなく、先生たちに非協力的でした。彼は手話を一つも知らず、元気がなく、だらしない服装をしていました。
現在は特別教室での彼への教育の成果が現れています。彼は先生や友だちと友好的に関わることを学びました。彼は上手に手話を使い、彼の担任のモハメッド先生に注意を払い、授業に集中するように努力しています。フセイン君は、徐々にアラビア語の読み書きを覚えています。最初は教科書の言葉を写すだけでしたが、最近は文章全体を写しています。しかし、黒板に書かれた言葉を読むのはまだ難しいようです。
2005/5/30 21:37
最近のアトファルナからの知らせ(1) 分類なし

最近アトファルナから届いた学校と生徒たちの様子です。
封鎖の下でのアトファルナの教師たち
私はアトファルナろう学校の教師の一人です。二学期の最後の何日間か、ガザ地区の状況は以前よりも悪化しました。イスラエル軍がガザ地区を三つに分断したのです。そのために、ハン・ユニス(ガザ地区南部の町)の子どもたちは学校に来ることができなくなりました。そのため、私と同僚たちは、学校があるのと同じように授業を続けようと、子どもたちの家のそばに臨時の教室を作ることにしました。まず私たちはハンユニスの赤新月(赤十字)と連絡をとって、期末試験を行う教室を確保しました。私たちは、アトファルナの人たちと十分調整を行い、コミュニケーションを続ける中で、14人の生徒に補習と試験を行えるようにちょうど合った時間割を作れたことをとても誇りに思っています。
ガザの通りを歩く
リーナは家の近所の通りの名前を習って、街路名を書いた標識の読み方を覚えました。また、家に帰る道をみつける目印になる場所や建物に注意しながらガザの街を歩くことを覚えました。今では、彼女は通りを渡るのに一番安全なのは信号機のある交差点であることを知っています。彼女は歩行者用の信号機が緑の時は車は横断歩道を横切ってはいけないことや、それでも道を渡るときは車がこないか確認した方が良いことにすぐ気がつきました。リーナは道に迷ったら、どこで助けを求めるのが良いのか知っていますし、知らない人についてこさせないことも知っています。そんなことを知るようになるのとともに、彼女は自分のまわりの環境に関する疑問も持つようになりました。「どうしてあっちの通りにはたくさん樹があって、こちらには少ししかないの?」「わたしたちは学校でごみはごみ箱に捨てるように習ったのに、他のみんなは車の窓からごみを放り出すの?」学校のソーシャル・ワーカーも時々同感になります。この街では、時々彼女の質問に答えるのが難しくなるのです。我々の学校を支援してくださる皆さんが、リーナがこの街についてより良く学び、通りを歩くことで体を丈夫にして、そして彼女が新しくみつけたことを不思議に思うことを可能にしてくれているのです
