2007/7/28 18:51
個展作品解説C鉛の駒 美術・アート
おしゃぶりから始まり、公園とかで鎖の繋がっている杭、墓標などと、
鑑賞者に意外に何の形態だか伝わらなかったのが地下室の作品であった。
実際のところは、市販のチェスの駒(ポーン)を20倍に拡大したものである。
表面は鉛板で包み、腐食しただけあり、相当重厚に見えるし、実際も相当な重さである。西洋将棋といわれるチェスだが、日本の将棋と比較すると駒の動きなど異なる点も多いが、
ほぼ共通することの一つは最前列は歩兵ということである。
日本の歩兵に対してチェスではポーンなのである。
つまり、戦を模したしたボードゲームでも、各国共通して前列は槍・弾を真っ先に受ける兵隊が並ぶ。現在の社会状況でいうならば、一般民・市民ということになるのではないだろうか。
事実、いまだに続く「自爆テロ」は市民が弾となっている。
多くの人間を巻き込むその行為を良しとする人などいるはずはないが、
60年前、「自爆」を美化しながらおびただしい若者の命を奪い取った国こそ日本であることからすると、
「テロ」という単語を組み合わせることに若干の違和感も抱かないかのように、
ニュースキャスターがその単語を読み上げるたびに「時代が変わった」ではすまされない感覚を覚える。
テロというのはそれをされる側から見たときにその攻撃をそういうのであって、
大量破壊兵器も実際にはないにも関わらず、9.11の動揺・怒りを利用し、
他国に攻め込んだアメリカが口にすることではない。
同盟国という口実でそれを支える日本は、
60年前追いつめられた自国の事実を「過去の記憶」としてしまうのか。
言いたいのは、自爆テロの是非ではなく、
公正な感覚と判断力を個々人が持たなくてはならないということなのである。
「特攻」の飛行士はすでに高齢だろうし、
当時それを送り出した母親はさらに高齢でその該当者数は極めて少ない。
つまり、数の原理を民主制と勘違いしている一国のなかでは、仮に彼女等がどのような意見を思ったとしても、消されてしまう状況である。
息子を泣く泣く戦場に送り出した母親の言葉を察するならば、
「時代も変ったな」と自分を押し殺すように言うのが精一杯なのではないだろうか。
何故、痛みを嫌というほど味わった国が、
同様の傷みを第3国に与える側の国の後押しをしなくてはならないのかということ。
侵略された側からすれば、後押しどころかまったく同格の存在として映っているに違いない。
弾の原料になる鉛でポーンを包んだのは、
もっとも護られなくてはならない市民が弾になっていることに警鐘を鳴らしている。
先日、あるチャンネルの報道で、「テロのアマチュア化」が起きていると、
長引く混迷のなかの僅かな変化を評論家のように語っていたが、
マスコミとして本当に語らなくてはならないのは、
そんなもっともらしい言葉を捺しはめるのではなく、
そこまで、つまり市民をギリギリの状態にまで追いつめてしまっているという状況の
大元の原因を明確に報じることではないのか。
3階の展示が問題提起とすると、
自分で出したその命題に自分なりの一解答を提示する意味合いで地下室の展示は存在する。
詩情を減らしたリアルな感情表現であり抗議文にも近い。
2007/7/27 22:01
個展作品解説B「鉛の櫂」 美術・アート
手漕ぎ舟の櫂と、それを静かに横たえるためだけに作られた台座は、
ともに鉛で包まれ、厳密にいえば、展示空間においても微熱を発しながら、
腐食という遅々たる時間経過を鑑賞者と共有したことになる。
展示空間、床中央に配置されるそれは、
コンクリートむき出しの床と塩で繋がり、
使い込まれたビルそのものを通して、意識は大地へと浸透する。
すべての人が、生まれたときにもれなく手にする、
方位磁針と時計のそれぞれを懐中深くに秘めて、
人の一生は小舟を漕ぎだすようなものである。
もう少し具体的な表現を加えるならば、
豪華客船に大枚をはたいて、乗りさえすれば、
新鮮な風と陽光を受けながら、
プールサイドで喉を潤しているうちにパラダイスに到着するほど、
安穏を保証されたものではない。
国としての方向も明確でなければ、
その構成要素としての個々人(市民)の
価値基準やその尺度の差はあまりにも多様である。
さらにいえば、もともとパラダイスとされていた実体が、
実は無理な刷り込み作業の上に立つ虚像であったことに
気づく時季に熟したのかもしれない。
鉛の櫂の象徴性は痕跡か期待か。
鉛で包まれ、外界からの刺激から護られるかたちの櫂を、
一人の人間が、懸命に生きた痕跡としての象徴とした場合、
中央のオブジェは大地または海に回帰するための墓標そのものである。
また、個々人が漕ぎだすべき行為・意識の方向性の確証とするならば、
「望みをつなぐ」という意味の期待をこめた象徴として、
指標と翻訳することも可能な範囲である。
2007/7/26 23:21
個展作品解説A「行為の視覚化」 美術・アート
絵画がイリュージョンであるとする考え方は現在も存続し、
日本においては数的にも圧倒的だが、
そればかりではないという動向があってから、
すでに60年ほどの時間の経過したのも事実である。
ジャスパージョーンズの星条旗や数字を扱った作品の意義は、
やはり、美術史において、ひとつの大きな分岐点であることには違いない。
その後、制作者の意識の表出のされ様はさまざまに変化したものの、
先の分岐点を上回るものはなかなかない。
言い方を変えると、その後、注目される作家が現われたとしても、
平面作品を実体として存在させるということに着目する契機の多くは、
彼から始まっているようにさえ思えるのである。
描くという行為を、再現行為とせず、
制作者と実体とが向き合う手だてとしたことは、やはり巧みである。
今回、私は作品解説@で述べた作品の制作過程で、
シャーレ上の文字の印刷はシルクスクリーンであった。
現在の自分が拘っている考えを、日本語によってストレートに表現したわけだが、
刷り上げあれた実体としての作品と同様、
むしろ、その後の行為の継続を感じさせる分だけ、
より大きな重さで意味を持っているのは、
まるで、確実に制作行為をなしたとでもいうかのように(ー証拠、痕跡のように)
インクが薄らと残るシルクの版そのものなのである。
行為を視覚化する方法の一つである。
自己の主張に対して明確な表現をする制作スタイルと、
私の今後の、制作意思の方向を確認する意味で、
版はアクリルケースのなかで、その存在位置を確保した。
2007/7/25 21:23
個展作品解説@「朽ちる方位磁針とその行方」 美術・アート
壁から突き出した5つの鉛の台の上には、
ひとつずつシャーレが置かれ、
それぞれの中には中央に方位磁針が配置されている。
右に行くほどに腐食は進み、
5つ目の方位磁針に至ってはそのガラスも割れ、
針も方向を指し示すのがやっとの状態となっている。
時間は右に行くほど経過し現在に近づく。
現在および将来を表した一番右側のシャーレには、
確定した西暦は印刷されてはいない。
シャーレは、私の経験では、
カビの増殖などの変化、または異なる条件での変化の比較などの実験で、
幼いころに、接した理科機器であるが、
今回はその使用目的を作品のコンセプトと重ねている。
シャーレ上面には、日本語によるメッセージと西暦を平行してシルク印刷した。
私は作品面に文章等を付す場合、
英文またはローマ字などアルファベットに置き換えることが多く、
日本語による直接的な表現は始めてである。
これまでは無意識のうちに、画面上の線という構成要素として置き換え
(内容を薄めて)、絵づくりをしていたことになる。
一番左のシャーレの文章は、
若い二人からやっと生まれ落ちた一人
それがこの自分
1959
時代は当然自分の存在以前からあるが、
自己の存在を与えられてから認識されるのであるから、
自己のスタートを表わすシャーレは一番左の配置とはしているが、
さらにその左の存在についても肯定的な認知の範囲としている。
つまり、私のなかでは、
極めて個人的意思の表現でありながら、
全体のなかの個としての意味も重ね、
客観的表現としての余地、
鑑賞する側の視点との価値観との共有を望んでいることになる。
人は生まれるときに、時計と方位磁針を預かり受け、
その一生をスタートさせるようなものだろう。
生まれたばかりの乳児の眼球の白が汚れなく、
青みがかっているように、方位磁針は真新しいものとした。
2001年9月4日から1年間、
文化庁の在外派遣研修員としてニューヨークに滞在し、
制作行為の意味を否応なく考えさせられた私にとって、
左から二番目のシャーレは以下のようになった。
信じられないことが起きたというのであれば、
いったい、何を信じられることとして
それまで信じてきたのだろう
2001
2007/7/21 23:26
グループ2活動開始 美術教育系
グループ2もいよいよプランの実践に向けて、受け入れの場を模索し始めた。
「親子の関係性」をテーマとして、
学年の枠を越えた児童およびその親子を対象とする彼らの企画の受け入れは、
学校という枠組みから考えると困難な点が多い。
そこで多くの方の紹介や協力で、たどり着いたのが「子どもたちの森」。
この森はかなり広く、こういった環境で成長する子どもたちは、
自然のなかできっと活発な遊びもしているのだろうと想像できた。
(実は、大学からこんなに近くに動物公園があること、
そう、あの「フー太くん」がこんなに近くにいるとは知りませんでした。)
子どもたちの森へは、動物公園の有料駐車場に車を置き、
用水路わきの細い道を登っていくのですが、なかなかこれが急傾斜で、うっかりすると滑ります。鳥のさえずりも自分の視点よりも低いところからが聞こえ、不思議な感覚を覚えました。そして、しばらくすると広場が見えてくるのです。
G2の二人は、北村さんをリーダーとする4人のスタッフの方と顔合わせをし、企画の意図とおおよその内容を確認し、了解を得ることが出来ました。
その先は細かな時程等の計画をするよりも、まずは対象となる児童と会ってからの方が良さそうということとなり、G2のメンバーは今後、何度か現地に通うこととなる。
学校という枠組から離れた集団であるから、いっそう、個々の状態やその集団としての動きの方向を知ることは必須といえるだろう。それが十分でなければ、大人がある日勝手にやってきて、独り相撲しただけのようなこととなってしまう。子どもたちを子どもと思わず、明確な一人格を持った存在として理解するということの難しさに触れていこう。知識量やネイムバリューにプライドを持つことなく、それに見合った実践力が身に付いてはじめて意味を持つということに気がつくチャンスが実践的活動です。
リーダーの方も暖かく、そして厳しそうで、ありがたかったです。
紹介していただいた方々にも感謝しています。
2007/7/15 21:13
グループ1の実践 美術教育系
ワークショッププランを企画するだけならともかく、さらにその受け入れ先を探し実践することは、前期だけの15週間では正直なところ無理に近かった。私の完全な誤算だったのだが、弥生小学校の先生方の大いなる協力で無事実践することが出来ました。これを機会に今後さらに発展的な共同活動が出来ることを願っています。
グループ1の彼らが進めた授業内容も、もちろん今後の課題は残してはいるものの、連日の準備から含めた一人一人の猛烈な活動量で完成度は高かったように思えます。
ワークショップとはいうものの、今回は学校現場で展開することもあり、教育実習と変らないと思われる方もいるかもしれませんが、相違点は決して少なくはない。まず教育実習ではないので卒業条件としての義務ではなく、卒業条件とは別に、対象となる児童生徒に「これだけは伝えたい」とする積極的で強い意志がが大前提となっている点。また、彼ら自身は実習生ではなく評価されることもないので、
その分、受け入れ先には大きな負担をかけていることを自覚して、
むしろ、いっそう細心の注意を払い、協力校とさまざまな点を確認した上で、
それでも伝えたいことが何であるのかを整理して実践する必要がある点。
実践する側も、受け入れて下さる側も、
学校におけるワークショップが、
児童生徒に対して、教育実習よりもさらに+アルファーとなる何らかの可能性を期待し、前向きで真剣な信頼関係で繋がっているのであるから。
今回のグループ1のメンバーには留学生も含まれていたが、
積極的な自分の努力がプラスとなって得ることのできた日本における貴重な実践経験として、是非、大切な記憶とされて欲しい。
(今回の実践の写真資料は、肖像権の確認がとれてから。)
グループ2・3・4の実践は、彼らが試験期間となることから、
極力今月中に協力校に打ち合わせに行かせていただき、
実践は9月を期待している。
グループ1の彼らが進めた授業内容も、もちろん今後の課題は残してはいるものの、連日の準備から含めた一人一人の猛烈な活動量で完成度は高かったように思えます。
ワークショップとはいうものの、今回は学校現場で展開することもあり、教育実習と変らないと思われる方もいるかもしれませんが、相違点は決して少なくはない。まず教育実習ではないので卒業条件としての義務ではなく、卒業条件とは別に、対象となる児童生徒に「これだけは伝えたい」とする積極的で強い意志がが大前提となっている点。また、彼ら自身は実習生ではなく評価されることもないので、
その分、受け入れ先には大きな負担をかけていることを自覚して、
むしろ、いっそう細心の注意を払い、協力校とさまざまな点を確認した上で、
それでも伝えたいことが何であるのかを整理して実践する必要がある点。
実践する側も、受け入れて下さる側も、
学校におけるワークショップが、
児童生徒に対して、教育実習よりもさらに+アルファーとなる何らかの可能性を期待し、前向きで真剣な信頼関係で繋がっているのであるから。
今回のグループ1のメンバーには留学生も含まれていたが、
積極的な自分の努力がプラスとなって得ることのできた日本における貴重な実践経験として、是非、大切な記憶とされて欲しい。
(今回の実践の写真資料は、肖像権の確認がとれてから。)
グループ2・3・4の実践は、彼らが試験期間となることから、
極力今月中に協力校に打ち合わせに行かせていただき、
実践は9月を期待している。
2007/7/10 22:19
リハーサルグループ4 美術教育系
今回のグループのワークショップは、
コミュニケーション能力が確実に低下している現在、言葉によるものだけでなく、別な要因まで重ねながら、自然にそれを補うことを目標としているようだ。また、普段接することの少ない相手と話す切っ掛けそのものになることも彼らの想定内である。
今回はクラスメート同士が、互いが感じている印象を、色彩と言葉で伝えようとするもの。
色彩は相手の性格または雰囲気の成分とし、その色彩紙を画面上に自由に配置することで、微妙なニュアンスまで表現することも可能にしようとしている。
色彩紙やそれを貼付する窓の空いた折りたたみ式のカードも、システマチックで引き込まれた。
具体的な展開を想定した物品の準備、進行のテンポ、彼らがねらいとするところも明確で、完成度の高さを感じた。何点かのマイナーチェンジをしながらワークショッププランとして仕上げて欲しい。
気になるとすれば、一対一の作品の交換の場合は、受け手が自分の印象を他者がどのように感じているかという手がかりとして読み取ろうとしたときに、データ量として不足し偏るのではないかということ。
互いが距離を狭め、前向きにコミュニケーションをとるための方法となることを願う。
2007/7/10 14:42
グループ3リハーサル 美術教育系
グループ3の内容は身近な材料を使用しながら、
大型の作品を共同制作するというもの。
参加者に予め指示徹底するのではなく、協力しなくては仕上がらないサイズというハードルを課題内に組み込んでいることには、私自身の活動の中でも大切にしていることであり、魅力として感じることが出来た。
ただ、仕上がってくるものの完成度、質のようなものをどのように予想するかは、
今後の課題とすべきだろう。また、何を身近な素材として扱わせ、
触覚的な面からも何を伝えようとするのかについても考慮の余地がありそうだ。
材料集めも制作の重要なポイントとしていることは大いに頷けるわけで、
それを集めやすいということの利点とだけするのか、
日常の素材を素材という観点から振返る切っ掛けとするのかでは、
内容の期待値にも開きがあるだろう。
場合によっては、逆に集めづらくても、
それをして参加者に伝えるということが重要な場合もあるのですから。
まず、何を問題視するかその核心を確かめ、
どのように伝えるかという方法を考えること。
その際、その流れを的確にする方法として、材料や動作に焦点を当て、
明確なキーとすることも重要であるということを考えて欲しい。
今回のグループ3は、そのメンバーが公欠のために2名も抜け、
ごく限られたスタッフでの活動でしたが、
一人一人が活動量の多い動きをすることで、
進行などに関しては大きく気になる点はなかった。
ワークショッププランを整理して完成に導いてください。
2007/7/9 1:01
千葉二紀展から 美術・アート
展示作品「message 2007」について
人の一生を河の流れに例えて、
どのくらい下流まで流れてきたかと思えば、
意外にまだまだ流れは穏やかではない。
いつ終わるか分からない流れではあるが、
その時々に口をつくリアルな言葉に例えるなら、
書き出しの鍵括弧、つまり「 だけが事実。
2007/7/8 19:27
個展から 美術・アート
3F展示













B1展示


B1展示



