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人生楽しく生きる・その3 RSS
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投稿日時 2008/4/12 9:16:53
更新日時 2008/5/7 14:15:49
2008-05-07

(75)大食い放送何事ぞ

ハッと気付く世相を考えた。今私達は物質的に非常に恵まれた便利な環境の中で暮らしています。

だが、生活が快適になり、これで本当に良いのかなどと誰もが疑問を抱いているのではないでしょうか。

先端技術に囲まれた私達の生活、「衣食足りて礼節を知る」というが、便利になり過ぎると「礼節」を忘れてしまうのか、快適な生活をめざし、幸福な人生を求めていながら、本当に大事なことを忘れようとしています。

衣食足りて礼節を知るという道徳心を持たなければ、同じ地球に生きる人間の平等と平和は存在しません。

最近のテレビ番組で、私たち老人が経験した戦後の飢えと、苦しい生活体験の思いから、食に関わる問題が、食べさせていただくという感謝の心が全くなく、飽食日本の恥を電波に乗せて世界に見せ、お笑いを通り過ぎた失礼極まる放送がまかり通っています。

食べ物とは、人間にかかわらず生きるものすべてに、食べなければ生きていけないのだということを今の日本人は忘れている、とんでもない考えの輩がうごめいています。

目を海外の貧困な国に向けると、指導者が悪いから、餓死者が発生する、自分勝手な生活に甘んじるから、その結果は気候温暖化現象で、干ばつ、冷害、水害などと、食物不足に陥って、餓死者が発生し、援助の手も出せないというのに、日本では、料理番組なら食物を更に美味しく頂く感謝もみられますが、「まうーい」と大食いの放送がうけている程度ならよいのですが、近頃は人間の正しい一食を超えて10人分ぺろりの女性の大食い放送とは驚きます。

それが、日本のテレビは、今度は海外に出向いて大食いの放送が増えて、恥ずかしい日本のでたらめを許す社会現象を生み、飢えに苦しむ社会があることを忘れています。

これは、本当に神様も、仏様も怒りますよ!

人間には平等に、食を楽しみ感謝する義務と責任が存在し、すべて人生楽しく生きてもらいたい願いもあるのです。

Guzou88の、ひとり言です。



2008-05-06

(74)どうにもならない国

新しい韓国の大統領の李明博さんが来日して、4月21日の日韓首脳会談で、福田康夫首相は問題解決に応じるよう北朝鮮を説得してほしいと大統領に依頼したそうですが、はたして、日本寄りの約束はできたのでしょうか。

政府は、北朝鮮に対する同国船籍船舶の入港全面禁止や全品目の輸入禁止など、経済制裁の半年間延長を決定しましたが、裏道はいくらでもありますから、覚醒剤の密輸は続き、都合の悪いことは中国とロシア経由と、何も困らないといいます。

しかし、世界的な温暖化の影響は、その原因の垂れ流しの中国からの影響を、もろにうけて、天然災害は深刻で、食料不足は、他国に類をみないほどの餓死者を生みます。

なんで、この北朝鮮という国は、将軍様の独裁に過ごし、脅迫と悪のならず者の国になっていられるのだろうか。

北朝鮮がシリアに核協力 軍事用原子炉の建設支援というニュースがありましたが、米ホワイトハウスは、シリアが東部の砂漠地域で昨年9月まで、核兵器原料となるプルトニウムを生産できる原子炉を秘密裏に建設しており、イスラエルが空爆してこの施設を破壊したそうで、北朝鮮がこれを支援していたと確信するとの声明を発表しました。

だが、過去の日本の北朝鮮に対する政治家の動きを考えた時に、馬鹿な政治家が、やったことは、ほめること全くありません。

山梨県出身の大物政治家といわれた故人の男は、北朝鮮で、歓迎されて涙を流して喜び、勝手に50万トンの米を供与したけれども、結果は何もありませんでしたが、その後はライオン丸さんの直接訪問、松茸をいっぱい頂いて、拉致事件は先方の云うままで、中途半派に過ぎて、今では、原爆もできて、そのミサイルは日本に照準が向いているとは、どういうことなのでしょうか。

聖徳太子の時代に、日本に向けた仏教と、長い中国の文明から培われた文化と先進技術の国の姿は、貧困と世界に警戒される危険な国になっています。

過去の仏教と儒教に生きるの素晴らしい姿は、今後いつになったら見られるのでしょうか。

Guzou88の、ひとり言です。



2008-05-05

(73)こん畜生の社会

この世の中、働いて、出世するには、大変な努力がいり、要領よく生き抜くには、逆また真なりと考えると、なかなかおもしろい話があります。

近頃、新入社員らしい若者が新品スーツスタイルで、販売促進の外交訪問に訪れて来ますが、出世街道の坂道をあえいでいるように見えます。

私は以前にも書きましたが、朝日新聞の夕刊の素粒子欄は、おもしろいと思うと切り抜いて保存するのですが、(以下を守れば諸君も役員に)と、新入社員に贈る出世心得十ヶ条を紹介します。

@保身と無責任を肝に銘ずべし    A失敗は他人のせいにせよ

B偽なくは会社立たずと考えよ C闇の圧力にとことん屈すべし

D法や裁判所の命令は無視せよ E他の客の迷惑を第一と考えよ

F世間の批判に馬耳東風であれ G正義感や気骨、見識は捨てよ

H悪事には見て見ぬふりをせよ Iつねに尻尾を振るポチであれ

輪廻転生の、地獄・餓鬼・畜生の三つ世界は、三悪趣とか三悪道と、絶対に生まれかわりたくない苦の世界でありますが、またこの世の中は、この畜生道と人間道とがこの世に実在する世界でもあるのです。。

こん畜生め!とは、新入社員の、耐えて頑張る悪口雑言、吐き捨てことばですね。

この十ヶ条を裏返して考えれば、まともな若者として努力すれば、社会は存在を認め、楽しく生き、生活する路が開けるのだとも思います。

しかし、人間の中には、ややもすると欲望のおもむくままに生き、ひどい場合には、自分の赤ちゃんを産みっぱなしで養うこともしない人もいるのだから、弱肉強食の世界であれど、猿や猪、ゴキブリでさえ、無き知恵を絞って生きる弱肉強食の世界ではありますが、まさに畜生以下、もしくは畜生と同列の人間も多く存在する事を認識して頂きたい。

ちなみに、人間も畜生、(動物)も同じ、生きとし生けるものとする、この仏教的考えはわれわれ日本人にはとても自然に受け入れられる。

人間も動物も因縁によって生命を与えられていて、生きる知恵を働かせる事が一番です。

Guzou88の、ひとり言です。



2008-05-04

(72)聖火とは

フランス、アメリカそして日本で、騒ぎを竜巻の様に吹き荒らし、韓国からいよいよ香港で、開催国の国民同士が対立して、いよいよ中国大陸に移動した中国北京オリンピックの聖火とリレーとはいったい何の目的で催されているのか、不思議です。

クーベルタン男爵の指摘に反して、オリンピックが政治的プロパガンダに利用され、国際紛争を引き起こす可能性も現実的になるのでしょうか。

アマチュアの祭典だったオリンピックは、ここ四半世紀はきわめて経済色の強い大会と化して、急激な経済発展によって、一国一党独裁の共産主義国が、中途半端な自由主義国のまねをしても、所詮は無理ですね。

北京オリンピックの聖火リレーが世界各地で妨害を受けているのですが、これは中華人民共和国という国に属する国民のイデオロギーの対立を世界に見せているもので、つまりは、身から出た錆に等しい。

排日教育から、あの重慶のサッカー大会の不始末そのもので、愛国心を燃やす各地の中国人が聖火リレーに集まった政府指導の巨大な赤旗国旗で、せっかく平和の祭典の喜びを見ようとする人たちには聖火の走る煙も見えないとはどういう事でしょう。

過去の国で開催されたオリンピックの聖火は、歓迎するその国の国旗とか、五輪の旗の打ち振る中を、栄光の走者が高々と聖火の日を掲げて走りました。

長年にわたるチベットに対する中国の対応がここにきて国際世論の反発を生んでいる事が一番の原因ですが、一方、中国政府自体が、あの大きな旗を大量に贈り、学生を集めて騒ぎまくるが、通過する国の歓迎の国旗は見られなかったのは何故でしょうか。

日本でも、各地の有名なお祭りに若者たちが暴れまくる姿に似て、迷惑千万です。

三ヶ月後に控えた本番の北京オリンピックは、何が起こるか、愛国心という名の応援は、過去のドイツのヒトラーは国威として整然としてみせましたが、隣国で友好を願う日本人の心は不安でいっぱいです。

今日から中国の担当役人と接触が始まるという、ダライ・ラマ14世さん、もしも、できることなら、仏教の平和な精神を命がけで中国の指導者の方々に説いていただきたい。

Guzou88の、ひとり言です。


2008-05-03

(71)生死の順番 
                     
一休禅師の話「親死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ」 今から六百年程前の臨済宗の僧侶で一休禅師、当時の禅界の革新には辛辣なもので、世に言う変わり坊主ともいわれるお坊さんですが、一休禅師の話しとしては有名な物語があります。

しかし、今の世の中で、この話しは通用するかどうか、余りにも文明の発展によって世の人心は乱れ、荒んだ世の中は、幸福という言葉は、自分勝手に生きる事だと変化しています。

この世に、先に生まれた順番から死ぬということはとても難しいのです。

もしも自分の家族が年齢の順に亡くなったとすれば、これこそ如来様から頂いた命を全うしたというめでたさがあるのですが、現代は女性が長生きで昭和16年の平均寿命は男性で78.64歳、女性は 85.59歳という長寿社会となりの下。

今の時代を一休さんが見たら、今の人間社会は私の時代とは予想外に狂っていると嘆くかもしれません。

親が子を殺す、子が親を殺す、弟が兄を殺す。これが今の日本。昔、外国人のトルストイが見たら「全て幸福な家庭は似通っている」という有名な言葉も、「不幸な家庭は相似ている」と、書き換えなくてはならないでしょうという雑誌の切り抜きがあります。

団塊世代に生きた人たちは、二年後には定年で社会の現役者から去って行くが、一休さんの生きた時代の生活教育を受けてもいないし、知りません。

新聞の統計から、団塊の男どもの85%は、「子供に頼らないで生きたい」と、親の面倒を見なかった手前もあるから、生きる順序と老後に不安があります。

順序をわきまえ、生かせて頂いていることに気付いたら、せっかく与えられた命を精一杯生きなさいと、今でも、一休さんは言い続けていると思ってください。

Guzou88の、ひとり言です。


2008-05-02

(70)生きる損得

年金制度もいいかげんで、解決できないこの頃の社会は、老人保健制度も変わり、役場からは説明の書類が来ているのですが、どうなることか、さっぱり解らない。

これは、私の老人呆けか、頭脳の中身が不足しているからか、要するに、老人は医者にもできるだけかからないで、潔くとっとと死んでもらいたいという国の政策として、貧民層の老人に対するお知らせと感じました。

反面、公務員などの高齢者の年金は、いくら天引きされても、優雅に暮らせる高額年金が保証されていますが、文句は少ないでしょうが、一般の国民年金で頂く金は、天引きされて、更に老人介護保険の強制的徴収となれば、戦後の経済大国を作り上げた老人たちの努力は、何のためだったのか、生きてさえいれば、いいことが訪れる幸せ感、早く死ねとなれば、何もかも終わりで生きる希望のない生き損ということになると、やっぱり解りません。

人間は生きられるだけ生きる努力が必要と、お釈迦様の教えは、仏法にしたがって正しく生きる、生き方の実践といわれ、人生は苦楽の繰り返しであるが、心の平静ささえ保っていれば、苦楽の変転に動じないで過ごせるとい説いてはいます。

国の経済が、お役人任せで、手品のような国民不在の行政で、順調なときは、自らの将来保身に過ぎ、逆境のときも落ちこまない、お釈迦様の教えの裏返しの中道の態度を行政に反映させていました。

連休の合間、リハビリの散歩をしているのですが、昨日は、久しぶりに住宅街を歩いて近くの荒川の畔までの間は、過去に栄えた邸宅が続いているのですが、私の住む家の周辺は、東武住宅、西武住宅などと、50坪以上の屋敷が並んでいますが、昔の栄華を誇る建物も、庭の樹木は大きく繁茂して、住む人はほとんど老人夫婦の家が多く、若者は同居していないだろうと察するから、連休中だけに更に静かです。

そんなことから、近くの商店街もさびれて死んでいるように思えます。

若い人たちは、同居を拒み、久しぶりの休みの時間というのに、老両親を訪ねてこないから、なおさらに静かなのです。

さて、長生きは、得なのか、損なのか、やっぱり解りません。

Guzou88の、ひとり言です。


2008-05-01

(69)麻薬戦争とは

1800年代に入り、当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、茶、陶磁器、絹を大量に中国の清から輸入し、逆に、イギリスから清へ輸出されるものは、大量に輸出可能な製品が存在せず、イギリスの大幅な輸入超過という状態でした。

イギリスは清へ輸出出来る物品として、植民地のインドで栽培させたアヘンを仕入れ、これを清に密輸出する事で超過分を相殺という人権無視の政策をとりました。

清では、アヘンの輸入を禁止していたのですが、アヘンの密輸入は止まず、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった歴史が存在しています。

近代ではイスラム原理主義によるアフガン戦争、そしてイラクの泥沼戦争はご承知のとおりですが、武器の買い入れには麻薬密売による事が多く、その背後にはケシの栽培が公然と行われている地域が存在しているのです。

この地域に隣接するパキスタンなど、部族地域には公然と麻薬を密売する店が存在し、カイバル地区では500以上の店があるといいますが、今度はこれを駆逐しようとする新組織ができたそうで、これが口実で、利権の獲得が見え隠れしているようにおもえます。

日本でも、麻薬常習者が増え、これがやくざ組織の資金源になっているようですが、日本の麻薬の主流は、北朝鮮などからの覚醒剤だそうですが、麻薬には大麻、LSD、さらには最近は毒キノコまで乱用される恐ろしい状態です。

有名な女優さんの息子の事件が報道されたり、繁華街を歩けばそれらしい人間がふららと歩いているのを見かけます。

日本の若い麻薬常習者たちにお願いしたい。

楽しく人生を送るには、この世に生かせていただく理念に挑戦する、正しい意志の転換が必要な事に気づいていただきたいのです。

Guzou88の、ひとり言です。


2008-04-30

(68)中国洛陽、蘇州仏跡の旅

洛陽は、黄河流域で、周辺は今でも痩せた唐もろこし畑の黄砂の砂漠地帯にあり、ここには中国で最古の寺院「白馬寺」がありますが、文化人革命の四人組で破壊されてから、今は復旧しましたが、それでも、古い玄奘三蔵と他の三蔵の木像が残っていました。

昔の本堂の豪華さはなく、一部はペンキ塗りで修復されていますが、現在では、治安も安定して、僧侶も多く、全僧侶による漢音の読経を聞くことができました。

この地には、中国三大石窟のひとつ龍門石窟があり、昔の、国をあげて仏教信仰の盛大さを示していますが、やっぱり文化大革命の四人組で破壊されて破損が大きいのは残念です。

蘇州は、上海に近く、有名な寒山寺は、中国人の観光客が多く、鐘堂の鐘は、漢詩でも詠われ、今でも、正月除夜の鐘のときは大変な賑わいになるそうです。

この有名な張継の詩は、鐘楼の近くの石碑に刻まれていますが、紹介しますと、

月落ち烏啼いて霜天に満つ 江楓漁火愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺 夜半の鐘音客船に到る

鐘といえば、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」とは、平家物語の冒頭にある、おなじみの一節ですが、これが実は歴史的にみれば誤りだということです。

祇園精舎とは、昔インドのコーサラ国の人、富豪スダッタから釈尊に寄贈された僧院で仏教活動の基点となった所ですが、私自身も現地での調査や資料をみた限り、この精舎には鐘楼があったという事実はなく、釣鐘は、中国で古来用いられていた銅鐘から発達したもので、現在の日本の多くの寺院で見られるものに変わっているのです。

Guzou88の、ひとり言です。


2008-04-28

(67)中国の西安仏跡の旅

いよいよ待望の連休に入り、旅に思い出を作ろうとする人も多いと思います。

私にも、海外の多くの旅の思いでは強く、過去の話になりますが、、余暇の時間を使って、中国の西安、洛陽、蘇州の仏教関係の遺跡を廻ってまいりました。

西安は、昔は長安と言い、シルクロードの基点になる都市ですが、いまでこそ私達が気軽に仏跡観光ができますが、お経がはるばるインドから中国に運ばれて来た当時は、険路・難所の地でした。「西遊記」のモデルとして知られる玄奘三蔵をはじめ多くの仏教憎が、それこそ命がけで長い年月をかけてお経を携えて往来した土地ですが、今に残る大雁塔は、釈尊が説いたお経を、梵語から漢字に翻訳した場所でした。

翻訳は、漢の時代から元の時代という千年にもわたる長い年月をかけて、国家事業として翻訳されてきましたが、訳経院(末代)での、お経の翻訳の仕事は、「訳経の九官」という卓越した語学の持ち主が各地から集められて、大変慎重な流れ作業の工程で翻訳を続けたそうです。

当時の翻訳憎の中には、玄奘の他にも密教聖典の翻訳で有名な不空というインド人がいますが、同じインド人で、鳩魔羅什(くまらじゅう)は、インド人を父にもつ中央アジアのクッチャー名門の出身らしいのですが、彼は、国が中国に攻められて捕らわれ、あちこち転々とし、漸く西安に安住して翻訳に携わったのですか、彼は、幼少時、仏教聖典の多くを暗記していたし、捕らわれの生活の中で、中国語も完全に習得していたといい、「翻訳の九官」は、要するに天才の集まりであったと言うことです。

中でも、仏説阿弥陀経は、鳩魔羅什の優雅にいろ付けされた翻訳文で、日本に渡来して現代に伝わっていますが、この「仏説阿弥陀経」は、日本と同様に同じく中国、ベトナムでも読経されているのです。

過去の歴史を知り、目的を持っての訪ねる旅は更に思いでも多く、心を躍らせます。

Guzou88の、ひとり言です。


2008-04-27

(66)西蔵チベット

昨日は、日本にとっては迷惑とも思えるオリンピック聖火の長野市内のリレー。

何で中国人が長野に集結し、中国国旗を振りかざし、チベットの人たちはチベットの国旗を振りかざして対立の騒ぎでしたが、この場所は日本ですよ。

日本人が日本の日の丸の旗を振りかざして歓迎の姿であれば、日本人の歓迎の心だけで穏便に祝うことができた物を、中国の人たちの北京オリンピック開催の喜びはわかりますが、日本に住んで平穏に暮らしたり、学んでいる中国人には、日本人に対するマナーが足りないと思います。

テレビの画面から、チベットは昔から中国の領土だと叫ぶ中国人の姿をみて、一党独裁の中国の教育の恐ろしさを感じました。

チベットは仏教渡来の途中にあたる昔は名高い西蔵と云われたところですが、古代から独立国家であったのです。

一時的には、清による支配を受け、清の滅亡後、再び独立国家となりましたが、1950年に中国人民解放軍による侵略を受け、チベットは軍事制圧されました。

その際、中国人民解放軍は、夥しい規模の破壊とともに、チベット族の大量虐殺を行い、その後チベット自治区が設置されたわけで、決して昔からの中華人民共和国ではありません。

その後、中華人民共和国政府による併合に抗議するチベット動乱が勃発し、武力弾圧の結果、十数万人のチベット難民が発生しました。

チベット仏教とは、三宝(仏法僧)の一つ「僧(ラマ)」を仏法の中保者として非常に尊敬するところからラマ教と呼ばれるようになりましたが、いまは、インドに亡命した観世音菩薩の化身ダライ・ラマ14世が生き仏の様に慕われている、密教的要素の多い仏教です。

今の中国政府は、外国からの仏教活動を非常に警戒しているのですが、わたしも、過去、中国に旅行する時に職業が僧侶とわかり、ビザの申請時に、仏教活動はしないという誓約書を書かされた思い出もあるのです。

Guzou88の、ひとり言です。


2008-04-26

(65)渡来いろいろ   

長い歴史の中で、他国から日本に渡来した過去から、いろいろと考え込みました。

6世紀,日本という国名はまだなく,「倭国」と呼んでいた頃に、聖徳太子の力によるところが大きい仏教の伝来がありました。

「和を持って尊しとなす」という日本人の基本精神が、文化とともに深く入り込んだのです。もとより早くから国外に目を向け,深いつながりのあった百済系氏族から中国や朝鮮半島情勢を入手していた蘇我氏の要請からという歴史はあります。

その最大のすばらしい出来事とは、仏教が伝わり、その仏教精神が、インドのお釈迦様から発生して、中国、朝鮮を経て、現代日本で仏教は完成されています。

このような素晴らしい渡来がある深い関わりと、日本の文明文化の発展の礎になった中国から、今度は、とんでもないものが渡来しました。

平和のシンボルであり、スポーツの祭典という行事の中のオリンピック聖火、日本の仏教のシンボルともいえる善光寺をスタートとする聖火ランナーのデモの火が今日長野市内を駆け抜けています。

聖火の出発地点は善光寺から別の地に変更となりましたが、チベットに端を発した騒ぎは、覇権主義の中国の強引な迷惑行為となり、すでに神聖な国宝の善光寺本堂の落書きが起こるとは許せない。

目を海外に移すと、内線で緊張の高まるジンバブエに向けた武器満載の中国船が、南アフリカの港から荷下ろしできずに引き返したという。

船の中身はカラシニコフ銃300万発や迫撃砲弾3千発などととは。

共産主義とは、財産の共有を目指す思想だが、一般には生産手段の私的所有を社会的所有に変えることを理想とするマルクスとエンゲルスの思想を指す体制ですが、今の中国は一党独裁のベールで、貧富の差など関係ない。

世界に害毒の垂れ流しの中国の将来が、反面、心配になります。

Guzou88の、ひとり言です。


2008-04-25

(64)親子
  
五月は連休が目前で、子供の日があり、15日は母の日と、親子の絆を知る季節ですが、近頃のニュースを見ますと、毎日、殺人事件の報道が続き、昨年の五月の出来事は、この母の日の朝には、白虎隊で清純な土地柄として知られる会津で、母親をなぶり殺し、首を切り、頭部を持って警察に出頭した17歳の高校生の殺人事件が起きました。

法と、秩序の束縛を忘れた時、親子関係を見ると、最近の親子の絆は自分勝手なもので、自分の都合のいいときに、子供は「お父さん」「お母さん」と近づいて、用事を頼んだりします。

しかし、自分にとって都合が悪くなると、近づくどころか父母にさえ背を向けて、「親の心 子知らず」との言葉のとおりに、離れて行くことが当たり前で、昔の教育を受けた親は、そんな背を向けて離れていく子であっても、必要以上に案じ続ける本来の親の姿がありました。

しかし、親がものを一言云うと、云い終わる前に「云いたいことはよくわかっている」と反発したり、途中で立って最後まで聞かないようなことは、誰にでも記憶にあることでしょう。

子どもに反発されたり、聞いてもらえなかったりしても、嫌な顔をせずにまた言葉をかけてくれるのは親だけです。

そんな時、子どもは「親の心ぐらいわかっている」と心得顔でいますが、本当は何もわかつていないのです。何がわかっていないのかというと、親の言う言葉はわかっているのですが、何度も何度も言わずにいられない親の心がわからないのです。「親の心 子知らず」とは、つまりは国の基本教育が現代の親子関係を作り出していることに、一番の責任があると思うのは、私だけでしょうか。

子供は、一人で成長しているのでは無く、親あっての成長で、子供の日を祝う端午の節句の唄を思うと、「ちまき食べ食べ」と柱に刻んだ背の丈の長さは、一年の成長に喜びを感じる、親の心を受け取れている、それが家庭生活の基本ですね。

だかね!今の子は「ちまきとは何だ、そんな物知らないよ」。

Guzou88の、ひとり言です。


2008-04-24

(63)法治国家

4月22日に山口県光市で9年前に起きたの母子殺害事件の差し戻し控訴審で、広島高裁は、殺人と強姦致死窃盗の罪で当時19歳の少年に対して、死刑とする判決を言い渡しました。

聞けば、この弁護団はなんと20人に及ぶといいますが、弁護士の仕事は被疑者の弁護に携わる役をもってのものですが、残忍な犯人に対して生きる価値を見出す責任もあり擁護の責任もあるだろうが、役目はわかりますが、同じく社会に生きる被害者の悲しみの心を知る必要も忘れては困りまする

日本には、人間性を失った犯人に対して、最高刑は極刑として死刑という法が厳然として存在しています。

当時少年だった犯人は、現在は26歳になりますが、全く反省の姿が見られず、弁護士の作戦によるものか、その態度とはいつも不思議を感じて、生きるという執着ばかりで、反省の人生を生きる姿が感じられませんでした。

犠牲者の悲しき死という姿が、私の心をいつも心にくっきりと浮かぶのです。

幼子を抱く本村弥生さん(当時23)は強姦されて殺され、楽しい夫婦愛によって生まれ育った幼児まで無惨に殺されてしまう。

母子は、はかなく悲しい死という姿を夫に残しただけで、楽しい家庭生活は破壊されました。

そして死刑を求める夫の洋さん(32)、煮えたぎる悲しい生き様は、これほど静かに、強く語れる人を見るたびに、その度ごとに今までの弁護士の活動と、判決に不信感を持ったのですが、これが法治国家の現代なのかと思うばかりでした。

事件のむごさを思えば、極刑も当然で、当時犯人は少年ということを考えれば過去の裁判官の判断だろが、もちろん、迷いもありました。

いつの間にか、夫の洋さんと一つになっている自分がいると思うのですが、現代はなんと狂人が多く、狂人を守る弁護士という人間も存在します。

狂人とは、知能のない獣の王様のように世に君臨する人と、私は解し、人間性を持たない者には救いはないという法の解釈も必要だと思います。

Guzou88の、ひとり言です。


2008-04-23

(62)生き方を模索

殺人者に反省のない光母子殺害事件の犯人に、差し戻し審の死刑判決が下りました。

昔と今を思い出すとびっくりする程の、社会環境の変化と、地球温暖の変化を知ります。

人間のなせる業が、地球環境さえも大きく変化させる時代ですから、当然に日本人の生活環境から社会思考までが変わるのは当たり前かも知れません。

国際社会という社会がかくも巨大化し、個人にとっても社会の変化に押し流されないために、無意識ながらも無視できない生活環境に生きる今日だからこそ、世間の外圧に潰されない自分を確保する必要があります。

こういう世の中だからこそ、正しい生き方を模索し、自主的な自己を確立して人生という長い道程を生きる手立てをつくらなくては、社会という大きな波に押し潰されてしまいます。

人間は、それこそ神代の昔から変わらない在り方がある反面、それぞれの時代に生きた人間の生活に対する努力と結果があります。

自分という者が、今この世に生きる現実は、その時代時代に生きた先人の歴史によって培われた結集という命の流れが自分であるということを、認識することが肝要です。

生命の流れの中で、自分という現実的な存在を意識したときに、当たり前のことながら、過去、現在にいたる多くの人達との関わりの中で、今、自分がこの世に生きているのだ、生かされて生きているのだという事実を実感したときに、自分と深い関わりをもつ故人と
か親やご先祖という存在を考えることになります。

この存在を正しく理解したときに、感謝の心が湧く筈で、普段は考えてもいないという人でも、周囲の環境とじぶんとの環境を現実的に直視する時があります。

Guzou88の、ひとり言です。



2008-04-22

(61)食への感謝

昨日の記事で、平和な世の中で、楽しい生活を送るためには、、お互いをに思いやる挨拶の心を持つことが生活の基本だともうしあげました。

同じ人間として、この世に生きているこの世という現在の世界を見ますと、政治的な原因とか、気象的な原因とかの問題もありますが、飢餓に苦しむ貧しい国々の人々がいかに多いかご承知のことと思いますが、飽食の豊かな日本に生活する私たちは、日本という国の、戦争後の飢餓生活から経済大国に発展して、日本人全体が今ではすばらしい幸せで贅沢な環境に生きていることを反省して頂きたい。

贅沢な食生活の中で、忘れられた食への感謝がありますが、私が生まれ育った長野県は昔から教育県といわれますが、その当時の小学校で習う科目の中に修身という必修科目があり、子供が小学校に上がったときの修身の第一時限は、まず普段の挨拶と、食事の作法で、「頂きます」から食事が始まり、「ごちそうさま」を教えられました。

食事の作法は人生の基本であるといいますが、現代の日本人は、この作法が身につかず、食べる事への感謝の気持ちが薄らいでいるように恩われることは、大変残念なことで、私が海外旅行をして、多くの国の人たちが公の席の中で、他人の目を何ら気遣うことなく食事の前に黙祷をして祈り、普段と変わらぬ食事への感謝の姿を見せていました。

キリスト教では神が人間を創造し、獣や鳥や魚は人間が食べるために神がお造りになったといいますが、仏教では人間と同じく生命を持つものとして強い抵抗がありますが、単なる食物という問題からは、神仏から頂ける食物として考えると、自然に感謝の気持ちと敬虔な祈りの心が生まれるのは正常といわれる人間のごく当たり前の姿です。

豊かな食事ができる私たちには、現在の自分を支えている環境と多くの人がいることに気づき、自分がどれだけ生きている幸せに気づいて感謝の行動をしているか、反省も必要です。

世界の目からは、平和で驕者華美の環境に過ごす日本人たちを見て、現代の日本人ほどマナーのない種族はないと恩われるほど嘆かわしく見られています。

食事の前に「いただきます」、食事の後に「ごちそうさま」の言葉と感謝の祈りは、この世に生を受け、命を長らえる感謝の姿であり、生かして頂く挨拶であることを、あらためて知って頂きたいのです。

私の作法とは、「ナムアミダブツ ナムアミダブツ ごちそうさま」となるのです。

Guzou88の、ひとり言です。


2008-04-21

(60)オアシス運動

このブログの始まりは、「みんな挨拶をしましょう」という念願から始めました。

ある学校の新任の先生が、教室に入ると生徒達が挨拶をしないので、困ったことだと思い、父母の会に出てみると、こちらも似たりよったりで、原因は親たちにあると判ったが、これは大変だと教室では一つの事を提案することにしました。

『今日からは、ありがとう、すみません、ハイの頭文字をとって「アスハ運動」をやろう、そうすればクラスメイトもより親しくなるだろう、家の中でも、たとえ兄弟が反抗期であっても、ありがとう、すみません、ハイとやってみなさい。もし君たちがこのまま職場に就いたとき、同僚や先輩に挨拶がなかったら、ありがとう、すみません、ハイをふんだんに使う職場を作るように努力しなさい。そうすれば、この世の楽しさが生まれてきます。』

たとえ多くの言葉がなくても、おもいやりを尽くす言葉で、人は枚われます。

平和な世の中といっても、心は荒れているけれども、楽しい生活を送るためには、一人一人の人間を救いあう行動が必要で、今、私たちは楽しい社会に生きてゆくのだという、お互いをに思いやる挨拶の心を持つことが一番大事な事です。

テレビの仏壇屋さんのコマーシャル、私はとても気に入っているのです。

「アスハ運動」これこそ仏教の「南無の心」であり、その心は、楽しく生きる報恩謝徳の社会生活につながります。

おはよう、ありがとう、失礼します、すみません、という「オアシス運動」を提唱している団休もありますが、仏教者として見れば、お経だけがお経ではなく、日常の挨拶言葉で相手の 人間性を開発して楽しい社会生活ができるとしたら、ありがとうも、すみませんも、みんなお念仏であると恩います。

みなさん、これからは、おはよう、ありがとう、失礼します、すみません、ハイ。

ふんだんに使いましょう。あなたの存在を一番に世間は認めてくれますよ。

Guzou88の、ひとり言です。



2008-04-20

(59)挨拶なし

いよいよ連休、緑のはも若々しく気持ちも踊る季節を迎えていますが、連休は真夏を迎える季節の区切りのような感覚で毎年のように家庭の楽しみの行事として迎えることになりました。

最近の若い人たちの感覚から見ますと、連休は家族揃って、うららかな季節に酔い、遊びに計画で、心が躍っていることでしょう。

旧友と、久しぶりに懐かしい顔を合わせるチャンスのときだとか、サラリーマン家族であれば、会社が休みだから、皆が実家に遊びに帰るから私たちも同じような家族サービスの疲れる旅をするとか、実家など関係なく思い切り遊ぶときだと、みんな計画が違います。

反面、近頃の自分勝手な考え方は、昔からの日本人の素晴らしい心も習慣も忘れ去られ、親も先祖も関係ない身勝手な行動習慣となって横行し、楽しい語らいすらなく、「切れちやった」などと現代の流行語のような言葉が飛び出して、日常の挨拶すらなくなって、本来、人間の持つ生きる喜びを感じない社会が生じてきています。

私の家の周りにはアパートが多いのですが、新しくできたアパートの住人の生活から、これはどうにもならない社会現象だと感じたことは、小さなアパートの住人達は、一階と二階の人たちが顔を合わせても挨拶をしているのを見たことがありません。

顔も知らないし関心もないそうで、町内会の回覧板も必要なく、若夫婦でお腹に赤ちゃんが出来ると今度は妊産婦に対する市の保険通知を知りたいからと、市報の保険衛生の通知を見るために回覧板を見たいという始末で、日本人の伝統的な親しみやすい隣組の日常挨拶は「シカト」という姿に変わりました

知らない人でも、「こんにちは」くらいの挨拶を交わしたら、楽しい生活が始まる事を考えてもらいたい。

Guzou88の、ひとり言です。




2008-04-19

(58)光陰矢のごとし

暑い夏が過ぎ、幾つかの台風があって、ふっと気がつくと、虫の羽音と共に秋色を知り、今は陽春の鶯の声を聞きます。

寒い冬からうららかな陽春の中で過去を振り返って見ました。

春の連休も近く、今年は猛暑だとか、いや冷夏だとかの挨拶の言葉を交わしているのもつかの間に、ふっと気づくと落日の早さは、去りゆく時の早さに「光陰矢のごとし」と、月日の過ぎゆくことに驚きを感じます。

誰でも、人生とは長くも感じたり短くも感じる時がありますが、私の場合は、八十を越える長らえる命を授かり、佛性を頂くご縁に感謝する毎日を送らせて頂いておりますが、「昨日を送って今日を迎え、今日を送って明日を迎える」、繰り返す生活の中には、喜びと悲しみの繰り返しがありました。

私は、長野県上田市の八百年以上の歴史を特つ寺の五男として、仏様の照護のもとに育ち、父・二十世住職は、私が十一才の秋に他界し、十五才の夏に、祖母の実家が、在家が子種がないために養子に出され、激しい戦争の時代に翻弄され、学徒特攻隊員として生き残り、戦後は孤独の苦学の道を歩き、長年、生家との交流もない人生を送りましたが、いつも不思議な如来様のお慈悲によって生かされて参りました。

門中の子僧として生まれ育ち、如来様から賜った三つ子の魂は、六十才を過ぎたら仏門に生き、人生終わる前に、必ず寺を建てようとした願いは達成し、開山住職としてのご縁を頂き、さらに私の息子二人ともに今では僧侶として生きるご縁を頂くことは、有り難き幸せと、これこそ浅からぬ佛縁のなせるものと感謝するものです。

矢のごとく過ぎ去る人生の中で、喜びも悲しみも、去ってしまえば忘れ去るものばかりですが、忘れえない幾つかの悲しみもあります。

特に、私の幾多の師と、私の長兄で生家の長男住職は、私たち親子にとっても最大のご照縁を賜った兄でありますが、すでにご浄土に召された悲しみが尽きません。

喜びの生があって、悲しみの死がある老少不定の衆生の人生を考えるときに、誰でもがこの世に生きる流れの中で、最後に気付く最大の喜びは、知らずに知る慈光の存在に感謝する心の幸せをもつことでした

Guzou88の、ひとり言です。



2008-04-18

(57)狂人とは
        
近頃、信じられないような事件などが報道されています。

悪人とは、大雑把な心による社会的な罪悪を知り、反省する心を持ちうる人までの範囲をいうのですが、極悪人でも「阿弥陀如来を深く信じて念仏すものは、必ず救われ、仏になれる」という悪人正機を聞かれたことがあると思いますが、要するに悪を反省出来得る人の生き様を説かれています。

現代社会では、多く聞かれる言葉の中に、狂人という言葉があります。

この狂人、文字そのままの人間としての知性を持たない、獣のごとく社会に君臨する人間をさしてのものですから、狂人は人間として扱うことのできない、悪人にも含まれない人ですね。

最近は、親子でも、兄弟でも理解できない殺人事件がつづきますが、どうしても狂人として判断することにしないと、社会の通念として理解できなくなります。

今の社会が悪いとか、教育云々と騒がれていますが、もっとも大事な問題は、心を結ぶ家族の連帯感に、なにか異質な社会に生きるような、感覚に麻痺したものが、知らず知らずに生じて、人間性を承知できない狂人が育ったものと思います。

死生観というものは、儒教とか仏教を問わず、素晴らしい人間としての生き様から、えいえいとして続いた家系の伝統には、先祖があって、その家系の知恵による慈光を承知することから、何時の社会においても生きる喜びを感謝する観念があるのです。

生きる感謝の生活は、家族のまともな連帯感も生まれ、人間としてこの世に生きる責任も、知らす知らずに持たされるものです。

手を合わせる心は、その意味においても、素晴らしい結合力を秘めています。

Guzou88の、ひとり言です。


2008-04-17

(56)魂心に宿る

歌手の都はるみさんが愛し、同棲を続けた彼氏の中村一好さんが亡くなられて、妻子を持つ中村さんの死後の出来事が、週刊誌にも記載されていますが、離婚もできずに何年も過ごした彼の愛の生活と、死後を考えました。

人間はだれでも自分を最も大切にするものです。

人間は生まれる時も別々ですが、、たとえ最愛の夫婦とか、命を燃やす愛人でも、死ぬ時は別々で、片方が死んだ後の亡骸は地上に残りこそすれ、死後の世界にまで伴うことができません。

さて、家庭のご主人が死んだらどうなるのでしょうか。

愛された女性は、身も心も棒げた女ですから、是非ともお供をしたいと願えども、死から先に向かうことは叶いません。

しかし、死者のこの世に生きた魂は、人生を通じて深く関わった人たちの心の中に、尽きることなく存在するものですが、この世の姿は、いくら嘆き悲しんでも、残すは土に帰るべき亡骸だけです。

心に残る魂は、亡骸の存在と扱いに心を尽くすことは当然のことです。

人間の本能は、生きるための欲望は尽きることはありませんから、ご主人の財産はだれでも自分の生きる大切な財源として残っていて欲しいのです。

欲望に生きる人間の本能は、皆財産を得るために必死になって努力しますから、現代思想の社会は、まず、自分の有利な立場の計算からは始まりますから、始味が悪い事を私は多く見てきました。。

父母や妻子、兄弟や友人など親しい人たちにも恩愛の絆は尽きませんが、生きている間は、彼らは互いに絆は断ちがたく生き、だれかが亡くなると嘆き悲しんで葬儀に参列しますが、現代は、はい、そこまでです。

日が立つにつれて悲しみは薄れ、後はただ目常の生活を繰り返すだけです。

関係者の心の中に、個人との絆の魂は宿っているのですが、心に魂が動いたときは、雲になり、風になって脳裏をかけめぐるのです。

人生を通じての知友の心には魂は宿って、決して離れることはありません。むしろ、その心によって死後のあり方までが変わってくるのです。

Guzou88の、ひとり言です。



2008-04-16

(55)牛久大仏
          
いよいよ行楽のシーズン到来、連休中の行楽の予定に、ご家族揃って世界一の大仏見物を組み込んで頂けたら、きっと、大きな感激があると信じています。

茨城県の牛久市に、近頃、新聞テレビなどでもご承知の、浅草の東本願寺寺が総力をあげて、茨城県牛久町の「本廟牛久アケイディア」の中にそびえ立つ、世界一の高さ百二十メートルの鋳銅製の阿弥陀如来大仏の紹介をします。

この建立記念行事には、私も参加しましたが、大変思い出深いものでしたが、百人に及ぶ僧侶の読経は、広大な山上に響き、参詣されたご信徒の唱和も加わるその響きは、まさに、ありがたき善知識のあうところとなりました。

遠方より聳え見える阿弥陀如来大仏は、その足下に近づいた時に、なんと大きく私たちを、両の御手は優しく抱擁されるように見え、心もなんとすがすがしく感じたことか。

この大仏様は、高さ120メートルで、ギネスブックにても世界一と認定され、その大きさはを説明するとなれば、、奈良の大仏様が、左手の座られるといいます。

御体内には二十四人乗りのエレベーターが設置され、御体内の上部より関東の現世を眺められ、広くこの世を見渡す事ができます。

その時、皆様は、計画した喜びとともに、感激に浸されるでしょうが、多くの人達との関わりの中で、今、自分もこの世に大きく生きているのだ、生かされて生きているのだという事実を実感し、仏様の存在を考え、如来様のご加護に感謝する心になられるでしょう。

Guzou88の、ひとり言です。


2008-04-15

(54)老才女とは

誰でもお国自慢は、したくなるものですが、前にも紹介した、ブログ友達のこと、彼女は、私から見れば同郷の典型的な信州出身の、文学才女で、ブログは「あきの七十路を生きる」の日記を続けている作家でもあります。

教育県で幾多の優秀な文学者が出ていますが、、今回は70路をすぎた老女の「長野文学賞」受賞で彼女の知友とか親族の喜びは、私同様にすばらしい出来事なのです。

彼女は、淡々として、授賞式に出席されるそうですが、周りはだまってすごすことはありえません。

昨日メールが届いて、失礼ながらその内容と、知人の喜びの言葉を伝えたいと思います。

本人からのメール・
授賞式には子供たちの家族全部が行くというので、(ニューヨークからも来る。これは次男が結婚式をしていないので、一応形をつけるため))わたしは困っています。みんな会場に入れなくても、いっしょに行くと言っています。
どうなることやら、大げさすぎてほんとうに困っています。

友人からのメール・
五味さんから「信州文芸20」を送っていただいたので 一昨日、地方に出張した際、電車の中で、寺山あきのさんの「スピリッツ」http://www9.plala.or.jp/bsnagano/o38terayamaspiritsile.pdf を読みました。

思わず「うまい」とうなり、流石は「信州文学賞」を受賞するだけのことはあると思いました。ひとりで林の中を歩いていた紗枝が50年前に亡くなった弟・哲と出会い、翌日、一緒に行ったスピリッツ島の山道で哲が消えてしまうまでの間の姉弟の濃密な会話に紗枝を初め父母の哲に対する愛情と無念さが見事に凝縮されて表現されていると思いました。

馬場さんのお姉さんは、50年間、ずーっと馬場さんに対する愛情と無念さを持ち続け、いつの日にかこのような小説を書いてみたいと構想を練っていたのでしょうね。書かれていることは、死者との対話という以外は全て事実だったと思います。これだけの名作が生まれるためには50年という歳月が必要だったのですね。「あきの70路を語る」http://blogs.dion.ne.jp/akino/ を書き続けておられる寺山あきのさんの筆の冴え(紗枝)が見事でした。馬場さんが五味さんについて話している点も全くその通りだと思います。違和感のない本当に心にしみるよい小説でした。5月7日に松本で74会が開催されますので、そのとき皆さんにコピーを配って紹介しようと思っています。間もなく馬場さんにお会いできると思っていますが、若い彼に老醜をさらさないためにも、残された人生を健康で楽しくすごさなければと思っています。

私からの言葉は、一言、「すばらしい出来事。」

Guzou88 の、ひとり言です。


2008-04-14

(53)はげまし   
                    
我々は、日常生活の中で、あまり深く考える気力も失い、意気消沈し、ファイトをうしなっている人に向って、頑張ってくださいと勇気づけようと声をかけようとしますが、だが言われた当人は、言われた以上に頑張らねばと思っているのですが、どうしても体がいうことをきかず、他人からすれば、こちらまで意気消沈の態に陥ってしまいます

このような時に、励ましの言葉を、くどくど申し上げる訳にもいきません。

たとえば登校を拒否をしている子供に、いくら頑張れと励ましたところでどうにもならないもので、叱り付けても逆効果になるだけで、体力の蓄えのない老人の場合も、いくら元気で頑張れといっても同様なものです。

逆境にあり、沈んでいる人に頑張れと声援するよりも、黙ってお前を見捨てないぞとの立場を無言で示しながら、同じ行動をとって時を待つということが有効なことも、場合によってはあるでしょう。

その人を、今、激励する時か、それとも黙って一緒に涙を流しながら、同じ態度を自分もとりつつ、時と共にその人を引き上げていく、これも必要な方法で、人々に対する救いの道となるだろうと信じているのです。

頑張ってくださいとの励ましも必要であろうが、それだけでなく一人一人の被害者に寄り添って、黙って行動を共にすることも必要で、心の痛手を癒すには、いろいろな方法があるでしょう。

救いの道は、むしろ、励ましを声高く向ける先は、国の立法と行政に関わる方々に、過去の責任を認識して、早く指針として、安楽に正しく生きる道を、指導し、確立して頂きたいということです。

Guzou88 の、ひとり言です。


2008-04-13

(52)目線とは

ある幼稚園に子どもをあやすのがとてもうまく、園児たちからも大変に懐かれている教諭がいました。

その先生に「子どもに懐かれるコツは何ですか」と尋ねてみたところ、彼女はちょっと首を傾けてこう言いました。「私は子どもと話すときは、必ずかがんで話すようにしています」と。

つまり、子どもと目の高さをあわせるようにしているということです。

私たちは、いまは大入でありますが、子どものときには、周りの大人がたいそう大きく見えました。そして、特には恐怖すら感じたものです。

実際には子どもと大人とでは、見る世界が違うのですが、そのことを私たちは大人になっていく中で見落としてしまっているのです。

先はどの教諭の話の中で、そのことに気づかさせてもらいました。そして、その教諭はそのことを無意識に実践しているのです。これはたいへん素晴らしいことではありませんか。

「相手の目の高さに合わせる」ということは、相手の立場に立って物事を考えるということに他なりません。人間はともすれば自分勝手な判断に基づいて行動するものです。

相手を思いやることの第一歩は、相手の立場を理解し、相手の立場に立って考えるということです。

そのことが結果的には、その人自身の評価を高めることになり、人格を向上させることに連なっていくものだと思います。

多種多様の人間が集まって生活している社会において、自分本意の身勝手な判断は、ただ相手に迷惑をかけるばかりではなく、自分自信の成長のためにも大きな障害となることに気づくべきではないでしょうか。

Guzou88の、ひとり言です。



2008-04-12

(51)家庭のしつけ

カレンダーの標語に「子供は家庭を写す鏡である」という語がありました。

子どもにとって、一番身近な存在は親であり家庭であることは申すまでもありません。

子どもがよそで悪さをしたり、親の言うことを聞かずわがままを言ったりすると、親はきつく叱り「わが子ながら、なんてわがままな子だ」とあきれることすらあるものです。

そして、それは学校での教育がおかしいとか、悪い友達がいるためとか、あるいはテレビの悪影響だとか、わが子のわがままの原因を他に求めがちです。たしかに、これらも原因の一つかも知れませんが、よく考えてみますと、一番問題になるのは親による家庭のしつけではないでしょうか。

「わが子だけには不自由な思いをさせたくない」「いい学校に入り、良いところに就職してほしい」と願っているのは、どこの親でも同じでしょうし、どの親も自分の子が一番可愛いのです。

しかし、そうした考えの中には、いつしか無意識のうちに他人の子どもをけ落としてでも、という恐ろしい独善的考えが潜んでいるのです。「わが子だけが」という親の考えをそのまま受け継いで、「自分さえよければ」という身勝手な大人になっていくのです。

家庭のしつけは生活の基本になることを、考えなおしませんか。

Guzou88の、ひとり言です。
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