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James Augustine Aloysius Joyce RSS
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投稿日時 2006/1/31 13:42:23
更新日時 2006/3/12 18:02:04
 アイルランドのダブリンに生まれたジェイムス・ジョイスは幼少より語学力に優れていた。英語、イタリア語、フランス語を会得し、早くから作家を目指して古今東西の書籍を読破していた。それでも学生時代にギリシャ語を習得しなかったことを終生悔やんでいた。その後、ギリシャ語を学ぶ機会はいくらでもあったであろうに、学生時代を逃がすと語学というものは習得できないということなのかもしれない。ひょっとしたら語学に限らずこの時期に学習したものがその人の一生を左右するものなのかもしれない。
 駆け落ち状態で結婚し、イタリアのトリエステまで行き、細々と英語教師をしながら文筆活動を続けた。イタリアを選んだ理由はダンテの「神曲」を愛読したこと、イタリア語を極めたかったこと、ダブリンから離れたかったことなどであろう。
 ジョイスは40才の誕生日にパリで、やっと生涯の大作「ユリシーズ」を出版することができた。この時までに「若い芸術家の肖像」などですでに作家として世に知られてはいたが、子供二人を含む4人家族の生活はジョイスの浪費癖もあいまって借金生活の連続であった。
 この「ユリシーズ」はフランスのマルセル・プルースト作「失われた時を求めて」とともに20世紀を代表する二大小説と云われている。「ユリシーズ」はトロイの木馬などのギリシャ神話を題材としたホメロス作「オデュッセイア」を下敷きにしていると聞いていたし、丸縁のサングラスを掛けたジョイスのポートレイトとかを見るにつけてとっつきにくく、難解な小説という先入観から、この年になるまで遠ざけていた本だった。読んでみてびっくり。私は20世紀の文学を知らずに死ぬところであった。難解と云われている理由はジョイスが新しい文学的表現の可能性を切り開いたためであり、今日では多くの解説本でナゾが解き明かされ、現代作家が模倣し、一般化している技法が多く見られ、読み易くなっている。その内容もギリシャ神話的壮大な歴史小説かと思っていたが、実はダブリンに住むありきたりの夫婦の一日が克明に描かれているに過ぎない。浮気をしているオペラ歌手の妻とハンガリー系ユダヤ人で新聞社の広告とりをしながらタイピストと恋文を内緒でやりとりすることに楽しみを見いだしている中年の夫との日常生活が「オデュッセイア」の目次設定を借りて描かれている。ダブリンの街の風景描写は徹底していて、もしも大災害が起ってこの街が壊滅したとしても、この小説「ユリシーズ」が残っている限り、この街は再建できるとまで云われている。
 ジョイスは生涯にわたって眼病を患っていた。よく見られるサングラス姿もそのためであった。またパリに長く住んでいたのもそこにすぐれた眼科医がいたからで、手術も何回となく行い、失明の不安をかかえての執筆活動であった。 
 ジョイスが59才で亡くなった頃、私達が生まれている。ジョイスはプルーストとパリ時代に会っている。お互いに相手の書いた本を読んだことがないかのように振る舞って無関心を装ったそうである。我が夏目漱石はジョイスよりも15才年上で、1900年(明治33年)にロンドンに留学したころはジョイスはまだ学生時代であった。漱石と同年齢の偉大な詩人イェーツもダブリン出身でジョイスの才能を早くから見抜き彼を生涯にわたって支援した一人である。
 ジョイスが友人に語ったアイルランドらしいジョークが残っている。それはブラスケット島(アイルランド南西部の小島の一つ)に住む老人をめぐる話で、この年寄りは生まれてからこのかた島を離れたことがないので本土での暮らしぶりなど何ひとつ知らないのでした。ある時思い切って本土に渡った老人はそこの市場で小さな鏡を見つけます。鏡なんてこれまで見たこともないしろものなのです。彼はそれを買いもとめ、撫で回し、しげしげと見つめていました。ブラスケットに漕ぎ戻る小舟の中で彼はそれをポケットから取り出し、しばらく目をこらしていましたが、やがて呟きます。「おおパパ!パパ!」彼はこの宝物が妻の目に触れないよう用心を重ねていましたが、ある暑い日、二人はそろって野良仕事をしていました。彼は脱いだ上着を石垣に掛けます。チャンスです。彼女は猛然と走り寄り、夫が後生大事に隠し持っている例の物をポケットから引っぱり出しました。勢いこんでお目当てのものをのぞきこんだ彼女は叫びます。「あはあ、なんてこともない婆さんじゃないの!」腹立ちまぎれに投げ捨てたので、それは石にぶつかって砕け散りました。(R.エルマン著「ダブリンの4人」より)
 彼の父は、晩年ではジョイスのことを誇りにしていたが、ジョイスは故郷に帰り住むことはなく、イタリア、スイス、フランスと転居し続け、最後はスイスで亡くなった。音楽をこよなく愛したジョイスのために、埋葬のとき一人のテノール歌手がモンテヴェルディの「さらば大地よ、さらば大空よ」と歌った。父からチョッキや、いいテノールの声や、途方もなく放埒な気性を貰った。「途方もなく放埒な気性」はジョイスが常に大事にしたものだった。彼の一見無茶な金遣いや飲酒は、自身の才能の根源を不可侵にしておく方法として彼にとっては正当性を持っていた。
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